(前スレの続き) 出会った時、誰がその場を支配していたか。疑問の余地はなかった。その少年は、ポールよりも少し年上で、次に演奏する曲を他のメン バーに向かって、なんとも大きな声で叫んでいた。おしゃべりで、がっしりとした体格をしていた。その少年、ジョン・レノンが率いる クォリーメンに対するポールの第一印象は、“乱暴でまとまりのない酔っぱらい集団”というものである。『まったく、あまりかっこいい とは言えなかったね。』と、何年たっても、ポールは当時を振り返って語った。『ビールを何杯か飲んでいたみたいだった。ジョンは、 ちょっとだらしないヤツみたいだったし、だいたい息が酒臭くってさ。』バンドが演奏を始めるのが聞こえてきた途端、ポールの好まし くない第一印象は一変した。ポールは、ジョンのステージ上での存在感の大きさと、歌と演奏力に即座に感銘を受け、彼らの仲間に加わり たいと思った。レノンとマッカートニーによる、作曲家チームの構想が最初に心に描かれた瞬間があったとしたら、この時がそうだ。つ まり、1957年の7月7日土曜日、緑豊かなリバプール郊外の高級住宅地ウールトンにある、セイント・ピータース教会の構内での出来事 だ。20世紀の、いやその後のすべてのロックの歴史を塗り替える転機となる、まさに運命的な出来事であったことは言うまでもない。」 〜 The Beatles / Free as a Bird 〜 The Beatles / And I Love Her
・ぼくは、ビートルズと同じように、特に初期のローリング・ストーンズが大好きです。1942年2月28日は、ローリング・ストーンズの ブライアン・ジョーンズの68歳の誕生日ですね。今も生きていれば、どんな音楽をやっていたのかなと思いを馳せてしまいます。聞くと 何だか切なくなってしまう、この曲をお願いします。オルガンのイントロ、モノラル・バージョンをお願いします。(富里市/男性) 〜 The Rolling Stones / Time is on My Side
・克也さんの声が大好きで、毎週拝聴させていただいてます。リクエストなんですが、曲名が分からないんです。物心ついた時から、父の 運転する車の中でビートルズを聞いていて、メロディは良く知っていたのに、曲名が分からない曲が多いんですよ。今回リクエストする 曲は、曲の最後が You, You, You. I Love Youという曲です。克也さんなら、すぐ分かってもらえると思います。(取手市/男性) 〜 The Beatles / P.S. I Love You
若いながらも、ハンブルクで芸能界の興行というものの現実を目の当たりにした。クラブのオーナーの目論見は、ただひとつ。それは、 できるだけ多くのビールを客に飲んでもらうことである。つまり、ビートルズは催し物のひとつに過ぎない。言い換えれば、客引きと変 わらないのである。ステージでは、出来るだけワイルドでセクシーに振る舞い、毎晩通りすがりの客を多く引き入れるという課題を課さ れた。本番中の出来事は、それが音楽であってもおふざけであっても、何でも構わない。とにかく、ウケること。それが、最重要課題。 バーロウは、ポールの話にどんどん引き込まれていったのである。 〜 The Beatles / One after 909 (小林)古い過去の曲にも関わらず、発表されたのは解散の年の1970年の Let it Beの中に入っていたということです。
の持論であり、ポール・マッカートニーという人物に対しての、限りない愛情と理解の言葉である。ポールは今年、68歳となる。何度も 億万長者となり、バスの無料乗車チケットももらえる年齢になった男が、なぜまたアルバムを作り、過酷なツアーに出るのか。それは、 ロック・コンサートのステージには、計り知れない魅力があり、さらに得体のしれない魔物が住んでいるからに違いない。トニー・バーロ ウは、そう結論づけている。 〜 Paul McCartney / Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band (Replies) ~ The End (Good Evening New York City) (小林)やっぱ、ポールはお客の前でやることが大好きなんですよね。ビートルズが、コンサートをやらなくなって、ポールだけが一緒に やろうやろうって言い続けてたんだものね。
・先日は、リクエストをかけてくれて、ありがとうございました。妻と This is itを見た帰りに、車の中で拝聴しました。妻は、克也さん が自分の名前をいうのでビックリ。映画 This is itや、克也さんの番組ベストヒットUSAのマイケル特集を見て、自分のスローガンを決め ています。自分のスローガンは、Man in the Mirror。まずは、自分自身を見つめることです。今までは、食べ物を無駄にして捨ててしま ったり、自分がなにか失敗したりすると、自分以外の人のせいにしたりしていました。しかし、これからは自分の姿を鏡に写すように 自分自身の行動を見直すようにしようと思っています。(越谷市/男性/39歳) 〜 Micheal Jackson / Man in the Mirror (小林)今からでも遅くない!
□ビートルズカレンダー(3月28日) ・1985年 (25年前) (冒頭、録音機器のトラブルで聞き逃してしまいました) 蝋人形館にビートルズが加えられるということが発表されました。サージャントの表カバーになっています。この蝋人形は長いこと 行方不明になっていましたが、2006年に東京タワーの蝋人形館がオークションで1,500万円で落札して、それ以来東京タワーの中に ビートルズの蝋人形は展示されています。つまり、ここに行って入場料は500円ですが、500円払えば誰でも見れるというわけになり ます。もちろん、人形はビートルズばかりじゃないと、500円取るわけですからね。サージャントは、ポールがコンセプトを考えて メンバーたちが誰を加えよう、モンローを加えよう、どんな有名人を加えようってことで、後になって権利問題がクリアするのが大変 だったらしいんですけど、個人的にびっくりしたのは、リストの中にヒトラーやスターリンがいたってことで。これだけは勘弁してく ださいってことで、ヒトラーやスターリンは落とされたことになっています。 〜 The Beatles / A Day in the Life
□リクエスト ・ジョージ・ハリスンが、パティ・ボイドに送ったこの曲をお願いします。(住所・性別不詳) 〜 The Beatles / I Need You
・中三の長男は高校受験が終わって、4月から第一志望の高校に通うことになっています。長かった受験戦争から開放されて、今は毎日の ように、遊びに出かけています。高校に入学して、部活動を始めたら、今の友だちとも会えなくなるし、遊んだりすることも出来なくな るので、今はとにかく思い切り遊んで、この時期だけの思い出を作って欲しいんです。リクエストする曲は、長男の好きな曲。iPodに 入れています。(習志野市/女性) 〜 Earth, Wind and Fire / September
・家のリビングで拝聴していると、娘が二階から降りてきて、ヘッドフォン!のサインを送ってきます。娘はサザエさん、私はビートルズ そしてリクエストが採用されると、一転して大音響がリビングに流れます。そんな私を呆れ顔で見つめている妻、そんな日曜の夕暮れで す。(花見川区/男性) 〜 Sarah McLachlan / Blackbird (小林)日曜の家族の幸せな情景ですが、洋楽のヒット曲の歌詞みたいだね。「ビートルズから始まる。」という曲の歌詞みたいだよ。 シールズ&クロフツのサマー・ブリーズなんて、平和な情景の歌詞が描かれていたりするんですけど。
・この曲は、アメリカですごくカバーされてるみたいですね。たしか、ジョージの曲ですよね。(富士市/男性) 〜 The Beatles / Something (小林)いつか、この番組で話したと思うんですけど、イギリスでイギリス人を相手に相当でかい人気投票だったと思うんですが、ビート ルズの曲で何が一番好きですかっていう投票をしたところ、1960年代だったんですけど、一位がこの曲だったことがあるんですよ。 ジョンやポールを差し置いて、いかにこの曲の人気が高いか、よく分かりますね。ちなみに、ビートルズはアップル・レコードというの をやって、そこからアメリカ人のシンガーやソングライター、ジョームズ・テイラーのアルバムを一枚出していますが、そのアルバムの 中に入っている曲の歌詞から、Somethingはいただいています。これは、もうジョージ・ハリソンがいただいたんだってことを言ってい ます。Something in the way she movesを、ジョームズ・テイラーからいただいています。そういうことは、関係ないのかな。アメリカ での人気は。
〜 The Beatles / Yesterday 〜 The Beatles / Rock'n Roll Music
・ポール・マッカートニーの書いた Yesterday は、最初なかなか歌詞がつかず、ポール本人も困り果てていた。それでも、持ち前の前向き な性格と粘り強さで、何ヶ月もかけてこの名曲は完成し、ロック史上最高の名曲として、崇められている。こうした、ポールの人間性に ついて、ビートルズの広報担当だった男トニー・バーロウは語る。「正直、ポールの根気には、本当に頭が下がるね。とにかく、こうと 決めたら、絶対に完成させるまであきらめないんだから。ポール・マッカートニーという人は、自分自身に不可能な目標を課して、あた かも努力していないかのように振舞って、いつの間にかそれを成し遂げてしまう。彼は、一緒に仕事をするすべての人間から、同じよう な無条件の努力と集中力を期待していたし、それは今も変わっていないね。ぼく自身、そんなポールがまわりに及ぼす影響力を、おおい に利用させてもらった。言い換えるなら。ポールは良い意味でスタッフを巻き込み、やる気を出させて、プロジェクトに関わる人間すべ てに、能力の限界点まで発揮させるんだね。みんなポールと仕事をするのは嬉しいわけだから、損得勘定なしにがんばるさ。我々、所属 事務所側としては、これは好都合。だって、同じ予算を使っても、完成してくるものがまるで違うわけだから。まさに、ポールのおかげ。 これに対し、ジョン・レノンにこういう粘り強さを期待するのは、無理だったね。彼には、集中力がない。集中力が続かないタイプだっ たんだ。自分には、音楽的な面においては、ポールほどの才能がないってことは認めていた。だから、公然とソロ・アルバムの中で、 ポールを批判してみせたわけだ。せめてもの抵抗というヤツかな。実に興味深い男だよ、ジョン・レノンは。 〜 John Lennon / How Do You Sleep?
□リクエスト ・マイケルの死は、本当に残念です。昔、ベストヒットUSAで、Beat itやThrillerのビデオを見て以来ファンで、コンサートにも数回行きま した。あの当時、マイケルの真似をして自分もベジタリアンになろうか思ったほどでした。でも、なれませんでした。そうです、克也さん 自分はベジタリアンにはなれないんです。だから、石井のハンバーグ、リクエストよろしくお願いします。(松戸市・男性) 〜 Micheal Jackson & Paul McCartney / The Man (小林)オチになってないよ。ヤなヤツと思われないようにしなさいよ!(笑)
・私事ではありますが、3月11日に6歳の娘が、幼稚園を卒園いたします。卒園式では、保護者代表者ということになり、緊張しております 家族揃って、番組にメールやFAX、リクエストを送っているんですが、今回は娘の卒園祝いに、娘がリクエストしていた Let it Be をかけ てください。(住所性別不詳) 〜 The Beatles / Let it Be (小林)これね、住所と名前が書いてないんですね! ピアノで始まって、学園モノっぽい雰囲気もありますからね? ・ビートルズのファンになって間もない36歳の主婦です。一番好きな曲は Yesterday ですが、きょうは Let it Be が聞きたい雰囲気なので (江戸川区・名前なし) (小林)もし、このお二方、聞いていましたら、連絡をいただけたらと思います。
ができるし、それから、一番大切なのは、この頃時代が変わっていたんです。もう、世の中ヒッピーとか出てきて、コミューン的なも のを共有するような。だから、ビートルズも他のメンバーが入ってきていいかーみたいな雰囲気で、それからツェッペリンなんか出て きて、結構音楽的に、特にポールなんかはあせっていたはずです。そういう風なことを考えながら聞くと、面白いと思います。歌詞が また泣かせるんですよ。簡単な歌詞なんだけど、わけわかんないところがあるんですよね。California grass って何なんだとかね。カ リフォルニアの葉っぱ? 葉っぱって、ひょっとして?とかね。だけど、ちょっとつながらないなとかね。英語圏でも、いろいろ物議を 醸したわけです。さ、改めて聞くよ。 〜 The Beatles / Get Back
モノラルで聴いていただきました。モノラルというと、その時代の音となって、ツェッペリンとかも登場してくるわけですが、イギリ スの面白さっていうのはね、世代ごとに色んな主張をしてくるんですよ。だから、ビートルズの Get Back が出て、チャート的には新 しかったけど、その頃の二十歳前の青年とかは、わ!これはすごいと思ったかというと、どちらかというと、古い!感じがしたんですね そのころは。ビートルズというのれんの力を発揮した、そういう風に捉えていただくと、ビートルズのことがよくわかると思います。
間違いなく、レノン=マッカートニーとあります。ということは、この Yesterday は、あくまでもビートルズの楽曲であるということは 世界中の誰もが認めている事実です。ですから、この曲がビートルズのベストアルバムに収録されるということであれば、それは何の問題 もないことですが、ポールのソロ名義のアルバムに収録されるということになると、それは無茶な申し出としか言いようがありません。 後は、裁判所が判断することです。」いちおう、見事な論法である。このヨーコの発言からも、夫ジョン・レノンの生前からも、ビジネス 的な面では、ヨーコが仕切っていたことを推測するのは、容易なことである。若い頃から常に野心的だったポールと、ずぼらなジョン。こ こでも二人は、まったく正反対な人間であったことが、浮き彫りとなったのである。 〜 John Lennon / Jealous Guy 〜 The Beatles / Lovely Rita
二十歳の時の目標を、見事に成功させた、つまり、初志貫徹ってわけだ。本当に尊敬するに値する人物は、ポール・マッカートニーだと 思うね。」こうした、トニー・バーロウの証言からも分かるとおり、ポールは強い意志を持った努力家でもある。もちろんそれは、天才的 な能力があって、初めて成立する。もし、最初からポールがソロ・アーチストとしてデビューしていたら、今や証明すべき術もないこと ではあるが、興味深い推測でることは言うまでもない。 〜 The Beatles / Anytime at All 〜 The Beatles / Till There was You
□リクエスト ・克也さんのおかげで、高校に受かりました! 高校生になっても、この番組を聞いていきます。(鉾田市/男性) 〜 The Police / Synchronicity II
・克也さんがんばってー! ビートルズ大好きー!(住所性別不詳) 〜 The Beatles / No Reply (小林)せっかく、石井食品の方から素晴らしいものが送られるわけですから、もし聞いていたら住所とか名前を送ってください。
・毎週の晩酌タイムに、楽しく聞いております。去年の暮、家族でジョン・レノン・ミュージアムに行ってきました。館長さんと一緒に館 内を見学した後、家族三人でもう一周しようということになり、ジョンとヨーコのラブの世界を堪能し、真っ白なファイナルルームは A Day in The Life のピアノの余韻の中にいるようで、気がついたら閉館の時間でした。その後、9月に閉館と知り、もう一度家族で行こう という話になり、3月27日の土曜日、私の40歳の誕生日、克也さんところで誕生日おめでとうございました、に、行くということで。 しばらく、ジョンのアルバムばかり聞いていたのですが、その余韻も覚めたのか、やっぱりビートルズということで。(住所不詳/男性) 〜 The Beatles / There's a Place
レノンという感じで見てるところもあるんですよ。フィル・スペクターという人は偉いけど、なんか違う言葉でいうと、メロドラマみ たいな音楽なんです。だから、ジョン・レノンがそこに入ったら、地獄に入ってなかなか出られないような世界だったのかもしれない けど、1980年代に Double〜で出てきた時には、ああ良かったなと思ったものであります。では、そのフィル・スペクター。途中、 テープを持って、逃げられたりするわけですが、今から35年前のきょう発売になった、ジョン・レノンの Stand by Me。ジョン・レノン は、ベニー・E・キングの柔らかい歌い方ではなくて、突き刺さるような悲しさがものすごく伝わるような。ジョン・レノンの作品を 聞いてあげようよみたいな感じで、我々の心の中に入ってきます。 〜 John Lennon / Stand by Me
によって火花が散り、パチパチ音を立て、極度に切迫した状態で最も大きな力が発揮出来ると信じていたようだ。もちろん、その化学反応 は競争意識となり、しばしば激しいものになったと思う。彼らは、お互いが持っている最高のものをお互いに引き出す、ライバル同士だっ たというわけだ。兄弟のようにとことん喧嘩もし、特に音楽に対しては、それぞれが相手の作品を上回ろうと命をかけていたね。」バーロ ウのこうした証言は、見事に的を得た物である。レノン=マッカートニー作品は、間違いなくこうして作られた、ロックの真の名曲と言え る。 〜 The Beatles / I've Got a Feeling (Naked) 〜 The Beatles / Baby's in Black
でも、レノン&マッカートニーというロック界、音楽界において類を見ない、天才的なコンビが生み出す曲があってのこと。という条件が つきのお話だね。これが、FAB4 ── つまりビートルズの真実。だからなぜ、ジョージの曲が大抵の場合、アルバム収録曲として却下され たかがわかるだろう。もちろん、ジョージは理解できなかった。なぜ、自分の曲がシングルのA面として採用されないのかがね。でも、ぼ くの見解はこうなんだ。ビートルズにおける競争とは、あくまでもレノンとマッカートニーの間の事柄であって、ジョージ・ハリソンが その対抗馬に浮上することは、決してないということだ。結果、ジョージの曲は、活動の末期になって、やっと日の目をみるようになっ た。もし、ジョージがビートルズでなく、他のバンドのメンバーだとしたら、あの My Sweet Load よりもずっと前に、ロックの有名な ソングライターとして脚光を浴びていたと思うよ。それだけ、ビートルズはすごかったんですよ。本当に。」 〜 George Harrison / My Sweet Load
ガッカリさせるか、報道関係者席のチケットを二枚割り当てて、会場に現れないジャーナリストがいることを願うか、いずれにしても、 選べる選択肢は、その二つしかなかったんだ。」もちろん、こうしたトニー・バーロウが語るエピソードは、ポールに悪気があったことで はない。むしろ、ポールのファンに対するサービス精神の表れだったと解釈することも出来る。しかし、こうしたポールの仕事に対する 前向きな姿勢、ひたむきさが他の三人のメンバーにとって、いつしかウザッたいものになっていくことを、この時点では誰にも予想がつか なかったのである。 〜 The Beatles / The Long and Winding Road
・ホワイト・アルバムが好きです。ということで、インドに行ってきました(笑)。いきなり、行っちゃったー。インドでは、リキラームとい う、ビートルズも行ったお店に行ったのですが、他にはビートルズの足跡は見つかりませんでした。というわけで、ビートルズとマハリシ との宗教運動大会のお話が聞きたいです。本やインターネットでも探したんですが、なかなか見つかりませんのでお願いします。(成田市/ 性別不詳/21歳) 〜 The Beatles / Love You To (小林)ぼくもあまり詳しくないですけど、ただきょうはジョンとポールの話をしてますけど、ジョージ・ハリスンがインドに入っちゃうわ けですよね。で、音楽でも相当影響を受けまして、ただポールやジョンは、音楽でもインドの影響らしきところを見せないんですよね。 だから、これが面白いっていうか、ジョージのこういったインドへの寄り道があって、ビートルズとしては、長持ちしたんですよね。
□ビートルズカレンダー(4月25日) ・1970年 (40年前) ビートルズは、事実上解散。というか、世の中も「ビートルズは、もうやってない」と思っていた。この月に、ポール・マッカート ニーとリンゴ・スターが、それぞれソロ・アルバムを出しています。ポールは、脱退を宣言します。そんな頃です。40年前のきょう ニューヨークでジョージ・ハリソンが、インタビューに答えています。ジョージ・ハリソンは、ニューヨークのアップルの事務所に 出向いて、経理上の確認を行っています。ビートルズは最後だから、お金はどうなっているのか。この後、入ってくるお金はどうな っているか、そういう確認をします。そして、インタビューでは、ビートルズの現状(を話し)、そして、自分の頭の中では、ソロ でのデビューを考えているわけですよ。詳しくは語っていないんですけど、曲はいっぱい、かなり昔から書いていた、プロデューサー は、ジョン・レノンも尊敬して、ジョージ・ハリソンも尊敬しているフィル・スペクターを予定していることなどを公表しています。 だから、ちょうど40年前、ビートルズが解散するわけですが、ちょうどきょうは、ジョージ・ハリソンの心の中、頭の中を発表する わけですね。で、彼が5月になるとレコーディングを開始して、3枚組の超大作を出すわけですが、この時ジョージ・ハリソンは地味 な存在だったんで、世界中がビックリするわけです。というわけで、40年前のきょう、ジョージ・ハリソンはインタビューをやって おります。そして、完成して、世界中がびっくりしたアルバムの中から、きょうの一曲目。 〜 George Harrison / What is Life
世の中がジョージ・ハリソンを見直したというか、ジョージ・ハリソンが今までおさえられていたようなことがあるわけですから 一番輝いているなというような感情をみんな持つわけですけど、ただ世の中1970年というと、ビートルズを中心に回っていなかった わけです。だから、ビートルズもいわゆる one of them になっちゃった頃のサウンドということですね。他にもツェッペリンとか 色んなことがいっぱい起こっていて、音楽的にはとても面白かった。その中のひとつが、ポール・マッカートニー、そして、ジョージ ・ハリソン。あるいは、リンゴ、ジョン・レノンだったというわけであります。
い。そうやって注目されることが、ポールにとって、この上ない快感だったわけだ。おまけに、ポールは自分で家を買うまでは、ジェーン の実家であるアッシャー家の下宿人でもあったしね。この生活でポールは、さらに芸術的な感覚を身につけ、セレブな人生を満喫したわ けだ。そして、後になって彼は、アビーロード・スタジオの近くに、家を購入する。仕事が、何よりも大事だったわけだね。ポールは まさに、住み込みで働くタイプなんだよ。」 〜 The Beatles / She's Leaving Home 〜 The Beatles / Lady Madonna (Love)
いた。ジョージは、EMIからいくら印税が入ってくるのか、いつ小切手が届くのかも把握していたみたいだ。ビートルズと事務所の収益 配分が不公平であるということを、最初にブライアンに申し出たのもジョージだったと聞いてるしね。すごくフレンドリーで、人に愛さ れるという反面、ジョージはビジネスの面では、かなりシビアだった。これが、後になってトラブルの原因にもなったんだと思うね。」 〜 The Beatles / Taxman 〜 The Beatles / Ask Me Why
で、ストーンズが世に出て行くというわけですが。さ、それじゃ、ローリング・ストーンズのデビュー・アルバム。ビートルズの デビュー・アルバムと違うのは、ビートルズがほとんどオリジナルで勝負していましたが、その頃はローリング・ストーンズ、あまり 曲は書けなかったっていう、有名な話ですよね。カバー・バンドだったわけです。アルバムの中、オリジナルは唯一、この曲だけだっ たんです。他は全部カバーだったんです。でも、ビートルズのアルバムを蹴落としたんです。 〜 The Rolling Stones / Tell Me
ローリング・ストーンズのデビュー・アルバムで、唯一オリジナルの曲。これを聞いても、ストーンズらしさがあるよね。リピートの 感じだとかね。これは、トリビアではありますが、この Tell Me は、坂本龍一が最初に買ったレコードらしいですよ。さあ、この後 ジョージの意外な一面が明かされる!!
