290 :
七氏:02/01/25 22:46 ID:I5xLK/+p
>288
8五飛は,中座だろう。
10年ぐらい前の突撃おやじは,5六飛か。
タニーは,何だろう。「フルセット沈没か?」
291 :
名無し名人:02/01/25 23:22 ID:6ebwQz/Y
先手1一玉・・・丸山
▲9九と・・・丸山
293 :
名無し名人:02/01/25 23:55 ID:sf0HXByl
>>285 大野は7八飛かも
加藤一二三は6八金直だな
294 :
名無し名人:02/01/26 00:35 ID:EAm2ovYp
タニーは2二角成か?
295 :
名無し名人:02/01/26 01:40 ID:ITXl1eKF
タニーは2八角
296 :
わかるかなあー:02/01/29 00:05 ID:HAj1ecse
先崎は5一玉
297 :
:02/02/01 06:52 ID:CV9qDsEM
阪田は1一飛
298 :
名無し名人:02/02/01 07:01 ID:HuJqp71G
羽生は96歩
299 :
名無し名人:02/02/01 08:03 ID:dFlQUKma
羽生の96歩はマニアック。高度な手渡しで米長がべた褒めしたやつですね。
300 :
名無し名人:02/02/01 08:45 ID:kXRRNCng
木村は6五飛
301 :
名無し名人:02/02/01 08:50 ID:kwpV+Rh7
加藤は一二三
302 :
名無し名人:02/02/11 04:37 ID:9FyA+R+L
このスレの全盛時代は終わったようです。これにて〆させていただきます。
お疲れ様でした。
303 :
名無し名人:02/02/11 04:46 ID:CuEKOEZH
>>302 激しく激しく激しく激しく同意。終了に大賛成。
304 :
名無し名人:02/02/11 09:12 ID:K0j4/DQp
>>26 亀レスですまん。
その筋の人、とは真剣師時代の金主(後援者)。博徒の親分だったと思う。
305 :
名無し名人:02/02/19 06:43 ID:rPgFhjrG
さしずめ先崎は4六歩といったところか。
307 :
名無し名人:02/03/01 22:35 ID:307NoEXN
307ゲット!
俺のIDを見てみろや!!
>>307 せめて306は串さして書くとかの工夫をせよ.
309 :
名無し名人:02/03/04 05:58 ID:JPuph50f
このスレ終了ってことで、
延々一人で、
全盛時代を語るスレ番外編「よーしパパ塚田正夫をかたっちゃうぞ」
やってもいい?
「名局紀行」の塚田の項、全文写すだけだけど。
反対なければやる。黙々と。
「西の升田、東の塚田」
○第6期名人戦
竜王戦の前身は十段戦だが、前前身にあたるのが、昭和二十四年に創設され、
三十六年に幕を下ろした「九段戦」である。この九段戦で大いに活躍したのが
塚田正夫だった。大山康晴を「名人戦男」と呼び、対比して塚田を「九段戦男」
と呼んだ時代があった。
塚田は大正三年八月二日、東京小石川の生まれ。六男坊だった。将棋は父や兄
に手ほどきを受け、たちまち町内一の腕前になった。
昭和二年、小学校を卒業すると当時、一家を構えたばかりだった花田長次郎の
門を叩いた。翌三年初段、七年四段、八年五段と順調に昇段を重ね、十五年、
二十五歳で早くも八段の高段を極めた。西の升田と並び称される逸材だった。
塚田の業績の中で最も輝かしいのは言うまでも無く、戦後初の名人戦で、
創設以来五期、十年にわたって君臨した木村義雄を降したことだ。
