【bayfm78】ビートルズから始まる。4【小林克也】
(前スレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/beatles/1213526085/ の続き)
ジョンもポールも、聞いたことはあった。これは、なかなか良い曲である。しかし、キングサイズのバンドでは、何か物足りない。自分
たちが、ビートルズがカバーしたら、どうなるか。ジョンは、考えていた。(よし、もっとハードに、ラウドにやってみよう。ギターの
リフも加えた方がいいし、シャウトもハモリも、もっと派手にやるべきだ。よおし、出来たぞ。あしたの夜、試してみるか。)スターク
ラブでの一発目に、ド派手にぶちかました。キングサイズは、目を丸くした。(え? 俺の曲じゃないの? でも、こっちの方がはるかに
良いな。)こうして、この日の夜、伝説のビートルズ・サウンドが完成したのである。
〜 The Beatles / Twist and Shout
そうなんだよね。ハンブルグ行きたくない、もう俺たち、ちゃんとしたレコーディング・スターになったんだから行きたくない! だけど
行って良かったわけですね。ビートルズは、自分たちの音に出会ったわけです。これは、1963年の例の「Please〜」のアルバムに入って
いて、ジョン・レノンがリード・ボーカルをとっていて、これがロックの歴史において、ハード・ロック第一号と呼ばれるレコーディング
であります。
□リクエスト
・季節外れですが、最初に出会ったこの曲をお願いします。(住所不詳/中学三年生)
〜 John Lennon / Happy Xmas (War is Over)
・この番組は私にとって、サザエさんです。この歌をきれいな海で聴きたくて、今の奥さんと沖縄の小浜島までウォークマンのイヤホンで
二人で聴いてました。(住所不詳/男性)
〜 大瀧詠一 / ペパーミント・ブルー
(小林)面白いのは、そういう所まで大瀧詠一を聴く。あるいは、沖縄現地の音楽を聴いた方が良いか、二つに分かれるんですよね。
実はぼくの知人に、この業界でずっと仕事をしている人がいて、彼がサザンのファンで、車に乗ると必ずサザン。「サザンはね
ホノルルの風景と合うんですよ。」って言うんですよ。で、ぼくは、「ひょっとしてあなたは、サザンを聴きながら、日本を恋し
がってるんじゃないか?」って聞いたんです。「その通りです!」って言われたんで、これ複雑ですよね。音楽が与える影響って
いうのはね。ただ音楽は、そこへ行かなくても、連れて行ってくれる力があります。
・ピンク・フロイドをかけてくださり、ありがとうございます(2月1日)。原子心母は、ちょっと欲張りすぎたと思いましたが、曲が流れた
時は興奮してしまい、ピンク・フロイドについて、熱く語ってしまいました。話は変わりますが、前から気になっていることがありまして
総武線西船橋駅付近に「Let it Be」の大きなジャケットの絵が書いてあるアパートがあるのをご存知でしょうか? きっともう、リスナーの
誰かが報告済と思いますが、あの絵はずいぶん前からありますが、どうして書かれたんでしょうかね? アパートのオーナーが、やはり好き
なんですかね? ご存知の方は、教えてもらえませんか。(千葉市若葉区/性別不詳)
〜 The Beatles / I Me Mine
・私が中学生の時、洋楽を聴き始めたきっかけになった、克也さんが深夜にやっていた番組で良く流れていた、ポールの曲をお願いします。
姉と、寒い中よく聞いていた思い出があります。ラジオなどでもあまり耳にしないので、もう20年以上聞いていないと思います。(市原市
/女性)
〜 Paul McCartney / No More Lonely Nights
(小林)1962年のクリスマスですよ。クリスマスに出稼ぎ、出稼ぎというとあまり良い感じはしないけど、もうちゃんとレコードを出すんだけど
ハンブルグへ行くという。これ、なかなか良い話ですよね。そこで自分たちのサウンドを見つける、自分たちのアイドル、カール・パーキンスとも
出会うっていうことでした。リクエストは、個人的なことが欲しいですね。自分は、これが聞きたいんだっていう感じの。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年5月17日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(5月17日)
・1963年 (46年前)
ジョン・れんのん(小林どもる)と最初の嫁さんのシンシア・レノンが、ジュリアンの出生届を出します。ジュリアンは、最初の息子
です。1963年4月8日、ジョンとシンシアの間に生まれました。ただし、この頃ビートルズは人気が出始めたんだ、イギリスで。ね。
これはね、できちゃった結婚なんだけど、できちゃった結婚、しょうがないな、結婚するか。でも、マネージャーのブライアン・エプ
スタインは、ビートルズの人気を考えると、ジョンが結婚したということを、ファンの間では伏せていたい、発表したくないというこ
とで、シンシアには不幸だよね。みんなの前で、派手に結婚するとか、そういうことはなかったわけです。地味な結婚式をして、それ
も結婚を届ける事務所みたいな所で、むこうは(イギリスは)そこで食事をとったりすることも出来るんですけど、簡単な、ささっと
結婚式を挙げて、食事をして、終わっちゃって、ファンの間では、ジョンが結婚したということは内緒だったわけです。で、ジョンは
仕事で立ち会えず、リバプールの病院に行くのは翌週なんですよね。ちょっと、冷たい感じがするんだけど。で、さらに冷たいのは、
ブライアンと噂があるわけじゃないですか。この番組では、何回も取り上げましたけど。スペインに出かけるんですよ、男二人で。ね
けしからん男ですよね。結果的には、ジュリアンは1984年にアルバムを出します。ま、ジョン・レノンの息子ですから、お金はいっ
ぱいあるわけです。で、そうとう最高のスタッフでもって、やります。で、アルバムは17位。その中のシングルは、全米7位。これは
かなりのヒット曲です。その当時は、「わー、お父さんにそっくりだ。声が良く似てるねー。」ってことで、大騒ぎになるわけですよ
ね。ただ、お父さんと声は似ていても、お父さんの持っていた歌を書く才能は受け継がなかったようでした。いまだにね、ミュージシ
ャンとして活躍してますけどね。ヒットは、その後出ていません。それでは、息子の最大のヒット。全米7位まで行った、ビリー・ジ
ョエルで有名な、フィル・ラモーンがプロデュースした、もうこれ、お父さんにそっくりだよ。
〜 Julian Lennon / Valotte
冷たい言い方になるけど、ジョン・レノンの七光りというか、ジョンが亡くなったことで、ジョンのファンも含めて、これは売れま
した。だけど、世の中冷たいものですよね。その後は、もう買ってくれないですよ。良い曲を出さなきゃ。というか、そういうこと
が障害になったりするんだよね。ジョン・レノンの息子だから。しょうがないですよね。だけどぼく、彼に2回ばかり会ったことがあ
りますけど。メチャクチャ良いヤツですよね。で、うらやましいのは、イギリスの芸能人長者番付ってのがありますが、いまだに100
位以内に入っています。お父さんから入ってくる収入があるわけですよね。ちょっと、うらやましいですけど。
□ビートルズ、デビュー
・「おい、今ステージでキングサイズ・テイラーがやっているこの曲、なんだっけ? あ、アイズレー・ブラザーズのTwist and Shoutだ
