【bayfm78】ビートルズから始まる 6【小林克也】
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ホワイトアルバムさん :
2011/01/24(月) 12:56:43 ID:dBq2YxVX0
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ホワイトアルバムさん :2011/01/28(金) 00:22:25 ID:wmR2l16oO
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■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年1月16日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(1月16日) ・1980年 (31年前) きょうは、本当に大変な日。ポール・マッカートニー一同がコンサートのため、成田空港に到着しました。コンサートをやってくれる。 日本人は待っています。で、羽田の税関に入って、荷物検査。で、税関の役員さんが、ポールのスーツケースを開けて、なんともない。 奥さんのリンダ・マッカートニー、パッと開けて、開けたらすぐあったそうです。いけないものが。で、これはリンダのスーツケース にあったわけですけど、ポールが「いやいや、これは俺のものだ」ということで、ポールは身代わり逮捕されたというのが事実のよう ですけど、ポールが成田で逮捕されたために、コンサートは幻となって、ポールは要注意人物として登録されて、1990年まで来日公演 は実現しなかった。ポールは拘置所に入るわけですが、いたって明るく振舞っていて、さすがポールです。同室の皆さんも、これは ポールだということで仲良くして、あのビートルズだから歌を贈ろうということで、何か話としては演歌を歌った、ポールに向かって 王将を歌ったとか、♪吹けば飛ぶような〜を歌ったとか話が広がったりしてますが、ポールはベビーフェースを♪Babyface〜を歌った イエスタデーをお礼に歌ったという、どれが本当かわからなくなるよね。で、10日間拘置されて釈放されて、家族とアムステルダムに 向かったという。で、このポールの逮捕というのは一説には、険悪な関係にあったヨーコが、日本に結構影響力があるんで、ヨーコが チクッたとか、逮捕されたというのを聞いて、ジョン・レノンがケタケタ笑ったとか、まあポールもやられたかという感じで笑ったん だと思いますけど。で、ポールの偉いところは、そんな事件があっても、この年ソロ・アルバム McCartney II を発表します。その中
には Frozen Japという不思議な曲もあるんですけど、全米No.1に輝いた曲もあるので。ちょっとその頃の Yellow Magicとかテクノ とかを思い出すような曲でもあります。 〜 Paul McCartney / Coming Up □トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1963年初頭 ── まだビートルズは、イギリス国内でもブレイク前の駆け出しグループだった。そんな中、イギリスの演芸の興行や、 娯楽産業向けの業界誌 The Worlds Fair に、その年のヒットチャートの行方を占う、そんな記事が掲載された。“1963年リバプールから 優れたレコーディング・アーチストが続出し、型にはまったアメリカのグループをしのいでいくに違いない。これらのグループは、十分 ポップなパワーを含め、手作り風ではあるが、しっかりした形になったスタイルがある。この秋あたりから、イギリス国内でのトレンド が生まれてきそうな、そんな兆候が感じられる。その先陣を切るのが、北西部で大人気のザ・ビートルズ。パーラフォンから発売された デビューシングル Love Me Do は、昨年秋にチャートを賑わせ、セカンドシングルの Please〜は、さらに大きなことを起こしそうな気配 を感じさせる。ビートルズの背後には、若き敏腕マネージャーブライアン・エプスタインが控えている。エプスタインは、リバプール 最大のレコード販売チェーンNEMSの社長であり、リバプールを中心とするマージーサイドでも傑出した多くのタレントを抱えるNEMS エンタープライズの社長も兼任している、才能溢れ他人物。エプスタインはビートルズの成功により、有力なプロモーター、ラリー・ パーンズと同等の評価を獲得し、ビートルズに続いて二組のバンドの契約のレコーディング契約を結んだばかり。その内の一つ、ビッグ3 は、来月デッカ・デコードで、そしてジェリー&ペイスメイカーズは、今週中にEMIスタジオで、それぞれレコーディングする予定であ る。さらに、あらたにNEMSが契約したタレントに、ビリー・クレイマーという超ハンサムな歌手もいる。1963年のチャートは、エプス タイン率いる、若きパワフルな数々のボーカルグループによって独占されたとしても、どれは当然かも知れない。”一見、ビートルズと
NEMSに好意的に書かれた記事であるが、こういった記事の内容は、この年1963年には実現してしまうという、見事な予測であった。 〜 Gerry and The Pacemakers / How Do You Do it 〜 Billy J.Kramer & Datotas / Do You Want to Know a Secret ・先ほど紹介した、1963年のイギリスチャートを占う記事。ビートルズと彼らにまつわるアーチストの活躍を大胆に予測し、見事的中させ たものであるが、これを書いたのはなんと、後にビートルズの広報宣伝マンとして世界中を飛び回る男、トニー・バーロウであったという から驚きである。バーロウは、こう話している。「ぼくが、雑誌の1月号にあの記事を書いたのは、前の年の12月で、まだNEMSに入社 することが決まっていない時期だった。もちろん、ブライアン・エプスタインは顔見知りではあったけど、利害関係なんてない。つまり 後に自分のボスになる人物の御機嫌伺いのための記事なんて、書く必要なかった。100%、純粋な予測だった。ビートルズはともかく、 ビリー・J・クレイマーなんて、会ったこともなかったし。でも、ブライアンがすごい!とプッシュしてくるので、彼の宣伝文句どおり 超ハンサムなという形容詞を使わせてもらった。結果ビートルズは、1963年12月までに5枚のシングルをイギリスのチャートに送り込み その内4枚がNo.1。ジェリー&ペイスメイカーズも、デビューから3枚連続でシングルが1位になり、ビリー・J・クレイマーも、3枚の シングルがトップ5入り。あまりに出来すぎている。これは、広報が書いた誇大宣伝だろうと思われても仕方がないくらいの大的中だった んだ。もちろんぼくは、その後ブライアンに引きぬかれてNEMSに入ったわけだから、うさんくさがって勘ぐってくる連中も、たくさんい たよ。でも、そんなの関係ない。どう思われても、ちっとも気にしてなんかない。それを広報関係者のそばらしい洞察力とみなすか、ま たはありがちな大げさな話とみるか、どっちだっていい。とにかく、ぼくの書いたことは、正しかったんだから。それに、これだけは付 け加えておきたいんだけど、もしぼくのこの記事がなかったとしても、ビートルズは自分たちだけの力で、トップアーチストになってい たと思うよ。それだけは、間違いないね。
〜 The Beatles / She Loves You ・ビートルズの1963年は、ロンドンのマスコミが集まるフリート・ストリートの一流記者からの賞賛の言葉で幕を閉じた。12月27日、 タイムズ紙でウイリアム・マンという記者が“1963年に最も活躍した作曲家は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーである。 楽曲はどれも想像力にあふれ、革新的であり、マージーサイドで発展しつつあるスタイルを代表するものだ。それまで、まったく音楽と みなさなかった人たちに、新しく魅力的な風を送り込んだ。”と書いている。まさに、絶賛であった。さらに二日後のサンデー・タイム ズでは、リチャード・バグルズという記者が、レノン・マッカートニーをベートーベン以来、最大の音楽家であると称した。これには 我々も驚いた。特にジョンは、こう語っている。「へえ、ベートーベン以来だってさ。ベートーベンは、棺桶の中でひっくり返って、 驚いているんじゃないか。」そして、評論家だけではなく、ファンの反応が最もビートルズを評価していた。イギリスで最も人気の高い 音楽雑誌NME ── ニュー・ミュージカル・エキスプレスの毎年恒例の人気投票で、ビートルズはインターナショナル部門でNo.1に輝い た。少なくともイギリス国内においては、ブライアン・エプスタインの可愛い四人の男の子たちは、いまやエルビス・プレスリーよりも 大きな存在になっていたのである。年の瀬も差し迫ったある日の取材で、ジョン・レノンはある記者からこう聞かれた。「ジョン、今年 の成功の秘密は、どこにあったのでしょうか。」ジョンは、少し考えながら、こう答えた。「ああ、それなら、ぼくらには優秀な宣伝マ ンがついてるからね。」この一言は、担当者のトニー・バーロウにとって、1963年最大のクリスマス・プレゼントとなったのである。 〜 The Beatles / You Really Got a Hold on Me 〜 The Beatles / Ob-La-Di, Ob-La-Da
□リクエスト ・ビートルズの曲で、年末年始にちなんだ曲はありますか。年末年始の逸話などはありますか。(八千代市/男性/43歳) 〜 The Beatles / Like Dreamers Do (小林)逸話としては、まあ有名な話は、初期は1月1日も働いていたということですよね。売れた後は、クリスマス・ショーというのを やっているんですよ。だいたい、クリスマス前から1週間ぐらい。だから、新年が明けても、当分やっていたんですよ。そして、一番 有名なエピソードは、1962年の1月1日デッカ・レコードで、オーディションを録るわけです。一日かけて録音して、後にデッカ・テ ープとして有名になるわけですが、ビートルズはリバプールの方からロンドンまでやってきて、安い宿で過ごして、途中でいけないもの をもらったとかもらってないとか話もあるんですけど、録音して、それをお偉方が聞いて、残念だけどこのグループ採用しませんとクビ になっちゃったわけです。 ・先日、新聞の記事にメリー・ホプキンの悲しき天使を扱ったものがあり、目を見張りました。それによると、メリー・ホプキンは、最初 ポール・マッカートニーを知らなかったという、興味をそそる話題がありました。(千葉市花見川区/男性) 〜 Mary Hopkin / Thoses were The Days (小林)ビートルズは知っていたけど、ポールとかメンバーの名前までは知らなかったということですよね。
・先日の大晦日は、久しぶりに紅白を一人で見ました。いつもは田舎に帰って、親戚まわりが定番。しかし最近は、親戚のちびっ子たちが 次々に中学生高校生と進学し、要求されるお年玉の金額にプレッシャーが出てきました。迷ってるうちに年が明け、仕事始めです。昔は 500円で喜んでくれたのに。紅白は私にとって、桑田さん目当てでした。ところどころビートルズのような雰囲気のある、この曲をお願 いします。(習志野市/男性) 〜 桑田佳祐 / 本当は怖い愛とロマンス ・先日、東京ドイツ村のイルミネーションを見に行きました。周りは皆カップルばかりで、彼女のいないぼくは少し肩身が狭かったです (印西市/男性) 〜 The Rolling Stones / It's only Rock'n Roll (but I like it) (小林)話の方は1963年、ビートルズを中心に売れるだろうという話をしましたけど、どうなんでしょうね。本当に、ビートルズが売れるとか ってのは、この頃分からなかったんですよ。世界に打って出るということは、分からなかったんです。お相手は、小林克也でした。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年1月23日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(1月23日) ・1969年 (32年前) アルバム Let it Be の録音。 〜 The Beatles / Get Back
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・「このグロリア・ステイバーズというのは、誰なのかな?」ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインは、机越しにメモを 見て言った。そのメモには、グロリアという女性の名前とニューヨークの電話番号が書いてあった。ブライアンの問いかけに、ビートル ズの広報宣伝マン、トニー・バーロウは答えた。「ニューヨークに行ったら、接待でディナーの場を設けて欲しいんだ。グロリアは、ア メリカのティーン雑誌界で、ものすごい有力者なんだよ。」この時期1963年12月、ビートルズはイギリス皇室の前で演奏するロイヤル コマンド・バラエティ・パフォーマンスを終えたばかりであったが、ブライアンにはすぐにニューヨークに出張する予定が入っていた。 バーロウは、この機会にブライアンにマスコミ関係者にコンタクトをとってもらおうと、計画を練っていたのである。1963年の年末に 向けて、アメリカ制覇を現実のものにすべく動いていた頃、バーロウは雑誌編集者のグロリアに先陣を切って派手な記事を書いてもらい ビートルズにとっての秘密兵器になってくればと考えていた。グロリアは、アメリカの若いポップ音楽ファン向けの雑誌の中でも、最も 影響力の大きい「シックスティーン」の編集長だった。彼女が、他の編集者と決定的に違っていたのは、お気に入りのアーチストには、 編集長自ら直接インタビューし、記事もすべて自分で書いていたという点。彼女が推薦するアーチストとは、まるで姉と弟のような信頼 関係を築くのが得意な、仕事のできる女性だったのである。ここで問題になってくるのが、ブライアンがホモセクシャルであるというこ と。ブライアンは、女性に恋愛感情をまったく持たないということばかりでなく、女性とまともなコミニュケーションを取ることさえ、 苦手としていた。しかし、ビートルズがアメリカを制覇するには、このグロリア・ステイバーズという優秀な女性は欠かせない。ここは ブライアンに賭けるしかないバーロウであった。 〜 The Beatles / Revolution No.1 〜 The Beatles / I Need You
・1963年12月、ブライアン・エプスタインのニューヨーク出張に際し、広報担当のトニー・バーロウが、ぜひ会ってくるようにとお願い した女性がいた。彼女の名は、グロリア・ステイバーズ。アメリカで大きな人気を誇る、10代向けの雑誌「シックスティーン」の編集長 である。グロリアは、スラリとして魅力的な人物で、優雅にして大胆。そして、洗練された佇まいを兼ね備えていた。バーロウは、イギ リスから連絡を取り合うにつれて、彼女が当時の典型的なニューヨークのビジネスウーマンであることが分かってきた。セクシーで冷静 優雅な暮らしをして、勤勉で自分のやり方を貫くタイプ。能力不足と軽率さには容赦がなく、文法やスペルのミスをしたり、事実関係の チェックを怠ったりする編集部員に、F・U・C・Kの四文字言葉を使って怒鳴り飛ばすなんていうことは、しょっちゅうであった。周り の人間が、グロリアを形容する言葉は、ただ一つ「手ごわい」であったが、バーロウは時間が経つにつれ、彼女が"黄金の心を持つ人物" つまり"人格者"であることを知るようになった。しかし彼女は、いったん自分が脅かされたり、裏切られたと感じると、その心は瞬時に 鋼鉄に変貌した。言い換えると、グロリアという女性は、エンターテイメント界の自分なりのアイドルやヒーロー・ヒロインを追いかけ るスーパーグルービーのような人間で、敵も多かった。彼女は、自分にとってのスーパースターとは、とても親密な関係になるのである が、その人気に陰りが見え始めると、掌を返したかのように付き合いをやめてしまう、そんな一面もあった。そのグロリアが編集長を務 めるシックスティーンの編集部は、パークアベニュー745番地にあり、ニューヨークを訪れるスターの多くが定宿にするプラザホテルと は、目と鼻の先。ノースカロライナから、単身ニューヨークにやってきたグロリアが、エンターテイメントの都である、この大都会で雑 誌の編集長となり、その人気をトップの座に押し上げるまでに、相当な努力と苦労があったことは、本人にしか分からないことであった。 〜 The Beatles / Drive My Car
・1963年、年の瀬も押し迫った12月。ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインには、あるミッションが言い渡された。そ れは、出張先のニューヨークで、有力な雑誌の編集長であるグロリア・ステイバーズとディナーを共にすること。もちろんこれは、ビジ ネス・ミーティング=接待である。この時アメリカでは、No.1の人気を誇るティーン向け雑誌「シックスティーン」の編集長を務めてい たグロリアは、ノースカロライナ生まれの超キャリアウーマン。元々高額のギャラでモデルとして活躍していたが、何の未練もなく、そ れを辞め、定期講読係としてシックスティーンに入社し、1959年には編集長の座にのし上がった。彼女は、新人や上昇気流に乗ったス ターを発掘し、そのキャリアを育てる才能に長けていたが、大抵の場合それは、魅力的な10代の青年であった。目をつけたタレントには 絶対に有名になれると予言し、自らのシックスティーンで、すぐに写真満載の特集記事を組み、価値あるPRを継続的にもたらすことで、 確実にスターに育て上げるという手を使った。その際、グロリアが発掘するタレントは、才能と野心それにルックスを兼ね備えているこ とが、必須条件であった。対象がバンドであろうと、歌手やテレビタレントであろうと、これはイケるといったん判断すると、ページ数 は惜しげもなく費やされ、お金では到底買えないような露出を提供し、見事に七不思議を成し遂げてみせるのであった。ビートルズの広 報マン、トニー・バーロウがリサーチしただけでも、このシックスティーンという雑誌には、胸をはだけたセクシーな男性タレントのグ ラビアが毎号掲載されていて、その顔ぶれもエルビス・プレスリーやリッキー・ネルソンといった有名スターから、ポール・アンカ、ボ ビー・ヴィーといった、そうそうたるものであった。その結果、グロリアのシックスティーン・マガジンは、この時代で100万部を越え る超人気雑誌となっていたのである。このグロリア・ステイバーズ女史が、ビートルズを気にいってくれるかどうか、それはマネージャ ーのブライアン・エプスタイン、そして、広報マン、トニー・バーロウの腕の見せ所となるのである。
〜 The Beatles / This Boy 〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever □リクエスト ・ぼくは、高校を卒業後渡米し、デザイナーを志し、ニューヨークの会社に入りましたがバレエに出会い、その後ダンサーとしてスタート し、ニューヨークに10数年住んでおりました。昨年帰国し、東京に部屋を借りまして、年末は本当に何十年かぶりの紅白歌合戦を観戦し ました。すっかり外国人目線で見ている中、特に興味を持ったのがPerfumeです。これこそ、日本が世界に誇れる音楽文化ではないでし ょうか。そこでリクエストは、紅白で歌っていたこの曲をお願いします。(文京区/男性) 〜 Perfume / ねえ (小林)こんなものは、外国にはないですからねえ。 ・中学の頃、テレビで Let it Beを演奏するビートルズを見て、強烈な衝撃を受けたのを覚えています。レコード・ジャケットでしか、目に 出来なかったビートルズ。日曜の夜の番組の、ステレオのテレビCMでの話ですが、あの頃は貴重なワンシーンだったと思います。ちなみ に番組とは、今でも続く国民的マンガ番組のことです。(千葉/匿名希望) 〜 The Beatles / You Know My Name (Look Up The Number) (Anthology 2)
・私の一番好きなアーチストは、もちろんビートルズです。そして、次に好きなのは、レィディオ・ヘッドです。対極の音楽であるような、 共通項が多そうな、自分ではよく分からないんですが、克也さんどう思われますか。日曜の夜にふさわしくないかもしれませんが、よ ろしくお願いします。(茨城/匿名希望) 〜 Radiohead / Kid A (小林)そうですねえ。ちょっと違いますが、同じところからきてるような気がします。いや、レィディオ・ヘッドは、もし本人が聞いて いたら喜ぶと思いますよ。ビートルズの番組で、俺たちをかけてくれたってね。 (小林)きょうのリクエストは、面白かったねえ。ビートルズが持っている、You Know〜の世界ね。それから、レィディオ・ヘッドという、今の ロックシーンでは、一番…なんていうんですが、ビートルズっぽいような、先を行っているグループ。そして、日本のPerfumeね(笑)。み(笑)ん な、共通するものがあったね。ぶっ飛んでね。だけどなんか、絵がすごく見えてきて、このリクエストだけど、ほんとうに楽しかったです。 かたや、ビートルズの話の方は、63年から64年に入ってくると、アメリカから世界に広がっていって、ビートルズに関する本だとか雑誌だとか 写真集だとかがバーっとでる世界になっていくわけです。また来週お楽しみに。お相手は、小林克也でした。
キロックトニーさん乙!
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ホワイトアルバムさん :2011/01/30(日) 01:14:53 ID:b3O/M1uo0
アメリカ上陸 期待上げ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年1月30日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(1月30日) ・1969年 (42年前) 屋上で演奏した、あの有名な。屋上の演奏シーンがあったのが、きょうであります。ポール・マッカートニーは、この頃ビートルズは メンバーバラバラなんで、ライブをやることによって、昔みたいな団結が深まるんじゃないかという風に考えました。バンドとしても ライブをやるのが本当のバンドなんだということで、ポールは他の三人に呼びかけます。ライブをやろう、ライブをやろう。しかし、 その提案はあえなく却下されて、妥協案としてアップルスタジオの屋上でライブをやろう、ゲリラライブをやろうていうことで、撮影 も行われるわけですね。これがまあ、有名な絵となって、皆さんも見たことあると思いますが。4日前の1月26日、ポールが言い出した この企画は、本当にメンバー反対もしないで、結局はビートルズ最後のライブパフォーマンスになるわけであります。で、これは映画 の撮影なんで、Get Backなんかはリハーサルを兼ねて三回も演奏してるんだね。映画なんかでは、編集されたものが使われている。ア ルバム Let it Beは、プロデューサーのフィル・スペクターの巧みな編集で、屋上ライブからのジョンがしゃべってるMCなんかを付け 加えられて、ライブっぽくなってるんだけど、実際は Let it Beの中でライブとして採用したのは、I've Got Feeling、そして Dig a Pony この2曲だけです。他はちゃんと演奏しています。さすが、フィル・スペクターの魔術というところなんですが、そうなんだよね。この アルバムには、あの屋上でのライブは2曲しか使ってないということで、その内の一つです! 〜 The Beatles / Dig a Pony
お昼時だったということで、OLだのサラリーマンたちが、何事だ!って上を見上げる映像がありましたけど、その屋上で演奏されたヤ ツが Let it Beでは2曲入っていました。 □トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・「ニューヨークに行ったら、接待でディナーの席を設けて欲しいんだ。グロリアは、アメリカのティーン向け雑誌界で、ものすごい有力 者なんだよ。」ビートルズの広報マン、トニー・バーロウがグロリアと呼ぶこの女性の名前は、グロリア・ステイバーズ。アメリカで百 万部以上の発行部数を誇る十代向け雑誌シックスティーンの編集長である。バーロウは、マネージャーのブライアン・エプスタインに、 このグロリアへのプロモーションを考えていた。この時期1963年12月、ビートルズは人気テレビ番組Sunday Night at London Paradium の生出演に続き、イギリス皇室の前で演奏するロイヤル・コマンド・バラエティ・パフォーマンスを終えたばかりであったが、ブライア ンにはすぐニューヨークに出張する予定が入っていた。バーロウはこの機会に、ブライアンにニューヨークのマスコミ関係者にコンタク トをとってもらおうと計画を練っていたのである。もちろん、このグロリアへのコンタクトは、最初からすんなり行ったわけではない。 バーロウが、ロンドンから電話をかけた時、彼女の横柄なアシスタントに冷たくあしらわれた経験もある。このアシスタントは、電話で こういう受け答えをしたのだ。「広報の方でも、ご紹介のない方の電話は、お取次ぎ出来ないことになっています。編集部の者の電話番 号でもお教えしますが。」もちろん、バーロウは食い下がった。引き下がるわけにはいかない。「ステイバーズさんに、ロンドンからの 国際電話で、ビートルズの広報担当だと伝えていただけませんか。」すると、数秒の沈黙の後、ステイバーズ女史本人の声が、受話器を 通して聞こえてきた。「ロンドン・パラディアムでのショーのご成功、おめでとうございます。」これは、予想を超えた最初の第一声。 バーロウにとっては、まさに好感触であった。 〜 The Beatles / From Me to You 〜 The Beatles / Baby It's You
・「ロンドン・パラディアムでのショーのご成功、おめでとうございます。」これは、ニューヨークの音楽会で、手ごわい女として知られ る、雑誌シックスティーンの編集長グロリア・ステイバーズの電話での第一声である。ロンドン側は、ビートルズの広報担当トニー・バ ーロウ。これは、大好評だったATVのテレビの番組、Sunday Night at London Paradiumでのパフォーマンスに続いて、イギリス中の 新聞が、ビートルズにまつわる熱狂的な現象、つまりビートルマニアの誕生を報道した、わずか数日後のことであった。さすがは、手ご わい女、ステイバーズ女史。この情報を、いち早くキャッチしていたのだ。バーロウは、感心すると同時に、いたく感激した。グロリア ・ステイバーズという女性は、徹底したプロフェッショナルであり、アメリカ国内のみならず、世界中のポップシーンに注目していると いう、バーロウのカンと予測は、正しかったのである。グロリアは、電話越しの会話を続けた。「あなたのグループについては、随分良 い評判を聞いていますよ。」会話のとっかかりとしては、完璧だった。するとバーロウは、とっさにこう続けた。「では、その良い評判 をもっとお耳に入れたいんですが。」すると、グロリアは「あなたのイギリス英語、とっても素敵だけど、リバプールなまりとは、少し 違うみたいね。」と返した。バーロウは、続けた。「いや、実はこれは、リバプールなまりなんですよ。ぼくは、マージーサイド生まれ のマージーサイド育ちです。もちろん、ロンドンにきてから、そのなまりも少しは薄れているかもしれないんですけど。」こんな、たわ いもない会話の後、グロリアがビートルズのメンバー・楽曲・ライブなど、色々なことに興味を持っていることが分かった。電話は30分 以上も続き、最後にバーロウはグロリアに対し、ビートルズに関する宣伝材料をありったけ、航空便の速達で送ることを約束した。そし て、こう一言付け加えたのである。「あなたの雑誌シックスティーンへの独占情報もありますので、ビートルズをどうぞよろしく。」 〜 The Beatles / Baby's in Black 〜 The Beatles / Oh! Darling
・「あなたの雑誌シックスティーンへの独占情報もありますので、ビートルズをどうぞよろしく。」ビートルズの敏腕広報マン、トニー・ バーロウは、ニューヨークの女性雑誌編集長グロリア・ステイバーズとの国際電話のシメに、こう約束した。ただ、宣伝用のプレスキッ トを送りつけるだけでなく、メンバーの誰か、もしくはローディのニール・アスピノールかマル・エヴァンスが記名入りで書いた記事を 雑誌シックスティーンに独占的に提供することも出来ますよとも申し出たのである。以後バーロウとグロリアは、密に交流を取り合い、 ビートルズのアメリカ訪問についても、イギリスから常に最新情報を送ることも約束した。グロリアは、言った。「アメリカにいらした 時は、ぜひお会いしたいですね。」「ええ、それは光栄です。実は、ぼくじゃなくて残念なんですが、ウチのボスのブライアン・エプス タインが、新人のビリー・J ・クレイマーに同行して、近々ニューヨークに行くことになっているんですよ。泊まるのは、リージェンシ ーホテル。」「あ、リージェンシーホテルね。あそこなら、ウチのオフィスからも近いわ。」「それは、素晴らしい。」こうして、ブラ イアンとグロリアは、ビジネスの接待をかけてのディナーのテーブルを囲んだ。以来、ビートルズのアメリカ進出とまさにシンクロする ように、雑誌シックスティーンが相当なページ数をビートルズに割いてくれるようになった。これは、ブライアンの会社NEMSのみならず アメリカのキャピトルレコードにとっても、大きなバックアップとなったことは言うまでもない。こうして、グロリア・ステイバーズ率 いる雑誌シックスティーンと、ビートルズとのパートナーシップは、ビートルズが十代向けの戦略を一段落させ、ライブツアーをやめる 1966年8月まで続いた。その後、それまでのビートルズ的な役割を務めるグループは、モンキーズなどにとって代わり、ビートルズはま ったく、別次元へと進化を遂げていくのである。 〜 The Beatles / Tomorrow Never Knows 〜 The Beatles / Martha My Dear マーサというのは、ポール・マッカートニーが結婚しようとしていた女性ジェーン・アッシャーが飼っていた犬の名前です。
□リクエスト ・数年前、義母が療養生活となり、週末はいつも家族でお見舞い。車での帰路は、いつもカーラジオで番組を聞いています。おかげで、娘 は、ハンナ・モンタナのように、ビートルズのファンになってしまいました。一月初旬は、彼女の13回目の誕生日なので、父親からささ やかながらビートルズの曲をプレゼントします。昔、自分が高校一年の林間学校で、キャンプファイヤーを囲んで歌ったところ、君も? あなたもビートルズファンですか?とクラスメイトが声をかけてくるので、おかげで辛かったけど、楽しい仲間たちと高校生活を過ごせ た思い出の曲です。克也さん、これからもビートルズファンを作る素敵な番組をお届けください。(松戸市/男性←ラジオネームが書いて あるのに、本名読まれる) 〜 The Beatles / All My Loving (小林)はい。 ・ぼくは、ジョージ・マイケルが好きで、彼が自らのアルバムでチラッと一曲だけやる4ビートの曲が、とりわけ好きです。もう十年ぐらい 前になりますか、リンダ・マッカートニーの追悼コンサートで歌われたこの曲は、とてもライブとは思えない素晴らしい出来栄えでした。 (千葉市/匿名希望) 〜 George Micheal / The Long and Winding Road (小林)ライブは荒い物とか、なかなか集中できないというイメージがあって、ライブよりスタジオがいいと思いがちですけど、歌をうたう 方にとっては、ライブほどいいパフォーマンスが出来る環境はないんですよね。お客さんと一緒に作れるからね。
・ビートルズから始まる。を聞きながら、絵を描く時間が至福の時です。突然、話が変わりますが、きょう成人式に行ってきました。自分 の中で新たなスタートを切り、今とてもすがすがしい気持ちです。そしてこれからも、ビートルズに支えられながら、がんばっていきま す。私が、ビートルズの音楽に惚れ込んだきっかけとなったアニメ映画イエローサブマリンから、この曲をお願いします。(越谷市/女性) 〜 The Beatles / Nowhere Man (小林)どこかで聞いたことある名前と思ったけど、一文字違うね。 ・With〜のアルバムを友だちから誕生日にもらって11ヶ月になりますが、最近になって後ろに書いてある歌のタイトルを眺めていると、 どうもミニ・ドキュメンタリーが見れるということが分かって、走ってパソコンに向かって、急いで電源を着けてみました。三分間だけ ど、とても嬉しかったです。次の日も、向かいました。実際、特はしていないんだろうけど、なにか特した気分になりました。英語で 日本語字幕なしだったので、何言ってるか分からなったけど。最近になって初めて聞いて感動したこの曲をお願いします。(柏市/女性) 〜 The Beatles / Golden Slumber - Carry That Weight - The End (小林)ビートルズのお話の方は、もう世界で有名になるのは、あと一ヶ月!ぐらいのところをお話ししています。それから、リクエスト。きょう のリクエストみたいに、自分の音楽への関わりとか、そういうのをちょっと加えていただけたらと思います。お相手は、小林克也でした。
屋上ライブの収録が2曲だけだったとは・・・ そうだったのか でした。
何を今さら。
いえ、3曲だと思ってたもので...
>>29 さんが勘違いしてたのは、 Get Back ?
100超えたので揚げ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年2月6日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(2月6日) ・1970年 (41年前) イギリスでのシングル「Instant Karma」、もちろんジョン・レノン。発売になった日です。もう、ビートルズは、事実上解散状態で スタジオでは、スタッフが暗礁に乗り上げている Let it Beをどうしようと、四苦八苦しています。もう、ビートルズは置いていっちゃ ったようなものですからね。で、ジョン・レノン、思いつきの男は1月26日の朝、新曲を書いて、翌日ジョージのプロデュースで、ロ ンドンに着ていたフィル・スペクターを呼んで、新曲 Instant〜のレコーディングをやります。で、翌週2月6日金曜日には、イギリス でシングルとして発売。これはね、例を見ない速さなんですよ。ビートルズだから、出来たんですよ。工場を止めさせて、ビートルズ を先にプレスしちゃうんですね。アメリカでは、2月20日にこのシングルが発売になります。ジョージも、My Sweet Loadが大ヒット して、その後でジョンも頑張りました。チャートアクション的には、イギリスで5位。アメリカでは、3位。良かったんですが、ジョン は、大いに不安だったと伝えられています。そうでしょう、ジョージ・ハリソンの My〜が本当に大ヒットして、1位になった。なんで 俺のは!と思ったんでしょう。しかし、この曲はよく聞いてみると、本当に輝いています。サブ・タイトルが、We all shine onだ もんね。ジョン・レノン・ファンの中では、特に評価の高い曲です。 〜 John Lennon / Instant Karma! (We all shine on)
□エド・サリバン・ショー出演 ・キャピトル・レコードの本社はハリウッドにあり、イギリスのEMIの作品をアメリカで扱うにあたって、最優先権を所有していた。つまり EMI傘下であるパーラフォンから発売されたビートルズのレコードの販売権も含まれるということ。しかし、アメリカの音楽ファンは、イ ギリスのレコードへの関心はほとんどないという、一方的かつ偏見に満ちた理由で、キャピトルが発売を見送ったために、シングル Please 〜は、1963年2月にシカゴを拠点とするリズム&ブルーズとゴスペルの音楽専門のインディ・レーベル、ヴィー・ジェイ・レコードから 発売された。ヴィー・ジェイは、しつこいほどビートルズの綴りを間違い、Please〜ではあろうことか、レコード盤のレーベル面にまで BEATTLESと、Tを余分に表記してしまうといった始末であった。だが、続くシングルFrom〜が発売される5月には、やっとそのミスも 改善。9月には、今度はフィラデルフィアのスワン・レコードが、She Loves Youを発売した。翌年1964年1月、本家のキャピトルのア メリカ編集アルバム Meet The Beatles発売からわずか10日後に、ヴィー・ジェイは別の編集盤 Introducing Beatles をリリース。まさ に、混沌とした状態であった。時代は、ケネディ大統領暗殺事件直後ということもあり、ビートルズのように新しくイキイキとした音楽 は、アメリカの若者たちにとって、全米に広がっていた暗雲を吹き飛ばしてくれる、まさに大歓迎される存在だったのかもしれない。し かし、ケネディの暗殺とアメリカでのビートルマニアの爆発は、一部のマスコミによってでっち上げられたという説もある。つまりそれ は、アメリカでのビートルズ熱の爆発は、ビートルズのパワーそのものによって、起こるべくして起こったという見解なのだろう。そし てその爆発をさらに引き起こした直接的な原因、それはある国民的大人気TVショーにあったことは、ほぼ間違いないというのが定説であ る。 〜 The Beatles / Please Mr. Postman 〜 The Beatles / Day Tripper
・1964年2月のアメリカ合衆国における、ビートルズに関する熱狂的な現象 ── ビートルマニアの勃発は、あるモンスター番組への登場が きっかけとなった。その、ビートルズに飛躍的な人気の爆発の導火線となり、1964年2月の初めのアメリカ訪問でファン層を広げたのは 全国ネットで放送されていたTV番組、イギリスで言うと Sunday Night at London Paradiumクラスの国民的プログラムである、エド・ サリバン・ショーへの出演であった。その結果、アメリカの大手タレント事務所ゼネラル・アーチスト・コーポレーション(GAC)のロン ドンにおける代理人だったビック・ルイスから、カーネギー・ホールや、シェイ・スタジアムでのコンサートの興行を仕切った、シド・ バーンスタインまで、様々なイギリス・アメリカのエージェントたちが、日曜ゴールデン・タイムのエド・サリバン・ショーを目撃した。 そしてその全員が、ビートルズに最初に目をつけ、次の出演交渉をしたのが自分であると主張している。もちろん、真実は分からない。 しかし、ビートルズのパフォーマンス以上に、プロモーター連中に対し説得力があったのは、マネージャーであるブライアン・エプスタ インの堂々とした気品と洗練された説得力であった。こういう局面において、ビートルズの代理人としてのブライアンのスマートなルッ クスと、どこか貴族的な雰囲気は、アメリカ人相手の交渉にもってこいの武器であった。全身全霊を振り絞ったニューヨーク滞在中のブ ライアンの姿は、伝統的なイギリス人の魅力そのものであった。イギリスでの大成功について生き生きとした口調で語り、日を追うごと に熱くなっていく、ビートルズの記事のスクラップブックを携え、ブライアンはエド・サリバン・ショーへの出演を一度ならず二度、い やこの2月だけで3回の連続出演交渉を成功させたのである。その内、やはり盛り上がったのは、ビートルズの伝説の生出演であった。 〜 The Beatles / She Loves You 〜 The Beatles / She Said She Said
・ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインは、1964年2月初めてのアメリカ訪問の際、一ヶ月に三回のテレビ番組出演交渉 に成功した。それも、日曜のゴールデンタイムに全国ネットで全米にオンエアされていた超人気番組エド・サリバン・ショーでのパフォ ーマンス契約である。これは、文字通り大金星。もちろん、サリバン側のスタッフが交渉相手として、楽だったわけではない。実際ブラ イアンは、一回の出演につきメンバー一人当たり700ドル以下という、当時としても微々たるギャラに最初から同意しているのである。 これには、事務所であるNEMSのスタッフ全員、とりわけ広報担当であった、ブライアンが全面的に信頼を置いていたトニー・バーロウ は激怒した。「社長、なんでぼくに断りもなく、ビートルズをこんなに安売りしたんですか。」日頃は温厚なバーロウも、この時ばかり は、顔を真赤にして、すごい剣幕で怒った。これに対し、ブライアンは顔色ひとつ変えず、紅茶のカップを持ったまま、こう答えた。 「なんだよ、トニー。いつも、沈着冷静な君らしくないぞ。ぼくの考えは、こうだ。まず、エド・サリバン・ショーのような、高視聴率 を誇る番組に出演できる事自体、金に換えられないチャンスだ。いうなれば、こっちから金を払ってでも、出演させてもらいたいくらい なんだ。ぼくのこの考え方、どう思う? 間違ってる?」このブライアンの意見に、NEMSのスタッフ全員、反論のしようがなかった。ま さに正論、実に的を得た戦略だったのである。ブライアンは、さらに続けた。「ぼくが交渉しているのは、出演できるかどうかというこ とであって、金額じゃないんだ。アメリカではまだ無名なビートルズが、三回も連続して出演させてもらえること自体が、前代未聞なん だよ。」こうしたブライアン・エプスタインのマネージメントの手法に審判がくだされる日、つまり伝説のエド・サリバン・ショー出演 の日は、もうそこまで迫っていたのである。 〜 The Beatles / It Won't Be Long 〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
□リクエスト ・ぼくは、妻とモーターヘッドの中心人物レミー・キルミスターのドキュメンタリー映画を鑑賞して参りました。映画の中では、彼が影響 を受けたビートルズを敬愛している場面も映されており、とても楽しめるストーリーです。そんな彼が参加したコンピレーションアルバ ム「ブッチャリング・ザ・ビートルズ」の中からお願いします。(船橋市/男性) 〜 Lemmy Kilmister with John 5 and Eric Singer / Back in The U.S.S.R. ・中学生の頃、友人から赤盤を借りたのが、私とビートルズの出会いでした。それからブランクがあったのですが、日本のコピーバンド バッドボーイズのステージを見て、本格的にビートルズを好きになりました。カバーを聞いてから本家に入るのもありだと思うのですが 克也さん、どう思われますか。(宇都宮市/匿名希望) 〜 ザ・バッドボーイズ / I Saw her Standing There (小林)お勧めしないけど、ありだと思いますよ。どれくらい似てるか、聞いてみようというわけですね。
・この時間、家族に邪険にされながら、放送を聞いています。この前、送別会に参加したとき、先輩がこの曲を熱唱し、最後の部分をコン パニオンも巻き込み、ほぼ全員で大合唱しました。曲が終わっているのにも関わらず、しつこく歌っていたのは言うまでもありません。 (八千代市/男性) 〜 The Beatles / Hey Jude (小林)分かるね、(フェードアウトで)本当は終わってないものね。ゴスペルだもんね。 (小林)ビートルズが、とうとうエド・サリバン・ショーに出るところまで来ていますね。もうあと僅かで、ビートルズは、世界の頂点に立つわ けですが。それから、リクエストもお願いします。リクエストはやっぱりね、皆さんがビートルズにまつわる話だとか、音楽体験だとか、もう 本当に個人的な方が興味がわくので、よろしくお願いします。イシイのミートボールなどを詰め合わせにして、差し上げます。お相手は、小林 克也でした。
>>36 の後ろに、以下を入れるの忘れてました。
(小林)そっくりだと言っても、英語が違ったり、アラを探そうと思えば、いくらでもあります
ね。有名な話がありますよ。サミー・デイビス・ジュニアとディーン・マーティンの話なんですが、両方共シナトラ一家なんですよ。サ
ミー・デイビス・ジュニアは、フランク・シナトラの真似もするし、ディーン・マーティンの真似もするわけなんですよね。で、ちょっ
と酔っ払い風の歌のディーン・マーティンの歌を滅茶苦茶上手く物真似したら、ディーン・マーティンが「うまいな、お前。だけど、肌
の色だけは、真似できてないな」というブラック・ジョークがあるんですけど、そういう物なんですよね。しょうがないですよね。こう
いう話があります。アメリカには、労働組合 ── ミュージシャンのユニオンっていうんですかね、ミュージシャンには限りませんが、
エンターティナーの労働組合があるんですが、それが認めているエルビス・プレスリーの物まねアーチスト、これ何人もいるんですよ、
正確な数はわかりませんが、それでアメリカ中のクラブだとか、ラスベガスなんかでショーがあるじゃないですか、こういう風なのは
プレスリーにとっては、ありがたいことなのか、どうなのか。ビートルズの物まねバンドは、ビートルズにとって、ありがたい事なのか
どうなのか。ファンにとっては、ありがたい事なのかどうなのか。個人個人の考え方で、違うと思います。
シックスティーンの女性編集長とゲイのブライアンが会った話は出ませんでしたね。 先週前フリがあったので何かあったのかと思いましたがw
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年2月13日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(2月13日) ・1967年 (44年前) 重要な年です。アメリカで、シングルが発売になります。Strawberry Fields Forever 、 Penny Lane 、これは両A面という扱い。結果 的には、ポール・マッカートニーが作った Pennyが滅茶苦茶かかって、このシングルは大ヒットするわけですが、だけど考えてみてく ださいよ。贅沢だよね、A面が Pennyですよ。結果、大ヒットしたから贅沢だって言ってるわけですが、B面が Strawberry〜、こんな 価値あるシングルは、歴史上ないでしょう。これが、発売されたのが44年前のきょう。実は、1966年でビートルズは、コンサートを やめるというのは有名な話ですよね。66年に、日本に夏来るわけですが、その後でアメリカツアーなんかやって、もういっさいやめよ うってことで、やめます。そして1966年9月からレコーディングに専念するわけです。それで、アルバムを作り始めます。そのアルバ ムというのは翌年出て、世界的な金字塔になるSgt〜。そして、ポール・マッカートニーが滅茶苦茶やる気になってまして、みんなに ムチ打ってやるわけですよ。ジョンも負けてはいられないってわけで、Strawberry〜。ポールは、Penny〜。両方共、リバプールに関 係した、故郷の歌ですよね。ところが、イギリスとアメリカというのは、ビートルズの販売がまったく違うってのをご存知だと思いま すが、アメリカはイギリスの販売とは関係なしに、いまアメリカでシングル絶対いるんだから、シングルお願いします!って来るわけ なんですよ。で、しょうがないなあってことで、Sgt〜に入る予定だった曲をアメリカに渡しちゃうわけですね。で、これは、アメリ
カでいち早くシングルになったというわけであります。ポールの方は、12月29日から録ったそうです。で、1月末に完成してます。と ころが、Strawberry〜の方は11月にスタートして、これはもう何テイクも録って、最終的には二つのバージョンをジョージ・マーティ ンが編集して、名曲に仕上げたという話は、この番組で何回も取り上げてますが。さあ、それでは、アメリカでは、ポールの曲がヒッ トしたというわけですね。それを、改めてお聴きいただきましょう。Penny〜というと、ポールはジョンが高校に通っていた頃は、こ のPenny〜をバスでよく通っていたそうです。で、二階の運転手から見えないところで、煙草を吸っていたバス。それが通っていた、 Penny~の話です。 〜 The Beatles / Penny Lane いかがですか。これがA面で発売されて、アメリカでヒットした。この辺で、ポールとジョンの位置が逆転した感じですよね。後半、 ポールが追い上げて、エネルギッシュに動いていくビートルズになっていくわけであります。
□エド・サリバン・ショー出演 ・「社長、なんでぼくに断りもなく、ビートルズをこんなに安売りしたんですか。」ビートルズの所属事務所NEMSの広報担当マン、トニー ・バーロウは、自分のボスでビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインに、くってかかった。事の発端は、ビートルズ のアメリカ進出に際しての、テレビ番組の出演料。天下の全国ネット国民的番組であるエド・サリバン・ショーの出演料を、ブライアン はメンバー一人当たり700ドルにも満たない金額で請け負ってきたのである。これには、日頃温厚なバーロウも、顔を真赤にして物凄い 剣幕で怒りまくった。だが、これに対し、ブライアンは顔色ひとつ変えず、紅茶のカップを持ったまま答えた。「何だ、トニー。いつも 沈着冷静な君らしくないぞ。ぼくの考えは、こうだよ。まず、エド・サリバン・ショーのような高視聴率を誇る番組に出ること自体、金 に換えられないチャンスだ。いうなれば、こっちから金を払ってでも、出演させてもらいたいくらいなんだよ。ぼくのこの考え方、どう かな。間違ってる?」このブライアンの意見に、NEMSのスタッフ全員、反論のしようがなかった。これぞ、まさに正論。実に、的を得 た戦略だったのである。ブライアンは、さらに続けた。「ぼくが交渉しているのは、出演できるかということであって、金額じゃない。 アメリカでは、まだ無名なビートルズが三回も連続して出演させてもらえること自体が、前代未聞なんだよ。みんな、分かってもらえる よね。」この時のブライアンの頭は、冴え渡っていた。お金関係の問題はともかく、ビートルズを世界中で成功させるというポイントだ けに絞って考えると、ブライアンはまさに、その最大の功労者だったと言えるだろう。 〜 The Beatles / Twist and Shout 〜 The Beatles / Don't Bother me ハードロック第1号と言ってもいいTwist〜と、ジョージ・ハリソンのデビュー作と言ってもいい Don't〜。
・1964年2月、ビートルズが最初の全米進出に出た時期、ブライアン・エプスタインは、誰もが認める一流の敏腕マネージャーであった。 ある意味、ビートルズのメンバー以上のカリスマ性を持っていたと言っても、過言ではない。当時ロックの世界で最も大きな影響力を持 っていたモンスター番組エド・サリバン・ショーへの出演を成功させたその話術は、雑誌ニューヨーカーにも独占インタビューとして掲 載された。ブライアンは、こう語っている。「ビートルズは、イギリスの考え得る、ありとあらゆるエンターテインメント業界の記録を 塗り替えています。彼らは、イギリスでいま最も大きな崇拝と憧れの対象になっている青年と言ってもいいでしょう。彼らには、素晴ら しいスタイルと湧き上がるようなエネルギーがあり、それが人々の心にとてつもないパワーで直接訴えかけるんです。ビートは、ロック ンロールの影響を受けていますが、実際には彼らのオリジナルなものです。ビートルズは、間違いなく本物で、生命感やユーモアのセン スにあふれ、独特なキュートでハンサムなルックスも兼ね備えているんです。どうぞ、注目していてください。」確かに、ビートルズが 登場するまで、ロックやポップスのジャンルで、アメリカで成功したイギリス人アーチストは、皆無に等しかった。もちろん、ロックの 先進国であるアメリカでヒットレコードを出すことは、ミュージシャンであれば誰もが夢に見ることであったが、大半は夢のまま。文字 どおり、アメリカン・ドリームで終わってしまうのだ。その一方、逆方向の流れは活発であり、アメリカのアーチストがイギリスで成功 する例は多く、1950年代にイギリスのヒットチャートが創設されて以来、多くのアメリカ人アーチストがチャートを賑わせていて、イ ギリス中のバンドが、こぞってそのアメリカの曲をカバーした。もちろん、ビートルズも、その多分に漏れてはいない。ロックの輸出国 と輸入国の関係。この均衡が崩されるのも、時間の問題であった。 〜 The Beatles / Roll Over Beethoven いつもジョン・レノンが歌っていたんだけど、アルバムを出すときジョージの歌う曲がないってことで、歌わせた曲であります。
・「ビートは、ロックンロールの影響を受けていますが、実際は彼らのオリジナルなものです。ビートルズは、間違いなく本物で、生命感 やユーモアのセンスにあふれ、キュートでハンサムなルックスも兼ね備えています。どうぞ、注目していてください。」これは、1964年 2月に、ビートルズが最初のアメリカ進出前に、マネージャーのブライアン・エプスタインが雑誌ニューヨーカーのインタビューに応じた 際の発言である。自分がマネージメントするタレントを特別なものとして紹介する方法は卒がなく、まさに敏腕そのものと言える仕事で ある。この時代、まだイギリスはロックの輸入国であった。イギリス人アーチストによるアメリカ楽曲のカバーも盛んで、20位以内に同 じ楽曲の別バージョンが何曲もチャートインするということも珍しくはなかった。ただ、ビートルズの作曲チーム、レノン・マッカート ニーに代表されるような、自分で自分の作品を演奏する、いわゆるシンガー・ソングライターが台頭するようになると、アメリカ楽曲の カバーバージョンがヒットするというブームも下火になっていった。それよりも、ビートルズのアメリカでの成功によって、まさにせき を切ったように、次々とイギリスのアーチストが、アメリカのチャートの上位をにぎわすようになっていった。大勢のイギリスのアーチ ストがビートルズに続き、大きな潮流を作りだしたのである。こうした、イギリスのアーチストの中には、その出身地に関わらず「リバ プール出身」と宣伝されることも少なくなかった。そんな中で、アメリカでの人気を定着させたバンドは、ローリング・ストーンズ、マ ンフレッド・マン、デイブ・クラーク・ファイブ、ハーマンズ・ハーミッツなどがいた。もちろん、ブライアンの仕切るジェリー&ザ・ ペイスメイカーズ、ビリー・J・クレイマーもこれに続いた。これぞ、まさに世に言うブリティッシュ・インヴェイジョンだったのである。 〜 Manfred Mann / Do Wah Diddy 〜 Dave Clark Five / Because
□リクエスト ・ビートルズ好きの元オアシスのリアム・ギャラガーが、新バンドを結成したみたいです。オアシス好きの自分としては、新作が楽しみで す。リクエストは、何年か前に番組で聞いた、オアシスのこの曲、ライブです。(松戸市/男性) 〜 Oasis / I am The Warlus (小林)どうもぼくは、オアシスに戻るような気がして仕方ないんだけど(笑)。まあ、リアムは、ジョン・レノンWannaBeだった人ですね。 だから、ジョン・レノンのカバーは、この曲ばかりじゃありませんが。久しぶりに聞いてみましょうか、いい出来ですよ。
・ぼくは、40歳を超えてからバンドを始めました。おやじバンドです。若い頃から絶対バンドをやるぞと思っていて、とうとう40を超えて やっと仲間を集める勇気が湧いたんです。ぼくの担当はベース。苦節4年で、やっとこの曲を歌ながら弾けるようになりました。最初は、 ベースを弾くのが精一杯。とても歌なんて、絶対不可能だと思っていました。ポールに出来たんだから、ぼくも同じ人間なんだから、そう 思って、何度も何度も練習して、少しずつ歌えるようになったんです。人間の体って、本当に凄いと思う。今じゃ、歌に集中して、ベース は意識してないのに、ちゃんと弾けてる。それにしても、ポールはすごいと思う。よくもベースを弾きながら、歌をうたうなんて思いつい たと思う。ポールに出来たんだから、人間に出来るんだから、頑張れたんだと思う。ポールは、どういう気持ちで練習したんだろう。誰 か、モデルがいたのかな。(清瀬市/男性) 〜 The Beatles / All My Loving (Live at the BBC) (小林)あなたは、ちょっと無知すぎます。もう、いろんな楽器を弾きながら歌う人はいっぱいいました、ポール以前に。まあ、ですね。 例えば、アメリカ人で、道端でやってるひとで、足でドラムのフットペダルをやりながら、ギターを弾きながら、口でハモニカで歌って いるような芸人さんとかね。それとか、一人で四つくらい楽器をやりながら歌う人とかいるわけですよ。ピアノを弾きながら歌うという 有名な人もいますね。まあ、ビートルズ世代だから仕方ないのかな。ビートルズから始まる。って言ってるからね。 ・あしたは、私の両親を招いて、両親の合同誕生パーティをします。誕生日が近いので、BGMはビートルズや、母の大好きなちょっと古い 洋楽にしようと思います。ここ数年は「誕生日なんて嬉しくない」と言ってますが、いま60代70代もかっこいい人が多いじゃないですか ポールもオノ・ヨーコもかっこいい!だから父も母も、これからもかっこ良く生きてもらいたいです。リクエストは、母がよく聞いていた この曲をお願いします。(習志野市/女性) 〜 Kim Carnes / Bette Davis Eyes (小林)なかなは、演出がいいじゃないですか。きっと、ご両親も喜ばれると思います。
・ビートルズのメンバーの中で誰が一番好きかという話題で盛り上がることがありますよね。私は、そんなの分からない。日によって違う し、強いて言うならジョンかなと答えていました。ところが、最近はポールが好きだと強く思います。はっきり理由は自分でもわからない のですが、たぶん自分にはないものを持っているからだと思います。彼の精神的強さ、したたかさ、ユーモアのセンス。困難な状況でも 慌てない客観的視野。とりわけ、天然とも言える、底抜けの明るさが好きです。いい意味での楽天的。大抵の出来事は何とかなる、うま くいくという、ポールのポリシーを感じます。大変な努力家である事は言うまでもありませんが、わたしは、「あしたは、あしたの風が 吹く」という言葉が大好きです。自信がない時、不安な時、この言葉を聞くと、不思議と前向きな気持ちになれるんです。わたしは、こ の曲を聞くときは、いつもそう解釈しています。(草加市/男性) 〜 The Beatles / Let it Be (小林)話の方は、ほんと盛り上がってるよね。ビートルズの1963年から64年、ビートルズがどうやって世界を征服するのか。そのあたりの話 をお送りしています。それから、リクエストもお願いします。さっきの人みたいに、自分の解釈でビートルズをこういう風に聞いてるとか、あ るいは自分との関わりとか、まあまるで関係ないことでも結構なんですけど、ちょっと書いてリクエストしてください。採用の方には、イシイ のミートボールなどをセットにして、差し上げます。お相手は、小林克也でした。
あげ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年2月20日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(2月20日) ・1963年 (48年前) スタジオで録音とか色んな作業をしておりますが、この日はビートルズに縁のあるジェフ・エメリックという人のデビュー日です。 デビュー日というのはどういう事かというと、有名なエンジニアになっていくわけですけど、この日16歳のジェフ・エメリックがセカ ンド・エンジニア、つまり助手としてビートルズにつくわけです。彼は16歳でEMIに入ってきて、ビートルズの事はもちろん知らない わけですが、ビートルズに会って、この四人はすごいって感じで、もうお願いだからビートルズのスタジオによろしくってことで、い ろいろ彼は苦労して、この三年ぐらい後にはビートルズのメインエンジニアになって、ビートルズが解散した後も、ポール・マッカー トニーやエルビス・コステロ、こういった人たちに信頼されたエンジニアとして、音楽を作っていって、グラミーの功労賞も獲得した 人です。本も出していますけども。で、ちょうど48年前のきょうは、エメリックのまだ16歳の小僧がデビューした日。しかし、ビー トルズは、Miseryという曲をやっております。そして、ジョージ・マーティンは、ビートルズの初期は音楽の知恵、音楽の教養っても のが、彼自身もミュージシャンで、ビートルズをすごく助けています。ちなみに、これからお送りする曲のイントロでは、ピアノを弾 いています。ただピアノを弾くばかりじゃなくて、すごい技を持っていて、いろんな曲にピアノが入っているんですが、例えば低いキー でピアノを弾きますね。それで、レコードになるときは、それを回転を上げるわけですね。回転を上げると、高く聞こえるわけです。
だから、高く聞こえる音を計算して、自分が低く、たけど回転を上げると表情がなくなるので表情をつけながらやるという名人です。 この曲のイントロも、そのピアノを聞く事ができます。この日、48年前のきょう、録音された曲。そして、16歳のジェフ・エメリック が最初の仕事で加わった日。 〜 The Beatles / Misery 途中で、ジョージ・マーティンのピアノが入っておりました。そして、まだ16歳、高校出たばっかリぐらいですよ。ジェフ・エメリッ クも仕事をした、Misery聞いていただきました。
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1964年1月 ── ビートルズは、最初のアメリカ訪問の前哨戦として、パリに赴いた。マネージャーのブライアン・エプスタインが1月 15日から三週間、オランピア劇場での公演を入れていたのである。この時、見送りのため、ロンドンのヒースロー空港に集まったファン たちは、遥か彼方で飛行機に向かうビートルズが三人しかいないことに気づいた。リンゴが、見当たらなかったのである。これには諸説 があるが、一説には前の年からのハード・スケジュール、特に年末年始をはさんでのクリスマス公演シリーズで疲れ果ててしまったリン ゴがパリ行きを拒否したというものだ。しかし実際には、ほんの束の間の休日を故郷リバプールで過ごしていたリンゴが、悪天候のため に、ロンドンに戻ってくるのが遅くなってしまったというのが本当らしい。ともあれ、リンゴも公演に間に合うよう、パリに到着した。 オランピア劇場は、映画館とミュージックホールの中間のような、まさにパリらしい劇場で、ブルーノ・コカトリックスという百戦錬磨 のプロモーターが取り仕切っている。ビートルズは、三週間に渡り毎晩コンサートを行うことになっていたが。これに対し、コカトリッ クスから、毎晩に支払われる金額では、旅費と宿泊代は賄いきれなかった。なにせ、ブライアンはいつもの贅沢癖が出てしまい、ビート ルズとツアースタッフのご一行全員のために高級ホテル、ジョルジュサンクを予約していたのである。予算の不足分を補うために、広報 担当者は、ブリティッシュ・ヨーロピアン・エアラインと広告契約を結んだ。メンバーには、ビートルズのロゴマークの入った特製フラ イトバッグが渡された。ビートルズが、このバッグをこれ見よがしに持ち運ぶことによって、宣伝効果が得られるということで、彼らと スタッフ全員、ロンドン・パリ間を三週間無料で往復できることになった。イギリス国内ではスターになったビートルズも、外国ではま だまだ無名であった時代のエピソードである。 〜 The Beatles / Taste of Honey 〜 The Beatles / You Really Got a Hold on Me (Anthology 1)
ビートルズのパリ公演に際し、マネージャーのブライアン・エプスタインは、これまたギャラなんて二の次。宣伝を第一と考えた。しか し、いくら宣伝のためとはいえ、パリの音楽ファンのビートルズに対する反応は、冷淡だった。イギリス国内で、連日のように勃発して いた、あの熱狂的な現象。つまり、ビートルマニアなど、微塵のかけらもなかった。こうした反応を最初から予測していたブライアンは せめて音楽業界関係者に、自分のマネージャーとしての存在をアピールしておこうと考えた。すぐさま電話をかけた相手は、専属カメラ マンのディゾ・ホフマン。ブライアンは、ホフマンに相談した。「なあ、ディゾ。パリの業界関係者用に、ぼくの写真を500枚ほどプリ ントして欲しいんだけど。このアイデア、どう思う?」ブライアンには忠実であったホフマンも、これには正直に答えた。「エプスタイ ンさん、あなたの写真を配るというアイデア、たしかに悪くはないですけど、もしかすると反感を買う恐れもありますね。中には、ビー トルズのマネジャーは出しゃばりだぞって、悪い評判を流す連中も出てくると思います。なにせフランス人は、意地悪だって言いますか ら。」この率直な意見には、ブライアンも頭を冷やすしかなかった。結果、このアイデアは即座に撤回。ビートルズ中心のプロモーショ ン計画を、練り直すことになった。ブライアンは予算を組み直し、多くのジャーナリストをパリに呼び寄せた。特に熱くもてなしたのは デイリー・エクスプレス。この新聞には、ジョージ・ハリソンのパリ公演日記が、毎日連載されることになっていた。とはいっても、実 際に執筆するのは、スタッフのデレク・テイラー。いわゆる、ゴーストライターというヤツである。いずれにしても既に人気者になった ジョンとポールに続いて、ジョージにもスポットライトが当たることになった。そうなると、残りはリンゴである。新入りのリンゴを、 どうやって人気者に仕立て上げるのか。頭を悩ます、ブライアン・エプスタインであった。 〜 The Beatles / Boys 〜 The Beatles / Here, There and Everywhere
・1964年1月 ── ビートルズは、三週間の公演のため、パリにやってきた。ジョルジュサンク・ホテルを取り囲んだカメラマンたちは、 ビートルズに関する様々な重要人物人物が行き来するのを、獲物を追うような眼つきで追いかけた。EMIパーラフォンレコード・プロデ ューサー、ジョージ・マーティンもシングル She Loves Youのレコーディングのために、パリに来ていた。その他、会計士も出演予定 の映画のプロデューサーも、その脚本家も、さらにはこれを機会に、ヨーロピアのビートルズグッズの大口の商品化契約を結ぼうと出向 いたグッズ販売業者の姿もあった。オランピア劇場の観客は、イギリスに比べ静かではあったが、男性客の比率が高かった。そのため、 ビートルマニアの勢力を抑えこむことの出来ないイギリスよりも、むしろじっくりと音楽を聞いてくれているという印象があった。これ は、ジョージ・ハリソンからすると、嬉しいことだったという。ジョージは、語っている。「こういうのは、観客にとっても、ぼくらに とっても、いいことだよ。ハンブルグでも、たまに同じようなことがあってね。客の大半が酔っ払いの観光客や船乗りで、音楽を聞こう とする学生が大勢で着てくれた時があったんだ。ぼくらは本来、こういう観客の前で演奏するが好きなんだよ。」このオランピア劇場で は、手品や曲芸の他、二人のシンガーがビートルズと一緒に出演することになっていた。どちらもフランスでは、ビートルズよりも遥か に、ファンが多い。一人は、地元フランスの人気女性ポップ・シンガー、シルビー・バルタン。そしてもう一人は、ヨーロッパで If I had a Hammerという大ヒットを出していた、メキシコ系アメリカ人ロック・シンガー、トリニ・ロペス。イギリスでは、既に押しも押され ぬトップグループのビートルズが、アウェーの地パリで挑む、最初の国際試合であった。 〜 Trini Lopez / If I had a Hammer 〜 The Beatles / Please Please Me
□リクエスト ・ラテンロック調のアレンジになって、60年代後半から70年代中盤までのこれぞアナログの極みみたいな音になっていて、気持ちいいで す。ブラスのアレンジは、スライ&ファミリーストーンを意識した作りになっているとか、最近のお気に入りです。(世田谷区/男性) 〜 佐野元春 / Young Bloods ・居酒屋で新年会を開いていたんですが、優先で洋楽がかかっていました。どっかで聞いた曲だな?YMOのビハインド・ザ・マスクだって ことはすぐに分かったんですが、マイケル・ジャクソンっぽい声で歌われてるではないですか。調べて、判明しました。昨年末に発売さ れた、マイケルの未発表曲だということ。そういえば以前に、YMO作曲マイケル補詞の曲をスリラーに入れる入れないでいろいろあった みたいですね。そんなことを抜きにしても、いい曲だと思います。(行方市/男性/39歳) 〜 Micheal Jackson / Behind The Mask (小林)詳しく言うと、マイケルは録音して、YMOに許可を求めてきたんですけど、その時に出版権を、もちろん坂本龍一が作った曲だから それは払うわけだけど、出版権を全部よこせという条件だったので、そんなのはダメと断った、だから、スリラーには入らなかった。 マイケルが亡くなった後、世界ですと何百万枚と売れるわけですから、坂本龍一にも何億円というお金が入って嬉しい…ということは 言っちゃいけませんけど。
・先だっての放送の中で、サザエさんの中で Let it Beを演奏するビートルズにノックアウトされたという話がありましたが、そのCM私も うっすらと記憶しております。ただし、当時小学生の私は、Let it Beと歌っているのが「エルピー」としか聞こえてなかったため、LP レコードの宣伝ぐらいに思い、ノックアウトとは程遠い状況でした。同様の勘違いをされた方、大勢いると思います。しかし、それから 数ヵ月後か数年後か、周囲からの影響もあって、完全にビートルズにハマり、現在に至ります。リクエストは、エイジアは来日を果たし ておりますが、彼らのインタビューにおいて、なにか印象に残ることがありましたら、お話しいただけないでしょうか。 (江戸川区/男性) 〜 Asia / The Smile Has Left Your Eyes (小林)インタビューは、ぼくしてないんですが、番組でインタビューは流したんですけど、なんでエイジアをやるのかっていうことを言 ってますが、あまり印象に残ってませんね。 (小林)きょうのビートルズのお話、それからリクエスト、とても面白かったですね。リクエストは、ビートルズじゃなくて、佐野元春、マイケル ・ジャクソン、エイジアの三組がかかりましたけど、ビートルズと関係がないようで、深い関係があります。お話しすると、長い話しになるので 省きますけど、みなさんのリクエスト、エピソード、個人的な思いを書いてリクエストください。採用の方には、イシイのミートボールなどを セットにして、差し上げます。お相手は、小林克也でした。
乙です。 CM開けの会話のジングル(ステッカーっていうの?)、 2人でしゃべってて、 1人が「うう〜ん」とか言うやつ、あれはなんでしょうか。 メンバーの誰かと誰かなの?