戦後新時代を象徴する社会的出来事だった。二十一年にスタートした順位戦の
A級で、塚田は十勝三敗の星を挙げて大野源一、萩原淳とともにプレーオフに
進んだ。下馬評は、歴代の雄、萩原を買う声がほとんどだったが、
塚田は二連勝で挑戦権を獲得する。
第六期名人戦(昭和二十二年)前も塚田の評価は低かった。一つ勝てば上出来
と見られていた。果たして出だしは連敗。ところが第三局が持将棋になって
流れが変わった。以後、二千日手を挟み、塚田は四連勝して
名人位をさらうのである。塚田三十二歳だった。
決定局は後手木村が横歩取りに誘った。塚田は以前木村に同じ戦法で38手の
短手数で惨敗を喫していて、シリーズ中一局は採用してくると待ち構えていた。
塚田は新機軸を披露して63手で快勝する。
名人位に就いた塚田だが、その座に重荷を感じることもしばしばだった。
そんな弱き心を戒めるためか色紙にはこう書いた。「自信を持て」この言葉を
中原誠永世十段が「単純なんだけど、とても大切なことなんだ」と語って
くれたことがあった。勝負師として欠くべからざる心構えなのだろう。
飾り気の無い塚田の人柄そのままの名台詞である。
「関西の俊英大山と対決」
○第7期名人戦
翌二十三年、初防衛の相手に大阪の俊英、二十五歳の大山康晴を迎えた。
この第七期名人戦は、関西将棋界の悲願でもある「名人の箱根越え」
が懸かってもいて大いに盛り上がった。当時の東西の対抗意識は現在からは
想像もできない。殊に対局料はじめあらゆる面で恵まれていなかった
関西将棋の打倒東京への思いは怨念に近いものがあった。
対局場は殺気立っていたという。一局ごとに東西から理事が出向き、記録係も
両陣営から一人ずつ選ばれた。
塚田の●○○●という推移で天王山の第五局は千日手になった。
翌日の指し直し局を前に、東京の理事から「再度千日手になったら、
対局場を改めたい」という提言があったが寡黙で控えめだった青年大山が
「勝手な変更は承服できない」と言い放った、と伝えられている。
場の雰囲気は容易に察しがつくだろう。指し直し局は塚田が制する。
迎えて第六局。前日散髪に出かけた塚田は、お寺の境内で少年たちが
野球に興じているのが目に入った。その姿をぼんやりと眺めながら塚田は
知らず知らず明日の作戦を考えていた。腹を決めて我に帰ると
「ほんのわずかのような気がしたんですが、三時間もたっていたんです」
という。塚田は一途で、浮世離れしたところもあった。
先手塚田は相掛りの出だしから飛車先の歩を交換する前に1筋の歩を突いた。
これが前日考え抜いた順だった。端歩の具合で浮き飛車か引き飛車か
決めようという高等戦術である。
塚田が先行し、手に乗って大山が切り返し、盤上に火花が散った。
終盤に入って、大山に勝ち筋が出たが、「寄せの塚田」が上回った。
最後は鮮やかな即詰めに切って落とす。
137手、初防衛を決め、塚田の声望はますますあがった。
「木村との再戦」
○第8期名人戦
塚田は翌二十四年、挑戦者に雌伏二年、雪辱を期す四十四歳の木村を迎えた。
第8期名人戦はファンというファンが木村名人を待望していた。
日本は敗戦の痛手から立ち直っておらず、この年は下山、三鷹、松川と大事件が
続発し、物情騒然としてもいて、人々は木村に古きよき時代を
ダブらせていのである。
この年の名人戦は五番勝負に短縮されて行われた。前述したように我が国は
貧しく混乱もしていたからである。塚田の○●○●という推移で最終局に
もつれ込み、大いに盛り上がった。対局場に皇居内の「済寧館」が選ばれたのも