ジョージは、実のところ知能犯なわけだ。つまり、ビートルズの中でも最年少、末っ子的なキャラを全面に押し出して、ちょっとシャイで ナイーブに見せかけるという、かなり古典的な手を使っている。これが、女の子の気をひくことを、ジョージはよくわかっていたわけだ。 実際、このちょっとしたトリックと、程よくドライなユーモアのセンスとの組み合わせは、驚くほど効果があったね。ジョージのジョーク はシュールだけど、かといってジョンのジョークほどやり過ぎではなかった。機嫌のいい時のジョージは、とにかく女性を口説いて回った ね。それが、彼のライフ・スタイルだったと言ってもいいくらい。だけど、それがまったく、嫌味じゃないんだよ。そのナンパなジョージ のキャラクターは、いつもまわりを楽しませていたし、彼自身がのめり込むこともなかった。大体、ジョージにキスされた女の子が、嫌 がって声をあげたことなんて、一度も見たことはないよ。彼女たちも、それを誇りに感じて、楽しんでいたみたいなんだ。根っからの色男 だよ、ジョージ・ハリスンは。」 〜 The Beatles / Something 〜 The Beatles / It's Only Love
パートナーかなんて関係ないんだよね、きっとね。リバプール時代のジョージがナンパに失敗した、数少ない例の一つは、キャヴァーン クラブの常連だった、ポーリーン・ビーハンという女の子との一件。彼女は、ジョージを袖にして、ジェリー&ザ・ペースメイカーズの ジェリー・マースデンと結婚したんだ。これには、経緯があったんだ。実際にポーリーンから聞いたんだけど、彼女が言うには、こうなん だ。『確かにジョージには、何度も何度も口説かれたわ。私、ビートルズもジョージのギターも大好きでファンだったし、嫌な気持ちは しなかった。でもね、同じくらい人気のあったペースメイカーズのリーダーだったジェリーが、やっぱり私を口説いて、こう言ったの。 ポーリーン、ジョージはダメだ。根っからの浮気者なんだ。ヤツは、いつか必ず、君を不幸にするよ。必ず、そうなることはわかってい る。だけど、ぼくは違う。絶対に君を幸せにしてみせる。神に誓うよ。結婚してくれ。』」 〜 Gerry and The Pacemakers / Don't Let The Sun Catch You Crying 〜 The Beatles / Here Comes The Sun
静かに話し始めるんだけど、それが何か秘密めいたことを話してるかのような、暗示にかけるんだね。相手も、その気になってくる。でも そんな時に話している内容は実際には、ジョージが今一番気に入っているギターのことだったり、今度注文したジャガーのスポーツ・カー Eタイプのことだったり。面白いだろ。舞台の上でのジョージは、華やかさという点では、ポールには及ばなかったかな。大体、メインの スポットライトはポールとジョンに当たっていて、ジョージは一歩下がって二人をサポートするという印象だものね。彼は、いつもうつむ き加減で演奏していたんだけど、その姿がファンの間では話題になった。ジョージはシャイなので、いつも照れながらギターを弾いてい る。実は、ジョージは、スネているじゃないかとか。いろんな噂が立ったんだ。でも実のところは、ミュージシャンとしてすごく真面目な ジョージは、いつも演奏に集中するために、うつむき加減になっていたんだ。いずれにしても、様々な憶測や噂が飛び交うあたり、やっぱ りジョージには最初からスターの資質があったし、特別なキャラを持っていたことも確かだよね。」 〜 George Harrison / Give Me Love (Give Me Peace on Earth) 〜 The Beatles / I'm Happy Just to Dance with You
□リクエスト ・リクエストしたい曲が見つからず、全然メールできませんでした。ネタ探しに先日、TSUTAYAでジャケ借りしたアルバムの一曲が大ヒッ ト。これは、克也さんにリクエストして、リスナーの皆さんに聞かせてやんなきゃと、メールしました。借りた70年代のポップ・ミュー ジックのアルバムは斬新な音が一杯で、気になる曲はメッセンジャーズの「気になる女の子」。ジャケ借りした程度なので、メッセン ジャーズのことは知りません。克也さん、何か知っていたら。(上尾市/男性) 〜 The Messengers / That's The Way a Woman is
・鹿児島から、主人の単身赴任先・神奈川県に引越してきました。9月に生まれた長男・私と食卓を囲んでいたら、ラジオからビートルズの 曲が流れてきました。慣れない土地で、まだ一週間しかたっていないのですが、ラジオから流れる曲を聞いて、なんだかホッとして、家族 の会話が弾みました。夫婦共に、ビートルズ好きなんです。思わず、リクエストしてみようと盛り上がり、メールしました。私自身、初 めてのラジオへのリクエストです。(川崎市/女性) 〜 The Beatles / Mr. Moonlight
・3月29日、ボブ・ディランの東京公演の最終日に行ってきました。この日のディランは終始ご機嫌で、なんどもキーボードの前でポーズを キメていました。コンサートは Rainy〜で始まり、本編のラストは Forever Young でした。ディランのコンサートでのイントロクイズは 至難の業ですが、May Got Bless〜のフレーズを聞いた瞬間に、頭の中が真っ白になりました。この曲が演奏されている間のことは、あま り記憶にありません。気がついたときは、アンコールの一曲目の Like a Rolling Stone が始まった時でした。ただこの間、体の細胞のひと つひとつが浄化され、新しくなっていくような不思議な感覚がしました。(横浜市旭区/男性) 〜 Bob Dylan / May God Bless and Keep You Always (小林)宗教体験にも似たような、ご教祖様とお会いになったようですからね。分かりますよ、ハイ。
ハリスンばかりじゃなくて、クラプトンだとか、インドのアーチストなんかが参加することによって、すごい世界になってるわけで すが、ジョージ・ハリスンが出した Electronic Sound というのは、ムーグ・シンセサイザーを買って、このシンセサイザーは、今 あるシンセサイザーのイメージで見ないでください。もう、すごいでっかいんです。で、いろいろパッチングというのが、つないで やんないとダメで、完成されたものなんだけど、今みたいに商品化されたものじゃないんで、それをジョージ・ハリスンが使って だから、なんていうんでしょうかね。ビートルズ・ファンが聞いて、まあ、ビートルズだから我慢するけど、他のアーチストだった ら、こんなもの!なんて言うかもしれません。それでは、ジョージ・ハリスンの41年前のきょう発売されたアルバム Electronic Soundの中から、雰囲気だけ約1分間聞いていただきます。 〜 George Harrison / Under the Mersey Wall
かけを作ったのが、他ならぬジョージ・ハリスンだったんだよ。あるインタビューの時に、ジョージは『ぼくは、柔らかくて砂糖でコー ティングされた、あのキャンディーが大好きなんだ』と発言した。私は、広報マンの直感で、これはマズイ!と思ったけど、もう遅かっ た。ジョージのこの一言だけで、一連の大騒ぎを招くには十分だった。翌週になると、ビートルズが演奏するステージには、大量のジェ リービーンが降り注げられる事になる。演奏が終わる頃には、分厚いネバネバのカーペットの出来上がりというわけだ。あれは、始末に 苦労したと思うよ。このジェリービーン騒動の話を聞きつけて、いち早くコンタクトを取ってきたのが、製造元のバセッツ・コーポレー ションという会社であった。このバセッツ社は、すぐさまおどけた調子で人気のあった、海賊放送局のディスク・ジョッキー、ケニー・ エベレットの番組のスポンサーに名乗りをあげた。もちろん、ケニーの番組の目玉は、ビートルズの全米ツアーのレポートであった。こ の一連の騒動に関して、ジョージ・ハリスンは茶目っ気たっぷりに語っている。『こんな騒ぎになるんだったら、今度は“メルセデス・ ベンツが好きです”とか言ってみようかな。』」 〜 The Beatles / A Hard Day's Night 〜 The Beatles / You Like Too Much
の意味で大人の仲間入りってわけさ。だから、伝統的に馬蹄や鍵をもらう。もう、君には門限はない。馬にまたがって、どこまで行っても いいんだという意味なんだ。だから、馬蹄に鍵なんだ。だけど、10代のファンは金がないから、本物の馬蹄や鍵は買えない。だから、 ボール紙で自作したものを送ってくるってわけさ。だけど中には、すごいのもあったよ。ある日、ジョージがファンレターを読みに、ロ ンドンの事務所に来たんだよ。その時に、想像もできないバースデー・プレゼントを貰ってたんだよ。それはなんと、あるファンから届 いた、本物の木製のドアと鍵。これには、ジョージも目を真ん丸くしてたね。そこには、こう書いてあった。“大好きなジョージ様。誕 生日には、きっとたくさんの鍵をもらったことでしょう。だから、このドアを開けてみてくださいね。”」 〜 George Harrison / Got My Mind Set on You 〜 The Beatles / And I Love Her
この And I〜は、1964年頃はビートルズを受け付けなかった人が多かったわけですよ。それまで、ビートルズではない音楽を聞いていた ので、ビートルズを受け付けようとしなかったんだけど、そういった大人の人たちにも評判が良かったんです。ロックじゃないからね。 それが、ビートルズの良さでも、あるんだけどね。それから、ジョージの Got My Mind Set on You 。これは、1987年ということを考え ると面白いですよ。我々が、ビートルズの初期というと、1964年とか1965年。それから、二十数年が経ってるわけですよ。だけど、 Got My〜というのは、1987年ビートルズのようなグループが出てきたら、こんな風な音になってるんじゃなかろうかという風な音なんで す。これは、自分たちは第二のビートルズであるていう、そういう風な音楽的な目覚めを展開して、ずっとビートルズを追っかけていた ジェフ・リンという ELO 、ELOって知ってるよね。あのジェフ・リンが音作りをしているわけですよね。お子様の歌じゃないですか。 それが、こんな風になるという。ぼくが言ってること、分かってもらえますよね。ちなみに、これはジョージ・ハリソンの息子のダーニー
〜 The Beatles / I Me Mine 〜 The Beatles / The Fool on The Hill
□リクエスト ・昔、ビルボードの Best 100 Album of all time という記事で、ビートルズがアルバム「Sgt〜」で、首位を獲得しているのを見て、すごい と思い、モノラル盤のアルバムを買ったのを覚えています。当時、FMラジオが隆盛で、FM雑誌も週刊FM・FMステーション・FMファンな ど刊行されており、毎週ラジオをエアチェックするのが好きでした。某国営放送のクロス・オーバー・イレブンがクールだった時代、わ たせせいぞうのしゃれた絵の載った雑誌がウケた時代、カセットテープに録音して、大事にアルバムを聞いていたのを覚えています。その 記事の第7位に、Van Morrison の Astral Weeks が入っていて、渋い選曲だなと思いましたのでリクエストします。(市原市/男性) 〜 Van Morrison / Brown Eyed Girl (小林)ビートルズもそうだったように、60年代に出てきたグループは、みんなブルー・アイド・ソウルというか、リズム&ブルースに 入り込んだ人たちなんですよね。そういうふうな影響を受けて、独自のものを出して、元々アイルランド系ですから、この人は頑固なとこ ろがあって、自分のスタイルをかたくなに守って、その筋である人たちにとっては、狂信的な信者がいるアーチストであります。
・今年、大学生になりました。先週、ふとお使いで外出した先の小さな店で、このラジオを聞きました。数年前から、ビートルズ大好きっ子 なので、ラジオを聞いた瞬間、店のオバちゃんに番組を聞いて、家に飛んで帰りました。解散して何十年、今でもこうして、ビートルズの 番組が存在しているかと思うと、感動が止まりません。長かった受験生活、来る日も来る日も泣きながら勉強でした。しかし、毎日この曲 を聞いて、春を感じて頑張ってきました。キレイで優しく、暖かく太陽みたいなこの曲が大好きです。(住所氏名不詳) 〜 The Beatles / Here Comes The Sun (小林)聞いていたら、住所・名前を知らせてください。
〜 The Beatles / Savoy Truffle 〜 The Beatles with Billy Preston / Don't Let Me Down
・ビートルズのPR担当を務めた人物、トニー・バーロウが語るジョージ・ハリスンの人間像。バーロウは、隠すことなく、こうも語ってい る。「ジョージは、とにかくいつも、音楽のことを考えていたね。車が好きだと言っても、それは音楽に比べたらどうってことはない。 ジャガーの最新型スポーツカーEタイプだって、ジョージにとってはオモチャみたいなものだ。それに対して音楽は、人生そのものだった からね。元々、比べる対象じゃないんだね。ジョージは、ジョンやポールやリンゴよりも、明らかに楽器を触ってる時間が長かった。自分 が演奏している楽器について、もっともっと多くのことを知りたがっていた。だから、必要にかられなくても演奏すること、練習すること を心から楽しんでるみたいだった。楽器といえばシタールもそうだけど、ジョージはウクレレにも惚れ込んでいたね。よく、1930年代 40年代のハワイアンのレコードを聞いていた。コレクションも、かなりの枚数だったみたいだね。戦時中に活躍したイギリス人ウクレレ 奏者で、歌手でもあったジョージ・フォームビーの熱心なファンで、これまたレコードを探して、買いあさっていたみたいだった。もちろ んジョージには、収集癖なんかなくて、ただ純粋に音楽が聞きたかったんだ。だから、一般的に思われている、ビートルズのイメージ。 ジョンは、ロック一辺倒。ポールはすごく幅広く、リンゴは縁の下の力持ち。ジョージは、インド音楽以外は、特に個性がない。なんて のは、実は大きな間違いで、一番音楽性が幅広く豊かなのは、ジョージ・ハリソンなんだよ。もちろん、この頃はソロ作品を発表した時点 で、世界中の誰もが認めることになるんだけどね。 〜 George Harrison / All Things Must Pass 〜 The Beatles / I will
I Will は、1968年ホワイトアルバム。ボーッとして聞いてると、ベースを口でウンヴォンバンとやってるのが分かんなかったりするけど こういう色んなことを好き放題のことをみんながやってるから最高だという人もいつよね。
・「ジョージは、色男だからね。ヤツがいつ結婚するのか、みんなが注目していたよ。」こう語るのは、1960年代ビートルズの広報担当と して、全世界を飛び回った男トニー・バーロウ。彼は、ジョージの結婚に関するエピソードを披露してくれた。「1966年1月、ジョージ はあの美しいモデル、パティ・ボイドと結婚した。それでもジョージは、常に何があっても自分の私生活と仕事を区別しようと努めてい た。自分のプライバシーを、すごく重んじていたので、だからそれを奪ってしまったビートルマニアが嫌いだったわけだ。もちろん、 ファンによって支えられてるのがロック・ビジネスだから、矛盾しているし、本人もそれを理解していたね。だけど、感情はどうするこ とも出来ない。実に厄介な商売だよ、ロック・ミュージシャンって。それで、私生活を守りたい、仕事と切り離して考えたいということ から、ジョージは報道陣が異性関係や家庭問題について質問してくるのを、めったに許すことはなかった。もちろん、ぼくはそれを考慮 して、マスコミをコントロールした。それが、広報マンの仕事だからね。そして、ジョージがさらに、ぼくに要求をしてきたのが、結婚 式の詳細を極秘にしてくれというものだったんだ。それも、何とかかしこまって、ぼくに正式に承諾させたんだ。その内容は、ジョージ の現状を聞かれても、ギリギリまで知らない、聞いていないということで通して、サリー州のエプソン登記所で結婚の要請手続きが行わ れている間に、あらかじめ用意していた声明文を、ジョージとパティの代理人として通信社やロンドンの全国紙に電話をかけまくること によって伝えるというもの。ただ意外なことに、式が終わって数時間後には、ジョージが新婦を伴って、マスコミ用の写真撮影のために 事務所にくることを承諾してくれた。実に用意周到な、完璧な結婚式だったね。 〜 George Harrison / You 〜 The Beatles / Words of Love
なかなかかからない曲がかかりましたが、ジョージ・ハリスンの You 。これは、1975年のアルバム「Extra Texture」の中に入ってる 曲ですが、元々ロニー・スペクターという女性なんですけど、話すと長くなるんですけど、フィル・スペクターって聞いたことあるで しょ? あの有名なプロデューサーの。その嫁さんに書いた曲なんだけど、それが没になっちゃって、ジョージ・ハリスンがやって、アレ ンジャーが当時のスタートしたばかりのディビッド・フォスターが参加しています。プロデューサー、フィル・スペクターがまとめてい ます。そして、Words of Love は、元々これは、バディ・ホリーというエルビス・プレスリーの頃、もう一人..というとおかしいですが 天才的な人がいたんですけど、もうジョンもポールもジョージも、みんな大好きだったバディ・ホリーのカバーを、Beatles For Saleで やっています。バディ・ホリーを、もし知らない人がいて、この頃のロックに興味があるっていう(人は)、独特の歌い方、しゃっくり奏法 とか言われた人なんですよ。Peggy Sue とか、That'll Be The Day とか知ってますか? もし良かったら、バディ・ホリーをチェックして ください。今はもう簡単にチェックできるから。
□リクエスト ・もちろん、武道館で行われたビートルズの東京公演に行きました。エリック・バードン&アニマルズの新宿厚生年金ホールの公演にも行き ました。でも、こんなことでは、誰も驚きません。しかし、ピーター&ゴードンを見に行ったというと、おーっと驚かれます。会場は、 今は亡き力道山が作った、今はもうない渋谷のリキパレスです。(木更津市/男性) 〜 Peter&Gordon / I Go to Pieces
・親戚の小学生の男の子が、ビートルズに夢中になっています。1962年にデビューしたバンドが、またこうやって新しいファンを増やして いるなんて、本当にビートルズはすごいと感心してしまいます。(佐倉市/男性) 〜 The Beatles / Paperback Writer
・この四月から自動車教習所に通い始めたんですが、元々不器用で車が嫌いな性格だからか、なかなか運転技術が上達しません。なので、 最近はストレスが貯まり、この時間にビートルズを聞くこと、番組にリクエストをすることが、唯一の楽しみになっています。 (柏市/男性) 〜 The Beatles / Piggies (小林)ポールが書きそうな歌だよね。それをジョージがやったという、おまけみたいな歌ですけど。
・こないだ、医療事務所の就職が決まりました。就職祝いにと、二泊三日でサンフランシスコに旅行に行ってきました。豪勢ですよね。 サンフランシスコと言えば、この歌だと思ったのでリクエストします。(龍ケ崎市/男性) 〜 Scott McKenzie / San Francisco (小林)サンフランシスコは、この歌じゃないです。1960年代は、サンフランシスコにヒッピーが集まって、独特のヒッピー文化、ドラッ グ・カルチャーとか、サイケデリック・カルチャーとか言われたりしますが、そんなことが言われたサンフランシスコですけど、その頃の 価値観とは、まったく違うんですよ。アメリカで言えば、歌謡曲。♪サンフランシスコに行くなら、頭に花を着けて行きましょう〜みたい な。この頃は、まっただ中にいる人からは、ダサイ歌だなと言われたんですが、不思議なものですね、時間がたつと。これが、ヒッピーの 歌みたいに言われてるんですよね、今ではね。
・「ぼくが、結婚だって? そんなわけ、ないだろ。一体、誰がそんなことを言ったんだよ。」根っからのポーカーフェイス、ジョージ・ハ リスンは、芸能記者マイク・ヒューコゼの執拗な質問を、なんなくかわしてしまった。こうなると、すっぽんのように食いついたら離さ ないマイクも、退散するしかない。この時の経緯について、ビートルズの広報マン、トニー・バーロウはこう語っている。「確かに、 ジョージは結婚の噂に対し、知らぬ存ぜぬの手を使って、完璧に退けていた。ただ、この直後、マイクからはぼくに対して、猛烈な電話 抗議が来たんだよ。実は、マイクはぼくの大切な友だちで、飲み仲間だったんだよ。なかなか愉快で優秀なヤツだったからね。彼は、 『なあトニー、オレとお前の仲だろ。こっちに、特ダネを回してくれよ。』なんて、泣きついたんだよ。やっぱり、こればっかりはでき ない相談だったね。そりゃ、悩んだよ。自分の雇い主と親友の間に挟まってね。大変な思いをしたよ。もし、この時親友のマイクに独占 記事を書かせていたら、そりゃもう大騒動になっていただろう。おそらく、ジョージとパティが、結婚の登記所を訪れる時には、数百数 千の群衆が押し寄せていたに違いないんだから。もちろんぼくは、クビになっていただろう。だけどもちろん、ぼくはビートルズへの忠 義を守ることにした。ぼくを信頼して報酬を払ってくれてるのは、ビートルズだったんだから。そりゃ、当然だろ。この騒動から数日 して、ビートルズとパティからは最高級のシャンパン、ドン・ペリニヨンが贈られてきたんだけど、そこにはカードが添えられていてね こう書いてあった。“トニー・マーロウ様、ジョージとパティより。魂を愛を込めて。”ってね。ぼくの名前を“マーロウ”って間違う くらい、二人がバタバタしていた証拠なんだよね。」 〜 George Harrison / What is Life 〜 The Beatles / Nowhere Man
・「ジョージは、元から飛行機を怖がっていたけど、1965年8月の全米ツアー中に起こった、ゾッとする出来事を体験してからは、それも 笑い事では済まなくなったね。」こう語るのは、1960年代ビートルズの広報担当として、全世界を飛び回った男トニー・バーロウ。彼は さらに詳しく、このエピソードを語ってくれた。「この日、ぼくたちのチャーター機が、オレゴン州ポートランドに近づくと、搭載されて いたエンジン二機の内、機体の右側のエンジンから火が吹き出したんだ。黒い煙を上げて、後ろに長く炎が見えたんだ。これには、ビック リしたね。隣に座っていたポール・マッカートニーは、どっか非常着陸出来るところはあるかなって、不安そうに聞いたけど、そんなとこ ろ、は見当たらなかった。何せ、右を見ても左を見ても、雲に届きそうな高い岩山が見えるだけだった。飛行機は、そんな険しい山のはざ まを飛んでいたんだからね。いやあ、怖かった。実は、この事件が発覚するまで、機長も副機長もすべて自動操縦に切り替えてコック ピットを離れて、客室でリンゴと談笑していたんだよ。なんせ、人気絶頂期のビートルズを乗せているんだからね。こんなチャンス、めっ たになかったんだよ。それで、乗組員を含めて、全員がこの一大危機を確認して、自分たちが命の危険に晒されていることを悟ったんだ。 ぼくたちは肝を冷やして、座席の肘掛けを握り締め、ぐっしょりと汗をかいていた。特に、ジョージの顔は、ひどく青ざめていた。その 10分後、心からほっとしたことに、欠陥エンジンはなおも炎を上げてはいたけど、飛行機は無事にポートランドの空港で、緊急消防隊が 用意していた消火剤の泡の上に、何とか着陸できたんだ。この大騒ぎの後、おかしなことがあってね。ジョージがスチュワーデスに、緊急 ハシゴの長さを聞いたら、12フィートですって言うんだ。そしたらジョージは、こう答えたんだ。『次は、高度13フィートを飛んでもら もうかな。』」 〜 The Beatles / Back in the U.S.S.R. 〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps (Love)
・Get Backが聞きたいです。(住所氏名不詳/男性) 〜 The Beatles / Get Back (小林)二つのコードで単純な曲なんですけど、本当は何のことを歌ってるんだろう、歌詞がちょっと不明なんですよね。何を歌ってるのか よく分からない。ビートルズの謎といえば謎ですよね。Come Togetherが、歌詞がぶっとんでて分からないじゃないですか。そういう感 じですよね。ただ、エピソードとしては、ポール・マッカートニーがビートルズとしてやる時に、オノ・ヨーコの方をチラ見しながら 「Get Back!」と歌ったというエピソードは有名ですよ。
要だったね。するとジョージは喜んで、瞑想伝道師、シタール奏者など、インド文化の象徴的な、さまざまなものについて、彼が必要だと 推薦する重たい著書を何冊もぼくの前に積み上げたんだ。これには、参ったね。でもぼくは、ジョージとの友情のために、何冊かには目を 通したんだよ。この後、ある者はジョージを変人と呼び、またある者は隠遁者と形容した。もちろん、天才扱いされることも、少ないこと ではなかったね。いずれにしても、ジョージ・ハリスンのイメージが変わっていったことには、間違いなかったよ。」 〜 The Beatles / Love You To 〜 George Harrison / My Sweet Load
チーと呼ばれていた。リンゴ・スターはオシャレで、派手な指輪を、指にずらりと並べていた。一度、ある記者に『なぜ、そんなにたくさ んの指輪をはめてるの?』と聞かれたとき、彼は『だって、鼻にははめられないだろ?』と答えて、大爆笑をかっていた。1962年、EMI パーラフォンのプロデューサー、ジョージ・マーティンとのテスト・セッションは続いていたけど、まだ Love Me Do がレコーディング される前のこと。ビートルズは(小林、声が枯れる)、前のドラムスを見限って、リンゴを入れた。ぼくは、正直メンバー・チェンジを するには、微妙な時期だと思っていたね。なんせ彼らは既に、リバプールではかなりの人気グループになっていたし、ピートはルックスも 良かった。だけど結局、ドラマーは交代したわけだ。実はある時、理由をジョンに聞いてみたことがあった。もう、ビートルズも後期に 入っていた頃かな。ジョンは、こう答えたんだ。『ピートは、ドラマーとしては、最高だった。でもリンゴは、ビートルズのメンバーと して、最高なんだ。』ってね。」 〜 The Beatles / Ticket to Ride 〜 The Beatles / Octopus Garden
スポットライトがジョージからリンゴに移って、彼のドラムが大活躍する Ticket to Ride。そして、今聞いてもらったのは、Octopus Garden。これはもちろん、リンゴ・スターのボーカルですよね。彼は、カントリー音楽が大好きで、カントリーっぽいフレーバーも入って ました。