>>56 ビートルズ話
#1の前=ジョン?
#3の前=ポール?
あー、 来週ちゃんと聴いてみます。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年2月27日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(2月27日) ・1964年 (47年前) ビートルズが、どんどんでかくなって、もうねえ、No.1を獲得して、世界中に拡がっている途中です。超多忙な中、三枚目のアルバム A Hard〜のレコーディングをやっています。で、内訳見るとすごいんだけど、いつも彼らが使うスタジオ2なんだけど、午前中に And I Love Her、隠れた名曲And I Love Herのリメイクをやってるのね。それから、Tell Me Whyはテイク8まで録っちゃうんですよ。で、 午後になると、If I Fellをテイク15、すごいねー。一日でやってるわけですよね。プロデューサーは、ジョージ・マーティンで、エンジ ニアは、ノーマン・スミスが担当しています。で、ビートルズのテイク数が多いわけですけど、最初予定していたヤツから、段々アレ ンジが変わったり、演奏する楽器が変わったりして、最後に決定が出るという。これは、ビートルズの、この進行状態がビートルズだ よね。で、And I Love Herも最終的な、我々が親しんでるAnd I Love Herは、ジョン・レノンがアコースティック・ギター、ポールが 歌っています。で、ベースももちろん彼。ジョージは、初めて使ったクラシック・ギターをやっています。リンゴ・スターは、ドラム じゃなくて、ボンゴを演奏している。これが、我々が耳に馴染んだヤツですけど、実はAnd I Love Herは、最初のバージョンというの が記録に残っています。これちょっと面白いんで、聞いてみます。これはね、ジョージがエレキギターをやっています。クラシックじゃ なくてね。リンゴは、ドラムスをやっています。まあ、普通の感じなんですけど、普通のものは採用されず、結局リンゴがボンゴを叩 いたわけですけど、それでは普通のバージョン、おそらく耳馴染みがないと思いますが。 〜 The Beatles / And I Love Her (Anthology 1)
いかかですか。この本当のバージョンは、皆さん知ってますよね。だから、これを聞くと、「あ、これは普通の曲じゃん」と思っちゃ うんじゃないですか。だから、やっぱりプロデューサーのジョージ・マーティンも、ジョンもポールも、やっぱりすごかったですよ。 これじゃ、ダメだよって、なんとかしようよってことで、楽器も変わっていくし、歌の感じも変わっていくし、解釈の形や顔が変わっ ていくわけですよね。これはまだ、完成品の形をしてないものね。あの、曲の間奏も、ただ単なる間奏で、義務でやってるような間奏 だから、これは採用しないでしょう。ねえ。ビートルズが、どうやって素晴らしい物を作っていったかというのを、これを聞いて、わ かったと思います。
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1964年1月 ── ビートルズは、最初のアメリカ訪問の前哨戦として、パリを訪れる。イギリスでは既に、押しも押されぬトップグルー プとなっていたビートルズが、アウェーの地パリで挑む最初の国際試合であった。このパリでも、ビートルズの周りでは一悶着あった。 イギリス国内の英語圏では人気者となっていたビートルズだったが、まだまだヨーロッパ全域に広がっていたとは言えない。そこで、レ コード会社であるEMIパーラフォンは、ドイツ語バージョンを作って発売しようと決定した。選ばれた曲は、She Love YouとI Want Hold Your Hand。曲に不足はないが、なにせ時間がない。そこで急遽、プロデューサーのジョージ・マーティンは、ビートルズのツアー先で あるパリへ飛んだ。レコーディングのために、EMIパリのマルコーニ・スタジオまで押さえた。準備万端であった。しかし、この時点で ビートルズも、それまでとはすっかり変わっていた。既に、数曲のNo.1ヒットを持つ彼らは、もうプロデューサーの言うとおりにする いい子ちゃんバンドではなくなっていた。スタジオで待つマーティンへのビートルズからの返答は「いやだ。ドイツ語でなんか歌いたく ない。スタジオになんか、行くもんか。」もちろん、マーティンは、カンカンに怒った。プロ中のプロ、ベテランのプロデューサー、 ジョージ・マーティンの面目丸つぶれである。彼はすぐさま、ビートルズの滞在先のジョルジュサンク・ホテルに向かった。四人は、ス イートルームでくつろぎ、ポールのガールフレンドであるジェーンに紅茶を入れてもらっていた。ここでマーティンは、大声をあげた。 「このバカモン!」校長先生のように激怒するマーティンに、四人は恐れをなし、散り散りに逃げて、クッションやピアノやカーテンの 影に隠れる始末。結局観念して、スタジオに連れてこられたビートルズは、ドイツ語バージョン二曲のレコーディングを、あっさりと片 付けた。パリでもやんちゃぶりを見せる、四人の一幕であった。 〜 The Beatles / Sie Liebt Dich 〜 The Beatles / Magical Mystery Tour
・ビートルズのパリ公演初日の前夜、外ではフランスとイギリスのマスコミがいい場所を取ろうと押し合いへし合いをしていたが、ジョン とポールは、午後三時まで眠っていた。そして、遂に同行していた専属カメラマンのディゾ・ホフマンが二人を起こすという、危険な任 務を引き受けることになってしまった。ホフマンは、この時のことを思い出して語ってくれた。「ぼくは、ジョンに言った。『なあ、ジョ ン。そろそろ、起きてくれよ。パリ・スマッチという雑誌が、取材にきてるんだよ。トップ記事にしたいそうだ。』そしたらジョンは、 こう答えた。『パリ・スマッチ?知らないな。それって、ニューミュージカル・エキスプレスよりも有名なのか?』この通り、まったく やる気がなかったね、ジョンは。」カメラを構える集団に取り囲まれながら、シャンゼリゼ通りに出てみると、パリはビートルズが来て も、まったくと言っていいほど、騒いでいないことが分かった。カメラマンのディゾ・ホフマンによれば、彼らに気づく人すら、ほとん どいなかったという。イギリスのマスコミは、ビートルマニア ── つまり、ビートルズにまつわる熱狂的な状態 ── を煽ろうと、さか んに試み、通りに面したカフェにジョンとポールを座らせ、ウェイターやレポーターに囲まれた彼らを撮影したりしていた。しかし、こ こまでしても、騒ぎは起きなかった。翌日の晩、オランピアの楽屋では、今度は露骨な暴力沙汰まで起きてしまった。事の発端は、フラ ンスのマスコミ関係者が、ビートルズの楽屋のドアの目の前で、バタンと閉めたことにあった。アルジェリア、インドシナなどの内戦地 を経験しているフランス人カメラマンは、ちょっとやそっとの事では引き下がらない。結局スタッフの一人が、あるカメラマンに顔面に 一発パンチをくらった。マネージャーのブライアン・エプスタインは、悲鳴を上げて、わめき散らした。「ぼくのボーイズに、何をする んだ。指一本触らせないよ。」 〜 The Beatles / Helter Skelter 〜 The Beatles with Billy Preston / Don't Let Me Down
・1964年1月 ── ビートルズは、三週間の公演のために、パリに滞在していた。フランスの公演では、どうしても避けられないことであ るが、開演時間は日を追うごとに遅くなっていく。ようやく、ビートルズがステージに立つ時は、真夜中を回ることも珍しくはなかった。 これでは、お客もすっかり飽きてしまっていて、前半のトリを務めたトリニティ・ロペスの方がメインアクトに思えることも、少なくな かった。こうしたビートルズの心配をさらに深めたのは、ステージのカーテンから客席を覗いた瞬間。なんと、観客のほとんどが、男性 だったのである。ジョンは、思わず叫んだ。「パリには、女はいないのか?」この状況は、ずっと同じであった。一説には、イギリスの 伝統的で生真面目なお国柄と違って、パリではゲイが早くも登場し、カルチャーとなっていたとするものまであった。そして、ビートル ズの頭を悩ませたことが、続いて起こった。パフォーマンス中、いつもは信頼のおけるイギリス製のギターアンプVOXが、何度も故障し たのである。ジョージは、ギターの音が消えるたびに苛立って、わめき散らした。「誰が、俺達の邪魔をしてるんだ!」さらには、ジョ ンもポールもステージのMCで、一言もフランス語をしゃべろうとせず。観客の方も、レノン・マッカートニーのオリジナル楽曲には、 あからさまに退屈そうな反応を示した。どうやら、彼らが聞きたいのは、ロックンロールのカバーだったらしく、Twist and Shoutを演 奏した時などは、Encore, encoreと、フランス語でアンコールをしてくるのである。おそらくパリの観客は、まだビートルズのオリジナ ル曲を聞いたことがなく、それにどう反応を示していいのか分からなかったというのが、現在の推測である。そして、四人を最も驚かせ たこと ── それは、男性客から、何度も大歓声が起こったこと。その声は、「リンゴォ、リンゴォ」と聞こえた。その声は、ドラマー のリンゴに向けた歓声。パリでは、リンゴが一番人気だったのである。 〜 The Beatles / Octopus's Garden 〜 The Beatles / The Ballad of John and Yoko
□リクエスト ・いつも、ビートルズのサクセス・ストーリーを、7歳の娘と楽しく聞いています。小学校一年生の娘には、中学生になった時に、ロック 大好き少女になってもらいたく、ビートルズやクイーンを聞かせています。ところが最近は、親の気持ちとは裏腹に、周囲の影響なのか アイドルグループの嵐に気があるようです。それでもめげずに、ビートルズやクイーンを聞かせています。中でも、この曲は何度も聞き たがるお気に入りなのでよろしくお願いします。(野田市/男性) 〜 Queen / Don't Stop Me Now ・ビートルズを初めて聞いたのはいつだろうと考えましたが、よく分からないんです。いつの間にか聞いていたというのが、正直なところ です。不思議な物ですね、ビートルズというのは。でも、大好きです。(茨城県小美玉市/男性) 〜 The Beatles / Hello, Goodbye (小林)若い人達にとっては、もうビートルズはいなかったわけですから、だけどどっかでCMだかなんだかで流れていたんだから、そうい う風なのかが何か分からないけど。それが正解ですよね。
・ビートルズの曲を聞いてると、LPレコードの紙の匂いを思い出して、懐かしくなります。懐かしいといえば、イシイのハンバーグも、ト ーストにはさんでよく食べました。(町田市/男性) 〜 Procol Harum / Homburg ・社交ダンス教室のパーティーで、この曲が流れ、踊れる方はこの曲でスローフォックストロットを踊るのですが、経験の浅い私は、まだ スローフォックストロットが踊れないので、この曲でブルースを踊ります。ブルースを踊っていただいた方が、「この曲はビートルズの 歌なんだよ。ビートルズ世代じゃないから分からないかな。」と言いながら、歌いながら踊っていました。(行方市/性別不詳) 〜 The Beatles / Michelle (小林)これで、分かっていただけましたでしょうか、(本名)さん。ラジオネームが「私バカよね」だって。 (小林)リクエストもいろいろで面白いですよね。年齢層も広いわけですから、若い方から、えーそれから、ビートルズを子供の頃から聞いてる というわけではなくて、最近になってから聞いてるという方も居らっしゃって、こっちもやりがいがあります。それから、ビートルズのパリで の公演、これはとても有名なんですけど、パリでは女性は全然騒がない。ビートルズは、イギリスではもうすごいことになってるわけですね。 でも、フランスは、まだ分かってないという面白い状況ですね。このオランピアもうちょっと我慢ですよ、みなさん。すごいことが起きますか らね。もうちょっと我慢。いやー、というわけで、リクエストもお待ちしています。話の方も、ますます面白くなっていきます。リクエスト 待ってます。お相手は、小林克也でした。
66 :
ホワイトアルバムさん :2011/02/28(月) 14:30:57.87 ID:KJhOmw8V0
キロックトニーさん 毎度乙です。
リクエストなどの宛先です。
[email protected] Faxは043−351−8011
はがきは〒261‐7127 BAYFM「ビートルズから始まる」
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年3月6日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(3月6日) ・1970年 (41年前) イギリスで、Let it Beがシングルとして発売になります。イギリスで、Let it Beがシングルとして発売になります(なぜか二回繰り返 す)。これは、ビートルズ最後のシングルです。この曲は、シングル・ヴァージョンとアルバム・ヴァージョンとでは違うというのは、 ご存知でしょうか。音が違うし、トラックダウンが違うんです。あと、ギター・ソロ。曲の長さも違います。レコーディングは、1969 年の1月にスタートして、シングル・ヴァージョンは、ジョージ・マーティンがプロデュースをして、この年の5月28日に仕上げている んですね。だから、発売は10ヶ月も経って発売されてるんです。ま、ビートルズがゴタゴタ続きですから、この頃は。アルバムの方は プロシュースがフィル・スペクター。ビートルズは、もうやる気なくなって、フィル・スペクターに丸投げしたという話はご存知だと 思います。アルバムのヴァージョンは、フィル・スペクターがやっているわけです。フィル・スペクターは、いじくりまわしますから ね。リンゴ・スターなんかは、時々呼び出されて、セッションに参加したり、録音し直しに参加したりしています。アルバムは、1970 年の5月28日、だからシングルは、そのあの、前の年69年、ちょうど一年後にアルバムのほうが仕上がってる。フィル・スペクターの 出来はですね、やっぱりフィル・スペクター的な派手な盛り上がり。ハッタリ的な。マーティンの方は、荘厳で気品があるというミッ クスで、ジョージ・マーティンの方が好きだというファンも多いんですが。それでは、ジョージ・マーティンの品のある方で、聞いて いただきます。 〜 The Beatles / Let it Be
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1964年1月 ── ビートルズは、パリに滞在していた。最初のアメリカ訪問の前哨戦として、1月15日から3週間、オランピア劇場での公 演が入っていたである。パリの観客の反応は、本国イギリスとはまるで違っていた。まず、観客に女性がほとんどいない。黄色い歓声など まったく聞こえてこないのである。そして、パリの音楽ファンは、ビートルズの最大の武器であるレノン・マッカートニーの書いたオリジ ナル楽曲には、まるで興味を示さない。アンコールがくるのは、Twist and Shoutなどのリズム&ブルースや、ロックンロールのカバーだ けである。これもお国柄かと納得する部分もあったのであるが、もっとビックリしたのが、四人のメンバーの中で一番人気だったのが、イ ギリスでは最も地味な存在として影に隠れていたリンゴ・スターであったこと。それらのすべてが、ビートルズにとっての初めての国際試 合、アウェーの地フランスでの出来事であった。公演初日の翌朝の新聞に出た批評は、どれも冷ややかなものであった。フランスワール新 聞は、ビートルズを「怠け者の過去の人間」と呼んだ。ビートルズグッズの販売もいまひとつだった。取り扱いの扱いがあったデパート、 ラファイエット・デパートは、ショーウインドーの一面をビートルズグッズで埋めることはヤメようと決断し、イタリアのスクーター会社 ランレッタもビートルズカツラをサドルにあつらえた特別モデルの発売を中止した。しかし、こうしたビートルズに対してのヨーロッパ諸 国での酷評も、数時間後には形もなく失せていくことになる。この日、パリの小さなレストランで朝食をとっていた同行カメラマンのディ ゾ・ホフマンは、すぐに滞在先であるジョルジュサンク・ホテルに戻るよう、緊急呼び出しを受けた。ビートルズのスイートは、不気味に 静まり返っていた。ホフマンは語る。「知らせが届いたって、ブライアンが言うんだよ。その知らせとはなんと、I Want to Hold Your Handがアメリカで一位になったという知らせだったんだ。ビートルズは全員、口もきけなかった。あのジョン・レノンが、子猫のように ただ、そこに座っていたんだよ。」
〜 The Beatles / I Want to Hold Your Hand 〜 The Beatles / Baby's in Black ・ビートルズのパリ公演中、シングル I Want〜がアメリカで一位になったとの大ニュースが舞い込んだ。もちろん、ビートルズのそのご一行 は、一晩中お祝いのパーティーを繰り広げた。特に喜んだのは、マネージャーのブライアン・エプスタイン。嬉しいに決まっている。自分 の眼と耳に狂いはなかったのだ。この夜、ブライアンの財布のひもは、いつも以上に緩みまくった。「みんな、今夜はお祝いのパーティー だ。無礼講で行こう。それぞれが、飲みたい物食べたい物、何でも頼んでいいよ。ルームサービスで、何でも持ってこさせるから。ホテル になかったら、他のレストランから出前させるから、好きな物を言ってくれ。ジョン、なんなら最高級のシャンパンでも頼むか。ポールも ジョージもリンゴも、みんな遠慮しないで愉快にやろうじゃないか。」ビートルズが、パリでこうして盛り上がっている最中も、イギリス とアメリカでは、スタッフがその全米と全世界進出のシナリオのチェックに忙しかった。パリを訪れていたエージェント会社のノーマン・ ワイズは、ビートルズが金になると判断し、ブライアンにアメリカでのエージェント契約を結んで欲しいと持ちかけた。その結果、ノー マン・ワイズの所属するGAC ── ジェネラル・アーチスト・コーポレーションが、アメリカにおけるビートルズの窓口となり、1964年 〜66年の8月、ツアーをやめてしまうまで、北米のブッキングを仕切ることになる。さらにその頃、ノーマン・ワイズのスタッフであった のが興行主のシド・バーンスタイン。彼は、抜け駆けでブライアンと交渉し、ビートルズ初のニューヨーク公演を取り仕切ることに成功し た。それも、音楽の殿堂であるカーネギー・ホールで、リンカーンの誕生日である2月12日に、二回公演のコンサートを開催するというも のであった。この時バーンスタインから支払われた報酬は、エド・サリバン・ショー三回分の出演料を上回るもの。全米トップのなったビ ートルズにまつわる、裏での争奪戦もいよいよ激しいものとなっていくのである。
〜 The Beatles / Twist and Shout ・1964年1月 ── ビートルズはついに、四人がいつも言っていた、ロックのトップのさらにてっぺんの全米チャートの一位に輝いた。今で は、考えられないことであるが、この時点でビートルズは、まだアメリカに入っていない。つまり、アメリカのファンの前でライブパフォ ーマンスをやるどころか、テレビ番組にも出演していないのに一位になった。ニューヨークの新聞に、カーネギー・ホール公演が発表され たのが1月26日のことで、チケットは発売開始からわずか6時間で売り切れとなった。こういった事態は、どうやってハプニングとなった のか。時間を追って、検証してみよう。1964年2月7日の早朝、雪と湯気と乱暴に突っ走るタクシー以外は、まだ動くこともないニューヨ ークの街。接近する狂乱を最初に知らせたのは、ラジオ局WMCAのあるDJ。彼は、こうリポートした。「現在、ビートルズ時間で、午前 6時30分。30分前に彼らは、ロンドンヒースロー空港を発ちました。大西洋上を、ニューヨークに向かって飛行中。ただいまの気温は、 ビートルズ温度で0度。」アメリカは、本当にその瞬間まで、ビートルズに対して生半可な興味しか持っていなかった。この国のマスコミ は、どんな最善の時でさえも、物を斜に構えて見ることで有名である。ましてこのときは、最悪の時期だった。前の年の11月からの、繰 り返し繰り返し報道されるのは、アマチュアの映像が撮らえた一枚の写真だけ。それは、妻と並んでオープンカーに乗った、ジョン・F・ ケネディ大統領が、銃弾に倒れる瞬間。クリスマスホリデーを目の前にしながら、ほとんどのアメリカ人がクリスマス気分になれないでい た頃、ビートルズの所属事務所NEMSエンタープライズのアメリカでの代理人である弁護士ウォルター・フォハーのオフィスの電話が鳴っ た。「もしもし、NEMSの代理人の方でいらっしゃいますか。実は、ビートルズについて、いくつかお話を伺いたいんですが。」電話は、 ビートルズのシングルを、ことごとく発売しなかったキャピトルレコードからであった。こうして、事は急遽に進展していくのである。 〜 The Beatles / One after 909 〜 The Beatles / Here Comes The Sun
□リクエスト ・ビートルズがやってくる ヤアヤアヤアっていう曲がありますが、邦題がついたビートルズの曲がいくつかありますが、そもそも洋楽の邦題 は、どうやってつけられているんですか。なにか面白いエピソードがあったら教えてください。(山武郡/男性/49歳) 〜 Captain and Tenille / Love will Keep Us Together (小林)日本語のタイトル、邦題ね。これは、基本的には担当のディレクターっていう者がおります。そのディレクターが、なんて言うんで すかね。評論家に、いろんな解説を頼んだり、歌詞の訳をつけたりと、いろんなことをするんですけど、一つの大きな仕事が、日本語のタ イトルをつけるということで、その曲がヒットするかしないかということで、大切な仕事なんですよ。で、そのディレクターはセンスがな いと、上にいる課長とか部長が「お前、それセンスないから、もっと良いタイトルをつけろ」とか言われたりするわけですね。ま、洋画の 日本語のタイトルと、結構似てるところがあるんですよ。ヒットするように、タイトルの付け方によって、全然ヒットしなかったりする じゃないですか。特に、洋楽ファンというのは結構敏感ですから。そのタイトルを頭において、そして想像しながら聞くんでね。とても大 切です。だけど、ビートルズがやってくるというのは、その時はタイトルはどうでも良かったんですよ。ビートルズがくるってことはスゴ いってことで、歌の内容とは関係なく、ビートルズがやってくるヤアヤアヤアにして。ほら、「ヤアヤアヤア」って歌ってるじゃない。そ れで、ヤアヤアヤアにして大成功だったという話なんですよね。さ、これは愛ある限りというタイトルがついていますが、忠実につけてま すね。 ・この間ラジオでビートルズの曲だと思っていたこの曲がかかりました。誰が歌った曲かわからないので、リクエストします。 (八王子市/男性) 〜 The Marvelettes / Please Mr. Postman
・先日たまたまテレビをザッピングしていたら、某国営放送のBSハイビジョンで、坂本龍一教授の音楽の学校という番組を見つけました。な んとその番組でYMOがこの曲を演奏していたんです。すごく、かっこ良かったです。(茨城県神栖市/男性) 〜 YMO / Hello, Goodbye ・先日の番組は、シビれました。マンフレッド・マンにデイブ・クラーク5、なつかしくて感激しました。高校時代にビコーズ、よく聞いて いました。一瞬の内に、あの頃の記憶が蘇ります。カスケーズの悲しき雨音、スプートニクスの霧のカレリア、レーン&リー・キングスの ストップ・ザ・ミュージックなど。そこでぜひとも、この曲を聞かせてください。(市原市/女性) 〜 Mary Hopkin / Those were The Days (小林)おそらく、最近聞かれるようになったのかな。メリー・ホプキンのこの曲は、この一年間で何回か流れています。有名な、ポール・ マッカートニーが面倒みた曲ですからね。日本では、特にこの曲売れたんだよね。ビートルズが解散した年は1970年でしたが、日本では 大阪万博の年だったんですね。メリー・ホプキンは、大阪万博で演奏しに来てますね。他にもコンサートで来たり、日本のライブ盤も出て おります。
(小林)きょうはお話としては、ビートルズの曲がアメリカでNo.1になったという、記念すべきパリ滞在の日のお話をしましたが、リクエストも ひとつよろしく。リクエストもみんな、音楽的な体験が違ったりするので、すごく面白いですよ。ビートルズを何十年も聴いてる方、何ヶ月しか 聴いてない方も(笑)結構ですから。どっちが偉いとは、本当言えないわけですから。リクエスト待ってます。採用の方には、イシイのミートボー ルなどをセットにして、差し上げています。お相手は、小林克也でした。
キロックトニーさん毎度乙です。 放送とほぼリアルタイムで書き込みとか すごいですね。w 欲を言えば曲のあとの克也さんの解説も入れてほしいんですけど。 OneAftere909とHereComesSunのあとにいろいろ話していた所があったんですけど…。 まあ急がずにやってください。
>>74 あそこは、毎度おなじみの話だったので、キロクしませんでした
〜909は、昔の曲なのに収録するのがなかったから入れたんだろうとか
ジョージは、すごいよねとか
hosyu age
78 :
ホワイトアルバムさん :2011/03/15(火) 22:48:26.41 ID:JxnS5Xrr0
キロックトニーさんは大丈夫だろうか。
なぜか、この番組の事を急に思い出しました 聞いていたのは小学生か中学生だったと思うので、10年以上前になります 毎週末親の買い物に着いていき帰りのラジオからこの番組が流れていました 小林克也さんの話術に乗せられて見た事もないビートルズが頭の中で動き出す 番組に影響されて始めて買った洋楽がビートルズの1で今でも良く聴きます イシイ食品のCMのバックに流れるジムノペティ、全て大好きでした 今でも番組が続いていて感動です 今無償にこの番組が聞きたい
大丈夫ですよ
81 :
ホワイトアルバムさん :2011/03/20(日) 17:38:21.74 ID:okj/b21D0
ネット配信はお休みか
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年3月20日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(3月20日) ・1964年 (47年前) ビートルズがアメリカで売れ、世界で売れた年。イギリスで、Can't Buy〜という、あの名曲がシングルとして発売になりました。で、 これはもう大変なことになっててね。イギリスでは、その前の年に I Wanna〜が出てて、予約だけで100万枚を越えるんです。イギリス だけで。すごいでしょ。で、I Wanna〜がアメリカで売れました。その後です。で、この Can't Buy〜はイギリスでの話ですが、予約枚 数が210万枚。これは、すごいことでしょ。予約で210万といったら、夢みたいな話ですよ。もちろん、イギリスでもアメリカでも大 ヒットするわけですけど。この曲はですね、前お伝えしましたよね、パリのオランピア劇場に出てて、ドイツ語で録音した方がいいと いうことで、パリでドイツ語で録音するじゃないですか。で、これをさっと仕上げちゃって、スタジオ時間が余っちゃったわけですよ。 なにかやろうってことで、余った時間を利用して、簡単に録っちゃったわけです。簡単に録音した Can't Buy〜。これがですよ、世界的 に大ヒットするわけですから、ビートルズはすごい勢いだったというか、それもあるし、ライブでやっていて完璧に自分のものになって いた。だから、余った時間でさっと録って、それが最高傑作の一つになっていくというわけですね。この歌の内容はですね、お金じゃ 愛は買えないよというのがテーマです。おれは、金なんかいくらも欲しくないんだって、ポールが歌います。金なんかくれてあげるよ、 愛は買えないんだからみたいなことを歌うんですけど、ご存知のとおり、ポールは私生活で離婚しますよね。それで、お金をふんだく
られますよね。だから面白いのは、ポールの大好きな曲で、1966年日本公演に来た時もやったんですよ。それから、ポールの最近の ソロのコンサートでもやってたんだけど、離婚後は一切やってない。そういうエピソードもあります。それでは、この頃は、ジョージの ギターもうまくなって、進歩したソロも聴かせてくれます。 〜 The Beatles / Can't Buy Me Love □トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1963年12月 ── アメリカの国民は、英雄であったジョン・F・ケネディ大統領を、あまりにショッキングな暗殺という事件で失ってしま う。その為、クリスマスホリデーを目の前にしながら、ほとんどのアメリカ人がそんな気分になれないでいた頃、ビートルズの所属事務所 NEMSエンタープライズのアメリカの代理人である弁護士ウォルター・ホファーのオフィスの電話が鳴った。「もしもし、わたしキャピト ルレコーズのものですが、そちらNEMSの代理人の方でいらっしゃいますか。実は、ビートルズについて、いくつかお話を伺いたいんです が。」なんと、電話はビートルズのシングルをことごとく発売しなかったアメリカのキャピトルからである。こうして、事は急遽に進展し ていく。当事者である弁護士ホファーは、こう語っている。「そう、あの日突然キャピトルレコードから電話がかかってきたんだ。ぼくが NEMSというイギリスの会社のニューヨークでの代理人であるか、まず確認したかったらしい。ぼくは『はい、そうですが』と答えると、 次の質問は『ビートルズの楽曲の版権を管理しているのは誰か』ということ。どうやらキャピトルは、新曲 I Wanna〜の事を知りたがって いたみたいだったね。」どうやらキャピトルは、そのイギリスでは有名ではあるが、アメリカではまだ全く無名のアーチストのレコードを 発売し、あまりに活気のないクリスマス商戦に一矢報いたいと目論んでいたのである。そんな中、周りからはいくつか奇妙なニュースが飛 び込んできた。ワシントンDCにあるWWDCの一人のDJが、I Wanna〜を入手してオンエアしたところ、リスナーの間で物凄い反響があった
ということ。そして、どうやらそのレコードは、キャピトルのものではなく、BOACというイギリス最大の飛行機会社のフライトアテンダ ントからのロンドン土産だったというところまで判明した。この時点で、アメリカでのビートルズは、まだまだ謎に包まれた存在だったの である。 〜 The Beatles / Love Me Do 〜 The Beatles / When I'm Sixty-Four ・どうやらイギリスのバンドと思われるビートルズの最新シングル I Wanna〜が、ワシントンDCにあるWWDCのあるDJによってオンエアさ れ、大反響を呼んでいる。この噂は、本来ビートルズのレコードをアメリカで発売する権利を持っていたキャピトルレコードにとっては まさに寝耳に水であった。なにせキャピトルは、そのビートルズのイギリスでのNo.1ヒットである Please〜も、She Loves Youも、これ は売れないだろうという判断で、一時的にではあるが、その販売権をマイナーレーベルに許可している。特に Please〜は、プロデューサー のジョージ・マーティンも絶対にNo.1になるという確固した自信を持っていたため、ロンドンのEMIでも宣伝会議において、最重要アイテ ムとして扱ってもらうように、強く主張していた。もちろん、EMIのアイテムをアメリカで取り扱う契約を結んでいるキャピトルにも、自ら 国際電話で掛け合い、早くビートルズのレコードをアメリカで発売してもらうように交渉。しかし、現在のこの高度な情報社会とは違って 1960年代初期の世界は、まだまだ遅れていた。イギリスとアメリカは、同じ英語圏とは言え、全く違う国であった。それにロックという ジャンルにおいては、アメリカは自分の国が発祥の地である。イギリスの物まねバンドなんて、まさにイロモノくらいにしか思っていな かった。結果、キャピトルの販売編成会議での結果は、ノー。つまり、ビートルズのシングルの発売は、当面見送るというものであった。 それならばと、マネージャーのブライアン・エプスタインはニューヨークへ飛び、当時リズム&ブルースのレーベルとして最も勢いのあっ
たアトランティックと交渉した。が、この時点でアトランティックは、ブラック専門のレーベルであったため、ここでも交渉は決裂。ビー トルズの初期の名曲たちは、なかなか大西洋を渡れずに、イギリス国内で爆発寸前となっていたのである。 〜 The Beatles / Please Please Me 〜 The Beatles / I Feel Fine ・「ビートルズ? イギリスで人気だって? そんな、ロンドンだのリバプールあたりでチヤホヤされたって、このアメリカで通用するわけがな い。失敗するに決まってる。もし、どうしてもビートルズのシングルを出したいっていうのなら、いいだろう。ただし、売れなかったら お前クビだぞ。」さすがに、ここまで言われたら、大手レコード会社キャピトルのビートルズ担当者もおじけづいてしまった。上司が、ど うしてもビートルズを認めてくれない。なにせ、それまでのアメリカ国内でイギリス人アーチストが成功した例は、ほとんどない。一応 イギリスのエルビスとして売りだしたクリフ・リチャードがいたが、アメリカでの唯一のヒット Living Dollも、全米チャートでは30位止 まり。成功したとは言えない結果に終わっている。結局EMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンの自信作であったセカンドシングル Please〜は、リズム&ブルースやゴスペルを専門とするインディーレーベル Vee-Jay から発売され、当然のように広大なアメリカ合衆国 のほんの一部でしか知られない結果となった。さらにこれまた、イギリス国内ではミリオンセラーとなった、あの She Loves Youに至って は、さらにマイナーなレーベルである、フィラデルフィアのスワンからの発売となり、これも最初からヒットする要因が一つもない状態。 大元のキャピトルが腰を上げてくれない以上、ビートルズのアメリカでの扱いは、まさに飼い殺し状態であった。曲の斬新さも、歌詞も、 コーラスも。そして、スタッフが一丸となって創り上げた独特のサウンドも、どれをとっても今までにないインパクトと思っている。でも なぜそれが大西洋を渡ったアメリカでは分かってもらえないんだ。She Loves Youは、誰が聞いても史上最高のロックのシングルだ。そう
自問自答しながら、一人悶々とするマネージャーのブライアン・エプスタインであった。 〜 The Beatles / I am The Warlus 〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps 名曲が二曲続きましたね。〜Walrusは、いつ聞いても思うんですけど、ジョン・レノンという人の頭の中に、こういう世界があったわけで す。それが形になったという風に考えるとすごいよね。ジョージ・ハリスンの頭の中には、こういう風な世界があったわけですよね。これ も大変なことですけど。 □リクエスト ・先日公開されていた「ノーウェアボーイ」見そびれてしまいました。昔「バック・ビート」という、これもファンにはたまらない映画があ りましたが、映画もサントラもかっこ良かったのを覚えています。そこで、ノーウェアボーイのサントラから、克也さんお気に入りの一曲 がありましたら、ぜひとも。(市川市/男性) 〜 Gene Vincent / Be Bop A Lula (小林)アメリカの人なんですけど、イギリスで滅茶苦茶ウケた人です。 ・昨日、高校に願書を出してきました。きれいな校舎に憧れ、願書を出した気分です。これが放送される頃には、合格して喜んでいるか、 後期に向けて頑張っているか、もしくは全部終わってホッとしているか。(千葉市美浜区/男性/中三) 〜 The Beatles / Dr. Robert
(小林)ビートルズの曲には、普通のラブソングじゃなくて、人の名前とか土地の名前だとかありますよね。それも例えば、Lovely Ritaとか Penny Raneとかありますけど、ああいうのって、なんとなくビートルズの短編小説みたいな感じで、景色が浮かんでくるんですよね。昔 から。その景色は、ぼくにとっては変わらないんですけど。 ・ぼくは、この曲を聞いたとき、衝撃を受けました。ギター一本でこんなすごい曲ができるなんてスゴイなと思いました。それからギターに ハマってしまい、ビデオや楽譜を買って練習しまくりました。今では、だいたい弾けるようになりました。二分ちょっとの短い曲ですが、 ぜひかけてください。これを聞いて、すごいなと言ってくれる人がいたら嬉しいです。(新座市/男性) 〜 Simon and Garfunkel / Anji (小林)ポール・マッカートニーも、ポール・サイモンのギターに一番影響を受けてるそうです。 ・去年知ったんですが、柏市にビートルズのお店があります。ワクワクして行ったところ、マスターもレノンが大好きで、入り口の椅子には まずレノンのカバーが目に入って、ポスターもレノンが多かったです。リクエストの紙には理由も書くところがあって、私はイエロー・ サブマリンに、春うららと書きました。名前と理由がマイクで流れます。解散してからの歌も聞けますので、気持ちが沈んだ時にお店に 行って、和んでいます。キャバーン・ハウスっていいます。お近くの方、いらしてみてはいかがでしょうか。酒を飲みながらいいですよ。 (柏市/女性) 〜 John Lennon / Imagine
(小林)お話のほうも、いつも言うんですが、売れる前が一番面白い。いま、一番面白い頃ですよ。それにしても、なんで面白いかというと、悪役 がいるじゃないですか。キャピトル・レコードという。ビートルズのレコード、アメリカではそんなウケるわけないよという、絶対発売しないと いう悪役がいるから面白いんですよね。そんな悪いレコード会社じゃないんですけど、フランク・シナトラとか、ナット・キング・コールとか、 当時をときめくボーカルものの王者たちの宝庫だったんです、キャピトル・レコードは。分かんなかったんだろうね、イギリスから出てくるビー トルズとか、分かんなかったわけですよ。来週もお楽しみに。リクエストもよろしく。採用の方には、イシイのミートボールなどをセットにし て、差し上げています。お相手は、小林克也でした。
89 :
ホワイトアルバムさん :2011/03/25(金) 23:51:51.44 ID:yWNbGCXp0
おお、キロックトニーさん!無事でよかった!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年3月27日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(3月27日) ・1970年 (41年前) ビートルズは、もう解散状態。リンゴ・スターのソロアルバム第一号。ビートルズの中では、ソロアルバム一番乗りです。Sentimental Journey というソロアルバムが出ます。これはですね、リンゴが元々スタンダードとかカントリー、昔のヒット曲が大好きで カバーバージョンのアルバムを出したいっていう風な希望があって、ずっと考えてたそうなんですが、1970年の前の年、69年の秋か ら録音がスタートしています。どういう事かというと、プロデュースだとかアレンジをポール・マッカートニーとか、マイケル・ジャ クソンのクインシー・ジョーンズに頼んだりとか、そういうことがあったんで、スケジュール色々あるじゃないですか。で、ビートルズ としての活動もあるし、合間を縫って録音を重ねて完成して、ビートルズ解散状態の時にリンゴが出したわけです。ビートルズは、アル バム Let it Be が暗礁に乗り上げて、グループが本当に解散寸前の中であります。この全体のアルバムのプロデュースは、ジョージ・マ ーティンが務めています。で、リンゴ・スターは面白いことに、いろんなやりたいことはおそらくリストアップしたと思うんですよ。で カントリーがこの人は好きなんです。で、この年の秋には、カントリーアルバムも出すんです。数カ月後には、Beaucoups of Blues と いうアルバムを発売します。かなりリンゴ・スターは、ギンギンに乗っていた頃の話です。 〜 Ringo Starr / Night and Day
これは、当時人気のフランク・シナトラと同じスタイルですね。つまりリンゴ・スターは、この頃は役者としてもハリウッドから一杯 オファーが着ていて、ジョン、ポール、ジョージの三人とは全然違う生き方をするんだっていう、エンターテイナーとしての意識があ ったんでしょうね。とても興味深いです。 □トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・「ビートルズ? イギリスで人気だって? そんな、ロンドンだのリバプールだのでチヤホヤされたって、このアメリカで通用する訳がない だろ。」これは、1963年当時のアメリカ・キャピトルレコードの経営陣の発言である。ご存知のとおり、ビートルズがイギリス国内で契約 しているレコード会社はEMIパーラフォンであったが、アメリカではキャピトルが販売契約を持っていた。しかしキャピトルは、ビートルズ を発売の価値なしと判断し、Please〜はリズム&ブルース専門のマイナーレーベル Vee-Jay、そしてイギリスで、あの大ヒット曲 She Loves You はさらに格下の Swan というレーベルに発売を出している。つまり、ウチは売れそうにないビートルズなんて興味がない。今の ところ発売権は貸出します、どうぞお好きに使ってくださいというスタンスだったのである。しかし、今言った「今のところ」の部分が、 この後大きな騒動となることは言うまでもない。1963年のクリスマスシーズン到来の時期、ワシントンDCにあるWWDCのディスクジョッ キー、キャロル・ベイカーが I Wanna Hold〜を入手してオンエアしたところ、リスナーの間ですごい反響があった。ベイカーのレコード は、キャピトル盤ではなく、BOAC ── 当時一番大きいイギリスの航空会社のスチュワーデスをしている友だちからのロンドン土産。すぐ にキャピトルは、動いた。もちろん、まだキャピトル盤の発売はされていない。しかし編成会議で、ほぼ問題なくクリスマスシーズンに出 荷するところまで決定した。まずは、ワシントンDCでのビートルズ熱を冷ましてはいけない。数百枚はラジオ局やレコードショップにばら まく必要がある。そのためには、最初に版権を抑えなければならない。ビートルズのアメリカでの代理人に電話をする。版権は、どうなっ
てる? ああ、あれならMCAに二束三文で売却した。何? じゃ、どうすればいい? 企業のやることは、いつもマニュアル通りで遅い。こう している間にも、ビートルズのウイルスは全米に蔓延しつつあったのである。 〜 The Beatles / All My Loving 〜 The Beatles / Being for The Benefit of Mr. Kite! こういう曲があるから Sgt〜の価値が、ほらイイ曲あるじゃないですか。例えば、Lucy〜とかの代表曲。ああいう曲があったから思 ったら、こういう曲がある。その対比っていうんですかね、それが物凄いものを作ってますよね。普通のアルバムの中に入っていた ら、これはあのー、大して評価されなかったかもしれないけど、全部が全部光り輝くように、やっぱりビートルズはすごいですよ。 ・ビートルズのアメリカでの販売権は、大手のアメリカのレコード会社キャピトルが握っていた。そのキャピトルは、その年のクリスマス商 戦の目玉にしようと考えた。この年のアメリカは、ジョン・F・ケネディ大統領を暗殺事件で失ったせいで、想像もつかないほど静まり返っ ていた。キャピトルは、そんな世相にビートルズという光を与えようとしたのだ。しかし、レコード会社がアクションを起こすまでもなく 人気はワシントンDCから各地に飛び火して行った。この時点ではまだほとんど出回っていなかった最新シングル I Wanna〜がワシントンの ラジオ局WWDCのDJキャロル・ベイカーからテープにコピーされ、友人関係の各ディスクジョッキーに送られた。こうして、シカゴでオン エアされ、リスナーからの問い合わせは殺到。さらには、セントルイスでも大反響を呼んだ。こうなると、ビートルズ・ウイルスが全米に 蔓延されるのは時間の問題である。キャピトルも、ビジネスチャンスを逃すわけにはいかない。サンタクロースが、街中でベルを鳴らすシ ーズンとなったニューヨークでは、キャピトルの販売戦略に大々的な変更命令が発せられた。ほんの一週間前、担当者であるブラウン・メ グスとその同僚たちは、I Wanna〜を果たして20万枚もプレスしていいものかどうなのか、不安を抱いていた。ところが、いまやその枚数
は、会社の命令で100万枚に増やされた。プレス工場も、キャピトルのものだけでは間に合わなくなり、全米に後二つある大手メーカー、 CBSとRCAの工場も急遽借りることになった。もちろん、前代未聞である。当初は、年明け1964年1月に発売するはずだったスケジュール も、なんとか年内に。1963年12月26日に決定。お膳立ては、すべて整った。こうしてキャピトルレコードが、やっとその重い腰を上げて 取り組んだプロジェクトは、新年に結果となり、ツアー先のパリに滞在するビートルズに報告されるのである。 〜 The Beatles / I Want to Hold Your Hand 〜 The Beatles / In My Life ・「エプスタインさんですか。ニューヨークからです。しっかり聞いてください。ビートルズのシングルレコード I Wanna〜が、ただいま アメリカで全米チャートでトップ。つまり、一位になったと報道されました。おめでとうございます。」このビッグニュースは、パリの オランピア劇場で三週間講演を行なっているビートルズ同行するマネージャーのブライアン・エプスタインに国際電話で伝えられた。すぐ に、その知らせを受けた四人のメンバーは、その事実をにわかには信じられないという雰囲気であった。特にあの生意気で有名なジョン・ レノンまでが、まるで借りてきた猫のようにおとなしく黙りこくってしまった。ともあれ、今夜は祝杯である。最初はホテルのルームサー ビスで静かにやっていたご一行であったが、どうやらホテルのビールやシャンパンもオーダーストップの時間となり、おまけにまだ二十代 前半の若者連中である。腹も減ってきたということで、パーティーの会場を外のパリ市内のレストランに移動した。夜は、まだ長い。どう やらこの時点でシングルの出荷枚数は150万枚を超えていたと記録されている。このあまりのビッグニュースに、一同はもうどうしていい か分からなかった。酒を飲み、肩車をしあっての大騒ぎとなった。パーティーには、ロンドンから着ていたプロデューサーのジョージ・マ ーティンも、秘書で将来の妻であるジュディ・スミスを伴って駆けつけてくれた。そして事態は、翌朝から急変する。アメリカからのマス
コミが、大挙パリに押し寄せた。しかし、あの生意気でユーモアのあるビートルズの受け答えは、全然変わっていなかった。「みなさんの そのヘアスタイル、どんな美容院で切ってもらっているんですか?」ジョージが答えた。「あ、これはね、リバプールでプールに飛び込ん で、上がったらこうなってただけだよ。なんなら、そのプール紹介しようか。」 〜 The Beatles / Please Mr. Postman 〜 The Beatles / This Boy アメリカの少女たちの15歳とか16歳の女の子たちがビートルズを支持したわけですけど、その女の子たちは、その何ていうか、アメ リカがショービジネスだとかロックだとかの本場であるという意識は持ってないんですよ。先入観というのは。で、聞いてみたら、と てもイギリス的なわけです。This Boyなんて、I Wanna〜よりもイギリスらしさが分かるわけですね。アメリカ人は全体的に、なんだ かんだ音楽の本場だって言っても、イギリスに比べれば田舎なんですが、イギリスというのは都会であって、洗練されたところである という。アメリカ人がヨーロッパに持っているコンプレックスみたいなものがあるじゃないですか。それも刺激したわけですよ。で、 アメリカの女の子たちにとっては、それまでいろんな流行歌を聞いてわけだけど、イギリス声でこんなに近くイギリス声を聞いたのは 初めてなんですよね。だから、このショックというのは、すごかったんですよね。
□リクエスト ・以前読んだ小説に、登場人物が立ち寄るバーでジョージ・ベンソンがかかっているという場面がありました。伝説のブルースシンガーとい う本の中での紹介以外、まったく正体が分からないので、図書館でブルースのコンピレーションアルバムを借りました。ところが、私が 以外にも気になったのは、かのジョージ・ベンソンではなく、マディ・ウォーターズでした。ミック・ジャガーをはじめ、多くのロック ミュージシャンに影響を与えた人です。曲名は忘れましたが、どこかのバーで演奏しているような曲。でも、その場にいる客が歓声を上げ たり、雑談をしているような音が入っているんです。ライブ盤ではないと思いますが、ざわついている感じが臨場感と生命感を与えて、 なにか本物のアメリカのバーで飲みたいなーと思わせるなナンバーでした。私は、こういう泥臭い演歌といえば違うんですが、人間らしい 歌が好きです。多少ハッタリがあっても、血の通った人間がつむぎ出す一種の物語性を求めてしまいます。だからこそ、洋楽であれ邦楽で あれ、詞 ── つまり言葉を大切にしてくれと思うんですが。堅い話になりましたが。(草加市/男性) 〜 Muddy Waters / Got My Mojo Walking (小林)堅い話になってないよ。はい、堅い話じゃないと思います。これは、ライブとかじゃなくて、そのまあその、お客さんがいるわけだ けど、お客さんもその音楽を作っているいう感じになっちゃうよね。ブルースは面白いよね。 ・先日のポールのグラミー受賞、超嬉しーです。ジョンとジョージがいなくなった後も、精力的に頑張ってきたポールですからね。受賞でき て本当によかった。受賞した曲をリクエストします。ポールにぜひ来日してもらい、ライブでこの曲を聴きたいです。ポールを呼ばないな んて、日本は絶対後悔する。(住所氏名不詳) 〜 The Beatles / Helter Skelter
(小林)ポールを見てないんですか?この前来たときは。ま、辞めたわけじゃないから、いつか来るでしょう。でも、この後何回来るか、分 からないね。どうなんでしょう、二回かなあ。よく分からないですけど。 ・ビートルズのエピソードを年代ごとに取り上げているのを聞いて思ったんですが、東芝EMIとbayfmの共同企画で、ビートルズの誕生から 解散までのシリーズ物のDVDマガジンを作ったらいかがですか。全作揃えば、ビートルズの歴史になるみたいな作品にしたら、必ず売れま すよ。解散後のソロ活動や主なカバー曲の特集号もあるといいですね。こんな企画が実現した暁には、私に1セット欲しい!(夷隅郡/男性) 〜 The Beatles / Komm, Gib Mir Deine Hand (小林)ありがとうございます。今は、東芝EMIではなくなったんで。EMIになっちゃった。ビートルズはね、まず権利がうるさくて大変なん ですよ。似顔絵を書いて、写真を載せても、そういう風な権利関係をクリアしなければならないんで。あなたのリクエスト曲は、さっきか かりましたね。だから、ドイツ語で答えます! ・今回の桑田さんの復活には感動しました。早期発見とはいえ、歌手の命である喉にも影響があるかもしれない手術の決断までには、察する に余りあります。でも、そこで多くの国民が勇気づけられたのです。これからも、国民の宝である桑田佳祐さんを応援していきます。 (世田谷区/女性) 〜 桑田佳祐 / 月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)
(小林)桑田佳祐の歌は、ビートルズの歌詞を使っていましたが、なんて言うんですかね、ビートルズから始まるというか、例えばですよ。昔の 帰ってきたヨッパライなんてあるじゃないですか。あれも、最後お経を加藤さんだっけ北山さんだっけ、お経をビートルズの歌詞だったという。 ああいうのがありますが、ビートルズが逃れられないのかなという感じもあります。実は、ビートルズから逃れられないんじゃなくて、ビートル ズも先輩たちからいろんな借り物をしてますからね。ビートルズも逃れられなかったんです。だからその何て言うか、ひとつの我々のその、文化 みたいなもので、ずーっと国境を超え繋がっているような気がするんですけど、また来週お会いしましょう。リクエスト、それぞれ勝手なこと書 いても結構ですよ。採用の方には、イシイのミートボールなどをセットにして、プレゼントしております。お相手は、小林克也でした。
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ホワイトアルバムさん :2011/03/29(火) 16:49:26.79 ID:rMnKsDtV0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年4月3日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(4月3日) ・1969年 (42年前) クリームのシングル。分かりますか? エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーのクリームのシングル、 Badge が発売になっています。これ、ビートルズと関係あるの?って思われる方いると思います。ま、クラプトンはジョージの友だち ていうこともありますけど、このクレジットを見ると、作曲がクラプトンともう一人、ランジェロ・ミステリオーソ ── 正体不明の 天使とは一体誰か?これが、ジョージ・ハリソンなんですよ。前の年1968年のビートルズのホワイトアルバムの中に While My〜という 曲がありますが、これはご存知のとおりクラプトンがノーギャラ・ノークレジットで、これはもうポールとジョンが決めたポリシーで どんなゲストが入ってもビートルズ以外の名前は書かないということで、クラプトンはノンクレジット。だから、そのお礼として、作曲 とリズムギターでジョージが参加しているわけです。曲のタイトル Badge なんですけど、意味がないじゃんっていう! コード進行が B→A→D→G→E で Badge という、これは間違いなんだそうです。で、ジョージが譜面に Bridge とメモ書きしたものを、クラプトンが 読み間違えたとか、色々ありますけど。曲自体は、ジョージ・ハリソン節。これは、クラプトンが作曲に開眼した曲とも言われていま す。そんな所も、みなさんこれからお送りしますので、聞いてください。聴きどころは、まさに Bridge のところでの、ジョージが回転 スピーカーを通して弾く、ギターのアルペジオです。Here Comes〜の中でも、同じアイデアを使っているそうです。 〜 Cream / Badge
ちなみに、クリームは三人のエゴのぶつかり合い、ワガママを言いあって、解散しちゃう。歴史的に言うと、解散した後で、病気で メンバー困って、2004年にNYとロンドンでクリームのライブをやったり、ロックの殿堂入りをしたときにライブをやったり、最後の アルバムに入っていた曲です。 □トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・「みなさんのそのヘアスタイル、どんな美容院で切ってもらっているんですか?」「ああ、これ? リバプールでプールに飛び込んで、上 がったら、こんなヘアスタイルになったわけ。なんなら、そのプール紹介しようか。」このやりとりは、遂に全米No.1を記録したビートル ズと、滞在先であるパリまで追いかけてきたマスコミとのインタビューの一節。とんちのきいた答えは、ジョージ・ハリソンによるもの。 こうした面白おかしいエピソードも、ビートルズの大きな魅力として認識されている。実は、全米一位に輝く数ヶ月も前から、ビートルズ は百万枚単位でレコードを売り上げる以上に、はるかに高い収益を上げる材料が有ると目論む人間も現れていた。その高い収益を見込める ものとは、ビートルズの関連グッズである。当時イギリスの若い世代が、少しずつではあるが巨大な潜在マーケットとして成長しているこ とは事実であった。それを証明するものの一つに、ビートルマニア ── つまり、ビートルズにまつわる熱狂的な現象があったことは、言う までもない。ビートルズがイギリス最大のアイドルとして認められた1963年の10月以来、マネージャーのブライアン・エプスタインの後 には、ビジネスマンたちがちょっとした列をつくるようになっていた。彼らは、ブライアンの行く先々について回っては、いろんなビジネ スの提案をしたり、時にはご機嫌を伺いながら、ビートルズ関連商品を作って販売する許可をもらおうと必死だったのである。当時のイギ リスでは、キャラクター関連商品ビジネスは、まだ成熟してはいなかった。しかし、アメリカのウォルト・ディズニー社の成功を参考に、 なんとかイギリスでもこの商売を成功させたいと目論む連中が数多くいた。果たして、ビートルズがその材料として長続きするか。この時 点では、まだ誰にも予測はつかなかったのである
〜 The Beatles / Thank You Girl 〜 The Beatles / Money (that's what I want) ・「すいません、エプスタインさん。先日、電話でお話ししましたビートルズグッズの件ですが、お話を聞いていただきたいので5分、いや 3分で結構です。時間をいただけないでしょうか、1分でもいいです。」マネージャーのブライアン・エプスタインの周りは、ビートルズ 関連商品で一山当てようと目論む連中であふれかえった。これをブライアンは、さほど悪いこととは警戒していなかった。むしろビートル ズを宣伝するにはもってこいの話と喜んでいたフシもある。ブライアンの考え方は、シンプルであり、純粋であった。彼は、ビートルズの ファンに最も喜んでもらい、楽しんでもらいたい。そのためにキャラクターグッズが存在するのであれば、それは喜ぶべきこと。ただし、 ファンクタブの会員を失望させることだけは、絶対にしてはいけない。そう考えていたのである。こうして、最初に作られたビートルズ グッズは、単純にアイドルになりきれる物。つまりコスプレ商品としては、最も効果的なビートルズカツラであった。これなら、男でも 女でも使える。男女兼用の商品として売り出せるし、大量生産が可能である。結果このビートルズカツラは、毎週数千個単位で生産され た。元々は以前ビートルズがシルバー・ビートルズと名乗っていた頃のメンバーであるスチュワート・サトクリフがハンブルク滞在中に、 恋人のアストリッドにカットしてもらっていたヘアスタイルであるが、今ではこうしてビッグビジネスに化けてしまった。ロンドンの街で もリバプールの郊外でも、このカツラは大ヒットし、まるで掃除のモップのような頭が街中を闊歩していたのである。続いてのグッズは、 これまたハンブルク時代に友人アストリッドが考案したコーデュロイの襟なしジャケット。こうしてキャラクターグッズは、レコード以上 のビッグビジネスに成長していくのである。 〜 The Beatles / Don't Bother Me 〜 The Beatles / Hey Bulldog