人気に拍車をかけた。
腰掛け銀に進み中盤、先手木村は飛車が4九にいるのに5八の金を4七に
あがった。いかにも重い形。が、この金上がりこそ木村自ら「霊感の一手」
という勝負手だった。十数手後、塚田は応手を誤り形成を損ねる。
塚田は恋々としていなかった。詰みまで程遠い段階で投げてしまう。
興味を抱いた昭和天皇が塚田側を持って従事と指し継がれてお勝ちになり
たいそう喜ばれた、という有名なエピソードが残っている。
潔く投了して、その夜は棋士仲間と屈託無く飲み明かした塚田だったが、
帰路に就き、自宅の前まで来て無心で遊んでいる我が子の姿が目に入ると
崩れるようにその場に座り込んで涙ぐんだ、という。
最愛の者を目の当たりにして、押し殺していたものが堰を切ってほとばしり
出たに違いない。飄々と見えても、塚田は勝負の世界に生きる人間だった。
「勝つことは偉いことだ」
○九段挑戦
昭和二十四年、名人位を木村に奪い返されてから塚田は低迷が続いた。
この年の秋には第二のタイトル九段戦が生まれ、
翌二十五年には王将戦も設立されたが縁が無かった。
このころから塚田は色紙に好んで「勝つことは偉いことだ」と揮毫した。
「自分の立場、心境をありのままに書いたものです」という。
色紙の文句は、漢書などからもっともらしい箴言を引っ張り出して来る例が
多いが、塚田は等身大の自分を表現した。それが本当だと思った。
飾らない人だった。
ようやく塚田がチャンスを掴んだのが第3期九段戦である。
二十七年秋のことだった。この年は夏に名人位を失った木村が引退して
新時代が始まっていた。三大タイトルの保持者は、名人・九段が大山、
王将が升田である。
九段戦は前述の通り二十四年に発足した。1,2期はAB級棋士だけで
戦われたがこの年度、規模を拡大して全棋士参加の公式タイトル戦に
昇格していた。ただし、前期の名人は除かれていて、そのかわり新九段との間で
日本一決定戦が行われるシステムをとった。この点は従来通りだった。
本戦トーナメントの準々決勝三番勝負から出場した塚田は小泉八段、大野八段
と破り、決勝でも升田を○●○で降して挑戦権を獲得した。
塚田にとって大野は苦手のひとりであり、升田とははっきり分が悪かった。
塚田はようやく不振から抜け出していた。
「両雄譲らず」
○第1〜4局
名人戦に敗れて三年、塚田は第三期九段戦で挑戦権を得てようやく大舞台に
立った。昭和二十七年秋のことだった。迎え撃つのはこの年の夏、
名人位も戴いた大山。第一人者の地歩を固めつつあった。
下馬評は、充実著しい二冠王だったと想像するだろうが、
そうではなくほぼ互角だった。塚田が大山に相性が良かったからだ。
四年前の名人戦が好例だが、前年もA級順位戦、王将リーグといった
大切な将棋を勝っていた。当時の九段戦は五番勝負で、持ち時間八時間の
二日制、十月末、幕を開けた。
第一局は大山の先手で矢倉戦。大山の作戦勝ちだったが、塚田は△2二角
という自陣角で難局を打開すると最短手順で寄せ切った。
「大事な勝負にもかかわらず、危険を冒しても最短距離で勝とうとする
気持ちは、日ごろの信念を貫く者として、芸に徹する貴重な姿といえよう」
大山は自戦記の中で塚田をこう賞賛している。現代棋士でいえば
谷川王将(※書かれた当時)のような華麗な寄せが塚田将棋の神髄であった。
第二局は相掛かり。先攻した塚田は大山の反撃をいなして必勝態勢を築いた。
ところが二度に渡り大ミスをしでかして、最後は頓死。「馬鹿な話だ」
恬淡とした塚田も思わず嘆いたという。