よ。いい曲だよなー。だけど、この演奏なんだか、ちょっと足りないよな。俺たちがやったら、もっとゴージャスになるのにな。」
1962年12月、ビートルズにとって最後となるドイツ・ハンブルグでのクリスマス巡業の間、ジョンは何かをつかみ、そしてひらめいた。
「そうだ、もっと大きな音で、ハードにやったらどうだろう。だけど、ただやかましいだけじゃダメだな。印象的なギターのリフを増や
して、コーラスも三人でにぎやかにして、もちろん、リンゴのドラムももっと派手な方が良いな。よし、これで決まりだ。」翌日、出演
中のスタークラブで、ビートルズ・バージョンの「Twist and Shout」が演奏された。いつもは、商売女目当てで、ろくに演奏も聴いて
ない酔っぱらいの連中も、まるで異次元のサウンドに圧倒された。こうして、ビートルズの初期のサウンドは、完成に至った。以来、
「Twist〜」は、ステージの最初、もしくは最後に演奏される、ビートルズの十八番となる。ビートルズが、最後のハンブルグ巡業を終
え、帰国した1963年1月、イギリスはほぼ一世紀ぶりの厳しい冬に見舞われていた。猛吹雪と共に、シベリアからの寒気が押し寄せ、
イギリス海峡を凍らせた。エスエックスの養殖用の牡蠣は、使い物にならなくなり、動物園のシマウマは息絶え、ミルクはシャーベッ
トに変わり、ビールは瓶に入ったまま、いきなり割れた。それでもイギリスでは、混乱を平気な顔で受け止めた。こんな中、イギリス史
上、前代未聞の騒動、狂乱となる年、つまり「ビートルズ旋風」も、「イギリスは昔から変わらない」という気分の元で始まった。誰も
が、天気のことを心配し、話題にしていた冬のことである。もっとも、この時点では、ビートルズはそれほど人気バンドにはなっていな
い。ハンブルグでの重労働も何のその。帰国と同時に、アイルランド、スコットランドと、ツアーを廻っていた。雪に閉じ込められたイ
ギリスの中で、ひたすら春を待ち望んでいた四人であった。
〜 The Beatles / One after 909 (Anthology 1)
〜 The Beatles / I'm a Loser
・1963年1月19日、イギリス中がまだ雪のために家に閉じ込められていたおかげで、大勢の人間が土曜の夜に、ABCテレビで放送される
ポップス番組「Thank Your Lucky Stars」を見た。この番組の人気の理由は二つあった。まだ10代の音楽評論家ジャニスと、手の込ん
だスタジオのセットである。そのセットの中央に立って、最新のヒットを歌うグループは、実は口パクで、時々口の動きがレコードと
合っていなかった。この番組の人気審査員であるジャニスの一番の魅力は、強いバーミンガムなまり。新曲に、最高得点5点の満点を
つけるグループには、標準語であれば「I'll give it five」であるところが、「I'll give it foive」と言った。その晩、出演するグループの
ことで、番組プロデューサーのフィリップ・ジョーンズとセット・デザイナー、つまり大道具担当は、少し悩んでいた。ジョーンズは、
友人である音楽出版社社長ディック・ジェイムスとの約束を守り、ビートルズのセカンド・シングル「Please〜」が発売になった週に
彼らを出演させることにしていた。ジョーンズは当日の午後、彼らが直接車でバーミンガムのATVスタジオにやってくるまで、本人た
ちと顔を合わせたことがなかったのである。さて、どういうセットをステージに組んだら良いものか。ジョーンズは、頭を悩ませた。
最後にはあきらめて、メンバー一人一人を大きなハートの中に入れることにした。「彼らが売れたのは、あきらかに曲の力だよ。我々
のセットのせいじゃない。」その4つのハートの中に入れられたポップ・グループは、イギリスの南の地方に住むティーン・エイジャー
にとっては、見たこともない格好をしていた。彼らの髪は、ブロウをして華やかに揃えたスタイルではなく、ハットをかぶった近衛兵
のように、目の上で切りそろえられていた。スーツは、首までボタンがはめられ、ネクタイは見えない。前の三人は、他のグループの
ように、ステップを踏むのではなく、ギターのネックをそれぞれ振り回しながら演奏をしている。ベースギターは、バイオリンをその
まま長く引き延ばしたような感じで、おまけにこのベース弾きは左利きであった。なにもかもが、普通とは違っていたのである。
〜 The Beatles / Rock and Roll Music
〜 The Beatles / Dizzy Miss Lizzy
ジョンもポールも、シャウトすると、すっごい力が出るんだけど、ポールの場合は、ちょっと余裕がある感じ。で、ジョンの場合は、
絶望というか、悲しみというか、なーんか、独特ですよね。だから、ジョン・レノンがやった「Twist〜」は、ハード・ロックのボー
カル第一号と言われるゆえんだと思います。
・1963年1月19日、ビートルズは初めて、イギリス国内全国放送の、ABCテレビ番組「Thank Your Lucky Stars」の電波に乗った。
ビートルズの人気も、この頃までには、本拠地であるリバプールを中心とする、いわゆるマージーサイドでは、まずまずのものになっ
ていた。しかし、それより南側となると、まだ多くの人はビートルズを知らなかったし、まして時代は今より50年近くも前のこと。
圧倒的に情報が少なかった。よっぽどのロック・ファンでもない限り、ビートルズがどういう格好をしているかなんて、誰も知らなか
ったのである。そんな状況の中、イギリス中のポップス / ロック・ファンは、初めてビートルズを目の当たりにした。ヘア・スタイル、
襟なしのスーツ、演奏スタイル、その全てがまるで異次元であった。さらに、テレビの前のイギリス国民を印象づけたのは、ビートルズ
の表情。この頃のポップス・シンガーの多くは、真面目で少し影のある表情をしているのが流行だったのであるが、それに対しビートル
ズは、天真爛漫、満面の笑みを浮かべてカメラに向かい、お互いに顔を見合わせては笑っていた。ビートルズの演奏する曲は、スタジオ
に集まった観客の声で、かき消されて聞こえなかった。が、最後にもう一度メンバーの声が、熱の籠った声に変わり、「Oh Yeah!」と
叫んだ瞬間だけは、ハッキリと響いた。その時、雪に閉じ込められた、イギリス600万人のティーン・エイジャーたちは、その確信をつ
かんだ。それは、アビーロード・スタジオで、ジョージ・マーティンが聞き、ディック・ジェイムスが音楽出版社で聞いたもの、電話の
受話器を通して、番組のプロデューサー、フィリップ・ジョーンズに聞かせたものと同じ感動であった。ビートルズの世界観は、世代も
性別も越え、今、新たな価値観として、イギリス中の多くのみんなの心をとらえた。それはすぐさま、ヨーロッパ全土に広がり、さらに
は全米、そして世界に広まって行くのである。この夜のテレビ出演は、そのすべての出発点であったとも言える。この時、イギリス中の
ファンが感じ取ったもの、それは、間違いなくナンバーワンのサウンドだったのである。
〜 The Beatles / Please Please Me
□リクエスト
・以前、埼玉でビートルズの歌を坂崎幸之助さんが歌うライブに出かけました。ビートルズの曲は、誰が歌っても素晴らしいということが
わかりました。でもやっぱり、本人たちの歌声で聞きたいです。(取手市/性別不詳)