・大好評のビートルズカツラに続く商品は、襟なしのビートルズジャケット。これまた、ロンドンでもリバプールでも大流行間違いなし。ご 予約は、お早めに。 ── 三ヶ月ごとに発売されるシングルレコードが、軒並みイギリスでトップを記録し、人気テレビ番組でも最高のパ フォーマンスを見せるようになると、ビートルズの人気は間違いなく全国区のものとなった。当然、レコードに続いて関連グッズも商業化 された。最初は、モップヘアをコピーしたビートルズカツラ。第二弾は、襟なしジャケットである。このジャケットは、ドイツのハンブル クのクラブに出演していた時代の友人である女性写真家アストリッドがデザインした物。記事はコーデュロイで大胆に襟をカットしたもの であった。ちょっと見ただけでは、男物か女物か分からないデザインであったため、ジョンはオバちゃんのジャケット、オバちゃんジャ ケットと呼んで、最初は着るのを嫌がっていたぐらいである。しかし、そんな一風変わった見かけも定着すると怖いものなしで、今では その襟なしジャケットがビートルズの代名詞となってしまった。そして、これに続くサイドにゴムの入ったビートルズブーツ。こうして、 カツラ・ジャケット・ブーツ、この三点セットで誰でもビートルズに変身出来るという、イギリスのロック史上で最強のアーチスト関連 グッズが完成した。もちろん、これらのコスプレ商品以外にも関連商品は続いた。1963年のクリスマスをきっかけに、新たなビートルズ 商品が街中に溢れ出した。本物のサイン入りのプラスチック製のビートルズギター。ミニチュアのビートルズ・ドラムセット。アクセサ リーのビートルズ・ペンダントには、四人の写真が入れ込んであった。赤と青のビートルズ・エプロンには、ギターを弾くカブトムシの柄 があしらってあった。こうして、最初は順風満帆、大繁盛に見えたビートルズグッズ・ビジネスも、やがて様々な問題を抱えていくのであ る。 〜 The Beatles / Drive My Car 〜 The Beatles / The Fool on The Hill
□リクエスト ・このアーチストが日本でアルバムを出した頃なんですが、友だちの車でドライブに行ったときの話。安いカーステレオで、よく聞こえない 何かとてもジョン・レノンっぽい曲が流れてきたんです。友だちが言いました。「ジョンの未発表曲だぜ」「え、本当か?」結局後日、だ まされていることが分かったんですけど、あの日のドライブは夢のようで、ぼくは幸せでした。(白井市/男性) 〜 Beady Eye / Bring The Light (小林)この友だちは、両方の音楽が分かってのジョークだから面白いね。 ・この前の番組「ザ・セッション」で、斎藤誠さんが007ゴールドフィンガーの曲を紹介していました。また、その後で、克也さんが映画や 音楽の日本語の題名について解説され、興味深く聞いていました。私は、007の強烈な映画の題名、ビートルズ、ポール、ウイングスと 連想し、007死ぬのは奴らだ、それからオープニングのセクシーな影の映像に胸を踊らせた当時を鮮明に思い出しました。(松戸市/男性) 〜 Paul McCartney & Wings / Live and Let Die (小林)ポールは、すごい曲を作りましたよね。
・オリジナルは、チャック・ベリーらしいんですが、ELOのジェフ・リンは、自称ビートルズ・チルドレンらしいので、ビートルズを聞いて カバーしたのは、ほぼ間違いないでしょう。(杉並区/男性) 〜 ELO / Roll over Beethoven (小林)間違いじゃないですけど、この曲はとても有名な曲で、時代を考えてみると分かるんですけど、もうELOは何十もの、この曲の カバーバージョンを聞いていたはずです。それからこれは、ベートーベンを蹴っ飛ばせとかいうタイトルがついてるけど、本当の意味は 墓の中でベートーベンが寝返りをうっちゃうという意味なんですよ。 (小林)リクエスト、自分勝手な音楽体験だとか近況などを一言二言加えてお願いします。採用の方には、イシイのミートボールなどをセットにし て、プレゼントしております。きょうの話はビートルズグッズなんですけど、ぼくも実際にビートルズカツラってのは、アメリアの友だちが、 友だちというか知ってる人間が、仕事の時はしてないんだけど、土曜日とかカツラ着けてきたときはビックリしましたよ。本当に流行っていたん ですよね。というわけでまた来週、お相手は小林克也でした。
全角で英数字を書かないで欲しい
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年4月10日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(4月10日) ・1970年 (41年前) 「ポール・マッカートニー」というLPが、当時はCDじゃありません。LP、ま、アルバムですが、これが発売になりました。そして、 ポールは、「ビートルズを辞めた」という風に宣言します。事実上、ビートルズが解散したというわけで。ま、解散しましたよという 発表はなくて、ポールが脱退したということで「解散」。この番組を聞いてる方は、「二週間前、そういえばリンゴがソロの第一号を 出したよな」と。そうなんです。リンゴ・スターは、ポールの家に行って、発売が近いということを知って、喰い合うじゃないですか リンゴのアルバムを出して、ポールのアルバムが出たら、ポールの方がおそらく強いでしょうから、自分のが売れなくなるってんで 延期してよーという風に言ったんです。しかし、ポールは断ります。強行します。ポールの考えだと、あれだけ気合を入れて、リーダー シップを取って、ビートルズのアルバム Let it Be をやっていたのに、メンバーは非協力的だったじゃないか。おまけに後始末を、勝手 にフィル・スペクターというプロデューサーに頼んだではないか。ポールは、面白くないわけです。だから、いまさら何を言ってるんだ ということで強行して、リンゴのアルバムが出て二週間後、ポールのアルバムが出ます。ポールは、本当に用意周到に色々やっていたと 見えて、郊外の牧場にスタジオがあります。そこで個人的に録音を色々していた。それと、このアルバムには、個人の録音、自分のウチ の録音と、ちゃんとしたスタジオの録音があります。だけど、ポールの家のも、大変立派なスタジオなんですけど。プライベートな録音 とスタジオ録音が混在したアルバムなんです。で、スタジオ録音で聞いていただきます。ウイングズとしてもお得意のレパートリーで、 ライブでは必ず盛り上がった。コーラスは、今は亡きリンダ・マッカートニーです。
〜 Paul McCartney / Maybe I'm Amazed □ビートルズグッズ ・“ビートルズグッズ、好評発売中。これで、あなたもビートルズになれる!”1963年の秋以降、ビートルズの人気は全国区となった。そ うなるとレコード会社以外にも、様々な分野の商売人たちが、マネージャーのブライアン・エプスタインの元に群がってくる。みんな、何 としてもビートルズ好景気にあやかりたいのである。まず手っ取り早いのは、ビートルズに関連するキャラクターグッズの製造販売。もち ろん、これはマネージメント事務所である、エプスタインのNEMSに許可をもらわなくてはならない。元々ブライアンが所属レコード会社 のEMIパーラフォンと結んだ印税契約では、シングル盤の売り上げ一枚につき、ビートルズ側に入る金額は何円という微々たるものである。 これでは、シングル盤がいくらチャートのトップになっても、収入はタカが知れている。それもまだ、アメリカや全世界でブレイクする前 の話。イギリスの売上枚数では、大金持ちになることは、難しい。悔しいが、これが現実である。ところが、キャラクターグッズとなると 話は別である。レコードのように、苦労して曲を書いてレコーディングして、プロモーションのために全国を回る必要もない。業者に使用 許諾を認めるだけで、相手は勝手に商品を開発し製造し、全国で売りまくる。ビートルズ側は、何もしなくてもいい。これぞまさに、不労 所得である。ブライアンは、この話に最初は強く興味を示した。と同時に、かなり慎重にもなった。うまい話には、必ずウラがある物であ る。固いビジネスマンとして知られていたブライアンは、じっくりと考えてみることにした。ビートルズは、ミュージシャンとしては、本 物だ。しかし、今後未来永劫、このパワーを保ち続ける事はできるのか。あのエルビスだって、軍隊に入隊してからは、間違いなくパワー ダウンしている。じゃ、ビートルズはどうだ。やはり、稼げる時に、とことん稼いでおくのがいいのか。いや、それは消耗されるだけだ。 じゃ、どうする。自問自答を続けるブライアン・エプスタインであった。
〜 The Beatles / Norwegian Wood (This Bird Has Flown) 〜 The Beatles / Paperback Writer ・「エプスタインさん、ビートルズのキャラクターグッズの販売権、ウチに任せてもらえないでしょうか。レコード印税の何倍も、いや何十 倍もお支払いできると思いますよ。」1963年10月以降、ビートルズの人気が全国的なものとなると、マネージャーのブライアン・エプス タインの元には、毎日のように関連グッズの業者がアプローチしてきた。元々、父親の資本で成功していたリバプールの電気製品チェーン NEMSのレコード販売部門を任され、きちんとした実績を上げていたブライアンではあったが、アーチストのマネージメントならまだしも キャラクターグッズの事となると、全く想像もつかないジャンルである。これは、しっかり勉強しなければならない。ブライアンは最初の 内、群がってくる業者に販売権を与えるかどうか、個々の商品について吟味をしていた。まず彼が考えたのは、商品の品質を吟味すること。 趣味の悪い物や、購入後しばらくたってゴミになってしまうような物は、絶対に販売権を与えないというポリシーを持って望んだ。そのお かげで、最初はこんなゴミみたいな物を買って一体どうするの?と批判的な購買者の親たちも、その品質の良さを認めるようになっていた。 襟なしのビートルズジャケットは仕立ても良く、上品な上に丈夫で裏地も付いている。ビートルズセーターは羊毛100%で、当時の価格の 35シリング。今の価値に換算すると7〜8,000円では、むしろ安いくらいであった。こうして、なかなか評判の良かったビートルズグッズ であるが、たちまち無認可の商品が出回り始めた。所属事務所のNEMSエンタープライズは、ビートルズという商標には権利を所有していた が、偽物は a のスペルを e に変えて、まさに法の目をくぐりぬけて、商品を売りだした。ブライアンのピンチであった。 〜 The Beatles / Yer Blues 〜 The Beatles / Old brown shoe
・何だと? ニセモノのビートルズグッズは、スペルが Beetles か。一字違いか。すぐに弁護士に連絡を取れ!こんなの、全部告訴してやる! ── マネージャーのブライアン・エプスタインは、怒り狂った。元々グッズ販売には、消極的であったブライアンであるが、ファンを裏切 らないように、きちんとした品質を持ち、リーズナブルな価格で売り上げるという業者にだけ協力し、好評を得ていた矢先のトラブルであ る。これには、彼も頭を悩ませた。結果、ニセモノ業者は、ビートルズのスペルを一字だけ変え、カブトムシ、ギター、モップヘアーなど ビートルズを連想させるイメージをたくみに使って、明らかに粗悪な商品で大儲けをしていた。もちろんブライアンは弁護士に相談し、こ れらの悪徳業者をすべて告訴し、全面的に排除しようと試みた。しかし、時代はまだ遅れていた。アメリカならいざ知らず、1963年当時 のイギリスで、このタイプの訴訟でトラブルを起こし、全国に監視組織を配置させることなど、まず不可能であった。それに、ビートルズ グッズがヒットするこの時点まで、ここまで価値のある著作権保有者など、イギリスの歴史上存在しなかったのである。つまり、ビートル ズがイギリスにおける、最初のキャラクターグッズビジネスの成功者であり、また同時に、粗悪品による被害者でもあった。そうこうして いる内に、1963年のクリスマスシーズンまでには、こういったビジネスは、すっかり複雑になると同時に、ビートルズ本体の活動が超多忙 となり、ブライアンはグッズ問題に悩むほど時間を割くことが不可能になっていた。考え抜いた結果、ブライアンはこのグッズ問題をすべ て顧問弁護士のディビッド・ジェイコブズに委ねた。こうして、ビートルズにまつわるビジネスも、新たな局面を見せていくのである。 〜 The Beatles / Baby, You're Richman 〜 The Beatles / Something
□リクエスト ・ぼくは、東京ドームでイーグルズのライブを見てきました。実は、今回が18歳にして初のライブ体験で、興奮しました。推定平均50代の ファンに囲まれ約三時間。最高の思い出になりました。イーグルズも、もうみんなオジサンだから、来日は今回が最後なのかな。となると もっと年上のポール・マッカートニーは、もう来日公演しないのかな。もしポールが来たら行くっきゃねぇ。もしチケットが取れたならで すが、リクエストはコンサートのアンコールを除けば最後のナンバーだった、この曲をお願いします。(福島県白河市/男性) 〜 The Eagles / Life in The Fast Lane (小林)地震は大丈夫でしたか? ・先日、ベストアルバムを買いました。AIKOです。この曲を聞くたびに、ビートルズから始まる。のタイトルを思い出し、AIKOもビートルズ で始まってるのかな・と共通点を探していますが、見つかりません。日本人だったら、好きなアーチストです。(千葉市美浜区/女性) 〜 AIKO / カブトムシ (小林)そうですか、最初のドラムズなんか、リンゴ・スターっぽかったでしょ。「日本人だったら」って、ぼく気になるんですよ。後、「日 本人に生まれて良かった」、いつも気になるんですよ。ただ、それだけのことです。 ・ビートルズに関しては、私は完全にレノン派です。ビートルズ解散後のポールのサウンドは、でもやはりイイですね。ポールがベーシストと いうこともあり、特にウイングズの頃はベースサウンドを前面にフィーチャーした、ドライブ感があるナンバーが何曲かありますが、この曲 は、その代表的なものです。そこでリクエストですが、ロングバージョンをお願いします。ライブで演奏されたら、かなり盛り上がると思う のに、意外ですが聞いたことがないんです。(小平市/男性) 〜 Paul McCartney & Wings / Junior's Firm
(小林)ビートルズグッズの話は面白いし、時々何年かに一回ぐらい、ビートルズフェアみたいなのがデパートで行われたりするんですけど、すごい 商品があるんですよ。ビートルズ鉛筆とか、ビートルズストッキングってあったっけな? 見ると、うわぁーすごかったんだなーって思うしね。最近 コンビニに行くと、ビートルズの音源が今ダウンロードで帰るようになったでしょ。だから、ダウンロード用のカードをコンビニで売ってるんです よ。ビートルズのデザインなんですよね。ああ、もう40年も50年も経ってるのに、ビートルズはすごいな。これもビートルズグッズじゃないかって 思いましたけど。それからみなさんのリクエストなんですが、よろしくお願いします。曲、選曲、それは好きな曲をね。それから、メッセージも あまり長くならないほうがいい…ね。要領良く、ふた言み言、音楽体験など。あるいは意見など書き添えて、よろしくお願いします。採用の方には イシイのミートボールなどをセットにして、プレゼントしてますのでよろしく。また来週よろしく、お相手は小林克也でした。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年4月17日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(4月17日) ・1966年 (45年前) Dr. Robert を録音しています。7枚目のアルバム Revolver セッションで、この日は伴奏のパートが完成した(とあります)。歌入れは二日 後にジョンがボーカルを入れています。で、この Dr. Robert というのは、ロバート先生というのは本当にニューヨークにいた人で、 チャールズ・ロバート。友だちに限り、いけない薬を処方しているという噂が書かれていて、これはビートルズがドラッグを直接的に扱 った最初の曲。というか、直接的に扱った曲って、そんなにない。ドラッグ体験っぽいものはあるけど、これは最初の曲。注目すべきは この後ビートルズは、ドイツ、日本、フィリピンとツアーに出かけるわけですが、このアルバムからは、ただの一曲も演奏していない。 まあ、新曲が多かったというのもあるかもしれないけど、シングルの Paperback〜が演奏されただけで、他は演奏されていない。ポール のホーンが入った Got〜とか、ストリングスが入ったElenor〜ならいざ知らず、Dr. Robert や Taxman はライブにものっていないとい う。これはまあ推測ですけど、Paperbackってのはポップスですよね。Dr. Robert、Taxmanというのはちょっと歌の内容がうるさいこと を言ってるわけですよ。だから、コンサートにふさわしくないと判断したのか。おそらくポールが主導の判断じゃないかと思いますけど この作品聴いてみましょうか。 〜 The Beatles / Dr. Robert
□ビートルズグッズ ・「ビートルズのレコードがヒットしても、印税は数%でしょ。レコードの商売なんて、イギリスじゃたかが知れてますよ。それに比べて、 キャラクターグッズ販売は、すごいですよ。あっという間に、億万長者。どうです、エプスタインさん。ぼくと組んでみませんか。」 ビートルズのシングル盤が次々にイギリスで一位になり、完全に国内では敵なしという状態になると、マネージャーのブライアン・エプス タインの元に、色々な儲け話が転がみこむようになった。確かに、ビートルズがEMIパーラフォンと結んだ契約の印税率は、ひどいもので あった。シングル盤一枚あたりの配当は一円かそこらで、文字通り雀の涙である。チャートの一位になったところで、その比率に違いはな い。それに比べると、キャラクターグッズのビジネスは旨みが違った。何と言っても、結果に対しての印税率はブライアン側が決められる し、レコードと違って、アイテムをいくつも販売することが可能である。つまり、レコードの場合、同じ盤を何枚も買うファンはそう多く はない。多く見積もっても、自分用・保存用・そしてプレゼント用の三枚が限度。ほとんどのファンは、一枚で済ませるだろう。それに対 しグッズの場合は、アイテムを出せば出すだけ、ビジネスチャンスは増えていく。このセオリーは、60年代から現在に至るまで、まったく 変わっていない。今では、英米でも日本でもほとんどのアーチスト事務所は、キャラクタービジネスの販売会社を別個に経営し運営してい る。素晴らしいコンサートツアーを行うその会場で、コンサートグッズを販売し、曲は思い出として、またお土産として、それらを購入す る。その金額は、CDアルバム一枚を買うよりも殆どの場合は高いものとなるが、かなり売れる。ただし、1963年の秋の時点では、これら は、本当に儲かる話なのかどうか、ブライアン・エプスタインには、まだ判断が出来ていなかったのである。 〜 The Beatles / Anna 〜 The Beatles / Here Comes The Sun
・「エプスタインさん。今やビートルズは、全国区のスーパーアイドル。この機会に大儲けしなくて、いったいいつ儲けるんですか。もちろん 悪いようにはいたしません。さあ、ご決断の時です。さあ、エプスタインさん。」 ── ビートルズのキャラクターグッズ販売に関して、ブ ライアンの元に多くの物販販売業者から、ひっきりなしに電話がかかってくる。しかし、1963年のクリスマスシーズンまでには、こういっ たビジネスは、すっかり複雑になると同時に、ビートルズ本体の活動が超多忙となり、ブライアンはグッズ問題になど時間を割くことが不可 能になっていた。考え抜いた結果、ブライアンはこのグッズ販売を、すべての顧問弁護士のディビッド・ジェイコブズに委ね、ビートルズ にまつわるビジネスも、新たな局面を迎えていく。ジェイコブズは、著作権侵害が摘発できる場合には告発し、それだけではなく、彼らの 自由な裁量により、新たな製造認可を出す権限まで受け継いだ。認可を受けようとする業者は、エプスタインのNEMSエンタープライズから ジェイコブズのベルメルという会社に回されるという流れが確立されたのである。しかし、このジェイコブズも既に面倒な案件を扱っており ビートルズビジネスに割く時間がないということもあり、これを部下であるエドワード・マークに任せた。しかし、このマークという男も 弁護士ではありながら製造業の専門ではなかったため、やはり仕切りなおし。ということで、ジェイコブズは改めて数十億単位のビジネスを 預けることの出来る人材を探した。結果、ジェイコブスが目をつけたのは、パーティーで何度か会ったことのあるニック・バーンという男。 当時のロンドンの社交界では有名な人物であった。こうした一連の丸投げ的なビジネスが果たしてうまくいくかどうか。この時点ではまさに 神のみぞ知るであった。 〜 The Beatles / Dig a Pony 〜 The Beatles / Lucy in the Sky with Diamond
・「今やビートルズは百年に一回出るか出ないかのスーパーアイドルですよ。でも、レコードの印税なんてたかが知れてるでしょ。エプスタ インさん、ここはキャラクターグッズの販売で一山当てましょうよ。」 ── そんな誘いがひっきりなしに来る中、マネージャーのブライア ン・エプスタインは、遂にその重い腰を上げた。しかし、自分の会社NEMSエンタープライズの数少ないスタッフを見渡してみても、その道 のプロはいない。トニー・バーロウは、宣伝のプロ。アリステア・テーラーは、自分の秘書。ニールとマルは、ローディとしてビートルズの ツアーやレコーディングに駆りだされる。数人の女性は、ファンレターの管理とファンクラブの運営でごった返しの状態。おまけにビートル ズはこの後アメリカへ渡り、世界征服へ進むという膨大な野望があり、ブライアンはそれを実現させるために寝る間も惜しんで頑張ってい る。1963年の秋以降ロンドンのオフィスには、実はアメリカからの問い合わせがぼつぼつと着始めていたのである。もちろんブライアンも ニューヨークに飛んではコンサートプロモーターとの会議に望んでいた。これでは、とても自分では無理。 ── 都合により、今回の記録はここまでです。 〜 The Beatles / Penny Lane 〜 The Beatles with Billy Preston / Don't Let Me Down □リクエスト 〜 John Lennon / Power to the People 〜 The Beatles / All My Loving 〜 Paul McCartney & Wings / My Love
ええっ キロックトニーさんどうしたの? じゃあ続きはおいらが録音から起こします。
>>116 の続き
これでは、とても自分では無理。
そう判断したブライアンはキャラクターグッズの業務を顧問弁護士のデイビッド・ジェイコブスに委託することを決めた。
そして同じく多忙を極めるジェイコブスも自分の部下に丸投げすることを考えるが、やはりこれはプロに任せるべきと判断し社交界で有名な
ニック・バーンという人物に話を持ちかけた。このニック・バーンという男がなかなか興味深い人物で、地方の地主の息子にして以前の職業
がイギリスの近衛兵、さらにはアマチュアながらレーシングドライバーでもあるというユニークなキャラクターを持っていた。
このバーンとのパートナーシップがビジネスに利益をもたらすかどうか、関係者全員期待と不安でいっぱいであった。
〜 The Beatles / Penny Lane
〜 The Beatles with Billy Preston / Don't Let Me Down
1967年のマジカルミステリーツアーの Penny Lane。
そしてこれはGet BackのB面だったんですね。 Don't Let Me Down
119 :
ジョン・キロックノン :2011/04/18(月) 16:40:35.64 ID:iFkhPUUQ0
□リクエスト ・(松戸市/男性)こんばんは。東日本大震災から1カ月以上経ちました。日ごとに災害現場や避難先で協力し合う被災地の皆さん、自衛隊、消防 警察、行政の方々の力強さがクヨクヨ考えていた自分を勇気づけてさえくれます。ありがとうございます。Power to the People の邦題は 「人々に勇気を」だったそうですね。歌詞と意味合いが違うかに思いますが、ジョンは勇気を持って元気を出してがんばろう と言ってるように 感じます。 (小林)ちょっと違うのはあれですね。People って言うのはあれは、上にいる人ではなくて民衆とか一般の人のことですね。 〜 John Lennon / Power to the People 〜 The Beatles / She Loves You (小林)この曲は何回聴いても力をもらう曲です。 ・小林さん初めまして。(船橋市/中学卒業生)She Loves Youお願いします。音楽の教科書にHey Judeが載っていたり、英語の教科書に Hello Goodbyeが載っていたり、僕は前からビートルズに興味を持っていました。少し。それが去年マンチェスターのロックバンド オアシス の大ファンになってからもビートルズにもっと興味が出てきました。オアシスのメンバーがビートルズが大好きだという話は有名です。 (小林)そう、もろ影響受けてるもんね。 で先日 青盤赤盤のアルバムを買ってみました。知ってる曲もいくつかありました。ビートルズに関してはまだまだ初心者。 だから Ob-La-Di, Ob-La-Daってビートルズの曲だったんだ、とか思いながら聴いています。 この番組を通してビートルズの勉強をしたいと思います。 (小林)勉強っていうかw 楽しんでくださいKさん。
120 :
ジョン・キロックノン :2011/04/18(月) 16:50:06.04 ID:iFkhPUUQ0
(小林)もうひと方ビギナーの方がいます。 ・私がビートルズを好きになったのは昨年でした。たまたまラジオでビートルズの特集をしていたのを聴いたのがきっかけ。 彼が洋楽好きで話をしたらビートルズのCDを貸してくれました。高校生の娘といっしょに聴いたら「あ、この曲知ってる」と言われ。 今でもビートルズの歌は愛されているんだ と思いました。(横浜市/女性) 〜 The Beatles / All My Loving 〜 Paul McCartney & Wings / My Love (小林)All My LovingからMy Loveへきました。ポール・マッカートニーのMy Loveです。 ・きょうはポールのMy Loveをリクエストします。4月21日に27回目の結婚記念日を迎えるパートナーに送ります。 この曲は高校生のころに流行っていてよくラジオで流れていたんですが、受験勉強していると眠くなるのでラジオを消していた記憶があります。 若いころはビートの激しい曲が好みだったのでこの曲は嫌いな曲でした。しかし今はスローな曲が好きで、この曲も大好きな曲のひとつです。 (佐倉市/男性)
121 :
ジョン・キロックノン :2011/04/18(月) 17:04:55.82 ID:iFkhPUUQ0
(小林)リクエスト きょうは面白かったですよね。ビートルズを聴き始めたって言う方が二人いらっしゃって。
もうビートルズは知っているわけですよ。英語の教科書とか音楽の教科書にビートルズが載っている。
それから中学を卒業したばかりの方は、オアシスが好きになって、オアシスから入ってくる。
これは ものすごく今の時代だと当たり前のことなんですよね。ビートルズを今の若い人たちが好きになるっていうのは大変なことなんですよね。
まあ ビートルズの偉さというかビートルズが発しているものがあって、それが強いのでそこまで届くわけですけど。
だけど 今好きなのを今流行っているやつを聴いたりして、その中から おやっ?と思ってビートルズまでたどり着くっていうのは、なんかちょっと
ロマンティックだよね。今の時代だから出来ることですよ。今はもうインターネットなんかもすごいですし、映像なんかもあるし、
ちょっと辞書みたいにキーワードを入れるとすぐ昔の映像まで出てきたりするからね。だからほんとうにいい時代です。
そういう風な中でビートルズを 楽しんでほしい。昔の人の…こんどはビートルズからいろんな所へ旅立ってほしいっていうのがあるんですよ。
それは無理でしょうかねえ。エヘヘ。
リクエスト待ってます。 採用の方にはイシイのミートボールなどをセットにしてプレゼントしております。
[email protected] で待っています。
ありがとうございます。 きのうは、途中から町会に参加したのですが、その時うっかりチューナーをオフにして出かけてしまいました。 もう、記録係から引退してもいいですか?
123 :
ホワイトアルバムさん :2011/04/18(月) 20:28:55.54 ID:iFkhPUUQ0
いえいえw 記録係続けてくださいよ。お願いします。
いや、もう潮時です。
惜しいな
ビートルズの世界制覇サクセスストーリーも これからが佳境ですね。 ブライアン・エプスタイン氏をはじめとするビートルズの裏方さんたちの 珍しいエピソードが聴けるのもこの放送の素晴らしいところですね。
え〜〜、とりあえず、いまのビートルズ・グッズのお話までは、 記録を続けたいと思います。 ■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年4月24日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(4月24日) ・1972年 (39年前) アメリカで、 Woman is a Nigger of the World / Sisters O Sisters のシングルが発売になります。ジョンとエレファンツ・メモリーバンド ディック・キャヴェット・ショーというテレビの番組に、このプロモーションを兼ねて、 ショーに出るわけです。で、そのショーの本番の後 ジョンはインタビューで「自分は、アメリカの政府に目をつけられて、いつも尾行されている。そして、電話が盗聴されている。」というこ とを語るんであります。アルバムはSometime〜、その中に入った曲で、シングルで出ちゃうんです、この強烈な内容の曲が。これは ジョン・レノン(の曲)ですけど、まあ一般の解釈では、半分以上がオノ・ヨーコの思想だということも言われております。歌の内容なんです がフェミニスト運動のテーマみたいなものですね。女性は、世界のニガーである。ニガーというのは…、黒人たちの…、みなさん、音楽の ラップだとかヒップホップだとかをやってる方は、これは汚い言葉なんだなということが分かっています。つまり、女は世界の嫌われ者だ ということなんですよね。これは、ニガーという単語が使われてて、アメリカでは当然ラジオで放送禁止です。ただ、黒人の地区では逆に これは女性の地位を上げようというメッセージソングであって、またその奥には黒人の為を思っているという歌でもあるからという支持を 受けたりもするわけですね。ジョンとヨーコは、かなり珍しいテレビ出演でリップシンクで、特に当時はだいたいテレビは口パクなんですが
口パクじゃない映像で、今でもYouTubeでは見ることが出来るんですよ。プロデュースは、ジョンの親友、この時点で尊敬していたフィル・ スペクターというのも、その後でケンカすることになるので。バンドは、ニューヨークのエレファンツ・メモリー。それから、クレジット では、インヴィジブル・ストリングスという透明ストリングスというんですかね、も加えられている。イギリスでは、発売になりませんで した。アメリカではただ、この過激な内容ですし、この曲ですし、誰も買いませんよね。最高位は、57位までしか上がりませんでした。と ころが面白いことに、日本のオリコンだともっともっと売れたんですよ。さ、改めて聞いてみましょうか。 〜 John Lennon Elephant's Memory and Invisible Strings / Woman is the Nigger of the World いまから39年前のきょう、ジョン・レノンがシングルとして、シングルとして、この曲を出すんだよ。ビートルズが解散して、ポールが 出す曲は、いわゆるポップスだよね。ロックというか、ポップスを出していくわけですよ、みんなが歌えるような。ジョン・レノンの場合は これは個人的な声明文みたいなものでしょ。ジョン・レノンとポールの違いというのは、ココにあるわけですよね。ま、ジョンがオノ・ヨー コという人と結婚したことによって、もっとこのトンがっていくわけですけど、その生き様というのはメチャクチャ違いますよね。
□ビートルズグッズ ・「ビートルズのキャラクターグッズ、これはどう考えても大儲けできる。どうです、エプスタインさん。考えることはない、いますぐ始めま しょう。」レコードの印税よりも、確実に儲かる商売。それは、キャラクターグッズの販売。もちろん、いまでは世界中のロックアーチスト のマネージメントが当然のように行い、コンサートツアーには欠かすことの出来ないビジネスとなっている。なぜ、アーチスト関連のグッズ ビジネスが大きな収益を上げるのか。いま一度考えてみると、それはまず原価にある。アルバムに記録する十数曲を作るには、まず作曲とい う大変な作業があり、レコーディングに移る。もちろん、スタジオ代も安くないし、エンジニアにも有名な人であれば、それなりのギャラを 払わければならない。アーチストがビートルズのようにサウンドにこだわり、何ヶ月もスタジオを押さえて作業を行うとなると、それなりに 制作費は増えていき、その最終的な費用を回収するには、何万枚、何十万枚という最低の枚数を売らなければならないという計算になる。そ れがもし売れなければ当然収支は赤字となり、これはもうバクチとまではいかないまでも、かなり不確定なビジネスである。これに比べグッズ 販売ビジネスは、リスクが少ない。もちろん、それは対象となるアーチストがアイドル的に世の中で認められているか、カリスマとして崇拝 されているかに限定はされるが、いずれにしてもデザインを含む制作作業はほとんどの場合、外注のプロの仕事となるため、アーチスト側の 不安は少ない。さらに印税の面で考えても、ビートルズがその最初の契約に結んだ印税よりも、はるかに割の良いパーセンテージが保証され る。これは、ビートルズにとっても、マネージメント側のブライアンにとっても、まさにおいしい話であった。ただし、ジョン・レノンだけ は、「こんなの、ロック・ミュージシャンの仕事じゃない」という理由で、よくは思っていなかったというエピソードもある。 〜 The Beatles / Revolution No.1 もちろん、ジョン・レノンの作品です。ジョン・レノンの改革というんですかね、革命に対するスタンスというのが、うまく描かれている作品 をお送りしました。
・「もしもし、エプスタインさん。弁護士のジェイコブスです。ビートルズのコンサートグッズの件ですが、ビジネスを任せられる人を見つけ ました。ニック・バーンという男でして、一度会ってはいただけないでしょうか。」ビートルズのキャラクターグッズ販売に関して、そのす べてを任せていた人物、顧問弁護士のディヴィッド・ジェイコブスという人物から連絡が入った。ジェイコブスが見つけてきた人物ニック・ バーンは、イギリスの地方都市の地主の息子で、社交界ではちょっとした有名人であった。バーン自身も、ロンドンのチェルシーにある高級 な自宅フラットでしょっちゅうパーティーを主催していたので、小柄で茶目っ気があり、話術は巧み。お金持ちでありながら、かつては近衛 兵として国の仕事に従事していたという家柄。かと思うと、アマチュアレーサーとしてもスポーツカーを操り、自由気侭な生活を送っていた。 そんなニック・バーンの本当の仕事は、いま一つハッキリはしなかったのであるが、サブカルチャーの中心であったチェルシーセットのメン バーであることを、常に自慢としていた。この会のメンバーには、社交界にデビューしたばかりの女性、ボヘミアン、上流階級の師弟、 魅力的な不良青年、そういった連中が既に50年代後半からキングスロード界隈に集まり、優雅に暮らしていたのである。もちろん、バーンも 遊んで暮らしていたわけではない。ショービジネスや一般的な小売業にも手を出し、それなりに収益を上げていた。50年代にはソーホーで コンドルクラブという店を経営していたし、当時の妻はファッションデザイナーでブティックを経営したりもしていた。さて、ビートルズの グッズ販売を引き受ける人間を探していた顧問弁護士ジェイコブスが選んだ、このニック・バーンという人物。ビートルズに大きな収益をも たらすことが出来るのか。数ヶ月後には、答えが出るのである。 〜 The Beatles / Octopus's Garden (Love)
感謝します
いかがですか。OctoPus's〜、Sun King これが…、2006年のLove。ジョージ・マーティン父子がやったんですけど、高く評価されています。 これがきっかけになって、ビートルズの曲をいじって、いろんな例えばテンポを変えたりとか、ディスコナンバーに仕上げたりとか、そういう のを各自が自分のサイトなんかで発表したりする、世界的なブームになっちゃったりするんですけど、見事にビートルズを今に生き返らせた 作品ですね。 ・「キャラクターグッズの販売は、レコード印税の十倍、いや百倍は儲かる。それも、こっちには何のリスクもない? こんなウマイ話がこの世に あるのか。」ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインは、屈折した青年期を送ってはいるが、根っから真面目で誠実な男であ る。父親から譲り受けたレコードストア「North End Music Store」、通称NEMSもブライアン独自の音楽を評価する才能と、きっちりとした 事務管理で、立派な収益を上げていた。そんなブライアンからすると、ロック界に転がっている、いわゆるモンキービジネスは、理屈では 分かっていても、直感の部分で理解出来ないもので、判断の出来ないものも数多かった。しかし、今回のキャラクラーグッズの販売に関しては なんとして成功を収めたいと思い、顧問弁護士のディヴィッド・ジェイコブスに頼んで、そのビジネスを任せられる責任者を見つけてもらっ た。そんなジェイコブスが白羽の矢を立てた人物が、地方の地主の息子で実業家のニック・バーン。ジェイコブスが持ちかけた話は、バーン がヨーロッパをはじめ全世界でビートルズのグッズ販売を管轄するというものであった。しかし、当初バーンは、この話にあまり乗り気では なかった。というのも、この1963年のクリスマスシーズン、小規模ではあったが、既にかつらやブーツ、セーターなどのビートルズビジネス は始まっていて、それに合わせて海賊版も出回っていた。弁護士のジェイコブスは、この状態を整理する意味も込めて、バーンに仕事を依頼 しようと考えていたのである。バーンは、ビジネスマンとしては、かなりきっちりとしていたので、ブライアンの仕事ぶりが少しいい加減に
思えたとされている。しかし、実際にはブライアンがあまりに多忙であるということが分かり、ビートルズ側に力を貸すことを承諾。その後 ビートルズがアメリカで大々的にブレイクしてくれたら、当然ではあるが、グッズビジネスの天文的利益が約束されることは言うまでもなか った。 〜 The Beatles / A Hard Days Night 〜 The Beatles / She's Leaving Home いかがですか。名曲が続きました。Sgt〜の中の年老いた親が、娘がドアを開けて家出するのを見ているという、悲しい歌。 □リクエスト ・この曲の内容がわかりません。 〜 The Beatles / Rocky Raccoon ロッキーというタヌキ(ラクーン)が、自分の好きな彼女を寝盗られる話です。 ・震災以来、テレビの悲惨な映像から避けるためにラジオを聞いていたのですが、ビートルズの歌に涙が出てしまいました。 マディ・ウォーターズの話も良かったです。偉大な「泥水」を飲んでしまおうという話が良かったです。 〜 The Beatles / I Feel Fine ・お薦めの佐野元春の曲をお願いします。 〜 佐野元春 / 月と専制君主 Boys & Girls version 佐野元春の術にハマりましたね。Coccoがゲストで参加している曲がすごくいいので、これをお送りしましょう。 ・二ヶ月前にポールのライブをテレビで見ました。ポールは「戻りたいかい?ぼくは戻りたいよ」言ってました。 〜 The Beatles / Yes, it is
いや〜〜。せっかく記録したのに ほとんど話が進んでないですね。がっくり。
楽しませてもらってます、有難うございます
4月はキャラクターグッズの話が4週続いていますね。 克也さんが好きなエピソードなのでしょうかw
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年5月1日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(5月1日) ・1964年 (47年前) BBCのビートルズ特別番組 From us to You 録音。演奏した曲目は、以下のとおり。 I Saw Her Standig There Kansas City ~ Hey, Hey, Hey, Hey Happy Birthday I Forgot to Remember to Forget You Can't Do That Sure To Fall (In Love With You) Can't Buy Me Love Match Box Honey Don't ビートルズは、プレスリーを絶対やらなかったんだけど、クレイジーなファンしか知らないような I Forgot to〜ならOKにしたんじゃ ないでしょうか。 〜 The Beatles / I Forgot to Remember to Forget
ビートルズグッズのおはなしじゃなかったですね。 前回で終わりということでしょうか。 というわけで、記録の方もお休みとさせていただきます。
えぇ〜 (´・ω・`)
I Forgot to Remember to Forget、曲終わった後 「ポールが歌っていました、やっぱポールはプレスリー風じゃないように、わざとこう冷たく突き放すように歌っておりましたが、これがなかなかいいですよね」って言ってたけど どう聴いてもジョージ 小林さん耳大丈夫?
141 :
!ninja :2011/05/05(木) 00:02:38.57 ID:???0
>>137 の続き
これはBBCの放送からのやつですね。
I Forgot to Remember to Forget 元々はエルビスが歌っていた曲。エルビスはシンガーソングライターじゃないから、プロの人が作ったわけですが
曲は 別れた人の事をついつい思い出しちゃうっていう歌なんですよ。 I Forgot〜 言葉遊びをしている曲。ポールが歌っています。
ポールはプレスリー風じゃないように わざと冷たく突き放して歌っていましたが、これがなかなか良いですよね。
(小林氏ジョージと間違える?)
・「君!ビートルズを知らないの?そりゃかわいそうだね。なんといっても今まで見たこと無いくらいに最高の曲を演奏をするバンドなんだよ」 1963年も下半期に差しかかるとイギリスでのビートルズ人気はさらに上昇し、若者連中のほぼ全員がそのヒット曲を口ずさめるようになっていた。 クリスマスシーズンになるとビートルマニア”つまりビートルズにまつわる熱狂的な現象はさらにヒートアップ。 それもそのはず、ビートルズ自信が率先してクリスマスプレゼントになったのである。 かれらはロンドンのキングズベリーパークアストリアで開かれたクリスマスショウに出演した。 主催したのは もちろんマネージャーであるブライアン・エプスタインのNEMSエンタープライズ。 ビートルズの4人はこの催しで仮装を施しコントや寸劇まで披露したのである。 ジョージに至っては女装してヒロイン役まで買って出たほどの力の入れよう。 実はこういうタイプのコメディーは仲間内のパーティではずっと以前から披露していた。つまり、嫌いではなかったのである。 このクリスマス公演について 当時のアシスタントで後にビートルズの名盤のエンジニアに大抜擢されるジェフ・エメリックの記憶を辿りながら振り返って 見ることにしよう。 この時のジェフはまだ19歳。EMIの新入社員だった。この日ジェフは学生時代からの旧友トニー・クックとロンドン名物の二階建てバス「ダブルデッカー」で会場に到着した。 キングズベリーパークアストリア、この荘厳な劇場は過ぎ去りし時代の輝かしい記念碑でもあった。 エレガントな室内噴水、天井には輝く星がちりばめられ欄干の上の方にはイギリス王朝のお城が描かれている。 それはもうロンドンの歴史ある劇場と言うよりは アラビアの王子様が住むお城というイメージであった。 さて、この夜この劇場でビートルズが何を見せてくれるのか、楽しみに胸躍らせるジェフ・エメリックたちであった。
〜 The Beatles / Rain 〜 The Beatles / Maxwell's Silver Hammer なにか壮大な喜劇でも見ているような感じがする、アビロードの中に入っている1969年の名曲です。 そしてこの曲が好きだって言う人は 少ないですけどけっこういますよね。Paperback WriterのB面でした。Rain ・「あのビートルズがコンサートでコントをやってるらしいぞ」「さてはあの連中、コミックバンドを目指してるのかなw」 イギリス国内での人気は向かうところ敵無しのビートルズ。1963年の12月から1月中旬まではクリスマス公演を行うことになった。 主催するのはマネージャーのブライアン・エプスタインの会社であるNEMSエンタープライズ。 このあと恒例のイベントとなる このクリスマスショウについて、レコーディングエンジニア=ジェフ・エメリックの著書から抜粋してみよう。
144 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/05(木) 00:11:46.39 ID:uXkahkMp0
続きはまた明日以降に
おつかれさま ( ^^) _旦~~
146 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/05(木) 15:28:12.91 ID:uXkahkMp0
>>142 ロンドンのアストリア劇場の名前を訂正します。
○ フィンズベリーパークアストリア でした。
147 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/05(木) 15:37:32.04 ID:uXkahkMp0
□ジェフ・エメリックの回想 ・クリスマス公演の会場となったフィンズベリーパークアストリアは、最新のキワモノ映画や西部劇の二本立てを見るためにしょっちゅう足を運んだ場所。 しかし、ビートルズが登場するその夜は何か特別な雰囲気がただよい、入口付近では大群衆が集まっていた。 その正面の上の壁には なじみ深い4人の顔が大きく描かれ、そのサイズは縦3メートル横10メートル以上あった。 そう、あのビートルズが今夜このアストリアで公演を行うのだ。と、再び実感した瞬間なのである。 ジェフがビートルズのライブパフォーマンスを経験するのはこれが最初で最後となった。 恋人のいないジェフは旧友のトニー・クックと一緒である。 トニーはこの夜の出来事が夢か現実かわからないほど興奮していて、本当に頬(ほほ)をつねって確認したほどである。 それに 観客のほとんどが女の子であった、ということもジェフとトニーにとって刺激的なことだった。 ロンドンの12月の刺すような寒さに対抗するかのように彼女たちはロングコートを着ていたが、その下は露出度の高いミニスカートにブーツという出でたち。 バスを降りたトニーとジェフは大群衆をかき分けて劇場に入り 一階の自分たちの席にたどり着いた。興奮は最高潮であった。 〜 The Beatles / Lady Madonna (小林)いかがですか。これは分かった方は分かると思いますけどw。お馴染みの曲なんですけど2006年のLoveの中に入っています。 プロデューサーのジョージ・マーティンと息子の二人でプロデュースして、これはなんというかビートルズをちょっとやり直したような感じのアルバムですが。 最初に出た時は 賛否両論があったんですけど、ずっとこの番組でLoveのバージョンを聴いてるうちに「ああこれは ビートルズに愛情があってやってる。 すごいアルバムなんだな。」ということが良く分かってきましたね。
・「いやあ!ビックリしたよ。初めて見たあの大群衆。ほとんどが若い女の子で、12月だっていうのにみんなミニスカートにブーツなんだよ。 僕らは19歳だったんで、そりゃあもう刺激的だったよねえ。」 これは1963年のビートルズのクリスマスショウの思い出を語ったエンジニア=ジェフ・エメリックの回想である。 ジェフと友人のトム・クックは大群衆をかきわけて一階の席までたどり着いた。胸は高鳴った。 何と彼らの席はステージまで10メートルしか離れていない。まさに特等席である。 プロデューサーの計らいでビートルズの所属事務所NEMSから彼らと仕事をしているEMIのスタッフ一人一人に2枚ずつ招待券が送られた。 ジェフの上司でチーフエンジニアのノーマン・スミスや同僚のリチャード・ランガンもこのシリーズ公演を見に来ることになっていたのである。 1月の中旬まで30日間ぶっ続けという 信じられないスケジュールで行われた1963年のビートルズクリスマスショウは“歌もこなすコメディアン”ロン・ファリスの司会で始まった。 前座は大半がマネージャーのブライアン・エプスタインが経営するアーティストの事務所NEMSがかかえるシーラ・ブラック、ビリー・ジェイクレイマー フォア・モーストなど、ジェフにとってはスタジオでしょっちゅう一緒になる馴染みの深い顔ばかりである。 ショーの長さは3時間ぴったりで、休憩はなかった。アーティストはみんな自前の機材を使っていたので、 演奏が終わるたびに幕が下り舞台のスタッフがステージのセットチェンジを行った。 その間に司会のロルフが登場してしばらくネタを披露。そしてまた幕が上がり新たなステージが始まる。ロルフはこの調子でファンを煽りじらし続けた。 もちろん ビートルズは最後の最後まで登場することはなかったのである。 〜 The Beatles / Please Mr. Postman 〜 The Beatles / Hey Bulldog
149 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/05(木) 21:28:45.11 ID:uXkahkMp0
■リクエスト ・(東京都世田谷区/男性)高校で軽音楽部に所属しています。渋めの曲が大好きでバンドをやりたいのですが、部員がついてきてくれません。悩んでいます。 しかし この春で学年が上がって権力が廻って来たのです。まさに今がチャンス。バイト先の店長に相談したらこの曲を推されました。 アルバムが40周年でマニアが盛り上がっているらしいと知っていました。この曲のアウトロのやりきった感がたまらなく好きです。 (小林)店長さんもこれが出た時にリアルタイムでは聴いていないと思います。もし聴いていたら相当な歳ですからw。 高校生でこれが大好きで、また20代の方とか30代の方がこれが好きとか、良いものは聴き継がれるていう 心強いですね。 〜 Derek and the Dominos/ 愛しのレイラ (小林)リクエストした方は「このアウトロのやりきった感がたまらなく好きです」ていう。いつも放送なんかではここまでは流されないんですけど たまに聴くのも良いでしょう。前半はあまりにも有名ですけど、後半がなかなか・・・毎回聴き入ってしまうんですけども、聴き終わったところで 「ああ お疲れさま」みたいな、自然に出そうな感じですよね。いいものを聴かせて頂いたっていう感じがしますw。 ・(茨城県/男性)先週震災以来久々に放送を聴きました。震災の話は一切されず番組の中に日常が戻ってきた気がして とてもホッとしました。 さすが克也さんCM見ましたよw。克也さんが参加しているとは知らなかったのでとても驚きました。 (小林)ぼくも参加するとは思わなかったんでw驚いてますがw。 今日のリクエストは「日はまた昇る。がんばりましょう」のメッセージを込めまして。 〜 The Beatles / Here Come The Sun
150 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/05(木) 21:44:03.70 ID:uXkahkMp0
(小林)エリック・クラプトンのレイラがかかってジョージ・ハリソンがかかって、この二人が親友だった。
Here Come The Sunはエリック・クラプトンの家で二人が裸で日光浴をしている時に この曲をG・ハリソンが書いたそうです。
太陽がまた昇って来たよ、ていう良い気分の曲。ただ単にシンプルにその事を歌っているだけで、世界が成り立つっていう。
やっぱりこれは すごいミュージシャンだからだと思うんですよね。
「太陽が上がってその喜び」というのが、あまり詳しく どうしてこうなって気分がいい みたいにことじゃなくて 音だけでそれを伝えていますね。
震災後ということで みんな気を使って音楽を選んだりするわけですけど、わかる事は ふだん聴いている音楽が一番力を与えてくれるんですよね。
気を使って がんばれの歌っていうのも良いかもですけど、ふだん聴いている音楽の力強さというのが改めて分かる感じがします。
・(いなじき市?/女性)このところ体調が悪く寝たり起きたりの日々。こんな自分が疎ましく感じています。
(小林)がんばってください。あなたのリクエストかけますから。
〜 The Beatles / Let It Be
(小林)エリック・クラプトンのレイラは本当に傑作ですよね。聴き継がれる価値のある曲。
物語はジェフ・エメリック ビートルズのメインのエンジニアになる人が 十代の頃入社するわけです。
その頃ビートルズも二十歳か二十一歳ぐらい?それでだんだん大きくなっていくわけですけど。
今までビートルズの本とかいろいろ書いたものはあるんですけど、ビートルズの音楽をビートルズより若くて「ビートルズはすごいよ」って自分たちで初めて発見する世代ですよね。
そして彼らもプロなんですけども、ミュージシャンとは違ったエンジニアとしてのプロですけど。こういう本はなかなか無いんです。
だから、これからちょっとの間続くと思いますけど。ジェフ・エメリックの見たり感じたりしたビートルズ というのは本当に新鮮です。お勧めします。
リクエストのあて先は
[email protected]
151 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/09(月) 22:54:28.10 ID:rfV712NI0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年5月8日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(5月8日) ・1970年(今から41年前) ほぼビートルズ解散状態。イギリスでLET IT BEのアルバムが発売になります。ものすごい難産の末やっと発売になりました。 レコーディングが始まったのは1969年の1月。寒い冬 トゥウィッケナムの映画スタジオ、音楽を録るスタジオじゃないんですよね。 これはポール・マッカートニーのアイデアで、ポールだけがメチャクチャやる気。 このころのポールは長い間みんな(メンバー)に会わなかったわけですけど、髪は伸びて顎ヒゲが伸びてちょっと熊みたいな感じなんですよw。 すごいやる気になってて。ただ他の3人の歩調が合わなくて。 集まったのはいいけど「何やる?」とか。ポールが率先して引きずるようにみんなを動かしていくわけです。 場所は音楽の方はアビーロード、アップルスタジオ、EMIから機材を持ち込んで撮影をして録音をして、 アップルのビルの屋上のセッションも録音撮影する。でもやっぱり中途半端な状態で終わって みんな投げちゃう。 で、ジョンとジョージのアイデアで、その時はもうすでに友達状態だったあのフィル・スペクターに丸投げをするわけです。 このフィル・スペクターは強引なプロデューサーですから、自分の世界を作っちゃうわけです。編集も彼が思うようにやる。 ダビングもフルオーケストラとかコーラスも入れたりして、あの有名なTheLongAndWindingRoadを本当に別物にしちゃう。 ポールはこれに怒るわけですよ。だから結果21世紀に入ってポールはLetItBeNakedというアルバムを出します。 「ほんとうは こういう風にやりたかったんだ」と言う。やっぱり根に思っていたわけですねw。 アルバムが発売になって、映画の方は5月20日にちょっと遅れて公開された。 映画ではジョンとポールが一本のマイクで歌っているオープニングのナンバーを聴いてみましょうか。 〜 The Beatles / Two Of Us
152 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/09(月) 22:55:25.22 ID:rfV712NI0
(小林)これはなかなかいい曲で「サイモンとガーファンクルみたいだ」って言う人もいるみたいですけど、 サイモンとガーファンクルの場合はぜんぜん違う世界ですよね。ポールのなんというか楽天的な明るさへ向かっている。 サイモンとガーファンクルはあれですか 心の中に向かっているっていう感じで、方向がまるで違いますね。
153 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/09(月) 23:00:09.43 ID:rfV712NI0
続きは明日以降に
おつかれさま ( ^^) _旦~~
?