第三局は飛先交換型の腰掛け銀。指せる分れを作った先手大山が一気に決めに
出たのが悪く、続いて銀損の勝負手を放ったものの短兵急だった。
大山は持ち味の辛抱を欠いた。
「粘る指し方は当たれば良いが、そうでないと惨めな負け方になる。
名人という立場がそんな負け方を否定する・・・」と述べている。
最高位に就いての初のタイトル戦。大山に肩肘張った部分があったようだ。
第四局はカド番の大山が踏ん張り千日手のすえ勝ち。指し直し局は
矢倉から先手大山が豪快に攻め倒した将棋だった。
「一番うれしい」
○最終第五局
決着局の行われたのは暮れも押し詰まった二十九日、大阪市郊外の「羽衣荘」
大山の顔は青白く、反対に塚田は朱に染まっていた、という。
前局が終わってから一週間、塚田は初手を2六歩にするか7六歩にするか
で悩み続けた、と打ち明けている。先番は塚田で決まっていた。
現行では振り駒だが、当時は千日手指し直しを一局と見倣していて
大山先手局を三番と数え、先後の番数を両者同数に揃えたためである。
交互の順を当て嵌めるだけだった。ともかく、塚田は将棋の虫だった。
一週間の結論は2六歩だった。以下、微妙な駆け引きの末に戦系は
矢倉模様に落ち着いた。小競り合いの後、塚田は4五歩と打って出る。
「のるかそるかの勝負手だった」という。
局面はたちまち終盤戦に入った。
優劣は不明だった。明暗を分けたのが、龍に当てて大山が銀を
打った場面。塚田は龍を切って捨てた。強手。大山は龍を逃げると
踏んでいたようだ。塚田は受けの達人を誤らせたのである。形勢は傾いた。
深夜一時四十五分、新九段が誕生した。塚田三十八歳だった。
「今までで一番うれしかったよ。名人になった時よりもね。あの時は
恐れ多くて返上も考えた。今回はそんな気持ちがないんでね・・」
後日、塚田はこう喜びを語っている。
「鬼才花村と戦う」
○第四期九段戦
塚田は三年半ぶりの戴冠を果たす。一方、大山にとっては生涯に悔いを
のこす敗戦だった。永世九段を逃しただけではない。三ヵ月後には王将位にも
就いているのだから史上初の三冠王にもなり損ねたわけだ。第三期九段戦は
結果的に歴史を塗り替えた大勝負だった。
新九段と前期名人との三番勝負は、塚田が引退して十四世名人を名乗る
木村をストレートで降している。記念対局的な印象を受けようがそうではなく
「秩父宮杯」という冠称をいただく日本一の座を懸けた真剣勝負の場だった。
この「秩父宮杯」と「九段戦」を合わせて「全日本選手権」と呼ぶのが
この棋戦の正式名称なのである。
翌二十八年度、塚田は挑戦者に異色棋士花村元司八段を迎えた。
花村は大正六年、浜松市の生まれ。真剣師として鳴らし、十九年に
異例の五段試験将棋を受けて若手棋士相手に四勝二敗と勝ち越し
プロ入りを許された。当初こそ「素人将棋」と軽視されたものの、
この数年間の充実は著しく前年にはA級八段の座を勝ち取っていた。
花村のとっての初の桧舞台である。燃えていた。初戦、相掛かりに誘った
先手花村は序盤早々、9筋を突き越し次いで飛車を3六に寄せた。
後に角田八段丸田九段らによって改良が加えられたひねり飛車の原型とも
言える駒組み。用意の秘策だった。たちまち大立ち回りが演じられたが、
塚田が花村の肉薄をかわし切った。超早指しで鳴らした花村が
持ち時間八時間のうち七時間半近くを費やす意欲も実らなかった。
塚田に一日の長があった。第二、第三局は塚田の快勝。
既に花村将棋を手の内に入れていた。塚田は危なげなく初防衛を果たした。
しかし後年、花村に絶体絶命の窮地においこまれるのである・・・
