ポール・マッカートニーの環境保護活動を考証する

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1Mother Mary
 ポール・マッカートニーの環境保護運動は有名である。ポールは
PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)の会員であり、
シー・シェパード(海洋生物保護のために実力行使に訴える団体)を
支持もしている。

 様々な意見が上記団体には出ており、紛糾もしている。しかし私
は上記問題の孕む最も枢要な1点は、上記運動が一種の道徳的・人
倫的真理として機能し、影響を与えている点ではないかと考える。
この運動はただ環境保護や生態系や生物保護を訴える点に本質があ
るのではない。それが人類全体の道徳として、また内的な倫理と
して、機能させようとするのが特徴だと言える。

 かつて或る思想家はこう書いている。
《階序に対する畜群の不倶戴天の敵意。彼らの本能は、平等をでっ
ちあげる者たち(キリスト)には好都合である。強い個々人(至上
の者たち)に対しては、畜群は、敵意を抱き、公平を欠き、節度
なく、不遜で、厚かましく、無遠慮で、臆病で、不実で、冷酷で、
陰険で、嫉妬深く、復讐欲に燃える。》(『権力への意志 上』
p.284ニーチェ ちくま文庫)

 道徳や人倫を訴える心性には、強者にたいして同情や憐憫や
罪悪を訴え、優位に立ってしまう逆立ちした権力への意志が
働いているというのがニーチェの看破したものであった。

 道徳や人倫は権力への意志の屈折した形態である。ポールが現在
これに没頭することは権力への意志の発現の歴史的に考証されて
きた様態を表している。人類に課すべき善であることを訴える
このような運動に加担することが、人間を高揚させる真理として
の美にかかわる者としての劣化を表しているのは明らかである。
2ホワイトアルバムさん:2014/06/25(水) 23:50:47.33 ID:???0
困った人がいちいちスレたてるなあ
毎日じゃないの
3Mother Mary:2014/06/26(木) 19:41:10.28 ID:???0
 人間は永い歴史の中で、自身の栄養分となるものとならないものとを峻別する
ことを始めた。栄養部になるものについてはより効率的にそれらを食する
ことができるよう、知識と技術の進歩が為されて行った。

 まず人間は道具を使い土や水を使い、季節ごとに野菜や穀物を
成長させ、植物や穀物を栄養分として摂取することを知った。また、やはり
道具を使い、狩りや漁をし、動物や魚貝を栄養分として摂取することを知っ
た。
 さまざまに発見や工夫を凝らし、効率を上げ、必要な労働力を下げ、でき
るだけた易く食料を獲得・保存できるよう改良を重ねてきた。頭脳で計画
を立てる者、肉体を使い苗や種を植えたり、時期がくれば収穫し、舟で漁に
出たり、食用動物を飼育したり、食べごろになると屠殺し、解体し、という
分業になった。それぞれの分業でもやはり知識や作業の効率化が図られた。

 現在、我々の食生活が営まれる背景には以上のような、原始から今に至る
までに工夫改良されてきた食をめぐる永い歴史が介在している。現在我々は
スーパーやコンビニでた易く食品を買って帰り、あるいは外食店で食べたり
しているが、それらは人間が生きてきた根本ともいうべき、食をめぐる技術
と知識の積み重ねがあって初めて可能になったことである。

 食をめぐる知識と技術は今ある人間が出現して以来、改良を続けてきた
いわば科学であり、食科学の歴史の上に我々の食生活は成りたっている。
つまり、今の我々の食生活は一朝一夕のものではなく、人間の歴史が
作り上げてきた自然史に他ならない。

 例えば食用動物の屠殺という分野にしても、いかなる方法でやるにせよ
殺傷には変わりないので、残酷といえば残酷だが、それによって必要な
栄養分を摂取するための、これまた歴史を重ねた作業分野にすぎない。
これが「残酷だから私は食べない」と思って実践するのは勝手だが、
他人に強要される理由はない。飼育や漁で獲られた肉類を食べるのは
人類史の初めから為されてきたことで、いまさらどうこう言われる筋合
いはない。ただ、「私は食べない」は勝手だと言えるだけである。
4Mother Mary:2014/06/26(木) 21:00:28.73 ID:???0
 「草や果実をむしるように、動物の首を刈れますか?」という問いかけを
し、「簡単にはできないのは私たちが動物を人間の仲間だと感じているから
です」と結論づけ、菜食主義への誘い水にしている人がいる。