156 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/10(火) 20:43:43.37 ID:m6SNqJ5y0
□ジェフ・エメリックの回想 「さあ!次に登場するのは そう!お目当てのビートルズ!も認めたナイスガイ、ビリー・J・クレイマーが率いるダコタス! 彼らはジョンとポールから曲を書いてもらったり、一緒にツアーを回ったり、とにかく深い関係なんだ。 彼らのあと 本当の本当にビートルズは出てくることになっている!。さあ! まずダコタスの演奏です!」 1963年12月から64年の正月にまたがって連続30日という過酷なスケジュールで行われたビートルズ・クリスマスショーは連続大盛況。 何といってもビートルズは演奏するだけではなく、幕間に4人そろっておバカな衣装に身を包み、舞台に出たり入ったりしながら ちょっとしたパントマイムもどきのようなパフォーマンスまで披露した。 もちろん、あのビートルズがあり得ない格好をして笑いを提供するのである。出来がどんなであっても客席は大爆笑。 途中、司会者でコメディアンのロルフ・ハリスは自分の持ち歌を披露し、ビートルズも自分たち以外の適当なヒット曲を披露する。 しかしそこは天下のビートルズ、そのまま歌っては面白くない。ということで、ジョンが持ち前の機転を利かせて、それらを替え歌にして 客をこれまた爆笑の渦に巻き込んだ。 客席で見ていたエンジニア、正確に言うとこの時点ではアシスタントエンジニアであったジェフ・エメリックは楽しみながらもビートルズの素晴らしさや その特別な存在感を再認識した。 彼らはエンターテイメントに徹している。レコーディングでは新人グループとは思えない創造性を発揮する彼らではあったが、 ここではそれ以上に、エンターテイナーとしての自分たちを潔く認め、それを楽しんでいるように見える。 あとになって考えてみると、この時代まだロックミュージシャンはアーティストとしては認めらてはいなかった。 ロックミュージックそのものもアートのフォーマット、つまり芸術の新しい形式として誰も認めてはいなかった。 それらをすべて高いステージに持って行った功労者は、もちろんビートルズだったのである。 〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever
157 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/10(火) 23:44:02.73 ID:m6SNqJ5y0
〜 The Beatles / Nowhere Man (小林)2曲続きました。こないだからビートルズの音が新しくなってて、この番組が始まった頃は 昔の音で聴いてたんだけれども、 今はもう また新しい音でずーっと聴いてるから、番組が新たに、なんていうか改装開店 再開店したような気分で聴いておりますけどw。皆さんはいかがでしょうか。
158 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/10(火) 23:45:24.57 ID:m6SNqJ5y0
・「ビートルズがパントマイムにコントだって?!」 「やつらもやっぱりロックから離れて行くんだろうなあ。」 1963年の12月から(64年)1月中旬までのビートルズ・クリスマスショーの噂を聞いた評論家連中は みんな彼らに批判的であった。 しかしこの時代、金をもらってショーを見せるということはイコール娯楽を提供するということに他ならなかった。 むしろそれが当然だったとも言える。ビートルズの4人はイギリスのミュージックホールの伝統にどっぷり漬かって成長し、マネージャーから タイツを履いて陳腐なコメディのネタをやるようにお願いされても、特に不満を訴えることもなく仕事としてこなした。 少なくとも1963年12月のこの時点ではそうであった。 そしてついにこの夜のメインアクト、トリを務めるビートルズがバンドとして登場した。彼らがステージに立つと 客席からは大歓声が湧きおこった。 お馴染みのエリ無しスーツに身を包んだ4人はすぐさま最新シングルのI Want To Hold Your Handに突入し、 それから20数分 客席では少女たちの絶叫しか聞こえない状態となった。 当時はいわゆるPAシステムというものが無く、ステージの両脇にいくつかボーカル用のスピーカーが置かれているだけという状態。 エレキギターはアンプの音だけ。ドラムスに至ってはマイクで拾うのは大会場だけに限られていた。 そんな状況の中で ビートルズは総立ちのビートルマニアと対決していたのである。 メンバーはかなりやる気満々で、ステージ狭しと歩きまわり客を煽ったが、それが逆効果となった。 盛り上がるどころか それが度を越してビートルズの演奏はかき消され台無しにされるという、いつものパターンが出来上がってしまったのである。 唯一 曲と曲の間をゆっくりととり熱狂する客を鎮めてソフトに演奏を始めたポールの持ち歌Till there was youが演奏された2分間だけ歌は聞こえた。 1963年 まだビートルズはアメリカでは無名に近いころの話である。 〜 The Beatles /Till There Was You
〜 The Beatles /If I Needed Someone (小林)Till There〜ポール・マッカートニーが歌っていましたが、お客さんがギャーッと騒いでもこの曲だけはちょっとスローなんで歌が聞こえたという。 元々ミュージックマンというミュージカルの中の曲。ペギー・リーというハスキーボイスの女性シンガーが歌ったのが有名でしたが、 それに触発されてポールが これをカバーしたということですね。 If I Need〜 これはラバーソウルの中に入っているやつ。アメリカの評論家が特に言っていたのですけど1970年代、ビートルズが出て来た時は ビートルズの影響を強くアメリカのアーティストが受けている。しかし、アメリカのアーティストがそれに返した音楽もビートルズに影響を与えている、 という風なことをアメリカの評論家は、けっこう西と東で良い競争が行われていたって。(言っていた) これは If I Need〜は、もしビートルズの本当のファンだったら 昔のアメリカのバッファロースプリングフィールドだとか、 クロスビー・スティルス・ナッシュ・&アンド・ヤングになる前のグル−プですけど。聴かれると「あー そうだ。ここにもビートルズがいた。」とか。 いま聴いた曲には バッファロースプリングフィールドはいますからね。確かに。
「ビートルズのショー、あれはすごいねえ。なんてったって歌がまったく聞こえないんだから。ただね、コントやパントマイムは良かったよ。彼らはけっこう役者なんだね。」 これは1963年のビートルズのクリスマスショーに対するある一部の評価である。 この頃の観衆はロックに芸術性など求めてはいなかった。つまりロックはクラシック音楽やバレエとはまったく違う異次元のものとして語られ、 単なるブームで終わるという見方も多かった。 もちろん 観客がどんなに金切声をあげて演奏を打ち消してしまっても、それはある意味お決まりごとになっていた。 ビートルズのメンバーも慣れっこになっていたし、慣れなければツアーなど続けられるわけがなかった。 それでもリンゴがShe loves youのあのドラムスのイントロを叩き出すと、客のボルテージはさらに高まった。 つまり客は本当は音楽を聴きに来ていたし、聴くことを望んではいたのである。しかし、ひとたびビートルズがステージに登場するともう会場は大絶叫の嵐。 これがまさに「ビートルマニア」であった。いったい何が少女たちをそうまで豹変させてしまうのか。それは4人のカリスマ性かヒット曲の持つマジックなのか だれにも証明することは不可能であった。 この夜 招待客として会場のアストリア劇場に足を運んだ エンジニアのジェフ・エメリックは回想する。 「ビートルズがステ−ジで使っているギターやベースは いつもレコーディングで使っているもので、それらをいつもとは違う角度から見ることは新鮮な経験だったね。 客席にいたおかげで 観客を惹き込む彼らの力を実感できたんだ。」 「あのステージから放たれるむき出しのエネルギーは レコードに込められているものとまったく同じだった。 きっとそのパワーがビートルズをチャートのトップに送り込んだ原動力なんだね。」
〜 The Beatles/ I Want To Hold Your Hand (小林)1964年 これがきっかけでアメリカで もうビートルズが爆発したっていうことですが。 4人のカリスマ性なのか ヒット曲のマジックなのか、ただ言えることはですね、かなり性的なものもあったのではないか。 ほとんどの座席が濡れていたり下に水溜りができていた。つまり お漏らしもあったわけですよね。それを言うとw アハーンって分かっちゃう所もあるよねw。
エメリックの回想良いね 半年ぐらい続けて欲しいわ
163 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/15(日) 23:09:35.76 ID:S0lspe0A0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年5月15日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(5月15日) ・1968年(今から43年前) ジョンとポールがニューヨークにいます。そしてアメリカのTonightという当時の深夜番組、10時くらいからスタートする番組ですが それに出ます。 1968年というと、ビートルズのファンとしては順番に思い出して欲しいんですけど、67年がSgt Pepper's Lonely Heart Club Bandでマネージャーが亡くなって そしてポールを中心にビートルズはやる気満々、ただポールが引っぱって行くような形。ポールのアイデアでアップルという会社がスタートします。 これはレコード会社ばかりでなくて いろんなクリエイティブなことをやっていこうという、ファッションまで手掛けた会社であります。 アップルからはメアリー・ホプキン(これは大ヒットになるんですが)という才能も紹介したりします。 で、ジョンとポールは本格的にアメリカで宣伝ということで、 「もう今までは自分たちは精神的にインド哲学のようなものに頼っていたイメージがあるかもしれないけど、 あのマハリシ・ヨギという人とはまるで関係ないんだ。自分たちは独立したグループだ。」 という風なイメージメイキングをするわけですよね、アメリカで。 プライベートなところでは ポール・マッカートニーはリンダ・イーストマンと出会うことによって結婚へとつながって行くという、 いろんな影響を与えたジョンとポールのアメリカ滞在であります。 1968年というとホワイトアルバムですよね。ホワイトアルバムにはジョンがこんな曲を入れています。 これはミア・ファーロウとその妹の事件が題材となっています。 〜 The Beatles/ Sexy sadie
ミア・ファーロウの妹の事件というのは、ミア・ファーロウは当時めちゃめちゃ売れていた女優でインテリ女優ですよね。 そのころはフランク・シナトラという(知ってますかねえw)プレスリーなんかの前の大スターですけどw フランク・シナトラと結婚しそうになるんですよ。まあいろんなことがあって、ビートルズがインドに行っている時にミア・ファーロウも来ているわけです。 その時にミア・ファーロウとジョン・レノンはおそらく知り合ったんだと思いますけども。 それがきっかけかどうか知りませんが。ジョン・レノンが ホワイトアルバムの曲はみんなインドで書いていますからね。 インドでほとんど完成したのがホワイトアルバムと言われていますから。
165 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/16(月) 22:45:31.55 ID:PYz8BRKP0
□ジェフ・エメリックの回想 ・「1950年代当時のイギリスは今よりずっと質素だったから、音楽はもっぱらラジオに頼っていたね。 テープレコーダーに録音して編集するなんて、今で言ったら違法ダウンロードよりもずっとスリルのある作業だったよ。」 これはビートルズの専属エンジニアとしてロックの名盤を数多く生み出す人物、ジェフ・エメリックの証言である。 ここからはジェフ・エメリックの回想録を元にビートルズサウンド誕生にまつわる話に迫ってみたいと思う。 ジェフ・エメリックことジェフリー・エメリックは1946年ロンドンに生まれた。 父親は家業である肉屋を営み、かつては仕立屋としてロイヤルファミリーの洋服も作るほどのキャリアをもつ母親も今では専業主婦。 特に音楽一家と呼べるほどのものではなかったが、エメリック家のラジオは24時間体制で響きわたっていた。 最初は音楽のジャンルも気にせずポップスもジャズもクラシックもオペラも幼稚園児のジェフリー君にとって欠かせないものとなっていた。 そんな幼い息子の音楽好きを見て 両親はクリスマスに小型のレコードプレーヤーをプレゼントしてくれたのだ。 音楽生活はこれでより豊かなものになったが、その数年後そのプレーヤーも大型の本格的な電蓄に交代する。 さらにイギリスの国営放送はテレビとラジオの二つのスピーカーを左右に置くことによってステレオ放送を受信できるという、 画期的な試験放送を行なっていて、ジェフはこのシステムにも幼いながらも興味を持って体験していた。 そんな中10歳になったジェフを魅了したのは当時のニューウェイブ的な存在であるロックンロール、特にエルビス・プレスリーやビル・ヘイリー、 チャック・ベリー、バディ・ホリーなどのシングルレコードはすぐにエメリック家のヘビーローテーションとなったのである。
166 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/16(月) 22:49:06.28 ID:PYz8BRKP0
〜Bill Haley & The Comets /Rock Around The Clock 〜Paul MacCartney/Is not That A Shame (小林) Is not〜ポールらしいですよねw。 Rock Around〜ロックの歴史に残る曲です。1955年のアメリカの大ヒット。8週間も1位を続けたそうです。 映画ブラックボードジャングル 邦題・暴力教室という映画のサントラで使われて、また世界でめちゃくちゃヒットするわけですけども、 これがオフィシャルにロックンロールの始まりの曲、始まりの大ヒットだと言われています。 P・マッカートニーがカバーしたのはIs not〜 ファッツ・ドミノというビル・ヘイリーと同じ頃活躍していたR&Bのシンガーですけれど。 今85〜6歳ではないでしょうか、ニューオルリンズのハリケーン・カトリーナに家を流されるんですよね、だけど無事でいまだに活動をしているという。 P・マッカートニーはニューオルリンズとかアメリカの南部に興味があって、この曲を発表した時点ではすでにニューオルリンズのスタジオだとか ニューオルリンズの沖合でヨットを使って録音したりもしています。
>>163-164 WIKIによれば、ミア・ファーロウの妹の事件?を歌った曲はDear Prudenceではないかと思われますが、克也さんのお話しのままとしました。
・「ビル・ヘイリー&ザ・コメッツのロックアラウンザクロック、あの曲をラジオで聴いた時はほんとうにびっくりしたね。 流れたとたん足でそして全身でリズムを刻んでいた。ダンスもスポーツも苦手な僕でさえもそうなんだ。これは音楽の革命だと思ったね。」 こう証言するのは 後にビートルズサウンドを造り上げた伝説的エンジニア=ジェフ・エメリック、彼の回想録から続けてみよう。 高校生活もそろそろお終いにさしかかり、進路を決めなければならないジェフ少年。もともと勉強はあまり好きではないため大学進学は考えていなかった。 とはいえ、家業である肉屋を継ぐなんてまっぴらごめん。父親と同じ人生にはまったく魅力を感じていなかった。 そんなジェフが考えたのが、レコード会社への就職。進路指導の先生に相談したところ あまり乗り気ではない。というのも、伝統の国イギリスにおいて 音楽産業はあまりに新しいジャンルである。クラシックの演奏家や音楽教師ならいざ知らず、ポップスやミュージックホールスタイルの音楽を作って レコードを売るなど1960年代の当時としては、あまりに不確かなビジネスである。 それでもジェフはロンドンにあるレコード会社を4社願書を出し、3社からは不合格の通知を受け取っていた。 そんな中、最後に面接を受けたのがEMI。ジェフは丁寧に髪と洋服を整えて面接に臨んだ。 当日の面接官の質問の中で印象に残ったのが 「ジェフリー君はクリフ・リチャードはお好きかな?」というもの。 ジェフは思った「なんだ!この質問ばかばかしいな。今のイギリスでクリフ・リチャードが嫌いな若者なんているわけがない。この質問あまりにピントがズレてないか。 大丈夫かなこの会社は。」 まだまだロックが市民権を獲得していない1960年代初頭のイギリスでのエピソードである。
〜 Cliff Richard /The Young Ones 〜 The Beatles/ All I've got to do (小林)ジェフ・エメリック。ビートルズの一番有名なエンジニアですが。彼が訊かれるわけです。「クリフリチャードってどうかな?」 そのクリフ・リチャードのThe Young Ones。 まずロックの時代になって最初の世界的な大スターはプレスリーですよね。イギリスでもプレスリーですけども。 そのあとでイギリスの国内のイギリス人のクリフ・リチャードというのは国民的なスターになってくるわけですよ。 ビートルズのクリフ・リチャードへの評価は、「あまりロックしないな。」と言う。 ただビートルズはクリフ・リチャードのバックバンドのシャドウズが好きだった。
・「『クリフ・リチャードが好きか?』なんて、そんなの当然に決まってるじゃないか!。これだから貴族出身の資本家連中はダメなんだなあ。 そんなことより、この面接試験どうなるんだろう?。また不採用かなあ?。」 後にビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになるジェフ・エメリック。EMIの採用試験の時 彼はまだ15歳であった。 すでに3社から不採用通知を受け取っていたジェフは、EMIが最後の神だのみであった。 どんなマヌケな質問にも一応誠意をもって真面目に答えるしかない。続く質問はまずまずまともなものであった。 「ジェフリー君はポップス以外にもクラシック音楽は好きですか?。」「テープレコーダーを使ったことはありますか?。」 「テープ編集の経験はありますか?」もちろんジェフはそつなく回答した。 エメリック家のラジオからはポップスもクラシックもオペラも良い音楽なら何でも流れていたし、親戚の家に行くとオペラも聴かせてもらっていた。 テープレコーダーはすでに自分専用のものを買ってもらっていたし、そのテレコには編集道具も一式付属していた。 ジェフやその仲間たちはラジオから気に入った曲をエアチェックし、ディスクジョッキーのしゃべりを編集によって落とし、曲順もこれまた巧みな編集により並び替えを行っていた。 つまり、ジェフ・エメリック少年は素人ながらすでにエンジニアとしてのクリエイティブな一面を持ち備えていたのである。 この時まだビートルズは、EMIとは正式な契約を結ぶ前。ジェフ・エメリックも、その存在はまったく知らない状態であった。
〜 The Beatles/ I Want To Hold Your Hand 〜 Carole King/ Take Good Care Of My Baby (小林)1961年 ジョンが20歳を越えてポールたちが10代の時のヒット曲 Take Good〜。 今では有名ですけどキャロル・キング、この頃はソングライターとして有名だったんです。 若いですよキャロル・キング、ジェリー・ゴフィン、夫婦ソングライティングコンビですよね。 ポールとジョンが一番参考にしたと言われるライターたち。しかし、こうやって64年のビートルズ、61年のアメリカのポップスを比べるとですね、 アメリカのポップスが いちばん甘いばっかりでヘナチョコな時代なんですよねw。 そんな時に64年ビートルズのI Want To Hold〜みたいなのが出てくるわけだから、アメリカの子供たちは夢中になっちゃいますよねえ。 いろんな面で二曲並ぶと、思わず作詞作曲の力だとか、ロックというか流行の音楽というのは、新鮮じゃなきゃダメなんですよね。 そういうことを感じました。
□リクエスト
〜 The Runaways/ Cherry Bomb
〜 The Beatles/ Obladi Oblada
〜 John Lennon/ Imagine
〜 The Beatles/ Got to Get You Into My Life
(小林)ジェフ・エメリックが音造りをしています。
□エンディング
(小林)ジェフ・エメリックという、ビートルズの音を造った代表的なエンジニア、彼の本はけっこう面白いですよ。
その本の中から、彼を通して見たビートルズ、けっこう面白いと思います。来週もご期待頂きたいと思います。
それからリクエストにもありましたが、労働者階級の英雄、ビートルズは労働者階級の出だと言われていますが。
階級というのはイギリスという国ではめちゃくちゃうるさくて、上の人がうるさい、下の人がうるさい、全体にうるさいんですよ。
ビートルズは3人は労働者階級の出身であるが、ジョン・レノンは違うというんですよね。
オノ・ヨーコもインタビューで「ジョン・レノンだけは違うんですよ。」というようなことをはっきりと言っています。
ただ、ジョン・レノンの場合は「自分は違うんだ。労働者階級の人間だ。」みたいな意識。
これにイギリスの連中は「違うだろ〜。労働者階級じゃないだろ。」と言う人がいるんですよ。
労働者階級のしゃべりと、その上の階級のしゃべりというのは、また違っていましてね。
たとえば、中産階級の人間がいかにも労働者階級みたいなしゃべり方をすると「あいつ、偽善者だ。」すぐイギリスは「偽善者だ!」て言う。
日本人はねえ、僕は広島出身だけど東京弁をしゃべってますけど。エヘヘへw。
リクエストは
[email protected] へ。
173 :
ホワイトアルバムさん :2011/05/19(木) 02:17:01.31 ID:XuCRpBg6O
Ain't that a shame
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年5月22日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(5月22日) ・1977年(今から34年前) ビートルズの音がめちゃくちゃ悪いアルバムが発売になりました。ビートルズがハンブルグのスタークラブという所で、誰かが録った、客席から ワンポイントのマイクが一つだから、家庭用のテレコで録ったと思われる音源がアルバムになって34年前の今日発売になりました。 ドイツのハンブルグのスタークラブでのライブというのは、ビートルズは何回もハンブルグに行くんですが、これは最後の頃の仕事なんですよ。 ここで録ったやつ。これは音は全然ダメですよw。ビートルズだからこういうアルバムが成り立つわけですよ。歴史的な価値があるわけです。 これを聴くとですね、その頃はビートルズがどんな場所で演っていたか、一つのマイクで録るとクラブの広さだとか、お客の情況だとか、 ビートルズがどんな音をしてたのか とか、音(質)はすごい悪いですけども、いわゆるCDみたいな音じゃないけども、 ビートルズというバンドにどれくらいの勢いがあったのか、本気でやっていたのか、力を抜いてやっていたのか、ていうのがですね、もうモロ見えるアルバムなんですよ。 これは実はビートルズは認めてなかったので、「卑怯である」ということで訴えるわけですよね。でも歴史的価値があるということで、OKになっちゃったわけです。 ハンブルグ時代のビートルズの貴重な音が残っているということなんですが。 その頃はビートルズはいろんなお馴染みのカバーをやっていますが、これはロックの歴史上有名なSweet Little Sixteenというチャックベリーの曲なんですが、 これをジョン・レノンはロックンロールのアルバム、ビートルズが解散してソロアルバムを出しますよね。あの中でやり直しています。
175 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/22(日) 20:10:49.26 ID:txfOUgjh0
〜 The Beatles/ Sweet Little Sixteen (小林)どうですか!。いやあ、お客は盛り上がっていますよねえ。スタークラブ・ハンブルグ、ここでビートルズが仕事をしている情景です。 すごいですよねえ。ロックンロールしてますよねえ。 あ、それから「ちょっと聴いたことあるよなあ。Sweet Little〜じゃないよなあ。」と言う方が。そうですよ、ビーチボーイズのサーフィンUSA あれは、この曲から頂いたものなんでw。ほぼ同じとw、歌詞が違うだけとw、考えて下さいねw。
□ジェフ・エメリックの回想 ・「ジェフリー君はポップス以外にもクラシック音楽は好きですか?」「テープレコーダーを使ったことはありますか?」「テープ編集の経験はありますか?」 これはビートルズの専属エンジニアとしてロックの名盤を数多く生み出した人物=ジェフ・エメリックがレコード会社のEMIの面接入社試験を受けた時の面接官の質問。 この時まだ15歳だったジェフではあるが、質問には卒なく答えた。音楽はロックからクラシックあるいはオペラまで、良いサウンドであると思われるものは何でも聴いていたし、 テープレコーダーの操作なんてお手の物であった。BBCのラジオ番組からエアチェックした音源は、DJのしゃべりはきれいにカットされ 絶妙の曲順に編集されて友達にコピーして配られていた。 ジェフ少年の音楽と録音に関する熱意と愛情は、当時のロンドンの学生としてはかなりのハイレベルのものだったと言っても過言ではない。 そんな質問に答えたあと、面接官はこう言った。「それではジェフリー君、ここで滑車を使った機械の図面を描いてもらおうか。」 ジェフにはこの問題がいったいどんな意味があるのか、まったく理解できなかった。 「自分はレコーディングエンジニアを志望しているのに、滑車の図面だなんて・・・。」でも、問題は問題である。 試験用紙の中央に丸を描いて、そこから中心線を引いて図面はすぐに描きあがった。 図面を見た試験官はすぐさま答えた。「どうやら正解のようですね。これで面接は終了します。」ジェフはなんだか肩透かしを食らった気持であった。 なんせ時間はまだ20分も経っていない。「これで試験になっていたんだろうか?。」頭の中は疑問と不安だらけである。はたして自分は試験に通ったんだろうか?。 それとも前に受けた3つのレコード会社と同じく不採用通知が来るんだろうか?。 その時試験官はこう話しかけた。「ジェフリー君。スタジオでも見学して行くかね?」 ジェフの胸は高鳴った。
177 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/23(月) 17:57:02.50 ID:CqxCDVPG0
〜 The Beatles/ Taxman 〜 The Beatles/ Lucy in the Sky with Diamonds (小林)いずれも今お話しています、ジェフ・エメリックが担当したアルバムです。
178 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/23(月) 18:00:22.45 ID:CqxCDVPG0
・「ジェフリー君。スタジオでも見学して行くかね?」EMIのエンジニア採用試験のあと、面接官がジェフ・エメリックに話しかけた。 ジェフ・エメリックとは後にビートルズサウンドを造り上げた伝説的エンジニアである。 この時まだ15歳であったジェフの胸は高鳴った。あの憧れのEMIレコードのレコーディングスタジオを見られるなんて!入社試験に合格したかはともかくこんなチャンスはめったにあるもんじゃない。 「ぜひお願いします!」ジェフはそう答え、面接官に連れられスタジオに向かった。 スタジオに着くと扉を開けながら試験官はこう言った「ここが 君の仕事場になる所だ。」「ええっ!これって、合格ってことかな?いや、まだわかんないぞ。」 「まあいい。とにかくスタジオが見られるなんて、もう二度とないかもしれない。」いろいろと予想を巡らすジェフであったが、次の瞬間すごい事が起きた。 扉を開けると、そこにはあのクリフ・リチャードとシャドウズがいたのである。 クリフ・リチャードといえばビートルズが登場する以前のイギリスのロックのスーパースター。ある評論家は「イギリスのプレスリー」と呼んだ。 そのクリフとバックバンドのシャドウズの面々は、スタジオのピアノを囲んでプロデューサーを交え、曲のリハーサルを重ねていた。 ジェフの心臓は張り裂けるようであった。できるだけ平静さを装い次の部屋へ移動した。 あっという間にスタジオ見学は終った。正面玄関を出る時ガードマンのおじさんが「坊主!幸運を祈ってるぞ!。」と声をかけてくれた。 外では車に乗ったまま父親が待っていてくれた。もちろんジェフはこう言った「お父さんすごいよ!スタジオでクリフ・リチャードを見たんだ。シャドウズと一緒なんだ。まだ信じられないよ!。」 しかし、ごく普通の肉屋の主人である父親には、なぜ息子がこうも興奮しているのか、全く理解できなかったことは言うまでも無い。
〜 Cliff Richard/ Summer Holiday 〜 The Beatles/ Please Please Me (小林)いずれも1963年の同じ頃のイギリスでのナンバーワンです。 しかし、クリフ・リチャードの方がビートルズよりも先輩で、だたジョン・レノンとクリフ・リチャードは歳が同じだったわけですけども。 クリフ・リチャードはですね、イギリスで国民的なスターになっているわけですよ。 ご存知でしょうか、イギリスのロッカーではポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、ミック・ジャガー、サーの称号を女王からもらっていますよね。 彼らよりも先にクリフ・リチャードはサーの称号をもらっています。ただ、クリフ・リチャードは、アメリカでは実は成功しなかったんだよね。 ちょっとした知名度はあったんだけれども、大ヒットは無かったんですよ。それをビートルズは知っているし、特にジョン・レノンは感覚的に 「クリフ・リチャードなんかロックじゃない。」みたいなのがあって、「あいつ、ニセモンだぜ。」みたいな意識があったらしいんですけれどもw。 だから、P・マッカートニとジョン・レノンは、クリフ・リチャードがやった後は自分たちはフォローしないようにしよう。 あれは悪い例として、アメリカで売るんだったらクリフがやらなかったような事をやろう、というように決めたフシがありますよね。 話はまだまだ続きます。
180 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/23(月) 18:46:16.07 ID:CqxCDVPG0
・「お父さん、すごいよ!スタジオでクリフ・リチャード見たんだよ!。シャドウズと一緒なんだ。まだ信じられないよ!」 後にビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになるジェフ・エメリック。EMIの採用試験の時、彼はまだ15歳。 そんなロックの好きな少年がスタジオで、天下のスーパースターを見たのである。この興奮ぶりも当然と言えば当然である。 一週間後、そんなジェフにEMIからの合格通知が届いた。もちろん嬉しかった。ついにあこがれのレコード会社にエンジニアとして勤務できるのである。 最初はアシスタントエンジニア、録音を任されるバランスエンジニアのもとで機材の操作をするだけの単純な仕事である。 給料は週給で4ポンド2シリング6ペンス、ドルに換算すると8ドルとなり、これは初任給としてはかなり安い部類であった。 正直、どこかの工場で掃除の仕事にでも就いた方がマシではあったが、ジェフはどうしてもレコーディングエンジニアになりたかったため 給料など二の次三の次であった。とにかくエンジニアとしてスタートラインに立てたのである。 これはもう天にも昇る最高の気分。合格通知には次の月曜日朝9時ぴったりに出勤するように指示が書いてあった。 当日の朝、ジェフは顔を洗い髪を後ろに撫でつけ、ふだんはめったに磨かない靴まで磨いた。記念すべき初出勤である。 16歳の誕生日までまだ3カ月あったジェフリー少年は、希望に胸を膨らませて地下鉄に乗った。 自分が入社するEMIにあのリバプールからやって来た最高のロックバンドが現れ、自分と一緒に世界中を驚かせる仕事をすることになるとは、 この時はまだ、全く予想もしないことだったのである。
〜 The Beatles/ Slow Down 〜 The Beatles/ kansas City (小林)ビートルズの初期の作品。全部カバーです。 Slow Downはボーカルを重ねたりするんですけども、その時一つ間違えてるという有名な・・・これは分かりますかね。 微妙に「まあ、分からないだろうから いいだろう」と言って、初期はけっこうそういうのがあったみたいですよ。 特にジョン・レノンが間違えるんですよね。ジョン・レノンは本当に目が悪かったんで、ちゃんと歌詞を(紙に書いて)やってても間違えたw、ていう話がありますw。 ビートルズだからいいんですよね。愛嬌ですよねw。 kansas City ヘイヘイヘイヘイでお馴染みです。
182 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/25(水) 23:23:54.86 ID:wkBPcU2q0
□リクエスト
宛先は
[email protected] (さいたま市/女性)小さい頃からこの番組を聴いていました。改めて最近聴いてハマっています。父が私に「礼音」と書いて「あやね」と名前をつけました。
「レノン」とも読むそうです。今では私の友人に「ミルク」という名前の子もいるくらいでw。「レノン」でも大丈夫だったかな、むしろ「レノン」の方が良かったなと思いました。
ビートルズの映画"A Hard Day's Night"を見て、ポールの話し方がハリー・ポッターに似ていると思いました。
(映画ハリー・ポッターに)ジョージという人物も出てきます。ハリー・ポッターも大好きなので、見比べて興奮してしまいました。
ビートルズが日本にも来日したことを最近知って、当時の様子が知りたくて、まだまだ勉強が尽きません。
大震災で心が落ち込んでいた時ジョンのPower To The Peopleを聴いて、くじけちゃいけないんだ、前を向かなきゃ、と実感しました。
大人になって震災を自分の子供に語る時が来たら、ビートルズの歌も伝えたいと思います。
〜 The Beatles/ A Hard Day's Night
〜 Billy Joel/ The Stranger (神奈川県/男性)のリクエスト。 (小林)若い人にもお馴染みでしょうか。The Stranger。日本ではけっこう売れましたよ。 この番組ではビートルズを中心に紹介しています。ビートルズに影響を受けた、あるいはビートルズに影響を与えたアーティストも紹介していますが。 ビリー・ジョエルはビートルズの影響をすごく受けていて、前にインタビューをした時「おれは小さい時は5人目のビートルズだと思っていたよ。」 みたいなことを言ってましたけど。実際にThe Strangerをやって、その後でナイロンカーテンて言うアルバムを出すんですよ。 ビリーは音楽を突き詰めていく人なんですが、ナイロンカーテンは不評だったんですよ。 だけどよく聴くとすごいビリーの苦労のあとが分かって、売れなかったというのは…暗いんですよね。 ビリー・ジョエルは実は制作前にビートルズのSgtみたいなすごいアルバムを自分も作りたかった。それがナイロンカーテンだった。 ナイロンカーテンは商業的に失敗して、そのあと明るい路線で来て80年代のビリー・ジョエルはお馴染みだと思いますけど。 ビリー・ジョエルなんかにも影響を与えてるわけですね。(ビートルズは)
(福島県会津若松市/女性)拝啓、初めてメールをお送り致します。会津では放送は聴けません。東京の娘夫婦の所に行くといつも楽しく聴かせて頂いています。 以前、大正琴を習ったときに演奏したことがあるYesterdayをお願いします。 私も主人も80歳代でロックの世代では御座いませんが、この曲を弾いた時は、とても気持ちが良くて、繰り返し〃お稽古をした覚えがあります。 (小林)80代の方です。今までリクエストで80代の方は初めてと思われます。いやあ〜良い曲というのは世代とかは関係ないんですよね。 〜 The Beatles/ Yesterday
185 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/05/27(金) 21:05:24.20 ID:+NqblnUl0
〜 The Beatles/ She Loves You (匿名リクエスト)ビートルズの中でも一番好きな曲She Loves Youをリクエストします。初めてこの曲を聴いたのは、伯父さんの影響で小学2年生でした。 あの頃歌手を夢見た少年が41歳。33歳の頃P・マッカートニーの東京ドームライブも見に行きました。 (小林)このShe Loves Youは今お送りしているジェフ・エメリックの話によると、前にもお伝えしたビートルズのファンの女の子たちがスタジオに乱入した事があるんですが、 そのあとで録音して、エメリックによると彼が担当した曲の中で 「一番」熱が入っていた曲だと 彼も言っています。 だから、聴く人もそう感じるんですね。
186 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2011/05/30(月) 13:04:31.35 ID:P+jV/Jdi0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年5月29日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(5月29日) ・1966年(今から45年前の今日) もうあと一ヵ月もするとビートルズが日本に来る、みたいなころであります。 ビートルズはロンドンのメイフェアホテルにボブ・ディランに会いに行きます。1964年ビートルズがアメリカに行ったときに、ボブディランが(自分から)会いに来ました。 ディランとビートルズというと、ディランの方がずいぶん先輩というイメージがあるけど、年はディランの方がジョン・レノンより若いんですよ 一つぐらい。 そしてリンゴ・スターよりもっと若いんですよね。だから、ほんとに同じ年の感覚で。ボブ・ディランに4人の中で一番入れ込むのはジョージなんですけど。 ジョンはディランに会う前は・・・、もちろんディランを聴くわけですけど1963年ぐらいかな。聴いて「なんだ、こいつロックじゃないなぁ」みたいなコメントをしています。 「フォークじゃん」みたいな。だけどディランに会ってからジョンは 影響的には、すごくディランを意識することになるわけです。 とにかく45年前の今ごろは、ボブ・ディランがロンドンに来ているわけです。 2日前の27日の晩はですね、ボブ・ディランのローヤルアルバートホールでのコンサートがあって。 ビートルズの4人はメイフェアホテルに行って、夜になってポールと二ール(付き人)がローリングストーンズのメンバーと、ドリーズというナイトクラブに行って盛り上がる。 ストーンズはブライアン・ジョーンズ(その頃のストーンズの中心です)が夜を徹してブルースセッションをディランたちと行なった、という記録もあります。 この時のボブ・ディランのコンサートですが、バックはホークスというグループ、後にザ・バンドになる人たちであります。 ただ、ブーイングを嫌ったドラムスのリボン・ヘルムは参加していません。イギリスへ行って受けなかったらどうしよう、みたいな感じですかねえw。 で、この曲がライブのクライマックス。おなじみの。 〜 Bob Dylan/ Like A Rolling Stone
187 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=8,xxxP】 :2011/05/30(月) 13:10:21.96 ID:P+jV/Jdi0
□ジェフ・エメリックの回想 ・「お父さんすごいよ!アビーローのドスタジオでクリフ・リチャードを見たんだ。それもシャドウズと一緒だよ!。まだ信じられないよ。」 のちにビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになるジェフ・エメリック。EMIの採用試験の時、彼はまだ15歳。 そんなロックの好きな少年がスタジオで天下のスーパースターを見たのである。この興奮ぶりも当然と言えば当然である。 数日後ジェフの元へEMIから封書が届いた。この時点ですでに3つのレコード会社の入社試験に失敗していた彼は「また、残念ながら…てやつかな」 と 恐る恐る封を切った。 結果は「貴殿は当社の入社試験に合格しました。採用となります。来週の月曜日より出社となりますので、午前9時ちょうどに正面玄関ロビーに来ることを命ずる。」 という文面。 「やったぞ!」ジェフ少年、それはもう大喜び。給料こそ雀の涙ほどではあったが、レコーディングエンジニアを目指すジェフにとってそんなことお構いなしであった。 自分の父親の経営する肉屋を継ぐとか、友達のように工場で働くとか、そういう人生をジェフは良しとしていなかったのである。 翌週月曜の朝、ジェフはいつもより丁寧に顔を洗い髪を整え、靴まで磨いてEMIに向かった。初出勤である。 指定の朝9時ちょうどには まだ10分ほどあった。入社試験の時と同様この日も正面玄関で出迎えてくれたのは、パイプをふかしたボブ・ベケット。 この日はとにかく慌ただしく、アタフタしているうちに過ぎて行った。まず、いろいろな人たちに紹介された。 その中にはもちろん、このあと6年半ビートルズにまつわる仕事でジェフの人生を左右することになる人たちもいた。 そしてさらに、この日もジェフの案内を買って出た採用担当のベケット氏は二階に案内してくれた。 そこでベケット氏は、後にアビーロードスタジオと呼ばれるこの建物の最高責任者EHファウラー氏に引き合わせてくれた。 出勤初日この時ジェフはまだビートルズの存在すら知らなかったのである。
〜 Elvis Presley / Good Luck Charm 〜 Ray Charles / I Can't Stop Lovin You (小林)ビートルズがまだ売れる前、1962年。そして、ビートルズのエンジニア=ジェフ・エメリックが入社した当時のイギリスの1です。 その時代のころの空気を、歌で感じていただいてますか?。 兵役を終えて帰って来たエルビス・プレスリーの、ヒット Good Luck Charm。 それから、黒人がカントリーを歌った、黒人側から責められたけれども結局売れたレイ・チャールズのI Can't Stop Lovin You。
・後にビートルズサウンドを造り上げる伝説的エンジニア、ジェフ・エメリックの自伝からのエピソードを続けてみよう。 この時まだ15歳のジェフの音楽的な好みは多彩であった。実家にはレコードをかける装置、電気蓄音機があり、ラジオからは毎日はぼ24時間 クラシック・ジャズ・コメディ音楽からクリフ・リチャードなどのロックンロールまで、良いサウンドであればジャンルに関係なく何でも聴いた。 このジェフ・エメリックという少年の音楽の捉え方は一風変わっていた。 ジェフは自分の本の中で語っている。 “ポップ音楽というものは、今も昔もだいたいボーカルを主体とするもので、メロディーに歌詞が乗っているのが当たり前だよね。 しかし、僕はその歌詞というものにはあまり興味を持っていなかった。当時は特にその音楽がどんな音で鳴り響いていて、どんな色彩感を持っているか、 それが、最優先順位だったんだ。 その理由なんだけど、実はどうやら僕には特殊な才能があるらしくて、音楽を聴くと必ずそれぞれの音から連想する風景・景色・色なんかが浮かんでくるんだよね。 それはもう物心がついた頃からそうだったんで、自分にとってはあまりに普通のことになっているんだ。 だから、友達にもこの事はめったに話したりしないしね。歌詞がどうでもいいとは思わないけど、やっぱりサウンド志向であることは昔から変わらないな。 もちろん、ビートルズの楽曲にはすばらしい歌詞もたくさんあるわけで、彼らと仕事をして考え方が少し変わった所もあるよね。 だから、ビートルズと彼らのプロデューサーであるジョージ・マーチンは、僕にとって生涯の先生ってわけだ。 そう、そのビートルズの中でも やっぱりポール・マッカートニーはすごいと思ったよ。なにせ、アイデアの噴水みたいなミュージシャンなんだ。 僕らに対しての指示も的確だったし、最後までスタジオに残って時間と体力が続く限りいつまでも造り続けるんだよ。 しまいには、こっちが音を上げてねえ。「たのむ、寝かせてくれよお。」ってね。”
〜 The Beatles/ Paperback Writer 〜 Frank Sinatra/ Strangers in the night (小林)いずれも世界各国で一位の曲ですが。このPaperback Writerていうのは1966年の、お話ししているジェフ・エメリックがミキシングを担当したヒット曲です。 で、Paperback Writerの次に一位になったのがStrangers in the night。 縁というのは不思議なものでね、このStrangers in the nightは、これを作曲したのはベルト・ケンプフェルトというドイツ人で、このベルト・ケンプフェルトが 実はビートルズがMy BonnieだとかAin't She Sweet とか、最初にドイツでレコーディングするでしょう。 あの時のプロデューサーがベルト・ケンプフェルトで、Strangers in the nightの作曲者であったという。 おもしろい縁で繋がってるんでしょうかねえ、世の中はねえ。
・1962年初夏、まだ15歳の駆け出しレコーディングエンジニアのジェフ・エメリック少年は、入社したEMIの先輩エンジニアや同世代の仲間の名前を覚えるだけでも大変な毎日だった。 なにせ社員は年齢も様々、学校の同級生を覚えるのとはかなり事情が違っていた。 後にビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになるジェフ・エメリック。 彼の修業時代が始まった頃、面接試験も担当していた人事部の通称パイプおやじ、ボブ・ペケットは今日もジェフを呼びつけこう言った。 「おいジェフ。ちょっといいか。この男を紹介しよう。君が配置される部署にいるアシスタントエンジニアのリチャード・ランガム。年は君と同じくらいだが、立派な先輩だ。 いいか、この先輩に、金魚のフンみたいに付いて回るんだぞ。それが、仕事を覚える一番の近道だ。じゃあ、ジェフ、がんばってくれ。」 「リチャード。ジェフをよろしく頼んだぞ。」そう言い終えるとベケット氏は自分のデスクに戻って行った。 「やあ、君が新しく入ったエメリックか。僕がその教官のリチャードだ。ビシビシやるから、覚悟しといてくれよ。」 もちろんこれは、リチャードのジョーク。シャレであった。彼はすぐに心の扉を開いてくれた。年上といっても2〜3歳しか違わない。二人ともまだ十代である。 そんなリチャードに連れられて、いろんなスタジオやレコードの最終工程を行なうマスタリングルームを回り、みんなに紹介してもらっているうちに このリチャードという青年が、誰からも好かれている人気者だということが自然にわかって来た。 見学させてもらったスタジオには、面接試験の時にまの当たりにしたクリフ・リチャードのプロデューサー=ドリー・パラマーや売れっ子のソングライターたちもいた。 しかし、この日もまだ あのバンドとの運命の出会いには至らなかったのである。
〜 The Beatles/ Strawberry Fields Forever 〜 Procol Harum/ A Whiter Shade Of Pale (小林)(2曲とも)1967年同じ年。この頃のジョン・レノンの一番のお気に入りの曲はこれですね。(A Whiter Shade Of Pale) 歌詞は、なに歌ってるかよくわからないところもあるんですよね。だけど音楽は、クラシックをベースにしたという(邦題)「青い影」プロコルハルム。
□リクエスト (匿名/男子中学生)初めまして。僕がビートルズに出会ったきっかけは、リマスターが発売された時で。レンタルCD屋で見かけたのがきっかけです。 最初に聴いたアルバムは、迷った挙句 HELPです。名前もジャケットも印象的だったので借りました。何かエピソードを教えてください。 曲はスタジオでの映像が印象的な「恋のアドバイス」をお願いします。 (小林)まあ、アルバムはHELP(ですが)、曲のHelpはジョン・レノンが初めて書いた、ビートルズらしいジョンらしい内面を描いた曲ですよね。 その中から、これはちょっと恋のアドバイスていうか「お前、ちゃんとやらなきゃ」ていう曲ですよ。「あの娘行っちゃうぞ。」ていう。 〜 The Beatles/ You're Gonna Lose That Girl 〜 Three Dog Night/ An Old Fashioned Love Song (小林)スリードッグナイトはコマーシャルでもよく使われていた、喜びの世界 / Joy To The World(克也氏歌う)♪というw ヒット曲があるんですがw。 元々芸能界の優れたマネージャが作ったグループですよ。あいつとこいつとこいつといって、三人すごい歌の上手い奴を集めて。一つの時代をつくりました。 ただ、ステージはすごかったですよ。 (千葉市/女性)このごろあまりラジオでかからなくなったスリードッグナイトのAn Old 〜。以前はよくかかっていましたが、ここ数年あまりお目にかかることがありません。
(住所不明/女性)家でBayFMを聴いていたらこの番組に遭遇。知らなかった。
私的ビートルズへのこだわりは、CDで聴くよりもラジオでドキッ。
なかなかラジオでかかることは少ないんだけど、CDで曲が定まっている中で聴くよりも、不意打ちでランダムで聴きたいんです。
イントロを聴いた時のあの高揚感がたまりません。今のお気に入りはBlackBirdです。サー・ポール婚約おめでとう。
(小林)まったく賛成ですね、あなたの聴き方にね。このイントロで僕が紹介して、改めて聴くのもいいもんですよ。
〜 The Beatles/ Blackbird
(小林)ビートルズより若いエンジニア、まだ高校出たばかりぐらいのエンジニアの語るビートルズ。(彼が)観察したビートルズの話し。
ジェフ・エメリックの話は相当おもしろいですよ。来週からも期待してください。
リクエストもよろしく。イシイのミートボールなどセットでプレゼントします。
宛先は
[email protected] 。
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=38,xxxPT】 :2011/06/06(月) 18:07:47.68 ID:sX/fPb8k0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年6月5日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(6月5日) ・1968年(今から43年前の今日) ちょっとこれは珍らしいですよ。スタジオでリンゴ・スターが作曲した書いた曲を録音しています。 もう、後半になるといろいろ分けて録音するんですよね。 リンゴのビートルズ時代のオリジナルというと、この作品、そしてOctopus's Garden〜この2曲だけですけれども。 この曲ではポールがベースとピアノとギター、リンゴがドラムスとピアノ、それから自分の曲なので歌っています。ジョンとジョージは参加していない模様です。 この曲は、結局6月に入って録音して、1ヵ月放っておかれて7月12日に完成します。 面白いのは、バイオリンを弾いているのが外部から呼ばれたミュージシャンで。 実はデビューする前のビートルズの南イングランドツアーで興行主、プロモーターをやっていたジャック・ファロンという人物で。 スタジオで「お前、見たことあるね。」「エエッ!そうなの?」と思わぬ再会にメンバーは大そう驚く、というエピソードがあって。 その昔の興行主が弾いている所は、ジョージ・マーティンがその場でササッと書きあげた12小節のブルースが元になっています。 なにしろ、リンゴ・スターはビートルズに入った頃は、小学校もろくに行かなかったんで字が読めなかったということです。 車に乗ってましたから、例えばペニーレインとかそういうのは判るんですよ。だけど、新聞とか読めなかったり字が書けなかったんですが。 ビートルズに入って字を猛烈に勉強するわけですね。68年頃にはちゃんと字が書けるようになっていたリンゴ・スターであります。 〜 The Beatles/ Don't Pass Me By フィドルが、バイオリンが入ってるということは、最初からもうこういう風な曲にしようと思って、ちょっとカントリーみいたいな。 もともとアメリカのカントリーというのは、ほとんどがヨーロッパの民謡から来ていますからね。そんな感じがしますよね。
□ジェフ・エメリックの回想 ・「やあ!君が新しく入ったエメリック君か。僕がその教官のリチャードだ。ビシビシやるから覚悟しといてくれよ。」 このエメリック君と呼ばれている少年は、後にビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになるカリスマエンジニア=ジェフ・エメリックのことである。 このEMIに入社して3日目のジェフの教育係となったのが、社内では少し先輩でアシスタントエンジニアのリチャード・ランガン。 「ビシビシやるから」というのはもちろんリチャードのジョーク、シャレであった。 ジェフはEMIスタジオ、後にアビーロードスタジオと呼ばれることになるこの建物を見学しているうちに、ある事に気付いた。 「なんでみんな、スーツにネクタイなんだろう?」「ここはイギリス国民に音楽という娯楽を提供する会社なんじゃないのか?」 「もっと カジュアルなイメージを持っていたのに、ちょっと調子が狂っちゃうな。」 廊下を歩いていると、こんどは白衣を着た社員、それと茶色の作業服の社員もいた。 これも、リチャードに教えてもらったのであるが、白衣組は機材管理部、茶色の作業服は社屋管理部の制服なのだそうだ。 このあまりのお役所体質に、若干15歳、まだまだ世間知らずのジェフ・エメリックもいささかカルチャーショックを受けてしまった。 「これじゃ まるで未来の21世紀の宇宙ステーションじゃないか?。」宇宙ステーションが何であるか、もちろんジェフはよく判ってはいなかったが。 とにかく、それ以外に例えようが無かった。 そういえば、社員は皆きちっとしていて不良っぽさのかけらも無い。もしかして、面接試験ではそういうEMI風の人間だけを合格させていたのかもしれない。 しかし、その品行方正なEMIも、リバプールからやって来た「あの連中」によってすっかり「ロックのカンパニー」へと変貌していくのは時間の問題であった。 〜 The Beatles/ Long Tall Sally 〜 The Beatles/ I'm Happy Just To Dance With You
□ジェフ・エメリックの回想 (続き) ・「あーなんか、堅っ苦しいよなあ、この会社。念願のアシスタントエンジニアになれそうなのは良いんだけど。いつになったら自分のセンスを発揮できるようになるんだろうか。」 「もし、10年もかかるんだったら、ちょっとやってられないよなあ。」 比較的品行方正な少年 ジェフ・エメリックは早くも自分の将来に対して疑問と不安を感じていた。一種の5月病である。 のちにビートルズサウンドを創り上げた伝説的エンジニアにも、青春時代の苦悩はあった。 ジェフの自叙伝から もう少し続けてみよう。 いつものようにジェフは、EMI先輩社員であるリチャード・ランガンと社員食堂でランチタイムを過ごしていた時、会話を遮るようにロンドン訛りで 「おうい。リチャード!」という声が響きわたった。 この品行方正なEMIに、あまりに似つかわしくない声の主は、ジェフよりも数カ月早く採用されたアシスタントエンジニア、またの名を「ボタン押し」と呼ばれる、クリス・二ールであった。 クリスはEMI的な人間とは、すべてにおいて真逆であった。この日の格好も、一応ネクタイはしていたが、シャツのボタンは3つほど外され、髪にはグリースべったり。 上着はビジネスマンのような背広ではなく、安っぽいレザージャケットといういでたち。 もちろん、このスタジオにそんな人間は二人とは存在しなかった。 (クリス)「そうか、リチャード。お前がこのジェフ君の教育係りか。出世したなあ。」 (リチャード)「ああ、これから教えようとしようとしてたんだけど。君のような人種は避けるように、ってね。」 (クリス)「これは面白い。お前もジョークが上手くなったな。それはともかく、明日のポップのセッションにもこの新人君を連れて行くんだろう?」 リチャードはもう、あまりクリスとは話したくはなさそうだったが、クリスは気にせず続けた。 「あのリバプールから来た連中、すっごくイカスぜ!。残業のし甲斐があるってもんさ。」
〜 The Beatles/ Ain't She Sweet 〜 Roy Orbison/ Running Scared (小林)Ain't〜はドイツで1961年に録音した、ビートルズが主じゃなくて従の形でね、参加していましたが。 この曲に限ってはジョン・レノンがリードボーカルをとっていました。 そして、ロイ・オービソン。ビートルズはこの一年か二年ぐらいあとかな、一緒に興行で周るんですよ。 ロイ・オービソンて人は大変なカリスマ的なシンガーソングライターです。 で、自分たちの目の前で、ギターを片手に作曲するするシーンなんかを見るわけですね。 偉い人間はどうやって曲を創ってるのか、ってことをね。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「あのリバプールから来た連中は、ものすごくイカスぜ!。残業の し甲斐があるってもんさ。」 この発言は、品行方正なイギリスを代表するレコードカンパニーEMIにおいて、唯一相応しくない服装と言動で ある意味目立っていた青年=クリス・二ールによるものである。 しかし、クリスのこの言葉は、なぜか新人社員で駆け出しのアシスタントエンジニアであったジェフ・エメリック少年の心を捉えて放さなかった。 エメリックはもちろん、アルバム・リボルバー以降のビートルズの専属エンジニアとなり、ロックのサウンドメイキングとレコーディングに革命を起こした重要人物である。 たしかに、クリスはEMIのお抱え反逆児であり、話も大げさなせいで社内ではほとんどの社員に毛嫌いされていた。 それに、アシスタントエンジニアとしておとなしく「ボタン押し」の仕事をしているよりも、ロンドンのクラブに出かけて新しいバンドを物色する事にエネルギーを注いでいた。 言い換えるならば、一端(いっぱし)のスカウトマン気取りだったのである。 ジェフの先輩エンジニアのリチャード・ランガンによると、そのクリスが最近は、数ヶ月前にはるばるリバプールからオーディションセッションにやって来たバンドに熱を上げている、というのである。 クリスは、ノーマン・スミスがエンジニア、そしてEMIの中のパーラフォンレーベルの制作部長ジョージ・マーティンの部下であるロン・リチャーズがプロデューサーを務めたそのオーディションで、 「ボタン押し」を担当したというのである。 ノーマンもロンも、あまり良いとは思わなかったこのバンドを、クリスはすっかり気に入ってしまい、食堂にいたジョージ・マーティンを呼びに行き、 その結果、バンドとの契約が成立したというのである。 ジェフもリチャードも話半分に聞いていたが、そのバンドの名前を聞いて同時に反応した。「なに? ビートルズ?。カブト虫ってことか?」 「バディ・ホリーのクリケッツ(こおろぎ)のパクリじゃないのか?。」
〜 Buddy Holly / Rave On' 〜 Jhon Lennon/ Dear Yoko (小林)Dear Yoko ジョンの遺作のダブルファンタジーに入っている曲ですが。 この歌い方、前のバディホリーとクリケッツのRave On' よく似てますよね。 ジョン・レノンは影響受けてます。バディ・ホリーの歌い方の。 EMIに入って来たジェフ・エメリックたちの、まだ十代の若者たちが「ビートルズって知ってる?すっごいよ!」ていう話になって、 ビートルズはカブト虫だから、スペルはまあちょっと違うわけだけど。 このビートルって言うのはジョン・レノンがつけた、命名したわけですよね。 ジョン・レノンはやっぱり虫にこだわった、ていうのはバディ・ホリーのバンドがクリケッツ(コオロギ)ですから、カブト虫はどうかなって。 ちょうどね、ビートていうのが ビート感があるとかのビートと、時代的にビートニックていうビート族てのが新しい感覚で受けていたんですよね。 いろんなものが入っている名前なんですよ。ビートルズというのはね。 というわけで、ちょっとジョン・レノンの影響がわかります。
□リクエスト (埼玉県川越市/男性)トラックドライバーです。中央高速の甲府からでも放送はバッチリ聞こえますよ。 (小林)ローリングストーンズにリクエストくれてますね。この曲は、新しいローリングストーンズが迷っていたころ、ふっ切れた作品です。 音を聴くとよくわかるんですけど。そのころローリングストーンズは、ディスコとかパンクだとかそういうのにやられっ放しになっちゃうわけですよ。 そんな中で、踊れるっていうことでボトムのドラムスとかのサウンドはですね、すごくディスコに負けないようにして。 で、真ん中のあたりの音はやっぱり自分たちを守っているという、有名な曲です。 〜 The Rolling Stones/ Miss You 〜 The Rolling Stones/ As Tears Go By (小林)70年代のMiss You。そしてAs Tears Go By こっちはミック・ジャガーとキース・リチャードが曲を書き始めたころの、最初のころの作品であります。 ローリングストーンズは、特に60年代はビートルズに勉強させてもらっているわけですよね。ビートルズのライバルで、ビートルズを見て自分たちの方向を決めた。 (静岡県富士見市/男性)最近有名人の資産が公開されました。ミュージシャンでは1位がP・マッカートニー、2位がエルトン・ジョン、3位がミック・ジャガーだそうです。 さすが3人ともサーの称号をエリザベス女王から享けただけのことはありますね。
(東京都中野区/女性)5月15日の放送で、中産階級とか労働者階級とかの話題になっていたので「男はつらいよ」を思い出しました。 リリーさんシリーズの「寅次郎忘れな草」で寅さんの階級が話題になります。その映画のイメージで。 〜 浅川マキ/夜が明けたら 〜 The Beatles/ In my life (八千代市/男性)うちの息子は反抗期真っただ中です。自分が何なのかどこへ行くのか、悩んでますよ。 ビートルズのメンバーが本当のビートルズに気付いた瞬間なんてあったのでしょうか。息子の反抗期みたいに悩んだ時代があったのでしょうか。 そんな時代の代表作はありますか。 (小林)一番悩んだと思われるジョン・レノンは、小さいころからお父さんとお母さんが離れているんですよ。 だいたい反抗期は親に向けられていくもんじゃないですか。 ジョンの場合は、ずいぶん違うと思うんですよね。そういう風な代表作で言うと「助けてくれ」ていうHelpが、僕は代表作だと思いますけど。 In my lifeはいろんなものを頂いたりしたけど、初めて自分自身でまともな曲が書けた、幸せな時に書いたと思います。 (つくば市/男性)私が恋してるのは近所に住む 離婚して子供のいる女性。いろいろ助けてあげていますが、自分から気持は打ち明けていません。 なぜなら私は既婚者だからです。この気持ちをリクエストに…。 (小林)オイオイオイw 〜 George Harison/ Give Me Love
(小林)リクエストもよろしく。採用の方にイシイのミートボールなどセットにしてお送りします。
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はがき 〒261-7127 BayFM ビートルズから始まる
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/06/12(日) 22:53:17.06 ID:fk2dbZff0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年6月12日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(6月12日) ・1964年(今から47年前の今日) ビートルズが世界的になった年ですが、もうこの時期はですね、6月は世界中のほとんどの若者が、おそらくあれですね、 西洋文化とかアメリカ文化が行き渡っている所は、ビートルズを知らない若者はいなかったでしょうね。 ビートルズはオーストラリアにいて、オーストラリアのアデレードという街にいるわけですけが、30万人の人間、考えてください30万人だよ。 ビートルズを見に来るんですよ。おそらく、ホテルの周りだとか集まるんでしょうけど。 30万人といったらすごいよね。 1966年ビートルズが日本に来た時に、地方からも動員して2万人の警官がw、結局ガードするわけだから。2万人が。 だから、30万人ったら大変なことですよ。 で、その日はアデレードでコンサート。 ただ、ビートルズがコンサートをやった時に、リンゴ・スターが病気になっちゃって、扁桃腺でロンドンの病院に入院するんですよ。 だから、約10日間ぐらいだと思いますが、スタジオミュージシャンでジミー・ニコルていう人が代役で努めています。 ジミー・ニコルはスタジオミュージシャンとしても、プロデューサーのジョージ・マーティン推薦のミュージシャンだったわけですけど。 ちょっとだけジミー・ニコルは「10日間ビートルズだった男」として有名になっちゃうわけですね。 でその、リンゴ・スターはこの日にロンドンを出発して6月14日にシドニーに到着して、15日のメルボルン公演からまたリンゴは復帰しております。 この頃のオーストラリアツアーのオープニングはオリジナルでスタートしておりました。この曲です!。 〜 The Beatles/ I Saw Her Standing There (小林)47年前のちょうど今ごろ、ビートルズはオーストラリアにいます。リンゴだけがロンドンからの飛行機の上ですね。 その頃のツアーはI Saw Her Standing There 盛り上がったことでしょうねえ。
□ジェフ・エメリックの回想 ・「あの、リバプールから来た連中、たしかビートルズって言ったかなあ。すごくイカスぜ。残業のしがいがあるってもんだ。」 この声の主は、品行方正なイギリスを代表するレコード会社EMIにおいて、唯一ふさわしくない服装と言動で ある意味目立っていた青年クリス・ニール。 そして、これを黙って聞いていたのは、この4年後、20歳そこそこでビートルズの専属レコーディングエンジニアに大抜擢されるジェフ・エメリックであった。 クリスは前の週にオーディションセッションのためにリバプールからやって来た4人組のバンドのことを、やたらと絶賛していた。 それにしても、ジェフが印象的に感じたのはその「ビートルズ」というバンド名。ビートルとは日本語にするとカブト虫の意味であるが。 虫の名前をバンド名にしたのは、ロックの世界ではおそらくただ一つ、黒縁めがねのロックンローラー=バディ・ホリーがコオロギという意味の 「ザ・クリケッツ」というネーミングをしたぐらいしか例がない。 EMIに入社したてで、文字通りまだ駆け出しのジェフ・エメリックであったが、音楽に対する知識と情熱だけは誰にも負けていない。 ビートルズがアメリカのロックンロールに、そして特にバディ・ホリーに影響を受けていることはすぐにわかった。 出会いとは一概にしてこういうものである。このバディ・ホリーというアーティストは、本国アメリカよりもむしろイギリスでの方が人気があった。 そのバディ・ホリーも、ロックンロールが一度下火になってきた1959年の2月3日に飛行機事故によって若くしてこの世を去っている。 そのバディ・ホリーからの影響、特にビートルズの中ではジョンとポールにとっては、エルビス・プレスリー以上の存在であったことは言うまでも無い。
〜 Jhon Lennon/ Peggy Sue 〜 The Beatles/ Words Of Love (小林)Words Of Love、1964年の“Beatles For Sale"に入っています。これはコーラスはジョンとジョージ 二人でやっているそうです。 ポールは入ってないらしいんですけれど。ちょっと違う甘さがあって なかなかいいよね。 その前は(Peggy Sue)、バディ・ホリーの曲をジョン・レノンが1975年になってロックンロールのアルバムでカバーしていました。 歌い方も、わざと似せて歌っている。それでちょっとあの、Aメロを歌う時に、ジョンがニコッと笑いながらやりますけど、これはもう「似せてんだよ」っていうような表現ですよね。 Peggy Sue しゃっくり唱法として、独特の歌い方ばっかりじゃなくて、ドラムとギターのあの、Peggy Sueて言う曲は特に緊張感がすごかったでしょう。 あれをですね、ジョンの友だちの有名なミュージシャンたちが再現してのっていましたね。楽しくやってました。
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/06/13(月) 21:38:53.41 ID:rAVUl5Xi0
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「ビートルズ?。あのバディ・ホリーのクリケッツのパクリか?。でも、気になるなあ。明日の仕事のシフト、いったいどうなってるんだろう。」 お役所テイストの強いEMIという組織の中でも比較的品行方正な少年ジェフ・エメリックは、ビートルズという名前が気になってどうしようもなかった。 もちろん、この時点ではビートルズがロックの歴史の中でまったく別の存在と言ってもいいくらい特別なものに変貌していくことも、さらには4年後の自分が、 そのビートルズの専属エンジニアとしてロックのレコーディングとサウンドメイキングに革命をもたらすことも、まったく予想していなかった。 その、ビートルズというどこか不思議でありながら、何となくしっくりくるような言葉の響きを気にしながら、ジェフはEMIのスタッフルームに戻った。 この時、文字通り駆け出しであったジェフの教育係りとして指導に当たっていたのが、先輩社員であるリチャード・ランガン。 リチャードは年齢も近く、まだ10代であったし、その気さくなキャラクターがみんなに好かれている。まさに、ナイスガイであった。 そんなリチャードは ジェフには最初から仲間のように接してくれた。 スタッフルームで勤務表をチェックすると、明日の夜リチャードはパーラフォンという制作セクションの部長でプロデューサーのジョージ・マーティン とベテランエンジニア=ノーマン・スミスのアシスタントとして、例のビートルズのセッションに就くことになっていた。 リチャードは目を輝かせて言った。「やったあ。ビートルズのセッションが見られるぞ。おまけに残業手当ももらえるぞ。」 当時の若いエンジニアの給料は雀の涙ほど、たとえ少しの残業手当でもそれは有り難いものであった。 さらにここで、リチャードはあることを思いついた。 「なあ ジェフ。僕は君の教育係で、君は僕から離れちゃいけないんだったよね。やったよ!。そういう口実だったら、ビートルズに会えるよ!。」
〜 The Beatles/ A Hard Days Night 〜 The Supremes / Where did Our Love Go (小林)きょうは1964年の曲がテーマみたいになっていますが。(A Hard Days Night)これも、すっごいヒットでしたね。もちろん夏に1位になりました。 そして、そのあとで1位になったのが、シュープリームスのダイアナ・ロスがボーカルをとっていました Where did Our Love Goという有名な曲です。 いいですか、1964年からですね、もうアメリカのチャートは、ビートルズなんかにやられ放題なんですよ。 というのは、どういうことかと言うとね、ビートルズという「4人のロックグループ」ですよね、今で考えると。 そういうコンセプトがアメリカに無かったんですよ。 アメリカは、例えばプレスリーがいてプレスリーのバックバンドがいて、イギリスもそうだったわけですよね。 イギリスにもそういうコンセプトは無かったんだけど、これはビートルズが始めたんですよ。 「バンド」という、それぞれがこう何というか、タメっていうw。イーブンだっていう。民主主義だっていう。そういうバンドのコンセプト。 だから、ビートルズが作るものは新鮮でアメリカのチャートを荒らし放題、そしてアメリカのチャートで唯一受けて立ったのが、モータウンのシュープリームス。 この、シュープリームスはもうほんと、ビートルズがチャートを荒らした60年代、イギリスに負けじと6曲連続でアメリカbP。 唯一ビートルズと対等に戦えたのがw、シュープリームスだけだったという、そんな時代なんですよ。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「なあ ジェフ。僕は君の教育係で、君は僕から離れちゃいけないんだったよね。やったよ!。君もビートルズに会えるよ!。」 これは1962年のEMIスタジオの新入社員ジェフ・エメリックの教育係で先輩社員リチャード・ランガンにひらめいた、まさに名案と言える発言である。 ジェフ・エメリックは、この数年後ビートルズの専属エンジニアとして名盤を世に送り出すことになる伝説的人物。この時はまだ15歳であった。 リチャードはジェフを連れて、人事部長で通称「パイプおやじ」と呼ばれるボブ・ベケットの部署を訪ねた。 扉は開いていたのでノックをせずに部屋に入ると、ベケット氏はデスクでうたた寝をしていた。 二人でしばらく笑いをこらえながら見守っていたのであるが、10分待っても起きる気配がないので、ついにリチャードが話しかけた。 「おじゃまをしてすいません。ベケットさん。」 ベケットは眠けまなこで答えた。「ああ…、おう…、あ、君がリチャードか。どうかしたのか?。」 「いえあの。僕あしたの夜のポップス部門のアシスタントにつけられているんですが、このジェフを一緒に見学させてよろしいかどうか、それをお伺いしたかったんです。」 ベケット氏はまだちょっと眠たそうに答えた。 「あぁ、そうか。ジェフ君はまだ入りたてだったな。それでリチャードのそばを離れないように、ということだったな。ところで、その明日の夜のセッションはどんな歌手かね?。」 「はい。パーラフォンの制作部長のジョージ・マーティン氏の仕事で、エンジニアはノーマン・スミスさん。お二方ともベテランです。 なんでも、リバプールから来たビートルズとかいう新人グループの録音みたいですよね。」 ベケット氏は少し考えて答えた。 「よし、いいだろう。ジェフはリチャードの行くところはどこでも付いて回ること。一秒たりとも離れてはならんぞ。それが条件だ。 あ、そうだ。あと一つあった。君はまだ見習いなので、残業手当は付かんぞ。いいな。」
〜 The Beatles/ Don't Bother Me 〜 George Harison/ Far East Man (小林)Don't Bother Me、1963年、ジョージ・ハリソンの初作曲作品。 続いてダークホースのアルバム、1974年。その中に入っている、ローリングストーンズのロン・ウッドと一緒に書いた作品。 いかに、4人とは、ビートルズとは違う方向に行こうとしていたか、ていう。 これは、なかなか渋い曲ですよね。いい曲ですよね。
□リクエスト
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[email protected] (千葉市美浜区/男性)高校時代「A Hard Days Night」で演奏しているビートルズを見て、学校で友達と話をするとき、話し方や仕草を真似たことを思い出します。
当時ズボンはみんな太いのを履いていましたが、母に頼んで細くしてもらったことなど、懐かしい思い出です。
もしかして、これが採用される頃は、入院してベッドで聴いているかもしれません。
(小林)入院しているなら、早く良くなってくださいね。
〜 吉田拓郎/ ビートルズが教えてくれた
〜 The Beatles/ Across The Universe
(船橋市/男性)高校生です。4月3日 僕の崇拝するビーディ・アイのリアム・ギャラガーが日本のために、ロンドンでベネフィットコンサートを開いてくれた、という話を聞きました。
とても嬉しかったです。リアムがこんなにも日本の事を考えてくれたことに感激しました。
このライブは最後にビーディ・アイは Across The Universeを歌ってくれたそうです。この曲は元気と勇気が出てくる曲だと思います。
(習志野市/女性)先日かかったビリー・ジョエルの曲、しびれました。その時に、ナイロンカーテンは商業的に失敗、と言われていましたが。 私はそのナイロンカーテンが好きでしたよ。日本でヒットした二曲目より、一曲目のこの曲が好きです。 昔、テレビでライブが放送された時に、バンドの人が鉄パイプのようなものを叩いていたのを覚えています。 (小林)ナイロンカーテンはB・ジョエルが「俺にとっては、思い入れが強い。ビートルズがSgtを造ったように、自分にとってはナイロンカーテンがSgtだった。」 てなことを言ったけど、世の中が受け付けなかったのかな。暗かったのかな、あのアルバムは。 だけど、B・ジョエルという人は80年代に入って、ちょっと能天気な歌で知られるんですが、 本当のB・ジョエルファンはイノセントなんかで「うわあ、ビリー・ジョエル堕落したなあ。」と思ったもんですよね。 鉄パイプのようなものを叩いていたのは、Allentownが実際にある町で、80年代を向かえて日本とかの台頭によって車産業とか鉄鋼業が下降に向かうのですけど。 Allentownには有名な製鉄所があったんですけが、閉まっちゃうわけですよ。倒産して。 製鉄所とかを思い起こさせるために、エフェクトとして鉄パイプのようなものを叩いたんですね。 〜 Billy Joel/ Allentown (小林)ビートルズの話の方ですが。15歳のねえ。これから大エンジニアになるという、まだ少年ですかね、青年ですかね。 彼の目から見たビートルズ。 すごいでしょう。ビートルズなんかの音楽、というか産業はそうだったんですよ。十代の頃から入った人たちが支えたんですね。 けっこう面白いですよね。
クイーンとビートルズ間違って認識してるってのはいかがなものかな
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/06/20(月) 13:57:17.67 ID:LSWrchp30
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年6月19日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(6月19日) ・1992年(今から19年前の今日) リンゴ・スターが彼のオールスターバンドとともに、ニューヨークの有名なラジオシティミュージックホールでライブをやりました。 リンゴは1980年代末期からツアーに精力的に出ます。で、メンバーがすごかったんです。もうリンゴ・スター独特です。 オールスターバンドっていう、オールスターもリンゴ・スター(Ringo Starr)のStarrをとっています。rが一つ多いんです。 まあ、古い言い方ですが、一国一城の主(あるじ)みたいなミュージシャン、もうそれぞれの分野で有名なミュージシャンがバンドのメンバーとして参加するわけですね。 それぞれがみんなヒット曲を持ってますから、コンサートはリンゴ・スターが全部歌わなくてもそのメンバーのヒット曲、それも世界的なヒット曲をもった連中だから、それで盛り上がる。 ファンはまあ、リンゴ・スターの友だちに会いに行っているような感じっていうんですかね。 ちなみに1989年のリンゴ・スターの世界ツアーはね、いいですか、ビリー・プレストン、レヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、ドクター・ジョン、ジョー・ウォルシュ、 ジム・ケルトナー、ニルス・ロフグレン 、クラレンス・クレモンズ 。まあ、通好みの人たちもいます。 そして今から19年前のきょうの顔ぶれはですね、デイブ・エドモンス 、バートン・カミングス、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミット 、 ザック・スターキー(これは息子です)、ニルス・ロフグレン、そしてトッド・ラングレン。 トッド・ラングレンまで出ているわけですよねえ。すっごいメンバーです。 この要領でメンバーを変えながら、2006年の第9期までリンゴはオールスターバンドでツアーをやるんですけど。 去年はちょっと違う編成でやりましたね。7月7日彼の誕生日、七夕が誕生日ですが。 7月7日70歳記念のニューヨーク公演は、ポール・マッカートニーもオノ・ヨーコもゲスト出演をしています。
ええ、本当にもうリンゴのコンサートは楽しいんですよ。リンゴの声ばっかりじゃない。リンゴの声だと、ヘタすると持たないっていうのもありましてねw。 これは上手い演出だと思うんですが。でも、やっぱり中心はリンゴが占めるということで。これはまた、コンサートとして盛り上がるわけですが。 ジョン・レノンが書いたこの曲も、リンゴ・スターは彼のライブでやっています。 〜 Ringo Starr & His All-Starr Band/ I'm The Greatest (小林)さっき紹介した第2期のメンバーです。ジョン・レノンが書いた曲だけど「リンゴ・スター、お前のために」っていうことですよね。 「52歳だけど、おれは…」っていうw、人生を歌っています。 子供の頃はお母さんに「あんたすごいよ」って言われて。ねえ。十代の時はバンドをやり始めて「お前はすごいなあ」って言われて。 そして大人になって 付き合っている女性から「あんた、すごい!」って言われてw。 もう楽しさがいっぱいの、リンゴ・スターのショーですが。その模様をお伝えしました。
□ジェフ・エメリックの回想 ・「ようし、いいだろう。ジェフはリチャードの行く所はどこでも付いて回ること。一秒たりとも離れてはならんぞ。それが条件だ。 あ、そうだ。あと一つあった。君はまだ見習いだ。残業手当は付かんぞ。いいな。」 このジェフと呼ばれている少年は、後にビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになる、カリスマエンジニア=ジェフ・エメリックのことである。 このEMIに入社してすぐ、ジェフの教育係となったのが、社内では少し先輩でアシスタントエンジニアのリチャード・ランガン。 年齢もジェフの3〜4歳上で、やはりまだ十代の若者。気が合う兄貴分みたいな存在であった。 そして出勤2日目にしてジェフはビートルズを目撃することになるが、実際のところ彼の気持ちはどうだったのだろう。 ジェフ本人はこう語っている。 「正直な話、あの時点、つまり1962年9月4日の朝だけど。僕はビートルズにそれほど興味が無かった。というより、何も情報が無かったので興味の持ちようが無かった、 と言う方が正しいかもしれないね。若いスタッフの中にはちょっと騒いでいるのもいたけど、とにかく聞くと見るとではほんとに大違いだったんだよ。 それより、その日の午前中のクラシックのレコーディングセッションでは、リチャードが僕にテープレコーダーのボタン押しをやらせてくれたんだ。 いつも自宅で使っている家庭用のとは違って、プロの現場にあるテレコは大きくて重厚感があったね。そりゃもう、大仕事をしたっていう気分だったね。 完全にその日のハイライトを向かえたっていう感じだった。ビートルズの事なんてすっかり忘れていたんだよ。」 そんな調子で午前中の仕事を片付けたジェフとリチャードは、ランチを摂りに社員食堂に向かった。 自宅から持ってきたサンドイッチをほお張っていると、そこにあの「お騒がせ野郎」が入って来た。 ビートルズを最初に目撃したあいつである。
リチャード・ランガム(Richard Langham)ね。
〜 The Beatles/ Besame Mucho 〜 Elvis Presley / She is not you (小林)古いやつが2曲続きました。時代を感じていただくために。 Besame Mucho ポールは器用ですから、あのラテンの曲をやっています。ちなみに録音は1962年の6月。 そして She is not you 。これはイギリスでのナンバーワンで、1962年の9月、つまりビートルズがデビューする前のナンバーワンはこの曲だったわけですね。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・1962年9月4日EMIの新米アシスタントエンジニア、またの名を「ボタン押し」とも呼ばれるジェフ・エメリックは先輩社員のリチャード・ランガムと社員食堂でランチを摂っていた。 二人とも自宅から持ってきたサンドイッチである。安月給の二人は、まだ外でランチなんて言う身分ではなかった。 出勤2日目にしてジェフは親友ができた、という気分であった。 本来ならば、自分の教育係であるはずのリチャードというこの青年、誰からも好かれるキャラクターで自分から心を開いてくれた。 それに、エンジニアとか技術系のプロに在りがちな、やっかみや妬みみたいなところは全く感じられない。 リチャードのそういう大らかさも、ジェフにはとてもうれしい事であった。 ジェフがリチャードと会話を交わしながらサンドイッチをほお張っていると、またあのお騒がせ男クリス・二ールが割りこんで来た。 クリスもアシスタントエンジニアであるが、ロンドンのナイトクラブに足を運び新しいバンドを物色する、スカウトマン気取りの青年であった。 その曲者(くせもの)クリスが話しかけて来た。 「リチャード。今晩あのビートルズのセッションやるんだろう?」 すると、チーズとトマトで口をいっぱいにしたリチャードが「うん」という代わりに大きく頷いた。 すると、クリスは頼みもしないのに自分の持っている情報をぶつけてきた。 「ビートルズってさあ、むさ苦しい連中で、革のジャケットを着て、髪の毛を前に垂らしてるんだぜ。おまけにすごく突っ張ってて。 6月のオーディションの時なんか、メンバーの一人がジョージ・マーチンに『あんたのネクタイが気に入らないなあ』なんて言ったそうなんだよ。 でもねえ、コーラスはエバリーブラザーズみたいに最高で、あれは本物のロックンロール魂を持っているやつらだね。間違いない。」 クリスのおしゃべりを聞くのは疲れる作業であるが、ジェフは「エバリーブラザーズ」というキーワードでビートルズがかなり気になって来たのである。
〜 Everly Brothers/ Claudette 〜 The Beatles/ One After 909 (小林)Claudette 女性の名前ですね。ロイ・オービスンという有名なシンガーソングライターが書いた曲ですが。これは1958年イギリスでナンバーワンになっています。 エバリーブラザーズ、ビートルズに似てるでしょう、ていうか、ビートルズが彼らのコーラスを勉強したってわけですよね。 そして(One After 909)これは1963年の3月の録音。後になって採用されるというw。すぐ採用されなかったていうw。 9はちなみにジョン・レノンが好きな数字だっていうことは、ご存知だと思いますが。ジョン・レノンの作品です。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「あのリバプールから来た連中、すっごくイカスぜ!。コーラスなんて、まるでエバリーブラザーズの生き写しみたいなんだよ。」 こう激論する男は、品行方正で超保守的な企業EMIには最もふさわしくないと言われた、クリス・二ールという人物。 黙って聞いているのは、数年後にビートルズの専属エンジニアとなり、後世に名を残すカリスマクリエイター=ジェフ・エメリックである。 ジェフはバッドボーイを気取っているクリスがあまり好きにはなれなかったが、情報が音楽のこととなると話は別である。 クリスの話がもし本当だとしたら、それはすごいことである。 その、ビートルズっていったいどんな連中なんだろう?。ジェフは急に気になりだした。 話の主であるクリスは、話し終えるとすぐに飛び出して行った。どうせまた、自分の情報をひけらかしに各部署を回るのであろう。 EMIの社員食堂でランチを摂っていたジェフと、彼の教育係り兼親友になりかけていたリチャード・ランガムであったが、自宅から持ってきたサンドイッチを食べ終わると、 リチャードは、今夜のビートルズのセッションを担当するプロデュサーのジョージ・マーチンとチーフエンジニアのノーマン・スミスについて話し始めた。 「二人ともかなり歳だけど、会ってみると良い人だよ。ジョージはうちの社員プロデューサーで、パーロフォンレーベルの制作部長。 ロックンロールのセッションをやるのは、今夜が初めてだと思うね。おそらく、時流に乗り遅れたくないんだろう。 彼がエンジニアにノーマンを起用したのは正解だと思う。ノーマン自身かなり優秀なポップミュージシャンだからね。ドラムスの腕なんかかなりなもんだよ。」 こうして、いろいろ情報をもらううちに、ジェフは今夜7時からの仕事が待ち遠しくなって来た。 超個性派の4人組、ビートルズとはどんな連中なんだろう。 そして初めて出会うプロデューサー=ジョージ・マーチンの仕事とはいったい?。
〜 Humphrey Lyttelton & His Band/ Saturday Jump 〜 The Beatles/ Lady Madonna (小林)Saturday Jump これはビートルズのレコーディングを始めることになるジョージ・マーチンの、その前の作品ですよね。1959年の作品。 ジャズだとか、ジョージ・マーチンは元々クラシックの人ですから。クラシックだとか、あるいはコメディーだとか、ちょっと色モノっぽいやつなんかも担当しておりました。 そしてビートルズの1968年 Lady Madonna と、実は前の曲とは関係あって、 ハンフリー・リトルトンの他の良い曲があるらしいんですが、それからちょっとインスパイアされてポール・マッカートニーが作ったそうです。
□リクエスト
(小林)採用の方はイシイのミートボールなどセットにしてプレゼントしております。
メールアドレスは
[email protected] (千葉市若葉区/男性)おれは、ずっとこの番組を聴いているんですが、メールは初めてです。なぜかと言うと、おれはビートルズを知らないんです。(汗)
初めてビートルズを聴いたのは、一緒にバンドをやっていたビートルズファンの友だちの部屋で、何というアルバムか判らないんですが、
35年前に聴いた曲の中で、とても印象的な曲、それしか覚えていません。バイシクル。
イントロの初めに自転車のベル、チリリンという効果音から始まるその曲の印象が嫌いじゃなかったです。
ですが、当時矢沢永吉さんのキャロルが好きで、バンドでもずっとコピーして、その後キッスに走ってしまったんです。
それからずっとハードロックだったんですが、最近やたらとビートルズの曲が落ち着いて聴けるといいますか。克也さん、今からでも遅くないですか?