「天才松田と闘う」
花村八段をストレートで退けて初防衛を果たす。が、続く秩父宮杯を争う
大山名人との五番勝負は棒で負けた。塚田三十九歳。
難しい年齢に差し掛かっていた。
翌第五期、永世九段の座を懸けた戦いである。塚田は挑戦者に松田茂行八段
を迎えた。松田は大正十年、鳥取の生まれ。昭和十年、十四歳の時上京して
金子金五郎の門を叩く。十五年、十八歳で四段、十六年五段、同年六段、
十七年入隊。二十一年復員して第一期順位戦にB級で参加。二十二年七段、
二十六年八段。
棋界入り前から天才の誉れ高く、「鳥取のダイヤモンド」の異名を取った。
五段のときには七、八段を平手で片っ端から破って「八段殺し」と呼ばれた。
五段時代の有名なエピソードに大山康晴五段との東西青年対決がある。松田の
完勝だった。終わって、この勝負を取り仕切った旦那が「弱いのは嫌いでね」
と松田だけを連れて料亭に向かった。ひとり残された大山は泣いた。
後年こう述懐している。「あのときの松田さんの羽織の紐の鮮やかな紫色が
今も目に焼きついている・・・・・・・」
この世代に共通することだが、松田にとって残念だったのが五年に及ぶ
軍隊生活である。見る影も無いほどやせ細った復員姿だったという。
将棋もかつての精細を欠いた。天才松田にとって約束されたようなA級の座を
射止めるのに五年も要した。
が、この年松田は見事に復活した。この九段戦は準々決勝から出場して高柳八段
丸田八段、升田八段という強敵相手の三番勝負を全てストレートで勝った。
さらに塚田との五番勝負のさなか王将リーグを七連勝しで制して大山王将への
挑戦権も握る。当時三十三歳、向かうところ敵なしだった。
一方塚田はかつて無いスランプに悩まされていた。「全八段戦」決勝で
坂谷八段に連敗を喫するなど黒星続きだった。塚田四十歳・・・
限界説もささやかれていた。
時の勢いは挑戦者が断然上回っている。下馬評は奪取の声で溢れていた。
「九段戦だけは死に物狂いで頑張る・・・」
抱負を聞かれて塚田はこう答えている。
「名人に競り勝つ」
松田八段を退けて永世九段の座を射止めた塚田は、続いて大山との
「名人・九段五番勝負」に望んだ。二人の対戦成績はここまで十四勝十四敗。
前年のこの五番勝負では三連勝して星の上では五分に漕ぎ着けた大山では
あるが、内容的にはしてやられ放しだった、と言っていい。
第七期名人戦(昭和二十三年)、第三期九段戦(昭和二十七年)という
二つのタイトル戦だけでなく、もうひとつ大きな借りが大山にはあった。
二十五年から二十六年にわたり王将リーグで三連敗して半香に追い込まれた
のである。当時はリーグ内にも差し込み制が導入されていた。その後規約が
変わり実現しなかったものの大山にとって屈辱の記録が残った。
王将位を併せ持つ第一人者の立場からも大山は、打倒塚田に燃えていたに
違いない。一方、塚田にとっても棋界初の永世九段としての門出である。
双方譲れない勝負だった。
果たして五番勝負は一進一退の白熱戦となった。第一局は大山の勝ち。
第二、第三局と塚田が連勝、第四局は大山が返した。
最終第五局が行われたのは三十年一月二十七日。後手大山が
「三年ぶりでしょうか」と語る三間飛車に構えた。塚田が苦手としていた
大野八段の得意戦法である。大山の心理作戦でもあったろう。
が、塚田は臆さなかった。銀二枚と飛車の交換という駒損で大駒をさばくと
大山に二枚腰を許さず一気に寄せ切ってしまうのである。
寄せの塚田の会心作だった。
このシリーズ以後、塚田は大山に番勝負で勝っていない。前年の三連敗