〜 The Beatles / Day Tripper
・17歳の頃に、衝撃的に出会った曲です。この曲も、ビートルズやアバの曲のように、後生に受け継がれて行くでしょう。(習志野市/男性
/42歳)
〜 Boys Town Gang / Can't Take My Eyes Off You
・黒人音楽とビートルズをこよなく愛した忌野清志郎さんが、天へ召されました。私は彼から、音楽はもとより、ファッションにも大きな
影響を受けたアーチストです。じいちゃんになっても、変わらず軽やかに歌い続けてる気がしたのに。(千葉市花見川区/男性)
〜 RCサクセション / わかってもらえるさ
(小林)後半になってからの彼らの曲は有名だけど、前半の中にもスゴい良い曲があるよね。
・30年近く前の話です。私は高校生で、自他ともに認めるビートルズ・ファンでしたが、同級生がRCサクセションのアルバムを貸してくれ
ました。その中の曲「トランジスタ・ラジオ」は、イントロのカッコいいギター、力強いドラム、そして「リバプールから、このアンテナ
がキャッチしたナンバー」という歌詞に、私は一発で気に入りました。就職してレーザーディスク・プレイヤーを買うと、すぐに「RCサク
セション/武道館ライブ」を買い、何度も見て、聴きました。今では、プレイヤーは故障して、見ることは出来ませんが、清志郎さんの派
手なメイクと衣装は、脳裏に焼き付いています。大好きな自転車に乗って、音楽活動を再開された姿をテレビで見ていたので、彼が亡くな
られたというニュースを見た時には、信じられませんでした。ご冥福をお祈りします。(横須賀市/男性)
・今朝、清志郎さんが、亡くなったのを知りました。誰しもが一度は口にしたことがあると思われる「どうしたんだ、へへイ・ベイビー」の
フレーズ。あるいは、屋上でトランジスタ・ラジオを聞きながら、タバコを吸った人もいるでしょう。あの歌声がもう聴けないんですね。
私たちの青春の一ページを飾った人が亡くなってしまい、ラジオから流れた「雨上がりの夜空に」を一緒に歌ってしまい、泣けてしまいま
した。以前、この番組で「ヒッピーに捧ぐ」をかけていただいたことがありましたが、大好きな曲をありがとうございました。(江戸川区
/女性)
〜 RCサクセション / トランジスタ・ラジオ
(小林)みなさんの中に、こんな心の意識ないですか。この番組は、ビートルズの曲がどんどんかかったり、彼らの物語が放送されたり
する(番組です)。ビートルズの曲を聴くということは、昔の曲を聴くということは、彼らがスタジオで過ごした時間、スタジオで
過ごした時間ばかりじゃないんだ、その曲を書いた時間、そして曲を書いた時間ばかりじゃないんだ。その曲を書くまでに育ったまで
の時間、これを共有しているわけだよね。で、その時間をしみじみと味わっているということで、きょうは今は亡き、清志郎さんの時
間を共有しました。
(小林)ビートルズの曲、そして清志郎さんが二曲かかりましたけど、やっぱりあの、清志郎さんはビートルズと黒人音楽を愛してたということを
ファンが言ってましたけど、誰もそうなんですよね。ビートルズもプレスリーのロックを愛してたんだけど、呪縛って言うのかな、何て言うのか
な。それから、逃れることが出来るんだよね。そして、自分たちのものを発表した。清志郎さんもそうですよ。黒人音楽だって、メンフィスの昔
の音楽とか、そういうのから、ビートルズから影響を受けてるのが分かるんだけど、もう誰も真似することの出来ない、そういった自分の、ビー
トルズや黒人音楽から離れて、自分の音楽の境地を作った人ですよね。だからぼくは、清志郎さんの音楽を聴くと、日本昔物語を聞くように、彼
の言葉が全部入ってくるんです。心の中に、あんな人は珍しかったですよね。本当に亡くなっちゃって、ねー。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年5月24日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(5月24日)
・1941年 (68年前)
今から68年前のきょう、ビートルズとは切っても切りはなせない、ボブ・ディランの誕生日。68歳になっています。ジョン・レノンは
最初、ボブ・ディランの悪口「あんなの寝ちゃうよ。ダメだよ、フォークなんて。」てなことを言ってたんだけど、ジョージ・ハリソン
がボブ・ディランを勧めるんで、ジョンはさらに深く聞いて、もうそんなこと言えないくらい、特に歌詞の世界で影響を受けることにな
ります。若者のラブ・ソング以外のものを書こう!と思い立たせたのは、ボブ・ディランです。有名なエピソードで、プラザ・ホテルで
ビートルズに最初にイケナイものを教えたのはボブ・ディランだというね。1965年のイギリスのツアーの時は、ボブ・ディランは、
ジョン・レノンや、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズと意気投合して、朝まで語り合った。ディランもロックの方に
来ていて、ロンドンではモッズ風のスーツも新調したっていう話です。結果的に見ると、ディランのバックバンドをやっていたザ・バンド
の音楽はジョージ・ハリソンの音楽にも影響を与えて、「All Things Must Pass」にもアメリカの南部風の音楽がいっぱい詰まっていま
すが、カナダのバンドであるザ・バンドが、結構アメリカ南部の音楽をやってますが、ジョージ・ハリソンはカール・パーキンスとか
そういうのが好きだということで、アメリカ南部というのは(あらかじめ)仕込まれてたわけだけど、あとバングラディシュの有名な
コンサート。ジョン・レノンが行かないと言った時、代わりにボブ・ディランがきてくれました。
〜 Traveling Wilburys / Handle with Care
□ビートルズ、デビュー
・1963年1月19日 ── ビートルズ最初の全国ネットテレビ出演となる「Thank Your Lucky Stars」が放送された。テレビの前に集まった
600万人のイギリス・ティーンエイジャーたちにとって、それはまさに異次元体験だった。あのマッシュルームのようなヘア・スタイルも
襟のないスーツも、四人が個性たっぷりに暴れ回るステージも、ポールのバイオリン・ベースも、そのすべてが見たことも聞いたこともな
いものばかりであった。そして、その週の内に、音楽雑誌にはビートルズのセカンド・シングル「Please〜」を絶賛する評論文が、ぞくぞ
くと掲載された。ラジオ・ルクセンブルクの人気DJキース・フォーダイスは、雑誌ニュー・ミュージカル・エキスプレスで「Please〜は
活気と躍動にあふれ、本当に楽しめるレコードである」と評した。さらにこのフォーダイスは、ワールドフェアという雑誌で「ビートルズ
は、1963年で最高のビッグ・スターになる要素をすべて持っている」と語った。さらに、テレビ番組「Thank Your Lucky Stars」やBBC
ラジオの「Saturday Club」で司会を務め、ポップス・ロックに関しては、当時イギリスで一番の影響力を持っていたコメンテーター、
ブライアン・マシューも最大の賛辞を贈り、ビートルズは音楽的にもビュジュアル面でもシャドウズ以来に登場したグループの中で最も素
晴らしいと賞賛。だが、一般誌・新聞の方はいまだにティーンエイジャーと彼らの好む音楽を冷淡に見下していた。唯一の例外は、ロン
ドンのイブニング・スタンダードで、毎週土曜日に一面いっぱいの記事を書いていた若い女性ポップス・コラムニストのモーリーン・