ぜひ唯一知っている曲バイシクルをお願いします。
(小林)遅くない、ぜんぜん遅くないw。
ただ、これはビートルズの曲じゃなくて、クイーンというw、これまた説明すると長くなりますがw。すっごいバンドがいたんですよ。
クイーンのヒット曲なんです。
〜 Qeen / Bicycle race
〜 The Monkees / I Wanna Be Free
(小林)I Wanna Be Free ちょっとビートルズぽいよね。意識しているよね。
(千葉市花見川区/男性)毎週帰りの車の中で聴いています。56歳になります。
ビートルズが活躍していたころは小学生から高校生にかけてでした。
特に中学生の時は、洋楽に興味を持っていた頃で、ビートルズを始めモンキーズ、ビージース、いろんなグループの歌を聴いていました。
特にモンキーズはアメリカのグループで、ビートルズに対抗すべく作られた、といような事を聞いたことがあります。
テレビドラマも見ていた覚えがあります。私は彼らの楽曲の中でデイビー・ジョーンズが歌う「自由になりたい」が好きでした。
(小林)「モンキーズのテーマ」のB面だったそうであります。
(東京都渋谷区/男性) 初めてメール出します。先日、浜田省吾のライブに行ってきました。CDで聴くのとは全然違ってすごい迫力でした。 リクエストは、私がビートルズを聴くきっかけになった曲です。浜田さんがビートルズをはじめ、いかに音楽が好きかよく伝わってきます。 ライブでは聴くことができなかったので、ぜひお願いします。 〜 浜田省吾/ 初恋 〜 Paul McCartney/ Another Day (千葉市中央/男性)いつもウキウキしながら、そして納得もしながらも聴いています。 当時、昔いろんな情報が出た中で、ビートルズの解散が一番のショックでした。これからどうなるんだろう?。再結成するんだろうか?。 ひとりひとりがそれぞれアルバムを出して、果たしてこれまでのように楽しめる楽曲ができるのか?。 そんな不安な暗い気持ちでいた中で、ジョージの「マイスウィートロード」が出た時は「おお、ジョージやるじゃん!さすが。」と思いました。 が、やはりポールが大人しかったのが寂しい気がしていました。 そんな時、当時行きつけの店のジュークボックスでAnother Day がかかりました。 「ン?どこかで聴いたような?。あれ、これポールじゃないの?」「当ったりィ〜。きょうこれ仕入れて来たんだよ。」と、店の主人が言いました。 当然ながら、この店のご主人も大のビートルズファン。その晩は二人してポール談義に花が咲きました。 ポールの数ある名曲の中で、この曲は最も印象深いうちの一曲です。
□エンディング (小林)リクエストで、自分たちの体験とか、自分たちの思い出、ちょっとした意見、なんかが出てくるとけっこうありがたいですよね。 ビートルズていうのはですねえ、もう何十年も前の出来事ですからねえ。それを、どんな人たちが聴いているんだろうか。聴いてる人たちの顔が見えるような気がします。 リクエストよろしく(中略)。 もう、ビートルズってほんと1960年代、て言うともう50年、半世紀ぐらい前ですよね。 こないだねえ、アメリカのテレビの人気番組がありまして。これが70年代から続いているんですが、「サタデーナイトライブ」にレディーガガが出て。 レディーガガが出た回は、もうすっごい最高の視聴率だったんですよね。 それで、レディーガガがインタビューで「私がやってるのは、100年後に騒がれたい。100年後になんとか言われたい。そういう気持ちでやっている。」って言ったんですよ。 ビートルズの音楽は、まだ100年経っていませんw。だけど、50年は経っているんだよね。この調子でいくと100年は持つかなあ。 レディガガはまだひよっ子だけど、ビートルズは持つかな、そんな気がしています。
知らない人名・曲名・バンド名などが多くて苦労していますw。
いちおう検索していますが。
>>217 さん、すみません。ジェフ・エマリック とか書く人もいますw。
他にも、× パーラフォン、○ パーロフォン でした。
227 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/06/27(月) 23:33:15.60 ID:Dmyjwk+50
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年6月26日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 6月26日) ・1964年(今から47年前の今日) アメリカでA Hard Day's Night のアルバムが発売になりました。このA Hard Day's Night のアルバムというのはね、イギリスで発売になったアルバムとは違うんです。 イギリスのやつは、14曲がビートルズのオリジナルばっかり、というもの。 しかし、アメリカのアルバムはですね、ユナイテッドアーチスト、UAですね。映画会社から発売になります。 ビートルズのボーカル曲が8曲、で、ジョージ・マーチン・オーケストラによるインストの曲が4曲、12曲の構成。サントラ盤なんですよ。 この時点でおもしろいことに、サントラ盤に関する権利はビートルズもEMIも持っていなかったという。 これはけっこうおもしろいよね。当時ビートルズだとかマネージャーは、もうとにかく「レコードが出ればいいんだ!」ていうような、それを目標にしていました。 ただ、「映画も出るよ」って映画の話があった時に、映画のサウンドトラックアルバムというのはアメリカなんかでは常識であることを気が付かなかったんですね。 だから、UAはですね、映画出演のあとにサントラ盤を作ることになって、印税で「25%はどうだろう?」ということを考えていたらしいんですよ。 ところが、ブライアン・エプスタインの方から、「7.5%なら契約してもいいです。」・・・ 先方の思う壺。 ていうか、これはおいしいですよね。もう全然、そういうふうなことは無知だったわけですよね。 それから、サントラのインストなんですけれども、ジョージ・マーチン・オーケストラが担当していますが。 ジョージ・マーチンはビートルズをプロデュースすると同時に、マット・モンローとかピーター・セテラのヒット曲なんかをプロデュースして、 もうほんとプロデューサーとしてやり手であります。 だから、ジョージ・マーチンの仕事、出来上がりは上々、ということですね。
で、このサントラ盤野の中に元々シングルのI Want Hold Your Hand のB面の曲をですね、「リンゴのテーマ」として生き返らせることをやっています。 映画の中でも、リンゴが寂しげにトボトボ歩くシーンでこの曲が流れています。 〜 George Martin Orchestra / Ringo's Theme, (小林)映画A Hard Day's Nightでは、リンゴがトボトボ歩くシーンに流れる、ちょっと泣かせるアレンジをしています。 いきなり最初からメロディーが聴こえるのが、ちょっとあのカントリーギターっぽい感じかな、と思うとけっこう洗練されたところもあります。 そうなんです、This Boy ですよね。これが、「リンゴのテーマ」になっています。
□ジェフ・エメリックの回想 ・「ようし、いいだろう。明日のビートルズのレコーディングセッションにアシスタントとして参加することを許可しよう。ただし、ジェフはリチャードの行く所はどこでも付いて回ること。 それから、君は見習い中なので残業手当は無し。いいな。」 言葉の主は、EMIアビーロードスタジオの人事部長「パイプおやじ」ことボブ・ベケット。 そして、ジェフと呼ばれている少年は、のちにビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになる、カリスマエンジニア=ジェフ・エメリックのことである。 この逸話は1962年9月のことで、ジェフはまだ15歳。それも入社して2日目のことであった。 そして翌日、ついにビートルズとの出会いの瞬間が迫ってきた。 まだほんの駆け出しのアシスタントのさらに助手の身分のジェフであったが、ビートルズに関してのいろいろな方面からの噂は耳に飛び込んでいた。 どうやらこのビートルズというバンドは、音楽的な才能と同時に一風変わった個性と、小生意気な態度が印象的だと言われていた。 と同時に、このビートルズがEMIパーロフォンの新人アーティストの中でも、かなりの有望株と見られていたことも確かであった。 しかし、どんなに才能と個性があったとしても、イギリスの全国区でブレイクするバンドは限られている。 それに、ロンドンで生まれ育ったジェフにとっては、イングランドの中でも明らかに北の田舎町であるリバプールの連中であることも興味深いポイントであった。 当時は、ロンドンの住人と首都圏以外の地域、とりわけリバプールのような北部の地方都市に住む人々との間には、明確な階級格差が存在していた。 このように、いろいろな憶測を巡らすジェフ少年であったが、そのビートルズと遭遇する瞬間は刻々と迫っていたのである。
〜 The Beatles/ Searchin' 〜 The Beatles/ Oh! Darling (小林)2曲がんばり屋のポールの曲が続いていますが、Searchin'は1962年の1月1日(録音)ですよ。 まだビートルズが全然知名度がない頃、デッカレコードのオーディションを受ける話をしていますよね。 あのデッカのオーディションテープっていうのが、まあ有名なわけですけども、その中に入っている曲。 そして1969年のアビーロードです。Oh! Darling 。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「1962年9月。僕は文字どおり駆け出しのアシスタントエンジニアだったけど、もちろんあのビートルズだってメジャーのアーティストとしては、それ以上の駆け出しだったんだよ。 だって、これは今だから言えることだけど、当時のロンドンの住民に言わせたら、リバプールなんて本当に北の果てで、まさかそんな所からロンドンで通用するバンドがやって来るなんて 誰も想像してなかったんだよ。」 この証言は1966年以降のビートルズのレコーディングの大半に参加し、ロックのサウンドメークに革命を起こすことになるカリスマエンジニア=ジェフ・エメリックによるものである。 この時のジェフは若干15歳。アシスタントエンジニアとはまだ名ばかりで、入社一週目の彼は自分よりちょっとだけ先輩のリチャード・ランガムに常にひっついて回る見学者に他ならなかった。 ビートルズと遭遇する日の業務時間は思ったよりも早く通り過ぎ、じきに一日の仕事を終えた人たちがアビーロードスタジオをあとにしはじめた。 ジェフと彼の教育係りであるリチャード・ランガムは、近所のパブで晩飯をかき込み、スタジオ2のコントロールルームに向かった。 ジェフはそこで初めてチーフエンジニアのノーマン・スミスに紹介された。やせ形の伊達男タイプで、髪をきれいに撫でつけていた。 ノーマンの最初のひとことはこうであった。「おや!新人君。あ、それから、リチャード。君らちょっと顔が赤いな。さては、パブで一杯やってきたんだろ。いいさ、夜は長いよ。 残業は楽しくやんないとね。」 一見、まじめで神経質そうに見えたノーマンであったが、すぐに打ち解けることができた。 この人物が、数年後ピンクフロイドのプロデューサーとして有名になることなど、この時はまったく想像もできなかったことである。
〜 Pink Floyd / See Emily Play 〜 The Beatles/ Strawberry Fields Forever (小林)ジョン・レノンのStrawberry Fields Forever。 時は1967年。ヒッピー元年、サイケデリック元年です。 同じ年のピンクフロイドのSee Emily Play。今話している(ジェフ)少年が15歳ですよね。駆け出しで、EMIでビートルズのチーフエンジニアノーマン・スミスに紹介されるわけですが、 ノーマン・スミスは1967年にピンクフロイドのプロデューサーになっちゃうわけですよ。 ピンクフロイドは皆さんご存知ですよね。やはり1960年代にスタートしたグループで、この曲はシド・バレットという人が、ピンクフロイドの中心、基というか、 ピンクフロイドは、この人の頭の中から出来たと考えていいと思うんですが。ちょっと前に、亡くなっていますが。 みんなサイケデリックですよね。StrawberryもSee Emily Playもねw。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「おお、若者諸君。少し顔が赤いな。夜の仕事だからといっても、アルコールは禁止だぞ。って、僕も軽くやってきたけどね。」 こんなチャーミングな会話をするのは、アビーロードスタジオの中でもただ一人、ビートルズをデビュー当時から担当したエンジニア、ノーマン・スミスだけであった。 すぐさま持ち場に就いたノーマンは、さらにジョーク交じりの会話でスタジオを和ませていた。 この日のビートルズのEMIにおける事実上の最初のレコーディングセッションのチーフエンジニアは、ノーマン・スミス。 のちにあのピンクフロイドのプロデューサーとして独立する人物である。 そして、プロデューサーはもちろんジョージ・マーチン。またの名を「5人目のビートルズ」として知られた人物。 そして、アシスタントエンジニアはリチャード・ランガム。さらにその見学者がジェフ・エメリックである。 このジェフが、のちにビートルズサウンドを支えるカリスマエンジニアになるとは、この時点ではだれも想像すらしていない。 スタジオの録音作業を一手に仕切るノーマン・スミスという男は、性格的にも素晴らしい人物であった。 クリエイティブワークの現場は、ものすごいエネルギーが費やされる空間であり、人間がそのすべてをさらけ出す場所でもある。 どんなに優れたアーティストやプロデューサーであっても、生身の人間。エネルギーや体力には限界があるし、どこかで息をつくことも必要であろう。 そんなスタジオ内に、だれもがホッとする瞬間を創りだしてくれる人、それが、ノーマン・スミスであった。 ジェフの先輩で教育係でもあるリチャードもかなりのナイスガイであったが、さらに大先輩のノーマンの気配りは素晴らしかった。 ジェフがこの時、ノーマンの仕事ぶりをお手本にしたい、と強く思ったことは言うまでもない。
〜 Beach Boys/ Fun Fun Fun 〜 The Beatles/ She loves you (小林)She loves youは1964年3月アメリカでナンバーワン。その同じ週、第5位はBeach Boys。 つまり、東にビートルズ、西にビーチボーイズがあった、てのも忘れちゃいけないこと。
□リクエスト
(小林)メールは
[email protected] 採用の方はイシイのミートボールなどセットにして必ずプレゼントしております。
(千葉市中央区/男性)絶対にエルビスをカバーしなかったビートルズ。この話を聞くたびに僕は思い起こすのはこの曲です。
個人的にエルビスのゴージャスな感じが一層出ているような感じで気に入っています。ビートルズはどう思うかな。
(小林)そうなんです。これはオランダ人のDJプロデューサーがリミックスしたエルビス・プレスリーの・・・
〜 Elvis Presley/ a little less conversation
〜 The Beatles/ All You Need is Love
(福島県白河市/男性)最近番組のコマーシャルでよく耳にします。
All You Need is Loveが流れるとついつい耳が反応してしまうのは僕だけでは無いはず。
(小林)そうですねえ。ありがとうございます。
(霞ヶ浦市/男性)親子3人で毎週楽しく聴いています。子供が生まれて1年7ヶ月。毎日家事や子育てをがんばっている妻のためにリクエスト。 (小林)優しいですね。 〜 George Harrison/ Love Comes To Everyone 〜 The Beatles/ The Long and Winding Road (南足利市/男性)40代の方。日本が放射能問題などが解決して安全な国になるまで何年かかるかわからず、まさに長く険しい道ですが、希望を持ちたいと思います。 この曲は、間奏のどこまでも登って行くようなオーケストラアレンジがカッコイイです。 (小林)そうですよね。有名なフィル・スペクターのアレンジで。だけどポール・マッカートニーが嫌ったっていうことがねw。 だけどほんとにこれで良い、僕もそう思っていたんですよ。イイ、イイってね。 ただこないだね、スポーツの番組でね、ポール・マッカートニーのネイキッドのアルバムのバージョン、あの盛り上がるオーケストラが無いバージョンを聴いててね。 ふと、「あ、これも有りかあ。そうかあ。」っていう。ちょっと気が付いたことがあったんです。
□エンディング (小林)なかなか(ジェフの)話が面白いですよね。 だけど、ビートルズみたいなのが、30代のプロデューサーがいて、20代のミキサーがいて、あとはティーンエイジャーですからね。アシスタントね。 歳が若い連中がみんな創っていたわけですよね。ビートルズが20歳前後でしょ。 リクエスト待ってます。自分とビートルズとの関わりあい、自分の最近のことなんか、知らせてください。
アク禁がやっと解除されましたw
□ビートルズカレンダー( 7月3日) ・1965年(今から46年前の今日) フランス・イタリア・スペイン・ポルトガルのツアーの最終日ですね。 で、マドリッドの新聞なんかが「ビートルズの昨日のコンサートは失敗であった。」というふうに書きます。 どうしてかと言うと「客が真面目で冷静であった。その客を前にしてビートルズのコンサートは失敗であった。 ちなみに、ほかの国のことは知らないけれど、ほかの国は洗練されているけど。」と、ちょっと皮肉を書いていますが。 そうなんだあ。スペインのマドリッドでは、そんなに女の子がキャーキャー言わなかったんですね。 ちなみにね、もう、前の日がマドリッドで、この日がバルセロナに最終日だっていうんで着いてます。 で、約10日前を見ると、パリ行って、リオン、ミラノ、ジェノア、ローマ2日、ニース、で、マドリッド、バルセロナ。 2日ぐらいに1回ぐらいの感じかな。ローマなんかでは連チャンでやっているという。 そうなんですねえ。どこ行っても同じリアクションとは限らなかったわけですねえ。 パリはどうだったんだろうね。オランピアでは、ちょっとビートルズは男が多くて失敗だって言われてましたよね。 だけど、オランピアが終わるころは、もう女性達が来て盛り上がったということだから、パリなんかはすごかったんだろうね。 ただ、スペインはちょっと違っていたと。 この頃のビートルズのツアー、だいたいフォーマットは同じで、オープニングはアメリカのツアーもヨーロッパのツアーもこの曲でした。 〜 The Beatles/ Twist and shout (小林)有名なTwist and shout 。リードボーカルのジョン・レノンが風邪をひいていたって、有名な話ですよね。 で、ミルクでうがいしたら、ちょっとピンク色になった、ていう。喉がもうちょっと血が出てた。血がにじんでいた。すっごい。 これは改めて聞くと、すっごい一生懸命歌ってるよね。
□ジェフ・エメリックの回想 ・「さあ、いよいよビートルズのロックのレコーディングセッションだ。ビートルズも気になるけど、チーフエンジニアのノーマン・スミスっていったいどんな人なんだろ。 そうだ、プロデューサーのジョージ・マーチンだってカリスマ性があるって、みんな噂している。ああ、だんだん緊張してきたぞ。」 セッションが始まる前から一人で緊張している少年は、後にビートルズの専属エンジニアとしてロックサウンドに革命を起こすことになる、カリスマエンジニア=ジェフ・エメリック。 この1962年9月4日の時点で、ジェフはEMI入社一週間目の若干15歳。高校を出てすぐの、まだほんの駆け出しであった。 アビーロードのスタジオ2に入って、最初にノーマン・スミスを紹介された。 とても背が高く、ほがらかでユーモアのある紳士である。 ジェフは自分の居場所を、先輩社員のリチャード・ランガムの横に陣取ると、スタジオ内を見渡した。 後にアビーロードスタジオとして有名になるEMIのスタジオ2は、この建物の施設の中でも異彩を放っていた。 これは世界中のどんなスタジオにも無い景色なのであるが、ミキサー卓のあるコントロールルームが、ミュージシャンが演奏する広いスタジオエリアよりも上の階にあり、 プロデューサーもエンジニアも、そこを見おろすスタイルになっていたのである。 そのため、二つの階を行き来するには狭い階段を使うしかなく、コントロールルームからの伝達や指示、つまりトークバックはスタジオの壁から吊り下げられたスピーカーから伝えられた。 こうしてジェフが、スタジオをいろいろと観察しているうちに、時間は定時の7時前となり、何やらガヤガヤと人が集まってきた。 コントロールルームから見おろすと、そこにはミュージシャンらしい人影が見えた。 「ああ、もしかして、これがビートルズ?」 ジェフはそれまでの人生で感じたことが無い、緊張感に襲われたのである。
〜 The Beatles/ A Taste Of Honey 〜 The Shadows / Apache (小林)当時の音楽が流れています。 Shadows、これはクリフ・リチャードのバックも勤めた、シャドウズ。 ビートルズはシャドウズを尊敬していましたが、彼らの1960年の1月のイギリスのナンバーワンですね。 アパッチをお送りしました。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・1962年9月4日夜7時。ビートルズはついに新米アシスタント=ジェフ・エメリックの前に姿を現した。 ここから、アーチストとエンジニアとしての関係はスタートするのであるが、ビートルズとEMIとの関係はすでに3ヶ月ほど前から始まっていた。 ここで興味深いのは、なぜ、ロックのレコードは作ったことが無かったジョージ・マーチンが、 ビートルズを採用してプロデュースをしようと決断したかということ。 ここからは、エンジニアであるジェフ・エメリックの手記から少し離れて、ジョージ・マーチンという人物にスポットを当ててみたいと思う。 ジョージ・マーチンは1926年北ロンドン・ホロウェイに大工の息子として生まれた。典型的な労働者階級である。 家系に音楽的な伝統があったわけではなく、少年時代に特別な音楽教育を受けたわけではなかったが、先ずピアノの演奏を耳で覚える事から始めて、 16歳の頃には、高校でダンスバンドのリーダーになっていた。 第二次世界大戦中イギリス海軍航空隊に配属され、大尉で退官した。 1947年終戦から2年後に復員したが、何もすることが無く、戦時中小さな演奏会でのピアノ演奏を聴いてくれたある人の勧めでギルドホール音楽学院を受験した。 ここには3年間在学して、ピアノに次ぐ第二楽器としてオーボエを選択した。 卒業後、しばらくフリーランスのオーボエ奏者として過ごしたが、劇場の伴奏楽団や日曜の午後にロンドンの色々な公園などで演奏して、いわゆる日銭を稼いで暮らしていたのである。 そんなマーチンに1950年代後半のある日、就職の話が舞い込んできた。会社は大手レコード会社EMIの子会社で、パーロフォンという社名。 しかし、マーチンはこの時点ではEMIの名前すら知らなかったという。 ただ、単純に演奏することが好きなマーチンであったが、そろそろ三十路に差しかかっていたのである。
〜 PETER SELLERS and SOPHIA LOREN / Goodness Gracious Me 〜 The Beatles/ Maxwells silver hammer (小林)1969年Maxwel Shilver Hammer。普通のロックの曲とは違って、なんかミュージックホールというか音楽寄席というか、昔からある芸人さんたちが歌うような音楽ですよね。 こういうのがポールが得意だったんですが。プロデューサーのジョージ・マーチンも大得意。 その前のピーター・セラーズとソフィア・ローレン(の歌)。 ピーター・セラーズ知ってますかねえ。この頃は世界的に有名なコメディアンです。インド人系の英語をしゃべっていましたね。 ソフィア・ローレン、イタリアの生んだ、この頃世界一位ぐらいに(人気があった女優)。 ちなみに、ジョン・レノンはですね、ブルジッド・バルドー、この頃の、ちょっと有名な女優で。 彼女の水着姿のポスターをミミ(伯母)の家にいた頃は、少年時代に天井に貼っていた。 そういう二人のスターが歌っていたやつをプロデュースしたのが、ジョージ・マーチンなんですよね。 その曲Goodness Gracious Me ていう曲お送りしました。
□ジェフ・エメリックの回想(続き) ・「あの頃は、演奏して食べていければそれで 満足だったよね。なんせEMIという会社の名前すら知らなかったんだからね。そりゃもう、のん気なもんだったね。」 こう語るのはビートルズの全アルバムを手掛け、ロックの世界では最も有名なプロデューサーの一人であるジョージ・マーチン。 1950年代後半になると、そのEMIの完全子会社パーロフォンにA&Rマンとして就職することになった。 このA&Rという職種は、アーチスト・アンド・レパートリーを省略したもので、直訳すると「アーチストと楽曲を管理する」ということになる。 つまり、現在の多くの音楽ファンがイメージする「プロデューサー」という役割に近いものである。 アーチストを見つけてきて、楽曲を探しレコーディングを経てレコードを発売し、そのプロモーション計画にまで携わるという、現場監督的な仕事の内容。 今でこそ、音楽的に混みいった仕事は外部のアレンジャーなどに依頼するのがほとんどであるが。 50年代のイギリス、とりわけEMIでは、そういった部署にはしっかりとした音楽的なキャリアを持った人材が宛がわれていた。 マーチンもそんなスキルを持ったミュージックマンの一人として、パーロフォンレーベルに採用となった。 EMIでのマーチンの給料は、週に7ポンド4シリング9ペンスで、これは一般的なロンドンの会社員と較べてもかなり低いものだあった。 ご多聞に洩れずEMIも資本を握っているのは貴族階級で、労働者階級の社員を安い給料でこき使う、という階層社会の縮図があった。 そのため、生活費を稼ぐためマーチンは、日曜日の公園での演奏を続けた。 それでも、音楽に携わる仕事に就けたこと自体 すごくラッキーなことであった。
245 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/07/10(日) 22:35:13.21 ID:DGxetBnM0
〜 Matt Monro/ My Kind Of Girl 〜 The Beatles/ Honey Pie (小林)Honey Pie ポール・マッカートニーですね。ホワイトアルバムは1968年ですが。 ビートルズの後半でも、ビートルズてのは変わったグループですよね。ロックじゃない、こういう風なロック以前の曲調のものをかなりやってるってことですね。 そして、その前はプロデューサー=ジョージ・マーチンの仕事のひとつです。マット・モンローという、まあ、あの手のw、さっき聴いた手のボーカリストの中では一番有名な人です。 From Russia With Love♪ という「007のテーマ」なんかもヒットさせたことがあるんですが。 これはあのジョージ・マーチンがプロデュースしました。 ビッグバンドって、ああやって歌うのが、ロックンロールが始まる以前は、あれが主流だったんですよね。
□リクエスト
(小林)メールは
[email protected] 。
採用の方にはイシイのミートボールなどをセットにしてプレゼントしております。
(千葉県松戸市/女性)震災から3カ月。被災者の方たちが早く以前の生活に戻れますように。そんな思いを込めて。
〜 John Lennon / Imagine
〜 John Lennon / Woman
(小林)ジョン・レノンが2曲続きましたね。
(柏市/女性)YouTubeでビートルズを聴くことが多いです。
ジョン・レノンのライブ見たかったな、と思うようになりました。だけどそれよりも、ビートルズのライブの方が見たかったな、と思います。
でも解散して、ずっとCDで聴けたり、インターネットで見れるのはうれしいことだと思います。
(小林)そうなんですよね。時代が変わっちゃいましたよね。
番組の頭で「今から47年前」とか言いますけど、その頃のものが平気で聴いたり見たりできたりするんですよ。
良いものは半世紀ぐらい前に帰って選んだりすることができるから、最近の若い人たちはとても幸せですねえ。
(埼玉県/男性)他局の番組ですが、ビートルズの楽曲を他のアーティストのカバー曲でまとめて紹介する「本物が聴きたくなるビートルズソング」という番組がありました。 南佳孝さんもカバーしていることを知りました。 追伸、拝啓ポール殿 ご結婚おめでとうございます。 〜 南佳孝/ No Reply 〜 Billy Joel / When You Wish Upon a Star (千葉県八千代市/男性)克也さん、シルキーブラックのCMに出てたんですね。CMを録画して毎日見て、疲れた体を癒しておりますが。 克也さんを含め、いろんなスターの方たちが出演されている豪華なCM。裏話がありましたら、教えてください。 (小林)裏話、無いんですよw。そういう豪華な人たちw。別撮りで、あとで組み合わせちゃうんで。 ごめんね!w。
□エンディング (小林)ジョージ・マーチンのプロデューサーのお話をしていますが、プロデューサー=ジョージ・マーチン と何回もこの番組で言ってますけども。 どんな人間か知らなかった、ていうのがありますよね。ちょっと人間像を紹介してくると、いつものストーリーも深みが増すということで。 ジョージ・マーチン どんな男なのか、来週もお楽しみに。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年7月10日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 7月10日) ・1964年(今から47年前の今日) ビートルズが世界で売れた年。 イギリスではA Hard Day's Night のアルバムが発売。それから、A Hard Day's Night のシングルも発売。 そして夜になると、リバプールの、ロンドンじゃありません。リバプールのオデオンシネマという所ですけれども。 A Hard Day's Night は映画であった、というのはご存知のとおりですが。 ビートルズの最初の映画 A Hard Day's Night のプレミアショウが開かれます。 もちろんビートルズの4人と、マネージャーのブライアンが参加いたします。もう故郷に錦を飾ったっていう。 このA Hard Day's Night は、ビートルズにとってアルバムとしては3枚目で、すべてJ・レノンとP・マッカートニー。 で、この番組を通して(紹介した)、ビートルズの優秀な宣伝係りがいたんだ。トニー・バーロウという。 彼はいろんなビートルズの売り方や、イメージを保ちながらの売り方ね。ツアーやったり、雑誌に出たり、ラジオに出たり、テレビ、いろんなメディアを 上手く利用したりするわけですけれども。 映画に出る、ということ。音楽のスターなんだから、映画に出るっていうことを考えますよね。ただし、その前例はあるわけです。 プレスリーだとか、映画に出て、映画のサントラと映画の出演でずーっとプレスリーの人気は続くわけですが。 そういうのを考えていたのかもわかりませんが、ビートルズの主演第一作目がA Hard Day's Night 。 監督がリチャード・レスターという、当時はロンドンの若者を撮らせたら有名、という。この感じで実現するわけです。
でそのA Hard Day's Night というのは、テーマを探している時に、リンゴ・スターが「きょうは辛い日の夜だったね」って言うw。 なんか、英語がおかしいリンゴw。リンゴはほんとおかしかったらしいですけど。英語がおかしいリンゴが言った曲で「ああ、それにしよう!」っていうことでジョンが決めました。 専門家が言うには、これはコードが不可解。もしかすると、二本のギターで別々のコードを弾いているんじゃないか。特にイントロが。 そんなことが言われた曲であります。 やっぱり有名曲っていうのは、いろんなエピソードがあるわけですね。
〜 The Beatles/ A Hard Day's Night □ビートルズストーリー ・パリ時間で1964年1月某日、夜中の2時過ぎ。まるでせっつくように電話のベルが鳴り続けた。 こんなとんでもない時間に起こされたのは、レコード会社EMIパーロフォンの制作部長ジョージ・マーチン。 ジョージ・マーチンはまずその不快なベルの音を停めることが先決。仕方なくパリでの滞在先のホテルのベッドを抜け出して、電話に向かった。 「何だ!、こんな時間に」というオーラ全開で受話器にひとこと発した。「ハロー」(`Д´)。 「ジョージ、起こして済まない。君にどうしても伝えなきゃならないことがあるんだよ。」 電話の声の主はビートルズのマネージャー=ブライアン・エプスタイン。 ブライアンの声はとても興奮した様子で、ちょっぴり酔っているようでもあった。 ブライアンがそんなふうに酔って興奮するなんて、かなり珍しい事であったが、マーチンはすぐにその理由が判った。 ブライアンは一方的にしゃべり続けた。「ボーイズは、まだ祝杯を挙げているんだよ。連中みんな、僕と同じぐらい興奮しているよ。」 こう言うとブライアンは緊張感を高め、もったいつけるように間を置いた。 夜中に起こされて、意識も朦朧としているマーチンは無言のまま、頭脳がちゃんと機能していない状態である。 このようにまともにしゃべれないでいると、ブライアンが続けた。 「来週のチャートでは全米ナンバーワンだ。これはかなり確実な筋からの情報なんだ。たった今、ニューヨークに電話をして確認したんだよ。」 この時点でマーチンはやっと事の重大さに気付いた。I want to hold your handが全米一位。ビートルズはついに成功を収めた。 この一年間苦労を重ね、世界最大のレコードマーケットの壁を突き破ったのである。 マーチンは、もうこれ以上眠ろうなどという気持ちは消え失せていた。 ただ、成功を手に入れた今、これから自分たちがやるべきこと、やらなければならないことをいろいろと思い巡らすうちに、朝になっていたのである。 〜 The Beatles/ I want to hold your hand
〜 Bobby Vinton / There I've Said It Again (小林)いかがですか。ちょっとでもその時代を感じていただくために、ビートルズがナンバーワンになった瞬間。 もちろんその I want to hold your hand. そして今聴いたのは、アメリカ人のボビー・ビントンのThere I've Said It Again 。 これはですね、同じ頃の、ビートルズが一位になる前、4週間一位を続けていたアメリカの大ヒットです。 おもしろいもんですね。47年経っているわけですよ。この今聴いたアメリカの大ヒットは、消えていますよね。ほとんどね。もちろん良い曲だから。 だけど I want to hold your hand ビートルズの曲は生きていますよね。w ええ。 つまりね、アメリカはね、どういうふうになっていたかというとね。 ちょうど8年ぐらい前に、プレスリーたちが出てきてロックンロールが盛り上がるわけですが、8年経ったら、甘いばっかりで骨の無いものになっていたんです。 そんな中に今日聴いた 例えばA Hard Day's Nightとか、さっきかかったI want to hold your hand 、こういうのが来るわけですが。 売れるのは当たり前ですね。
今回もありがとう 急に顔文字出て来てびっくりしたw
□ビートルズストーリー(続き) ・「ジョージ聞いてくれ、ビートルズが来週全米チャートで1位になるんだ。これはすごいぞ!。アメリカで1位ってことは、世界一ってことだよ。 僕らはもうこれからどうすればいいんだ?。」 この夜中の電話の主は、ビートルズのマネージャー=ブライアン・エプスタイン。 夜中の電話で起こされたジョージとは、またの名を「5人目のビートルズ」と呼ばれた人物、プロデューサーのジョージ・マーチンである。 一年間ビートルズとともに苦労を重ね、ビートルズサウンドを創り上げ、シングルを出すごとにバンドのバージョンアップを図ってきたマーチン。 プロデューサーは常にアーティストとその楽曲、そしてファンの心理を考えてレコーディングに臨むことが条件である。 彼らに「ここでひと息」という瞬間は無い。このパリにビートルズと同行していたのにも二つの理由があった。 一つ目は、オランピア劇場で行われるビートルズにとって初めてのパリ公演を見ること。 プロデューサーにとって、自分の担当するアーティストが世界各国で通用するか。つまり、インターナショナルな存在になっているのかを確認するのは大切な仕事である。 特にビートルズにとってフランスはまだほとんど未開拓の土地であった。 そして二つ目は、パリのスタジオで素早くビートルズのレコーディングを行うこと。 このレコーディングとは、少なくとも2曲のビートルズのヒットシングルのドイツ語版を作るということであった。 ドイツEMIの担当者は、ビートルズが売れるためにはドイツ語バージョンがどうしても欲しいと言って譲らなかった。 もちろん、ジョンもポールも反対した。 「俺たちは、アメリカのロックンロールやリズム&ブルースに憧れてバンドを結成したんだ。それに俺たちの母国語は英語だぜ。 ロックは英語による音楽なんだよ!。」
〜 Little Richard / Long Tall Sally 〜 John Lennon/ Be-Bop-A-Lula (小林)あははw。これはジョン・レノンですね。 パリにいるビートルズに、ドイツ語でやらせようとしたわけですよね。 ビートルズは「冗談じゃないよ!。」ていう。 まあ、ドイツで長い間仕事をしたっていう体験もあるんだろうし、ドイツ語で歌ったって魂がこもるかどうか?ていうのもあるんだろうし。 もともとロックだから、ていうことで。 さっきあの、アメリカのロックンロールの話をしましたけれど、これは2曲とも50年代のロックンロールがすごかった時の曲です。 Long Tall Sally ポールが大好きなリトル・リチャードですが。 ジョンの Be-Bop-A-Lula は50年代の大ヒット曲のカバーですね。オリジナルはジーン・ビンセントです。
□ビートルズストーリー(続き) ・「俺たちの曲をドイツ語で歌え、だって?。冗談じゃない。俺たちが手本にしているロックンロールやリズム&ブルースはアメリカ産の音楽だし、俺たちはイングランド人だ。 とにかくロックは、英語の音楽なんだ。ドイツ語なんてまっぴらごめんだよ。」 EMIドイツの、ビートルズにドイツ語で歌わせてくれという強い要求に応えるため、プロデューサーのジョージ・マーチンは彼らのパリ公演に同行していた。 もちろん、パリの観客がビートルズのパフォーマンスに熱く応えてくれるかどうかを自分の目で確認することも一つの仕事ではあったが、 やはり一番の目的は、素早くビートルズソングのドイツ語バージョンを制作すること。 レコーディングスタジオもいくつかあたりをつけてあり、あとはメンバーの了解を確認するだけである。 マーチンは何日も説得工作を行なった。結果、なんとかジョンとポールを説き伏せ I want to hold your hand とShe Loves You という2曲のナンバーワンヒットを ドイツ語で歌うバージョンをレコーディングすることになった。 録音はオランピア劇場でのリハーサルが無い日に行なわれることになっていたが、マーチンがスタジオに到着したときメンバーの姿は無かった。 が、すんなり行くことを予想していたわけではないので、マーチンはさほど心配はしていなかった。 なにせ、当時ビートルズはお世辞にも時間に几帳面とは言えなかったのである。結局、1時間たっても連中は姿を現さない。 さすがに、これ以上待てなかったマーチンは、まずビートルズが泊っているジョルジュサンクホテルに電話をした。 フロントから電話を繋いでもらおうとしたが、だれも出ない。 それでもマーチンはフロントに事情を説明し、何度も何度も電話をしてもらった。 結果、ローディのニール・アスピノールが交渉役を押し付けられ、電話口に出た。 二ールは説明した。「ああ、マーチンさん。ビートルズからの伝言をそのままお伝えします。やっぱりドイツ語なんかで歌いたくないので、スタジオには行くつもりが無いそうです。以上。」
〜 The Beatles/ She Loves You 〜 Tremeloes/ Do You Love Me (小林)ビートルズが売れている頃と同じ時代の曲。共通性はすっごくありますよね。これを聴いてジョン・レノンの Twist&Shout とかを思い出した人いると思いますが。 1963年の9月にイギリスでナンバーワンになったShe Loves You 。 そして、そのころに、正確に言うと10月だ。10月にナンバーワンになった、これはカバーバージョンですね、Tremeloes。 アメリカの黒人グループ=The Contours のオリジナルをカバーしました Do You Love Me。
□リクエスト
(小林)
[email protected] ここで待ってます。
イシイのミートボールなどセットにして用意しておりまして、リクエスト採用の方全てに差し上げています。
(千葉市富里市/男性)50代になりました。片付け物をしていたら、古いLPレコードが出てきました。
その中の一枚がスージー・クワトロのベストアルバムでした。あのころ黒のレザースーツでシャウトする彼女に憧れたものです。
我が家にLPレコードがかけられるステレオが無いので、リクエストお願いする次第です。
(小林)wいいですよ。聴いてみましょう。
僕はあれですよ、スージー・クワトロ聴いたとき、なんかね、ガックリ来た覚えもあるんですよ。
あのほら、ビートルズなんかで盛り上がって70年代になるじゃないですか。70年代になった。あ、ロックは進化して次には良いものが出てくる(はずが)
また元に帰った。これ、どういうことなのかな?。お客さんが変わったのかな?。とか思いましたよ。
僕らには、別に新しくはなかったんだけど。まあ、だけどその、刺激はありましたよ。ロックの刺激がね。文句をつけてごめんなさい。
〜 Suzi Quatro/ The Wild One
〜 The Beatles/ Things We Said Today
(小林)Things We Said Today 。A Hard Day's NightのB面の曲にリクエストがありました。
(東京都渋谷区/男性)私とビートルズの関わりは、高校一年の時にステレオを父親から買ってもらい、初めてレコードを買ったのが Meet The Beatles! でした。
その後、父親が放送局に勤めていた関係で、武道館の公演を見に行くことができました。これは私にとって大変うれしい事でした。
実際、観客席で聴いた状況は、まったく演奏が聴けなかったことでした。後の武道館のフィルムで見ると、静かな観客席ですが、実際は前述のとおりで煩くて何も聞けませんでした。
したがって、何を演奏していたのか判ったのは、その後のビデオテープでした。
その中で、新しい曲Paperback Writer を発表していましたが、私の好きな曲はポールのThings We Said Today です。
(小林)そうかあ…。武道館のビートルズを見たわけですね。49年前のちょうど今ごろ、ああ、ビートルズは今フィリピンにいる頃ですよね。49年前はね。
(横須賀市/男性)先日6月10日に行なわれた、ポール・マッカートニーのラスベガスのライブへ行ってきました。(小林)うわぁ。 夜8時くらいにポール登場。アンコールを含め33曲。約2時間半。ほとんどノンストップでの進行でした。 ポールは生き生きとして、とても元気そう。現在69歳のポール。貫禄を増しながら、なおかつ若さも増しているように感じました。 観客を楽しませるMCで、楽器を変えながらお馴染みの曲を次々に歌い演奏。バイオリンベースはもちろん、レスポールでの圧巻ギタープレイ、ピアノ曲の数々、 ライブでカジノを弾くのも初めて見ました。イエスタデイはオリジナルレコーディング楽器のテキサンで歌われました。 会場は大いに盛り上がり、一曲一曲がその曲の思い出を振り返らせてくれました。ライブはダレることなく、集中してなおかつリラックスして、あっという間の2時間半。 ポールはその晩、まだまだ歌えそうでした。ポールは老いを感じさせず、まるで「歳をとることは、より若くなることだよ」と、言われてるみたいでした。 自分が69歳になった時、今回のポールのように元気でいたいです。前回ポールのライブを見たのは、2002年11月東京ドーム。 あの時、9年先にこういったライブを見れるなんて とても思えなかったです。 ポールと同じ時代を生きて、本当に幸せを感じることができる。そんなライブでした。 最後に、今回のライブで鍵盤をひっ叩きながらシャウトする姿がとても印象に残ったこの曲。Nineteen Hundred and Eighty Fiveのリクエストお願いします。 〜 Paul McCartney/ Nineteen Hundred and Eighty Five
〜 The Beatles/ I Want You (She's So Heavy) (小林)きょうはポールのすごさがどんどん伝わる、ポールデイですね。 (草加市/男性)以前リスナーの方が、ラジオから思いもよらず聴く曲が楽しいと言ってました。私も同感です。 もうちょっと付け加えると、曲がその時の自分の心情を表現してくれた時、あたかも自分が歌の世界に融けこんでいるような錯覚が心地いいんです。 ラジオのチューニングのように自分の感情の波が歌の周波数にはまった瞬間です。(中略)半年に一回あるかないかのマジックです。 本当に気まぐれで偶然にしか起こらないこの奇跡。ラジオを愛する者の特権だと思いませんか?。 なぜかバチコーンとシンクロしたこの曲をリクエストします。 (小林)今はどうですか?今は(バックに曲 I Want You)この曲長いんで絞らせていただきます。
□エンディング (小林)きょう後半はやっぱり、ポールのすごさ、ポールの音楽はやっぱりものすごく明るく力をくれるね。 そんなことがわかりました。リクエスト、ほんとにどうもありがとう。 だけど最後のリクエストは感激しましたね。みんな「ラジオの奇跡」を信じて、ずっとラジオを造り続けるし聴き続けるわけですね。
ジェフ・エメリックの回想は結局ビートルズと出会う瞬間までで終わりなのかw
263 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/07/20(水) 23:42:47.46 ID:8HLgWNgQ0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年7月17日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 7月17日) ・1967年(今から44年前の今日) アメリカでAll You Need is Loveがシングルとして発売になりました。 これはイギリスで発売されたのより、アメリカの時期がとても意味があります。 と言うのもですね、1967年がフラワームーブメントの幕開け。サマーオブラブ、特別のサマーです。「愛の夏」と呼ばれました。サマーオブラブ。 なぜかと言うと、ちょうど44年前の今ごろはもう、アメリカの高校生だとか大学生だとかですね社会人がもう「仕事は辞めた」「勉強も辞めた」って みんなサンフランシスコ目指して集まってきて、サンフランシスコはヒッピーの中心地になって。フラワームーブメントてのはヒッピーが頭に花を飾ったんですよね。 ヒッピーの幕開け、ラブアンドピースの幕開け、サイケデリックの幕開け。そんな時に、みんなラブアンドピースって言ってる時に All You Need is Love 。 「必要なのは愛だけ」ていう、やっぱりそのフラワームーブメントのテーマみたいじゃないですかこれは。ねえ。 ビートルズの中では、ジョージ・ハリスンがインドへ傾倒したりすることから、ヒッピーの文化に一番の興味を持ちます。 ポールも、恋人のジェーンが役者としてアメリカで興行するんですよ。 で、ジェーンの誕生日に間に合うようにアメリカに行って「なんだ、なんだ!これは。ヒッピーだ!ヒッピーがいっぱい」ていうことで、ポールもその時代を判っているわけです。 この曲ではやっぱりヒッピーのムーブメントにということで、ジョンがハープシコード、ポールがウッドベースで弓で弾いてます。ジョージも初めてバイオリンにトライしています。 これは、発売に先駆けて当時珍しい衛星生中継「OUR WORLD」の中でも中継されました。
あらためてですね、今から44年前にシングルとなった、もうヒッピーの時代が始まってるわけですね。All You Need is Love を聴いてみたいと思いますが。 このころのヒッピーのサイケデリックの手法の一つに、コラージュていうのが相当流行りましたね。コラージュが取り入れられています。 音楽的に、フランス国歌、グレンミラー楽団のIn The Mood のイントロ、それからイギリス民謡のGreensleeves、ビートルズのSheLovesYou、の切れ端がコラージュみたいに入っています。 もちろんこの曲は、全米ナンバーワンになりました。 〜 The Beatles/ All You Need is Love (小林)このコラージュがやっぱり凄いでしょう。 幅をもたせて、曲をものすごく、頭の中に入って、心の中に入ってきた時にいろんな想像をかき立てるよね。 というわけで、まあ、ヒッピーのテーマというかサマーオブラブのテーマというか。 ちょっと言うのを忘れていましたけど、この47年前の今日、この曲がシングルが出るわけですよね。 その、何日前になりますかね、約一ヵ月ぐらい前ですかね、Sergeant Pepper's Lonely Hearts Club Band が出てたわけですよ。 だからもう、世の中はビートルズのサイケで一辺倒みたいな。 もちろん他のアーティストもいろんなこれっぽい音楽を作りますから、時代がもうほんとにサマーオブラブだったわけです。
□ビートルズストーリー ・「あ、マーチンさん、ビートルズからの伝言をそのままお伝えします。やっぱりドイツ語なんかで歌いたくないので、スタジオには行かないそうです。 以上。」 この「マーチンさん」と呼ばれる人物は、ビートルズの作品を手掛けたことでロック史上最も成功したプロデューサーとされる人物、ジョージ・マーチン。 1964年1月。マーチンはビートルズのパリ巡業に同行し、かねてからの懸案であった「ビートルズがドイツ語で歌うバージョン」を録音することを計画していた。 が、このプランに対しジョンもポールも大反対。 「ドイツ語?。あのカチカチのイントネーションでまったくクールじゃない言葉が、ロックのビートに乗ると思うのかねえ。やだねえ。俺たちは絶対に歌いませ〜ん。」 と、計画は宙に浮いたままになっていた。 EMIドイツの営業セクションとアーティストとの間で板挟みになるマーチンは、なんとかメンバーを説得しようとがんばった。 ビートルズがイメージするドイツというのは、何度か長期巡業で出向いたハンブルグだけ。そりゃもう猥雑で危険な臭いのする歓楽街のイメージである。 これとは真逆に、ベルリンを中心とする音楽芸術の文化は伝統的に存在し世界的にも認められている。 そういう文化レベルの高いドイツにおいて、ビートルズはほとんど認められていなかった。 一説によるとビートルズは 「ハンブルグ巡業時代に若気の至りでずいぶんとやんちゃな行ないをしたせいで、トップアイドルとなった今、ドイツとはもう関わり合いたくない。こう思っていた。」 という説もある。 もちろんマーチンはドイツ語バージョンを拒むジョンとポールを説得し、なんとか2曲だけ歌ってもらうことで交渉は成立していた。 しかし、レコーディング当日になって連中はその合意を撤回しようとしている。 これはもうベテランプロデューサーにとっては、かなりのピンチであった。
〜 The Beatles/ Help 〜 The Beatles/ Ain't She Sweet (小林)いかがですか、2曲。Help これはお馴染み1965年。 Ain't She Sweetを聴きました。これは1961年です。 曲自体はアメリカのスタンダードナンバーみたいなものですが。ハンブルグで録音されました。61年ですよ。歌っていたのはジョン・レノンですけど。 ビートルズの初めて出された録音物、マイボニー(My Bonnie)なんかも入っていましたが、トニー・シェリダンというロックンロール歌手のバックをビートルズが勤めて。 この曲だけはジョン・レノンがリードボーカル。ジョン似合わないよねw、こうやって改めて聴くとこういう曲はw。 ポールの方が良く似合う曲ですがw。なにしろリーダーですから、ジョンが歌っていました。
□ビートルズストーリー(続き) ・「マーチンさん、やっぱり気が変わった。スタジオには行かないからよろしく。」 ビートルズがドイツ語で歌うバージョンを録音しようと、EMIパーロフォンのプロデューサー=ジョージ・マーチンは巡業先のパリに同行していた。 1964年1月28日火曜日。現地のパテマルコーニスタジオも予約した。なのにスタジオに来ないとは、いったいどういうことだ。 ビートルズがジョージ・マーチンに逆らうなどということは、この20ヶ月の間でまったく初めてのこと。 マーチンの怒りはまもなく頂点に達しようとしていた。そして、電話の向こうでビートルズの伝言をそのまま伝えているローディーのニール・アスピノールに向かって怒鳴りつけた。 「連中に伝えてといてくれ!。いいか、私はすぐにそっちへ行って、私が連中をどう思ってるか、それにこのままだとどういう事になるか、はっきりと言い聞かせてやるとね。 わかったか!。」 マーチンは受話器を叩きつけた。 ビートルズが初めて逆らったことはともかく、プロデューサーに対して正々堂々と意見を言わず、スタッフを電話に出させたこと。 これがマーチンにとって最もむかついた事であった。 マーチンは急いでビートルズの滞在先であるジョルジュサンクホテルに戻り、贅沢の限りを尽くしたスイートルームの応接間に飛び込んだ。 そしてその光景は、白いウサギが見あたらないだけで、ルイスキャロルの世界そのものであった。 長いテーブルを囲んで、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、そしてローディの二ール・アスピノールと彼のアシスタントである巨漢のマル・エバンスが座っていた。 部屋の中央で紅茶を注いでいたのは、ポールの恋人で長い赤毛の女優ジェーン・アッシャー。それはもう、不思議の国のアリスさながらの光景であった。
〜 The Beatles/ Martha my dear □ビートルズストーリー(続き) ・「連中に伝えといてくれ。私に逆らうのであれば、なぜ正々堂々と面と向かってはっきりものを言わないんだ。 このままだとどういうことになるのか、そっちへ行ってはっきりと言い聞かせてやる。とね。わかったか!」 ビートルズの楽曲のドイツ語バージョンを、レコーディングスタジオまで押さえ、一時間以上も待たされていたプロデューサー=ジョージ・マーチンの怒りは頂点に達しようとしていた。 マーチンが(ビートルズの)滞在先のジョルジュサンクホテルのスイートルームに着くと、ビートルズとローディ2名、そしてポールの恋人で女優のジェーン・アッシャーは 応接室中央のテーブルに座って優雅に紅茶を飲んでいた。もちろん、マーチンが入って来たのを確認するやいなや、ビートルズはあちこちに散らばり、ソファーやクッション、ピアノなど 隠れる事のできる物ならば何でもそれを盾にして隠れてしまった。 マーチンは怒鳴った。「卑怯者め!!。レコーディングしようとしまいと私は構わないけど、君たちのその無作法なやり方には黙っちゃいないぞ!。」 すると恥ずかしそうにニヤニヤしながら、まるでイタズラっ子の中学生のように、それぞれの隠れ場所からビートルズの顔が現れた。 そして、口をそろえてつぶやきが漏れて来た。「悪かったよ、マーチンさん」。 こんな具合に彼らが愛嬌をふりまいて謝ってこられたら、いつまでも怒っていることなんて出来るわけがなかった。 いつの間にかマーチンは、彼らのパーティにお呼ばれされていたのである。 もちろん、この部屋の電話から翌日のレコーディングスタジオの予約を入れ直したことは言うまでも無い。
〜 Ringo Starr & His All-Starr Band/ I'm The Greatest 〜 George Harrison/ What Is Life (小林)音楽の方は、ビートルズが解散した後の2人。というかまあ、中心じゃなかった2人w。 リンゴ・スターの1973年、これはリンゴのアルバム。もうこの頃になるとリンゴ・スターは Photograph だとか Back Off Bugaloo とか、 ソロとしての立派な… Photograph なんかナンバーワンになったりするわけで、立派な活動を続けるわけですね。 一方ジョージ・ハリソンも、一番先に自分の世界を確立しますよね。ビートルズが解散した後。 ですから、オールシングスマストパス(all things must pass)のアルバムは1970年なんですけども。このころはディランが協力したり。 いま聴いた曲は What Is Life 。これはですね、バックはほとんど…ビートルズが解散した後でしょ、だからバックのミュージシャンてのは… Derek and the Dominos って知ってますかね?。エリック・クラプトンのグループですよね。レイラ(LAYLA)なんて大ヒットがありますよね。 だから What Is Life いま聴いた曲のバックには、エリック・クラプトンたちも入ってるんですよ。豪華ですよね。 ビートルズは解散したけど、それぞれ4人が、ちょっと時はずれるんだけど、音楽の世界を引っぱって行く。そのころの音楽2曲をお送りいたしました。
□リクエスト
(小林)イシイのミートボールなどセットにしてお待ちておりますw。
アドレスは
[email protected] (宇都宮市/男性)いつもクールな放送ありがとうございます。
私はビンテージギターマニアなんですが。ポールのレスポールはチープトリックのメンバーから買ったということを、つい先日知りました。
左利き用は数が少ないので、かなり高かったと思いますが、ポールなので楽勝だったんでしょう。
(小林)チープトリックのギタリストのニールセンは、ギターのコレクターでもあったわけですね。いっぱい持ってたわけです。
ただ、アメリカでね、ギターのコレクターって、日本でのコレクターよりも相当安くつきますからねw。
(メール続き)ミュージシャンのギターの出所を調べるのはけっこう楽しいです。
(小林)そういう風な聴きかたをするんですね。「これは彼のギターで演奏してるんだあ」とかねw。そういう楽器なんかも注意して。
そして曲を聴くと、また違う風に聴こえるんでしょう?。
チープトリックの日本語タイトルは「永遠の愛の炎」ていう。これは彼らにとって最大のヒット曲かな。
〜 Cheap Trick / The Flame
〜 John Denver / Take Me Home, Country Roads (小林)「どっかで聴いた曲だなあ?」って言う若い人も、知らない人も思ってるかもわかりません。 もう、ちょっと年配になるとだれもが歌ったりする曲です。 (銚子市/28歳男性)コメントが書けなくてすみません。 (小林)まあ、何も書けなくって、ていうのは…、何か書けるはずですよ。この曲が聴きたい気分になった、とかね。最近の状況だとかね。 あるいは何も知識が無かったら、「これについて教えて下さい」とか。 ジョン・デンバーのカントリーロードとか、もうあたり前すぎた曲で。 あたり前すぎたって言えば、ビートルズの曲なんかもあたり前すぎてるわけですけど。若い人たちが聴くと、また新鮮だったり。 このジョンデンバーというアーティストはね、もう年配の人はだんだん忘れていきますけど。 昔はアメリカのテレビで引っぱりだこだったですよね。アカデミー賞の司会をやったりとか、グラミー賞の司会を、この人が常連で。 とても面白い人なんだけれど、変わり者で。ミュージシャンとしては、ジャズっぽいセンスを持ったフォークシンガーなんですよ。 Leaving on a Jet Plane とか、メチャクチャ良い曲を書くんですけど。この曲は、彼は最初はバカにしたらしいんですよねw。 「こんなの、俺やだよ」って。誰かが持って来たんですよ。それで、それを書き直して、録音して出したら、これがめっちゃくちゃに売れちゃって。 ジョン・デンバーと言うとカントリーロード…。本人は、まあ「俺はちょっと違うんだけど。こういう風なイメージになりたくない」と思ったらしいんですけど。 売れちゃったわけですよねえw。ええw。
(成田市/男性)中学生です。この「ビートルズから始まる」を聴き始めたのはごく最近ですが。 ビートルズを聴きだしたのは小学生の時からです。宿題をやりながら聴いたり、ヒマな時に聴いたりなど、毎日のように聴いています。 周りの友だちは、ビートルズなんてほとんど知りませんが、聴いてみればぜったい好きになるといつも思ってます。 そんな時、学校の英語の授業でビートルズの曲を歌うことになりました。とても嬉しいです。 みんな、少しでもビートルズを知ってもらえるんですから。最近聴いてて気に入った曲、Any Time at All です。とても元気がもらえる曲です。 (小林)ツイッターとかやってないのかも知れませんけど、そういうなんかw 広めていただくといいですよねw。 ビートルズの良さを中学生としてねw。どうもありがとう。 〜 The Beatles/ Any Time at All 〜 The Beatles/ Nowhere Man (小林)これも中学生のリクエストなんだよ。さっき中学生が珍しいと思っていたら、中学生のリクエストが増えています。 (都市不明/男性)ぼくは中学生ですが、ビートルズにハマって洋楽が好きになりました。ビートルズではジョンが好きです。 ジョンの曲はなんだか寂しい感じがいいんです。 (小林)やっぱり中学生ですから、若いですから、大人みたいに知識から入ってないから。ほんとに、根っから捉えてるから、もう正確に捉えていますね。 間違ってないですよね。 (メール続き)そんな僕のベストビートルズソングは Nowhere Man です。
□エンディング (小林)ビートルズのストーリーの方はねえ、いちばん面白いですよね。アメリカで一位になったころのビートルズ。 きょうは中学生のリクエスト、2通ありましたけど、この番組は年齢の幅がすごい広いです。 だからまあ、好きなこと書いてリクエストしてください。
7月24日放送分の録音に失敗していました (´・ω・`) 申しわけありませんです。
275 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/08/01(月) 19:02:10.91 ID:dpE8mgE+0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年7月31日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(7月31日) ・1969年(今から 42年前の今日) アビーロードのね、アルバムを作っているわけですよね。 で、きょうはですね、ローディのマル・エバンスがテープを持って…、当時ね、アセテートレコードていうのがあったんですよ。 2〜3回聴くと、針でかけるとね、すぐ傷がつくような。もうだけど、これなんて言うんですかね。試聴用に作ったんですよ。 放送局用に作ったんですが。まあそれを持って行くわけですが。アップルレコードに。 で、アップルで、これをレコード盤を作るわけですけど。にわかの(アセテート)レコードにするわけですけど。 その時に、このメドレーの中に、最初はもうポールが「これは外せ」と言った曲があって、それがオマケにくっついていたんですよね。 で、アップルの担当者は、そのままの形でにわかレコードを作ったわけです。 これね、後になってポールがそれを聴くんですよ。それでポールは「この曲は外しちゃえ。メドレーの中から」 「で、どうしますか?」「いや、その曲は捨ててもいい」ってポールは言ってたんですけども、それが最後に付いていたんですよね。オマケに。 で、ポールはそれを聴いて「おっ!なかなかいい出来じゃん。」で、最後のこの曲も「なんか、オマケみたいで悪くないじゃん」て言う。 最初はメドレーのことだけ考えて「捨てちゃえ」って言ったんだけど、後にちょっと付いてたんですよ。 ポールは聴きなおして「ああ、いいなぁー」って思ったっていう曲を、今日は一曲目に聴いてもらおうと思いますが。 この曲の頭に「ジャン!」という音が入っているのは実は、Mean Mr. Musterd のエンディング音です。 最後は尻切れになっているのも、次のコードが Polythene Pam のイントロ部分だったから、それを切ったために、前と後の曲がちょこっと残ってる、 ていうことで聴いてくださいね。ビートルズのこれがほんとはポールが「捨てろ!」って言った曲です。
〜 The Beatles/ Her Majesty いかがですか。これだけの曲なんですけど、「ハーマジェスティ、いい女だよ」っていうwww。 ええw、ポール・マッカートニーらしいです。 それは実は、エリザベス女王の記念式典でミュージシャンたちが集まって演奏した時に、ポールがトリに出てこれを演奏したらしいんですよね、実際に。 そのエピソードも残っている Her Majesty 。これをチラッと聴いていただきました。 これが42年前の今日、レコード会社へ持ってったていうのが今日の出来事であります。
277 :
ホワイトアルバムさん :2011/08/02(火) 13:57:56.79 ID:cREFcLAp0
小林、最悪。