□リクエスト ・ビートルズ大好きー! まわりには、ビートルズ好きはいませーん。高校一年生でーす。ジョン・レノン・ミュージアムに行ってきましーた。 父は、待ちくたびれたって言ってました。(柏市/女性) 〜 The Beatles / Free as a Bird
・カントリーの大御所さえ、カバーしたくなる、ポールのソングライターとして才能の高さを示していると思います。ビートルズとしても ポールの曲としても、この曲はあまりメジャーな曲ではなく、暗い曲として受け止めている方も多いんですが、ジョン・デンバーが歌うと こんなに伸びやかな曲になるということも、リスナーの皆さんと分かち合いたいと思います。(四街道市/男性) 〜 John Denver / Mother Nature's Sun
・先週の日曜日、中学時代の友人と池袋に行ってきました。卒業してからなかなか会えないので、楽しいひとときを過ごしました。と言いた いところですが、ひとつ問題が発生。帰りの電車で、携帯を落としてしまったんです。JRに連絡して、何とか見つかりました。一時は どうなるかと思いました。(住所氏名不詳) 〜 Peter & Gordon / I Don't Want to See You Again
・テレビを先日見ていたら、CCRのことをやっていました。あれほどヒット曲がありながら、第二のビートルズとまで言われながら、あっと いう間に解散したことが、少し分かったような気がします。ジョン・フォガティという天才と、他のメンバーとの確執が取り上げられてい ました。当時、ベトナム戦争のことを歌った曲だと聞いていましたが、テレビではグループのことを書いてあり、解散につながったような ことを言っていました。(千葉市若葉区/性別不詳) 〜 Creedence Clearwater Revival / Have You Ever Seen The Rain? (小林)グループのことを歌ったと言われれば、そうとも取れる内容ですね。
があるの? 言いたいことがあるの?」って、ジョージ・マーティンが言ったら、ジョージ・ハリスンが、有名な言葉ですよね。「アンタ のネクタイが気に入らない」って言って、この一言で打ち解け始めた。という、この日に関しては、色んな本が色んなことを書いてます からね。この日のレコーディングセッションに関しては、いろんな説があるんですけど、この曲はほとんどデビュー・シングルとして 決定していたんじゃないか。結果が良ければ、発売するつもりだったんじゃないかということであります。ドラムズは、ピート・ベスト が叩いているというバージョンを、きょうは一曲目に聞いていただきましょう。 〜 The Beatles / Love Me Do
ゴにスポットを当てることを思いついた。そのコーナーでは、リンゴは歌も披露していた。得意ナンバーは、当時人気のあったアメリカの ガールズ・グループ、シュレルズの曲 Boys だった。」 〜 The Beatles / Boys 〜 The Beatles / Paperback Writer
ロリー・ストーム&ハリケーンズの頃から、これを歌っていたというわけですよね。シブイ曲です! 実はこれB面の曲で、A面はシュレルズ の Will You Still Love Me Tomorrow っていう、キャロル・キングが作った、一回聞いたら若い人でも思い出すかもしれないようなヒット だったんですけど。B面に入っていた曲をやっている。この頃、ロリー・ストーム&ハリケーンズのスター・ドラマーだったわけですよね。 そして、この頃ビートルズは貧乏だったけど、リンゴ・スターは既に自家用車に乗っていて、いい格好をしていたという。だから、好条件 だったバンドからビートルズにきたわけです。だから、リンゴ・スターから見ると、ビートルズの方が魅力があったんだと思います。
・錦糸町で開催された、ギターパーツの祭典「ハンドクラフト・ギターフェス」に行ってきました。その中でも特に良かったのが、特設ス テージでのスペシャル・ライブ。ビートルズをアコースティックギター一本で弾く、センチメンタル・シティ・ロマンスのリーダー、 告井延隆さんの演奏を見る機会があり、彼の超絶ギター・テクニックに感動。アンコールでは、ぼくがリクエストした I Feel Fine を快く 弾いてくれ、喜びもひとしおでした。それにしても、告井さんのギター・フィーリングは素晴らしく、あんなに見事なビートルズ・カバー が、一般店頭には並ばないのは寂しすぎますね。(柏市/男性) 〜 The Beatles / I Feel Fine
・前回、リクエストをかけていただいた時は、家族全員リビングに集まり、ラジオに聞き入りました。先日、某雑貨屋さんでもらったカレン ダーに、6月29日がビートルズの日となっていました。初来日の記念日ですかね。それとも、初ライブの日でしょうか。長年、聞かせて もらっているのに、不勉強ですみません。(習志野市/女性) 〜 Michael Jackson / Liberian Girl
□ビートルズカレンダー(6月13日) ・1977年 (33年前) もちろん、ビートルズは解散していますが。アメリカで、 Beatles Live at the Star Club in Hambulg のアルバムが出ます。これは、 1962年ビートルズがデビューした後、最後のハンブルグのスタークラブでの仕事。スタークラブは、ハンブルグで一番のクラブだった らしいんですが、そこでマイク一本で、テープレコーダー直接録音。だから、音は大したことない。だけど、一本のマイクの方が、 かえってその頃の雰囲気を正直に捕まえることが出来ます。一本だからね、ホントに正直に。ほら、普通のレコードってのは、それぞれ の音を考えに考えて、色々バランスするわけですけど、一本のマイクというのは正直です。だけどね、我々の良い音に慣れた耳にとって は、「劣悪」とか「ハンブルグの喧騒」が伝わったりするんですけど、音が悪く聞こえて場末感がでたりするんですけど、これは貴重で すよね。しかし、これは実はEMIではなく、別の会社から発売されるわけです。ちょっと、海賊盤的なものですから。もちろん、裁判に なるわけですが。デジタルの時代、いくつかのバージョンが出てるわけですが、出たらしょうがないですよね。ということで、ちょうど ビートルズの悪い録音が出る1ヶ月ほど前に、ビートルズの唯一の公式ライブ Beatles at Hollywood Bowl というのが出た後ですね。そ の後で、海賊盤的なちょっと違法なものが出たわけですが。それでは、ビートルズがハンブルグの客を喜ばせるために、アメリカでの ヒットのカバーをやっていたという。それも、結構忠実にコピーしていたというのが分かります。マイク一本ですからね、いいですか? 〜 The Beatles / Sweet Little Sixteen
ね。自動的にリンゴは、昔教室でそうしていたように、沈黙という防護壁を張ったんだ。何も行動を起こさない方が、きまりの悪い思いを するかもしれない危険を冒すよりも、安全だったわけだ。率直に言って、そんなことは音楽集団であるビートルズの中では、まったく問題 にならなかったけど、そこはやっぱり新参者のリンゴのこと。そういった悩みからは、なかなか抜け出せなかったみたいだね。見ているこ っちも、辛くなるぐらいだったよ。 〜 Ringo Starr / Back off Boogaloo 〜 The Beatles / If I Fell
かった。それでもリンゴは、ビートルズのドラマーとして、レコーディングにツアーに、いつも熱心に全力投球で望んでくれた。おそらく いつかは、ファンに正式メンバーとして認めてもらいたいと、心から望んでいただろうね。」 〜 The Beatles / This Boy 〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever
この曲が一番好きだという人も多いと思いますが、ジョン・レノンの作品なのかな。ジョン・レノンの独特のぶっとんだ感じ、それから 哀愁感がビートルズの曲の特徴ですよね。その前の This Boy も、独特の哀愁がありますよね。でも、これはリンゴのテーマではなく、 失恋の歌ですよね。リンゴのテーマです!ってビートルズがやると、この人は君に帰って欲しいと思ってるんだよと、リンゴの顔があり ますからね。独特のキャラクターが。客にウケるわけですよね、リンゴ・スターのテーマと言われているわけです。
だ。ある日ぼくは、気づいたことがあってね。実は、リンゴはタバコの火を借りるとか、そういう口実がない限り、めったに自分から会話 を始めようとしないんだ。その一方で、もしぼくが、より意味のありそうな会話を始めようとすると、リンゴはそれに熱心に答えてくれよ うとした。つまりリンゴは、話が嫌いなわけじゃないんだ。ただやっぱり、自分の教育レベルの低さに、かなりの劣等感を持っていて、 自分は会話に加わることが出来るだろうかって、常に不安を抱いていたんだね。確かにリンゴは、言葉づかいにおいて間違えていたことも あったけど、逆にそれがユーモラスで、リンゴの持ち味でもあったわけだ。リンゴのその口調が、そのまま曲になったという例も、いくつ かあるからね。とにかく、ユニークな存在ですよ。リンゴ・スターという人物はね。」 〜 The Beatles / A Hard Day's Night 〜 The Beatles / Across The Universe
□リクエスト ・ビートルズの曲を聞くと、7ヶ月になる長男も、ノリノリでノッています。主に、ジョージ・ハリスンやリンゴ・スターの曲が好きです。 バングラデシュ・コンサートで、リンゴが歌ったこの曲をお願いします。途中で、歌詞を忘れるところが、リンゴらしいですね。 (かすみがうら市/男性) 〜 Ringo Starr / It Don't Come Easy (小林)ただこれは、チャリティだということを申請するのを、ジョージ・ハリスン忘れていたんだよね。だから実は、税金をいっぱい取ら れて、最初は大損するんですけど。
リンゴのいたロリー・ストーム&ハリケーンズと、何度となく共演していた。ある夜は、ピートが熱を出して寝込んでしまい、リンゴに その代役を頼んだこともあった。この時のリンゴのドラムテクを、ジョンやポールもジョージも、忘れることはなかった。そこには、ピン とくる何かがあったのである。 〜 The Beatles / Tell Me Why 〜 The Beatles / Dig a Pony (Naked)
るのである。ビートルズがロックのトップに到達する以前の、奇跡的な瞬間であった。 〜 The Beatles / Roll over Beethoven 〜 The Beatles / Get Back
有名な、ジョンの「オーディションに受かったかな?」というセリフもありましたが、Get Backと、その前はビートルズが好んでカヴァー していた曲ですが、ジョンの持ち歌だったんですけど、ジョージもやることないだろうと花を持たせたんですね。だから、ちょっとリ ニューに聞こえる Roll over Beethoven 、二曲続けました。
□リクエスト ・バングラデシュ難民救済コンサートでのツインドラムが、目に焼き付いています。あの記録映画は朝一番に行って、最終まで繰り返して 見ました。もし、音源があれば、リクエストします。(船橋市/男性) 〜 George Harrison / Wah-wah
(小林)結構良かったでしょ、Across The Universe。ジョン・レノンの原曲にはない、新しいリズムを感じたでしょ。もともとジェイクは ウクレレのジミヘンを目指したという人ですから。単なるカヴァーに終わってないところがいいです。彼の Across The Universe をお送り しました。Across The Universeは、ゲストにシンディ・ローパーが歌ってるんだよね。その中から、お送りしました(小林、かけた曲と アルバム情報がゴチャまぜになってるのに気付かず)。
・この曲は、ハードディズ・ナイトの映画で、電車の中で女の子の前で演奏するシーンが印象的で、中学時代にバンドの演奏をしたり、高校 時代に多重録音で一人で演奏したりで、思い出深い一つです。(所沢市/男性) 〜 The Beatles /I Should Have Known Better (小林)その中に、後にジョージ・ハリスンのカミさんになる、後にエリック・クラプトンのカミさんとなる、パティ・ボイドがいたわけで すね。
・ビートルズを聞くようになったのは中学時代、英語の授業でした。それまでは、中山美穂や工藤静香といったアイドルばかり聞いていたの で、新鮮に聞けました。ところで、4月から下の子が幼稚園に通うようになり、一人ゆっくりとビートルズが聴けるようになりました。 カフェ・オ・レを飲みながら、私のビートルズ・タイム。リラックス出来ます。(千葉市中央区/女性) 〜 The Beatles / Let it Be (Naked)
□トニー・バーロウから見たビートルズ史 ・1960年代初期、まだデビュー前のビートルズとの運命的なライブ・セッションからしばらくたち、リチャード・スターキー、つまり、あ のリンゴ・スターが、ビートルズに加わることになった。しばらくの間、リンゴは新参者として、自分をわきまえていた。それは、端から 見てもよく分かったし、新入りとしてでもなくても、リンゴは元々そういう性格でもあった。しかし、そのユニークなキャラクターは、誰 からも愛された。ビートルズと活動中、広報担当の責任者として世界中を飛び回った男、トニー・バーロウはこう証言している。「ぼくは リンゴのことを、陽気な飲み仲間だと思っていたし、彼のでしゃばらないさり気ないユーモアのセンスが大好きだった。実際、リンゴは かなり卓越したギャグを思いついたりもしたね。A Hard Day's Night、Eight Days a Week、Tomorrow Never Knowsなんていう曲のタイ トルは、みんなリンゴが思いついたり、独特な言い回しをしたりしたことからつけられたものなんだ。ジョンがリンゴの思いつきを頂いた ってことになるのかな。後、リンゴについての思い出を話すとすると、テレビに出た時のことかな。番組の司会者に『ビートルズは50年代 風のロッカーズですか。それとも、ロンドンで流行っているモッズ族ですか。』って聞かれたんだけど、リンゴはとっさに『ぼくらは、 ロッカーズでもモッズでもないね。強いて言うとしたら、モッカーかな。』って答えたんだ。このモッカー(Mocker)という言葉には、パク リ屋とかマネッコ野郎とかいう意味があるからね。ビートルズが、50年代のロックンロールやリズム&ブルース、その他いろんな音楽のお いしいところをパクってやってますよってことをひっかけての発言だったのかもしれないな。とかまあ、いろんなことを想像してしまう。 そんな調子で、とにかく愉快な男だったよ。リンゴ・スターってヤツはね。」 〜 Ringo Starr / You're Sixteen 〜 The Beatles / Don't Let Me Down (Naked)
・ぼくは、ドラムズをやっている17歳で、ジョン・ボーナムが好きです。この曲は、ツェッペリンの中で一番ドラミングが際立っていると 思います。長い曲ですが、フルでかけてもらえると幸いです。(我孫子市/男性) 〜 Led Zeppelin / When The Levee Breaks (小林)The Whoのキース・ムーンと並んで、このジョン・ボーナムは、二大ドラマーと言われています。フルで聞いてください!
いるんだよ。ぼくは、自分の鼻が大きいなんて、有名になるまで気がつかなかったんだけど、この鼻に関しては面白い話があってね。先日 ユダヤ人向けの雑誌ジューリッシュ・クロニクルの編集部が電話をかけてきて、どうやって番号を調べたのか分からないのだけど、自宅に 直接電話がかかってきたんだ。びっくりしたね。連中はぼくに、同胞であるユダヤ人としてインタビューしたいって言うんだ。その時は、 ちょっと頭がこんがらがったよ。え?俺ユダヤ人だったの!?って。もちろん、自分はユダヤ人ではないことを、時間をかけて説明したんだ けど、この時ハッキリと自覚したんだ。ああ、やっぱり俺、鼻がでかいんだなって。』」 〜 Ringo Starr / A Dose of Rock'n Roll
・自分のルックスに関しては、最初から諦めていたリンゴ・スター。それでもじわじわと人気を伸ばしていたことも事実であった。ビートル ズのPR担当トニー・バーロウは、こうも語っている。「リンゴは最後にビートルズに加わった人物ということもあって、ファンの多くは リンゴに関しての情報をあまり持っていなかったんだ。そうなると、必然的にリンゴに届くファンレターの数も、他の三人よりは少くなる んだよ。そのことで、いつもステージの後の方でがんばっているリンゴのことをかわいそうに思ったファンが、結集したことがあったね。 アメリカでのことだよ。リンゴはいつの間にか、彼女たちの同情票を集めたんだ。その子たちは、リンゴを応援するために結集して、 Ringo for President リンゴ・スターを大統領にという可愛らしいトリビュート・レコードまで出すことになって、アメリカではちょっとし た話題になったね。後、こんな思い出もあるね。1967年の夏、あのヒッピー・ムーブメント真っ盛りの夏のこと。ポールがビートルズの
メンバーに、マリファナ禁止法に反対する嘆願書に署名するように説得して回っていたんだ。これは、アメリカの雑誌タイムに全面広告と して掲載されることになっていたんだけど、実際に印刷される数日前に、リンゴの署名がされてないことが分かった。もちろん、芸能記者 連中がすぐにやってきて、リンゴは脱退するんですか?もしかして解散ですか?って、騒ぎ立てるんだ。もちろん、実態はポールがリンゴ のことをすっかり忘れていたってこと。それだけ。こういうことは、ビートルズの中で珍しいことじゃなかった。リンゴの確認なしに事が 運ぶことなんて、いつものことだったんだね。当然、リンゴはいつもように事後承諾をして、署名したことは言うまでもないけどね。」 〜 The Beatles / Octopus Garden 〜 The Beatles / If I Fell
・最初にビートルズのレコードを買ったのは、She Loves Youでした。あれから数十年、リンゴ・スターのエピソードを聞いていると、ジャ ケットに堂々と写ってるリンゴの姿はなんだろうと思ったりします。(千葉市美浜区/男性) 〜 The Beatles / She Loves You
・家族そろって聞いている東京在住の者です。6月13日の放送で、ジョンのStrawbery〜がかかったとき、1歳8ヶ月の娘が曲の出だしを真似 て、♪ポッポッポッポッポポポーと口ずさんだんです。これには驚きました。普段、親の声や車の音、鳥のさえずりをよく真似していたん ですが、ラジオの音には反応してませんでした。それでも、ビートルズの音には反応したんですね。ビートルズ、ジョンはやはりすごいな と改めて認識しました。リクエストは、ビートルズのカバーの中で特出物だと思います。ぼくは、No.1だと思っています。(大田区/男性) 〜 David Bowie / Across The Universe (小林)これは、個人的には賛否両論がありまして、ジョン・レノンのああいう歌い方を感情豊かに、ぼくの言葉で申し訳ないですが、演歌 みたいに歌っていいものか?という、声もぼくの自分自身の中にはあるんです。だから、ちょっとぼくにとっては問題曲であります。これ は、番組を聞いてる人の反応も聞いてみたいですね。
認めている。もちろん、これは曲を書いたかどうか、シングルヒットにどれだけ貢献したかという尺度での話なんだけど、いつでも世の 中はそういう見方をするので、こればかりはしょうがないんだ。だから、ビートルズが解散してしまうと、リンゴがひとりで出来ること は、どうしても制限されてしまった。もちろん、エンタテナーとしての資質とか芸人根性とか、世間に注目されたい、みんなに楽しんで 欲しいっていう熱意で言ったら、リンゴは間違いなくポールと張っていたからね。これだけは、間違いないよ。」 〜 Ringo Starr / Only You 〜 The Beatles / Ticket to Ride
・この番組を、友だちが録音してくれたものを毎週聞いています。ビートルズに出会ったきっかけは、中学一年の夏に授業で歌った Hello Goodbyeでした。シンプルな曲なのにとてもキャッチーなこの曲を、なぜか私は特に好きになり、その時から十年経った今もビートルズ のファンでいます。最近では、解散後のアルバムを聞く事が増え、特にポールのラムに入っている Backseat〜にハマっています。まだ この曲に出会ったことのない人に聞いて欲しいと思ったので、リクエストします。この曲を聞いて私は、さすがポールだと感心してしま いました。(中野区/男性) 〜 Paul McCartney / Backseat of My Car (小林)桑田佳祐の話ですけど、ポールは何百通りもの歌い方をしている、何百通りもの声を出しているということですね。この一曲でも やっぱりポールとしては、時にはルーズに、時にはワイルドに、すごいですねポール・マッカートニーはね。桑田佳祐は、ポールを尊敬 していると言っています。
□ビートルズカレンダー(7月18日) ・1963年 (47年前) 彼らは、EMIの第2スタジオ、これが彼らに割り当てられたスタジオなんですが、デビュー・アルバムがイギリスでは売れているわけで す。そして、ビートルズのポリシーっていうのがあって、実質的にはプロデューサーのジョージ・マーティンとエプスタインが、一年間 に4枚のシングルを出す、アルバムは2枚。これが目標です。で、だから、最初のアルバムが売れてるんだけど、もう2枚目のレコーディ ングに入っていて、今から47年前のきょうは、カバー・バージョンを中心にやっています。この日は、カバーを3曲レコーディング。 オリジナルは、シングル用に、ジョン・レノンがオリジナルにこだわったとことは有名ですが、ジョン・レノンがいなかったら、カバー とか、人が作った曲をやることになってたわけですけど、人が作って同年代のプロが作るんじゃなくて、ビートルズのメンバーが好きな 曲をカバーするという。そしてきょうは、そんなカバーの中の曲を、ジョンの名唱を一曲お送りしようと思いますが、ビートルズがいか に黒人音楽の特にリズム&ブルーズに参っていたかを分かる録音になっています。これは、アメリカなんかではミラクルズの大ヒットな んですが、ビートルズはやっぱスゴイなと思うのは、彼らがやるとぜんぜん違う風に聞こえるんですよ。オリジナルは結構ファンキーな 黒人節なんですけど、これをジョンの名唱ではこんな風になっています。 〜 The Beatles / You Really Got a Hold on Me
・「初期のビートルズのリーダーは、間違いなくジョン・レノンだったね。」こう語っているのは、1960年代ビートルズ人気絶頂の時期に 世界中を一緒に飛び回った広報担当者トニー・バーロウ。彼は、ジョンについて、さらに続けてくれた。「ステージでのジョンは、両足を 大きく開いて、足の裏でしっかりと床をとらえて、ビートを刻んでいた。それが、圧倒的な存在感と威圧感をかもし出していて、ロック・ ボーカリストとして視覚的に見るものの心をつかんで離さなかった。地元リバプールのキャヴァーンでは、不良っぽいレザージャケットに 身を包んだビートルズが、その小さなステージ越しに手を伸ばせば最前列にいる女の子が差し出した指にタッチすることが出来たし、リク エストや電話番号が書かれたメモを受け取ることも出来た。ステージで、タバコをスパスパ吸いながら演奏すると、女の子たちはそれだけ で狂喜したものだった。あの頃既にビートルズは、女性ファンにとってのセックス・シンボルだったってわけだ。ステージに、女性の下着 が投げ込まれることで有名なあのトム・ジョーンズが登場する、ずっと前のことだからね。その頃のビートルズのリーダーがジョンであっ たことには間違いないけど、もしそうでなくてもブライアン・エプスタインは、ジョンの存在そのものに惚れ込んでいた。ジョンの魅力こ そが、ブライアンにビートルズのマネージメント契約を結ばせた、最大の要因だったからね。ジョンの荒々しくタフで、レザージャケット に実を包んだイメージこそが、ビートルズの魅力そのものだったし、求心力がなければ、ブライアンもそこまで一生懸命にすることもなか ったと思う。やっぱり、ジョンのカリスマなんだね。ビートルズの成功の一番の理由は。」 〜 The Beatles / Help! 〜 The Beatles / Fool on The Hill
・「ビートルズの成功の理由? それは、何と言ってもジョンのカリスマだろうね。」これは、1960年代ビートルズの広報担当として、世界 中を駆けまわった、トニー・バーロウの発言である。バーロウの証言を、さらに紹介しよう。「実のところ、ビートルズのメンバーの中で ぼくが打ち解けることの出来た“最後の”メンバーが、ジョン・レノンだったんだよ。当初は、あれほど自分を過大に評価して、あれほど ぼくを過小に評価する男とは、一生うまくやっていけることはないだろうと考えていたんだ。出会ってから何ヶ月もの間、言葉によるぼく らの接触は一方的なもので、それはジョンのぼくに対する残酷極まりないジョークに限られていたんだ。それもぼくに対して、冗談である ことを分からせようという類のものじゃないんだ。周りのみんなを巻き込んで、ぼくを馬鹿にするとか、そんな意図が感じられる悪質なも のだったんだ。こうしたことが繰り返されると、人間というのはすっかり身構えてしまうんだけど、それに加えてジョンが人一倍短気で、 さらに喧嘩っ早いことも有名だったので、ぼくはじっとガマンするしかなかったんだ。もちろん、途中からすっかり慣れっこになったのも あるんだけどね。ぼくへの攻撃はともかくとして、マネージャーのブライアンに対してのものは、端で見ていても辛かった。ブライアン・ エプスタインという人物は、繊細そのものだったから、なおさらだね。ブライアンが目に涙を浮かべるほどダメージを受けてても、ジョン は容赦ない攻撃を繰り返すわけだ。これは、まったくもって、心地良いものではなかった。こういったすべての攻撃は、ジョン本人はホン の冗談でやっていたことだけど、それが周りのみんなに伝わっていなかった。つまり、誰も笑っていなかったんだ。残酷とユーモアの表裏 一体。それこそが、ジョン・レノンの本質なのかもしれないね。」 〜 The Beatles / I am The Walrus 〜 The Beatles / Across The Universe
・小学生の時、ビートルズが来日して、武道館でのコンサートをテレビ中継し、ドリフターズが前座で演奏していたのを覚えています。その 際、ビートルズが演奏したこの曲をお願いします。(千葉市花見川区/男性/55歳) 〜 The Beatles / Please Please Me (小林)これはね、武道館でやってないんですよ。プログラムに書いてあったらしいんですけど。だから、新聞なんかもプログラムを鵜呑み にして、よくあるじゃないですか新聞なんかが書いてあって、全然本当は違っていたという。だから、演奏されてなかったんですが、お答 えします!