クリーブ。実はクリーブは、半年も前からビートルズに注目しており、チャンスがあらば、同行して取材をしたいと願っていた。そして
ついに1963年1月、そのチャンスは到来したのである。さて、彼女が興味を持つ、ビートルズの真実とは、いったいどんなものだったの
だろうか。
〜 The Beatles / Drive My Car
〜 The Beatles / Lucy in the Sky with the Diamond
・1963年1月末、ビートルズのセカンド・シングル「Please〜」が、イギリスでチャートを17位まで上昇していたこの頃。ロンドンの新聞
イブニング・スタンダードの女性記者モーリーン・クリーブがリバプールに向かった。もちろん、取材相手は最も高い注目株であるビート
ルズ。リバプールに向かう列車の中で、クリーブはディリー・メールでメインとなる記事を書いているライターのビンセント・マルクローン
と顔を合わせた。彼も、目的は同じ。リバプールで、ビートルズに会うことであった。みんな、特ダネを欲しがっていたのである。この日
ビートルズは、一晩公演をしてから、人気女性シンガー、ヘレン・シャピロとの全英ツアー。最初の本格的ツアーに出かける準備をしていた。
マネージャーのブライアン・エプスタインに案内され、コンサートの楽屋に通されたマルクローンとクリーブは、まずホールの外で、二時間
以上も待っているファンの列を見て驚いた。何でもファンの中には「Love Me Do」が出た時、すぐにはレコードを買わなかった者もいる
らしく、みんなそれほどビートルズが売れるとは予想していなかったということ。それが、着々と人気を伸ばしてきたビートルズが、自分
たちの手の届かない所へ行ってしまうのではないかという心配したファンが集まり、結果長蛇の列となってしまったということである。そ
の後、クリーブが行ったインタビューは、彼女がそれまで経験したどんなグループとのインタビューとも、まるで違っていた。クリーブは
こう語っている。「ビートルズといると、大笑いしてしまう。子供の頃、テレビで人気コメディアンのシリーズで笑い転げたのと、同じ状態
になってしまう。彼らのウィットは、とにかく鋭くて強烈。そんなに良い教育は受けていないということだけれど、無知という印象はない。
そして、すべてが新しいの。世の中のことを探り出し、その意味をつかもうとしているの。」インタビューを終え、クリーブはさらにこう
書いた。(ジョン・レノンは、素晴らしく残酷な口の持ち主。)この時既に、ビートルズの魅力は、彼女をとらえて放さなかったのである。
〜 The Beatles / It Won't Be Long
〜 The Beatles / Nowhere Man
・ジョン・レノンは、素晴らしく残酷な口の持ち主 ── ロンドンの新聞イブニング・スタンダードの女性記者、モーリーン・クリーブはそう
評した。さらに、クリーブは続けている。(ジョージ・ハリソンは、ハンサムで気まぐれで、身なりを気にしない。ポール・マッカートニー
は、ベビー・フェイスの丸顔。リンゴ・スターは、ハンサムとは言えないけどキュート。彼らのすべては、見る者を惑わせる。疲れきった
不良少年が、これほど素敵に見えるのは不思議だ。)この記事は、インタビューのドタバタぶりを、うまくつかんでいた。ジョンが、「ヘ
レン・シャピロのツアーでは、あの顔を黒く塗ったシンガー、アル・ジョンソンのようにステージで寝転がって歌うよ」とふざけると、すか
さずポールが「どうせ、ジョンはメチャクチャ目が悪い近眼だから、どんな格好で歌ったって、観客が見えていないことは変わりないだろ」
と茶化す始末。また、その茶化す、つまり「ツッ込む」タイミングが絶妙なのである。こうして、クリーブはすっかりビートルズと打ち解け
るようになり、特にジョンからは、その取材能力と文章力を認められていた。取材した内容が記事になった後、ジョンはクリーブに対して
「君の文章って、俺が昔好きだったコメディ・シリーズ『ジャスト・ウィリアム』の本を書いていた、あの女のライターと似てるね。」と
話した。これは、クリーブにとっては、(シェイクスピアの文章みたいだ)と言われるのと同じくらいの賛辞であり、名誉なことであった。
ジョンと、趣味が全く同じだったのである。こうして、ビートルズの曲やライブ・パフォーマンス、そして人となりがイギリス全土に紹介
されるようになり、人気も上昇していった。しかし、チャート初登場の週に17位を記録した「Please〜」がなかなか上昇してくれない。そ
れでも、ヘレン・シャピロとの全国ツアーが続くビートルズ。まだまだ、苦しい状況であった。
〜 The Beatles / Good Morning Good Morning
〜 The Beatles / Something
ヘレン・シャピロの前座です。前座というか、ヘレン・シャピロがヘッドライナーで、ビートルズの他に、二、三バンドがいて、数組で廻る
というツアーなんですけど、ヘレン・シャピロは日本でも大ヒットして、もちろんイギリスでも大ヒットして、ヘレン・シャピロはビート
ルズより年下です。この頃のことを、いろいろインタビューでも言っています。とてもお兄さんで、わたしにとても優しくしてくれたみたい
なことを(語っています)。で、楽屋がね、ヘレン・シャピロの楽屋だけテレビがあったんだって。ビートルズの楽屋なんかはテレビなんか
ついてないんで、みんなヘレン・シャピロの部屋に集まって楽しく過ごしたみたいなことを(語ってました)。そういう状況だったんですね
1963年当時は。
□リクエスト
・この曲は、とにかくポールがすごく格好良くて、思わず「良いねー」と言ってしまう。そんな曲です。実際、わたしの友達も、この曲を聞き
終わった後の第一声が「良いねー」でした。(市川市/男性/16歳)
〜 Paul McCartney & Wings / Jet
(小林)ぼくは、今の若い人たちは、すごい幸せだと思うよ。ぼくらが高校のときと、まるで状況が違う。というのもほら、今の音も
40年50年昔の音も聞くことが出来るんだよね。だから、ぼくらが聞けた何十倍ものソースにアクセスできる ── というのがすごいなあ。
ただ、多すぎてどれを聞いたら良いか、分からなくなっている人もいるのかもしれません。
・小学生の時に、8歳上の兄の影響でビートルズを聞くようになりました。1960年代ですから、ビートルズの全盛期の頃。ポールが好きでし
た。後半は、ジョージの曲が好きになりました。その影響で、日本のグループサウンズの曲も良く聴きました。(所沢市/男性)
〜 The Beatles / Another Girl
(小林)これ、ギターがポール・マッカートニーね。ホントだったら、ジョージがギターなんだけど、ポールはジョージをいびってた
みたいな感があるんだけど。
・彼らには、ビートルズとはまた違った良さがありました。そして、テレビのドラマで「ザ・モンキーズ」というのをやってましたね。
ユーモアあふれるコメディ・タッチのものでした。あの頃からのファンです。(柏市/男性)
〜 The Monkeys / Day Dream Believer
(小林)この番組で何回も言ってますが、アメリカの芸能界がイギリスにやられっぱなしで、それでは!ってんで、オーディションで
集めて作ったのがモンキーズですよね。だから、メンバーばかりじゃなくて、まわりのメンバーはハリウッドのメンツがかけられて