□ジョージ・マーチンの物語 ・ビートルズの1962年から70年までの実質9年間にも満たないキャリアのうち、レコーディングに於いてはそのほとんどに於いて携わった人物。 それは「5人目のビートルズ」と言われた男、プロデューサーのジョージ・マーチンに他ならない。 ビートルズがEMIパーロフォンのオーディションを受けた時点で、すでにマーチンは36歳。会社では制作部長として活躍していた。 もしビートルズがこのジョージ・マーチンと出会っていなければ、その成功も数々の画期的な名作も生まれていなかった かどうかは、今では誰も証明することはできない。 しかし、一つだけ言えることがあるとすれば、それは、ジョージ・マーチンによってビートルズの作品はより芸術的な輝きを増し、 現在から未来に渡って全人類に愛され続ける可能性を確実に増したであろう、ということ。 今週もこの類稀(たぐいまれ)な才能を持つイギリス紳士について少し掘り下げてみたいと思う。 ロック音楽の世界で最も成功したプロデューサーの一人と称される人物、ジョージ・マーチンこと、サー・ジョージ・ヘンリー・マーチンは 1926年1月3日ロンドンのハイベリーに生まれた。時代は世界恐慌の少し前、ということになる。 マーチンの記憶にある最初の家はブレイトンパークの近くの“フラット”、アメリカの言葉で言うと“アパートメント”、イギリスの言葉で言うと“フラット”。 クリーニング屋の向かいにあるフラットで、フラットというと聞こえは良いかもしれないが実際には二部屋に屋根裏部屋が付いた狭い住居空間。 電気はまだ引かれていなくて、暖炉の両側にガス灯が付いていた。今では考えられないが、キッチンは無く、マーチンの母親は階段の踊り場にあるガスストーブで料理をした。 風呂場も無くブリキの大きなタライをお風呂代わりにしていた。 水回りと言えばただ一つ、階段の途中にあった角の丸くなった洗面台だけであり、一階にあるトイレは他の三つの家族と共有していた。 典型的な戦前の労働者階級の家。後にスーパープロデューサーとなるジョージ・マーチンはそういう環境の中で育ったのである。
〜 Eve Boswell/ Pickin' a Chicken 〜 The Beatles/ Maxwell's Silver Hammer (小林)Pickin' a Chicken これは初めて聴いている方多いと思いますが、僕も初めてですが。 実はジョージ・マーチンのお話をしていますが、ジョージ・マーチンがプロデューサーになって1955年プロデューサーとして仕事をした作品。 ハンガリーの女性シンガーだそうであります。 歌の内容は「バーベキューでチキンをいっしょに食べましょう」っていうw。「盛り上がりましょう」っていう曲ですねw。 1955年 プレスリーなんかが出てくるちょっと前の作品です。 そして(次に)聴いたのは Maxwell's Silver Hammer 。ちょっと感じが似ているかもわかりませんが、ポール・マッカートニーにはね、いにしえのイギリスのものを上手く使いますね。 ただ、ポールの作品てのはビートルズの独特の乾いたユーモアがあるから、全然内容が違うんですよね。ニュアンスってのがね。 これは面白いですよね。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・ビートルズを世界一にしたカリスマプロデューサー=ジョージ・マーチンの生い立ちをもう少し続けてみることにしよう。 台所も風呂場も無い、というとあまりにも悲惨に聞こえるが、おそらくこれは戦前のロンドンの労働者階級では普通のレベルだと思われる。 そんなマーチン家ではあったが、家具だけは一度も不自由したことがなかった。 なぜなら、マーチンの父親は大工で、テーブル、サイドボード、キャビネット、ベッド、それに姉のアイリーンの分も含め、おもちゃまで全て手作りでこしらえてくれた。 彼は素晴らしい技術を身につけた職人であり、木材をこよなく愛し、何時間でもそれを削り続けては思い通りのものを精魂こめて作る人物であった。 そんな真面目で優秀な職人である父親も、数年後にやってくる不況には敵わなかった。 家具や住宅の需要が急激に減り、なんと18ヶ月も仕事が来なかったのである。これでは家族を養うことができない。 ということで、父親はロンドン市内でもチープサイドと呼ばれる貧困極まる地域で新聞売りの職にありついた。 凍りつくような寒さの中に立っている父親を見ることは、マーチンにとってとても辛い経験となった。 母親はマーチンを目の中に入れても痛くないほどかわいがった。 彼女はローマンカトリックであったため、マーチンが5歳の時ホロウェイにある修道院に行かされることになった。 そして3年後、ハイエイトにあるセントジョセフ小学校に移り、1937年11歳の時にスタンフォードヒルにあるセイントイグナチアスカレッジの奨学金をもらえることになった。 そんな成績優秀なマーチン少年であったが、戦争の影響で教育という面では恵まれた時代ではなかった。 しかし、彼の音楽に対する興味は失せるどころか日に日に深いものへと成長して行ったのである。
〜 Matt Monro/ portrait of my love 〜 Elvis Presley / It's Now or Never (小林)いかがですか。ビートルズではない曲が2曲がかかりましたが。 1960年のイギリスでのヒット、マット・モンロー。 イギリス人のボーカルで、その当時は例えばフランク・シナトラとかトニー・ベネットとか、判りますかねえ。 アメリカのね、それ風でイギリスですごい人気。 ああ、ダブルオーセブン(007)のジェームス・ボンドの「ロシアより愛をこめて」というヒット曲があるので、それを知ってる方もいるかもわかりません。 portrait of my love これは1960年、ジョージ・マーチンの仕事です。プロデュースです。 ジョージ・マーチンは1964年にビートルズのプロデューサーとして有名になるんですが。その前に、こういうような いい仕事をしているわけですよね。 そして同じ1960年、エルビス・プレスリーの It's Now or Never 。ちょうど兵隊に行っているか帰るか帰らないぐらいのころの、大ヒット曲であります。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・ビートルズを史上最高のアーティストにした男、ジョージ・マーチンの物語をもう少し続けてみよう。 典型的な戦前のロンドンの労働者階級の家庭に育ち、貧しいながらも健全な教育を受けた幼少時代、マーチンはピアノを習い始めた。 最初は8歳の時。姉のアイリーンが習っていた先生に8週間だけ習ったのであるが、どうもその先生がかなりヒステリックな性格でマーチン少年はそのレッスンをやめてしまった。 それでも彼は自己流でピアノを弾き続けた。しかし、マーチン少年が普通の子供と少し変わっていたのは、ピアノとの関わり方であった。 普通の小学生であれば目標は先ず、練習曲を完璧に弾きこなして発表会で披露し誉められること。 しかし、マーチン少年はピアノの鍵盤を通じて、音程と音程の関連性、和音の構造、それが曲の中でどういうハーモニーとなりアレンジ、つまり編曲という役割を果たすのか。 そんなことばかり考えていた。はっきり言って早熟な少年であった。 譜面があるかないか、そんなことはどうでも良かった。 リストでも、ショパンでも、ジャズでも、イギリスの伝統音楽でも、何でも耳で聴くことを一番大切に考えていた。 家が貧しかったから音楽的な環境という点では恵まれていなかったかどうか、というと これがかなり恵まれている方であった。 6歳のころには家にピアノが来たし、そのピアノを仕入れる仕事をしていた伯父さんがいつもピアノを弾いて聴かせてくれた。 中学生になると、よくBBCのオーケストラが学校に招かれていたし、街にはいくつかジャズのバンドもあった。 その中でもマーチン少年は豊かなアレンジを聴かせるビッグバンドが好みだった。 ある日、街のフェスティバルでのこと。 いつもは控えめで行儀のいいマーチン少年が、バンドのピアニストと交渉していた。 「ねえ、次の曲ぼくに弾かせてもらえないかな。」「お前、ジャズが弾けるのか?よし、いいだろう。でも一曲だけだぞ。」 こうして交渉は成立。 ジョージ・マーチン少年のデビュー曲はカウントベイシー(Count Basie)の有名なワンオクロックジャンプ(One O'clock Jump)であった。
〜 Count Basie & His Orchestra/ One O'clock Jump (小林)どうですか。また珍しいよね、ビートルズの番組でこれがかかりました。 これはちなみに1957年ニューポートジャズフェスティバル。 そうなんですよ。ジャズっていうものがね、知性だとか芸術をも感じさせる音楽まで高まって行くわけですけど。 そのころビートルズのプロデューサーのジョージ・マーチンはやっぱりこのころのビッグバンドのジャズってのが大好きだったわけですね。 だから、この番組はね、ビートルズから始まるって言ってますけど、じゃなくて、ずーっと昔から始まってるんですよ、実は。 で、ビートルズは大きな盛り上がりだったていうことなんですが、そういうものも入ってるんですよね。 だからその、ビートルズの歌っていう音楽っていうものに「ただの流行り歌で終わるんじゃないんだよ。お前たちは。芸術的に高まるんだよ!」 ていうような、大切なことを教えたのがジョージ・マーチンであるということです。
□リクエスト
(小林)採用の方にはイシイのミートボールなどセットにして豪華にプレゼントしております。
メールは
[email protected] (匿名/男性)
ホワイトアルバムのレボリューションについて、この曲のラストでジョンが「all right! all right!」と連呼したり、あえぎ声のような声を出したりする個所があるんですが。
その直後の数回の「「all right! 」が僕には「おっぱい」と聞こえるんですよ。けっしてふざけてるんじゃなくて、ほんとにそう聞こえてしょうがないんです。
だって、ジョンはあのGirlではTitt Tittとその「おっぱい!おっぱい!」みたいな歌い方。パートナーの小野洋子は日本人だし。
遊びで「おっぱい」って言ってるのおかしくないですよね。気になってネットでRevolution oppaiで調べても出てくるのはいかがわしいページばっかりです。
どうしても気になるのでこの番組に投稿しました。克也さんどう思いますか?。
(小林)それじゃあ、みんなと一緒に聴いてみようじゃない。後半でジョンが「おっぱい。おっぱい」って言ってるかどうか。
〜 The Beatles / Revolution One
(小林)いやあw、言ってないねw。そこのところw そういう聴き方をしちゃったよw。リクエストのせいでw。
「おっぱい」って言ってない。言ってないw。絶対言ってないと思う。ああw、うんw。その理由はわかりますけど、絶対言ってないですよ。
僕は100%言ってないと思います。ええw。かならず他のいろんな人に聞いてみてw。
(千葉市花見川区/男性) 土曜の昼、千葉市内で家内と一緒に歩いていてランチの時間になって、開いていた小さなレストランに入りました。 そうすると店内にはビートルズのSomethingが流れていていました。 続いての曲もHellowGoodbyとビートルズナンバーばっかり続くので、やっと有線放送なんだとわかりました。 家内といっしょに食事をする間ずーっとビートルズナンバーに聴き惚れていました。 レコードとは違い、次に何が出てくるか楽しみで、新旧織り交ぜての曲が流れる楽しみを覚えました。 その店で最初にかかっていた曲をリクエストします。 〜 The Beatles / Something 〜 The Beatles / Let It Be (いなちき市?/女性)このところどっぷり鬱に浸っています。アドバイスお願いします。 (小林)好きな趣味とかね、好きなものを作ると良いですよね。作る側にいようが、鑑賞する側にいようがそういうことが続けられると良いと思います。
□エンディング (小林)今日はジョージ・マーチンのお話です。 ジョージ・マーチンは、もうけっこう80何歳?。健在ですけど。やっぱり、すごい人だったわけですよね。 ビートルズを育てた人だったわけですよね。来週もお楽しみに。
287 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/08/10(水) 22:55:12.48 ID:QSfCRIdL0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年8月7日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 8月7日) ・1968年(今から43年前の今日) ビートルズはスタジオで、あの第二スタジオで、まだビートルズは来てないんですが、朝はヘイジュードのMONOのヘイジュードのコピーをやっていると。 そして夜からレコーディングが始まります。 なんのレコーディングかと言うとですね、ジョージハリスンの作った曲NotGuilty、これをテイク1からテイク46までやった。 だけど、この曲は採用されないんですね。日の目を見ないんですね。 もうこの番組を聴いている方はご存知の通り、ジョージハリスンはなかなかポールとジョンから認めてもらえなかった。 ビートルズの歴史には、やっぱりジョージの個人の、何というか“格闘”、個人のその努力、そして認められるために一生懸命やってたていう、ことがあります。 とうとう最後にサムシングで日の目を見るわけですけど。 そして、ご存知のとおりビートルズは解散して、 ジョージ・ハリソンはやっぱりすごかったなあ。「二人の天才に挟まれて、よくそこまで成長した」っていうアーチストなわけですけれど。 さあそれじゃ、いまから43年前の今日、46テイクまでやった、という曲を、1980年のジョージ・ハリソンのアルバムまで日の目を見ることはありませんでした。 つまり、ビートルズとしては採用されなかった。もちろん、後になって出されたアンソロジー3の中に入っている曲であります。 それではジョージ・ハリソンの才能をあらためて。
〜 The Beatles/ Not Guilty (小林)なんかビートルズじゃないような感じもありますよね。ポール・マッカートニーじゃないし、ジョン・レノンじゃないし、 やっぱり、ジョージ・ハリソンは、その、ポールをコピーしたりジョンをコピーするんじゃなくて、自分のオリジナルを出してるんですよね。 だから、違う耳で聴くとおそらくカッコイイっていう評価を下してもいいと思うんですけどねえ。 これが採用されなかった、っていう、だけどそのおかげでジョージは大きく成長することが出来たというわけです。 アンソロジー3に入っているNot Guiltyをお送りしました。
ジョンとポールにすり寄ったジョージだったら、と考えたら結果的によかったんだろうなあ
□ジョージ・マーチンの物語 ・「ねえ。次の曲のピアノ、僕に弾かせてもらえないかな?。」 「坊主!、おまえジャズが弾けるのかよ?。ようし、お手並み拝見といこう。ただし、一曲だけだぞ。」 時代は1930年代の後半。ロンドンの片隅にある労働者階級が集まる地区のフェスティバルの際に、こんな会話が交わされた。 地元の大人たちが集まって結成されたジャズのビッグバンドに飛び入りを願い出たのは、 後にビートルズのほぼ全作品のプロデューサーとして世界中で有名になる人物、ジョージ・マーチン。 マーチン少年はクラシックピアノこそ少しの間習ってはいたが、ジャズは全くの独学であった。 好きな音楽であればジャンルにかかわらず、ピアノでコピーしたり譜面に起こしたりすることは、彼にとって友達と遊ぶこと以上に楽しい事であった。 この日マーチン少年が飛び入りで演奏したのは、アメリカのビッグバンドジャズの草分けカウントベイシー楽団の18番ワンオクロックジャンプ(ONE O'CLOCK JUMP)。 大人でもかなり手強いこの曲を、まだ中学生のマーチンは見事に弾きこなして会場に集まった地元の皆さんの喝采を浴びた。 みんな音楽好きばかりである。この頃のロンドン、つまりまだ戦前であるが、労働者階級は貧しいのが当たり前。 ジョージ・マーチンの家族もまさに貧乏そのもの。風呂場もキッチンも無く、家族全員寄り添うように生活していた。 ただし、貧乏であることで悲壮感は無かった。もともと大工であった父親は、家具ばかりか子供たちのおもちゃまで作り。 母親は音楽に関して寛容であった。中古のピアノを購入し子供たちに弾かせた。親戚が集まると、誰からともなくピアノを弾いて歌うことは、日常茶飯事。 後にスーパープロデューサーとなるジョージ・マーチンは、こういった環境の中で生まれ育って行くのである。 後にマーチンはこう語っている。 「僕の少年時代の大半は音楽で占められていたね。あと、忘れてはいけないのは、家族。一族の愛情だね。愛に満ちあふれていたよね。」
〜 The Beatles/ All You Need is Love 〜 Stevie Wonder /I Was Made To Love Her (小林)I Was Made To Love Her、ボーカル的にはビートルズより好きな方もいるかもわかりませんけれども。 スティービー・ワンダーはこの頃まだ高校生ぐらいの歳です。 このスティービー・ワンダー、まだ大学ぐらいの歳になってトーキングブックとかすっごい作品を出して、今のスティービー・ワンダーになっていくわけですけが。 そのちょっと前ですね。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「僕の少年時代は家族の愛と、そしてもちろん音楽で満ちあふれていたね。」 こう語るのは、あのビートルズをロックの世界でナンバーワンにしたカリスマプロデューサー=ジョージ・マーチン。 彼はロンドンの街角で行なわれる地元のフェスティバルに飛び入りピアニストとして参加する、言わば「道場破り」の時代を卒業し、ついに自分のバンドを結成することになった。 最初のバンドは通っていた教会の劇団の音楽を担当するバンド。 つまり俗に言う「劇伴(げきばん)」を担当する楽団。その名もフォーチュンテラース。 このバンド名も後にはマイナーチェンジして、ジョージ・マーチン&ザ・フォーチュンテラースとなった。 マーチン少年はバンドマスター、つまりバンドのリーダーとなったのである。 マーチン少年の父親は元大工さんという腕前を発揮して、二重のT字型の譜面台を、当然のようにバンドメンバーの人数分作ってくれた。 マーチン率いるフォーチュンテラースはすぐにリハーサルに取りかかった。 彼らの得意なレパートリーは、ジェロームカーンやコールポーターなどのいわゆるスタンダードナンバー。 ダンスパーティで人気があったのは速いスピードで踊れる、クイックステップと呼ばれるタイプの曲で。 ラストナンバーは決まってグッドナイトワルツであった。 このバンドについてジョージ・マーチンはこう語っている。 「教会の劇団連中が主宰するダンスパーティをはじめ、バンドには次第に声がかかるようになったんだよ。 全員学生ながら毎週一回か二回は場を盛り上げる役として仕事をもらったんだ。これに関しては学校も大目に見てくれていたねえ。 なんせ仕事をくれるのは主に教会の劇団だったんだから。まだ興行主が仕切ってどうのっていう時代じゃなかったんだ。 それにしても、当時演奏したタイプのアメリカのスタンダードナンバーは今でも本当に素晴らしいと思うね。」
〜 Lena Horne/ Just One of Those Things 〜 George Martin & his Orchestra/ Ticlaw Anthem (小林)Ticlaw Anthem、これは、1981年のホンキートンク・フリーウェイ(Honky_Tonk_Freeway)という映画で使われた音楽です。 シンガーたちはアメリカ人。アメリカ映画であります。Ticlaw というのは町の名前ですね。Ticlawの歌っていう。 カントリーっぽいよね、これはね。 その前は、ジャズのスタンダードナンバーです。これはコール・ポーター(Cole Porter)というアメリカの歴史上の大作曲家が作った曲で、 歌っていたのはリナホーン(Lena Horne)ていう黒人ですが、とても美貌でアメリカの白人の男のファンなんかが多かった。 あ、メリー・ジェイン・ブライジェ(Mary Jane Blige)が主演して、このリナホーン物語って何年ぐらい前かな、5〜6年ぐらい前に映画になっておりましたが。 そのリナホーンが歌う…、もうジャズの人たちにとっては常識の曲ですよ。Just One of Those Things。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・ビートルズを史上最高のアーティストにした男、ジョージ・マーチンの物語。もう少し続けてみたいと思う。 典型的な戦前のロンドンの労働者階級の家庭に育ち、貧しいながらも健全な教育を受けた幼少時代。 そして音楽に目覚め、ショパンからカウントベイシーまで、好きなものなら何でもピアノで弾きこなした少年時代。 この頃になると教会の劇団の主宰する催し物、特にダンスパーティで演奏するバンド=ジョージ・マーチン&ザ・フォーチュンテラースのバンドマスターとなって 毎週末のように演奏していた。 このフォーチュンテラースでの演奏で稼いだ金で、マーチン少年は再びピアノの個人レッスンに通うことにした。 もちろん、自分の意思でそうしたのである。こんどの先生の名前はアーク・ハート先生。先生は素晴らしく美しいベーゼンドルファのピアノを持っていた。 このレッスンに通い始めてマーチン少年は、初めて「自分には音楽の才能があるのでは」と気付き始めた。もちろん、まだ漠然とした考えではあった。 当時マーチン少年はよく夢見心地で考えたものだ。 「ああ、もし僕がもっと小さい頃からきちんと音楽のレッスンを受けていたら、あのラフマニノフぐらいの作曲家にはなれたかもしれないな。」 もちろんこれは素人ならではの言わば妄想である。 19世紀と20世紀を跨いで活躍したロシアの偉大な作曲家ラフマニノフとジョージ・マーチンとではどちらが才能があるかは別として、タイプがまるで違っていた。 ショパンからコールポータ、ガーシュイン、カウントベイシー、さらにはイギリスの民謡やボードビル音楽などなど、 その雑多なものを自分なりに解釈し、それをスタイリッシュなアレンジメントでクリエイトする。 そうしたジョージ・マーチンが音楽史上最も大きなダイヤモンドの原石ともいえるあのビートルズと出会うまでには、まだ20年の歳月を待たなければならなかったのである。
〜 Peter Sellars/ A Hard Days Night 〜 The Beatles/ You Know My Name (小林)フフw。ビートルズのYou Know My Name 、これはもう歌詞はあれですよね“You Know My Name?”「 おれ有名なんだから」ていう意味をこめて、 「私の名前知ってるでしょ?」「僕の名前。俺の名前知ってるよな?」っていうんで。 これだけの音楽を、これだけの遊びを展開するビートルズ。 まったく、その、自由っていうのがすごいです。自由であるという。 だから、ビートルズから始まる、こういう世界もほんとうにビートルズの世界ですね。 そして、その前の「あれ?詩を読んでらあ!」と思ったと思いますが、A Hard Days Night。有名なヒット曲をピーター・セラーズというイギリスの有名なコメディアン役者が朗読していました。 ピーター・セラーズは実はジョージ・マーチンとは深い縁があって、ジョージ・マーチンがピーター・セラーズのヒット曲をずっとプロデュースしてるわけですよね。 これもジョージ・マーチンの作品です。 ビートルズの大ヒット曲を歌詞と、あのビートルズのカラオケじゃなくてジョージ・マーチンの作った音楽とともに違う「詩のバージョン」を展開する。 これもやっぱりジョージ・マーチンの自由な発想の世界です。これはちなみにイギリスでは14位になるヒットでした
□リクエスト
(小林)採用の方にはイシイのミートボールなどセットにしてプレゼントしております。
[email protected] 、こちらで待っております。
(銚子市/男性)デビュー前の1962年頃のトニー・シェリダンとの共演曲マイボニーをリクエストします。
(小林)そうですよね。ビートルズが関わった最初の録音がこれでしたもんね。きょうは、ちょっと昔のやつがかかりますよ。
〜 The Beatles & Tony Sheridan / My Bonny
〜 The Beatles / Long Tole Saly
(小林)いやあ。初期のやつが2曲続きました。トニー・シェリダンというボーカリストがイギリスで有名だったらしいんですが。
トニーが歌うバックを務めたのがビートルズで、演奏はもちろんビートルズ。コーラスでジョン・レノンの強力な声が入ってます。
ポール・マッカートニーの低音の“ライ♪ライ♪ライ♪ライ”みたいなコーラスも入ってましたねえ。
やっぱ、ビートルズのパワーが溢れてますよねえ。My Bonny を改めて聴いてもね。
だから、ビートルズのファンがリバプールで、ほら、この曲をこのレコードを買いに来るわけですよ。
「ビートルズのMy Bonny
はないですか?」「トニー・シェリダンのMy Bonny はないですか?」
それで、ビートルズを注目して。そしてブライアン(エプスタイン)が結局ビートルズのマネージャーになることになるわけですが。
Long Tole Saly 。これはもう強力なポールのすごいロックンロールです。
(印西市/女性)克也さんのお勧めのビートルズナンバーは何ですか。私はLong Tole Saly が好きです。
(小林)こういう初期の勢いのあるやつが好きなんですね。
僕はお勧めはですねえ、あのw、人によってですよね。どういう人だったら、こういうなのを聴いた方がいいよ、とか。
だから、お気に入りがLong Tole Salyですから、こんどはビートルズをもっと知っていただくために、ビートルズのサイケデリックなやつを聴いてみるといいよ、
とか、勧めると思います。
(八千代市/中学3年/男性)毎週楽しく聴いています。興味深い話を有難うございます。 またビートルズを一段と好きになった気がしますし、数々の秘話を聞いて「へえ、そうなんだ」と感動したりすることもあります。 今、吹奏楽部に入っています。僕たちの最後のコンクール曲が決まりました。 ブロードウェイミュージカルで上奏された音楽の中から5曲をメドレーにした「ブロードウェイの開幕」オープニングナイト・オン・ブロードウェイです。 その中にエルトン・ジョン(Elton John )のサークルオブライフ(Circle Of Life)がありました。その曲をリクエストします。 (小林)エルトン・ジョンの曲で、いいですよこれ。この番組で初めて流します。初めて聴かれる方もいると思いますが。ねえ。 中学の吹奏楽部が選ぶぐらいです。とてもいい曲です。 〜 Elton John/ Circle Of Life
〜 The Beatles / In My Life (竜ヶ崎市/男性)この前、ビートルズの曲を楽器だけで弾くコンサートを見に行きました。 ピアノやドラムやいろんな楽器を使っての音楽で、感銘を受けました。リクエストはそのコンサートの中で、僕が一番感銘を受けた曲です。 In My Life。もちろん、ジョンたちの歌声付きで。 (小林)やっぱりビートルズの曲だけでコンサートが出来るっていうねえ。ビートルズはすごいと思いますけど。 ポール・マッカートニーがメロディメーカーだ、メロディがすごいねって言われますけど。 ジョンのメロディも、こう、きっと不意を襲ったような感じだったんだと、僕は思いますね。
□エンディング (小林)ビートルズの物語ですが、ビートルズのプロデューサー=ジョージ・マーチンのお話をしていますが。 ジョンがどうしたとか、ポールがどうしたとか、てのは皆さん知識があるとは思いますが。 ジョージ・マーチンの話。なかなかいいでしょう。来週も続きます。 リクエスト、よろしくお願いします。
リクエストが意外に興味を引くね
イシイの総菜セットは、結構重宝します。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年8月14日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 8月14日) ・1965年(今から46年前の今日) 何をやったかと言うとですね、アメリカでエドサリバン(Ed Sullivan)ショーの録画ていうか収録をやっています。 ビートルズの同じ事務所からシーラ・ブラック(CILLA BLACK )と一緒にニューヨークのCBSスタジオでやっています。 で、この日収録したのは I Feel Fine、I'm Down、Act Naturally 、そして Ticket To Ride、Yesterday、Help、 映画「HELP」関連の曲がほとんどですね。リンゴ・スターAct Naturally カントリーのカバーをやっています。 実はビートルズは翌日に伝説的なニューヨークのシェイスタジアム、ニューヨークメッツのスタジアムでコンサートをやる。 その前の日、緊張感の中での収録だった、と言われています。 リズム&ブルースのイメージのビートルズのロックンロール。それからHELPの映画関連の曲。で、実際に放送されたのは3週間後の9月7日です。 エドサリバンショーにビートルズが出たのは有名ですが。エドサリバンという人はですね、もーのすごく世界中を見てて、買い物が上手い人です。 「イギリスにビートルズってすごいのがいるよ」っていうことを聞いて、実際にイギリスにやって来て、そして叩き買いをするんですよね。 値切るんですよね。で、マネージャーのブライアンは、もうそれは心得たもんです。 「ビートルズが全米で映るっていうことなら、お金は要らないよ」みたいな気持ちなわけですね。宣伝になるからっていうことで。 だから、安いお金でビートルズはエドサリバンショーに出ます。これが最後の出演になります。 そのあとはビートルズは、PVというか、PFですね正確に言うと。プロモーションフィルムを作って、自分たちの曲を… 今はミュージカルビデオじゃないですか。それをフィルムにして、昔は世界中の主な番組に送ったんですよね。 だから、エドサリバンショーが最後の出演で、その後はもうビートルズは、例えばストロベリーフィールズ(Strawberry fields forever )だとか、 そういうやつを送っていますよね。フィルムにしてね。
303 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/08/15(月) 21:54:33.91 ID:rNdSJkt20
さあ、それではエドサリバンショーでやった曲の一つであります。 映画「HELP」の挿入曲でHELPよりも先にシングルとして発売になって、5月には全米ナンバーワンになったという〜 〜 The Beatles/ Ticket To Ride (小林)いかがですか。ビートルズがエドサリバンショーに最後の出演をするわけですが、その時にやった曲のひとつです。 1965年の曲なんですけども。ビートルズは、やっぱり時代っぽいていうか、この時代、なんかこのあとサイケデリックな時代を迎えるような、 時代をちょっと先取りしたような感覚のビートルズの名曲。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「ああ、もし僕がもっと小さい頃からきちんと音楽のレッスンを受けていたら、あのラフマニノフぐらいの作曲家にはなれたかもしれないのになあ。」 時は、1940年代の初頭のロンドンの片隅み。こうつぶやいたのはまだ高校生の少年で、彼の名はジョージ・マーチン。 後に「5人目のビートルズ」と呼ばれ、ロック史上最高のアーティストのほぼ全作品を手掛けることになる人物である。 もちろん、ビートルズとラフマニノフでは、あまりにジャンルが違う。 同じロシアの大作曲家であるチャイコフスキーを目指したラフマニノフに対し、ビートルズはエルビス・プレスリーやバディ・ホリーを越えようと努力した。 しかし、こうしたジョージ・マーチンの音楽性が、ビートルズの作品に気品とオリジナリティを注入したことは、多くの評論家が認めるところである。 こうするうちにマーチン少年にも、進路を決定しなくてはならない時期がやってきた。 彼の両親が望んだのは、安定した職業に就くこと。おそらく世界中の子を持つ親なら、そう望むのはかなりの割合になるであろう。 実際、数学の成績が良く製図も得意であったマーチン少年に対し、母親は「建築家を目指したらどうかしら?」と常々言っていた。 父親は大工だし、本気でそう望んでいたのである。 これに対し、父親の意見はさらに現実的であった。 ある日、父親はこう提案した「なあジョージ。軍隊に入ったらどうだ。そしたら、職を失うことも無いぞ」 たしかに、世界恐慌の煽りを受けて仕事にあぶれて辛い目に遭ってきた父親にとって、仕事があって家族を養うことが出来るということは、 何よりもありがたいことだったに違いない。 実際、父親の希望も母親の希望もよく理解できた。二人とも息子には、自分たち以上の人生を歩んでほしいと、心から願っていたのである。 時代はすでに、戦争が始まっていた1942年。ロックが産声をあげるまでには、まだ相当の時間を要するのである。
〜 Elvis Presley / Return to Sender 〜 Bing Crosby / White Christmas (小林)White Christmas、真夏に聴くクリスマスソングもいいかなw、と思っている方もいるかもわかりませんが。 実はこれは、時代に則(のっと)って(マーチンの)物語に則っておかけしています。 1942年、ジョージ・マーチン少年がですね、中学を出る頃の、つまり1942年の年間の最大のヒット曲がこの曲だったんです。 日本も真珠湾攻撃をやって戦争を開始した頃の曲です。若い方もちょっと歴史の勉強として。 ねえ、この曲は聴いたことがあるわけですが、こういう曲だったわけですよね、時代は。 ジョージ・マーチンが中学を出て、将来を決めなきゃだめだっていう頃。 その前にかかったのはエルビス・プレスリー、1962年のアメリカでは最大のヒットです。 Return to Sender。 まあ、他愛のないロックンロールナンバーですけれども。これが一番売れた曲。 つまり1942年、20年後に1962年でしょう。つまり中学を出るころには、まだまだロックンロールなんて出てくるかどうか判んなかった時代ですよ。 なにがどんな音楽になって行くのか、もちろん音楽は好きだったけど。で、ようやく彼はビートルズと知り合うわけですけど。 知り合った頃の音楽がエルビス・プレスリーのReturn to Sender というわけです。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「僕は本当のところ、飛行機の設計技師になりたかったんだよ。」こう語るのはジョージ・マーチン。 あのビートルズをロックの世界でナンバーワンにしたカリスマプロデューサー=ジョージ・マーチン。 当時のイギリスでは16歳で中学を卒業すると、ほとんどの労働者階級の子供は就職をするのが普通であった。 やはりこのあたりから見ても、マーチンとビートルズとでは、2世代くらいは時代が違うことがわかるであろう。 しかし、飛行機の設計技師になりたいマーチン少年の希望はかなり困難なことであった。 当時のイギリスでは飛行機、特に旅客機が導入されてから日が浅い。 セスナやちょっとした輸送機に比べて多くの人間を運ぶことができる旅客機は、機体そのものの値段がとてつもなく高い。 そうなると自前で飛行機を設計し作るよりも、すでに購入したものを丁寧に点検して整備し、出来るだけ長く使うことを考えるのが賢明。 もちろん、設計士よりも整備士が必要になることは明確である。マーチン少年は仕方なくその夢をあきらめ、測量の会社に就職した。 しかし、この仕事が退屈極まりない。音楽を通じてクリエイティブな才能が芽生えていたマーチン少年には、こうした仕事はどうにも我慢できなかった。 社長は給料を上げるからと残っていいと言ったけれども、ここが限界であった。 そしてマーチン少年は陸軍省に志願し、試験を受けさせられたあと、制服の無い三等非常勤事務官として採用された。陸軍にである。 なにやら大そうな役職名であったが、その職務内容は要するに「お茶くみ」であった。 職場のみんなは彼に良くしてくれた。お茶くみだけでは退屈だろうと、簡単な書類整理なども任され、結局マーチン少年はここに8ヵ月ほどお世話になり 結局17歳になったある日、航空隊を志願するのである。この時もまだ、自分の将来など、まったく予測すらつかなかった。
〜 America / Sister Golden Hair 〜 The Beatles/ Strawberry Fields Forever(Love Edition) (小林)いやあ、あらためてこうやってジョージ・マーチンの一生の話をしながら彼の作品を聴くと、やっぱすっごい人だなってわかりますね。 Strawberry Fields Forever は2006年の“Love”ですね。これはつまりジョージ・マーチンがビートルズがグループとしていなくなって40年経って、 自分の息子といっしょに、ビートルズをちょっと現代風な音で甦らせたわけですけど。 Strawberry Fields Forever ていう曲自体が、ジョン・レノンがいろいろ悩んで、ジョージ・マーチンに相談して、 そしてジョージ・マーチンは、そのテープのスピードをを変えたりして、付けたり、編集したりして、そして完成したっていう、有名なエピソードがあって Strawberry Fields Forever を聴いているわけですが。 これが出て、なんかStrawberry Fields Forever の謎がちょっと解明された。そして、ものすごく深いものがこの曲にあったんだなって。 やっぱり、悩んだだけのことはあるんだな、っていう。ちょっと あらためて見直したわけですけども、ジョージ・マーチンを。 そしてその前のSister Golden Hair これはアメリカ(America)っていう、ロンドンでお父さんたちが軍属とか兵隊、アメリカの兵隊さんだったわけですね。 息子たちはイギリスのアメリカンスクールに通っていて、3人でグループを作ってアメリカと名乗って。それをプロデュースしたのがジョージ・マーチンです。 ちょっと、ジョージ・ハリソンの香りがする3人のアメリカの青年たちを、ジョージ・マーチンがプロデュースしたんですよ。これは1975年。 やっぱりすごい男ですよね。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・ビートルズを史上最高のアーティストにした男、ジョージ・マーチンの物語。 少年期から青年期にかけてのマーチンの経歴はなかなか面白いので、もう少し続けてみようと思う。 中学を卒業し、測量の事務所勤務から、陸軍省のお茶くみ係、とすでに二つの職場を渡り歩いたマーチン少年。 1943年のある日、ロンドンの街角で入隊希望者募集のプラカードを持った士官に出会ったマーチン少年は、 「僕、航空隊に入りたいんですが」と申し出てみた。 もう一年近くやっていたお茶くみ係りの仕事はあまりにも退屈で、すっかり持て余していた頃であった。 士官に名前を訊かれ答えると、すぐさま「うん!合格だ!」と言われた。 ジョージ・マーチン、この時17歳。 家に戻って「僕、航空隊に入ったんだよ」と報告すると、母親の顔は蒼ざめ明らかに怒った表情でこう言った。 「そんな勝手なこと許されると思ってるの!」そう切りかえされても、サインしてしまった以上入隊しないわけにはいかなかった。 最初に配属されたのは、イギリス南部の訓練所。ここでマーチンは18ヶ月以上、ほとんど休みらしい休みも無く訓練に明け暮れた。 時代は第二次世界大戦に突入していて、南部海岸は全て決戦に備えて封鎖されていたのである。 さらに別の部隊で無線の課程を終えると、突然スコットランドのグラスゴーに移され、結局オランダの定期船を改造したニューアムステル号に乗せられてニューヨークを目指した。 二週間でニューヨークに着き、一週間ほど高層ビルや何かにド肝を抜かれたのち、今度は南方トリニダッド諸島に向かった。 その頃になると、マーチンは立派な飛行士ではあったが、まだこの先自分がどうなるかなんて予測もつかない。 そしてこの軍隊生活の中で、マーチンの音楽の才能が発揮される時が、やがて訪れるのである。
〜 Gerry and The Pacemakers/ Don't Let the Sun Catch You Crying (小林)これはGerry and The Pacemakers、 ビートルズと事務所が同じ。ジョージ・マーチンがやはりプロデュースしました。 Don't Let the Sun Catch You Crying。なかなかいい曲ですよね。 これは、いい曲に聴こえるのは、その曲もいいけども、イントロから始まったアレンジの良さ、これはジョージ・マーチンのやっぱり才能がすごいからですよね。 この曲が生まれた。これはちなみに、イギリスでは第6位を記録するヒットになっております。
□リクエスト
(小林)採用の方にはイシイのミートボールなどをセットにして必ず送っております。
メールアドレスは
[email protected] (住所不明/男性)はじめまして。いつも夕食の調理をしながら聴いている自営業のおっさんです。
「64歳になっても」という感じの曲があるそうなので、午前3時前まで夜遊びをして、日曜には乗馬。バイクで教会に乗り付け、
夏にはバカンスに。孫には目が無い。。奥さん大好き。元気な生活を歌っているような曲だと感じています。
ビートルズ世代も64歳を越している方も多いんじゃないでしょうか。こんな生活もいいですよね。憧れです。
(小林)まあこの世界はあれですよね、そうなんですよ。
ポール・マッカートニーが、高校生ぐらいの時はやっぱ64なんてのは、もうねえ、死ぬ間際みたいな感じじゃないですか。
若い青年たちにとって。また当時は平均(余命)年齢も低かったでしょうから。
だから、そのころを思って結婚してて幸せでいてくれるといいなっていう、
ポールの独特のあの、思いのこもった、ちょっとこうダークユーモアも入ったラブソングですよ。
〜 The Beatles/ When I'm Sixty Four
〜 John Lennon / Starting Over (小林)ポール・マッカートニーからジョン・レノンの世界へ。 (千葉市/DAさん)最近この番組を聴かせて頂くようになりました。私は中学高校時代ビートルズ、特にジョン・レノンが大好きでした。 私は精神的な病気で、10年以上まともに働くことができませんでした。最近ようやく病気からかなり回復し、人生の再出発を目指して就職活動中です。 そんな私のために再出発 Starting Over をリクエストします。 (小林)そうですよねえ。ジョン・レノンはとても考え方が、こうなんていうんですかねえ、新しいというのか、 ほら、ハウスハズバンド、主夫業を彼はやったじゃないですか。この曲はあれですよ、オノ・ヨーコとStarting Over。 つまりちょっと冒険して「別れよう」って言ってるんですよ。別々に行こうよ人生、そしてまた出あうんじゃないか、とか。 そういう様な事を感じさせる Starting Over なんですよね。
(野田市/男性)いつも夕食を食べながら聴いています。 この曲は7月25日に8歳になる娘にとって、生涯忘れ得ぬ曲になりました。 というのも先日、娘の通うバイオリン教室の演奏発表会があり、演奏曲にHey Jude を選んだからです。 演奏会に備えて母親とともに、日々練習した甲斐があって、親子ともども大きなミスも無く立派に演奏しました。 緊張もあったと思います。娘とママへのご褒美と誕生日のお祝いとして、また今後もバイオリン教室を続けてくれることを願ってHey Jude をリクエストします。 よろしくお願いします。 〜 The Beatles/ Hey Jude
□エンディング (小林)ビートルズから始まる。いかがですか。 先週も言いましたけど、ジョージ・マーチンの話、おもしろいですよね。 ジョージ・マーチンは、いろんな職業を経験するわけですけど、その頃は、やっぱり音楽が一番好きだったわけだけど、 ロックなんてのは、まだ始まってないんですよ。 で、まあ約20年経ってね、ロックが始まるんだけども。 ビートルズだってそうなんだよね。ビートルズも子供のころは、ロックは無かったんです。 それが中学ぐらいから、ロックが、というか、面白い音楽が出てきて、そしてビートルズになってくるわけですが。 そんなところも、ひとつ勉強してしてくださいw、みなさん。 リクエスト待ってます。
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/08/22(月) 19:21:38.64 ID:DmM5SzDs0
□ビートルズカレンダー(8月21日) ・1963年(今から48年前の今日) 実はビートルズは、ライブで稼いでおります。このころはまだビートルズはね、レコードからの収入てのはほとんど無いわけですね。 「ライブで稼がなきゃ」ていうことで。 そのライブもですねえ、ビートルズが超有名になりつつある頃なんで、3バンドですね。ビートルズを含めて。 どこでやったかというと、ゴーモンていうところです。トミー・クイックリー(Tommy Quickly)、 それからビリー・J・クレーマー・ウィズダコタス(Billy J. Kramer with the Dakotas)と一緒にやっています。 ビートルズは連日ほとんどやっていた、と同時に時間を作ってはレコーディングをやっていたっていうことでね。 実はこの日は、ビートルズは夜ライブでしょう。 でもプロデューサーのジョージ・マーチンたちは何をやってたかというと、彼らの2枚目のアルバムWith The Beatles の収録曲の編集とミックスをやっていました。 Money You Really Got a Hold on Me それからRoll OverBeethoven,Itwon'tbelong,DevilInHerHeart,PleaseMr.Postman,Till ThereWasYou,AllMyLoving, オリジナルとカバーの混合体ですね。 しかし、ビートルズはこの時点、さっきも言いましたが印税生活じゃなかった。ということで、いろんなライブで稼いでいた。 あとは、宣伝活動を兼ねてラジオテレビに出ていた。その合間を縫ってレコーディングするというビートルズ。 まあ考えてみると一番おもしろい頃じゃないかなあ、彼ら。「売れて来たぞ!売れて来たぞ!」「忙しいぞ!忙しいぞ!」っていうときであります。 48年前の今日。
そして2日後の8月23日に発売になったシングルで、ビートルズの楽曲のスタイル…。 まあ、いろいろレコーディングするんだけれども、ビートルズのスタイルの一つが出来あがった、と言われています。 またですね、この日は、実はもうビートルズを追っかけるファンがちらほらっていう、「ビートルズマニア」っていうのが始まった頃なんですよ。 それで、この曲のレコーディングの時には、いつかこの番組でお話したと思いますけども、女の子がまぎれ混んじゃってもうすごかったって。 それを、追っかけあったり、女の子がビートルズを探してですね、スタジオ中広いですから、くまなく走り回って、 そのあと自分たち(ビートルズ)は隔離されたような状態で、これを録音した。だからこの時のテンションはすごかったっていう話があります。 これはほんといつ聴いても、ビートルズはもう飽きたって人が聴いても、久しぶりに聴くと「わっ!やっぱりすごいんだ」って思われる曲です。 〜 The Beatles/ She Loves You
(小林)48年前の2日後っていうことです。48年前、だから8月23日に発売になったビートルズのシングルです。 “強力”ですよね。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「あのう、僕、航空隊に入りたいんですけど」 1940年代のある日、ロンドンの街角で「入隊者募集」のプラカードを持って立っていた士官に対しこう話しかけたのは、ジョージ・マーチン少年。まだ十代であった。 もちろんマーチンは後にレコード会社EMIに入社。1962年から1970年にかけてビートルズのプロデューサーとして活躍した人物。 ロックの世界に於いて、史上最も成功したクリエイターと呼んでも過言ではない。また、時にロックファンはこのマーチンを「5人目のビートルズ」とも呼んだ。 戦前のロンドンの典型的なワーキングクラス、労働者階級の貧しい家庭に生まれ育ったマーチンにとって、軍隊に入るということは安定した職に就くことに他ならなかった。 特に大工という専門的な技術を持っていながら世界恐慌のあおりで職にあぶれた経験のある父親は、息子が軍隊に入ることには肯定的であった。 航空隊に入ったマーチンは、最初の2年間、イギリスの南部で飛行士としての訓練を受け、次にスコットランドのグラスゴーに駐留し、 続いてオランダの貨物船を改造したニューアムステルダム号という船でニューヨークに行った。そしてそこから南方に移り、トリニダッドに駐在することになった。 すでに、一端の飛行士にであったマーチンは、ここで射撃の特訓を受ける。 飛行機に乗り組んだ兵士がみんなやられてしまった場合、最終的には飛行士が自分と機体を守らなくてはならない。射撃訓練を怠るわけにはいかなかったのである。 もちろん、訓練は厳しく時間を要するものであったことに違いないが、運の良いことに航空隊員だからといって、必ずしもマーチンの好きな音楽が締め出されてしまったわけではなかった。 マーチンは地方の劇場用にパントマイムのチームを作り、自分は音楽を担当することにした。ここでもマーチンは人気者となった。 食事の際、誰からともなく合唱やコーラスが始まると決まって「ジョージ!、ジョージ・マーチンどこかな!はやく前に出てきてピアノの伴奏を付けてくれ!」 と、リクエストが飛び交っていたのである。
〜 The Southlanders/ Earth Angel 〜 The Beatles/ This Boy (小林)ジョージ・マーチンの、ビートルズのプロデューサーの十代の頃のお話しをしていますが。 ジョージ・マーチンは、EMIに入社してプロデューサーとしての仕事をするわけですが、彼のプロデュース作品、 まず、いま聴いたのがThis Boy。これはもう判るよね。1963年です。 ちなみに、世界的なヒットになったのは1964年。アメリカでは64年ですからね。 I Want To Hold Your Hand、これが世界的な大ヒットになって、ビートルズは世に出るということになるんですが、 そのB面に入っていた This Boy、なかなかいい曲です。もちろん、ジョージ・マーチンのプロデュース。 その前のやつは、サウスランダース(The Southlanders)というイギリスのグループなんですが、これは1955年です。 55年と言うとね、56年にエルビス・プレスリーがドーンと出てくるわけですよ、世界中に。 だから、エルビスのことは知っていたんだけれど、ロックンロールていう時代じゃない。ちょっと前の頃ですよね。 実際には1954年、アメリカでペンギンズっていうグループがヒットさせた曲をカバーしてるんです。 これは、昔からのポップスファンは良く知ってる曲だよ。Earth Angel 地球のエンジェルですよ。 まあ、エンジェルは宇宙からのものとして、地球のエンジェルは生身の人間ということですね。恋人に見立てたラブソング。 これはけっこう、ドゥアップの連中とかがカバーしたり歌ったりする曲です。 有名曲 2曲続きました。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「イギリス軍の航空隊にいたからって、音楽が無かったってわけじゃなかったね。むしろ、そういう職場にいる方が、音楽はより大切なものになるってこともある。 結局、人類は音楽無しでは活きてはいけないものなんだよ。」 こう語るのは、ジョージ・マーチン。あのビートルズをロックの世界でナンバーワンにしたカリスマプロデューサーである。 航空隊での生活も数年が過ぎ、やっとカリブ海のトリニダッドからロンドンのグリニッジに戻ることになった。 ここで最初の二週間に正しい食事のマナーなど、イギリス軍人としての必要最低限のマナーを叩き込まれた。 これは、英国軍人たるもの常に紳士であれ、という大英帝国王室の揺るぎ無い伝統に基づくものであった。 ともあれ、同期の仲間たちに比べると、特に出世もせず、給料も安く、海軍少尉候補生という微妙な地位に甘んじていたマーチンに、久しぶりに音楽家としての時間が戻って来た。 ここでの娯楽担当の士官が、マーチンがトリニダッド時代によくピアノを弾いていたのを思い出して、声をかけて来たのである。 「マーチン君。君はジャズのピアノが得意なんだよね?。」 「ええまあ、ジャズだけってわけじゃないんですけど。少しはたしなむ程度で。」 「わかった。来週BBCの軍用放送のネイビーミクスチャーていう番組に出てほしいんだよ。とにかく、時間にスタジオに行けばわかるから。いいね、頼んだよ」 そんなやりとりがあり、海軍少尉候補生ジョージ・マーチンは腕前を披露しにBBCのスタジオに出かけて行った。 軍隊生活には少しばかり飽き飽きしていたマーチンにとって、音楽による光が見えてきた出来事であった。
〜 Paul McCartney & Wings / Live and let die 〜 Diana Ross /Touch Me In The Morning (小林)いずれも1970年代の音ですよw。 最初のやつは Live and let die、ポール・マッカートニーとウィングス、これは1973年。 もちろん、ジョージ・マーチンがプロデュースを担当しています。 やっぱりあの、これはダブルオーセブン(007)の「死ぬのは奴らだ」の主題歌をポール・マッカートニーが依頼されて作ったものです。 だから、それ風のアレンジとか施してありましたけども、これはやっぱりジョージ・マーチンの功績でしょうね。 ええw、盛り上がりが…、 Live and let die 。 そして、これがアメリカのチャートでは、1973年チャートで2位まで行くんですけれど、その時の1位がですね、いま聴いたダイアナ・ロスなんですよ。 Touch Me In The Morning、ダイアナ・ロスは・・・ ポール・マッカートニーのビートルズは70年に解散ですけど。 ダイアナ・ロスは1970年ごろに、昔のシュプリームスから旅立ってソロになっていて。ソロのヒットを飛ばしていた頃。 この頃は、映画に出たり、もう引っぱりだこの時代。ダイアナ・ロスのヒット曲が1位でした。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「マーチン君。君はジャズのピアノが得意だったね。それじゃあ来週、BBCの軍用放送のネイビーミクスチャーて番組に出てほしいんだよ。 とにかく時間にスタジオに行けば分かるから。頼んだよ」 今の会話の中で、マーチン君と呼ばれているのは、EMIパーロフォンの制作部長で「ビートルズを史上最高のロックアーティストにした男」の異名を取る人物、ジョージ・マーチン。 彼の青年期の物語。もう少し続けてみよう。 イギリス南部、そしてスコットランドのグラスゴー、ニューヨーク、カリブのトリニダッド、世界中のいろいろな場所で航空隊員としての訓練を受けて来たマーチンも、 入隊して数年後には故郷であるロンドンに戻ることができた。 ここでいよいよ彼の音楽の才能が活かされる時が来るのである。 先ずは国営放送であるBBCの軍用放送番組、ネイビーミクスチャーへの出演の命令が下った。 数日後マーチンはピアノの腕前を披露しにBBCのスタジオへ出かけた。 出演そのものは、ちょっとしたゲスト出演であったため、すぐに終了した。 すると、この番組に出ていた中のひとり、ジョン・バートウィー大佐がマーチンに話しかけて来た。 「君の演奏、気に入ったよ。我々の海軍娯楽演奏団に入るつもりはないかね?。なんなら君を海軍の娯楽専門の部署に推薦してあげてもいいんだが。」 マーチンはびっくりして答えた。「それって、どんな仕事なんでしょうか?」 「船で太平洋の戦線を巡って、前線にいる哀れな若者たちに救いをもたらす仕事だ。大きな船でカナダのバンクーバーから出航する。言ってみれば“人助け”の仕事だね。」 あまりの魅力的な誘いに、マーチンはさらに訊き直した。「大佐、そのお話し、詳しく聞かせて頂けませんでしょうか?。」
〜 Ella Jane Fitzgerald/ Can't Buy Me Love 〜 The Beatles/ And I Love Her (小林)渋い選曲で2曲続きましたが。 Can't Buy Me Love 曲はお馴染みでしょう?。ビートルズの曲ですよね。それをエラフィッツ・ジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)がやっていました。 これが実は、プロデュースがジョージ・マーチンがプロデュースしたわけです。 エラフィッツ・ジェラルドという人はですね、ジャズの世界では一番有名な女性シンガーです。 ちなみに、この時代にはジャズの世界中で一番権威のあったダウンビートていう雑誌があるんですけが、 その雑誌の女性歌手部門の人気投票では、50年代の終わりから60年代70年代にかけてずっーと1位だった人です。エラフィッツ・ジェラルドという人は。 サラ・ボーン(Sarah Vaughan)という人も有名ですが、サラ・ボーンも1位になれなかった。 エラフィッツ・ジェラルド、そんな人がやっぱビートルズのカバーをやる。わざわざイギリス用にね、そのレコードが発売されたんですが。 それのプロデュースが、ビートルズのプロデューサー=ジョージ・マーチンが務めた、という、もう大変な組み合わせだったわけですね。 そしてビートルズの And I Love Her、これはA Hard Day's Nightのアルバムに入っている64年のものですけれども。 実はビートルズが出て来たとはいえ、世界中の人はビートルズのことは知っていたけども、ロックファンは大多数じゃなかったわけですよね。 だからエラフィッツ・ジェラルドみたいな人がビートルズを歌ったりするわけですが、 そのロックファンじゃない人たちにすっごい受けていたのが、このAnd I Love Herみたいな、こういうような曲だったんです。 ちなみに、この曲もすっごいカバーされています。 日本の渡邊貞夫さんなんて。あの、〜なんて 言っては失礼ですがw、渡邊貞夫さんもこの曲をカバーしたりしてます。
すみません訂正します。 × エラフィッツ・ジェラルド ○ エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)
□リクエスト
(小林)採用の方全員にイシイのミートボールなどをセットにしてプレゼントしております。
メールは
[email protected] です。よろしく。
(栃木県鹿沼市/女性)初めてメールでよろしくお願いします。
週末の楽しみはこのラジオです。私が初めてビートルズを聴いたころは、まだ小学生でした。その時は洋楽自体があまり好きではありませんでした。
まさかこんなにハマるとは思いもしませんでした。一度聴くと、また聴きたくなる。病みつきになるサウンドが何とも言えない。
その中でもイチオシがポール・マッカートニー。曲はもちろん最高だけど、声が超イイ。初めて買ったソロアルバム、MEMORY ALMOST FULL。
2曲目に入っているEver Present Past をリクエストします。いちばんこのアルバムの中でノリがいいので、採用よろしくお願いしまーす。
〜 Paul McCartney / Ever Present Past
〜 The Beatles / I Want To Hold Your Hand
(千葉市中央区/女性)こんばんは克也さん。
毎週欠かさず聴いています。私は中学2年生です。(小林)今日のリクエストは若い!さっきの人も16歳だったもんね。
実は私とビートルズとの出会いは、私が保育園生の頃です。
母に連れられてよく行った茂原市のある喫茶店ではいつもビートルズの曲が流れていました。
当時の私は何が流れているのか意識しておらず、何年も後になって母から聞きました。
しかし、そんな私にも一曲だけ印象に残っていた曲があります。それが I Want To Hold Your Hand。
小学5年か6年の時、この曲がこの番組で流れているのを聴いた時、あの店で流れていた曲だということに気付きました。(小林)いい話ですね。
その喫茶店には残念ながらもう行くことはできません。数年前に火事で焼失してしまったのです。
でもまたいつかお店のママさんに会える時が来ると信じてこの曲をリクエストします。
(横浜市南区/男性)克也さんいつも毎週楽しく聴いています。 ビートルズは父親の影響で中学生のころから聴いています。小林さんのお話は大変勉強になります。 リクエストですが、高野 寛さんという日本のシンガーソングライターがカバーしていた、ロジャーニコルス(Roger Nichols)のドリフターという曲。 (小林)渋いねェw。 先日YouTubeで音源を聴きました。ぜひラジオでも聴きたいのでかけてください。これは感動することと思います。 (小林)いい音で聴くわけですよねえ。正確に言うと↓ 〜 Roger Nichols & The Small Circle Of Friends / The Drifter 〜 The Beatles / Rocky Raccoon (小林)ポールはとても器用で、これは僕は初めて聴いたんですよね。アメリカの南部の田舎訛りでしゃべりながら出るんですよ。 ポールはふつうそんなことはやんないと思っていたら、けっこういろんなことをやるもので。 (匿住所/18歳男性) 映画「ロッキー5」でS・スタローンが演じるロッキーが試合で顔に負ったアザを息子に見せて「ラクーンみたいか?ロッキーラクーンみたいか?」 って訊くシーンがありました。 日本語字幕ではラクーンは確かパンダか何かに置き換えられていたんですが、 このロッキーラクーンて、もしかしてポールが書いたあのRocky Raccoonへのオマージュではないでしょうか。 (小林)おそらくオマージュでは無いと思います。というのは、ロッキーですから。まずそのロッキーの… 日本語でラクーンといったらちょっと違いますけど、「おい、タヌキみたいな顔か?」「ロッキーダヌキかなあ」みたいな意味なんですよね。 ポールてのは、音楽ファンはそれはちょっと思うかもわかりませんけど。
□エンディング (小林)ここのところ、プロデューサーのジョージ・マーチンのお話をしています。ジョージ・マーチンの話おもしろいよねえ。 そういう人がいたからこそ、ビートルズも有ったっていうことなんです。 リクエストの方もよろしくお願いします。リクエストはね、曲目とかそういうふうなので決めるんですが、結果的にわかったのは すごい、リクエスト若かったですよねえ、今日はね。おそらく、全員十代だったのかな。というような感じもあります。 どうも。よろしくお願いします。
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/08/29(月) 18:00:48.83 ID:l3iojRGm0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年8月28日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 8月28日) ・1969年(今から42年前の今日) ロンドンのアベニュークリニックという病院で、リンダ・マッカートニーとポール・マッカートニーの間に赤ちゃんが生まれます。 名前はメアリー・マッカートニー。女の子です。ポールはこのお産に立ち会っています。 しかし、アルバム“アビーロード”の制作の真っ最中で、忙しい中ポールは駆けつけました。 まあちょっと私生活の話しになりますが、ポールはちょっと二股(また)とか三つ股(また)とかwって言うんですかねw。お盛んです。 ジェーン・アッシャーと付き合っていたころから、婚約者だったわけですけど。 ジェーンがイギリス風のお嬢様タイプ、婚約者だったんですが。 そのころから、後半ですけど、リンダと付き合うようになって。リンダは典型的なアメリカの女の子。 ブロンドで長身でグラマー。一説によるとリンダは、すね毛とか腋毛もケアしないワイルドなタイプだった、という。 でも、結婚してあれですよね、アメリカ英語からイギリス英語風をしゃべるようになるわけですが。 リンダはこの時にヘザーという連れ子の女の子がいて、ポールとの間にはこの日に生まれたメアリーに続いて、 世界的なデザイナーになる、服のデザイナーになるステラ・マッカートニー、末っ子のジェームス、がいます。 ちなみに、ポールのお母さんの名前がメアリーですよね。お父さんの名前はジェームズですよね。 やっぱりそういうポールはこだわりがあるんでしょうかね。 この歌の最初の部分に、やっぱりお母さんの名前が出てきます。有名な曲です。 〜 The Beatles/ Let It Be (小林)お馴染みのLet It Be。ポール・マッカートニの作曲です。 ええ、やっぱり※“マザー・メアリー”というのが出てきましたけど。 ちなみにこのLet It Beは、フィル・スペクター=プロデュースとジョージ・マーチン=プロデュースがありますが、 こちらはジョージ・マーチンのプロデュースの方。 ちなみに、ジョージ・マーチンのお話しをずっと続けています。
328 :
キロックノン :2011/08/29(月) 18:08:49.85 ID:???0