 理由もなく動物を殺すことができないのは当たり前なことである。なんらか
の理由で-人間を襲う、作物を荒らす、糞などで汚す、など-有害であること
が判明している場合、また、畜産として屠殺が作業の一環となっている場合
、人間は動物を殺傷する。いずれにせよ人間が生存していくための手段と
して、殺傷が為されて行くことに変わりはない。
5Mother Mary:2014/06/26(木) 21:01:01.20 ID:???0
「実際に屠殺される場面を見れば、もう食べられなくなるだろう」と或る
人は言う。私はそう度々ではないが屠殺される場面を動画で見た。しかし
変わらず肉は食べるであろうし、仮に肉を食べる前に必ず見なくてはなら
ないということになったとしても、肉を食べることは止めないだろう。
また、私のように、屠殺の場面を見ていながら変わらず肉食をしている人
は相当いることだろう。人間にとっての食文化は先に書いたように一朝一夕
に現れたものではない。人間が身をもって開発してきた知の歴史でもある。
また、現在でも、地域によっては畜産のための動物を広場で屠殺し、皆で
分けて食べることが習慣となっている地域も残っている。食文化というもの
は、簡単に出来上がったものではないし、経済や技術の歴史と同じように、
栄養分摂取のために知の更新を続けてきた自然史でもある。その更新の
結果が今あるものである。そこで食資源の枯渇といった事態も起こり、これ
にたいする対策が必要になったりもするだろうが、漁や狩りの制限という
自体も起こるだろうが、それは道徳的な見地からではないし、道徳的見地
から「可哀想だから屠殺は良くない。肉食も止めるべき」といった業務妨害
や食生活変更などが入り込む余地はない。ただ食べたくない人は食べないで
いるのが正解だと言えるだけである。

 ちなみに上に引用した

 「屠殺の現場を見たら食べられなくなるだろう」はポール・マッカートニー
のコメントである。正確には「もし食肉処理場の壁が全面 ガラスだったなら、
みんな Vegetarian(菜食主義者)になるだろう」というものである。
6Mother Mary:2014/06/27(金) 02:41:14.39 ID:???0
 菜食主義を勧めている人が作っているサイト『菜食のススメ』に「FAQよく
ある質問」というコンテンツがあり、そこに以下のように書かれている。

菜食のススメ http://saisyoku.com/index.html

《植物は地球上には動物よりも先に存在し、我々動物を育んでいます。
我々の吐き出す二酸化炭素を吸収し、我々に必要な酸素を生み出してくれます。
果実は動物の好む匂いや色や味を用意して食されることにより繁殖を試みます。
我々動物の糞尿や死骸は土となり、植物の栄養となります。

動物は人間の食物ではなく、我々と同じ植物に育まれている仲間であると考え
られます。》

 この書き手によれば「動物や人間は植物に育まれている仲間」であり、「
食されて糞になることで土となって堆積し、植物に必要な栄養分を供給する」
ということである。動物や人間が植物を食べるのは植物に相応しく、植物の
為になっていると言っている。
7Mother Mary:2014/06/27(金) 02:50:54.58 ID:???0
6のつづき

 しかし私にはこの人の書いていることには賛成できない。
 野菜にせよ果物にせよ、植物の一種に変わりはなく、米や小麦は
もともと茎にできる籾(もみ)の内部のことである。種子である。枝豆や落
花生などの豆類も籾の内部であり、種子である。人間はここを取り出して食
する。もともとは自分に適した場所を選び 群生し繁殖する植物種である。
人間がこれらを食用に改良したり専用畑や田圃に植え、食用にしているだけ
のことである。もともとは自然に群生していた植物種の一種だった。いわば
現在のそれらは人間の食文化に合わせて改良された知の産物である。知の
産物である、改良されていくという点では畜産動物と変わりない。人間は
自分の食べやすい、旨みを味わいやすい、好みの味覚にしてしまうべく、
技術改良して動物や植物を人間化してきた。それが人間の食文化であり食の
歴史である。

 自然の中で生きていた動物を捕獲、植物を伐採、それによって食用として
摂取し、飼育や農作の対象にし、品種改良し、好みの食料に変えていった点
で動物も植物も変わりない。また、その文化の始まりをみて、生物を殺傷
し、植物を根から引き抜き(すなわち生命を奪い)、切り取り、または種
子を勝手に横取りして食する点で変わりはない。