と併せると当時、盤上の技術では既に大山が塚田を凌駕していたはずである。
永世九段を汚すまいとする塚田の思いが上回ったとは言えまいか。
「ほっとしました」局後の勝者の感想は、はにかんだような一言だけだった。
「寄せの塚田」
○第五期九段戦
昭和二十九年の第五期九段戦、永世九段を懸ける塚田は、挑戦者に松田茂行八段
を迎えた。王将挑戦も握るなど破竹の勢いの松田に対し、塚田はどん底状態だっ
た十一月九日、五番勝負開幕。持ち時間各八時間の一日指し切り制である。
先手松田は中飛車。松田は豪快な性格と、性格そのままの奔放な将棋から
「ムチャ茂」の異名をとった。そのムチャ茂が心血を注いだ戦法が中飛車である
ムチャ茂の力強い押さえ込み策に塚田は屈服を余儀なくされた。
が、一瞬のスキを突き、銀のただ捨ての強手を放って飛車のさばきをつけた。
屈服していた塚田陣が伸び伸びと躍動し始める。塚田は自分の差し回しを
「屈伸戦法」と呼んでいた。退いたと見せてバネ仕掛けのような鋭い反発に
移るのが身上だった。
終局、翌午前四時二十分。「中飛車で負けたことはほとんどなかった・・・」
松田はこう呟いた、という。挑戦者の勢いを止めただけでなく、塚田はその
十八番戦法も打破したのである。不調感の払拭にもつながる大きな先勝だった。
第二局は相掛かりから終盤勝負にもつれ込んだ。塚田は詰めろをかけられ
敵玉を詰ます他無くなった。追う塚田。逃げる松田。塚田の6四金捨てに
松田は同香と応じた。敗着。玉をかわせば詰まなかったのだ。
終局はまた午前四時を回った。 必勝局を松田がトン死で失ったとも言えようが
難解極まる寄せ合いだった。まして一昼夜に及ぼうかという闘いである。
松田の自戦記は「結局、力負けで勝ちきれなかった一戦であった」
と結ばれている。「寄せの塚田」の鋭い肉薄を讃えるべきだろう。
続く第三局、連勝して塚田は「気分的に楽だった」と振り返っている。
矢倉に進んだ終盤、寄せの塚田が冴えた。
十一月二十九日午前三時、永世九段が誕生した。
「永世九段の名を辱めないよう精進したい」
談話を求められた塚田の答えはこれだけ。無口な人だった。
「九段位をあけわたす」
○第6・7期九段戦
塚田は九段防衛が近づくと、目の無かった酒も控え万全を期したという。
当時、他棋戦では特筆すべき仕事をしていない。齢四十に達し残り少ない
棋士人生を、この九段戦に懸けていた。
松田八段を退けて永世九段に就き、続く大山との「名人九段戦」も制した
塚田は、翌第6期、再び花村八段の挑戦を受けた。二年前はストレート勝ち
したが以後、「妖刀」花村の指し回しは一段と磨きがかかっていた。
「今度は私も少しは強くなっていますから」花村本人も自身満々だった。
三十一年二月、五番勝負は始まった。
初戦、塚田は序盤早々に花村の仕掛けた罠に落ち、なすすべくもなく土俵を
割った。第二局は必勝局を王手飛車を食らって落とすという大失態を演じた。
その瞬間塚田は「アッ」と叫んだという。 続く第三戦、花村の無造作な駒組に
乗じ、塚田は労せずして優位に立ち、そのまま押し切った。
「うちひしがれた私を叩く絶好のチャンスを花村氏は逸した」(塚田自戦記)
のである。「自身を取り戻した」塚田は、第四戦に快勝すると最終戦も
「思う存分戦うことが出来て」ものにする。カド番からの三連勝は
棋界初の快事だった。長蛇を逸した花村は「九段位を奪われたような気持ちだ」
という名台詞を残している。
続く大山との「名人九段戦」に塚田は三連敗した。
防衛戦に精も根も使い果たしたためという見方もあったが、