注 ※この場合は一般的にキリスト教の「聖母マリア」を示すと思われます。実母にも掛けているでしょうけど。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「君の演奏、気に入ったよ。我々の海軍娯楽演奏団に入るつもりはないのかね?なんなら君を海軍の娯楽部門の部署に推薦してあげてもいいな。」 「大佐、そのお話し、もう少し詳しく教えて頂けませんでしょうか。」 時は1940年代、第二次世界大戦が始まっていた頃、イギリスの国営放送であるBBCの軍用娯楽番組「ネイビーミクスチャー」の生放送の後での会話である。 この日、出演者の一人であったジョン・バートウィー大佐が話しかけてきた。 海軍の楽団に誘われている青年の名は、ジョージ・マーチン。後にビートルズをブレイクさせ、ロックファンは「5人目のビートルズ」と呼ぶ人物である。 実のところ、この時点でマーチンはまだ話しの内容が理解できていなかった。 「さあ、どうでしょうか。僕はこれから飛行中隊に入る所です。パイロットですから。」と、あまり乗り気ではない受け応えをしていた。 しかし、大佐は引きさがらなかった。 「まあ、私の話しを聞いてくれ。これは、船で太平洋の戦線を巡って、前線にいる哀れな若者たちに救いをもたらす仕事なんだ。 大きな船でカナダのバンクーバーから出航する。言ってみれば“人助け”の仕事だね。」 あまりに魅力的な誘いに、マーチンは身を乗り出して訊き直した。 「大佐、そのお話し少し詳しく教えて頂けませんでしょうか?」 「そうだね。まず、その船には一日に1万g以上のビールを作る設備があって、盛大なパーティを開くことができるんだ。もちろん腕のいい料理人もいる。 要するに世界中のあちこちに出向いて、仲間を楽しませることが出来るってわけだ。 どうだね。君のピアノの腕前だったら、私たちのコンサートパーティに難なく加わることが出来る。 どうだ?楽しい仕事だよ。力になってくれないだろうか?」
〜 The Beatles/ Lady Madonna 〜 Otis Ray Redding Jr./ (Sittin' on) The Dock of the Bay (小林)2曲続きました。ビートルズと関係ないような曲が流れてる。いえいえ、これはねえ、同じ時代だから関係があるんですよ。 ビートルズはリズム&ブルースなんかから大きな影響を受けています。 オーチス・レディング( Otis Ray Redding Jr.)の Sittin' on The Dock of the Bayというとても有名な曲ですが。 実はその前におかけしたのが、ビートルズのLady Madonna。1968年の3月イギリスのチャートで、あ、アメリカのチャートで4位、まで行っていますが。 オーチス・レディングのDock of the Bayていうのは、その週の1位なんです。その週の1位がこれだったわけですね。 だから、面白いのは、オーチス・レディングはその前の年に亡くなって、自分はナンバーワンヒットは無かったんだけども、 皮肉なことに亡くなったあと、この曲がナンバーワンになっちゃうわけですね。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「マーチン君、あなたのピアノの腕前だったら私たちのコンサートパーティに難なく加わることができる。どうかな?楽しい仕事だよ。力になってくれないだろうか?」 英国海軍航空隊の若きパイロットを海軍の娯楽演奏団に強く勧誘しているのは、ジョン・バートウィー大佐。 そして、誘われる側のマーチンと呼ばれる若者は、この20年後にビートルズをロックの世界でナンバーワンにしたカリスマプロデューサー=ジョージ・マーチン。 この時はまだ未成年であった。 しかし、根っから真面目人間であるマーチンは、いままでのパイロットとしての訓練を無駄にはしたくはなかった。 よく考えた末、楽団に入る誘いを断って軍隊に戻り、パイロットとしての最終学習である高等訓練を受け、その技術は作戦上の飛行中隊を組むほどになった。 しかし、そうこうしているうちに日本に原子爆弾が投下され、第二次世界大戦は終わった。 マーチンの所属した飛行中隊は解散し、無期限の休暇をもらい、母親のもとに帰った。 軍隊に戻ったマーチンにはデスクワークが与えられ、続いて輸送士官、広報士官などの部署を転々とした末、1947年の初頭、ついにジョージ・マーチンは帝国海軍から除隊した。 しかし、除隊はしたものの、さし当たって何をしたらいいものなのか、二十歳になったマーチンには皆目見当もつかなかった。 実際、軍隊では飛行機の操縦以外の教育はほとんど受けていなかったため、当初希望していた飛行機の設計技師を目指すにも年齢的に遅すぎた。 当時のイギリスの労働者階級の者は、みな二十歳になったら何らかの職業に就き家庭を持つのが常識であったのである。 ここでマーチンは自らを冷静に見つめ直し、真剣に方向性を考えてみた。 そこで出た答は、たった一つ、音楽の道に進むことであった。
〜 George Martin & His Orchestra / Ringo's Theme, (This Boy) 〜 Tommy / Pinball Wizard (小林)ビートルズのプロデューサー=ジョージ・マーチンが担当した、プロデュースを担当した作品を2曲、お送りしました。 まず最初は「リンゴのテーマRingo's Theme」これはThis Boy ですね。これは映画「A Hard Day's Night」で使われて、まあ「リンゴのテーマ」となったわけですが。 サントラで、あれですよ「ヤア!ヤア!ヤア!ビートルズがやって来る」あの映画ですよ。「A Hard Day's Night」、これ違うかよってw 迷っちゃう時があるんですけどw。 これで使われていました。ジョージ・マーチン・オーケストラ、ジョージ・マーチンが自分のミュージシャンたちを率いて演奏していたやつです。 そして今(次に)聴いたやつはトミー(Tommy)のピンボールウィザード(Pinball Wizard)、ピンボールはゲームですよ。ゲームの天才って言うか。 これはですね、実は、若い人でビートルズにとても興味があって、あるいはビートルズよりちょっとハードなサウンドが好きなんだっていう方はですね、 ぜひビートルズと同世代に大活躍した「ザ・フー(The Who)」も聴いてほしいんですが。 ザ・フーのピート・タウンゼントっていう男は、この人もまた天才的なライターでね。 あの、おそらくサージェントペパーなんかのアルバムなんかに触発されて、トータルアルバムをけっこう書くんですが、 その中の一つが、ロックオペラ「トミー」なんですよ。 で、実際にブロードウェイでこのロックオペラは、アメリカ人だとかイギリス人のキャストをオーディションで選んで、上演されました。 そしてその音楽を担当したのが、ジョージ・マーチンなんです。というのはサントラ盤ていうか、これもちょっと珍しいですよね。 ザ・フーが作ったんだけれども、フーが歌ってるんじゃなくて、そのブロードウェイのミュージカルに出ていた人たちが歌っている「トミー」。 で、プロデュースはジョージ・マーチン。いろんな仕事をしていますね。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「ビートルズを史上最高のロックアーティストにした男」の異名をとる人物、ジョージ・マーチン。 彼の青年期の物語、もう少し続けてみよう。 数年に渡り在籍し、高度な訓練を受け続けた英国海軍を除隊し、自分のこれからの人生を見つめ直すシーズンに入ったマーチン青年。 じつは航空隊時代マーチンは、あるピアニストの公演を聴きに行き、そこで自分のオリジナル楽曲を聴いてもらうというチャンスにめぐり合っていた。 この夜のピアニストの紹介で、新しい音楽振興のための委員会を紹介されたのである。 マーチンはドビュッシー風のオリジナル曲「ファンタジー」を譜面に起こし、この委員会のメンバーであるシドニー・ハリスンという人物に送った。 こういった団体への応募はかなりの数に及ぶため、送ったはいいものの何の反応レスポンスも無いのがざらではあるが、 なんとマーチンのものには、そのハリスン氏から長文の返信が届いた。 大判の便せん3枚に及ぶその手紙の内容は、まず、マーチンが作曲を送ってくれたことに感謝しての丁寧な感謝の言葉から始まり、 楽曲に関しての批評と分析が詳細に書いてあった。 ハリスン氏は作品の短所を的確に指摘し、「もっとオリジナリティを追求するべきである」とも述べていた。 楽曲に関しての感想や指摘は作曲家にとって励みになるもの。マーチンは飛び上がるほどうれしかった。 そして、その手紙の最後にはこう書いてあった。 「もっと作曲を続けて、どんどん私に送りなさい。連絡を取り合いましょう。」 もちろんジョージ・マーチン青年は作曲を続けた。ハリスン氏とのやりとりは全て手紙だけで続けられた。 マーチンは彼のことを「想像上のゴッドファーザー」と呼んでいたのである。
〜 Shirley Bassey / Goldfinger 〜 Roy Orbison / Pretty Woman (小林)いずれも1964年の曲なんですけどもね。シャーリー・バッシー( Shirley Bassey)のゴールドフィンガー、これは若い方はどうなんでしょうねえ。 聴いたことありますかねえ。もうこの頃はすごかったんですから。なにしろ映画がすごかったんですからね。 ダブルオーセブン(007)ジェームズ・ボンド、これがもう最初の頃でめっちゃくちゃヒットですよ。 それの主題歌は、ビトルズをやってるっていうことで有名になっちゃった、ジョージ・マーチンがプロデュースを担当するわけですよ。 歌っていたのがシャーリー・バッシー、イギリス人です。強烈な歌声です。 なにしろダブルオーセブン、ジェームズ・ボンドてのは、ハリウッドじゃないイギリスで作られるもんですから、イギリス人をね結構重宝しますよね。 というわけで。そしてその曲が大ヒットになるわけですけれども、その同じ頃イギリスでナンバーワン、アメリカでももちろんナンバーワンていうのがロイ・オービソンのPretty Woman。 これは今、日本の女性化粧品のコマーシャルで使われてるんで若い方もご存知かと思いますが。 ロイ・オービソンてのはすごい人で、とくにあのポール・マッカートニーはファンなんですよ。 1963年にロイ・オービソンの前座で、ビートルズは同じバスで数か所行くんですよね。 その時にロイ・オービソンが、ジョンやポールが見ている目の前で、ギターを弾きながら作曲をしているんですよ。 それを見た時は、やっぱ勉強になった、ていうようなことを語っていますよね。ポールもジョージ(ジョン?)も旅先でいろいろ曲を作ったりするわけですが、 大先輩が曲を目の前で作ってる、そういうようなビートルズとの関わり合いがあるアーティスト。
□リクエスト
(小林)採用の方にはイシイのミートボールなどセットにしてプレゼントしております。
メールは
[email protected] です。
(鎌ヶ谷市/女性)7月31日放送の番組を聴いていました。とてもよかったです。
かかっていた曲ぜんぶ素敵でした。とはいえ、カントリー調のもの、ジャズもビッグバンドも、私はあまり詳しくなく、曲名聴き取れなかったんですが。
最後のジョージ・マーチンさんジョイントのワンオクロックジャンプでしたっけ、ほんとに心に残りました。
(小林)そうです、ジョージ・マーチンは関係ないんですが、ジョージ・マーチンが子供のころからファンだった曲ですよね。
(メール続き)今朝 母親にカウントベイシーオーケストラ・ワンオクロックジャンプの音源をYouTubeで聴いてもらって、
彼らのこと知ってたので、CDが家にあるかどうか調べてもらったりしました。これからもラジオ聴きます。素敵な曲をありがとう。大好きです。
(小林)じゃあw、あなたにですね、もっともっと入り込んでもらうために…。
そうだねえ、カウントベイシーともう一つ有名なバンドがあったんです、デュークエリントン・オーケストラ(Duke Ellington & His Orchestra)、
まあビートルズとストーンズみたいなもんですけど、
デュークエリントン・オーケストラのTake the A Train。AトレインてA列車って訳されるんですが、ハーレム行きの地下鉄のことです。
〜 Duke Ellington & His Orchestra / Take the A Train
〜 Blues Brothers / Jailhouse Rock (千葉市/男性)ブルースブラザースの映画の最後に、バンドのメンバー全員で刑務所の中で「監獄ロック」を歌うというシーンがあるんですが、 もうブルースブラザースのどちらかが亡くなられているということで諦らめていました。 (小林)ジョン・ベルーシが亡くなったわけですが、あなたのリクエストにお応えしました。強烈な映画でしたよね。 (八千代市/男性)歌手で俳優でもあるジョー山中さんが天国へ旅立たれました。 おいらが山中さんを知ったのは歌・映画などではなく、自分と同じ誕生日を調べていたら山中さんがヒットし、それ以来彼のあれこれが気になりファンとなった次第です。 黒人と日本人のハーフとして生まれ、歌も上手く、腕っぷしもありやんちゃな人生を過ごされたようです。ご冥福をお祈りしたいと思います。 ビートルズナンバーではありませんが、彼の大ヒット曲 映画「人間の証明」のテーマをお願いします。 (小林)これはすごいヒットでした。 〜 ジョー山中 / 人間の証明-PROOF OF THE MAN
□エンディング (小林)きょうは、ビートルズから離れた曲もそうとうお送りしましたけども、だけどこう、時代だとか何かで結びついてるんですね。 きょうはデューク・エリントン、Aトレインをおかけしました。 デューク・エリントンがその昔日本に来て、テレビに出た時に、インタビューでね、言った言葉があるんですよ。 その頃はビートルズがすっごい時代で「ビートルズ、どう思いますか?」 「いやあ、ビートルズ?、別に新しくないよ。俺たち彼らがやってたこと、昔からやってんだから。」ていう風なことを言ったのを、僕覚えてます。 なんとなくその頃 意味分んなかったんだけどもね、なーんか 分かって来たね。 はい!、みなさんからのリクエスト待ってます。
マーチンはたちぐらいに除隊か 戦争がはやく終わったらあるいはもっと長引いたら…いろいろ想像がふくらむな
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/09/05(月) 17:26:29.74 ID:rMLxrDJ90
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年9月4日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(9月4日) ・1962年(今から49年前の今日) ビートルズは朝早く起きてリバプール空港からロンドンへやって来て、チェルシーのホテルへチェックインしたあと、EMIスタジオ、アビーロードスタジオ、 今ではアビーロードスタジオと正式に呼ばれていますが、そこに行きます。 ビートルズにとってアビーロードスタジオは、2回目です。 もうビートルズはEMIのパーロフォンからデビューすることが決まって、そろそろデビュー曲ていうことですよね。 で、午後に到着して、午後まずリハーサルをやるわけですね。 8月17日にリンゴ・スターはビートルズのメンバーになったばっかりなんで、ちょっとリハーサル不足で、リンゴ・スターを中心にやったんでしょうかね。 リハーサルをやって。そして、夕方。 近くのアルティノっていうレストランがあって、ここでプロデューサーのジョージ・マーチン、それからビートルズのアシスタントの二ール・アスピノールなんかと食事をします。 そして、その後がレコーディングです。 レコーディングはビートルズのオリジナルLove Me Do、そしてHow Do You Do It 、これはビートルズのオリジナルじゃないんです。 マーチンはですね、ビートルズはひょっとして、まあ作曲するんだけども、もっとプロらしいプロに曲を作ってもらった方が良いんじゃないか、ということですよね。 それで、マーチンは「How Do You Do It ていうのはなかなかいい曲なんで、これやらないか」て言うわけですが、 ビートルズが「俺たちはオリジナルで勝負したい!」ていう啖呵(タンカ)を切るわけですよね。この啖呵ていうのは有名なわけですが、この頃です。 でもビートルズは、いちおう自分たちはプロっていう自負があります。 How Do You Do It なかなかいい曲だからやってみたら、ていうことで、バンドマンのプロとしての、プライドをかけて、これに取り組むわけですね。 その結果というのは、ビートルズのアルバムっていうか、後になって出された「アンソロジー」の中に入っています。
なお、ちなみにですねHow Do You Do It は、ビートルズ達の仲間というかジェリー&ペイスメイカーズ(Gerry & The Pacemakers)がやって イギリスでナンバーワンになるわけです。 だからこれ、曲としてもいい曲だったわけですね。 ビートルズは断ったわけですが、いちおう演奏いたしました。 じゃあ、ビートルズの出来栄えを聴いて頂きましょう。 〜 The Beatles/ How Do You Do It (小林)これがプロの作曲家ミッチ・マーレー(Mitch Murray)という人なんですが、彼が作曲作詞もやったんだと思いますけども。 ビートルズの曲をいっぱい聴いている人に「あ、ちょっとビートルズじゃないな。」と。 だけど時代の頃の、この時代の、何というか、失恋の歌なんだけれども、 何となく十代の子たちが歌いそうな曲なんですよね。これ、ビートルズが「卒なくこなした」っていうバージョンをお送りしました。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「ビートルズを世界一のロックバンドに育てた男」と言えば、EMIパーロフォンの制作部長でレコードプロデューサーのジョージ・マーチン。 このジョージ・マーチンのストーリー、ビートルズに出会う15年前に遡(さかのぼ)る。 1947年の初頭、ジョージ・マーチンはついにイギリス海軍を除隊した。 しかし、除隊はしたものの、さし当たって何をしたらいいものなのか、二十歳になったマーチンには皆目見当もつかなかった。 当時のイギリスの労働者階級の者は、みんな二十歳になったら何らかの職業に就いて家庭を持つのが常識であった。 ここでマーチンは自らを冷静に見つめ直し、真剣に方向性を考えてみた。 そこで出た答は、たった一つ、音楽の道に進むこと。 結果、軍隊時代も地味ながら着実に音楽を続けてきたマーチンは、ギルドホール音楽学校に入学することができた。 その影には、軍隊時代にマーチンが書いた楽曲を熱心に添削し続けてくれたピアノ科の教授、シドニー・ハリスンの協力があった。 ハリスン氏は若きジョージ・マーチン青年の作曲とアレンジの才能を最初から見抜き、タダでその作品を評価し問題点の指摘をしてくれていた。 そして、教授の熱心な推薦によりマーチンはギルドホールの学長と面談することが出来、ついには入学を許された。 しかしまだ問題があった。「ギルドホールに来て音楽の勉強ができるのは良いけれど、いったいどうやって学費を捻出すればいいんだろう。」 マーチンは一度は途方に暮れた。が、この問題もハリスン教授のひと言で全てクリアーになる。 「マーチン君、君も職業復帰官ならばわかっているはずじゃないか。海軍に従事した者として、君は高等教育を受ける資格があるだろう。 心配しなくていい。我々が君のために補助金の申請をするから。」 こうしてジョージ・マーチン青年は、晴れて生まれて初めての本格的な音楽教育を受けることになるのであった。
〜 The Beatles/ Martha, My Dear 〜 Jimmy Hendriks / Purple Haze (小林)2曲続けました。ビートルズの Martha, My Dear。これはホワイトアルバムですね。1968年のね。 そして、ブラスだとかストリングのアレンジは、みんなジョージ・マーチンです。 ジョージ・マーチンは、だから5番目のビートルズていうか、ビートルズのブレーンだったわけですね。 そしてその、ホワイトアルバムっていうのは、まあ売れたことは売れたんですが、 その前の年は ほら、サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド(Sgt Peppers Lonely Hearts Club Band)が年間で一番売れたアルバムですが。 1968年一番売れたアルバムというのは、この今は亡きジミー・ヘンドリックス(Jimmy Hendriks)エクスペリエンス(EXPERIENCE)の パープルヘイズ(Purple Haze)も入ったAre You Experienced? というアルバムなんですよね。 だから、ビートルズの時代が始まって68年になると、もう、あのこれ、ハードロックの時代が来たんだっていう風なのがわかりますよね。 で、時代ていうことでみんな誤魔化されやすいですけど、これはどういうことかと言うとね、世代が交代するんですよ。 アーティストばかりじゃないですよ。お客がね、入れ替わるんです。だからもう、70年代ハードロックの時代が、裏では来てるっていうことを知ってて頂きたい。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「マーチン君。君も職業復帰官ならわかってるはずじゃないか。海軍に従事した者として、君は高等教育を受ける資格があるだろう。心配しなくていいんだよ。 我々が君のために補助金の申請をするから。」 こう言って支援してくれたのは、ギルドホール音楽院の教授シドニー・ハリスン氏。ジョージ・マーチンにとってはまさに、人生最大の恩人とも言える人物である。 こうして1947年の9月、マーチンは晴れてロンドンのギルドホール音楽学校に入学した。 マーチンはこのギルドホールで3年間過ごし、作曲やそれにまつわる全てのこと、例えば指揮、管弦楽の編曲、音楽理論、ハーモニー、対位法などを学んだ。 楽器の専攻は迷わず得意のピアノを選んだのであるが、必修科目として第二楽器、つまり二つ目の楽器を選択する必要があった。 それでマーチンは管楽器を勧められたのであるが、ひと口に管楽器と言っても、オーケストラで使われるものとなるとその数、数十種類、いや軽く百を越えてしまう。 マーチンの選択は数日考えた結果、木管楽器のオーボエに落ち着いた。オーボエを選んだ理由であるが、まず、マーチンは金管楽器があまり好きではなかった。 そして経済的な理由もあった。ギルドホールの3年間なんてすぐに過ぎてしまうし、卒業した後はミュージシャンとして何らかの仕事を得なければならない。 そうなった時、あまり演奏者の多くないオーボエは有利であるし、だいたいに於いてバイオリンやトランペット等に較べてオーボエは、安い。 オーケストラ業界では優秀なオーボエ奏者は多くなかった。 そんな情況を皮肉って、この業界ではオーボエのことを「誰も上手く吹けない楽器」と呼んで馬鹿にしていた。 しかし、この管楽器を選んだ経験が、後にビートルズのアレンジャーとしてかなり大きな功績をもたらすことになる。
〜 The Beatles/ When I'm Sixty Four 〜 Procol Harum/ A Whiter Shade Of Pale(青い影) (小林)2曲、1967年の名曲が続きました。 サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド(Sgt Peppers Lonely Hearts Club Band)から、ポール・マッカートニーの When I'm Sixty Four。 これは、ジョージ・マーチンのアレンジがもう大活躍。クラリネットがフィーチャーされていますが。ジョージ・マーチンのアレンジ。 内容がほら、十代の時にポールが「僕が64になっても愛してくれる?」て言う風な歌なんだけれどもw。その64を大きく越えて69歳になっています。 そして、ジョン・レノンがこの年最も好きだった曲、ていうのはこの曲なんですよね。( A Whiter Shade Of Pale) それから、この曲が 歌の歌詞がドラッグ体験を歌ったんじゃないか、ていうことでイギリスなんかでも問題になったりしても、まあ大ヒットになった曲なんですが、 プロコル・ハルム(Procol Harum)のA Whiter Shade Of Pale。日本語のタイトルは「青い影」というタイトルが付いていました。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「ビートルズを史上最高のロックアーティストにした男」の異名をとる人物、ジョージ・マーチン。 彼の青年時代の物語。もう少し続けてみよう。 二十歳を過ぎてからギルドホール音楽学校入学となったマーチン。実はこのころ、彼はすでに結婚をしていた。 相手は海軍航空隊時代に知り合ったシーナという女性。2人はマーチンの22歳の誕生日である1948年1月3日に入籍。 この、妻シーナがかなりの病弱で、持病の胃炎にいつも悩まされていた。 そんな妻を持つマーチンは、国からの補助金で勉強を続けている学生の身分ではありながら、生活を支えていかなければならなかったため、 昼は音楽学校、夜は街のダンスバンドでオーボエを吹くか、曲を書いて、それを切り売りして何とか日々をしのぐという生活。 これがギルドホールを卒業する頃になると、情況はもっと苦しいものになっていく。 補助金の支給が終わってしまうのである。 こうした生活の中でマーチンは、「オーボエ奏者としての未来は明るくないな」と悟り、じきに昼間の、俗に言う「堅気の仕事」に就く必要性を強く感じてきた。 そこでマーチンはロンドンのグレート・ポートランド・ストリートにあるBBCミュージックライブラリーにアルバイトとして働きに出た。 ここで楽譜などを整理する際には、ちょっとした音楽の知識も役には立ったが、総じて言えば「誰にでもできる事務員の仕事」に過ぎなかった。 そうして1950年9月、そのライブラリーに2ヵ月ほど勤務した後、マーチンはある人物から仕事の誘いを受けた。 その人物の名前は オスカー・プレウス。 便箋には彼がアビーロードにあるレコード会社EMI、つまりエレクトリック&ミュージック・インダストリーの人間であることが明記してあった。
〜 The Beatles/ Rock n Roll Music (小林)ビートルズのRock n Roll Music、お馴染みです。チャック・ベリー(Chuck Berry )の曲です。 1964年のBeatles For Saleのアルバムに入っています。 それから、ビートルズの初期の世界ツアーの、まあ日本ツアーもそうですけども、一曲目がオープニングが必ずこの曲だった。有名な曲。
□リクエスト
(小林)リクエストにお答えします。メールは
[email protected] です。
リクエスト採用の方にはイシイのミートボールなどセットにしてお送りしております。これがけっこう喜ばれます。
(東京都足立区/男性)克也さんこんばんは。
最近はジョージ・マーチンの話しの流れでマットモンローが良くかかりますね。
自分は「ロシアより愛をこめて」しか知らなかったんで、改めてムーディな良さに気付かされています。
ムーディと言えばこの曲もお気に入りの一つです。
ナンバーワンバンドの「茅ヶ崎は今日も黄色い」をリクエストします。
(小林)ちなみにあの、知らない方はいっぱいいるとは思うんで、説明しておきますと。
ナンバーワンバンドは80年代に僕がやっていたバンドで、この曲は作詞作曲が桑田佳祐です。
だから、まあ僕の、ちょっと特別のリクエストで(歌詞に)ジョン・レノンを入れてほしいって言って、唐突にジョン・レノンが出てきたりw。
茅ヶ崎っていうと彼の出身地で、途中で茅ヶ崎が福山になったりしますが、福山は僕の出身という、前知識を入れて頂いて。
ビートルズの音楽とは、これ関係あるんでしょうか?。
〜 小林克也 & ザ・ナンバーワン・バンド / 茅ヶ崎は今日も黄色い
〜 The Beatles / Rain (東京都中野区/男性)先日仕事場で後輩に「濃い顔をしてますね。マイケルっていう感じですね」と言われ、マイケルというあだ名を付けられそうになりました。 外国人顔をしているから マイケルという名前を当てはめたのかなと思いますが、自分はマイケルというよりは、「どちらかというと、ジョンだよ!」と言いました。 「マイケル・ジャクソンも好きだけど、どちらかというとジョン・レノンの方が好きだよ」という意味で言ったんですが、 分んないようにわざと言ったので、後輩はまったく意味が分んなかったような困惑した様子でした。 その様子を楽しむ自分も自分ですがw。 ただ、それがきっかけで最近はジョンのどこが好きなのか、よく考え。ジョンの生き方が好きなんだと思いました。 自分はポール派かジョン派か、どっち派かという事を考えて、曲はポール派だけど、生き方はジョン派だなとw、結論がつきました。 ジョンはビートルズ時代から破天荒な言動や行動が多かった一方、晩年は主夫、ハウスハズバンドの生活を行ないショーンを育て、 その後、その主夫生活のブランクを感じさせないようなアルバム「ダブル・ファンタジー」を完成させたその生き方は憧れです。 いずれは自分もハウスハズバンドの主夫生活をしてみたいなと思いますが、ジョンのようにお金があるわけでもない、 果たして未来の奥さんが許してくれるかどうか。 長くなりました。 今回ジョンが歌っている曲で一番好きなビートルズの Rain をお願いします。克也さんは主夫生活どう思いますか?。 (小林)その人次第だと思いますよ。その人ができれば…。僕なんかちょっとダメですね。
(八千代市/女性)先日は息子のリクエスト採用して頂きありがとうございました。 おかげ様で、息子の吹奏楽部はかけていただいたエルトン・ジョンの曲の入ったメドレーで金賞を射止めることができました。 (小林)やあ、これはいいですね。良かったですねえ。エヘヘw。息子さんの金賞に関わった、この番組が。それでも嬉しいですよ。 (リクエスト続き)さて、私の青春時代「マカロニほうれん草」という漫画が流行ってて。 登場人物がブライアン・フェリーらしきコスプレで歌を歌っていたので、ロキシーミュージック。 (小林)かなりの音楽ファンでいらっしゃいますね。ロキシーミュージック、これは渋い曲ですよ。 〜 Roxy Music / Amazona 〜 The Beatles / Back in the USSR (小林)なんかミックスが上手くいきましたね。ブライアン・フェリーの音楽からポール・マッカートニーの音楽まで行きましたが。 (市川市/男性)日がな一日ラジオを聴いていましたが、どこも夏の感じですねえ。 ふと思ったんですが、ビートルズって季節感の無いバンドですかねえ。 逆をかえせば、一年中聴けるということなんでしょうか。 季節感のあるバンドも好きですが、やはり一年を通して聴けるというのはすっごいことです。 そこで、おそらくビーチに一番似合うと思われるビーチボーイズ風のBack in the USSRをお願いします。 (小林)そういうような聴きかたをしますか。人はそれぞれ自由なんですけど、日本人はけっこう季節にこだわったりしますよね。 「夏だ!」っていうんでこういう風な曲を聴くとか。 だけどやっぱり、いちばん理想的っていうのかわかりませんけど、曲に身を任すと、曲が夏の曲だと思ったら夏ばっかりじゃなくて、 いろんなそれ以上の気分を味わわせてくれるっていうのが、音楽の良さで。いろんな聴き方をしてください。
□エンディング (小林)ジョージ・マーチンという、ビートルズを世界一に、最高峰にしたプロデューサーの話しを聴いていますが。 ずーっとね、この番組やってて、ジョージ・マーチンの話しはやってなかったんですよね。 だから、ジョージ・マーチンの話しをしながら、すっかりお馴染みの曲になっているビートルズの曲を聴いても、 「あっ、ここの所がジョージ・マーチンなんだ」ていう風な聴き方をしますよね。 そうすると不思議なもんで、音楽がちょっと違うニュアンスに聴こえたりするんですよね。 ジョージ・マーチンがEMIから手紙が来たっていう所までお話ししまして、その後からのジョージ・マーチンも大変な苦労をしたと思うんですけど。 来週をお楽しみに。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年9月11日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 9月11日) ・1962年(今から49年前の今日) 実はあの、先週のこの時間もビートルズがアビーロードスタジオへ、EMIのスタジオへ2回目に来て大切な録音だったっていうお話しをしましたが。 それから一週間たって、ビートルズはいろいろ仕事をしているから。一週間旅に帰るわけですよね。コンサートをやりに。 そしてまた今日はですね、一週間後の今日はリバープールからロンドンに『前乗り』、つまり前日やって来ます。 だから、仕事は朝10時から仕事をします。 で、何をやったかというと一週間前に録ったデビュー曲になりそうなLove Me Do・・・。他の曲を勧めますよねえ(マーチンが)。 で、ビートルズは「いや、絶対にオリジナルじゃないとダメだ!。」ってことで、 ジョージ・マーチンは「Love Me Doはちょっと弱いんじゃないか、やり直した方がいいんじゃないか」ていう宿題を課すわけです。 で、ちょっと手直しをしたLove Me Doを午前中に。午前中だけかなこりゃ。もう夜中の1時までかかってるわけですが、18テイクも録ってるわけです。 18テイク。すごいでしょう。仕事はね、B面になるPS I Love Youから始まるんです。 ただ、リンゴ・スターが入ったばっかり、ていう話を先週しましたが。 ジョージ・マーチンは、リンゴじゃちょっとおぼつか無いかもわかんない、ていうことで、プロのアンディ・ホワイトというドラマーを・・・、 だから、リンゴ・スターはですね、ほかの3人とスタジオに入りますよね。 そうすると、別のドラムセットがあるわけです。自分のドラムセットじゃないんです。 結局リンゴ・スターは、B面のPS I Love Youではマラカスを担当です。アンディ・ホワイトがボンゴをやっています。 そして18回もやったLove Me Doは、もちろんアンディがドラムス、リンゴはタンバリンを叩いています。 その時リンゴ・スターの脳裏にはですね「あ〜、おれもピート・ベストみたいに首になるのかな〜?」みたいなことがかすめたらしいんです。
352 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/09/12(月) 18:35:20.98 ID:llIfO9DH0
というわけで、ビートルズの記念すべきデビューシングルは、リンゴ・スターがドラムスを叩いていません。 でもこれは、やり直して18回も録っただけあって、もうほんと、今から聴いても隙の無いデビューアルバムに仕上がっています。 改めて聴きましょうか。 〜 The Beatles/ Love Me Do (小林)というわけで、49年前のきょう、歴史が作られました。 リンゴ・スターがちょっと辛い思いをしました。 リンゴ・スターがドラムスを叩いているLove Me Doもあるのはお馴染みだと思います。
□ジョージ・マーチンの物語 ・今回も物語の主人公はジョージ・マーチン。 ビートルズをロック史上最高のアーティストに育て上げたカリスマプロデューサー、として知られる人物である。 時は第二次世界大戦が終わって5年後、1950年の9月。 マーチンはギルドホール音楽学校で専攻したオーボエの演奏家として、あらゆる仕事を引き受けては、病弱の妻との日々の生活をしのいでいた。 ところが、その生活もあまり不安定なため、国営放送直轄の施設、BBCミュージックライブラリーにアルバイトとして働きに出た。 ここで、楽譜などを整理する際には、ちょっとした音楽の知識も役には立ったが、総じて言えば「誰にでもできる事務員の仕事」に過ぎなかった。 そのライブラリーに2ヵ月ほど勤務した後、マーチンはある人物から仕事の誘いの手紙を受けた。 その人物の名前は、オスカー・プレウスといい、 便箋には彼がアビーロードにあるレコード会社EMI、エレクトリック&ミュージカルインダストリーの人間であることが明記してあった。 「いったいどこの誰のコネクションで、僕の所に知らせが来たんだろう?」そう不思議に思いながらも、 マーチンは指定された日の時間10分前にアビーロードにあるEMIのオフィスに到着し、白亜の建物の横に自転車を停めた。 マーチンに手紙を送ったオスカー・プレウスは、ここにオフィスを構えていた。 ふかふかのカーペットとリクライニングチェア、それに石炭をくべた暖炉とグランドピアノがあった。 プレウス氏は窓際の隅に置かれたロールトップの机の側で秘書と向かい合って座っていた。 この若くて美しい女性は極めて冷静な面持ちで、一応確かにマーチンの方を向いていた。 マーチンはまず、最大の疑問を解決すべくプレウス氏に質問をした。 「あの。どうやって私の名前をお知りになったんでしょうか?」
〜 Dick James / Robin Hood 〜 Bill Haley & His Comets / Rock Around The Clock (小林)というわけで、ジョージ・マーチンのお話しをしていますが、彼はEMIに就職することになるわけですが、 彼の仕事のひとつ、ディック・ジェイムス(Dick James)という歌手の「ロビンフッド」という。 この曲はイギリスのチャートでけっこう上がります。14位になります。 なお、ディック・ジェイムスはこの頃は歌手ですが、ビートルズが出てくる頃はもう歌手をやめていて、ビートルズの出版の会社の社長になるわけですよね。 ビートルズの出版を引き受ける人なんですよね。自分で会社を興していて。 そして、そのあと(の曲)は、Bill Haley & His Comets の Rock Around The Clock。 アメリカでは前の年に1位だったんですが、イギリスではちょっと遅れて1956年。 同じ「ロビンフッド」の年の1位の曲であります。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「あの、プレウスさん。私の名前をどうやってお知りになったんでしょうか?」 この質問の主は、後にビートルズをロックの世界の最高のバンドにまで育て上げたカリスマプロデューサー=ジョージ・マーチン。 この時まだ24歳。 答える側は、アビーロードの素晴らしくゴージャスなオフィスの椅子に座る人物、オスカー・プレウス。 EMIの傘下レーベルで、この12年後にビートルズと契約を結ぶパーロフォンの社長である。 プレウス氏はこう答えた。 「いやね、しばらく前からアシスタントを探していたんだけど、ここの仲間の一人 ビクター・カーンに相談してみたところ、 『心当たりは無いが、周りに声をかけてみる』ってことになったんだよ。そしたら、ビクターの友人にギルドホール音楽学校の教授がいて、 その教授から君、ジョージ・マーチンという青年を紹介してもらったというわけだ。」 あとで判ったことであるが、そのギルドホール音楽学校の教授とは、なんとマーチンの恩人で恩師である、シドニー・ハリスン先生のこと。 今回もまた、マーチンを影で支えてくれるゴッド・ファーザーの仕業であった。 こうしてマーチンは、EMIパーロフォンの社員として迎えられた。 週給7ポンド4シリング3ペンスという身分になった。 もちろんこれは当時としてもあまり良い給料ではなかったが、それまでのマーチンの貧困ぶりに比べたら、それはもう有り難い金額であったことは言うまでもない。 そして、マーチンのボスとなったこの人物、オスカー・プレウスの目論見はただ一つ、弱小でEMIのお荷物レーベルともいえるパーロフォンを全面的に立て直すこと、 に他ならなかった。 パーロフォンの社長と言えば聞こえはいいが、実際のところプレウス氏は管理者であり、同時にレコードプロデューサーでもあった。 この時からジョージ・マーチンのクリエーターとしてのキャリアは始まるのである。
〜 Cilla Black/ It's For You 〜 The Animals / The house of the rising sun (小林)1964年の曲がかかりました。1964年、ビートルズが世界でブレークした年、もうビートルズは有名になっています。 一曲目はシーラ・ブラック(Cilla Black)のIt's For You。 シーラ・ブラックはイギリスの、ビートルズの連中と友達ですね。 で、ポール・マッカートニーとジョン・レノンが曲を書くわけです。プロデュースはジョージ・マーチン。 もうポールもジョンも有名になっていて、ジョージ・マーチンだって有名ですよね。もうすごい組み合わせで、シーラ・ブラックという。 それから、同じ年のちょうど今ごろですね、1964年のすごいヒットになっていた、The Animals。イギリスのニューキャッスルのバンドです。 このバンドもこれで世界に売れちゃうわけですよね。The house of the rising sun。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「マーチン君。君は今日から我々パーロフォンの正式なスタッフだ。いいか、君の仕事はこのEMIパーロフォンを全面的に立て直すことだ。 EMIの本社には、パーロフォンを『お荷物レーベルだ』とバカにする者もいるけど、これからはもうそんなふざけたセリフは言わせない。 そんなつもりで本気で頑張ってくれ。頼んだぞ。」 力のこもった熱弁の主は、EMI傘下のレコード会社パーロフォンの社長でレコードプロデューサーでもある、オスカー・プレウス。 マーチン君と呼ばれているのは、「ビートルズを世界一のロックアーティストにしたカリスマプロデューサー」の異名をとる人物、ジョージ・マーチン。 彼の青年期の物語をもう少し続けてみよう。 「マーチン君、最初に君はクラシックの担当になってくれたまえ。ギルドホールで学んだことを生かして欲しいんだ。」 このプレウス氏の命令で、マーチンはドクター・カール・ハース指揮によるロンドンバロックアンサンブルの担当となった。 この楽団を率いるドクター・ハースは実に愛すべき人物であり、まだほんの駆け出しであるマーチンを可愛がってくれた。 ランチをおごってくれたり、チョコレートの詰め合わせを自宅に送ってくれたり、とにかく借金をしてまでも親しい友人にプレゼントをするのが好きな人物。 楽団の編成も木管楽器が多く、マーチンは精神的にもリッチな日々を送った。 ドクター・ハースの指揮、楽団の演奏もさることながら、もっとも勉強になったのは、マイクロフォンの使い方。 1950年代の録音現場では、ほとんどが一発撮り。 マイクの立て方や、楽器までの距離が勝負である。 もちろんこの技術とセンスは、のちのロックのレコーディングでも大いに役立つこととなる。
おつかれさんです
テープ起こしのバイトをお年寄りがやってんの? がんばれえw
360 :
ホワイトアルバムさん :2011/09/15(木) 16:49:18.23 ID:Ki3KkdSh0
小林は屁みたい奴だが、テープ起こしは大変な作業。脱帽です。
英語の発音がヘタクソ
いつの間に雑談スレに w
〜 America / Tin Man 〜 John Lennon & Elton John / Whatever Gets You Thru The Night (小林)2曲1974年のヒット曲が続いています。 アメリカ(America)という、イギリスにいたアメリカの子供たち。お父さんたちがイギリスのアメリカ軍で働いていたんです。 その“アメリカ”のプロデュースをやったのがジョージ・マーチン。Tin Man これはアメリカで大ヒットします。4位まで行ったのかな。 これは(2曲目)ジョン・レノンの、プロデュースはフィル・スペクター、Whatever Gets You Thru The Night。 エルトン・ジョンが参加していることでも有名な1974年のサウンド。
□リクエスト
(小林)採用の方にはイシイのミートボールなどセットにして差し上げています。
アドレスは
[email protected] です。
(福島/18歳男性)ビートルズの曲って、ものすごいたくさんのアーティストがカバーしていますね。
曲によって、元の曲に忠実だったり、大胆なアレンジがされて全く別の曲のように生まれ変わっていたりしますが
僕は原曲に忠実で、なおかつそのアーティストらしさが現れているようなカバーが好きです。 (小林)真面目なんだw。
だけども、REMがカバーしたジョン・レノンのナンバー9ドリームはジョンの原曲以上に好きで、最初このカバーを聴いた時は「REMグッドジョブ!」と思いました。
もし、お勧めのカバーナンバーがあったら…。
(小林)まあ、あれですよね、要するにイギリスだとかアメリカだとか、西洋は芸術は人の真似じゃなくて自分らしさを尊重しますから、カバーバージョンはけっこう難しいんだよねえ。
そうですね、オアシスがやってるジョン・レノン物なんかはどうでしょうか。
〜 REM / #9 Dream
〜 金沢明子 / イエローサブマリン音頭 (小林)カバーバージョン2曲続きました。w。 (1曲目)REMのやつね。(2曲目)これは大瀧永一がプロデュースした有名なイエローサブマリン、金沢明子。 (匿名/男性)名前忘れたんですけど、演歌歌手が歌ったのを思い出しました。 (小林)REM聴いてたら思い出したんだけど、REMは、特にマイケル・スタイプは「ビートルズが大嫌いだ!」って言ったって。 他のメンバーが冗談で、マイケル・スタイプを縛りつけてw、ビートルズの曲を強引に聴かせたっていうw、エピソードがあるんだけどね。
(我孫子市/男性)タイガースの復活コンサートの記事を見ました。なんと、ドラムスのピーが復活、涙が出そうになりました。 タイガースはストーンズのカバーをライブで何曲か演奏していました。田園コロシアムのホンキートンクウーマン良かったです。 ジュリーがコンサートで歌ったウィングスの曲をリクエストします。ちなみにジュリーと誕生日が一緒です。 〜 Wings / So Glad To See You Her 〜 The Beatles/ In My Life (習志野市/女性)ジョージ・マーチンが軍隊にいたというエピソードも意外でしたし、音楽も良かったです。 昔母がカセットテープで聴いていた曲もありましたね。今ではなかなか聴かないような曲ばかりでテンションが上がりました。 リクエストはIn My Life お願いします。私の夏の終わりのテーマソングなのでね。 (小林)意味ありげですね。
□エンディング (小林)ジョージ・マーチンのお話しをしています。 ジョージ・マーチンて、あるいは、この番組を聴いている方がですね、「ええっ?そんな人知らないよ?」って言う方も実際はいます。 ビートルズはもちろん知ってるけど、って。 だけど、プロデューサーとしてのジョージ・マーチンの仕事っていうのを紹介して行くと、これはすごいことをやった人だなって。 ビートルズも兄貴か先生みたいな感じだったわけですよね。 彼のおかげっていうのが良くわかりました。 リクエスト、きょうはけっこう振り幅がありましたね。ええw。イエローサブマリン音頭なんて、どうだったんですかね。 まあ、いろんな幅があってけっこうだと思います。 リクエスト待っております。(略)(プレゼントの)住所と確認のための電話番号なんかも添えていただくとありがたい。こういうことです。
368 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/09/19(月) 00:01:50.04 ID:/LrcQuaM0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年9月18日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 9月18日) ・1968年(今から43年前の今日) ホワイトアルバムの年です。 この日はですね、ビートルズはもうフルに、フルにと言っても時間は夕方の5時から明け方の4時半まで、お馴染みのスタジオ2でお仕事です。 何を仕事でやったかというとですね。あの Birthday、知ってますね。これを20テイク録っています。まず。 プロデューサーはクリス・トーマスです。後にセックスピストルズとかね、日本のサディスティックミカバンドとかをプロデュースする有名なクリス・トーマス。 夜の8時半までには、リズムトラックは出来あがって、そして夜の9時から10時40分、 この1時間40分はですね、実はみんなでこのスタジオの近くにあるポールの家に行って、ハリウッドの、まあこれは伝説の映画。 ミュージカル仕立てだったらしいんですが「女はそれを我慢できない(The Girl Can't Help It)」(を見ています) これはですね、ロックのエディ・コクランとかリトル・リチャード、ビートルズが尊敬する影響を受けた連中が出ている映画だっていうことで。 これをポールの家で見ます。 そしてまたスタジオに帰って来て、仕事をやると。明け方の4時半まで仕事をやるということなんですけど。 スタジオに戻ったら、ほとんど仕上がってるやつに、ピアノ、エレキピアノですね。あとタンバリンとかコーラスをかぶせます。オーバーダビングします。 このコーラスにオノ・ヨーコ、それからジョージ・ハリスンの上さんのパティ・ハリスンも参加したっていう。 だいたいわかりますねw。今から43年前のビートルズの一日。夕方から明け方までですから、ね。 このBirthdayはとてもシンプルなロックンロールです。ボーカルはポールがやっています。リトル・リチャード風のシャウティングスタイルであります。 今でもステージで演奏されている曲です。
〜 The Beatles/ Birthday (小林)やっぱり、これはシンプルなやつだから、けっこう遊びだとか入って、アレンジがけっこう面白いですよね。 やっぱり、クリス・トーマス。それからポールがもう、そうとうクリエイティブな時期ですから。 そして歌詞はですね、これは、簡単な歌詞なんで「ああ、当日でもできるか」ってポールは考えたんでしょうね。 仕事熱心なポールは、みんななんかよりも(スタジオに)早く入って歌詞を書いていたそうであります。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「マーチン君、最初に君はクラッシックの担当になってくれたまえ。ギルドホール音楽学校で学んだことを生かして欲しいんだ。」 こう指示を下しているのは、イギリスの国民的レコードカンパニーEMIの傘下にあった弱小レーベル=パーロフォンの最高責任者にしてプロデューサー=オスカー・プレウス。 当時のパーロフォンは明らかに弱小レーベル。プレウスはこのレーベルを何とか立て直そうと若い才能を探していた。 そして、その立て直しのために呼ばれたのが、マーチン君。 マーチン君とは、十数年後ビートルズを世界一のロックアーティストにした、カリスマプロデューサーと呼ばれることになる人物=ジョージ・マーチン。 入社してオスカーの命令で マーチンはドクター・カール・ハース指揮によるロンドンバロックアンサンブルの担当となった。 ドクター・ハースの指揮、楽団の演奏もさることながら、最も勉強になったのはマイクロフォンの使い方。 1950年代の録音現場では、ほとんどが一発撮り。マイクの立て方や、楽器までの距離が勝負となる。 もちろんこの技術とセンスは、のちのロックのレコーディングでも大いに約立つことになる。 マーチンがEMIに入った1950年には、すでに音楽業界とオーディオ業界で、かなりの議論がなされていた。 それは、アメリカのメディア系資本のレコード会社であるCBSによって開発された「LPレコード」に関するもの。 LPとは“LongPlay”の略称で33回転の30pのレコード盤を指す言葉である。 このLPの普及によって、それまでの78回転(45回転?)、収録時間は片面約4分半と言うシングル盤の長さを大きく上回る20分と言う演奏時間も、 そして音質も魅力であった。 しかし、当時のEMIのお偉方は愚かにも、これがレコード芸術そして音楽業界の伸びゆく形態であることを、誰ひとり認めようとしなかったのである。 まさに、これがお役所体質のEMIであった。
〜 Nat King Cole/ Mona Lisa 〜 Elvis Presley / It Now Or Never (小林)有名なプロデューサー=ジョージ・マーチンの話しをしていますが、その時代を感じて頂こうと代表的な曲が流れました。 エルビス・プレスリー(Elvis Presley)のIt Now Or Never。イタリアの民謡のオ・ソレミヨ('O sole mio)、それを英語の詩をつけた曲で、これは1960年、アメリカとイギリスで大ヒットです。 プレスリーが、ビートルズもとても影響を受けるわけですよね。 そしてその前(の曲)は1950年ですから、まあジョージ・マーチンがEMIに入った頃の、これはもう大ヒット曲。 キャピトルと言うEMIと協定があるアメリカのレコード会社で、ただアメリカの方が技術が進んでいますから、音だけを聴くとめちゃくちゃこっちの方がまだ良いんですよね、アメリカの音の方が。 ナットキング・コールの有名なMona Lisa。2曲お送りしました
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「アメリカのCBSがLPを開発しただと?。そんなもの放っておけよ。だいたいこの貧乏なイギリス国内に、新しいオーディオセットを買い替えられる金持ちの数なんて、ほんのひと握りだ。 そんなもの、うちはいらないよ。78回転4分半のシングルレコードだけで充分だ。」 1950年当時のEMIは、正に絵に描いたようなお役所体質企業であった。だいたいにおいて、ビートルズの成功によってロックの輸出国となったイギリスではあるが、 それでも、質素と倹約を誇りとする国に、レコードはこの頃は贅沢品であった。 なにせ、アナログレコードどころかミュージックテープと呼ばれるカセットでのアルバム販売形態が、最近まで残っていたイギリスである。 当時のほとんどの家庭において、音楽を楽しむなどのシステムはラジオであった。 さらにEMIのある経営陣の意見もそれに拍車をかけた。 経営陣曰く「LPレコードの収録時間は両面で約40分。こんな長時間に及ぶレコードの退屈さ、多くの国民には嫌われるに決まっている。」 「わが国でLPなんていうものが普及するわけがない。」ということである。 しかしこの論法に、後のビートルズのプロデューサーとなるEMIパーロフォンの若き新人社員のジョージ・マーチンは賛同しかねていた。 「うちのパーロフォンの親会社EMIの経営陣は、無能ぞろいだ。先見の明が無い。なにがLPレコードは退屈極まるだ!。 まあ百歩譲ってポップミュージックのシングルであれば目をつぶってもいいだろう。しかし、これがクラッシクの 特にオーケストラものだったら、どうだ。 20分ノンストップで収録できるLPの方がいいに決まっているだろう。こんなの、議論以前の問題だ!。つまんない会社に就職してしまったなあ〜。」 こうした、レコードメディアの過渡期に、その音楽プロデューサーとしてのキャリアをスタートさせた才能あふれるジョージ・マーチンであった。
〜 Jack Parnell & His Rhythm / THE WHITE SUIT SAMBA (小林)この音はどうでしょうか。 これはですね、「白いスーツの男」っていう映画で使われた音なんですが、この音をプロデュースしたのがジョージ・マーチン。 あの、ngng ngngっていう独特のリズムは機械音ですよ。効果音的な。あれは、やっぱりジョージ・マーチンの才能でしょう。 この時代はそういう風な音が使わな(いでしょう)。今だったら自由自在ですけど、この頃はそんな音を使う人はめったにいなかったわけですよ。 それを、サンバのリズムに機械音を使ってやったというのは、やっぱジョージ・マーチンは普通のプロデューサーじゃないですね。この人は。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「なんだよ!。せっかくアメリカのCBSが最新のフォーマットていうことで開発した、33回転のLPレコードも、EMIのお偉方はまったく興味を示さないじゃないか。 こんなんで音楽ファンが飛び付く商品が作れるんだろうか?。まったくつまらない会社に就職してしまったよ。」 こう嘆いているのは、後に「5人目のビートルズ」として、史上最高のロックプロデューサーとなるジョージ・マーチン。 マーチンは1950年9月にEMIパーロフォンに入社して以来、そのお役所的な社風には何度となく幻滅させられていた。 「ああ〜、うちの会社こんなことでいいんだろうか。技術的には2年は遅れているし、なにより決定が遅すぎる。こんなんでアメリカのレコード会社に追いつけるのか。」 マーチンの不安は募るばかりである。 案の定マーチンの不安な予想は的中した。 LPレコードの新規開拓を渋ったばかりに、アメリカのコロンビアレーベルのイギリスでの販売権を、ドイツ資本のフィリップスに持って行かれ、 さらには、同じくアメリカのカントリーミュージックの大手=RCAビクターレーベルの販売権も、宿敵デッカに奪われてしまった。 このように、イギリスのレコード業界の中での未来に関しては、決して明るくはないEMIであったが、 それでもマーチンはレコーディングセッションは大好きであった。 本部の上層部がどうであれ、自分を雇い入れてくれたパーロフォンの社長オスカー・プレウスとの仕事はとても心地よかった。 相性が良く、馬が合ったのかもしれない。 こうして、いろいろと問題を抱えるEMIとそのマイナーレーベルのパーロフォンではあったが、 若くクリエイティブなジョージ・マーチンは、セッションを重ねるごとにその腕を上げていくのである。
〜 Cleo Laine / I Got It Bad and It Ain't Good 〜 Paul McCartney & Carl Perkins / Get It (小林)ジョージ・マーチンの作品、2曲続けました。 彼がプロデュースを手掛けたのは、1955年のクレア・レイン(Cleo Laine)という女性。 この人は50年代、けっこう人気があった歌手ですが、I Got It Bad and It Ain't Good。 そして(2曲目)今聴いたのは、ポール・マッカートニーのソロアルバム。これもジョージ・マーチンがプロデュースしています。 アルバムは Tug Of War 。その中で、男性2人がデュエットですが、片やポール・マッカートニー、片やカール・パーキンス(Carl Perkins)。 カール・パーキンスはBlue Suede Shoesというロックンロールのナンバーで有名な、彼の作品ですからね。 カール・パーキンスは、リンゴ・スターだとか、ジョージ・ハリスンなんか大好きで、「カール・パーキンスを呼ぼうよ」って、 ビートルズが偉くなって、メンフィスから呼ぶんですよね。 そして、ファーストクラスで呼んでですね、もうほんとにもてなして、一緒にセッションやって、カール・パーキンスを送り帰すんですけれど。 カール・パーキンスは「俺はもう、ほんとにすごい思い出が出来た。」って語るわけですが。 こんどはポール・マッカートニーが、またカール・パーキンスを呼んで、この曲でデュエットしました。
□リクエスト
(小林)メールは
[email protected] で受けています。
そして、採用の方にはイシイのミートボールなどセットにしてお送りしています。
(富里市/男性)ジョージ・マーチン・ストーリー大変興味深く聴いております。
我が家にもジョージ・マーチンがプロデュースしたアルバムがあるのを思い出しました。
ジェフ・ベック(Jeff" Beck)が1975年76年に発表したBlow by Blow とWIREDです。
このアルバムを聴いた時、初めてビートルズを聴いた時以来の衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。
リクエストは某携帯電話会社のCMで、小林さんのコレクションにも入っていた曲をお願いします。
(小林)そうです。このジェフ・ベックもジョージ・マーチンがプロデュースしているんですね。
〜 Jeff Beck / Blue Wind
〜 竹内まりや / ボーイ・ハント WHERE THE BOYS ARE
(小林)ギタリストのジェフ・ベックに続いて、竹内まりや「ボーイハントのテーマ」が流れました。
(江東区/女性)(ボーイ・ハントは)ロンドンのアビーロードスタジオで録音されたとか、ビートルズ、少し関係あるかな。
(小林)はい。気を使ってありがとうございます。
ええw。これはきっと旦那の山下達郎もですね、見学がてら絶対に行っていて「こうやって作られたんだ」っていうことをねw、もうもう。
あの竹内まりやよりも、彼は熱心にやったことでしょう。
(埼玉県/男性)エルビスが現れた頃、ロックというものに興味津々。 「これは、踊らずにはいられない」と地球に乗り込んで来た火星人の曲がありましたね。 今の感覚から見ると滑稽なばかりですけど、当時の大人の人たちにはビートルズが宇宙人風に見えたと思うと、なんだか面白くなります。 ということで、火星人の歌を。 (小林)これはねえ、ロックの面白いとこは、色モノをやってもちゃんと色モノっぽくなく、まともに聴こえるっていう。 まあ、世間では色モノって言いますけどねえ。 これは、大ヒット曲ですよ、当時の。 〜 Sheb Wooley / Purple People Eater 〜 The Beatles/ I am the Walrus (小林)というわけでw 不思議な曲が2曲続きましたw。 Purple People Eater あれは何と言いますか、宇宙人、日本語のタイトルが「ロックを踊る宇宙人」みたいなの付いてますけど。 英語は普通にパープルの「紫色の、人を食べるモンスター」なんですよねw。目が一つあって、角が一つあって、その角でロックを演奏するという。 宇宙人とは関係ないんですけど。 それから続いて、ジョン・レノンの I am the Walrus。 もうこれは、ジョン・レノンは何を考えているのか、ちょっと最初はジョージ・マーチンもですね、あんまり良い曲だと思わなかったらしいんですけども。 最初からジョン・レノンの頭の中では、こういうような音楽が鳴ってたわけですね。傑作に仕上がりました。 (千葉市/男性)突然ですがI am the Walrus。 この曲、中学時代に初めて聴いた頃、後半の転調するところにビックリ仰天してしまい、脳裏に焼き付いてしまったんですよねえ。 そのころは音楽なんて何も知りませんでしたから・・・。 (小林)リクエスト、ありがとうございます。
□エンディング (小林)このところ、ジョージ・マーチンの話しを、プロデューサーの話しをしていますけれどもね。 EMIという、ここの会社wね。就職したらEMIの会社、ああいう会社あるみたいですよね。 「あんまり、新しいことをやらなくていい」っていうw、会社だったわけですが。 結局はビートルズが加わることによって、もうビートルズのおかげで・・・。もともと大きな会社だったわけですが。ねえ。 そのEMIも、売るとか売らないって話しが出たり。世の中の遷ろう様は面白いものであります。 皆様からのリクエストも募集しています。
今週は仕事の都合で、記録はお休みします。 録画はしてありますから、来週以後にUpする予定です。
380 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/10/06(木) 23:38:36.40 ID:U6PJ1Ho40
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年9月25日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 9月25日) ・1969年(今から42年前の今日) もう、今ごろはねえ、ビートルズは解散寸前ですよね。 そのころ、ATVというイギリスのテレビの会社が・・・。 これは、BBCが国立じゃないですか。国営のテレビでしょ。 ATVというのは民間のテレビ局。 だから、まあBBCのライバルですが、金を持ってます。 ATVというテレビの会社が、ノーザン・ソングス(Northern Songs)という出版会社の54%の株を取得。 つまり、ATVの会社になっちゃったわけです。ノーザン・ソングス ノーザン・ソングスというのはポール・マッカートニーとジョン・レノンの、つまりビートルズの版権の9割を所有している。 それを売っちゃったわけですよ。 で、ポールとかジョンも株主なわけですけども。ATVの会社になっちゃって。 その後の展開なんですけど、ATV自体は1985年、約50億円ぐらいにしておきましょうかね ちょっといろいろ為替が動いたりしたんで、50億円ぐらいで、 マイケル・ジャクソンとソニーが買っちゃうわけですよね。 だから、マイケルがビートルズの権利を持つことになるわけですが。 今の出版社の名前は、ソニーATVミュージックパブリッシュ(Sony/ATV Music Publishing.)。 でねえ、この頃はね、ビートルズはけっこうバラバラなんですけど、マネージャーがいない状態。 ところが、後半のマネージャーは、ブライアン・エプスタインが死んで、ポール・マッカートニーが実質的にやっていたじゃないですか。 ジョン・レノンは、これはおもしろくない、ていうことで、ミック・ジャガーに紹介されて、 元ストーンズのマネージャーをやっていたユダヤ系のアメリカ人の会計士、アラン・クライン(Allen Klein)に頼むわけですよ。
381 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/10/06(木) 23:39:56.01 ID:U6PJ1Ho40