 >>5のサイト『菜食のススメ』の作者は動物を食べることと植物を
食べることを比較し、植物食には罪はないかのように看做すが、私にとって
生殺与奪(権力をもつ者が勝手に殺している)という点で変わるところは
ない。『菜食のススメ』作者は間違っている。
8Mother Mary:2014/06/27(金) 19:03:22.85 ID:???0
 人間の食生活はすべからく他の生物を殺傷し、あるいは自然な繁殖形態
から養分や種子を横取りし、根からひっこ抜き、それを食すること
で自己の栄養分とすることで成立してきた。これは動物や魚貝・植物、変わ
りなく言えることである。
 ハム・ソーセージ、パン・麺類・餅など加工食品とはそれらの行為を見
えにくくしているだけで、根本の様式は変わりない。根本にあるのはやはり
生殺与奪である。生殺与奪することで人間が生を維持する。このことだけ
は古今東西変わりなく続けられてきた真実である。動物食も植物食もこの
点では変わりはない。
 動物愛護から菜食主義を訴える人々の欺瞞は上記のような人間史・太古
から営まれてきた人間の食の歴史の本質を見ずに済まし、個人の嗜好の
問題にすぎないことをあたかも大問題であるかのようにしてしまうところに
ある。

 なぜ上記のような人々が出現してきたのか。実力行使に訴えるように
なってきたか。これにはしかし根の深い問題が隠されていると私には思える
。現在の文明がどこかで行き詰ってしまい、そこで反-文明が力をもって
伝播していく。その心情があるように思えるのである。それらの兆候は
菜食主義に限らず様々な方面にある。オウムなどカルト宗教もその一種だろ
うし、反-原発の運動にも、全体ではないが入り込んできているのではないか

 しかし根本はそれらの多様な事象ではなく、夫々に起因している閉塞感に
あり、それがかような反-文明に走らせている。動物愛護と菜食主義の同体
による食文化への介入もその一種だと私にはみえる。
9ホワイトアルバムさん:2014/06/28(土) 16:01:26.73 ID:???0
9
10ホワイトアルバムさん:2014/06/28(土) 16:02:59.44 ID:???0
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11ホワイトアルバムさん:2014/06/28(土) 16:03:31.81 ID:???0
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12ホワイトアルバムさん:2014/06/28(土) 16:04:15.71 ID:???0
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13Mother Mary:2014/06/28(土) 21:49:48.55 ID:???0
 生殺与奪(生かすも殺すも勝手)という食文化の根本というところで、人間
には自分が生きていく、生存を維持していくことに対する罪が普遍的にある。
何故なら、生存していくために食べるということには、他の生物の生命や
身体や種子やを奪う身勝手な行為がたえず関係していること、そういう身勝手
さによって初めて自己の生命・生活が維持できていることは明白だからだ。
菜食主義者が哺乳類を食べないことで自己の生命維持にまつわる罪はない
ことにし、植物を根からひっこ抜き食べていること、種子を横取りしている
こと、他の生命や生命の端緒を奪い、食べていることの罪をないことにし、
済ましていることは先に指摘したとおりである。菜食主義者には人間の
食に内在する普遍的な罪への鈍さがある。鈍いことで自己の生命維持には
罪はないと信じてられるのである。

 人間が生きていくことには食だけではなく、罪はついて回る。恋愛して、
初めは燃え上がり、しかし時間がたつにつれいつしか冷めていき、別れを
切り出し、棄てる。一時は好きだった相手に致命的な傷を負わせる。仕事や
企業現場でも、罪はついて回る。少ないポストを巡って、顧客を巡って、
競争は起こる。負ければ食いぶちを1つ失うに等しい。利益が下がり、リス
トラの要因にもなる。文筆業者が考え方を巡って論争する。斬り合いをし、
相手の執筆活動を終わらせることも起こり得る。しかも心には一生消える
ことのない傷跡が残る。
14Mother Mary:2014/06/28(土) 21:51:01.95 ID:???0
13つづき

 人間が生きていくことには罪が付きまとうこと。これこそ普遍的な真理
である。これが宗教や、あるいは芸術作品の根元にあって、救いを求めさ
せたり、罪や憎しみの浄化を希求させたり、赦しを願い、或いは運命的な
時の中で、人間が生きていくしかない姿を作品に描きださせたりもする。
ビートルズの「let it be」はその典型であると言えよう。