大山の方も王将戦で升田にタイトルを奪われたばかりか、香落ちで負かされる
という痛手を被った直後だった。単純に、大山の力が上回っていたからだろう。
力の衰えは隠せなくなっていた。
翌第7期、名人のトーナメント参加が実現して「名人九段戦」は廃止され、
代わりにタイトル戦が七番勝負となった。制度改革に伴い
塚田は九段位を返上して準々決勝から参戦し、高島・花村両八段を降して
決勝七番勝負に駒を進めた。
一方の山から勝ち上がってきたのは升田である。升田は全盛期を迎えていた。
直前の王将戦では大山を返り討ちにしている。
それに、もともと塚田は升田に相性が悪かった。先勝したものの以後、四連敗。
三十二年四月十九日、塚田は四期保持した九段位を明渡した。
「名誉十段贈呈」
塚田のもとに赤紙が届いたとき母親は
「正夫が戦争に行くようじゃ日本は負けね」とつぶやいたという。
不器用な上に口下手で世故にうとかった。ポットからお湯も注げなかった
らしい。名人になってから夫妻でNHKのインタビューを受けた際、
専ら三千子夫人が受け答えをして、塚田はただ一言「えへん」と発しただけ
だったという有名なエピソードがある。
酒をこよなく愛したが、棋士仲間と飲むときはたとえ後輩でも「ワリカン」を
かたくなに通した。「けちだ」という噂は気に留めなかった。
勝負を争う者との間で貸し借りが生じるのを嫌ったのである。
塚田にとって重要なのは世間体よりも自分の信条、価値観だった。
内なる世界を大切にした人だったとも言えよう。
塚田の豊かな内面生活を物語るのが詰将棋の創作である。
作図数は万を超えるとも言われている。塚田の遺した不朽の遺産である。
「自然体と詰め将棋の融合」を目指しその簡潔な表現は俳諧の趣を漂わせている
塚田が棋界の頂点にあった期間は、昭和二十二年の名人就位から三十二年に
升田に九段位を奪われるまでの十年余りと比較的短かった。
それでもその後も通算二十八年に渡りA級を張って一流棋士の地位を守り続けた
五十二年十二月三十日、現役のまま肝臓癌で逝った。
享年六十三歳。九段戦の偉業をたたえ連盟は「名誉十段」を贈っている。
絶局は同月十三日の花村とのB1順位戦。花村が昇級戦線に絡んでいて
「不戦敗では後味が悪い」と言い張って聞かず病院を抜け出して戦った。
義理堅く、ケジメをつけなければすまない性分でもあった。
最後の言葉は「俺の扇子持って来い、財布出せ」だった。
対局に出かける夢を見ながら、塚田は、息を引き取った。
結局意見も聞かず、最後まで勝手に書き切りました。ごめんなさい。
319 :
名無し名人:02/03/08 00:07 ID:se5/2YMq
全盛期で言えば、升田より中原の方が強いだろう。
羽生=大山≧中原
最高勝率持っているし。
321 :
名無し名人:02/03/11 18:14 ID:oRognkCN
310-317 読み入りました。ありがとうございます。
322 :
名無し名人:02/03/11 19:03 ID:21EizVbT
藤井の全盛期は強かったなあ。
竜王戦で羽生の挑戦もしりぞけたし。
323 :
名無し名人:02/03/11 19:12 ID:WdRsLx72
324 :
椎橋金司:02/03/11 20:38 ID:Y2ubUBC0
325 :
名無し名人:02/03/12 00:44 ID:2WvOz1UZ
326 :
名無し名人:02/03/12 00:49 ID:wXPiEgCA
羽生は全盛期を越したかな?
佐藤康と森内の全盛期はいつなんだろう?