で、アラン・クラインがいろいろビートルズにお金を・・・ もうほら、ビートルズはお金を、いろんな大きな会社に取られていたわけですけども。そのお金が返ってくるようにしたわけですけども。 その頃の帳簿を見るとですね 「ああ、ズサンだなあ。もっともっと、俺は搾り取ってやろう」って思ったとか、思わなかったとか伝えられています。 一方ジョージ・ハリソンはね・・・ポールとジョンが持っていくわけですよね。 そうすると、自分もあんまり曲を書いても使ってもらえないってことで。 彼はまあ、一契約ソングライターみたいな感じだったんですよ。 「どんな曲を書こうが、演奏しようが、結局はノーザン・ソングスだもんなあ」っていう。 そんな皮肉の気持ちをこめて、オンリー・ア・ノーザン・ソング(Only A Northern Song)という曲をw 作ってます。 ちなみに、ジョージ・ハリソンは後になって、自分の出版社、ハリソングス(Harrisongs Ltd.)ていう会社を立ち上げるわけですが。 さあそれじゃ、Only A Northern Song。ジョージのそんな意味も込めての作品です。 〜 The Beatles/ Only A Northern Song (小林)1967年のサージェントペパーの頃、録音された、ということですね。 まあジョージ・ハリソンは、実はお金にうるさいメンバーでした。 ポールとジョージが、一番そういう意味では、しっかりしていたんでしょうかね。 一番お金に無頓着だったのが、ジョン・レノンだと言われていますが。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「マーチン君、君はまだ入社したばかりだ。当然仕事の内容も、まだ解らないことだらけだろう。 よし、とにかく私について来て、スタジオでの仕事を覚えてくれ。」 こう語っているのは、イギリスの国民的なレコードカンパニー=EMIの傘下にあった弱小レーベル=パーロフォンの 最高責任者にしてプロデューサー、オスカー・プレウス。 マーチン君と呼ばれているのは、もちろん、あのビートルズを世界の頂点に導いた スーパーカリスマプロデューサーで 今では イギリス王室から「サー」の称号を授かったジョージ・マーチンである。 マーチンが音楽学校の恩師シドニー・ハリソンの紹介でこのEMIパーロフォンに入社したのは1950年の9月。 マーチンは24歳の青年であった。 名門ギルドホール音楽学校の出身で、ピアノとオーボエを専攻した。 という経歴から、最初はクラシックのレコーディングに立ち合うことが多かったが、 とにかく弱小レーベルであるパーロフォンは人手が足りない。 ロンドンという土地柄、人間そのものが足りていないわけではないが、この仕事に適した人材、という事となると、その数はグっと絞られてくる。 いつの時代も どこの国のどの業種でも、そういった問題は同じことなのだろう。 マーチンを気に入って採用してくれたパーロフォンの社長オスカー・プレウスは、この時すでに60歳くらいであった。 彼は14,5歳でエンジニアの見習いとしてスタートした。 まだ、エジソンがレコードの原型となるものを発明してから、それほど時間が経っていない頃の話しである。 プレウスの時代には、ほとんどのエンジニアはそういった機械をレコーディングの現場に使えるように 自分達で工夫して特製のものを作っていた。 こうしてプレウスは何年もかかって地位を高め、ついにはパーロフォンの社長になったわけである。 彼こそが、本当の意味で経験を積んだ「叩き上げ」であり、マーチンが信頼を置くボスであった。
〜 Sidney Torch and his Orchestra / Barwick Green 〜 Helen Shapiro/ YOU DON'T KNOW (小林)2曲続きましたが、(2曲目)ヘレン・シャピロ(Helen Shapiro)のYOU DON'T KNOW 。これは1961年のイギリスのナンバー1ソング。 イギリスでこの曲で、もうすごい人気者になった女の子ですけども、 約一年後にはビートルズはこのヘレン・シャピロの前座を務めるんですよね。 彼女の楽屋はテレビがあるけど、自分達の楽屋はテレビが無いっていうんで、シャピロの楽屋へ行ったり、仲良くするっていうか。 ヘレン・シャピロにビートルズは可愛がってもらった、特にジョン・レノンが好きだったっていう話しがありますが。 そしてその前(1曲目)Sidney Torch and his Orchestra。これはちょっとわからないでしょう。 これは実は ジョージ・マーチンが1951年。50年に(EMIに)入るわけですからね。51年にプロデュースをやるわけですが。 BBCのラジオの番組アーチャー(The Archers)の曲でBarwick Green ていうんですが、ちょっとこれ、わかんないでしょ。 この次の話しで、シドニー・トーチと彼のオーケストラの話しが出てきます。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「マーチン君、今度の金曜日だがEMIの本社からお呼びがかかったんで、私はどうしてもスタジオへ行けないんだ。 たしか、シドニー・トーチの楽団のセッションが入っていたけど、君の方で引き受けてもらえないだろうか。 なあに、曲は決まっているし、譜面もできてる。シドニーはいいやつだし、心配はいらんよ。」 1951年のある日、こう言い渡されたジョージ・マーチンは若干24歳。まだ、駆け出しである。 そして、仕事をたのんだ側、つまりマーチンの上司の名はオスカー・プレウス。EMIパーロフォンの最高経営責任者、つまり社長。 弱小レーベル=パーロフォンの社長でありながら、60歳にして今だ現場主義を貫くプレウスは、正にマーチンの師匠的な存在であった。 今回もライオンがかわいい我が子を崖から突き落とすかのように、試練を与えた。 それにしても、マーチンはまたしても困ってしまった。 いきなり、レコーディングの現場プロデューサーという、責任ある仕事を言い渡されてしまったのである。 さあ、どうしよう。シドニー・トーチ楽団はレコードでは聴いたことがあるけど、本人に会ったことすらない。 「いいさ。こうなると出たとこ勝負だ。せめて、ちょっとは上等なシャツと、こないだ買ったネクタイでもしていこう。」 そう気楽に考えることにしたマーチンは、金曜日の朝を迎え、EMIの第一スタジオに出勤すると、総勢60名のオーケストラがスタジオで本番を待っていた。 さすがにこの光景に、新米のジョージ・マーチン青年は面食らってしまった。 なんとかバンドリーダーのシドニー・トーチに挨拶をして、今日の現場にはプレウス社長は来られないという事を説明した。 シドニーの顔がにわかに曇った。 「そうかあ…。じゃあ、なんとかしなきゃな…」 そうつっけんどんに話すシドニーを見て、「しまった!。信用されていないな。」と感じ取ったマーチンは、急に不安に襲われた。 しかし、これが良い教訓となり、マーチンの精神力を鍛えてくれた。 これ以来、マーチンはどんな大舞台でも、まったく動じない心臓を授かったのである。
〜 The Beatles/ All You Need is Love (小林)マジカルミステリーツアー(Magical Mystery Tour)に入っているお馴染みの曲All You Need is Love 。 これはやっぱりテーマっぽいですよね。愛が必要っていう。 ちなみに、1967年に30数カ国に衛星中継で生放送された「アワーワールド(Our World)」ていう番組でビートルズはオーケストラと一緒に生で、 一部分は録音ですが、生で放送します。 ミック・ジャガー(Mick Jagger)やエリック・クラプトン(Eric Clapton )が来ている。 この放送はですね、白黒で放送されるんですよ。このころはね、白黒からカラーに移るちょっと前なんですよね。 で、最近見ることができる映像は、あとで色を付けたやつを見ることができます。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「レコーディング技術?いやそれだけじゃない。あらゆるテクノロジーにおいて1950年当時の状況は、21世紀の今に較べると、まるで何世紀も前に戻ったかのようだね。」 こう語っているのは、後に「5人目のビートルズ」として、史上最高のロックプロデューサーとなるジョージ・マーチン。 マーチンはさらに話しを続けた。 「あのころ、音楽がインターネットからダウンロードするもんじゃなかったし、CDもなかった。いやそれどころか、ビニールのレコード盤にプレスされることも無かったんだよ。 あったのは、今でも割れてしまいそうなセラック盤と呼ばれるものだけで、78回転の蓄音機の上で、ギシギシと音を立てながら回っていたね。 ハードディスクレコーディングなんて存在するはずもなく、テープレコーダーもまだ開発されていなかった。 演奏された音は、直接レコードに落とされ、スタジオにある『旋盤』だよ。旋盤を使ってその場でカッティングされたんだよ。 当然、オーバーダビングなんて不可能だし、とにかくレコーディングの現場を仕切るプロデューサーの仕事は、生のサウンドをできるだけ原音に忠実に記録することに終始していたね。 ただ、毎日毎日そういう作業を続けていると、ある疑問が生じてくる。 『これじゃあ、いつまで経っても生演奏には敵わないなあ』ってね。 じゃあ映画の現場はどうなんだ?って考えると、 監督は舞台芸術とは違う特殊撮影とか、込み入った編集とか、クリエイティブな方法を次々と考え出して、現実とは違ったファンタジーを創りあげている。 『音楽の現場も、どんどんそうなって行くべきだ。』って僕は考えるようになったんだ。 とにかく、常識という概念を常に壊して行きたいって、目標を持っていたわけだ。 60年代中期以降のビートルズとの仕事は、まさにそういう世界観だったね。」
〜 The Beatles/ Being For The Benefit Of Mr. Kite! (小林)いかがですか。ビートルズのBeing For The Benefit Of Mr. Kite!。 ジョージ・マーチンが言うには、彼は50年代から入って、まあ、なんにも、今のレベルで考えると何も無いような時代から・・・。 やっぱり映画の方が先に行ってるわけですよね。映画はいろいろ編集したり、音を重ねたり、絵を重ねたりとかいろいろやって。 音でそういうことができないものかっていうことで、ええまあ、けっこうみんなやってないような事を、ジョージ・マーチンそしてビートルズと一緒にやるわけですからねえ。 そうとうすごいものが出来たわけですね。 その一つがBeing For The Benefit Of Mr. Kite!。 1967年のサージェントペパーズ(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)の中に入ってます。
□リクエスト
(小林)メールは
[email protected] 。
リクエスト採用の方にはイシイのミートボールなどセットにしてもれなくお送りしています。
(船橋市/男性)31歳、ビートルズの大ファン。
学生時代に聴きまくっていたので、今では自分から聴く機会はほとんどありません。
そうは言ってもリマスター盤はさすがに購入しました。熱心に聴いたのはモノだけです。(小林)いやあw
それでもラジオから流れてくると、一発で心を奪われます。
この時初めて「やっぱり、ビートルズはすっげえな。やっぱり好きなんだなあ」と痛感させられます。
リクエストはCarry That Weight。ポール曰く「ただ、あの頃の息苦しさ、辛さを曲にしただけだ」とのことですが
学生の頃の自分には「少年よ、その重荷は自分自身がずっと背負い続けて行かなきゃだめなんだよ」という言葉に、頬を打たれたくらいの思いをいだきました。
Golden SlumbersからThe End までをよろしくお願いします。
Carry That Weightに当時、事故を起こして不参加だったジョンの声が入っていないのが唯一残念です。(小林)かなりのファンです。
〜 The Beatles/ Golden Slumbers / Carry That Weight / The End
〜 The Beatles / Octopus's Garden (LOVE) (小林)これはなかなか良く出来ていると、改めて聴いて思いますよね。 ジョージ・マーチンのお話しをしていますが、ジョージ・マーチンと息子がね。 ジョン・レノンとかジョージ・ハリソンとかはもちろん不参加、リンゴ・スターも「任せたよ」ぐらいでしょう。 ポール・マッカートニーの指示で許可を得て、自分たちがビートルズを造り直したLOVE。 ほんとにビートルズへの愛が感じられるアルバムの中に入っている。 だから、Good Night を上手く使ったりしてましたよね。Octopus's Garden 。 いかがでしたか。リンゴ・スターの曲。 (竜ヶ崎市/女性) 9月3日、日帰りで「たこ焼き食べ尽くしツアー」という、会社のたこ焼き大好き人間を集めて、大阪まで本場のたこ焼きを味わいに行きました。 たこ焼きもソースのみならずいろんな食べ方があるんだなあ、と勉強にもなりました。 たこ焼きを食べているうちに、無性に聴きたくなったのが…これ。 (小林)そういうつながりで来ましたかw。たこ焼きつながりでね。w
(千葉市美浜区/男性)最近ジャズもかかって、ジャズも好きな私にすごく楽しいひと時になっています。 実は、ジャズにハマったのはビートルズが原因なんです。 ウエス・モンゴメリー(Wes Montgomery)のA Day In The Lifeがすごくいいと聞いたのでレコードを買ったのがきっかけでした。 それ以来、ジャズも大好きです。 ピアノトリオでAin't It Sweetをやっているのがあるんです。 (小林)まあ、Ain't It Sweetはスタンダードだから、いっぱいあるはずですよね。 リクエストはウエスをお願いします。 (小林)ギタリストで、メロディーのところが独特の奏法を発明した人です。ウエスモンゴメリーのバージョンで〜 〜 Wes Montgomery/ A Day In The Life 〜 The Beatles/ Get Back (小林)(2曲目)ええw。お馴染みのシーンですけどもね。アップルの屋上のシーンですが。 その前(1曲目)は60年代は特に人気があったジャズ系の、と言ってもリズム&ブルースなんかもやっていた人で リズム&ブルースのファンも多いんです。ウエス・モンゴメリーのギターでビートルズ。ビートルズに挑戦しました。 (14歳/不明)私がビートルズを知ったのは、小学生になって間もない時。 父がビートルズが好きでよく聴いていて、中でもGet Backが好きで、私もそれが好きで、ぜひ流して下さい。 (小林)応えしました。リクエストに。
□エンディング (小林)プロデューサー=ジョージ・マーチンのお話しをしていますが。 ジョージ・マーチンも素晴らしい才能を持っていたわけですけが、やっぱり ビートルズとねえ、やった、ていうことが ビートルズの7年間ぐらいですかねえ。ジョージ・マーチンとの。 あれは、大学院みたいな、お互いに先生(みたいな)。最初はジョージ・マーチンが先生だったかもわかんないけど。 ポールだとかジョンだとかねえ、あとジョージなんかの才能が出てくるわけですから。 それはそれは、すごいクリエイティブな、幸せな、幸せかどうかは判らないけど。苦しい7年間だったのかな。(そんな)感じがします。 リクエスト待ってます。
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ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/10/09(日) 00:04:11.39 ID:JJS12SIC0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年10月2日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー( 10月2日) ・1962年(今から49年前の今日) これはまあ、ビートルズの話じゃないんですが。 クッキーズ(The Cookies)というグループのチェインズ(Chains)という曲が発売になっています。 これはねえ、おそらくほとんどの方が知らないと思うんですが、 キャロル・キング(Carole King)って知ってますかね。 「君の友達」を作ったり、タペストリー(Tapestry)というアルバムが、もうアルバムが売れるんだって、何百万枚も売って。 アルバムが売れるんだっていうことを、みんなに知らせた人、ですけども。 作曲家であり作詞家でもあったわけですが。 キャロル・キングの曲なんです。 ビートルズは、ポール・マッカートニーとジョン・レノンは自分で曲を作るようになりますよね。 それで、いろんなヒット曲を勉強するわけです。 特に勉強したのは、キャロル・キングの曲も勉強したと言われていますが これをビートルズはカバーすることになります。 いいですか、今から49年前発売になった曲をビートルズがカバーするんです。 それも、すぐカバーしちゃいます。 この頃は、ある曲が出ると、いいなと思ったらね、けっこういろんな人がカバーして、ドーンと出していた時代なんですよ。 今だと、あるアーチストが曲を出すと、その曲がカバーされる、ドーッと出ることはないじゃないですか。 とくに ヒットしそうなアーティストだとか、ヒット曲はこの頃は いろんな人がカバーするんです。 で、ビートルズはカバーの仕方がとても上手かったバンド、なんですよね。 ビートルズはオリジナルを作ったんだけど、1枚目のアルバムでも2枚目のアルバムでも、オリジナルは8曲。残りは6曲はカバーでした。 だから、ビートルズはいかにカバーが上手かったか、ていう話なんですけど。
それじゃこの、今から49年前に発売された、ビートルズがカバーした曲を聴いてみますね。 ビートルズのバージョンがハードなギターのリズム&ブルースですが、 これはまあ、ちょっとしたポップスという感じがします。では 〜 The Cookies /Chains (小林)いかがですか。1962年、49年前に出された、キャロル・キング(Carole King)が作曲した曲です。ザ・クッキーズのチェインズ。 どうですか、これ初めて聴いていらっしゃる方、なんか昔のリズム&ブルース風だなっていうふうに…。 そうなんですよね。キャロル・キングはこういう風な曲を書くのが上手かったですよね。 ちなみに、同じ頃にね。ちょっとこの前になりますが、62年の夏には… ♪Everybody's doin' a brand new dance now.♪ C'mon baby do the loco-motion 〜♪(小林歌う)てあるじゃないですか。 あれはキャロル・キングですよね。 ところが、ビートルズはあんな有名な曲はカバーしなかった。渋い曲をカバーしたわけですよね。w そのカバー曲、オリジナルを聴いて頂きました。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「1950年の9月にEMIパーロフォンに入社して、一途にレコーディングの現場で働いてきたんだけど、この僕にもやっとヒットの兆しが見えたんだよ。」 こう語るのは、あのビートルズを世界の頂点に導いた、スーパーカリスマプロデューサーで今ではイギリ王室から「サー」の称号を授かった、ジョージ・マーチン。 そのヒット曲のアーティスト名はジョニー・ダンクワース(Johnny Dankworth)&ヒズオーケストラ、曲名はExperiments With Mice 。 この楽団のリーダーであるジョンと、人気シンガーであるクレオ・レーン(Cleo Laine)とは、当時恋人同士であり、ジョンのバンドのシンガーでもあった。 そして二人は、マーチンとは公私ともに親友であった。 こうしてマーチンは入社して4年経った1954年までには、パーロフォンの抱えるアーティストのほとんどのレコーディングに立ち会い、アレンジをし、管理職になった。 このころ、本社であるEMIの会長には、後のビートルズ物語にも登場する、貴族出身のジョセフ・ロックウッド卿(Sir Joseph Lockwood)が就任。 当初ロックウッドは、社内ではあまり人気が無かった。 というのも、貴族出身ということもあり、お金にあまり執着せず、そのせいか仕事のスピードが遅かったためであった。 しかしその反面、会社組織を監視する能力に長けていたため、EMIを基から締め直すことにより業績を上げていた。 しかし、現場主義者であったマーチンは会長のやり方には不満があった。 まず、賃金が安過ぎること。入社三年目で、まだマーチンの週払い給料は、いわゆる貧困層と同じレベルの12ボンドとちょっと。 もちろん仕事は大好きであったが、これが生活して行くとなるとかなり厳しいのが現実。 ヒット曲の影には、こうした実情があったのである。
〜 Johnny Dankworth / Experiments With Mice 〜 The Beatles/ Devil In Her Heart (小林)2曲続きました。 ジョージ・ハリソンがボーカルをとっていました(2曲目)Devil In Her Heart。1963年。 その前は(1曲目)ビートルズのプロデューサー=ジョージ・マーチンが、まだビートルズなんかが入って来るだいぶ前ですよね。 1956年、彼がプロデュースして、イギリスのチャート7位まで上がりました。 さっきのお話しにあった、ジョニー・ダンクワース&ヒズオーケストラ。そしてExperiments With Mice。 これは「3匹のネズミとの実験」ということで、内容がけっこう、あの、何というんですかね、ジャズの有名な人たちをちょっとパロッたような話しで。 昔々、3匹の目の見えないネズミがスタジオに住んでおりました。 1匹はビリー・メイ。ビリー・メイの音楽が聞こえると、これはみんな知ってるわけです、ビリー・メイ・オーケストラ。 その頃、フランク・シナトラが歌っていたバンドなんですよね。 それからもう一匹目は、ベニー。ベニー・グッドマン、ですよね。 で、3匹目は、ミラー。これは、グレン・ミラーっていう、皆さん聴いたことがありますか。 そういう有名なジャズミュージシャン、ジャズオーケストラの音楽を奏でながら、なおかつジェリー・マリガンというネズミもいましたとか。 ラリー・フェネガンていうのもいましたとか、でそのネズミとネズミを追い出すような実験の音楽、ということで。 まあ、ちょっとした音楽的なオチがあったわけですが、お分かり頂けたでしょうかw。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「今でもそういう傾向はあるんだけど、音楽業界、映画業界など、クリエイティブな職種における若い時の給料なんて安いのが当たり前ってところがあるよね。 なんせ会社側は「面白い仕事をやらせてやってる」って思ってるんだからね。」 こう語っているのは、後に「5人目のビートルズ」として、史上最高のロックプロデューサーとなるジョージ・マーチン。 EMI時代は、かなり安い給料でこき使われたようである。 これは、パーロフォンの最高責任者、つまりレーベルの社長であるオスカー氏にも言えることであった。 とても世間並みと言える年収ではなかった。 オスカー氏はエンジニア上がりであり、多くのレコーディング機材における発明をもたらした人物でありながら、勤続50年の退職をねぎらってEMIがくれた物は、 退職金ではなく、ブリタニカの百科事典一式だけであった。 こういった現状であったから、すでにヘッドハンティングの誘いもあった。 デッカのフランク・リーは、マーチンを年間1200ポンドというのが報酬で引き抜きたい、と言ってきていた。 マーチンは迷った。なにせ、前の年には長女のアレクシスが生まれており、マーチン家は経済的にかなり苦しい状態だったからである。 そこでマーチンが起こしたアクション、それはデッカからの条件を正直に本社EMIの経営陣にぶつけること。 ある日マーチンは取締役であるC・H・トーマスに会いに行きこう切り出した。 「ここでの仕事は楽しかったです。ありがとうございました。でも、お金が充分ではないので別の仕事に就こうと思います。」 マーチンの発言は単刀直入。これ以上分かりやすくは語れないほどであった。 これに対し、取締役のトーマスはこう切り返した。 「それではマーチン君、我々もデッカと同じ金額を約束しよう。それでどうかね?」
〜 Barrett Strong / Money (thats what i want) 〜 The Beatles/ You Really Got a Hold On Me (小林)2曲続きました。(2曲目)You Really Got a Hold On Me ビートルズの曲だと思っているでしょうw。 ビートルズの、実はカバーした曲ですよね。これはミラクルズ(Smokey Robinson & the Miracles)のヒット曲、1963年の夏のヒット。 それをもうすぐビートルズは取りあげて、冬の前、11月にはヒットさせているという。 そしてその前(1曲目)Money。 これは有名なモータウンレコードの創立者であります。 社長から会長になったベリー・ゴーディ(Berry Gordy, Jr.)有名ですよね。 彼は昔はジャズのミュージシャンで作曲家でもあった。彼が作った曲 Money. 歌ったのはモータウンのバレット・ストロング(Barrett Strong )ていう、ソウルシンガー、リズム&ブルースシンガーであります。 というわけで、きょうはビートルズのカバーのお話しをしましたけど、ビートルズはモータウンの渋い曲は好んでカバーしましたよね。 2曲、ビートルズでカバーがらみ、でお送りしました。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「ここでの仕事は楽しかったです。ありがとうございました。でもお金が充分ではないので、別の仕事に衝こうと思います。 と、28歳のジョージ・マーチン。 これに対し、EMIの取締役C・H・トーマス氏はこう切り返した。 「それではマーチン君、我々もデッカと同じ金額を約束しよう。それで どうかね?」 マーチンは考えた。いま年収1200ポンドを保証されても、昇給はどうなのか?。将来性はあるのか?。 自分には病弱の妻とまだ1歳の娘がいる。この先家族を養いやっていけるのか? マーチンには判らなかった。 しかし、ただ一つ言えること、それは、自分がパーロフォンに在籍するアーティストがすごく好きであること。 そして、まだまだスタジオで試してみたいことが山ほどあるということであった。 結果、マーチンはパーロフォンに残ることにした。 1200ポンドの年収は1100ポンドに値切られてしまったが、代わりに将来自分をパーロフォンの最高責任者、 つまり社長にしてもらうことを条件として認めさせたのである。 こうしてマーチンは自分の庭で、自分の目指すレコーディングとヒットレコードを作り続けることを優先した。 マーチンはその日のうちに、自分を誘ってくれたデッカレコードのフランク・リーに丁重なお断りの電話を入れた。 もちろん デッカの社内での根回しを終えていたリーは、激怒した。 こうして、EMIパーロフォンにおけるジョージ・マーチンのキャリアは再出発した。 しかし、まだ会社への不満はあった。 もともと金持ちの資本家が集まってスタートしたEMIグループであったが、娯楽音楽の超先進国のアメリカに比べ、そのシステムはまだまだ遅れていた。 この先マーチンは、このパーロフォンをどう引っ張って行くのか、自分でもよく判らなかった。 これはまだロックの生まれていない、1954年の話である。
〜 Paul McCartney / That's All Right Mama (小林)これは古い音楽ファンは気が付いたと思いますが、エルビス・プレスリーのむかーしのヒット曲。 まあヒット曲といっても、プレスリーが本格的に出てくるのは1956年のハートブレイクホテルですが。 その前にプレスリーが出していた 小ヒットですよね。 だから、プレスリーファンが取り上げる曲なんですけど。 ポール・マッカートニーはプレスリーの真似もうまいですよね。 プレスリーのカバーをやっていました。 これは1989年のロシアンアルバム(バック・イン・ザ・U.S.S.R.(原題:Снова в СССР))に入っています。That's All Right Mama 。
□リクエスト (小林)その前に、この番組のスペシャルパーティ、公開録音のご案内をしておきましょう。 恒例ののスペシャルパーティです。 10月26日(水)夜7時から、舞浜のクラブ・イクスペアリで開催されます。 迎えるのが、鈴木雅之そして鈴木聖美。この二人をゲストに迎えます。 彼らはオリジナルも歌いますし、カバーもやります。 僕は実はビートルズをやるのを聴いていません。 特に、まーちんがビートルズをやるのはだいたいわかりますけど、 お姉ちゃんがあのスタイルでビートルズをどういうふうに料理するのかちょっと楽しみです。 このパーティに合計75組150名の方を招待いたします。 BAYFMのホームページ 携帯サイト、またはハガキ、FAXでも受け付けております。 住所〒261-7127 BAYFM「ビートルズから始まる」 パーティ係 FAX 043-351-8011 楽しみにしてますよw。食べて飲んでw、そういうパーティです。
(草加市/男性) 8月の終わりに、日比谷の野外音楽堂に行ってきました。 盆踊りで浴衣姿の女性、屋台の甘辛い臭いなど、何か楽しい事が起こる予感を感じました。 そんな気持ちの良い環境の中で、完全に場違いだったものが一つ、MP3です。 携帯音楽プレーヤーは場の空気まで読めません。デジタルは有り難いけど、まったくもって要らない時もある。 開かれた世界に、閉じ籠った個人の箱庭を持ち込んではいけませんね。 (小林)そうですかねえ。若い人はそんなふうに感じていないかもよw 〜 プライムスター/ フラッシュバック夏 〜 The Beatles / Anna (Go To Him) (横浜市/男性)いつも楽しく聴いています。 ビートルズに関する逸話は大変勉強になります。初期のビートルズの隠れた名曲Anna をリクエストします。 (小林)これは隠れた、カバー名曲って言うかね、こういう曲はビートルズは書いてないよね。 ちょっと50年代ぽさが残ってるような、アーサー・アレキサンダー(Arthur Alexander)のヒット曲をビートルズが…。 きょうはカバーの話しをしていますが、なかなか、カバーの選曲が上手いね。
(匿住所/男性)洋楽の聴き始めが1974年だったんで、アメリカ(America)のTin Manは懐かしかったです。 プロデュース、ジョージ・マーチンが関わってたんですねえ。 まさに、番組のタイトルのようですねえ。 急にこの曲が聴きたくなったのでリクエストします。 74年春ごろから、本格的にラジオ番組などを聴き始め、洋楽ランキングをノートに録るのが楽しみでした。 (小林)うわあ、すごい。 これはどちらかというと、曲とかそういうもんじゃなくて、3分の遊びみたいなもんで、 当時は1974年てのは、石油危機が残っていたんですよ。そうとう。 日本なんかも石油危機で大変なことになっていましたよ。 たとえば、石油ばっかりじゃなくて、石油から作るプラス千ックが不足したりとか、そんな時代だったんですが。 これは“時局評論”っていうか、「エネルギー危機'74」とでも言うべきで、アナウンサーがインタビューするわけですよね。 そうすると、答えがヒット曲のサビだったりタイトルだったりして“ああ、面白いなあ”っていう、そんなもんですね。 〜 Dickie Goodman / Energy Crisis '74
□エンディング
(小林)かなり、ジョージ・マーチンの話なんですけど、けっこう面白いですよねえ。
彼が28歳の時にもう結婚して、娘が生まれて、もうほんとに給料が安くて、結局、会長のところに談判しに行って、給料は倍になっちゃうわけです。
二倍になっちゃうわけです。二倍でも安かった。
だけど、ジョージ・マーチンが残ったのは、自分が面倒見てるって言うとおかしいですが、
自分のレーベルが契約しているミュージシャンが大好きだったから、残った。
彼が残ったから、ビートルズもあるわけですよねえ。ビートルズもジョージ・マーチンによって引っかかるわけですからねえ。ええw。
ジョージ・マーチンの力も大きいってのが良くわかりますよねえ。
リクエストの方よろしくお願いします。
リクエスト採用の方には全員にイシイのミートボールなどをセットにしてプレゼントしています。
アドレスは
[email protected] です。ハガキやFAXでもけっこうですよ。なかなか最近はそういうのないですけど。
恒例のこの番組の公開録音が、10月26日夜7時から。
鈴木雅之、鈴木聖美を、弟とお姉ちゃんのコンビを迎えて。
75組150名の方を招待します。
詳しくはBayFMのホームページ、携帯サイトをチェックしてください。
>>401 訂正します。
○ Rhymester / フラッシュバック、夏
× プライムスター/ フラッシュバック夏
406 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/10/12(水) 22:55:38.21 ID:vxZZ5/fM0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年10月9日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(10月9日) ・1968年(今から43年前の今日) 68年はホワイトアルバムの年であります。インドから帰って来てアルバムを作っているわけです。 メンバーの証言によると、もうこの頃は、けっこう録音はバラバラなんですよ。 グループとして、というよりも、一つのスタジオではジョン・レノンはジョン・レノンを中心にジョン・レノン・オーケストラをやっている。 一つのスタジオは、ポール・マッカートニー・オーケストラをやっている。 また、ジョンやポールがいないところでは、ジョージがジョージ・ハリソン・オーケストラをやっているよ。 そんな感じの録音スタジオの風景なんですけども。 実に、あれですよね。スタジオ2、いつものビートルズのスタジオと、スタジオ1を使っています。 そして、夜を徹してホワイトアルバムのレコーディングが、それぞれが勝手にやったりしてるわけですよ。 面白いですよね。これは独特の競争状態が生まれると思いますよ。 ポールはポールで、ジョンに負けてなるものか。ジョンも・・・。 ただ このホワイトアルバムはですね、インドに行った時に、インドへ行くと、頼りにして行ったインドのお坊さんがですね、 もうほんとに碌な代物じゃない、ってのが判るわけですよね。 それでもう諦めちゃって、自分たちは曲を書くことに集中するわけです。 だから、ほとんどのホワイトアルバムの曲は、インドで創られた。 インドでは大変な経済的効果があったんですが。 さあ、スタジオ1ではポールが一生懸命 Why Don't We Do It In The Road? これをやっています。 これはですね、インドで道端で猿が交尾していたのを見て出来た曲。 「俺たちも道でやろうよ」っていう曲です。 ジョン・レノンは「こんな歌は俺が歌ったほうが絶対に良かったはずだ!」と発言しています。 さあ、それではその歌を改めて聴いてみましょう。
〜 The Beatles/ Why Don't We Do It In The Road? (小林)これはまあ、前衛的っていうよりかは、もうお遊びで、ブルースっぽい曲だから、もう適当にやっていますよねw。 歌詞もなんにも入ってないんですよ。誰も見てないから路でやろうよ、ってポール・マッカートニーらしいw感じで、勢いでやっています。 こんなのもホワイトアルバムに入っているわけですよね。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「よし。デッカレコードからの誘いも断わったし。EMIの経営陣も、まずまずの条件を認めてくれた。今日からは、新しい出発だ。頑張るぞ!」 こう語っているのは、あのビートルズを世界の頂点に導いたスーパーカリスマ・プロデューサーで、今ではイギリス王室から「サー」の称号を授かったジョージ・マーチン。 しかし、新しい出発をしたとはいっても、お役所体質のEMIグループには、まだまだ問題があった。 マーチンの1950年代当時の会社に宛てた文章が残っているので、少し紹介してみよう。 「反省すべき第一の具体的な実例は、ヒットメーカーのロン・グッドウィン(Ron Goodwin)と再契約できなかったこと。 彼は3枚のレコードを出したが、ラジオでかかったのはただの一回だけ。 つまり、我々が充分宣伝をしてあげなかったから。 それと、アメリカでの宣伝のズサンさ。 これによって、イギリス人アーティストの印税の受け取り額が、通常よりかなり少なくなっている。 これではグッドウィンが契約書にサインしなくても、当然ではないだろうか。」 マーチンが会社に対して グッドウィンの事を強く主張したのには理由があった。 それは マーチンとグッドウィンがプライベートでも友人であったこと。 グッドウィンは新進気鋭の編曲家であり、バンドをどういうふうに持っていくか、などのセンスに長けていた。 マーチンとは、後にビートルズの出版を管理することになるディック・ジェームズ(Dick James)のセッションで知り合い、最初から馬が合った。 すでにプライベートでも、家族同士で付き合うようになり、マーチンが会社の部下であったジュディと再婚した際には、結婚介添え人を買って出てくれたほどである。 こうした、マーチンの人間同士の付き合いを大切にする姿勢が、後のビートルズとの仕事においても功を奏した、と言っても過言ではないだろう。
〜 Ron Goodwin And His Orchestra / Skiffling strings 〜 BUDDY HOLLY & THE CRICKETS / That'll Be The Day (小林)最初のインストゥルメンタルは、話しにあったロン・グッドウィンと彼のオーケストラで Skiffling strings。 これは、ジョージ・マーチンがプロデュースいたしました。 ジョージ・マーチンがプロデュースして、このロン・グッドウィンのバンドを扱うセンスはいいので、とても大切にしたかったんだけど。 いい曲を作っても、レコード会社が売ってくれないから、逃げちゃった。逃げられた人ですよね。 これはもちろん、ジョージ・マーチンがプロデュースした1957年の作品。 同じころ、イギリスで1位を走っていたのが、バディ・ホリー&クリケッツ(BUDDY HOLLY & THE CRICKETS)。 これは、クリケッツていうのは、コオロギですから。ビートルズの名前のヒントになった。 バディ・ホリーはビートルズに、まあ一番か二番に影響が有ったと言っていいロックアーティストです。 そして、バディ・ホリーは特にイギリスで売れました。 このThat'll Be The Day てのはイギリスで1位だった曲です。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「EMIはいい会社だったけど。制作予算と宣伝力が弱かったね。結果、優れたアーティストが他に移籍してしまう、という場面に何度も出くわしたよね。」 「5人目のビートルズ」の異名をとる人物=ジョージ・マーチンがビートルズに出会う前のお話し。もう少し、続けてみよう。 マーチンがその才能を認め、公私ともに付き合いのあったアレンジャーで、映画音楽の仕事も数多く手掛けたロン・グッドウィンがパーロフォンを去り、 さらにもう一人、優れたシンガーを失ったことに関し、マーチンは会社に宛て、こんな文章を残している。 「我々は2年前に、優れたスコットランド人のテナー歌手、ケネス・マッケラー(Kenneth McKellar)を失った。 もしパーロフォンがもっと適切な方法でビジネスを進めていたら、マッケラーはもっと成功を収めていたと想像する。 マッケラー曰く 『HMVやコロンビアはまだしも、パーロフォンのレコードはショップに置いてあるのを見たことがありません。これは一体どういうことなんでしょう?』とのことである。 私が確認した事ではないので、マッケラーを信じるしかないのであるが、彼が契約を更新しなかった事から考えるに、我々には反省すべき点が数多くあると確信する。」 かなり深刻で辛辣な報告書であるが、マーチンにとっては正直な意見であった。 いくら制作サイドで良い音を創ったとしても、営業部門の手に回ってからは、もうどうすることもできない。 ケネス・マッケラーとマーチンとは学生時代に知り合っていて、パーロフォンに招き入れたのもマーチン本人であった。 それだけに、この移籍問題はマーチンにとって、初めての苦い経験となったのである。
〜 Kenneth McKellar / Ae Fond Kiss 〜 The Beatles / Honey Pie (小林)Ae Fond Kiss、「とても好きなキス」というバラードですけれども。これはスコットランドのテナー歌手のケネス・マッケラー。 この人も実は大変な歌手なんだけど、パーロフォンでちゃんと宣伝してあげないからw、ええw、自分の友達なのに去って行ったていう。 そのKenneth McKellar。 そしてビートルズはポール・マッカートニー。Honey Pie。これはホワイトアルバム(The BEATLES)に入っています。 もう今日はWhy Don't We Do It In The Road?「道の真ん中でやろうよ」っていう曲といい、このHoney Pieといい、あれですよね、 ポール・マッカートニーなんかが、ロックていうよりも、余裕をもった遊びの音楽を造っていますよね。 そういう風な、振り幅が、すごい力を出したんだろうね。ホワイトアルバムは特にね。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「ライバルカンパニー=デッカレコードからの好条件での引き抜きを断わり、EMIパーロフォンに残ることにしたジョージ・マーチン。 もちろんマーチンは、1962年以降のメジャーで活躍するビートルズのプロデューサーとして、ほぼ全てのアルバムを手掛けた人物である。 会社に残ることになったとはいえ、まだまだやりにくい点や不満はあった。 レコーディングプロデューサーという仕事は、スタジオの中での作業だけに留まるわけではない。 欧米での呼び名は「A&Rマン」アーティスツ・アンド・レパートリー(Artist and Repertoire)の略。 日本語で言うと「アーティストと楽曲」となり、担当するアーティストとそれに関連する楽曲を管理する、というのが本来の仕事である。 具体的に言うと、新人を発掘し、オーディションを行い、契約するとなると、その内容を詰めてマネジメント側と交渉し、楽曲を決める。 この際、オリジナルでいくのか、作曲家に曲を委ねるのか、それともカバーソングで勝負するのか、いくつかの選択の中からそれを決める。 そして、レコーディングと同時に、発売のスケジュールを決定し、プロモーションの方法や予算を決定する。 もちろん、プロモーションをプロデューサー自らが行なうことは、まず無いことではあるが、経験を積んだプロデューサーの場合、宣伝部に口を出すことはよくあること。 特に、パーロフォンという会社の体質として、宣伝部門はかなりのんびりしていたため、 売れてもおかしくはないレコードであっても、ヒットのチャンスを逃がしてしまうことは数多くあった。 ビートルズとの仕事をするようになって、初めてマーチンは本来の意味であるPRマンと出会った。 彼の名は、トニー・バーロウ(Tony Barrow )。 バーロウもまた、マーチンやビートルズとも縁(ゆかり)のあるデッカレコードの社員であったことは、まさに奇遇、運命的な事実であった。 〜 The Beatles/ Don't Let Me Down (小林)1969年、ビリー・プレストン(Billy Preston)がフィーチャー(featuring)で加わっています。
□リクエスト
リクエストの前に、この番組のスペシャルパーティのご案内をしておきます。
10月26日(水)夜7時です。場所は舞浜のクラブ・イクスピアリ。
鈴木雅之、鈴木清美の兄弟をゲストに迎えます。
(小林)濃いファンがいっぱい応募してきそうですが。二人がビートルズをやるとけっこう濃いものになってくるよね。
ビートルズって昔から、1960年代70年代なんか、特にR&B系の人たちが。
例えばオーティスレディングだとかアレサフランクリン、ちゃんとビートルズをやってますからねえ。
みんなやってるって感じですよ。彼らのビートルズバージョンどんな風になるんでしょうか。
このパーティに合計75組150名の方を招待します。
BAYFMのホームページをチェックしてください。あるいは携帯サイト。
ハガキFAXで申し込むのもけっこう。詳しくはホームページで。
たくさん応募して下さい。競争率が高まりますけどw。
(観覧用応募フォーム。10/16到着分有効
https://bayfm78.net/lk/en/enquete_form.htm?enq_id=486 )
(小林)リクエスト、メールアドレスは
[email protected] 採用の方にはイシイのミートボールなどセットにしてプレゼントしております。
(千葉市/男性)毎週拝聴しています。
特に好きなのが克也さんのジョージ・マーチンのお話です。ビートルズを聴かずに育った僕にとって、克也さんの話しがビートルズの全てで、
今、オンタイムでビートルズと過ごしているような錯覚にさえ陥ります。
そんな中で僕が好きなのは、ビートルズのほとんどの作品のプロデューサーを務めたことから「5人目のビートルズ」とも言われるジョージ・マーチンの話し、これが大好きなんです。
これからも僕のようなリスナー達に、ビートルズの世界やジョージ・マーチンの生きざまなど、面白く伝えてください。
知っている曲は少ないですが、その中からHELPを。
(佐倉市/女性)久しぶりにメールします。
前回は、息子が高校受験を目前にして、中3の夏からビートルズとギターに嵌まり、勉強もせず、ギターテクニックに磨きをかけていました。
ということを伝えて頂きましたw。
そして、3年経った今、サッカー部を引退、ひと月前に突然退部し、文化祭の舞台に立つため、バンド練習に励んでいます。
親は、いつも応援するのみなんですよねえ。今では私もけっこうビートルズ通になりました。
息子が文化祭で演奏する HELP!。
〜 The Beatles / HELP!
〜 桑田佳祐 / Let's try again (千葉市中央区/女性)震災から半年が経ち、いろんなことが冷静に見られるようになり、 この曲を聴いて、一年前ぐらいまでは、チャリティなんて気持ち悪いと言っていた自分を思い出しました。 しかし最近は、あちこちへお金を送っています。こんなに優しくなって、どうしてしまったのか。やはり本気さが伝わってくると違いますね。 それとも好きなミュージシャンが動いたからでしょうか。この曲は好みです。ビートルズぽいというか。 解散後のポールぽいというか、Let's try again、桑田バージョンでよろしく。
(小林)続いて…、けっこう長いですね。端折らせてくださいね。 あなたは、私の大好きなジョン・ビーって書いてありますが。ジョン・ビーがらみですね。 (松戸市/女性) 今ジョン・ビーさんがやってるカブレルズは元は菅原龍平さんの「僕、塩でかぶれるんですよね」のひと言から、そのカブレルズになったということですが。 調べてみたら、おフランスにフランシス・カブレルさんというアーティストがいらっしゃるんですね。 しかも、ビートルズ世代に人気というキーワードも出てきたので、克也さんにメールを書いています。 関係ないかもしれませんが。 (小林)いや、この人は、フランスでとても、ボブ・ディランの影響を受けた。 だから、ジョン・レノンなんかもボブ・ディランの影響を受けていますよね。 そういうアーティストです。それでは、おフランスの〜 〜 Francis Cabrel / Je t'aimais, je t'aime, je t'aimerai 〜 John Lennon / Imagine (千葉県八千代市/男性)15歳、中学三年生です。 今年も9月11日が過ぎました。アメリカの同時多発テロからもう十年経ちました。 2001年9月11日の映像をテレビのニュースで見ていた当時5歳の僕は、まだほんの幼い子供だったので、あの場所で何が起こっているのか分からず、 隣にいた祖父に「なにが起こったの?」と訊き返したのを今でも覚えています。 その時、祖父をはじめ家にいた家族全員が黙ってテレビをにらみつけていました。 あれから十年経った今では、家族がどのような思いでその映像を見ていたのか分かる気がします。 また世界の人々や現地アメリカの人は、どのような思いでこの事件を受け留めていたのかも。 あの惨事から十年経って、今年は東日本大震災から半年、この二つの事件を忘れずに、 それこそジョンが生前に言っていた「愛と平和」が溢れる世界がいつの日にか実現することを願っています。 難しいかもしれませんが、みんなが参加すれば世界が一つになると信じています。 リクエストはImagine。
□エンディング
(小林)ジョージ・マーチンのお話しが面白いという、リクエストがかなり来ているんですけど。
そうですよねw。
これでちょっと分かったと思いますが。
EMIっていうのは、ほんとに、でっかいレコード会社なんです。
そこにはレーベルがいくつかあって、その中で、一番弱いとこなんですよね。(パーロフォンが)
いいアーティストがいても、宣伝してくれないから、といって逃げてしまうんですよ。
ちゃんと、本当に才能があって売れる人が、逃げちゃうんです。
これは、僕は個人的には広島カープのファンだから、良くわかるんですよね。
いい選手が いいバッターが二人阪神に行ったり。いいピッチャーが、ロサンゼルスに行ったりとかw。
いてくれればいいのに、と思うんですけどw。
そこへ、ビートルズが入って来るわけですよ。ねえ。
面白いですよね。面白い展開になって、歴史が変わってくわけですね。
みなさん、リクエスト待ってます。
[email protected] (以後スペシャルパーティのご案内、省略)
本日10月16日分の録音に失敗しました。(´・ω・`) 申し訳けありませんです。 外出のため留守録をかけたつもりがPCの「自動スタンバイ」をOFFにするのを忘れましたw。 IE→ラジコ→baile というセットなのですが…。
今回の名言 「ビートルズをかけていれば無難」
忍法帖【Lv=40,xxxPT】さんて石井食品のバイトの人かと思っていたけれど ボランティアだったのですね いつも楽しませてもらっています
422 :
ジョン・キロックノン 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/10/24(月) 20:18:09.84 ID:BGzI+ylu0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz 2011年10月23日(日)18:00〜19:00 放送内容 DJ:小林克也 □ビートルズカレンダー(10月23日) ・1980年(今から31年前の今日) おやっ!、1980年?。今まではね、ええw、60年代とか、まあ70年代時々ていう感じですがw。 1980年。そう、あの年です。ジョン・レノンが亡くなった年ですが。 今から31年前の今日、アメリカでStarting Overがシングルとして発売になった年です。 ジョン・レノンが亡くなって、この曲がシングルで、発売されて。 最初は、なかなか反応が良くなかったんだけど、ジョン・レノンが亡くなったていうこともあって、めっちゃくっちゃヒットするんですよねえ。 5週間一位を続ける曲。 ジョン・レノンはご存知のとおり、数年間ブランクがあります。 これは、この数年間に関しては、何をやっていたんだろう?、どんなことを考えていたんだろう?、ということを想像するということはねえ。 ジョン・レノンのファンだとかビートルズのファンは、やってあげてくださいよ。 で、彼はこの日復活するわけですけど。きっかけになったのは、カリブ海をクルーズをしたこと。 荒れ狂う悪天候の中で、ジョンが自から舵を取って無事に帰って来た。「これで自分の綾が取れた」と語っていますけど。 まあ、もちろん専門的なクルーがいるヨットだから。だけど、ジョン・レノンがいちおうキャプテンということで、自分で舵を取って帰って来れた。 これがきっかけになった、ということなんですが、もっと詳しく知りたいと思いますよねえ。ええ。 だから、想像しちゃうわけですねえ。
それじゃあ、アルバム・ダブルファンタジーのオープニング曲であり、31年前の今日発売になった曲、なんですけど。 その、A面ていうのがStarting Overなんですよ。そして、B面が Kiss Kiss Kissなんです。 B面というか、この頃はA面B面ていうのは、ちょっと(理由が)あってね。 日曜日の夕食時で、家族で聴いてらっしゃると、これ「おお!、おおい、おおっ」とw、いう瞬間が出てきますから、 その時はお父さんお母さん、話しをごまかして、うまいことね、子供たちを誘導してあげていただきたいと思いますw。 まあ、子供たちに「人生には表と裏があるんだ。レコードにも表と『ウラ』があるんだよ」ということw、教えてくださいw。 ジョン・レノンというか、オノ・ヨーコが大活躍〜 〜 Yoko Ono / Kiss Kiss Kiss (小林)えーこれが、 (Just Like) Starting OverのB面ということですが。 いかがですか?w。シーンとなりました?w。シーンとなってないよねw。だいじょぶだよねw。
□ジョージ・マーチンの物語 ・「『良い音を残し、素晴らしいレコードを創るために、ミュージシャンに指示を出す』ということは、音楽的には正しい。 ただ、場合によって、外交的には正しくない事もある。私は多くのジャズのセッションから、それを学んだね。 いい意味で、適当にやる、ということもレコーディングプロデューサーには必要不可欠なことなんだねえ。」 こう語るのは、ビートルズをロックの世界、いや、音楽の世界でトップのそのまた天辺に導いた、スーパープロデューサー=ジョージ・マーチン。 今週も、彼がビートルズに出会う前のキャリアから紹介しよう。 イギリスという国は、イングランドとウェールズ、そしてスコットランド、さらにグレートブリテン、という括りで解釈すると、これにアイルランドが加わる、 という、いくつかの人種が交わる国家である。 そんな中で、マーチンが就職したEMIパーロフォンは、イギリスのレコード会社の中でほとんど唯一、スコットランド向けの音楽を供給していたレーベルであった。 マーチンはそんなスコットランドのダンス音楽である、ジグ (jig) と呼ばれる音楽の録音のために、たびたびエジンバラまで出向いて録音している。 マーチンと仕事をした二人組、ミッキー・エインズワース(Mickey Ainsworth)とジミー・ブルー(Jimmy Blue)、彼らは驚くほど酒が強かった。 マーチンは語っている。 「スコットランドは、もちろんウィスキーの本場であり、アルコール好きが多いのは知っていたよ。なんせ、街の角ごとにバーがあるんだからね。 僕らは朝の10時に録音を始めるんだけど、一時間半もすると連中が言うんだよ、『ああ、喉が渇いたなあ。』ってね。で、当然飲みに行く。 で、出てくるのがジョニーウォーカーとかそういう有名なのじゃなくて、もっと度数の強い、言わば地酒なわけだ。 その火が出るような酒が、カウンターの向こうから滑ってこちらへやって来る。まさに西部劇さ。連中はそれをグイッと一気に飲んで、すぐさまお代わりを急かす。 そんな調子でボトルの半分ぐらいは軽く飲んじゃうんだけど、演奏には全く支障はない。むしろ、さらに指の滑りが良くなるみたいな印象だったね。 すっごい連中だったよ、まったく。」
〜 Mickey Ainsworth&Jimmy Blue / Scottish Polka 〜 Paul McCartney&Wings / Mull of Kintyre (小林)2曲続きました。意外な曲が流れたりして、けっこう面白いでしょう? Mickey Ainsworth&Jimmy Blueという二人。これは1956年の作品で Scottish Polka、スコティッシュ・ポルカ。 これがプロデュースがジョージ・マーチン。 56年というと、もうロックンロールが生まれていた頃ですよ。 エルビス・プレスリーなんかが出てきた頃、ジョージ・マーチンはこんなことをやっていた。 そして、続いてかかったのが 1977年、これはイギリスのシングルの、当時は記録を作るんですよ。すっごい売れちゃって。 ポール・マッカートニーとウィングスで Mull of Kintyre(夢の旅人)。バグパイプを使った。 やっぱりその、自分の出身地とか、自分の血なんだろうかね、そういうようなものを大切にするポールの音楽であります。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「僕自身、特に酒好きっていうわけじゃなかったんだけど、まあ、嫌いじゃなかったかなあ。若いから飲めたってところもあるんだけど、 とにかく、ミュージシャンには酒好きが多かったんで、アルコールに仲を取り持ってもらったってことは多かったかな。」 こう証言するのは、「5人目のビートルズ」の異名をとる人物、ジョージ・マーチン。 彼がビートルズに出会う前のお話し。もう少し続けてみよう。 スコットランド音楽を専(もっぱら)とするコンビ=ミッキー・エインズワースとジミー・ブルーは別格に大酒飲みであったが、 やはり同じスコットランドの女性ピアニストのアニー・シャンド(Annie Shand)も、かなりの兵(ツワモノ)であった。 マーチンは語っている。 「彼女はスコットランド北東部の町アバディーンで活動していたんだけど。その地元であるアバディーン劇場での、ライブの一発録りを企画したんだ。 で、そのセッションの中盤にさしかかった時に、アニーはいきなり演奏を中断してハンドバッグの中をゴソゴソさぐり始め、そこからスコッチウィスキーの大瓶を取り出したんだ。 で、その劇場にいたスタッフを見渡してこう言ったんだよ。「ねえ、誰か。軽く一杯付き合う?」 この「軽く」っていうのは、もちろんまったくのウソで、翻訳すると、かなりたくさんということになるね。 あとで考えると、彼女のハンドバッグはかなり大きなサイズで、言うなれば、自分の個人的なバーを持ち歩いていた、てことになるかな。 アニーにとってスコッチウィスキーは「命の糧」だったわけだ。 こんなレコーディングセッションをいくつも経験していたので、後になってビートルズが突拍子もないことをスタジオで繰り広げても、大して驚くこともなかったよ。 それよりもむしろ、アーティストがそういう気分になった瞬間の衝動を、なんとか音に残してやりたい、とかそういう方向に考えたんだね。 それが、プロデューサーの仕事だと思ってるんだよね。
〜 The Beatles / Revolution 1 〜 The Beatles / I feel Fine (小林)2曲つながりましたね。 1968年のホワイトアルバム(The Beatles)に入っていますが。ジョン・レノンが寝転んでボーカルを録ったという。(Revolution 1) だから、あのこれ、前にも言いましたけど、革命とかそういう風なのは 時代の合言葉みたいなものがあったんですよ。60年代は特にね。 だけど、ジョン・レノンの歌詞は見事ですよね。 「俺たち、ちょっと待て、ちょっと待ってくれよお前。憲法変える、ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺をちょっと、入れないでくれよ。」っていう。 独特のスタンスがね。 日本なんかでも1970年代に、70年とか、60年に始まって学生運動とかね、そういう風なのを体験すると、 「おっ、ジョン・レノンの、このスタンスはいいな。」 と、思ったわけであります。 それから、武道館でも演奏した I feel Fine。1964年。
□ジョージ・マーチンの物語(続き) ・「アーティストの初期衝動、それを何とか音に残してやりたい。」そういう方向に考えるのがプロデューサーの仕事だと思ってるんだよね。 そう語るのは、ビートルズのプロデューサーとしてあまりにも有名な人物、ジョージ・マーチン。 ここでは、マーチンのレコーディング芸術についての考え方、その方法論をご紹介しよう。 マーチンは語ってくれた。 「ポップ音楽において、確かに限界というものは無い。もし、あるとすれば、制作者が途中であきらめてしまうこと。それこそが限界というものじゃないかな。 まず、ポップスとクラシックの違う点。それは、作法にあるんだよ。 クラシックの場合、ここはバイオリンじゃなければだめとか、ここはもっとフレンチホルンが聴こえるべきだとか、 とにかく既存の楽曲の、誰々指揮の何年のあの録音をお手本にすべきとか、とにかく規制だらけなんだ。 もちろん、クラシックの伝統は大切だし、それは尊重すべきことだよ。 でも、ロックのレコードの場合、それはかなり違っていて、そこには独創性が要求されるし、その可能性は まさに無限なわけだ。 でも確かに、ライブ盤を造るときはクラシックの録音をお手本に造るときもあるし、参考にするけど、スタジオ録音となると、それは違うね。 ビートルズのサージェントペパーズロンリーハーツクラブバンドを聴いてもらうと判るんだけど、楽器が何であるなんて全く重要視していない。 いい音を追求しているだけ。さらにそれを、ライブで再現するとなると、これまた方法論は違ってくるんだよ。 僕が70年代にポールといっしょに造った大ヒット曲、ダブルオーセブン(007)のテーマになったLive And Let Die 、 これをウィングスがライブで演奏した時、オーケストラの代わりに、多くのレーザーライトでステージの演出をしたんだ。 たしかに、出ている音は薄いんだけど、それを忘れさせてくれるぐらいの最高の照明だったねえ。 やっぱりポールは、ステージパフォーマーとして、そして自分を演出するプロデューサーとして類い稀な才能を持ている人だね。 僕は本当に心からそう思ったよ。」
〜 Paul McCartney & Wings /Live And Let Die (小林)「死ぬのは奴らだ」という日本語のタイトルが付いていました。 これがジョージ・マーチンが話しをしていた。(Live And Let Die ) これをライブでポールたちがやるときは、けっこうオーケストラを使わないでレーザーをバチバチやるっていう。 だけど、この曲はよく出来た曲ですよね。 ビッグオーケストラを使って、クラシックの、もうこのハッタリみたいなものをバーンとうまく使ったりして、すーごい。 だけどこれは一位にならなかった。面白いですよね。 一位になるってのは、良く出来た曲だから一位になるとかそういうんじゃなくて、 調べてみると、この時はですね、ダイアナ・ロス(Diana Ross)のTouch Me In The Morning ♪(小林唄う)ていうやつとね ストーリーズ(Stories)のね ♪Louie, Louie, Louie, Louーie〜♪(小林唄う)w。Brother Louieていう曲。 これが両方とも一位になって、長い間二位だったていう。 その間、二位でがまんした っていう曲であります。
□リクエスト
(小林)採用の方にはイシイのミートボールなどセットにして必ずお送りしております。
メールアドレスは
[email protected] (千葉市中央区/女性)夕飯準備中ずっと聴いていました。
3人目が4月に生まれ、毎日子育てと家事でバタバタの私。
ビートルズの音楽に癒されリラックスしました。やっぱり良いですよね。
ゆっくりCD聴きたいなあ。
リクエストはやっぱりLet it Beでしょう。
〜 The Beatles / Let It Be
〜 The Bee Gees / Massachusetts
(小林)ビートルズを目指したグループがまた一つ、Bee Geesの大ヒット曲ですね Massachusetts。
(銚子市/男性)僕は数年間一人暮らしをしていましたが、精神疾患を患い実家に帰って来ました。海などの景色が本当に懐かしいです。
(小林)短いリクエストですが、お応えしました。
(東京都小平市/男性)最近電波の入りが悪くて苦労しながら聴いています。 ポールが3度目の結婚をしたり、来年のロンドンオリンピックでビートルズが再結成するとか… (小林)これはあれですよ、ホログラフと言うんですかね。あれで狙ってるみたいですよ。 (続き)昨日はテレビで映画「ゴールデンスランバー」が放送されたり、話題の尽きないビートルズ、ですが。 克也さんに質問があります。 1974年にビートルズを聴き始めて以来ずっと疑問に思っていたことですが、スタジオ録音のレコードのポールやジョンの声が、ライブの声より、どう聴いてもキーが高い曲がけっこうあるんです。 特に、初期のころのストレートなロックナンバーの声が高いような気がします。 そのため、ビートルズはレコードを作るとき、マスターテープの速度を若干速くして、ボーカルの声を高くしてレコードをプレスしていたんじゃないか、 と、昔から疑っていました。 先日の放送で、克也さんは「ポールは曲によって声を変える」と言っていました。ジョンも音域が広くいろんな声が出せると思いますが。 例えば Help のジョンのボーカルなどは、レコードプレーヤーの回転速度を遅くして聴くとライブでの声とそっくりになります。 克也さんどう思いますか? 実は、リクエストは、あまり聴いたことの無い曲で Your Mother Should Know。 (小林)この、キーの件ですけど、この世界ではよくやることですから。 だいたいキーを高くしたりするのは、よくやりますよね。 それから、ジョージ・マーチンていう人が、有名な話し、Strawberry Fields Foreverを、あれはキーが違っていたのかな? それを最終的にいろいろ回転を変えたりして、違ういくつかのバージョンを一つにしたっていう話しがありますけど。 これは、マスターテープばっかりじゃないですよね。だから、よくやることである、ということで。あなたの想像力の活動を続けてください。
(千葉県/女性) ビートルズのヘイジュードを初めて聴いて衝撃を受けたのは、私が小学校5年の時。 そしてジョンが凶弾に倒れたというニュースを角川映画の「悪霊島」のシーンで知り。 大好きなビートルズの一人がもうこの世にいないことにショックを受け、テレビの前で呆然となっていた私も、今年でとうとうジョンがこの世を去った歳、40歳になりました。 そしてこの年に映画『ジョン・レノン,ニューヨーク』が公開されたことに、何か運命のようなものを感じました。 映画の中で、晩年のジョンが言った「僕は18歳のティーンエイジャーのために曲を書いているんじゃないんだよ。同世代の人に向けて書いているんだ」 というセリフがとても印象的で、映画を見て以来、ジョンの曲を改めて聴き直しているこの頃です。 ジョンが今この世に存在してくれていたなら、欲を言えば、同世代として同じ時代をともに生きていてくれたら、どんなに心強いか。 そう思うと残念でなりません。 『ジョン・レノン,ニューヨーク』のエンディングで流れたこの曲Watching The Wheels をお願いします。 〜 John Lennon / Watching The Wheels 〜 The Beatles / Your Mother Should Know