・小学六年生の息子に贈りたいです。ビートルズのとりこになるようにね。(八千代市/男性) 〜 John Lennon / Imagine (小林)水をさすような話になりますが、これは意地悪じゃないですよ。日本では特に過大評価されている曲ですが、こんなに素晴らしい、 永遠に残るような曲を、きょうのジョンの話じゃないですけど、心のどこから出てくるのか、グリーン・デイという素晴らしいバンドがい ますけど、そこの中心のアームストロングという人がね、心の暗いところから、光が当たらないところから出てくるんだって。それも、こ の世の中の現実だってことですね。こういう子どもに、オブラードに包むようにして教えてあげたいですよね。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史 ・「残酷さとユーモアが表裏一体となったもの、それこそがジョン・レノンの本質だと思うよ。」これは、1960年代当時の広報担当トニー ・バーロウの言葉である。今週も、バーロウの証言からご紹介しよう。「ぼくが、ビートルズと仕事をしていた頃、人間関係・信頼関係と という意味において、一番苦労したのはジョンだったね。なにせ、いつも皮肉たっぷりの攻撃ばかりで、実際にはどういうことを考えてい るのか、さっぱりつかめないんだ。だから、いつの間にか彼との関係は疎遠になって、必要な言葉しか交わさなくなる。それに比べ、ポー ル、ジョージ、リンゴとはすんなり仲良くなれた。特別、意識的に努力することもなく、友情も芽生えたんだ。ただ、とにかくジョンとは 駄目だった。それがあるとき、そのジョンの他人に対しての態度が、すべて彼にとっての防護壁、つまり外敵から身を守るための手段であ るということに気づいたんだ。このことを理解するまでには、かなり時間が必要だったけど、やっと分かったんだよ。ジョンは、きっとい つも確認が持てず、不安だったんだ。ビートルズの他の三人は、おそらくずっと前からそのことに気づいていて、そんなジョンを好きにさ せていたんだと思う。分かりやすく説明すると、ジョンにとっては、新たに目の前に現れる人間は、すべて敵 ── ということになって、 まずは高圧的な態度に出ようとする。もし、相手が自分を抑圧する可能性があるのであれば、まずその芽を摘みとってしまうわけだ。それ が、ジョンのやり方なんだ。やられる前にやっちまえ、そういうタイプの戦略だったわけだ。ぼくは、やっとそれに気づいたんだよ。本当 に、やっとね。」 〜 John Lennon / How Do You Sleep?
・「ビートルズのスタッフは、ジョンの悪質極まりないジョークには、ウンザリしていた。例えばしょっちゅう、不幸な人のモノマネをやっ たりするんだ。からだをよじったり、猥褻な言葉をわめき散らしたり、ひどいものだった。深夜のキャヴァーンや、酔っ払い相手のハン ブルグならいざ知らず、健全なロンドンの若者の前でこれをやられては、マネージャーのブライアンも困り果てていた。とにかくジョンは やりたいことは何でもやってしまう。ハンブルグじゃ、客が全員ドイツ人なのに、ステージでヒトラーのマネをするんだ。客は沸くんだけ ど、周りはヒヤヒヤだよ。だけど、このスリルこそが、ジョン・レノンのチャームポイントだったことだけは間違いないね。」 〜 The Beatles / She Loves You 〜 The Beatles / Here Comes The Sun
れから大道芸人からギターを手渡されて、ジョージはこの時、大ヒットしていた All You〜のB面の Baby You're〜を道ばたで歌って、 大絶賛を浴びたと。つまり、43年前のちょうどいま頃ですね。ジョージ・ハリソンは、ヒッピーの発祥地の、ヒッピーのメッカというか サンフランシスコのハイト・アシュベリーに見に行ったわけです。どんな状態だったか。実は、堕落したヒッピーたちに幻滅して、呂律 が回らないわけですから、何かいけないものをやってたりするわけですよね。それから、ぼくもちょっと後、行ったことがありますけど やっぱりヒッピーは生活があるわけです。だからみんな、お金をたかるんですよね。違う意味で、ぼくも幻滅しましたけど。だけど、 サンフランシスコはそれから、音楽のわずかな年月ですけど、3年から4年ぐらいは、世界の中心地になるんです、音楽的に。サンフラ ンシスコから、すごい良いものが出てくる時なんです。 〜 The Beatles / All You Need is Love
□トニー・バーロウから見たビートルズ史 ・「ビートルズのスタッフをいびりまくったり、マネージャーのブライアン・エプスタインに肉体的な虐待を加えたり、あるいは気の毒な人 たちをネタに物まねをしたり、ジョン・レノンの一連の悪ふざけは、仲間内でも見て見ぬふりをするしかなかったよね。」これは、1960 年代当時のビートルズの広報担当、トニー・バーロウの言葉である。今週も、バーロウの証言から紹介することにしよう。「ジョンの悪 ふざけは、いつも周りをギョッとさせるものだったんだけど、そもそも彼の音楽の大半は、その生き方と同じく、物議をかもすものが多 かった。例えば、 I am The Walrus なんかは、ジョンにしか書けない曲だよね。ジョンは、あの時代において、極めて冒険的なソングラ イターの一人で、おそらく少なくとも10年は時代を先取りしていたと思う。もしもジョンが、オノ・ヨーコと結婚していなくて、一人で ニューヨークへ行っていたなら、彼はニューヨーク・パンクの代表的なアーティストになっていたんじゃないかな。後、ジョンの中には、
対照的なキャラクターが同居していて、それは彼の極親しい仲間までも混乱させたんだ。シンシアとの結婚でさえも彼の中では、半分は ファンタジー、夢で、後の半分は偽りだったと思うね。ジョンにとってのシンシアは、目をつぶってブリジット・バルドーを思い浮かべる ようなものだったことを、ヤツはぼくに認めたんだよ。結局、シンシアはジョンが求める理想的な女性像になりきろうと頑張っていたに 過ぎなかったんだ。ジョンは、ぼくにハッキリこう言った。『1962年、シンシアが妊娠していなかったら、俺は彼女と結婚することはな かったと思うよ』ってね。だから、ジョンはヨーコと出会うまで、本当に女性を愛したことがなかったということになると思うね。」 〜 The Beatles / Girl 〜 The Beatles / Two of Us
うことが発見できたかもしれない。今では、そう思っている。ジョンには、本質的な本当に優しい部分があった。いわば、ジョンの心は、 カラが硬い木の実で、その鎧のようなカラを取り除いてやれば、そこには心優しい男が隠れていた。そういう事だったと思うんだよね。 やっぱり、ポールとはどこまでも正反対の人間だったね。ジョン・レノンという男は。」 〜 John Lennon / Stand by Me 〜 The Beatles / The Long and Winding Road
だ。まったく、かまってあげられてないんだ。』その夜、ぼくはこういったジョンの悩みを、朝まで聞いてやった。ジョンも、やっと心を 開いてくれたんだ。その後、数年間に渡って、ぼくとジョンは親友関係を続けたことは、言うまでもないね。」 〜 The Beatles / This Boy
□リクエスト ・先日、父のリクエストが読まれたことを、偶然聞きました。ちょっと、ビックリしました。ぼくにとってのビートルズは、中学の時に英語 の先生が授業の最初にラジカセでかけて、歌詞を和訳してくれた思い出です。家に帰って、きょうの曲を言うと、すぐまた父が聞かせてく れました。一番、印象に残っている歌詞は、Imagineです。父は、これはジョンの曲だから、ビートルズじゃないよと言ってました。 (千葉市美浜区/男性) 〜 John Lennon / Imagine
・私は今年、受験生なんですが、ラジオを聞いて勉強しているときに、この曲を知りました。勉強は、正直辛いですが、この番組からビート ルズの曲が流れると、英語頑張ろうと思います。そこで、高校受験の時も聞きまくって、お世話になった曲である Nowhere Manをリクエ ストします。(所沢市/女性/18歳) 〜 The Beatles / Nowhere Man
・6月以降から、ぼくの通う中学校では、最終下校が6時半に伸びました。6時半になって、早一ヶ月。いま、ぼくの入っている吹奏楽部では コンクール金賞に向けて、ほぼ毎日練習を続けています。そういった毎日が続くので、下校の帰り道、よく「疲れた、早く帰りたい」と 思うようになってきました。それと同時に、家に帰ったら、まず何をしようとか、その次はあれをやろう、こういったことも考えるように なりました。こんな心境と似た様な曲をお願いします。(八千代市/男性/14歳) 〜 The Beatles / When I Get Home
□トニー・バーロウから見たビートルズ史 ・先週まで続いた、1960年代当時のビートルズ広報のトニー・バーロウによる、四人の人物像紹介。このインタビューをさらに、ビートル ズのマネージャー、伝説的人物であるブライアン・エプスタインについて聞いてみることにしよう。「ぼくが知る限りで、ブライアン・ エプスタインは、最も悲哀に満ちた、しかし、最も成功したビジネスマンだ。彼こそは、金で愛は買えないということの生きた証、そして やがては、死に行く証だった。持続的で、愛情の通う人間関係を育む能力の欠如が、彼を惨めなまでに不幸にしていたんだ。その代わりに 荒々しい性的欲望が、ブライアンを心ない大人や少年などとの危うい行きずりの関係に引きずり込み、利用され、傷つけられ、盗まれ、 救いようのない状態に貶められていった。ブライアンは、演劇学校の授業についていく事ができず、俳優になる夢を断念していた。しかし その後の栄光の5年間に於いて、20世紀の最も偉大なソングライターコンビを擁する、世界一有名なロックバンドのマネージャーを演じた わけだ。この輝かしい年月の内の、少なくとも最初の数年間、ビートルズの目には、ブライアンは素晴らしいマネージャーであり、尊敬に 値するお手本であり、頭が切れる良き指導者であり、良き友達として映っていたと思うよ。四人は、ブライアンの豊富な社交力の手腕を 完全に信用しきっていたからね。ブライアンは、ビートルズのマネージメントを始めた時も、NEMSに管理部門を作った時も、スタッフと 同じように、自分をショー・ビジネスでの経験は皆無だった。しかし、アーチスト側にも経営側にも、全国的なクリエイティブな意味に おいて、一刻も早い改革が望まれていたこの時代。ぼくたちは、自らの無知を欠点とはせず、独自の新鮮なアイデアを吹き込むことで、 新たな可能性を見出していた。NEMSが業界内で勢力を伸ばしていった理由は、ここにあったわけだ。」 〜 The Beatles / From Me to You 〜 The Beatles / Drive My Car
・「トップ20のレコードを、レコード店のオーナーとして売るのと、テレビのプロデューサーやコンサート・プロモーターに売り込むのと では、仕事の種類として、あまりに違いがあった。ブライアンは、それをやるためにある秘策を使ったんだよ。」1960年代、ビートルズ の広報マンとして、世界中をメンバーと共に駆け回った男、トニー・バーロウの証言による、マネージャー、ブライアン・エプスタインの 人物像。ブライアンが使った秘策とは、一体なんなのだろうか。バーロウのインタビューから、さらに続けてお送りしよう。「一言でいう と、ブライアンは経験の無さを、ハッタリで補ったんだ。業界一流の大物たちから、ビーチサイドにある劇場の夏の一週間興行や、テレビ の特別番組の出演料まで、ビートルズに対してある出演料を提示されても、ブライアンとしては、それが良い話なのか悪い話なのか、さっ ぱり分からなかった。だから、翌日返事をすると約束して、時間稼ぎをするんだ。その間に、新しく雇ったロンドンの弁護士ディビッド・ ジェイコブスにアドバイスを求めると、おそらくギャラは妥当だろうと言われ、そして同じ頃、交渉していた大物は提示金額が低すぎた ためにビートルズを逃してしまうかもしれないと心配になってきて、もっと高い金額を出してきて、翌日一番にブライアンに電話をかけ てくるんだね。そうやって、容易く得られる成果に満足したブライアンは、自分のプロとしての弱さを強さに変え、この手法を最大の武器 にするようになったんだ。ブライアンは、自慢げにこう話していたよ。『ぼくは、最初に提示された出演料に、絶対に首を縦に振らないん だ。なぜなら、その次にはもっと良い金額が待っているからね。』これが、素人の強みなのか、生まれ持った運なのか。今となっては、誰 にも分からないね。」 〜 The Beatles / Rock and Roll Music 〜 The Beatles / A Hard Day's Night
早過ぎる死を遂げるその日まで、まったく変わることはなかった。しかし、飲酒の習慣 ── これだけに関しては、ビートルズが成功すれば するほど、その量が増えていったことは、周りの誰もが知っている事実であった。 〜 The Beatles / Dr. Robert 〜 The Beatles / P.S. I Love You
・1956年9月に22歳の誕生日を迎える頃、ブライアンはイギリスで最も有名な演劇学校である王立演劇学校に通い始める。しかし、ここで もブライアンは馴染むことが出来ず、一年もしないうちに辞めてしまった。次にブライアンが起こしたアクションは、父親を説得し、家族 で経営する電気店のレコード売り場を拡張することであった。ブライアンの予測では、アメリカからのロックンロールの襲来が音楽シーン に革命を起こすということだった。この意見により、父親は事業を拡張し、息子のブライアンをリバプール市内のシャーロット・ストリ ートにあるNEMS(North End Music Store)の一店舗のマネージャーに就任させ、後には新しくホワイトチャペルに出来た本店をも任せる こととなった。息子の能力を認め、その才覚でもって、店を自由に切り盛りさせていたのである。ブライアンは、朝の8時から夜遅くまで 周りが呆れるほど長時間、根気よく働いた。後に自伝として出版されるブライアンの自伝「ビートルズ神話・エプスタイン回想録」による と、NEMSのポップレコード事業は、1962年秋までは18石仕様の高級腕時計のようにせわしなく、日夜稼働していた ── と、記載されて いる。ブライアンは、一度聞いただけで、そのレコードが次にNo.1ヒットになるかどうかを判断する、並外れた直感力に自信を持っており レコードショップの経営者から、アーチストマネージメント事務所の社長に商売替えをした際にも、この能力が大きな武器になると確信し ていた。さらに、かつては俳優を目指していただけあって、ブライアンは自分自身の視点だけでなく、パフォーマーの立場もよく理解する ことが出来た。このことが、ブライアンをよりアーチストの気持ちがわかるマネージャーにしていたのかもしれない。このブライアン・ エプスタインという人物は、それまでのイギリスの音楽マネージャーとは、一味も二味も違っていたのである。
□リクエスト ・ビートルズに関する衝撃的なエピソードをいろいろ紹介されて、驚いています。最近の放送で紹介されている、ジョンの残酷さとユーモア を象徴するようなエピソードに、ジョン・レノンは若い頃とんでもないヤツだったんだと、改めて実感しました。ところが、ビートルズ 解散後は、Love & Peaceをメッセージにしたり、日本のお寺で仏像修行に励んだり、ビートルズ時代とはかなり変わったと思います。や はり、小野洋子さんの影響でしょうか。5〜6年前から感じていたことなんですが、ビートルズ時代の楽曲はジョンの曲のほうが良いです ね。ポールの曲よりビートが強くて、ドライブ感があって、やはりロックです。ところが、それぞれがソロになってからは、ジョンの曲は 飾り気がなくなってシンプルになってしまって、逆にポールの曲のほうが面白いと思います。ポールが、またワールドツアーを始めたよう です。今度のツアーは、オープニングが Venus and Mars ~ Rock Show ~ Jet らしいんです。この曲、1977年でしたか、日本公演で演奏 される予定でしたが、例の麻薬事件で日本に入国できず、幻に終わってしまいました。30年以上たって、やっとこの曲の生ライブが聴ける 日本のファンにとっては感激もひとしお、ふたしお、さんしおぐらいあるのではないでしょうか。中には、卒倒して倒れるファンもいるの ではないでしょうか。もちろん、今回のツアー、日本にもきますよね。そこでリクエストですが、Wings Over Americaから、オープニング ナンバー、Venus and Mars ~ Rock Show をお願いします。 Jet まで長すぎたら、Rock Show まででも結構です。(小平市/男性) 〜 Paul McCartney and Wings / Venus and Mars ~ Rock Show ~ Jet
(小林)どうでしょうね。100%影響というか、二人で作ったものであることは確かですね。それでは、この曲日本でもやってくれるのか? Rock Show まででも結構ですってことだったけど、やっぱり Jet まで聞かないと完璧じゃないって感じかな。70年代に入って、ジョンは ジョンらしく、ポールはポールらしく。ぼくなんかは個人的に、Wingsのこういう Venus and Marsを聞いたときは、ああポールはもう ビートルズじゃなくなったんだなという感じがありましたね。ぜんぜん違う音楽をやっているというような感じがしたんですが、今から 見ると、これがポールらしさということだったのかな。
□リクエスト ・本来なら、だいぶ以前にリクエストを送りたかったんですが、曲のタイトルがどうしても思い出せず、今日に至った次第であります。リク エストですが、RAMのアルバムの中の Eat at Home の次の曲をお願いできますでしょうか。確か、曲の最初が Well, well, well, well, well. Do you love me like you know what to do... 。相変わらず、タイトルが分からなくて申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。 (世田谷区/女性) 〜 Paul McCartney and Linda McCartney / Long Haired Lady (小林)本当に、耳が良い方ですよね。タイトルは、もうどうでもいいのかもしれない。ただ、人とコミュニケートするとき、タイトルが 必要というわけで。
・私はビートルズの曲をよく聞きますが、家内はほとんど聞きません。でも、この曲は知っているので、リクエストします。(千葉市花見川 区/男性) 〜 The Beatles / Hello, Goodbye
・ジョン・レノンは、オノだけを愛していたんですかねえ。1980年当時も、メイ・パングと関わっていた話があるんですが、Womanでウ ソつきましたよね。(香取市/名前なし) 〜 John Lennon / Nobody Loves You (小林)大人なんだから、野暮な事は言わないように。
□ビートルズカレンダー(8月29日) ・1966年 (44年前) ご存知、ビートルズが日本にきた年。そして、とても重要な年なんですよ。サンフランシスコのキャンドルスティック球場で、ビート ルズが最後のコンサートをやります。本当に、正式な最後のライブをやるわけです。思い起こせば、この年は6月のドイツから始まって 日本にやってきて、その後フィリピンに行くんですが、コンサートはいちおう盛り上がるんですけど、その後のパーティーに出るのを 断ったので、本当に死ぬ思いをするわけです。悪夢のフィリピンのツアーを終え、キリストより人気があるという、ジョン・レノンが インタビューで答えたことがアメリカで暴動を巻き起こすことになるわけです。だから、本当にビートルズは、1966年は危ない年。 ちょうど44年前のきょう、その野球場で行われた内容は、Rock'n Roll Musicで始まって、Long Tall Sallyで終わるという、ほぼ日本公演 と同じ内容でした。だから、野球なんかでよく言う消化試合みたいなものですね。もう、お客がキャーキャー言って、うるさくて聞こえ ないし、コンサートをやってる意味がないからやめようよ。で、彼らはレコードを作ることにものすごく興味が湧いてきた時代なんで ライブをやめることにするんです。それが、44年前のきょうであります。だから、この日から1969年の1月30日、自分たちのビル アップル・ビルの屋上で、映画 Let it Be のためのゲリラライブをやりますよね。それまで、四人が本当に人前で演奏することはなかった んです。だから、44年前のきょう、彼らが演奏した最後のナンバー、これを聞いてもらいましょう。 〜 The Beatles / Long Tall Sally