いたと言っても良い。だから、面白くないはずがないわけです。
・カレーを作りながら「おら東京さ行くだ」と聞いていたら、次の曲が「カレーライス」が流れ、次の曲は何かなと考えていると「ボクサー」
が流れて、期待を裏切らないなとニヤニヤしっぱなしでした。中学生の頃、好きだった郷ひろみさんの曲をお願いします。(住所氏名不詳)
〜 郷ひろみ / 裸のビーナス
(小林)モンキーズの後に、郷ひろみがかかってビックリした人もいると思いますが、彼は子供の頃ビートルズが好きで、武道館に行き
たかったんだってね。子供だから、行けなかったんだけど。彼は、ツェッペリンとか、グランドファンクとか、かなりロック・グループ
みんな見てますよ。1983年は、ロンドンでローリング・ストーンズのコンサートも見てますからね。何で知ってるかというと、ロンドン
にいて、ミック・ジャガーとかキース・リチャーズとかにインタビューしたいなーと言ってたら、彼は一緒にメシ食ったって言ってまし
たからね。
(小林)63年は、100年ぶりの寒さが襲ったんですが、イギリス人は何も変わらないっていう、文章分かりましたかね。それから、ジョン・レノンが
「残酷な口」。これは英語で言うと、「Dry Sense of Humor」なんですよ。ユーモアがドライ(キツい)んです。日本人だと、こんなことを言っ
ちゃっていいのかなと思うぐらい。だから、イギリス独特なんですよ。何にも変わらない、大変なことが起きても平然としているイギリスから生ま
れたジョン・レノンみたいなテイストというのは、ちょっと日本人には合わなかったりするんですよ。一部の日本人は大好きですけどね。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年5月31日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(5月31日)
・1967年 (42年前)
あの「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が、No.1になります。こりゃ、どういうことかというと発売は
ね、イギリスで6月1日。アメリカで6月2日になるんですが、予約で既に初登場1位が確定するということですね。サージャントは、
ロック史上最高のアルバムと評価されている(わけですが)、もちろん異論がある人はいっぱいいるわけですよ。これは、どちらかと
いうと、ビートルズがスタジオにこもるようになって、その頃、他のグループも色々やってたんだと思いますが、ビートルズがやった
ことがあまりにも素晴らしかった。結果的に偶然が重なっちゃって、ただ単にごちゃ混ぜのアルバムじゃないかという人もいるんだよ。
だけど、これが見事なトータルアルバムになって、その頃ちょっと楽だったのは、ドラッグ的な、サイケデリックな、ぶっ飛んだ感じ
を目指せば、物がまとまったという時代だったんだよね。だから、それがビートルズに味方していたんだと思うよ。時代の流れみたい
なのが。だから、ビートルズが最先端を走ったというイメージがあって、同時期に同じスタジオでレコーディングしていたピンク・フ
ロイドのデビュー・アルバムに、ビートルズは相当影響を受けていたという噂もあるぐらいであります。このサージャント〜が1位に
なったのが、42年前のきょうということで。このアルバムは、ポールが中心になってやったために、ポールのソロ・アルバムだという
人もいるんですよ。面白いね。だけどね、ジョン・レノンの曲を抜いて、ポールの曲だけ聞いてみると、とんでもないってことが良く
わかるんですよね。レノンがすごい頑張ってるというのが良くわかります。そして、ジョン・レノンとポール・マッカートニーもすご
かったけど、実はプロデューサーのジョージ・マーティンがすごい仕事をしてるっていうことも良くわかります。このアルバムの中に
は、珍しく、ほら、ビートルズの作品と言っても、どっちかの作品じゃないですか。レノンが中心になって書いたか、ポールが中心に
なって書いたことか。ところが一つだけ、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが、がっぷり組んだ曲が最後を飾っております。
これは、前半がジョン・レノン、後半がポール・マッカートニーの曲なんだけど、これをまとめたのが、ジョージ・マーティンの凄腕
ですね。それでは、みなさんもご存知の曲をお送りしましょう。
〜 The Beatles / A Day in the Life
…まだ続いてるよ。後半の大クラシックのアレンジは、クラシックでは結構あるやりかたなんで、クラシック・ファンは驚かないけど
ロック・ファンは驚いたよね。しかし、すごいもんですよ。
□ビートルズ、デビュー
・1963年1月 ── 結果として最後となる、ドイツ・ハンブルグ巡業を終えて、イギリスに戻ったビートルズ。翌2月には、当時イギリス
では一二を争う人気を誇る女の子シンガー、ヘレン・シャピロとの全国ツアーというスケジュールとなっていた。この時のビートルズを
雇ったコンサート・プロモーターは、アーサー・ハウズという男。アーサーは前の年に、自分の企画するコンサートに出演させていた。
その時のビートルズの演奏は、あまり調子のいい物ではなかったのだが、それでもアーサーは、マネージャーのブライアン・エプスタイン
との約束どおり、今回もビートルズを出演バンドのラインナップに加えることにした。理由は簡単。この頃のビートルズのステージイの
ギャラは、かなり安かったからである。具体的に言うと、最低ランクであった。それでも、ヘレン・シャピロとのツアーは、初めての全
国規模の物。大事な仕事である。このツアーは3月3日まで続く本格的なものであり、アーサーが普段行っているパッケージ・ツアーとは
まるで様相が違った。ヘレン・シャピロは14歳でデビューし、大人気となったが16歳となったこの頃は、既にピークを過ぎたと思われて
いた。それでもまだブレイク前のビートルズから見れば、運転手付きの車で送り迎えをされ、楽屋にはテレビがあり、常にガードマンが
側についているヘレンは、ものすごいスーパースターに違いなかった。ヘレンは実のところ、とても親しみやすい女の子で、運転手やガ
ードマンから逃げて、ビートルズなどの下っ端グループと一緒のバスに乗りたがった。彼女が良く覚えているのは「雪とジョン」だそう
である。ジョンはヘレンの隣に座っていて、霜で白くなった窓をこすり、そこから外で歩いている人に向かって、しょっちゅうおかしな
顔をしてみせていた。ヘレンは、こう語っている。「少しも、じっとしていないの。四人全員が、いつも歩き回っていたわ。曲を書いて
いるか、いたずらしているか。後は、サインの練習かな。一番、楽器の練習をしていたのはポール。わたしから見たら、ずっと年上なん
だけど、なんか可愛くって。あんな楽しいツアー、後にも先にも、あれが最後だったわね。」
〜 The Beatles / Long Tall Sally
〜 Helen Shapiro / You Don't Know
(小林)これ、14歳の女の子の声というか、低いですよね。だけど、これが女の子路線で歌って、これがイギリスで大ヒット。実は、これ
を弘田三枝子がカバーして、これも大ヒット。だから、50歳以上の人にとっては、青春の音かもしれません。
・セカンド・シングル「Please〜」が発売となり、イギリス国内チャートの10位以内に姿を現してきた1963年2月。ビートルズは、当時の