 人間の生存に付いて回る罪に、人間がどう向き合ってきたかを、宗教や
芸術は示している。そこで菜食主義が、人間の罪を一部抹消できるかの
ような外観で登場する根本がある。菜食主義は人間が食文化を営む上での
罪を失くすることができると主張する。動物の食だけが罪であって、それを
止めれば罪から逃れられると主張する。彼らはそう言うのだが、むろんそれ
は欺瞞であって、生命にたいする罪を一部見ないで良いことにし、それに
よって成立しているものである。実際は食にまつわる殺傷や胚芽強奪は
植物の食でも罪が付随することを表しており、野菜や果物や穀物が動物
のようには痛がらない・逃げない・悲しまないことで体よく解釈している
にすぎない。人間が彼らを捕食し、子を横取りし、傷つけていることに変
わりはない。それによって生活を維持していることに変わりはない。

 人間の生には罪が普遍的について回る。菜食主義者はそこから逃避したが
るが実は逃避などできてはいない。にもかかわらず逃れることが
できているかのように主張する。かれらに現代の新興宗教のような色合い
があるのはそれがある種の宗教にある、罪の赦しの色合いを備えているか
らだ。そしてそこで言われる赦しとは、勝手な自然解釈によるもので、欺瞞で
しかないものだ。
15Mother Mary:2014/06/28(土) 22:45:17.58 ID:???0
 ビートルズ「let it be」とは人間が逃れられない運命の中でそれでも罪を
背負い、浄化を願い、生きていく姿が描かれた名作である。これを書いたのが
リードで歌っているポール・マッカートニーであるのはよく知られている。
この曲にあるように、人間の生にまつわる罪とその浄化と運命にポールが
引きつけられ、書いたのだと私は思っている。発表されたのがpopular音楽
の世界でありながら、深い世界観と感銘を与える作品である。

 一方、現在のポールは海洋生態系を訴え捕鯨を妨害する、イルカ捕獲を
妨害するシー・シェパードを支持し、またPETA(動物の倫理的扱いを求める
人々の会)に加入し、菜食主義を訴えている。これらが何かというのは、
上レスに私が書いた内容で容易に判断できるだろう。「動物は人間の友達」
が彼らの合言葉だが、それなら「植物は人間の友達」ではないのは何故か。
結局植物が動物のようには意志表示できないことで体よく解釈し、自己の
生命維持の罪から目を逸らしたがっているだけの人間にすぎない。この
ような自分勝手な人間に加担し、納得し、ポールは一緒になって活動し、
菜食主義を訴えている。

 かつてあの「let it be」を書き、人間存在に普遍的に内在する罪と運命
を歌った作家が今は勝手な自然解釈で自己の罪から目を逸らし、新興宗教
に同調し、一緒に訴えることになってしまった。

 私が今のポールに感ずる重要な欺瞞がここにもある。もはやポールはあの
「let it be」を作った同じポールではない。それなのに
未だにあれを歌っている不思議。歌うことはもちろん誰にも可能であり
作家本人にも可能なわけだが、あのような勝手な自然解釈でもって赦しを
得られると言うような団体に同調する安易さで、深みを湛えることができる
など、期待することはもう私にはないのである。
16Mother Mary:2014/06/29(日) 23:29:30.68 ID:???0
 ビートルズが結成し活躍した1960年代と2014年で時代は変わった。当時、
世界中でstudent powerが吹き荒れていた。中国では文化大革命と呼ばれる
資本主義断罪の運動が行われ、日本では国立大学で教授と学生と学問以外で
は対等と要求する運動、授業料値上げ反対運動等が行われた。また、左翼学生
も混じり、反戦平和運動や革命運動も盛り上がった。アメリカではヒッピー
の奨め、love&peace運動、フランスでも労働者や学生中心にセネスト、
大学での教授の特権廃止を求める運動が盛り上がり都市は一時的に機能
停止に陥った。色んな運動が盛り上がって行った。