□ブライアン・エプスタインの側面から探るビートルズの真実 ・ビートルズを発掘し、ロック界のてっぺんのてっぺんの一番頂上まで導いた男、ブライアン・エプスタイン。今週も、そのブライアンの 人物像を、色々な角度から掘り下げてみよう。 ── ブライアンは、謎に包まれた人物であり、1967年に若くして亡くなっているため その実像は定かではないが、いろんな意味に於いて魅力的で興味深い人間であったことに間違いはない。しかし、彼の会社NEMSで働く 者にとっては、彼の二面性がかなり問題となっていた。ブライアンの元で働くということは、ジキル博士とハイド氏の側で過ごすような ものであったとも言える。あのおぞましいハイド氏が、社交や仕事の場ではあれほど素晴らしいホストになれる人物と同一人物であるこ とは、スタッフにはどうにも理解できなかった。ブライアンがディナーパーティーで幹部社員数名と、場合によっては彼のお気に入りの スター、一・二名も一緒に同席しているとき、かんしゃく持ちの上司から一転、華やかで愉快な話術の名士に変身した。ブライアンは ウィットに富み、チャーミングであらゆる意味で気前のいいホストになるのだ。それと同じように、NEMSと取引をした外部の人間にと ってのブライアンは、もれなく愛想のよく、好印象のジキル博士であり、決して暴言を吐き捨てるハイド氏ではなかった。ただ、妙なこ とに、誰かを解雇しなければならないときのような、深刻な事態が生じたりすると、ブライアンは決まって尻込みをしてしまい、もっとも らしい理屈をこねて、責任を部下に押し付ける。この他のすべての状況下において、自分の権限は絶対的なものであり、他人に委ねること こそ決してしなかったが、こと解雇というと話は別だ。それは例外で、ブライアンは、常に二の足を踏んだ。しかし、ビートルズと出会っ て一年以内に、その決断の日は、やって来るのである。 〜 The Beatles / Love Me Do (Anthology 1) 〜 The Beatles / Things We Said Today
・メジャーデビュー前のビートルズのドラマーは、リンゴ・スターではなく、ピート・ベストという男であった。このハンサムなナイスガイ は、地元リバプールの本拠地キャヴァーンのファンの間で、あまりに人気が高くなりすぎた。口数が少く、憂いのあるルックスのピートは セックスアピールを撒き散らし、少なくともキャヴァーンの女性常連客にとって、ポールよりも人気があった。それ故、ポールにとっても このピートは、目の上のたんこぶ的な存在であった ── という説もかなり有力である。しかし、これに対し、最近になってポールは語っ ている。「ピートは、ぼくらにとっては、ハンブルグ・ツアーを乗り切るために雇ったドラマーだったんだよ。だって、ドラムスもいない バンドには、仕事もやれないって言われたら、急いでドラマーを探すしかなかったわけだ。選り好みをしている余裕なんてなかった。だか ら、正直なところ、ピートが辞めてリンゴがやってくるまで、ビートルズは完璧じゃなかったんだ。リンゴが入って、初めてビートルズが 完成したってわけさ。リンゴとは、前から面識あって、ハンブルグでの仕事も一緒だったし、何度かセッションしたこともあって、素晴ら しいミュージシャンだと感じていた。だから、リンゴがビートルズのメンバーになるのは、ごく自然な出来事だったと思うね。」もちろん もう50年前の話である。ポールの記憶も、気持ち的な意味においても、いろんなことは忘れ去られていても不思議ではない。しかし、現実 にピート・ベストの解雇劇に関しては、個人的な出来事だけではなく、ビジネスの上でも、色々な複雑な事情が絡み合っていたのである。 〜 The Beatles / Happiness is a Warm Gun 〜 The Beatles / The Fool on The Hill (Anthology 2)
□リクエスト ・私は、毎週週末の早朝に、地元手賀沼の公園に集合して、ジョギング仲間と走っています。真ん中の大橋で折り返すと、9km。一周すると 約19km。これは、程よい距離です。夏は、暑くなる前の早朝5時に集合して走ります。30代から50代のお父さんが多い時で、10名ほど。 これは、目的はレースの成績ではなくて、おしゃべりです。仕事とは無縁の仲間たちで、他愛のない会話をしながら、自然の空気に触れて います。他にも、花火一発の値段はいくらぐらいするのとか、調べたところ小さなスターマイン一発で30万円、大きいもので80万円程度 であることがわかりました。そんな知識を持って眺めた今年の花火は格別な思いがしました。[以下省略](流山市/男性) 〜 Bon Jovi / Born to be My Baby (小林)長いリクエストでした。
・ビートルズの影響で、中学生の時から、ピアノを独学でやっています。演奏は苦手で、習ったこともないので、楽譜も読めないし、符号 も良く分かりません。弾きたい一心で、CDやネット上の動画を何回も見たりして、見よう見まねでやってるうちに、一通り弾けるように なりました。自分で言うのも変ですが、感動してしまいました。そして、コード弾きという技も分かってきた最中です。今回リクエスト するのが、最近練習しているこの曲です。かっこいいので、ぜひ弾けるように頑張りたいです。(三郷市/男性) 〜 The Beatles / Hello, Goodbye
・先日、屋外イベントライブで、オリアンティがジョンとヨーコのTシャツを着ているのを見て、何だか嬉しくなってメールしました。 克也さん、彼女とビートルズに関する話はされたのでしょうか。(栃木県下都賀郡/男性) 〜 Orianthi / Sunshine of Your Love (小林)しませんでした。ただ、お父さんがメチャメチャいれこんでる人で、ギターのコレクションも100丁以上持ってたらしいですよね。 その中から、彼女最初左利きだったらしいんですが、お父さんが左利き用にストリングスをやってくれたりして。
・最近、カントリーを聴くのにハマっています。特に、カントリーの元祖、チャック・ベリーが大好きです。(鉾田市/男性/15歳) 〜 Chuck Berry / Roll over Beethoven (小林)まあ、チャック・ベリー、カントリーに入れてもいいけど。
採用されなくて、ポールはちょっとした孤立状態になるわけですね。で、この曲に行こうと思うんですが、この曲は(録音の時)ス タジオにアラン・クラインが着ていたらしいんですよ。ポール・マッカートニーが作った曲だけど、ポールはアラン・クラインをに らみつけながら歌った ── なにしろ、曲の内容が“オマエは俺達に金をくれない”という、このドケチめ!という歌なんです。ひど いね〜。 〜 The Beatles / You Never Give Me Your Money
・ビートルズになれなかった男として、有名なピート・ベスト。彼の母親モナ・ベストは、地元リバプールの若者の社交場である、カスバ の経営者であり、ビートルズの実質的なマネージャーでもあった。気前がよく、面倒見もよく、何より見た目が若々しく、ハツラツとし ていた。そんな、モナとビートルズの関係も、ブライアン・エプスタインが現れたことによって、急変していった。ビートルズに、ブラ イアン、そして、モナという眼に見えない三角関係が緊張感を増していくのは、周りの誰もが気づいていたのである。実際に、ブライア ンとビートルズが初めて、契約内容に関するミーティングをしたのは、モナの店カスバであった。そのやりとりを、カウンターの向こう で、モナはしっかりと見守っていたし、ブライアンはその一世代上の女の存在を、少し煩わしく感じていた。何なんだ、この女は。まる で、ビートルズのマネージャー気取りじゃないか。けっ、まったくやりにくいな。どっかに、消えてくれないかな。モナとしては、文字 通り、ビートルズに対しての親心をもって行った行為だったが、ブライアンにとっては、うっとうしいこと限りないものであった。これ 以来ブライアンは、ビートルズとカスバで会うことはヤメにした。ミーティングのほとんどは、ブライアンの事務所NEMSで行われてい る。さらに、面倒なことがもう一つ。当時、既にローディであった会計士見習いの青年ニール・アスピノールと、モナのただならぬ関係 である。ピートの親友であるニールは、ベスト家の下宿人でもあったのであるが、その下宿人とモナの間に、なんと子どもが生まれたの である。これは、1962年当時のイギリスの港町リバプールに起こった大事件であった。 〜 John Lennon / Ain't That a Shame
□リクエスト ・中二の息子と一緒に、興味深く聞かせていただいています。この前は、息子のリクエストを採用していただき、ありがとうございました。 ストーカーっぽい歌詞が気になるので、リクエストします。(八千代市/女性) 〜 The Beatles / No Reply
・二十歳の娘が洋楽が好きで、だんだん昔の曲にも興味が出てきて、ビートルズにたどり着いたようです。親子で楽しむビートルズ、いい ですよね。ところで、先日の放送でレオン・ラッセルの名前が出てきました。レオン・ラッセルで好きなのが、この曲です。(鎌ケ谷市/ 女性) 〜 Leon Russell / Song for You (小林)作曲家として最初はやっていくわけですけど、ボーカリスト、シンガーソングライターとして、独特の感じです。名曲も数多く 書いています。名前が出たのは、あれじゃないかな。ジョージ・ハリソンがNYで、バングラデシュのコンサートをやるとき、レオン・ ラッセルも出てくれるわけです。見ていない人は、ぜひ見てください。
・1964年春、全米にはビートルズ旋風が吹き荒れていました。その間隙を縫うように全米No.1に輝いたのは、ルイ・アームストロングの Hello, Dolly。当時中学二年の僕は、なんか変なボーカルだな。アメリカといっても、色んな趣味の人がいるんだ。でも、ビートルズと 比べると心をゆすらない、というのが正直なところ。若気のいたりとしか、言い様がありません。(栃木県下都賀郡/男性) 〜 Louis Armstrong / Hello, Satchmo!
・7月の終わりに吹奏楽部コンクールがありました。僕たちの学校は二位という結果でしたが。金賞を目指していた僕たちにとっては、かな り悔しい結果となってしまいました。僕たち二年にはまだ来年があるので、来年こそは頑張りたいです。(八千代市/男性/14歳) 〜 The Beatles / She's a Woman
・ビートルズになりそこなった男=ピート・ベストと、リンゴ・スターのドラマー交代劇。それは、デビュー直前の1962年8月に起こ った事件である。リバプールのマシュウ・ストリートにあるキャヴァーンに集結した少女軍団は、やがて暴徒と化してしまった。中 には、自分のボーイフレンドを用心棒代わりにつれてくる強者までいたので、これはたまったものではない。彼女たちの怒りの矛先 は、なぜかジョージに向けられていた。ある日ジョージは、頬にアザをこしらえ、目の周りも黒くして、ステージに現れた。リンゴ もまた、肉体的な暴行の犠牲者となり、路上でファンに攻撃された結果、鼻血を流しながらキャヴァーンに到着したことがあった。 しかし、こうした数百人の地元ファンの抵抗は、ビートルズの勢いに影響を及ぼすことはなかった。リンゴが加入した翌月には、ロ ンドンに向かい、デビューシングルとなる Love Me Do をレコーディングする。この時は、プロデューサーのジョージ・マーティン のちょっとした手違いより、スタジオにはセッション・ドラマーであるアンディ・ホワイトが、既に到着していた。プロの売れっ子 ドラマーを呼んでしまったのである。追い返すわけにもいかなかった。結果リンゴは、Love Me Doのレコーディングには、ドラマー としては参加せず、後ろでタンバリンを叩くだけに甘んじることとなった。後で笑い話になるのであるが、この時のショックを、リ ンゴは、こう語っている。「悲しかったよね。俺も、ピートのようにお払い箱になるのかって、真剣に考えたよ。」こんなリンゴの 心配をよそに、デビュー後のビートルズの売上は、尋常ではなかった。新しいドラマー、リンゴ・スターがステージに現れ、続いて ジョン、ポール、ジョージが登場すると、ビートルズはイギリス全土の何百万という新しいファンの心をつかみながら演奏し、歌う トップグループに成長していったのである。 〜 The Beatles / She Loves You
・トニー・バーロウのジョン・レノンに関する証言、面白かったすね。時間が経てば経つほど、色々信憑性の高そうな情報が出てきて 興味深いですが、ビートルズがそれだけ過去のものとなってしまっていることを実感して、寂しさを感じます。Nowhere Manが、最 も好きな曲の一つなんですが、この曲もそのほとんどがシニカルでネガティブな内容なのに、間奏後のサビの部分だけ極端に優しく ねぎらうようになっています。そのコントラストが、グッと来ちゃうわけなんですね。ここに、この曲の本音があるような気がします し、いちいち毒を吐いた挙句でないと、本当のことを言えないジョン・レノンの面倒くさい性格を感じます。本音は、彼が老成した ためなのか、オノ・ヨーコの影響なのか分かりませんが、あえて言わないだけだと思っています。(船橋市/男性) 〜 John Lennon / Nobody Loves You (When You're Down and Out)
・学校の英語の時間に、この曲を題材にした聞き取りテストをしたことがあります。前にどこかで聞いたことはありましたが、ちゃんと 聞いたのは、このテストの時が初めてで、サビのところで鳥肌が立ちました。理由はわかりませんが、とにかく感動しました。(多摩市 /女性/高校生) 〜 The Beatles / Let it Be (小林)うらやましい体験ですよ。ビートルズを聞いて、鳥肌が立った。もう完全に聞き取れたということだもんね。40年前のビートルズ とつながったということですから、大変ないい経験をしました。英語の聞き取りに使ったりするわけだから、今の子は耳が良いはずだよ。
・ビートルズは、私の洋楽の原点です。40年近く聴き続けていますが、決して飽きることはありません。ビートルズのサウンドやメロディ を聞くと、ゆったりとしたリラックスした気分になります。私がリクエストしたい曲は、ジェフ・ベックがビートルズをカバーしたこの 曲です。10年ほど前から、ライブのクライマックスで演奏するようになりました。今年4月の来日公演でも、素晴らしい演奏を聞かせて くれました。ビートルズをカバーしているミュージシャンはたくさんいますが、ギター・インストルメンタルのカバーは珍しいと思いま す。原曲の形をあまり崩していないアレンジも大好きです。(富里市/男性) 〜 Jeff Beck / A Day in the Life (小林)ニューヨークの有名なB.B.キングが開いたブルース・クラブというのがあるんですが、ここでのライブバージョンをお送りします。 歌がないだけに、そしてジェフ・ベックというのは、普通のギタリストと違いますからね。必ず、ビートルズの名曲を通して、彼のメッ セージが伝わると思います。
□ビートルズカレンダー(9月26日) ・1969年 (41年前) イギリスで、Abbey Road のアルバムが発売になった日です。これはちょっと紛らわしいんですけど、ビートルズは Let it Be が最後に 出るわけですよね。しかし、 Let it Be はレコーディングの途中で暗礁に乗り上げて、発売されるかどうか分からない。で、もうバンド がもう、我々は解散するなというのが分かるわけです。だって、自分が辞めたいと思ってるわけだからね。そこで、バンドの最後とし て、きちっとしたものが作りたいとプロデューサーのジョージ・マーティンに言います。ジョージ・マーティンは、もうまったくビー トルズかあ、この時期離れていまして、また元のようにようにプロデュースさせてもらえるんだったらという条件で、仕事を引き受け ます。エンジニアは、ジェフ・エメリックです。で、このアルバムは Abbey Road というタイトルになるんですが、ジェフ・エメリッ クが吸っていた煙草のブランドが「エベレスト」というんで、これはもう世界一のグループ、高いところにいるという象徴ですから、 エベレストというタイトルにしようと、その時はみんな盛り上がっていて、エベレストまで写真撮りに行こうとなったんですが、リンゴ ・スターが「何言ってるんだ、そんなめんどくさいことやめようよ。外で写真撮ろうよ。」ということになって、アビー・ロードで、 例の名物写真ができるわけです。それまで、スタジオは「EMIスタジオ」と呼ばれていましたが、これでアビー・ロードが有名になって 「アビー・ロード・スタジオ」と呼ばれるようになって、正式に名前まで変わっちゃったという、この Abbey Road のアルバム、実質
□リクエスト ・私は、現在失業中の45歳です。この年になると、なかなか職を見つけることが出来ず、将来に絶望を感じたりします。自分が落ち着ける 場所を見つけたいと思う、今日この頃です。そこで、この曲をリクエストします。(品川区/男性) 〜 The Beatles / There's a Place (小林)初心に帰って、頑張ってください。
・アルバムよりロックだから好きなので。(香取市/性別不詳) 〜 John Lennon / Isolation (Anthology) (小林)ハードなことはハードだけど、ジョンはポールやジョージより、心を見せてくれる。本音が見える人なので、ぼくはハードという より、"本音バージョン"とも思うんですが。
・ビートルズのマネージャーであり、多くの謎に包まれた人物であるブライアン・エプスタインは、必要以上に仕事に精を出し、スタッフ に任せても良い業務までも自分ひとりでこなしていた。その一方で、ロンドンのウェストエンドに出没するアーチストやセレブリティな ど、おしゃれな人々に囲まれて過ごすことで、幸せな恋愛関係を築くことの出来ない、自分の寂しい人生の埋め合わせをしていた。仕事 上では、ビートルズの権威を振りかざして他のアーチストとの仕事も決めるというのは出来るだけ避けるようにしていたブライアンであ るが、私生活ではその権威を大いに利用するようにしていた。ロンドンの老舗百貨店ハロッズの近くにある超高級アパートに、各界の重 要人物や有力者を招いて行った知的なディナーパーティは今や伝説的であるが、後にこの催しはチャペル・ストリートにある19世紀に 建てられた豪華で歴史ある邸宅で開かれるようになるのである。そこにはもちろん、ビートルズの誰かが顔を出し、ローリング・ストー ンズからも2,3人。ブライアンの経営する事務所NEMSの人気女性シンガー、シーラ・ブラックもいた。こうしたパーティの際、決まって ブライアンの横に仕えていたのは、容姿端麗で背の高いロニーという名の黒人使用人。その姿には、誰もが目を奪われた。まるで、前時 代の貴族の館に招待されたような錯覚に陥るのである。こうした召使を雇うことは、一流の証である ── と、ブライアンは信じていた。 さらに、パーティの席上では、正装の黒い上着に身を包んだスペイン人の執事が指揮を取り、少人数のサービススタッフが良く冷えた高 級シャンパンと極上のキャビアを運んでいた。この時のブライアンは、まさに至福の表情、そのものであった。ブライアンの会社のス タッフは、この光景を少し不思議に思っていた。この贅沢は、いったい何のために行われているのであろうか? それは、ブライアンの 鬱屈した私生活とは、まるで180度逆の方向にあったのである。 〜 The Beatles / Old Brown Shoe 〜 The Beatles / The Long and Winding Road
□リクエスト ・8月末、Band on the Run のリマスターが発売延期になってしまいました。この件で、克也さんが知っている情報があれば教えて欲しい んですが、よろしくお願いします。(横浜市神奈川区/男性) 〜 Paul McCartney / Band on the Run (小林)ありません。
・最近、ブルーレッドホワイトの復刻盤が発売されましたが、もう一つクリーミー・ロカホワイトで、ポールがこの曲を歌ってますよね。 この曲だけ、ライブ・バージョンだと思うんですが、聞きたくなったのでリクエストします。レコード持っていたのに30年前に売って しまって公開しています。(印西市/女性) 〜 The Beatles / Long Tall Sally (BBC) (小林)(ブルーレッドホワイトは)まだ、発売されてないそうです! これはちょっと分からないんですが、クリーミー・ロカホワイトとい うのは、何のレコードでしょうかね? ハリウッド・ボールというのがあるんですが、あのことではないでしょうね?
小林「さあ、それでは登場します。moumoon! moumoon!」 moumoon「みなさん、こんばんは。moumoonでーす。よろしく、お願いします。一緒にまったりした気持ちいい空間を作っていきたいので、 初めての人も是非一緒に楽しんでください。よろしくお願いします!! きょう一曲目に、ビートルズの楽曲たちの中から、この曲をカバーしたい と思います。それでは、聞いてください。Here Comes The Sun.」 〜 moumoon / Here Comes The Sun
moumoon「ありがとうございます。えー、Here Comes The Sun を聞いていただきました。えー、moumoonの、次はオリジナル曲をやろうと 思うんですが、ちょっと日差しが暖かいみたいな気持ちいい曲をやりたいと思います。それでは、行ってみましょう。聞いてください、Sunshine Girl!」 〜 moumoon / Sunshine Girl
のは、会場になるウィリアムズ・ミューズのアミューズメントの屋根に天幕を吊るつもりだということぐらいかな。きっと君も、みんな も喜んでくれると思うよ。」ブライアンは、実に幸せそうであった。それにしてもブライアンは、アパートのペントハウスで、大武闘会 でも開くつもりなんだろうか?と、まったくもって想像もつかないアリステア・テーラーであった。 〜 The Beatles / Birthday 〜 The Beatles / Everybody's Trying Be My Baby
□リクエスト ・毎週、仕事をしながら聞いています。接客業なので、あまり長く話を打つ事ができないので、時間があるときは、話をメールに保存して おります。リクエストは、私が初めてギターで弾いた曲です。(船橋市/男性) 〜 The Beatles / Get Back (Single) (小林)これを初めて弾いたんだ。どうですかね? きっと、指が動くかも分からないよ!