イギリス・トップスター、ヘレン・シャピロのツアーに同行した。もちろん、扱いは前座である。このツアーはビートルズにとって、初
めての全英ツアーであったこと以上に、もうひとつ大きな意味を持った物となった。それは、彼らのソング・ライティング ── つまり、
曲作りに大きな影響を与えたということ。一ヶ月以上もバスに揺られて、ツアーを廻っていれば、否が応でも他のバンドやシンガーの演奏
を聴くことになる。このツアーでジョンとポールは、ヘレンの歌に影響を受けた。ヘレンの曲は、1960年代初頭のアメリカン・ポップス
そのものであった。50年代に登場したロックンロールの大ブームが一旦収束して、雨後の筍のごとく、多くのティーン・アイドルが登場
した。そのアイドルの曲のほとんどは、ニューヨークのティン・パン・アレイと言われる音楽出版社に所属するプロの作曲家が書いたもの。
過激なことには挑戦せず、世の中の最大公約数を狙った、分かりやすい作品が多くを占めていた。それに対して、この頃のビートルズは、
ロックンロールとリズム&ブルースという、かなり過激でトンがった路線を突っ走っていたのである。ある日、ジョンは思った。 ──
あれ、ヘレンの歌う曲、なかなかいいじゃないか。最初は、なんだこの甘ったるいメロディ ── なんて思ってたけど、聞けば聞くほど
良い曲に思えてくる。少なくとも、俺たちの曲にはない、何かがある。そうか。これか、今のビートルズにないものは。これだったんだ。
ロックとリズム&ブルースに、ポップスの甘さを加えれば、俺たちの曲はもっと良くなる。そうすれば、イギリスのチャートどころか、
ヨーロッパ全土。いやもしかすると、アメリカでも一位になるかもしれない。とにかく曲だ、曲を書かないと。ポールと一緒に書けば、
週に二三曲は出来るな。よーし、さっそくやってみるか。 ── こうして、ジョンはポールと膝を突き合わせて、ビートルズの新しい路線
となる新曲を書き始めたのである。
〜 The Beatles / Misery
〜 The Beatles / If I Fell
(小林)このミズリーというのは、話に出てきたヘレン・シャピロ。その大スターのために、ビートルズが書いてあげた曲。しかし、これは
ボツになった曲です。ミズリー、失恋の歌。
・イギリスの国民的アイドルシンガー、ヘレン・シャピロのツアーに同行するビートルズ。まだ、イギリス中に大旋風を起こす、前夜のス
トーリーである。ツアー中のある夜、ホテルに戻った後、ひとり部屋でくつろいでいたヘレンは、ホテルのボール・ルーム ── つまり
ダンス・フロアで、若手保守党のパーティが開かれているから来ないかとの誘いを受けた。寒い夜で、ひとり部屋にいても退屈なので、
ヘレンは誘いに応じて出かけることにした。もちろん、ビートルズにも断る理由がなかった。会場のドア係は、ビートルズの四人とヘレン
・シャピロが、映画「ウエスト・サイド・物語」に登場するジェット団を真似て、全員揃って指を鳴らしながら、大股でステップを踏みな
がら向かってくるのを目にした。そして、彼らがそのドア係の横を通り抜けて、若手保守党のパーティ会場に入ろうとした瞬間、どうした
ことか、すっぱりとさえぎられてしまった。どうやら、ビートルズが着ていたお揃いの革ジャケットが「無礼で不快な物」と見なされてし
まったようである。翌朝、タブロイド紙のデイリー・エキスプレスは、「国民的アイドル ヘレン・シャピロ、ホテルのダンス・パーティ
から追い出される」と報じた。もちろん、ヘレンには同情が寄せられた。なぜなら、彼女はビートルズのノリに合わせて、少し背伸びをし
てみただけで、落ち度と言われる所は全くなかった。記事は、さらに続ける。「悪いのは、ヘレンの連れの無名の四人グループが着ていた
革ジャケットである。」当時の保守的な下世話なマスコミが興味があるのは、そういうどうでもいいことであった。そして、2月17日。
ビートルズがヘレン・シャピロと一緒に冷えきったツアーバスに揺られている頃、「Please〜」がついに全英チャートで2位まで上昇した
というニュースが飛び込んできた。その礼儀を知らない革ジャケットの四人組が、国民的アイドルになるまで、本当にわずかもう一歩とい
うところまで来ていたのである。
〜 The Beatles / Baby It's You
(小林)きょうは、ビートルズがロックやリズム&ブルースばかりじゃなくて、ポップスというんですかね。ニューヨークのティン・パン・
アレイというようなものに影響を受けたという話をしましたが、これは実は、バート・バカラックの作品です。バート・バカラックの作品
って、そういうティン・パン・アレイ的な物がある。ティン・パン・アレイの名人的な物があるんですよね。だから、ビートルズは、その
作品をカバーした時点で、そういうことが良くわかってきたんですよね。ロックやリズム&ブルースとか、とがった部分だけじゃいけない
んだとね。
□リクエスト
・前回、英語の話し方の話がありましたよね。英語の先生の。わたしの先生は、大学を卒業して25年ほど経つんですが、それほど流暢には
聞こえない話し方で、色々の国からのゲストやら、たくさんの興味ある話を引き出してくれます。何を話すかが大切なんですよね。そうい
えば克也さんは、この人の英語を以前褒めていましたね。(船橋市/男性)
〜 忌野清志郎 / Boys
(小林)この人は英語というか、まず日本語ですよね。こんなに日本語の一つ一つが心の中に入ってくる歌い方をする人はいないですよ。
だから、そういう言葉を大切にするハートがあるから、やっぱり英語を歌っても、自分の物になってて、そして入ってくるんだよね。
・この曲は、克也さんがナレーターをやっていたテレビ番組で見たのがきっかけで、それ以来彼女の美貌と歌声に一目惚れしました。もうす
ぐ中間考査も近いので、この曲で一発(小林、言い間違える)爆発したいと思います。(市川市/男性/17歳)
〜 Blondie / Heart of Glass
(小林)ブロンディは評価がまっぷたつに分かれて、今聞いているように、ディスコですよね。色んな物をやりすぎた!ということで。
いや、それがエライんだという人もいて、面白いですよね。
・わたしがビートルズを聞き始めたのは、今から35年前の中学2年の頃。少ないお小遣いで、ビートルズのLPレコードを買うことは出来ず
国内盤より安い海外盤を見つけて、買うこともありました。また、それとは違う海賊盤と言われる、いわば正規盤とはまた違った味わいの
あるレコードにも、わたしは惹かれたのです。海賊盤は、400枚以上あるとも言われています。フィル・スペクターがプロデュースした
正規盤「Let it Be」の別テイクや、未発表曲を収録した「Come Back」は、有名な海賊盤です。これは発売予告では、未発表となったジョ
ージ・マーティンのプロデュースによるアルバム「Get Back」だったんですよね。今となっては、「アンソロジー」「ライブ・アット〜」
といったアルバムで、高音質で別テイクの音が聞ける良い時代になりました。ノイズだらけの粗悪な音の海賊盤に夢中になっていた昔がな
つかしいです。(春日部市/男性)
〜 The Beatles / Sure to Fall (in Love with You)
・先日放送されていた西船橋駅付近の「Let it Be」の絵が描いてあるアパートですが、なつかしいですね。あれは私が高2の頃、1985年。