327 :
名無し名人:02/03/13 20:18 ID:FF8ugnPn
森内ってタイトルとれないよねえ。
挑戦もあまりないしね。
でもまったくない先崎に比べればましか。
328 :
名無し名人:02/03/14 14:38 ID:fQH1uiRA
たしか森内は名人戦で羽生と対戦したはず。
他にはあったかな。
329 :
名無し名人:02/03/14 15:18 ID:DIO9A2U9
>>322 藤井たんのすごいところは、羽生「挑戦者」を相手に見事防衛したところ
意外に防衛はタニーの王将(1994年)と
藤井たんの竜王(2000年)しかない (多分あってると思うけど)
というか、羽生たんからタイトル奪取・防衛したのって
5人(藤井・タニー・キウイ・郷田・ひろゆき)しかいないけどね
まして、純粋な振り飛車党でタイトル取ったっていうのは
ここ数年では彼しかいないから、大山先生みたいになる可能性もあるから
もうちょい今期はがんばってほしいと思うね
330 :
名無し名人:02/03/14 15:26 ID:jBtkNRuL
本当に羽生と大山ってどっちのが強いんだろうね。
過去の対戦は羽生は上り坂、大山は最晩年なので
全盛時代同士での番勝負が見てみたいなあ・・
331 :
名無し名人:02/03/14 16:00 ID:qQJs83eZ
大山の時代は対局数もそれほど多くなかった
羽生の時代は物凄い対局数とタイトル数。
つまり比較はできないってこと。どっちも凄いんだよ。
332 :
椎橋金司:02/03/15 22:27 ID:VDGyZXi3
333 :
名無し名人:02/03/16 00:00 ID:OZ82jhMr
コタツデ
∧∧ <333ゲット〜〜〜〜〜
(゚Д゚ )
/ ̄ ̄旦/ヽ;;;⌒`)
/___/ ※/)≡=-;;;⌒`)⌒`)
/ ※ ※ ※ ※ // ≡≡≡≡= -;;;⌒`)⌒`)
(ー―――――_,ノ ≡=⌒`);;;⌒`)≡=-⌒`)
中原の年間最高勝率って、いつ頃で、どれ位の数字なんですか?
8割くらい?
335 :
名無し名人:02/03/18 15:46 ID:dltvshp5
8割5分は行ってるんじゃ・・・?
根拠ないけど。
336 :
名無し名人:02/03/18 16:06 ID:kJQQuwAx
.855
ではそろそろ「全盛時代を語るスレ 番外編2 不運の天才土居」を・・・
338 :
名無し名人:02/03/30 10:19 ID:mbBtyPw/
羽生対升田
339 :
名無し名人:
羽生対升田第一局
角替わりの序盤に升田が新構想を披露。中盤早々優位に立つ。
しかし一気に決めに行き、急ぎすぎの無理から羽生にしのがれ羽生勝ち
羽生対升田第二局
羽生が意地を張って相振り。難解な中盤戦のさなか
升田の奇手が炸裂!そのまま押し切るかに思えたが
升田に楽観からのポカが出て羽生勝ち
羽生対升田第三局
羽生の85飛。升田は「なんじゃこりゃ?」と苦吟の表情。
それでもさすがは升田、決定的に悪くなる順は取らない。
定跡研究の範囲で升田不利と思われていた局面から、升田の鬼手が炸裂
実際はまだまだ難解だったのだが羽生が間違えて升田勝勢に。
最後に羽生の形作りの王手。升田が「合い駒をするまでも無いな・・」
と玉をひょいと46に。羽生が一言「それ・・・詰みますよ・・?」
升田頓死
羽生対升田第四局
今度は研究してきたぞ、という升田が藤井システムを採用。
羽生のミレニアムとの対抗形に。升田新手からミレニアムに迫り
検討陣の結論は升田勝ち。ここで羽生がと金捨てのマジック
取ればそのまま升田勝ちなのに、馬を切って強襲。結局無理で升田勝ちを逃す。
羽生対升田第五局・・・