・日本武道館でのコンサートを見てきました。映画「レディース・アンド・ジェントルマン」を見てきました。ちなみに、アリーナ席で 見てきました。ストーンズが一番油の乗った時期の映像、いまだに興奮が冷めません。もちろん、1990年初来日以来、毎回ライブに出 かけておりますが、ミック・テイラーのギターは、キースの絡みなどなくとも、それはエネルギッシュで感動的な映像でした。 (千葉市美浜区/男性) 〜 The Rolling Stones / Happy (小林)1973年というと、ローリング・ストーンズのキャンセルがあって来日できなったんですよね。もし実現したら、同じライブを 武道館でやったはずなんですよ。
□ブライアン・エプスタインの側面から探るビートルズの真実 ・ロックの世界では、今や伝説とまでなっているパーティは、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインの主催で、1964年 8月12日にとり行われた。このイベントの招待状の文面は、「8月12日午後9時より、ブライアン・エプスタインがロンドンのウィリア ムズ・ミューズ・ワッドオンハウスの自宅にて、ビュッフェスタイルの夕食を用意してお待ちしております」という、シンプルなもの。 パーティ会場の装飾は元より、その注目の料理が、また素晴らしかった。ブライアンの側近である、ビートルズのマネージメント会社 NEMSのロンドン・オフィス総支配人のアリステア・テーラーは、これを「ローマ皇帝でも、ここまで豪華なものは用意しなかっただろ う」と形容している。まず、山のように盛られたキャビアが、長いパーティの間、途切れることなく補充された。最高級の冷えたシャン パンも十分に用意され、料理も酒も、すべての客に「もうこれで終わりだ」と思わせることは一度もなかったと、伝えられている。シャ ンパンをぐいぐいやって、みんなそれはしこたま酔っていた。もう、こうなると、どんな高級な酒でも、味など分からなくなる。それで もまだ、最高級のワインのボトルの栓が次々と抜かれ、招かれたゲストのグラスに注がれた。アリステアを始め、比較的飲んでいなくて 意識のしっかりとした参加者の目には、この光景は生涯焼きついて離れないものだという。もちろんゲストも、超一流のセレブばかり。 その中には、ハリウッドスターのジュディ・ガーランドも含まれ、もちろんビートルズも顔を揃えて参加していた。彼らは、ビートルズ の曲の他にも、同じ事務所であるNEMSの所属アーチストの曲をテープに編集したものを持参し、会場で流していた。もちろん、招かれ た客は大喜びであるが、それ以上にビートルズにとっても、この世の出来事は、間違いなく大きな宣伝効果をもたらした。こうして文字 通り、夢のような時間は、過ぎていったのである。 〜 The Beatles / Got to Get You into My Life 〜 The Beatles / I've Got a Feeling
□リクエスト ・私の鳥肌曲は36年前、高校一年の時、友人から借りた青盤のカセットテープの一曲目。この曲に鳥肌が立って、36年間。ビートルズに 心酔しています。(佐倉市/男性/52歳) 〜 The Beatles / Back in The U.S.S.R.
・学校を通うときに、いつも映画館の前を通るんですが、ノルウェーの森のポスターが貼ってあって、それを見るとビートルズのノルウェ ーの森が聞きたくなるんです。私は、ノルウェーの森のビデオを持っていないので、ぜひかけてください。(柏市/女性?) 〜 The Beatles / Norwegian Wood
・三年前に娘のリクエストが採用され、石井食品が私の弁当になりました。その後、離婚をしてしまい、娘とも離れて暮らしています。た だ、優しい娘に育って、一ヶ月に一回は、今でも飯を食べています。きのうも、私を含むおじさんたちのバーベキューに紅一点、二次会 まで付き合ってくれました。この春から、希望の短大に入りましたが、体調が悪くなることが増え、本人はとても悩んでいます。私の身 勝手な都合で離婚してしまい、娘のことまで考えてやることが出来ず、娘の体調にも悪い影響を与えてしまったと、今更ながら自分に対 して情けなく思います。離れて暮らす私の宝物〇〇○へ、この曲を贈ってください。娘と結びつけてくれたビートルズ、この番組、そし て克也さんにダンケ。いつまでもこの番組が続くことを、心からお祈りします。(調布市/男性?) 〜 The Beatles / The Long and Winding Road (小林)(ダンケに)ドイツ語ですね。
・テレビで放映されたとき、テレビにかじりついて見ました。当時、メディアから酷評されような記憶があります。当時は、なぜか分かり ませんでしたが、今考えるとかなりシュールだったのかなとも思います。この曲のポールは幻想的で、とてもカッコ良かったです。急に 寒くなりました。お体に気をつけてください。(千葉市美浜区/男性) 〜 The Beatles / Fool on the Hill
□ビートルズカレンダー(10月31日) ・1956年 (54年前) メアリー・パトリシャー・マッカートニーが亡くなります。これは、ポール・マッカートニーのお母さんです。お母さんは、よく働く 人でした。助産婦をやってたんですね。昔風に言うと、産婆さん。で、婦長として、経済的にもマッカートニー家を支えています。市 の公務員の地位にあるのかな。亡くなった原因は、乳がん。彼女は、ヘビースモーカーだったそうです。咳をするようになって、咳き 込む頃は、もう時既に遅しということで。お母さんが亡くなったとき、ポールが一番心配したことは、何だと思います? ウチは、お 父さんの稼ぎだけでやっていけるだろうか? それを、心配したそうです。ポールの家には、弟とポール、二人息子がいるわけです。 この翌年、ジョン・レノンも交通事故でお母さんのジュリアを亡くして、翌年お母さんのいない息子として、ジョンとポールは共感し あう仲になって、とても近くなるわけですけどね。ジョン・レノンは御存知の通り、お母さんがいなくなると言っても、生きている時 に、生き別れするわけですよね。だから、ジョンの場合、お母さんにこだわって、Motherとか、My Mommie is Dead とか、強烈な、 ストレートな曲があります。ポールは、実は、有名な曲でさりげなく、お母さんメアリーを登場させています。それから、ポールに出 来る最初の女の子の名前は、お母さんと同じ名前メアリーをつけています。さあ、さりげなくお母さんメアリーが登場する曲というの は、この曲です。 〜 The Beatles / Let it Be
・ぼくは高一でビートルズが好きで、父の影響でギターをやっているんですは、最近 Abbey Road の曲をやろうと思ったのですが、さすが 彼らが最後に本気で作ったアルバムなので、とても難しいと思います。改めて、ビートルズはすごい!(印西市/男性) 〜 The Beatles / Come Together
備はちゃんと整っていて、そこで自分は好きな時間に。といってもポールの場合は、朝 早く起きてスタジオに入ってたといいますね。でも、夕方には、もうスタジオを出る。夜中にやるとか、そういう仕事はしない。昼間 にぱっとやるっていう、生活のスタイルに入っています。で、これから一曲聞いていただこうと思うんですが、ポールが1970年、翌 年にソロアルバムを出します。その中に入っています。これはもちろん、その牧場で録音した曲であります。 〜 Paul McCartney / Every Night
□ブライアン・エプスタインの側面から探るビートルズの真実 ・ロックの世界では、いまや伝説とまでなっているビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタイン。その生涯は、孤独そのもので あった。1966年8月以降、ビートルズがもうコンサートをやらないと拒絶したとき、ブライアンはひどく取り乱したと言われている。 この時彼は、次のビートルズツアーの入念な計画を立てていて、候補となる会場及び日程のリストも出来上がっていた。しかし、メンバ ーの四人は、もうコンサートはやらないと、ガンとして譲らなかった。ビートルズが単に、ブライアンから言われていたことを素直にこ なしていた時代は、過ぎ去っていたのである。ビートルズの四人は、アップルという名の新しいマネージメント会社の設立を、ブライア ンに内緒で、氷面下で進めていた。そしてついに、これがブライアンの知るところとなったのである。ブライアンは、アップル運営にあ たって、何ら役割を演じることも出来ないと思っていたし、1967年に今の契約が終了するとき、ビートルズが彼と再契約しないだろう と、確信していた。すべてにおいて、ブライアンは悲観的だったのである。サンフランシスコで、ビートルズが最後のコンサートを開い てる頃、ブライアンは多くの取り巻きたちから、金づるにされていた。彼本人も、それを分かっていた。しかし、根っからひとりぼっち が怖い性格のブライアンは、それでも自分の所有するものを、その取り巻きたちに与え続けた。取り巻きたちの中には、ギャング連中も いれば、賭博で食ってるヤツもいたし、ブライアンと同じホモセクシュアルもいた。こういった連中は、金以外でブライアンに求めるも のは、あったのか。それももはやブライアンにとっては、どうでもいいことであった。人生の頂点であった、あの1964年から、たった 3年後の1967年。ブライアンは、すべてを放棄しよう ── という結論に達した。ビートルズがブライアンの元を離れ、インド哲学に傾 倒していた、8月の出来事である。 〜 The Beatles / Love You To 〜 The Beatles / And I Love Her
・1967年8月の夏休みシーズンの週末、チャペル・ストリート24番地の自宅で、処方薬の便とあらゆる種類の錠剤が散乱する中で、ブラ イアンは、孤独に死んでいた。皮肉なことに、彼が立ち直ろうとしている兆しは、あったのだった。ビートルズがツアーをやめ、マネー ジメントも自分たちで始めようとしていることを現実的に受け止め、ブライアンは自分のアイデアで、カナダの音楽番組の企画を進めよ うとしていたと言われている。こうした事実を考えるにブライアンは、自殺をしたとは考えにくい。もし、自殺をしたとしても、ブライ アンらしくない死に方である ── と、多くの友人は、口を揃えて、そう語るのである。この出来事は、ブライアンの人生最大の不注意 であり、あまりに悲しい「事故」に外ならない。大量のアルコールを飲み、睡眠薬を服用し、そして意識が朦朧とした中で、さらに別の 薬まで服用してしまった。いつも無関心な知人たちと、いい時だけの友人に囲まれたブライアンの人生は、その最後においても、文字通 り孤独だったのである。彼の死後、ビートルズのマネージメント会社でもあるNEMSの資産をめぐって、見苦しい争奪戦が繰り広げられ た。さらにはその舞台裏で、ブライアンの個人資産をもめぐって、それより遥かに醜い争いも起こった。ビートルズの成功で莫大な財を なした人物の遺産である。それはまさに、並大抵の金額ではない。それにしても、遺産争いとなると、親兄弟含め、いつの時代もすんな りいった試しがない。ブライアンの場合も、例外ではなかった。ブライアンのもっとも親しい友人であると触れ回っていたある男は、寝 室のタンスの引き出しを物色し、B.Eとブライアンのイニシャルが刺繍された高価な特注のシルクのシャツを何枚も取り出し、何の感情も 見せず、こう語った。「このイニシャルの刺繍さ、きれいにほどいて、ぼくが着ること出来るかな。」 〜 The Beatles / A Day in The Life (Love) 〜 The Beatles / This Boy
・五人目のビートルズ ── 多くのビートルズ・ファンが、口にする言葉である。それは、マネージャーであるブライアン・エプスタイン を言う場合もあるし、レコーディングにおいてスタジオ内のすべてを取り仕切り、ストリングスや管楽器のアレンジの他、ピアノ演奏ま でしたスーパー・プロデューサー、ジョージ・マーティンを指す人もいる。しかし、真の五人目のビートルズは、ローディのニール・ア スピノールと見る向きも多いのも、また事実である。それはおそらく、ビートルズと一番長い時間を共に過ごした人間 ── ということ なのでは、ないだろうか。ニールは1941年、北ウエールズのプレスタティンで生まれた。母親の故郷であるリバプールに戻るとニール は、リバプール・インスティチュートでポール・マッカートニーと同期になり、美術と国語を学んだ。まもなく、下級生のジョージ・ハ リソンとも出会った。学校の裏の防空壕跡に隠れて、煙草の味も覚えた。直に、この不良仲間に、年上の札付きジョン・レノンも加わっ た。学業優秀だったニールは、会計士事務所で働きながら、資格を取るべく勉強を続けていたのだが、学費稼ぎのアルバイトのために、 ビートルズの資材運びを手伝ったのが運のつき。いつの間にか、専任ロードマネージャーとして、世界中のツアーに同行することになる。 ニールは、その仕事ぶりからして、真面目で誠実で忠実な男であった。ビートルズが解散してからも、その権利関係を管理する会社アッ プル・コアの代表者として、数銃間に渡って、ビートルズに関わる仕事を続けた。そして、病を患ったニールは、2007年に引退し、翌 年この世を去る。享年66。これらすべてを踏まえると、名誉であるビートルズ五人目の称号は、このニール・アスピノールに与えられる べきと考える関係者が多いことは、言うまでもない。 〜 The Beatles / In My Life 〜 The Beatles / Don't Let Me Down
□リクエスト ・ジョン・レノン・ミュージアムが、10年の歴史に幕をおろしました。最終日、水沢館長がおっしゃってました。「ミュージアムにたくさ の方々が着てくれたこと、初めて訪れたときは一人だったけど、恋人と二人で再びきて、ついには子どもを連れて、三人で来てくれた人 のこと。10年という時間は短いようだったけど、一人の人間にとっては、それだけたくさんの変化がある。10年間、展示品はほとんど 変わらなかったけど、そのたびに違った印象を受けると、訪れた人はおっしゃる。なぜか、それは10年の間に、成長した証なのです。」 それを聞いて、おもわず目頭が熱くなり、涙が頬を伝わりました。(千葉市花見川区/男性) 〜 John Lennon / Imagine
・(スペシャルパーティでの参加者)は、克也さんと中村中さんにいじられまくって、ものすごく喜んでましたね。やっぱり、オープン前に サインもらって、覚えてもらってたからかな。あの後、飲み過ぎてましたよ。(千葉市花見川区/男性) 〜 The Beatles / I Don't Want to Spoil The Party
・毎回新しいエピソードで、聞き逃したときは、すごく気になります。ビートルズの良さは、カバーを自分たちのスタイルにしきっている ところが、最高にかっこいいと思います。(千葉市美浜区/男性) 〜 Vanilla Fudge / Ticket to Ride
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1970年に解散し、既に40年を経過した現在でも、そのCDのセールスは更新され、歴史的な意味においても、まったくその存在が薄れる ことのないビートルズ。ロック史上だけにとどまらず、20世紀芸術の歴史上、最重要アーチストであることは、誰しもが認めるところで ある。そのビートルズが、実際の世の中に認められ、人気が爆発したのは、いつなのであろうか。その疑問に対し、的確に回答してくれ る人物がいた。その人こそ、この物語に幾度となく登場しているビートルズの広報マン、トニー・バーロウである。ここでも、バーロウ の証言を元に、その事実を解明していこうと思う。彼はまず、こう証言している。「ビートルズ・マニア。つまり、ビートルズへの集団 ヒステリアのスタートした日。ぼくはかなり正確に言うことができるよ。それは、1963年の10月13日の日曜日のことだ。この頃既に ビートルズは、Love Me Do 、Please Please Me 、From Me to You 、そして、She Loves You の4枚のシングル盤とデビュー・アルバム 「Please Please Me」を発表し、大ヒットとなっていた。夏の間に取材を受けた、十代向け雑誌用の写真や記事は、9月には店頭に並び始 めていたが、それはあくまでも専門的な雑誌上でのこと。これが、イギリスの全国紙となると、思ったほどの露出は見られなかった。し かし、ビートルズを扱う記事の文章としては、まずまずの内容のものも見受けられていた。イギリスは、いまでこそロックの輸出国であ り、先進国であるが、1960年代初頭は、まだまだアメリカからの全面的な影響の元にあったことは言うまでもない。自前のメイド・イン
・イングランドのロックバンドをどう取り扱っていいのか。マスコミ業界も、その方向性を模索している最中だったのである。 〜 The Beatles / All You Need is Love (Love) 〜 The Beatles / Birthday
・「ビートルマニアが誕生した日を、ぼくはかなり正確に言うこと出来るよ。それは、1963年の10月13日の日曜日のことだね。」こう証 言するのは、ビートルズの広報マンとして、60年代を走り抜けた男、トニー・バーロウ。この証言を、ここからさらに掘り下げてみよう と思う。シングルレコード Please Please Me と、From Me to You の二枚連続No.1ヒットのおかげで、ビートルズの知名度も上昇し、イ ギリスの全国紙にも扱われるようになっていた。この年、1963年の7月には、デイリー・ミラーがビートルズを、イギリスのレコード業 界における最高のアーチストと称し、9月にはデイリー・ヘラルドが、カルト的な人気を誇ったグループがエルビス・プレスリーに追いつ き、イギリスのショー・ビジネス界で、最大の人気を誇る存在となった ── と書いている。当時イギリスのタブロイド紙、つまり、大衆 紙の中で最大の発行部数を誇っていたデイリー・ミラーは、9月10日付の紙面に、華々しく2ページの特集を組んだ。芸能コラムニスト、 ドナルド・ゼックによるその記事は、「狂気の沙汰、週5,000ポンドを稼ぐ貴公子たち」という見出しが踊った。5,000ポンドとは、今で いうと何百万円という価値になるので、さすがにこれはタブロイド紙特有の誇張された表現だと思われる。しかし確かに、1963年の時点 でのアイテムとしては、Please Please Me 、From Me to You 、She Loves You のシングルに加え、Twist and Shout 、The Beatles Hits のEP盤と、デビュー・アルバムの Please Please Me があり、そのすべてが大ヒットしていたことは、間違いない。マネージャー、ブライ アン・エプスタインの目論見通り、ビートルズはスーパースターへの道を着実に邁進していたのである。 〜 The Beatles / She Loves You 〜 The Beatles / A Taste of Honey
□リクエスト ・一日の仕事を終わってランドリーに来て、洗濯が終わるのを待っている間に聞いた Let it Be。なんだか、胸にしみました。ビートルズを BGMに通勤した日々。結婚前の青春の思い出です。(住所氏名不詳) 〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
・8月にリクエストを取り上げていただき、大変感激しました。いつも隣で一緒に聞いてる妻にも、あまり話していなかった高校時代のエ ピソードに絡めてのリクエストだったので、ラジオから話が流れたときはドキドキしました。Double Fantasyを初めて聞いたときは10 代後半で、その時の衝撃と感動が鮮明に思い起こされます。(佐倉市/男性) 〜 John Lennon / Watching The Wheels
・最近は不景気のせいか、何かと験担ぎしたくなりますが、ビートルズのメンバーにも、なにか験担ぎしていたエピソードはありますか。 またなにか、ビートルズ関係でクリスマスソングはありますか。(八千代市/男性) 〜 Paul McCartney / Wonderful Christmas Time 〜 John Lennon / Happy Chrismas (War is Over) (小林)全然聞いたことないですね。験担ぎなんて、例えばジョンは一番嫌いだと思います。ただジョンは、オノ・ヨーコと結婚して、 日本の有名な方向とかを見る人をコンサルタントにしていて、旅に出るときの方角とか日付を気にするんだということを聞いたことが あります。
年前に出産した、新婚の妻シンシアとひと足遅れのハネムーンで、パリまで足を伸ばしたのであるが、どういう分けかこのハネムーンに は、マネージャーのブライアン・エプスタインが自ら率先して同行している。これには、シンシアも驚いた。ジョンは、どういう言い訳 をしたのか不明であるが、つい半年前、シンシアがジュリアンを出産した直後、ジョンはブライアンに誘われて、スペインのバルセロナ 旅行に出かけてしまったという前歴があった。今回のパリ・ハネムーン同行旅行も、後々までジョン・レノンのバイセクシュアル疑惑を 裏付ける事実となってしまったのである。 〜 The Beatles / I am the Walrus 〜 The Beatles / I Feel Fine
・1963年10月、ビートルズの四人が、それぞれのバケーションから戻ると、スコットランドで単発のコンサートをいくつかこなし、ロン ドンでラジオやテレビの収録をした。そんな中で放映されたのが、Sunday Night at London Palladium。メンバーは、出演前の土壇場に なって、この番組の重要性に気づき、急遽リハーサルをすると言い出した。しかし、土曜の夜にロンドンの都心で、急にリハーサル・ス タジオを予約することなどは、不可能な話。既にどこもいっぱいであった。最終的な解決策として、ロンドンのNEMSのオフィスの広報 担当者トニー・バーロウの部屋をスタジオ替わりに使うことにした。もちろん、大音量は出せないのであるが、それでもリハーサルをや らないよりは、マシである。それだけ、ビートルズの四人は、意気込んでテレビ出演に望んでいたのである。会場となるロンドン・パラ ディアムは、1960年代には世界一のバラエティ劇場として知られていて、カリスマ的ホールと呼んでも過言ではない、特別な雰囲気に 溢れていた。この Sunday Night at London Palladium という番組は、ATV - Associated Television によるもので、放送時間一時間の バラエティ・ショー。当時の独立系テレビ・ネットワークITV系で、日曜の夜8時というゴールデン・タイムに生放送され、1,500万人 の視聴者数を誇る超人気番組であった。いつも番組の大トリを務めるのは、アメリカの人気エンターティナーで、例え人気上昇中のコメ
ディアンでさえも、そう滅多には出演できず、運良く出演できたとしても、その持ち時間はホンの少しだけという、まさに狭き門。サウ ンドチェックの時間が短いこと、ステージ上での楽器の音量バランスが悪いこと、ミュージシャンにとっては痛いことであったが、それ でもこの番組に出演すれば、レコードの売上やコンサートの動員数が確実に伸びると言われていた。No.1ヒットを連発していたといえ、 まだまだリバプールからやってきた田舎者ビートルズ。ここは一つ、頑張りどころであったことは言うまでもない。 〜 The Beatles / I Wanna Be Your Man (Anthology 1) 〜 The Beatles / Kansas City ~ Hey-Hey-Hey-Hey!