まさしく「ベスト・ヒット・USA」が全盛の頃、突如現れたと記憶しております。当時わたしは都内の高校に通っていたので、毎日総武線
であそこの前を通っていました。毎朝、何ら代わり映えのしない景色の前に突然現れ、また高一からビートルズを聞き始めたわたしにとっ
て、非常にインパクトがありました。もうあれから24年ぐらい経つのかと思うと感慨深い物があり、放送を聞いて、「まだあそこに、ビー
トルズのアパートがあるのか」と驚いております。(船橋市/男性)
〜 The Beatles / Let it Be
(小林)これね、船橋市西船橋の方がね、「西船橋にLet it Beのジャケットがペイントされたアパートがあるということでしたが、京成線
の東中山駅にも、一棟同じ建物があります。ペイントされた理由は分かりませんが、報告しました」可能性としては、あれだね。同じ
大家さんかも分からないね。こんなに言われ始めたら、大家さん名乗り出て欲しいですよね。「わたしが大家ですが、あっちは関係あり
ません」とか。「どうしてやりました」とか。
(小林)きょうのお話は、なんかテーマがあるような気がしますね。トガってばかりじゃ、しょうがない。トガってばかりじゃ、売れなかったわけで
す。ただ、全体的にはトガってたんだけど。ほら、一人の中で、そういう要素があるというか、四人の中でトガった人間。いや、ポップスがいいと
いう、ジョンとポールの関係とか、そういうのがあったんでしょうね。
ポールさん、いつも乙です。
船橋の例のアパートって結構有名なのね。
わたしも先日見てきました。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年6月7日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(6月7日)
・1964年 (45年前)
こりゃ、ビートルズじゃないんですけどね。あの、ビリー・J・クレイマー&ダコタスというグループが、ビートルズの出た
当時世界で最も有名なアメリカのテレビ・ショー「エド・サリバン・ショー」に出ます。この、ビリー・J・クレイマー&ダ
コタスというのはね、実は、ビートルズと同じマネージャー、ブライアン・エプスタインが代表を務めるNEMSのタレントと
というかグループ。このNEMSには、ビートルズが良く出てたキャヴァーン・クラブの受付だったシーラ・ブラック。これは
イギリスで売れる女優ですね。あと、ビートルズより人気が高かったジェリー&ペースメイカーズ。彼らにもヒット曲があり
ます。そして、このビリー・J・クレイマー。ルックスが良くて甘いマスクのビリーは、結構人気があった。あの、ジェリー
&ペースメイカーズは、自分たちのオリジナルで勝負していたんですけど、ビリー・Jは、ポールとジョンが曲を書いてあげ
てたんだよね。ビートルズが自分たちの他に、人のために曲を書いてあげて、ま、同じ事務所だからっていうことで。面白
いですよね。この頃の事情ってのはね。この頃はね、レコードで儲けようっていうよりも、レコードで有名になって、ライ
ブで稼ぐ。ちょっと、今の時代と似てるよね。だんだん、CDが売れなくなって、ほら、マドンナがライブをやる会社と契約
したり。そんな時代になっていくわけですが。この頃は、全くそうだったんですよ。もう、アルバムとかよりも、レコード
を売って、有名になって、ライブで稼ぐっていう時代だったんですね。昔のモータウンなんかも、そうだったんですよね。
さ、これはビートルズもやってるのかな。ポールとジョンの作品ということになってますが、彼らが提供してもらったわけ
ですね。最初にレコーディングした曲です。
〜 Billy J Kramer / I Call Your Name
ビートルズの先輩で、クリフ・リチャードという人がいますよね。ちょっと甘いルックスで、イギリスのプレスリーといわ
れた人ですが。クリフ・リチャードは、シャドウズというグループと一緒にやってて、シャドウズは大変なグループで、彼
らにもヒット曲があるわけですが、このクリフ・リチャードとシャドウズを目指していたみたいですね。ダコタスというの
は、とても演奏が知られてたグループで、ベンチャーズがヒットさせた「クルーエル・シー」というのが、ダコタスのオリ
ジナル。だから、ハンサムと演奏上手が揃った、大変なグループだったわけですね。
□ビートルズ、デビュー
・1963年2月17日 ── ビートルズは、まだ冷えきったツアー・バスに揺られていた。国民的アイドル・スターのヘレン・シャピロ
と、イギリス中を廻っていたのである。そんな中、彼らのセカンド・シングル「Please〜」が、イギリスのチャートでなんと、2位
まで浮上した。つまり、後ちょっとでトップになるというニュースが舞い込んできた。そのため、ビートルズは急遽予定を変更し
人気テレビ番組「Thank Your Lucky Star」に出演するため、雪の中、南へ向かった。テレビ番組に出るのは、最も大事なプロモー
ション活動だったのである。そして、ようやく雪も溶け始めた2月22日。音楽雑誌メロディ・メイカーのチャートで、「Please〜」
は、遂に1位に輝いた。マネージャーのブライアン・エプスタインは、リバプールのオフィスNEMSで、ファンクラブのスタッフと
この雑誌を広げて確認した。夢でも、間違いでもない。ビートルズは、まさしくイギリスのトップに躍り出たのである。リバプール
の人間には、信じがたいことだった。NEMSのオフィスには、ファン・レターが続々と舞い込んだ。トイレット・ペーパー一巻きを
使って書かれたもの。1メートルを超える、ハート形の切り抜きに書かれたもの。壁紙の芯棒に書かれたものなど。かなり凝ったも
のも、たくさんあった。そして、お祝いの品も送られてきた。等身大のぬいぐるみ、有名デパートのケーキ、袋に入れられたお守り
のブレスレットや、ブローチに指輪。そして、嫌がらせに近い物では、特別な乾燥機に入れられた、生きたタランチュラ。毒蜘蛛
というものまであった。これには、スタッフも飛び上がった。さすがに、これだけはどうすることも出来ず、ブライアンの提案で
熱帯医学研究所に引き取ってもらうことにした。そのブライアンは、事務所の3階で、ひっきりなしにかかってくる電話の対応に明
け暮れた。彼は一応、冷静を装ってはいたが、内心は興奮状態で、心がはち切れそうだった。それは、無理もないこと。なにせ、
1位になったのだ。スタッフの一人は言う。「あんな、興奮したブライアンを見るのは、初めてだったわ。」
〜 The Beatles / Please Please Me
〜 The Beatles / Paperback Writer
・1963年2月 ── ビートルズのセカンド・シングル「Please〜」は、遂にイギリス国内のチャートで1位に躍り出た。もちろん、ビー
トルズの事務所NEMSは、てんてこ舞いの大騒動である。マネージャーのブライアン・エプスタインは、ひっきりなしにかかってくる
電話の応対に追われた。ファン・クラブの応対で働くフリーダ・ケリーは、こう語っている。「誰かから電話がかかってくると、みん
な必ず最初にこう言うの。『ボーイズのこと、聞いたかい?』誰かが会いにくると、やっぱりその人も最初に言う言葉は『ボーイズの
こと、聞いたかい?』もちろん、ボーイズってビートルズのことよ。この頃から、ブライアンも、プロデューサーのジョージ・マー
ティンも、みんなビートルズのことをボーイズと呼んだみたい。特に、ブライアンにとっては、このボーイズっていう呼び方が、特別