 ビートルズもまたそれらにたいして実は態度表明を行っていた。シングル
「Revolution」はその態度表明の1つである。そこでは暴力に訴える改革へ
の揺れが見られる。公式シングルと公式PVとでジョンの歌詞が異なっている。
また、1968年と思われるインタビューの中でジョンは「世界を動かしている
のはパラノイアだ。僕は前からそのことに気付いていた」と表明していた。
また、1970年の長いインタビューでは身障者がコンサート最前列にいたこと
、たえず慈善家の役割を求められたことについて「うんざりしていた」と
述べたり、1980年の長いインタビューでも寄付でのおカネの行方について
疑問を出したり、社会改革について、率直な感想を表明してきた。そして
、それはジョンが犯罪に巻き込まれ死去する1980年までは、少なくとも私
などからみて、大きなブレのない率直な視線として映るものだった。1970
年代前半には北アイルランドでのカトリックへの差別とデモ隊への射撃に
よる殺害事件をめぐってジョンとポールが異なる曲を発表する、などの動きも
起こった。
17Mother Mary:2014/06/29(日) 23:37:35.67 ID:???0
 1960-1070年代に比べて、現在の世界はさらに混迷の度合いを深めている
と言える。何が正しいのか、一見玉虫色になったようにも見える。しかし、で
あるからこそ、忌憚のない率直な視線が必要とも言える。真理の名を騙った
欺瞞とそうでない言葉との線引きが、やはり必要であり、事態にたいする
率直・明快な視線が必要なのである。元ビートルズによる新興宗教への
加担とその思想の欺瞞は指摘すること自体、憚られるところがある。かつて
の名曲の作者が、かような欺瞞に加担していくようになったと指摘すること
自体、時代の変化と当のメンバーの劣化を指摘することと同じであり、
寂しい言論にならざるを得ない。況や、そのメンバーがかつての名作を今も
ライブで歌っているような事態があればなおさら、当のコンサートに冷や水
を浴びせるのと同じであり、憚られるところはある。しかし。かつてのジョン
の率直な視線にならって、言うべきことは言った方が良い。実は感じている
ことがあるなら発言した方が良いと私は考えるのである。
18Mother Mary:2014/07/01(火) 00:49:40.40 ID:???0
 最近、ジョン・レノンの1970年と1980年の長いインタビューを私は読み
返す機会があった。そこに欺瞞や思考の劣化を認めることはなかったし、
ジョンという人の感性や思索の鋭利さに感じいることが多かった。
 何よりこのスレッドに関連する作品でいえば、「John Lennon/Plastic Ono
Band ジョンの魂」という作品がある。そこでジョンはイエスから仏陀、ディ
ラン、ビートルズ、ポール・マッカートニーにまで至るあらゆる信仰にたい
し否を突き付け、不信を表明し、もう騙されない、俺や君を気持ちのいい薬
に浸らせ、愚かにさせることなど許さない、と断言している。日々を生き抜く
ことこそが真理であり、信仰は迷蒙である、と断定し断罪している。

 ビートルズ解散後第1作であるこのアルバムとポールの同じくビートルズ
後第1作と比べると、いかにポールがジョンという核を失い、ただの
安いpopに収斂していったかが見えてくる。そしてポールはそのまま、pop
song writerの道をまい進していくことになった。ビートルズ時代の異常な
深さと広がりはもうなく、優秀な職業作家と言えるだけの存在になった。
そこにポールは収斂した。

 たいしてジョンは存命中だった1970年代、ポールというメロディ・メーカー
であり器用なミュージシャンを失いながら、小粒になったビートルズとして
創作と思索、感性に忠実な活動を送った。ジョンは決してビートルズ後の
ソロ作品がビートルズに劣るとは思っていなかった。また、考え方も自由
に表明するようになっていった。1976からはヨーコの出産に合わせて家事
に専念し、自分を「主夫」と呼び、ビジネスはヨーコに任せるようになった
。それを1980年の新作発表まで続けた。どこまでも根底的で嘘のつけない
人間だった。

 ジョンは一時期健康のために菜食主義だったが、1980年にはヨーコととも
に、エネルギーを付けるためにジャンクフードも食べ、魚も食べるように
なっていた。新興宗教となったベジタリアンではなかった。もしも今、
ジョンがまだ生きていたら、ポールの支持し加盟する団体について、新しい
宗教であり、偽りの自然解釈によって人間の罪から目を逸らす偽善であるこ
とを言明していただろう。
19ホワイトアルバムさん:2014/07/03(木) 23:37:35.63 ID:???0
19
20ホワイトアルバムさん:2014/07/03(木) 23:39:03.22 ID:???0
20
21Mother Mary:2014/09/21(日) 12:05:25.27 ID:kk/3Qah/0
http://www.barks.jp/news/?id=1000107945