・1963年10月13日、ビートルズが生出演することが決定した番組 Sunday Night at London Palladium 。この番組は、日曜夜8時の超人 気番組で、1,500万人の視聴者数を誇っていた。関係者曰く、この番組に出演すれば、ほぼ間違いなくレコードの売上やコンサートの動 員数が確実に伸びるという。ビートルズの四人は、前日の土曜日も夜遅くまでリハーサルを行い、万全の体制で出演に望んだ。この頃、 1963年の秋までにビートルズは、Love Me Do に続き三枚のシングルが連続でNo.1を記録していた。その評判が幸いして、この夜の放 送分でビートルズは、新人としては異例のヘッドライナー扱いとなり、この出演のために番組恒例の放送前の大々的なパブリシティー や宣伝もなされた。共演者には、アメリカのリズム&ブルースシンガー、ブルック・ベントン。イギリスのエンターティナー、デズ・オ コナー、ブルース・フォーサイスなどがいた。前もっての番組宣伝を見て、ビートルズの出演を知ったビートルズのファンは、当日四人 の出演をひと目見ようと、こぞって会場のあるアーガイル・ストリートに集まった。幸運なファンの中には、無料配布のチケットを手に 入れた者もいたが、ほとんどは会場の外に残ったまま。それでも、あらん限りの歓声をあげて、ビートルズを応援した。ロンドンのマス コミ業界を指す代名詞として使われるフリート・ストリートの日曜日は、とにかく静かというのが基本であった。従って逆に言うと、広
報担当者に言わせると、月曜の朝刊を狙ってのネタを送り込むには最高のチャンスでもあったわけである。通常ならば、どこかで長生き のロバが亡くなったとか、あの有名カップルの離婚は単なる噂だったとか、どうでもいいようなネタで埋められる月曜の朝刊に、遂にリ バプールからやってきた四人組が取り上げられる日がやってきた。全国紙の写真部のデスクは、記者やカメラマンにこう言った。「いい か、ビートルズの演奏写真だけは、絶対にしくじるな。もし失敗したら、お前のボーナスはない。いいな!」 〜 The Beatles / Anytime at All
というわけで、先週お送りしましたビートルマニア。ビートルズに対する集団ヒステリー状態。これが始まったのは、1963年10月13日 だと言いましたけど、それがきょうお送りした Sunday Night at London Palladium 、これにビートルズが出ることになった。このチケッ トは、一般に売られてないわけです。テレビのショーだからね。フリーで、よくNHKとかがやるじゃないですか。ああいう感じなんです 売らないんです。だからファンは、外で見るしかなかった。ファンがいっぱい集まって、キャーキャーやったのが、ビートルマニアのきっ かけだったというわけです。
・地元を離れた病院に入院していて、とっても退屈で心細い毎日を送っている17歳です。しかし、地元を離れたことで、ビートルズから 始まる。の存在を初めて知りました。以来、元々ビートルズ・ファンだった自分にとって、日曜6時からの時間が至福の時です。元々 好きだった曲ですが、入院してからというもの、このポジティブな歌詞と優しいメロディに、ますますハマりました。(福島県白河市/ 男性) 〜 The Beatles / Let it Be
・先日、同名の邦画を見ました。Golden Slumberというのは、ひどいスランプに陥った人の事かと思ったら、金色のまどろみという 意味のビートルズの曲だったんですね。元歌が聞かれなかったので、かえってどういう歌か聞きたくなりました。(市原市/男性/50歳) 〜 The Beatles / Golden Slumber ~ Carry That Weight ~ The End (小林)メドレーになっているこれらの曲も聞かないと、完聴したことになりません。かんちょう.....。
ということが実現したわけでありますが、もう一つお話がついています。これは、ジョン・レノンがオノ・ヨーコに追い出されていた 時期です。有名な。で、LAに中国人女性メイ・パンと暮らしておりました。その頃のことなんです。でも、この感謝祭のエルトン・ ジョンのコンサートの客席の中には、オノ・ヨーコがいた。そして、楽屋に戻ると、そこにはオノ・ヨーコがいたんです。で、そこで いろいろあって、翌年ショーンが誕生するという。すごいでしょ、このエピソードは。それが、36年前のきょうというわけです。 〜 Elton John feat. John Lennon / Whatever Gets You Through The Night
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・「ビートルズに群がるティーンエイジャーたちの熱狂、それは凄まじかったね。その熱狂そのものを表す言葉、ビートルマニアがいつ誕 生したのか。ぼくはそれをハッキリ記憶している。そう、1963年10月13日のことさ。」こう証言するのは、ビートルズの広報担当と して、四人と全世界を飛び回った男トニー・バーロウ。今週もこのバーロウの証言を元に、ビートルズの歴史を紐解いてみよう。1963年 10月、ビートルズの四人がそれぞれのバケーションから戻ると、スコットランドで単発のいくつかのコンサートをこなし、ロンドンでラ ジオやテレビの収録をした。そんな中で放映されたのが、Sunday night at the London Paradium 。ATV ── つまり、Associated Television というテレビ局が製作し、ITVという独立系のネットワークで全国放送されていたこの番組は、イギリス十で1,500万人もの視 聴者がいるというモンスター人気番組であった。この時点でのビートルズは、Please Please Me 以降の三枚のシングルが全英でトップに 輝き、人気は急上昇であった。しかし、チャートのトップを取ったとはいえ、所詮はイギリス国内でのこと。当時の国内売上の枚数など たかが知れたものであった。音楽雑誌が取り上げてくれても、全国版の新聞に掲載されないと社会的な人気度は上がらない。チャートう んぬんよりも、ビートルズはもっともっと知名度を上げたかった。そうなると、やはり手段はテレビ出演しかない。放送日直前になって ビートルズは、その重要性に気づき、急遽所属事務所であるNEMSのオフィスでリハーサルを行った。あまりに急な話で、スタジオが押 さえられなかったためである。この回の放送でのビートルズの扱いは、新人としては異例のヘッドライナー。運命の10月13日が、遂に やってきたのである。 〜 The Beatles / One after 909 〜 The Beatles / Oh! Darling
(小林)One after 909 は、早くから出来上がっていた曲ですが、70年の Let it Be に収録されました。曲がなかったのかな。
・1963年10月13日、Sunday night at the London Paradium の放送時間が迫ってきた。共演者は、アメリカのリズム&ブルースシンガー ブルック・ベントン。イギリスのエンターティナーである、デズ・オコーナーとブルースフォーサーズなどである。事前の番組宣伝を見 て、ビートルズの出演を知ったファンは、午後から行われるリハーサルを狙って、ロンドン・パラディアムのあるアーガイル・ストリー トに集結した。幸運な者は、無料配布されたチケットを手に入れたのであるが、ほとんどはは外に取り残されたまま。それでも、あらん 限りの声を振り絞って、四人を応援するのだ。この光景が、最高の効果となった。マスコミ連中が注目し、集まってきたのである。この 日は日曜日であり多くの場合、翌月曜の朝刊の紙面には芸能人の恋愛とか、どこかの田舎街で起きた珍事とか、いわゆる暇ネタでお茶を にごすのが通例である。しかし、この日は違った。ビートルズのファンが、あまりに熱狂的であったため、その噂は小さな村のようなロ ンドン中に広がり、新聞社のデスクの耳にも届いた。日曜であるにも関わらず、記者たちは休日を返上し、ロンドン・パラディアムに集 まった。やはり、噂はガセネタではない。確かに、多くの少女たちの黄色い声が聞こえる。そして、この騒ぎは遂に、ウェストエンドの セントラル警察署から、警官も出動することになった。絵面としては、最高のシチュエーションとなってきた。ニュースの値打ちは上が るに決まっているのだ。そして、ファンの視線が劇場の正面入口から、グレート・マルボロウ・ストリートに面した楽屋口に移動した。 ビートルズが、やってきたのだ。それとも、出てくるのか。黄色い声の騒音度数は、さらに五割増しとなった。しかし残念ながら、 カーナビ・ストリートのカフェからテイクアウトしたコーラとホットドッグの入ったダンボールを抱えた、ローディのマル・エヴァンス とニール・アスピノールの二人であった。ファンは、肩透かしを食らった。しかし、それでも黄色い声は、一向に収まる気配はない。新 聞記者たちも、みんな息をひそめて、ビートルズを待ち続けたのである。 〜 The Beatles / Savoy Truffle 〜 The Beatles / You Can't Do That
・1963年10月13日、ビートルズが生出演することが決まった番組 Sunday night at the London Paradium は、日曜の夜8時の超人気番組 で1,500万人の視聴者数を誇っていた。この日の午後、リハーサルにやって来るビートルズをひと目見ようと、ロンドン中から多くのフ ァンが集結した。ほとんどが、十代の少女たちである。あまりの騒ぎに、警察官もかけつけ、これを何とか収めようと躍起になった。ま ずはパラディアムの階段から人ごみを遠ざけるため、群衆をデーガイル・ストリートのカドまで押し戻したのであるが、これが逆に良い カメラアングルとなった。いかにも暴動となっている状況に、警官が出動したかのような写真となったのである。ティーンエイジャーた ちは大声を上げ、カメラのフラッシュが次々と光った。数人のファンは、新聞や雑誌からインタビューも受けた。泣きながら答えるファ ンもいたので、これまた最高の効果となった。これ以上の大ニュースは、なかった。月曜の朝刊では、田舎の道でロバが交通事故にあい ましたという暇ネタはまたしても先送りとなり、一面にはビートルマニアの文字が踊った。ある新聞は、ビートルズフィーバーと書いた。 実際には、このビートルマニアという言葉は、デイリー・ミラー紙が発明し、既に日曜夜のテレビニュースで報道している。この日の騒 動に関して、ビートルズの広報マン、トニー・バーロウは、こう語っている。「10月13日の出来事は、まるで仕込んだようにうまくい った。ブライアン・エプスタインには、あれは全部ぼくが仕込んだんですよと言いたいところだったけど、実際のところは、すべてが自 然発生的に起こったことだよ。この後のビートルズのブレイクぶりは、誰もが目にすることだけど、とにかく彼らがいて、歩いて、笑っ て、語って、そして演奏すれば、それがすぐに大騒ぎになったんだ。だから、ぼくは思った。四人のユニークで素晴らしい個性があれば 誇大な宣伝など必要ないってね。それがまさに、ビートルマニアだったというわけさ。」 〜 The Beatles / A Hard Day's Night
□リクエスト ・日曜のこの時間は、ちょうど息子と夫がお風呂に入りながら、私は夕飯の準備と息子のお風呂上りの世話をしながら聞いています。去年 生まれた息子も胎教のかいあってか、ビートルズの曲がかかるとゴキゲンです。なかでもこの曲は、鼻歌で歌ってあげると、すぐニコニ コの穏やかな顔になります。不思議です。息子は、去年の11月28日に生まれました。今年は、日曜日。もし、満一歳の当日にリクエスト 曲をかけてもらえたら、すごくハッピーです。(千葉市美浜区/女性) 〜 The Beatles / Across The Universe (小林)こうへいちゃん、誕生日一歳、おめでとう。
・中学生の時、ビートルズのファンクラブに入り、レコードを買いまくり、その中で「恋する二人」という曲が大好きでした。今も色褪せ ないって、すごいですね。レコード針のプチプチしたアナログの音も、今は恋しい感じがします。(印西市/女性) 〜 The Beatles / I Should Have Known Better
・輸入盤という言葉も、A面B面という言葉と同様、聞かれなくなってしまいました。7、8年前、輸入盤で買ったこの曲をお願いします。 どんな曲だか、いまだに分からないのですが。最初に聞いたときは、ビートルズみたいに曲にストーリー性があってかっこいいと思いま した。(船橋市/男性) 〜 Train / Drops of Jupiter
キッド・ロック:「アップルやiTunes自体に異議があるわけじゃないんだ。でも、どのアーティストも同じ値段で売っているのが、許せない。 例えば、家の近所のガラージ・バンドのアルバムとブルース・スプリングスティーンの”Born To Run"が同額っていうのは、あり得ないと思う。 俺は自分の作品をどう売るのか売る人達と自分で取り決めしたいだけなんだ」。
□リクエスト ・先日、ジョンのソロアルバムがリマスターされた発売されたのをきっかけに、今まで聞いたことのなかったイマジン以外のアルバムも 聞いてみようと思いました。その中で私が最も楽しみにしていたのが、ビートルズの Come Together と、ジョンの You Can't Catch Me の聴き比べです。以前から、Come Together は、You Can't Catch Me を、言い方は悪いですがパクった曲だと聞いており、そんな曲 なら、いつか聴き比べてみたいと思っておりました。そして、ついて You〜を聞く事ができたのですが、あまりにもリズムが Come〜 そのままなことに、最初私は笑ってしまいました。ジョンは、このチャック・ベリーの曲を気に入っていたんでしょう。それを、アビー ・ロードの一曲目に Come〜として収録したことが、ジョンのビートルズ時代、最高のジョークだったのではないでしょうか。克也さん どう思いますか。(中野区/男性) 〜 John Lennon / You Can't Catch Me (小林)このロックンロールというアルバムは、ご存知かと思いますが、チャック・ベリーの曲を盗作したという出版社の訴えがあって、 じゃあ裁判にしないからということで、示談になったんですね。その代わりジョンがカバーをやると、そのカバーのついでに、その出版 社が持っている昔の有名な曲もカバーすると。そうすると、その印税が入るわけですよね。そういうことで作った。だから、動機は不順 だったアルバムなんです。ジョンは意地があるから、You〜は、Come〜みたいなのでやったんじゃないかと思われますが、その判断は みなさんしてみてください。
・当時のライブ・エイドをビデオで録画していたんですが、何者かに持ち去られてしまいました。残念で、なりません。(東金市/男性) 〜 Paul McCartney / Let it Be (小林)ライブ・エイドのライブがないので、ポールの Good Evening New York City からお送りします。
・ビートルズ・ファンの間で、レノン派・マッカートニー派に分かれることがありますが、克也さんはどっちでしょうか。ぼくは、絶対 レノン派です。(印西市/男性) 〜 The Beatles / You Know My Name (Look up the Number) (小林)ぼくは、どっちですかね。レノンですけど、そこまでは、ついていけないよという自分がいて、片足突っ込んだジョン・レノン派 ですね。一方の足は、おそらくジョージ・ハリソンの方に、突っ込んでると思います。あなたは、You Know My Nameをリクエストして おきながら、自分の名前を書いていないという。だから、石井食品からのものも送れないじゃないですか。あなたも、ぼくと同じような 本当のジョン・レノン派じゃないと思うね。そんなニオイがするね。名前を隠してるからね。
そして、クラウス・フォアマン、アラン・ホワイト。後に、イエスのドラマーになる人ですけど。えー、あのー、駆り集めまして、 で、カナダへ行こうよ!という、実はちょっと話長くなるんですけど、あのー、電話が来たのが、32時間前なんですよ。二日前じゃ ないんだよ。一日と半分ぐらい前。で、いきなり電話して、カナダ行くよー!って、ジョン・レノンが集合かけて。飛行機の中で、 何やる?何やる?と、リハーサルやって、生ギターでリハーサルやったわけですね。で、えーとー、あのー、本当はいろいろやりた かったらしいんですけど、ジョンがやれる曲。なにしろ、ライブをやってないですから。歌える曲、ジョンの体に染み付いている曲 をやるという、選曲になります。だから、ちょうど41年前のきょうに発売になった、そのカナダでのライブのアルバム。プラスチッ ク・オノ・バンドのアルバムの中には、こういうロックンロールのスタンダードも入っています。 〜 Plastic Ono Band / Blue Suede Shoes
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・「今夜は、お越しいただいて、どうもありがとう。もう、次の曲でお別れになります。みなさんに、お願いがあります。安い席の人は、 手拍子をどうぞ。そして、高い席の人は、宝石をジャラジャラ鳴らしてください。」 ── 1963年11月4日、イギリス王室を招いて開催 されたロイヤル・バラエティ・ショーのステージ上での、ジョンの発言である。ライブ映像でも記録されているとおり、会場は大歓声に 包まれた。観客の中には、エリザベス女王やマーガレット王女もいた。という、この晴れの舞台で喝采を浴びたことにより、ビートルズ の人気度は急激に上昇し、一気に全国区のものとなった。さらにこのロイヤル・バラエティ・ショーと、この一ヶ月前に出演したテレビ 番組 Sunday Night at London Paradium のおかげで、ビートルズのニュースは、イギリス国内だけにとどまらず、大西洋を越えて、ア メリカにも届いた。アメリカの全国紙にも、初めての大見出しが紙面を飾ったのである。タイミングは、まさに完璧であった。既にこの 時点で、1964年の上半期の内に、ビートルズはニューヨークへ赴くことは決定していた。しかし、ここにきて、アメリカでの露出が高 まったことで、マネージャーのブライアン・エプスタインは、ラッキーだった。トップ・レベルの人物との交渉が、可能になったのであ る。ビートルズは今や、単なるイギリスの新人グループから、当時として数少ない国際的なポップスターの座にのし上がろうとしていた。 しかも、この大きな飛躍は、デビュー・シングル Love Me Do から、一年を待たずして起こったのである。イギリスの北国の街リバプー ルの学生仲間で結成した、あのクォリーメンがシルバー・ビートルズとなり、そしてビートルズとなり、ドイツのハンブルグで音楽と人 生の修行をし、メンバー・チェンジを経て、いまや女王陛下と言葉を交わすまでになった。誰が見ても、感動的なサクセス・ストーリー に他ならなかったのである。 〜 The Beatles / She Loves You 〜 The Beatles / Penny Lane
・1963年11月1日、ロンドンとリバプールのちょうど真ん中辺りに位置する街チェルトナムのオデオン劇場を皮切りに、ビートルズはイ ギリス国内33都市のツアーをスタートさせた。これは、5枚目のシングル I Want〜とセカンドアルバム With〜の発売時期に合わせた物 である。コンサートチケットが、劇場の前売り券売り場に長蛇の列を残したまま、軒並み売り切れるようになると、チケットを手に入れ ることの出来なかったファンが劇場に集まり、デモをするほどの大騒ぎとなった。リバプールよりもさらに北国の街カーライルのABCシ ネマという劇場では、600人のファンが徹夜で列をなした。こうしたビートルマニア、つまりビートルズに関する熱狂的な現象と熱狂ぶ りを潰しにかかろうとする反対勢力も当然のように現れた。ある新聞などは、こう書きたてた。“大きな都市や街では、店のウインドウ を割る事件が起こり、その被害は数百件単位で増え続けている”もちろん、ほとんどはデタラメ。オーバーな報道であった。さらに、デ イリー・テレグラフ紙は、ファンのヒステリックな行動を批判する内容の記事を一面に掲載したが、それに対しデイリー・ミラー紙は、 こう反論した。“ユーモアのセンスがあり、楽しくてハンサムなビートルズを好きになれないとは、よほど頭の硬い人間であろう。ビー トルズはユニークで、愛すべき存在である。モップのようなヘアスタイルであるが、当然シャンプーは欠かさないし、とても清潔だと見 える。若々しく、新鮮な音楽も素晴らしい。如何わしいトークに頼らずとも、とにかくいつも愉快で痛快な連中である。がんばれビート ルズ。”当時の全国版タブロイド紙としては、かなりの高評価であるが、これはいかにビートルズが支持率を上げてきたかを物語るエピ ソードだとも言える。つまり、デイリー・ミラーは賢く立ちまわって、ビートルズ側に着くほうが得策だと考えたのである。もちろん、 彼らがジョン・レノンのあの下品なステージ上のMCをまったく知らなかったということは、言うまでもない。 〜 The Beatles / I Feel Fine 〜 The Beatles / Old Brown Shoe
□リクエスト ・イントロのリフが、I Feel Fine なんですね。好みは色々ですが、ノリが良くて良いと思います。(千葉市美浜区/性別不詳) 〜 The Ventures / Rudolph the Red-Nosed Reindeer
・当時のLPについていたライナーノーツ、ポールがコンサート前にメンバーに逃げられてしまい、それを元にした曲と書かれていたと思い ます。ジェームス・コバーンをあしらったジャケットもかっこ良かったし、何より転んでもただでは起きないというか、たくましいポー ルの根性に感動した記憶があります。(神栖市/男性) 〜 Paul McCartney & Wings / Band on the Run (小林)これはね、アフリカのラゴスというところで録音していますが、歌詞にも出てくるんですが、砂漠が、サハラ砂漠だと思いますけ ど、これはバンドが逃げたといいますけど、ポールも逃げていると。バンド脱走中という、その脱走を楽しんでいるというフィクション だと考えたほうが良いと思います。
・来日するなど想像もしなかったあの頃、同じ空気を吸っていたであろう、イギリスのピーター&ゴードン、またアニマルズなど、渋谷の リキパレスに状況した世代のファンです。女の子の歌で、夢見るビートルズがあったのを思い出し、リクエストします。(品川区/男性) 〜 Donna Lynn / I Had a Dream I was a Beatle
□I Wanna Be Your Man ・1963年秋 ── ビートルズは、かつて自分たちをオーディションで不合格にしたデッカ・レコード所属の新人グループ、ローリング・ ストーンズにヒット曲を提供し、マネージャーのブライアン・エプスタインを含むNEMSのスタッフ全員を驚かせた。当時、ちまたに流 れていた噂によると、ジョンとポールがミック・ジャガーのバンドのために I Wanna Be Your Man を書き下ろしたということになって いる。しかし、このシンプルでアップテンポの曲は、元々リンゴ・スター独特のボーカルをいかすために作ったというのが真実。ちょう ど、この曲を作っている段階でジョンとポールは偶然、ロンドンのウェストエンドのある場所で、ストーンズのマネージャーと会うこと となる。そのマネージャーとは、ロック界の伝説の人物として知られる、アンドリュー・オールダム。実は、このオールダムは、元ビー トルズの広報担当という仕事をしたという経歴を持っていた。その日の午後、ジョンとポールは、サヴォイ・ホテルで行われた王室主催 のパーティ、バラエティ・クラブの昼食会からの帰りであった。ビートルズは、ハロルド・ウィルソン首相から、年間最優秀ボーカルグ ループ賞を授与され、ジョンもポールもすっかり出来上がっていて、ゴキゲンだった。昼食会の会場サヴォイ・ホテルを出てからの二人 の足取りは、定かではない。アルコールが入っていたし、あまりに昔の話なのである。ポールは、伝記本 Many Years from Home の中 で、ビートルズの出版を仕切っていたディック・ジェームズのオフィスが、デンマーク・ストリートとチャリング・クロスロードの角に あり、ジョンと一緒にそのオフィスを出たときに、ちょうどミック・ジャガーとキース・リチャーズが、タクシーで通りかかったと証言 している。ポールはさらに、こう語っている。「ミックとキースは、ストーンズの曲を書き始めていたし、立場として僕らと同等だった ね。それに、僕らは既に知り合いだった。だから、そのタクシーにちゃっかり便乗させてもらうことにした。って、わけさ。」ロックが イギリスで本格的にメジャーになり始めた、ロンドンの街角での出来事であった。
・1963年の秋頃、ジョンとポールに、ある人物から執拗に電話がかかってきてきた。電話の主は、元ビートルズの広報担当で、今はロー リング・ストーンズのマネージャーである、アンドリュー・オールダムという男。この時まだ19歳だったオールダムは、マネージャーだ けでなく、レコーディング・プロデューサーに、広報宣伝までやってのけるという、才能と意欲にあふれた若者であった。オールダムの 要件は、ただ一つ。ジョンとポールに、ローリング・ストーンズのための曲を書いて欲しいということ。この年の夏、ストーンズはシン グル Come on でデビューし、イギリスで21位を記録している。順位でこそ、ビートルズのデビュー曲 Love Me Doを上回っているが、 問題はその曲 Come on がカバー曲ということ。彼らが敬愛するアメリカの黒人ロッカー、チャック・ベリーがオリジナルである。さら にB面の曲 I Want to be Loved も、シカゴのブルーズ曲のカバー。これに対しビートルズは、シングルのA面 Love Me Do 、そしてB面 の P.S. I Love You も、真っ向勝負のオリジナル曲で望んだ。もちろん、続くシングルもその先も、ずっとであろう。この件に関し、ス トーンズの才能あるマネージャー、アンドリュー・オールダムは、よく分かっていた。ストーンズの演奏力、ミックのボーカル力は、素 晴らしい。ブライアン・ジョーンズの、あの不良じみたカリスマ性だって、ハンパじゃない。ただ、一つだけ弱点がある。それは、ほと んど、オリジナル曲がないということ。だけど、こればっかりは、きょうあしたで、すぐにどうこうできる問題ではない。さて、どうし たものか。そうだ、ビートルズだ! ジョンとポールに、曲を書いてもらえばいいじゃないか。すぐに、車だ! さあ、オールダムの目論 見は、どういう結末を迎えたのか。この続きは、来週持ち越すことにしましょう。 〜 The Rolling Stones / Tell Me 〜 The Beatles / Oh! Darling
□リクエスト ・先日ライブに行ってきましたが、彼らのハイトーン・ツイン・ボーカルに心踊らされ、ぐらんぐらんとしてきました。男女という、決定 的に声の質感が違う物が混ざり合い、一つのメロディとハーモニーを生む化学現象。性別こそ違え、ビートルズのコーラスワークと、ど こじか、通じるものがありませんか。(草加市/男性) 〜 凛として時雨 / Telecastic fake show
・リバプールに、行ってきました。55歳の節目に、少し長めの休暇をとって、ビートルズ巡礼の一人旅をしました。実は、妻に同行を拒絶 されただけですが。さて、リバプール市内のパブに、恐る恐る入ってみたのですが、いつの間にか地元のおじさんたちと打ち解けて、あっ と言う間に終電の時間となりました。ほろ酔い気分で、郊外の宿泊地に向かう電車に乗り込むと、今度は四人がけのボックス席に座って いる、私と同年輩のおじさん連れが、ココに座れと身振り手振りであいさつ。Can I Join You? と私。ビートルズファンが、はるばる日本 からやってきたことが何とか伝わると、おじさんの一人が突然 She Loves You を歌い出し、三人で合唱。隣のボックス席の女の子二人連 れもノリノリで、周りの乗客も振り向いて大笑い。続いて、Help! 最後の Help Me, Help Me では、肩を組んで大合唱。その様子を、女の 子の一人が、私のカメラの動画モードでバッチリ録画。旅から帰って5ヶ月近くにもなるのですが、今でも月に二・三回は再生して、一人 喜んでみています。パブで、ギネスをごちそうしてくれたおじさん。ホテルまで車で送ってくれた、地元の中年のご夫婦。ロンドンのア ビー・ロードで、私が渡る様子を録画してくれた青年。などなど。思えば、いろんな人に親切にしてもらえて、生涯忘れられない思い出 になりました。話が長くなったので、リクエストは短く。歌詞にあるライム・ストリートが、リバプールにある通りの名前で、駅も リバプール・ライム・ストリートということを、今回の旅で初めて知りました。(千葉市稲毛区/男性) 〜 The Beatles / Maggie Mae (小林)レポート、ありがとうございます。いい旅をしましたね。音楽を訪ねていって、人と親しむことが出来た。なかなか、いいじゃな いですか。
・アップル訴訟収まって、iTunesは、リンゴちゃんマークたくさんですね。元々、ポールのリンゴマークもマグリットのパクリのはずです よね。なら、ジョブズに、EMIみたいに医療開発かなにかに社会貢献させればいいのにね。裏取引あったんでしょうか。(船橋市/男性) 〜 Bob Dylan / You Got a Lot of Nerve
□I Wanna Be Your Man ・ストーンズの演奏力、ミックのボーカルは、間違い無く素晴らしい。ブライアン・ジョーンズの、あの不良じみたカリスマ性だって、 ハンパじゃない。ただ一つだけ、弱点がある。それは、ほとんどオリジナル曲がないということ。だけど、こればっかりは、今日明日で どうこうできる問題ではない。どうしたものだろう。そうだ、ビートルズだ! ジョンとポールに、書いてもらえばいいじゃないか。すぐ に電話だ! ── 1963年の秋、ローリング・ストーンズの若きマネージャーでプロデューサー、アンドリュー・オールダムは、焦ってい た。ロンドンのライブハウスで、爆発的人気のあった新人グループ、ローリング・ストーンズの次のシングルをどうしたらいいのか。も う、時間がなかったのである。デビュー・シングルのCome on は、ストーンズのライブのレパートリーから選んだ、アメリカの黒人ロッ カー、チャック・ベリーのナンバーである。ここで、才能のあるオールダムは、考えた。「ん、さあ、どうしよう。ハッキリ言って、今 のストーンズは、カバーバンドだ。ワン・ステージ全部が、マディ・ウォーターズやボ・ディドリー、それにチャック・ベリーなんての が当たり前になってる。このままレコード・デビューしていいものか、デッカ・レコードはカバーでいいと言ってる。でも、ビートルズ は、A面B面共にオリジナルで勝負している。こっちは、本当にカバーでいいのか。よーし、わかった、こうしよう。カバーはカバーで も、出来るだけ知られていない、だけどイイ曲を選ぶこと。これが条件だ。」こうして、ストーンズのデビュー曲は、チャック・ベリー のCome on で行くことに決定した。アメリカでもイギリスでもヒットしていない、隠れた名曲である。しかし、アメリカの音楽事情に 詳しいストーンズは、この曲をいち早くカバーして、一応の成功は収めた。しかし、次のシングルに何を持ってきたらいいのか。マネー ジャー、オールダムは、焦りまくっていたのである。 〜 The Rolling Stones / Come on 〜 The Beatles / I Saw Her Standing There
・1963年夏、ローリング・ストーンズは、チャック・ベリーの知られざる名曲 Come on をカバーし、デビューを飾った。イギリスでの チャートは、21位。まずまずの成功。しかし、それから数ヶ月がたち、ロック・ファンの興味は、既にストーンズから離れようとして いた。これではいけない。そう思い立ったのは、当時19歳の才能と意欲に溢れる若者アンドリュー・オールダム。オールダムは、スト ーンズのマネージャー兼プロデューサーで、かつてはビートルズの広報担当として、ブライアン・エプスタインの元で働いていた。い つまでたっても、オリジナル曲をモノに出来ないミック・ジャガーとキース・リチャーズにしびれを切らしたオールダムは、考えた結果 昔のよしみで、ジョンとポールに曲を提供をお願いしようと企てた。もちろん、マネージャーのブライアンに相談したら、一発で断られ るに決まっている。正攻法で行ったらダメだ。そう考えたオールダムは、極秘にジョンとポールのスケジュールを入手。尾行を、開始し た。そして、ある日の午後。ついに、パーティ帰りのジョンとポールを発見したのである。何食わぬ顔で、タクシーから降りたオールダ ムは、二人と挨拶を交わし、その夜グレート・ニューポート・ストリートにあるフィフティワン・クラブに案内した。ここは、バンドマ スターでもあるケン・コリアが経営するジャズクラブで、その夜、店の中では、ストーンズが新作のリハーサルを行っていたのである。 「えっと、新曲は、もう出来たのかな?」オールダムがメンバーにたずねたが、返事がない。まだ、出来ていない。「ジョン、ポール。 今、ストーンズは、こういう状況なんですよ。なんとか、力を貸してもらえないでしょうか。」ジョンは、少しも困惑した状態を見せず すぐに返した。「実はこの曲、あしたレコーディングする予定で、リンゴに歌わせようと思ってるんだけど、必要だったら好きにしてく れていいよ。」これこそまさに、天の助けだったのである。 〜 The Rolling Stones / I Wanna Be Your Man 〜 The Beatles / I Wanna Be Your Man
・デビュー当時のローリング・ストーンズに、ジョンとポールが自分たちのオリジナル I Wanna Be Your Manを提供したエピソードは、 ロックの世界では有名である。しかし、実際のビートルズとストーンズの関係は、いったいどういうものだったのだろう。ビートルズは 1970年に解散しているが、ストーンズはいまだに現役バリバリで、来年にはまたツアーに出るという噂まである。ロック界で最も長い キャリアを誇るバンドである。しかし、CDで聞けなくなったとは言え、ビートルズもまったく過去のものではなく、今でもチャートに 登場するモンスターバンド。その二つのグループが、ロンドンで同じ音楽業界で活躍していたのは、1963年から1970年までの7年間。 7年間というと、とても短く感じる人もいると思うが、ロックが生まれ進化し続けた60年代から、あまりに濃密な時代であった。その 中でビートルズとストーンズは、二大巨頭として君臨した。一節には、お互いのビジネスを邪魔しないように、新曲が出来れば聞かせ、 その発売日もぶつからないように、インサイダー取引を行っていたという話もある。つまり、仲が良かったのである。確かに、ジョンは ミック・ジャガーからも慕われていた。1968年の幻のTVショー、ロックンロール・サーカスの時も、ジョンはミックからの要望で出演 し、MCまで務めている。しかしポールは、そのミックからは、少し敬遠されていたという説がある。それを裏付ける話として語り継がれ ているのが、ストーンズの名作アルバム Beggars Banquet の完成パーティでのエピソードである。ミックとキースが精魂込めて完成さ せた、このアルバムの歓声を祝うパーティは、大いに盛り上がっていた。ロンドン中のクールでヒップな連中が集まり、アルコールや いけないものまで、快楽に身を任せ、アルバムを大音量で聴く中、ポールが完成したビートルズのアルバムを持ってやってきて、かけは じめたのである。もちろん、会場はドッチラケ。こんな、空気の読めないポールを、ミックはどう思ったのか。それは、言うまでもない ことである。 〜 The Rolling Stones / Sympathy for the Devil
・この時期になると、そこかしこでジョンの曲を耳にすることが多くて、なんとなくウンザリしてしまうことから、ビートルズ関係を消し ています。ラジオや店先で流れていると、やっぱり集中して聞いてしまいます。ジョンからは、不思議な季節感を感じませんか。 (船橋市/男性) 〜 John Lennon / (Just Like) Staring Over (Stripped Down) (小林)あなただけでは、ありません。ほとんどの人が、そうだと思います。
から聞いていただくのは、ギターのチョーキングがあったりするんですが、そこでジョージにポールが、ココで!という指示を出す シーンが映画の中であるんですが、これはまださっきも言いましたが、DVD化されていません。Let it Be Nakedの中から、それでは そのポールの声が聞こえるような感じで聞いていただきたいと思います。ジョージが嫌々ながら、ギターをポールの指示通りに弾いて いたりします。 〜 The Beatles / I've Got a Feeling (Naked)
〜 The Beatles / Help! 〜 The Beatles / Lady Madonna
・特設ステージに、巨大なオリが設置された。1963年11月14日のウインブルドン・パレでのファンクラブイベント。これは、今では伝説 的な話になっているが、実はこのイベントの前の週に、故郷であるリバプールで行われた北部支部のコンベンション。これもまた、思い 出深いイベントであった。BBCテレビは、人気音楽バラエティ「ジュークボックス・ジューリー」の特別版として、ビートルズ特集を企 画していた。この特番は、リバプールのライム・ストリートにあるエンパイア・シアターで公開収録され、ディスクジョッキーのディビ ッド・ジェイコブズの司会で、ビートルズの四人が審判団になり、その週に発売されたニューシングルの良し悪しを判断するというコー ナーも盛り込まれていた。元々このジュークボックス・ジューリーという番組では、複数のレコードが同じ得点となった時のために、副 審判員がいて、最終的にヒットかミス ── つまりヒットするかしないかを決定するというのが決まりだったのである。この日の副審判 団は、ビートルズのオフィシャルファンクラブのスタッフで、ロンドン支部からはメアリー・コリンガムとベッティー・ナロウズ。そし てリバプール事務局からはフリーダ・ケリー、三人の女性が選ばれていた。照明とカメラのセッティングの間、ビートルズは、この女性 スタッフと、それは楽しげに過ごしていた。後になって、メアリーがこう証言している。「舞台裏で、ビートルズは、買ったばかりの8 ミリカメラで、私たちや他の女の子たちの姿を撮ることに夢中になっていた。まるで、クリスマスにおもちゃを買ってもらった子どもみ たいで、私はポールのカメラに一番多く映っていたみたいなの。一人で映っているものもあったし。ポール以外のメンバーと一緒のもの もあった。それで、ポールに手紙を書いて、そのコピーをもらえないかお願いしたの。そしたら、ポールから返事がきたの。多忙につき 無理なのでゴメンなさいですって。ポールって、今も昔もそういうマメな人なの。」 〜 The Beatles / We Can Work it Out 〜 The Beatles / Girl
□リクエスト ・昔からビートルズが好きで、ビートルズ・シネ・クラブに入会し、色んな映像を大画面で見られたことは、子どもにちょっと自慢出来る 話です。さて、リクエストしたい曲は、初めて自分が買ったレコード。タイトルがタイトルだけに、恥ずかしさを抑えつつ買った一枚で す。ちなみに、初めて買ったビートルズは、CMで衝撃を受けた Love Me Doの入ったアルバムでした。(日立市/男性/46歳) 〜 ずうとるび / ペチャパイ・ブギ (小林)若い人達に断っておかなければと思いますが、ビートルズが本当にすごかったのは、伝説で聞いていると思いますが、ビートルズ を真似する、あるいは茶化すクラブが世界中に存在していました。日本では例えば、東京ビートルズ。あるいは、テレビでおなじみだっ たのは、ずうとるび。今では、テレビの笑点という番組で座布団を配っている山田隆夫という人がいるんですが、この人が若いときは、 才能があったんですね。この曲は、彼が作詞作曲をやりました。アレンジは、メリー・ジェーンでお馴染みのつのだ☆ひろが担当してい ます。つまりこの曲は、彼がドラムスを叩いています。
・昨年、高校の同窓会があったのですが、親戚が亡くなったために、酒を呑む気分になれないために欠席しました。すると、神奈川県に住 むダンファンの先輩が、部長は何があっても出席!欠席するとは何事だと言って、激怒しました。12月8日はジョン・レノンの命日です が、悲しんでるジョン・レノンの遺族・関係者の方々が飲み会に参加しなかったら怒られるのでしょうか。神奈川県民は、遺族の悲しみ を無視し、私利私欲しか考えない、こんな奴ばかりなんでしょうか。私は、怒られないといけないのですか。(墨田区/男性) 〜 The Plastic Ono Band / Give Peace a Chance (小林)これはやっぱりね、あなたが伝えればよかったんですね。こういう訳で、残念ながらその気にはなれないからと。で、怒るんだっ たら、勝手にしろですよね。
・マーティン・スコセッシ監督が、ジョージ・ハリソンの映画を作るそうですね。とても楽しみです。リクエストは、マーティン・スコセ ッシ監督の映画のノー・ディレクション・ホームで、とても印象的だったこの曲をお願いします。(八王子市/男性) 〜 Bob Dylan / Like a Rolling Stone (小林)マーティン・スコセッシは、若いときは、ザ・バンドのラストワルツというコンサートを作って、あの頃はハリウッドの新人の監 督だったんですけど、これ以来いろんなモノを作って有名ですけど、元々この人はロックとか暴力とか、それを描くのが彼のライフワー クみたいな感じなので、必ずこの暴力というのはありますけど、ロックを描かさせたら、彼はもうすごいですよね。独特の仕掛けがあっ たりして。楽しみです。
□ビートルズカレンダー(1月9日) ・1970年 (41年前) ビートルズは、アップルという会社をスタートさせていたのは、ご存知かと思います。ま、このアップルは、芸能の総合会社みたいな もので、音楽・ファッション・映画なんかを売ろうという会社なんですが。そこで、いろんなアーチストやグループをデビューさせる わけです、ビートルズは、アップル・レコードが。成功した一つは、バッド・フィンガー。これは、もうポール・マッカートニーが全 面応援しているグループで、当時はビートルズの弟バンドなんて呼ばれたバンドなんですけど。今から41年前のきょう、そのバッド・ フィンガーのアルバムが、アップル・レコードから発売になります。このアルバムには、ポールが書き下ろした Come and Get it が 入っています。この曲は、実はリンゴ・スターが1969年に出た映画「マジック・クリスチャン」にも使われて、サントラにも入って います。これは、ジョン・レノンなんかが大好きなイギリスのコメディアン、ピーター・セラーズが主演して、金に糸目をつけない男 で、ホームレスのリンゴ・スター扮する人間を養子に迎えて、世の中の常識概念をシッチャカメッチャカに(小林、口がシッチャカ メッチャカにもつれる)ひっくり返そうという、面白い映画なんですけど。これにリンゴ・スターが出て、高い評価を受けます。これ 依頼、リンゴは役者として面白いということで、色々起用されていくわけです。「おかしなおかしな石器人」、これは大昔の原始時代 の話です。共演した役者バーバラ・バックとリンゴ・スターは、結婚したりするわけですが。さあ、それじゃあ、ちらっと聞いていた だきましょうか。実はね、バッド・フィンガーの曲は、ポール・マッカートニーが自分でデモテープを作ります。そのデモそっくりに
演奏して、そしてヒットしたわけですが。これは、実はアンソロジー3に、ポール・マッカートニーのデモテープが入っています。で ポール・マッカートニーは、1969年7月に、ビートルズのアルバムを製作中に、自分でドラム・ベース・ギター、全部自分でやって るわけです。だからポールは、この頃すごかったというのが、よく分かりますよね。ポールは、全部自分でやります。だから、ポール が最初じゃないでしょうかね。例えば、プリンスとか、スティービー・ワンダーとか、いろんな人達が(全部の楽器を)やりますよね。 だけど、ポールが最初だと思います。これは、結構貴重なんだよ。ポールが全部の楽器をやっている、ヒット曲のデモテープです。 〜 The Beatles / Come and Get it
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史 ・1963年の後半 ── ビートルズは、イギリス国内において不動の人気を手に入れた。それに伴って、テレビ番組の出演も、回数を重ね るようになっていくのであるが、この中でもこの年の12月に企画され収録された、BBCテレビの人気音楽バラエティ「ジュークボック ス・ジューリー」の特別番組となるビートルズ・スペシャル。この番組には、人気コーナーとして定着している、新しいシングルレコ ードがヒットするかしないかの予測をするという審査企画があったのであるが、この日ビートルズの4人はファンクラブ事務局に勤務す る3人の女性スタッフを交え、この企画に参加した。4人は揃ってリバプール出身のバンド「チャンツ」の I Could Write a Book では ヒットに投票し、ジョージはさらに詳しく、「しっかりとラジオでオンエアされていけばヒットになると思う」とコメントを加えた。 続く、エルビス・プレスリーの新曲 Kiss Me Quick に対して、ポールは「エルビスの弱点は、いつも曲がイマイチというところなんだ ね」と辛口のコメント。さらに他のシングルでは、マージービートの古株スウィギング・ブルージーンズがカバーした、チャン・ロメオ の Hippy Hippy Shake が全員一致のヒット。ポール・アンカの Did You Have a Happy Birthday? には、全員一致でヒットしないに投票 といった具合であった。さらにこのビートルズ特番では、It's The Beatles というタイトルで30分間のスペシャルライブも行われ、 その模様はBBCで、その日の内にイギリス全土にオンエアされた。演奏されたのは、Twist and Shout、I Wanna Hold Your Hand、 Roll Over Beethovenなど11曲。これは同じ月12月に行われたウインブルドン・パレで、オリの中に入ってのパフォーマンスという 悪夢のような事件とは比較にならないほど素晴らしいパフォーマンスであったと記録されている。そして、この日の放送でも、ビート ルズは得意のジョークを忘れることはなかった。BBCの全国放送のカメラの前で、ジョージ・ハリソンは司会者の口調を真似て、こう 語った。「ご覧のチャンネルは、BBC。Beatles Broadcasting Corporation です。」
し続ける背景には、こういう貪欲で前向きな姿勢が反映しているのではないだろうか。 〜 The Beatles / Hello, Goodbye 〜 The Beatles / Because
□リクエスト ・以前、克也さんが「古くからのファンだから、偉いわけじゃない」とおっしゃられておりましたが、我々のような後追い世代からする と、偉い偉くないは別として、リアルタイムでビートルズに接することが出来た人たちは、うらやましい限りです。私がビートルズを 聞き始めた70年代には、自宅に兄所有の青盤があり、くり返し何十回となく聞いていたので、A Day in The Lifeも青盤の一部のように なってしまったので、後に聞いたアルバム Sgt〜のラストの感動を、生涯味わうことが出来ませんでした。例えるならば、猿の惑星の ラストを知ってから、本編を見るような感覚でした。Sgt〜を持っていない方で、青盤を購入予定の方は、ぜひ A Day〜を聞くのは 我慢してください。アルバム Sgt〜で、一気に聞いて欲しいと思います。克也さんは、どう思いますか。年齢の割には青臭いことを 書かせていただきましたが、リクエストはこの曲です。この曲は、イントロ部分をライブ音源、それ以降はスタジオの録音をつないで いるので、Strawberry〜編集の凄腕を思い出させます。(江戸川区/男性/48歳) 〜 King Crimson / Night Watch (小林)これはねー、そうですか…。分かりますよ。ぼくは、100%あなたに賛成ですね。キング・クリムゾンは、公式ではないですけ ど、記録を持っています。日本での記録なんですけど、こんなに女性が少ない、例えコンサートホールが満員になっても、女性が少な い、男ばっかりのコンサートは記録というより、ほかないですね。おそらく初めて聞く人もいると思います。
・ジョンが亡くなって、もう30年。ジョンの死をモチーフとして取り入れた曲として、この曲をシングル版じゃなくアルバム版でお願い します。アルバムの方では、ジョンが殺されたとハッキリ聞き取れるようになっています。オフコースもビートルズから影響を受けて いたので、ジョンの死はしっかりと受けとめたかったのかなと思いました(葛飾区/男性) 〜 オフコース / I Love You
・ジョン・レノンが亡くなって30年。今でも、ビートルズファン及びいろんなミュージシャンに影響を及ぼしているジョン・レノンさん の歌声が心に焼き付いています。30年前のおいらは、その時12歳。亡くなったと聞いた日は、とても寒い日だったことしか覚えていま せんが、年令を重ねるにつれ、ジョン・レノンさんの偉大さが少しずつですが分かってきました。まだまだ色んな曲を聞いて、メッセー ジを理解したいと思います。長くなりましたが、うちのカミさん、克也さんの奥さん、及び番組に関わる女性スタッフの皆さんに捧げま す。(千葉市花見川区/男性) 〜 John Lennon / Woman