 今度は温室効果ガスを減らすための食肉しない曜日の運動だそうだ。ただ
ポールの食肉反対運動は上記の点だけではないはずであり、>>1にあるように
PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)会員であるし、またポールは
シー・シェパード(海洋生物保護のために実力行使に訴える団体)への
支持もしている。

 人間が植物も哺乳類も魚類も食べる雑食であることと、痛みを思い遣る
気遣いをもつというのは矛盾する面でもあり、同時に食料について制限を
するというのは食料について心配する必要のない経済的物質的豊かさの
ある人たちだけの特権だろう。
 貧乏やモノのなさでで買えるものや入手できるものを食べるしかない、
人たちもいるはずだ。また、たとえ菜食が可能だとしても肉を食べたい
という人たちだっているはずだ。人間がもともと雑食である以上、肉を
食べたいのは自然な欲求である。そういう人間のさまざまな与えられた
条件での生活様式にたいし、ポールの発言が浸透性をもつとは思えない。

 人間がどういうことをして今まで生きながられてきたか、知った上で
動物の死に依拠しない制限された生活をしようというならそれはそれで
ありうるし自由な選択である。しかし人間という存在様式が容易には変更
されないだろうという点もたしかであり、屠殺による皮製品や食肉業もまた
ながられて行く。

 食品や衣類や、すべてをあらゆる生物を犠牲にしないですむならその方が
いい。しかし今の時点では不可能であり、ポールのようなベジタリアンは
動物は食べないが植物なら食べる。生物を殺して食べていることでは
変わらない偽善である。ベジタリアンが体の健康を思ってそうするなら自由
であるし、倫理的な理由を不可するならその時点で偽善が始まる。
22Mother Mary:2014/09/21(日) 14:53:22.67 ID:???0
 前レス
>倫理的な理由を不可するならその時点で偽善が始まる。



倫理的な理由を付加するならその時点で偽善が始まる。

 の誤り。
23ホワイトアルバムさん:2014/10/06(月) 05:17:03.93 ID:V9lpzY6x0
多くの環境保護団体は個々の命より生態系など環境全体を守ろうとする全体主義
24ホワイトアルバムさん:2015/01/31(土) 03:33:42.66 ID:WFo7FZ9K0
こいつの環境保護活動とか反獣肉食とか屠畜場のガラス壁とか
こいつの書く薄っぺらい詩と同じだよな
てめえはことごとく伴侶に恵まれない薬中のクズのくせによww
25ホワイトアルバムさん:2015/01/31(土) 03:38:18.78 ID:???0
ところでMother Maryはポールに手紙出したの?
もうツアーは止めろっていう
26Mother Mary:2015/02/01(日) 03:36:55.02 ID:???0
 「もうツアーは止めろ」という書き方ではなく、「貴方の声は限界を超えた
。ライブ・ステージは引退 retire するべきです。」「この問題はデリケート
な問題です。しかし私はビートルズを愛する人間としてあえて書かせていただ
きます」という書き方ですね。そう書いた手紙をポールのアドレスに送ってい
ます。
 私なりに誠意を尽くした言い方でライブの引退を忠告したということです。

 ただ、ポールという人への見方には以前も書いたことがありますが、
世界的に錯覚があるのです。ビートルズという集団におけるジョンの及ぼ
した影響が何だったのか。それを最も如実に蒙ったのがポールだった。よって
ビートルズが解散することの影響を最も露骨に見せたのもポールだった。
ポールの最初に出たソロ・アルバムを聴けばそこにある劣化に皆驚くわけで
、ビートルズとポール個人がいかに違うか、あのソロと、それ以後のポール
作品を聴けば良く分かる。たいしてビートルズからジョンのソロへの過程に
劣化はなく、延長線にあるということは明らかだと思える。この点だけから
も、ビートルズにおける最重要人物がジョンであることは明らかである。
単なるpopという以上の深みや奥行き、重み、芸術性またoldiesの愛着と継承、
というビートルズの作風を継承しているのはジョンである。

 ポールのコンサートが良いとは到底思えないし、ビートルズとポールを
同一視しているような評論家やメディアが全部おかしいというのが今の私
の見方ですね。声の劣化の件以上にここが異和感がある。ちなみにこの件
は昨年渋谷陽一氏に手紙で送っています。
27ホワイトアルバムさん
野菜にだって意識はある
よってベジタリアンは植物虐待です
野菜なら食べていいというのは、人間のエゴ以外のなにものでもない
他の種なら食べていいんですか? 人間なら人間を食べるべきでは?