な意味を持っていて、ま、“ぼくの可愛い男の子たち”っていうニュアンスだったと思うわ。」ビートルズが1位になったニュースを
聞いたジョージ・マーティンは、もちろん喜んだ。しかし、それと同時に深く考え込んだ。マーティンは語っている。「私は、Please〜
のようなヒット・レコードを過去に何枚も作ってきました。それに、いわゆる一発屋という物も見てきました。シングル一枚で有名に
なり、あっという間に忘れられていき、去っていく。もちろん、ヒットは重要なことですし、喜ばしいことです。ですが、この1位と
いう記録をもう一度繰り返すことが出来るという可能性は、極めて低いことも事実です。私は、その現実をひしひしと感じていました。」
ヒットを出すことは大変である。しかし、それを持続することは、その何百倍も難しい。レコード業界のプロ中のプロであるマーティン
は、そのことを良く理解していた。ゆえに、責任を感じていたのである。さあ、そうなると、次はどうしたらいいか。もちろん、マー
ティン一人の力では、どうすることも出来ない。この時から、ビートルズとマーティンとブライアンのNEMSによる、チームワークによ
る作業が、本格化していくのである。
〜 The Beatles / This Boy
〜 The Beatles / Old Brown Shoe
・ビートルズのセカンド・シングル「Please〜」は、遂にイギリスで1位に輝いた。まったくもって、喜ばしいニュースである。しかし、
問題はこの先。ビートルズはさらにヒットを出し続け、ロックの歴史を塗り替えるまでのバンドになるか。それとも、過去にたくさんい
た一発屋として消え去っていくのか。ここが、正念場である。そもそも、ヒットというのはアーチストだけでは作れない。もちろん、ビ
ートルズの場合、ジョンとポールを筆頭に優れた才能が集まり、作曲に関しても努力を続けた。過酷なツアーで培われた、タフな演奏力
もある。所属レコード会社のプロデューサー、ジョージ・マーティンもベテランでセンスのいい人物である。何より、ビートルズの魅力
を引き出すことに専念してくれた。ここまでは、文句はない。これに加え、さらに大切なのが、マネージメント。つまり、所属事務所。
マネージャーのブライアン・エプスタインは、ビートルズの魅力に最初に惚れ込み、それを信じて頑張った男である。しかし、ブライアン
は最初から、自分に出来ることと出来ないことが分かっていた。お金関係 ── これは苦手であるが、人に任せるわけにはいかない。自分
でやろう。次に、宣伝と広報 ── これは、自分では無理であると判断し、優秀な人材を捜すことにした。こうして、ビートルズの運命を
変えることになる重要な人物との出会いは、Please〜の成功から時間を3ヶ月ほど前にさかのぼる。1962年11月 ── ビートルズは、
ブライアンが彼らの広報関係として雇うつもりでいた男と、ロンドンの小さな店「デ・ポンシャ・アームズ・カフェ」で、初めて出会った。
男の名は、トニー・バーロウ。いかしたスーツを着た、なかなかハンサムな男である。トニーは、既に音楽記者として、知る人ぞ知る業界
では有名な存在であった。ジョンは、この初対面のトニーに対し、いきなり大声でストレートな質問を浴びせた。「あんた、ホモでもなく
ユダヤ人でもないんだろ? なのに、なんてブライアンのところで、働こうとしているんだ?」もちろん、店中が静まり返ったことは、言う
までもない。
〜 The Beatles / A Hard Day's Night
(小林)ジョンは昔から、強烈ですね。すごい、ストレートな質問。いきなり、しちゃんだもんね。
□リクエスト
・私は、ビートルズの曲の中では、「Strawberry〜」が一番好きです。ラジオにリクエストするのは、生まれて初めてなので、ぜひ自分で
リクエストした曲を、ラジオから聞いてみたいです。よろしくお願いします。(住所性別不詳)
〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever
(小林)この気持ちは分かります。だって、特別に自分のためにかかってくれるような気分になっちゃうからね。用意はいいですか。
・最初に、他のアーチストとコラボした曲ではないでしょうか。(さいたま市/男性)
〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
・俳優としての、克也さんの初々しさが好きです。ものを作りすぎて、素材の味がしなくなる芸術家や俳優が多い中、克也さんの仕事の
捉え方はエライと思います。そうした作りすぎない物は、より自由で新鮮で良い味のする本物の野菜や美味しい水みたいで好きです。
ビートルズのホワイト・アルバムのヒナ菊を歌っている曲や、オノ・ヨーコのシンプルなアートみたいです。作りすぎと言えば、最近
お偉くなった石坂敬一氏(筆者注釈:現ユニバーサル・ミュージックCEO)のラジオのインタビューを聞きました。自称ビートルズ原理
主義なんだそうです、石坂さんは。これは、ビートルズが認めたアルバム13枚以外は聞かない主義なんだそうです。黙ってりゃ良いの
に、ラジオ聞いてたら「Long〜」が結局終局にふさわしいとか、「Golden〜」がビートルズのレクイエムでなかったら何やねん!と言
いたくなります。ペパーを崇拝してる人だから、しかたないんですけど。(船橋市/男性)
〜 Harry Nilsson / All I Think about You
〜 The Beatles / Hey Jude
(小林)ぼくは、援護するわけじゃないんですが、石坂さんのことを良く知っていて、彼はレコードが好きな人(なんです)。レコード
の中から色んな物を読み取る(人なんです)。ぼくもちょっとそういう所があるんですけど、例えば本を読んだりとか、色んな情報を
仕入れて、レコードを聴く人じゃないんですよね、彼は。レコードを聴いて、この人間はこうであるとか、そのレコードの中に全て
が詰まっている。だから、レコード原理主義者と言ってますけど、ぼくは自分を含まると、ロマンチストと ── この論議は面白い
ですよね。この辺りで片付くもんじゃないと思いますが。
・この曲は、ぼくが大学4年で卒業寸前、父が突然他界したことを知らされた直後に、カー・ラジオから流れた曲です。あまりにも突然
だったので呆然とする中、この曲のメロディーと悲しみと不安の感情だけは、15年経った今でも心に残っています。ビートルズについ
ては、中学生の頃になかまないで、仲間内で(小林、読み間違える)で聞いた程度であり、歌われている歌詞の内容や、グループの生い
立ちなど、ほとんど知りませんでした。克也さんの番組を聞き始めてから、少しずつビートルズが身近な存在になり、「Hey Jude」と
いう曲の歌詞にも興味を持ち、その内容を知った時、ぼくは15年前のあの場所に戻り、目からは涙があふれ、止まりませんでした。今
思うとこの曲は、父からの最後のエールだったのかなと思います。社会人になるという現実に、希望とこれからは自立しなければという
不安を持ったぼくに、父が語ったのだと思いました。今は、当時からつき合っていた妻との間に5歳になる娘がいるので、絶対弱音は吐
きません。今日は、たまたま横浜の実家に、父の墓参りに行き、帰りの車内で番組を聞きました。克也さんの「思い出とリクエストを」
という声が、親父が「たまには説教してやるぜ!」と言ってるような気がして、メールを差し上げました。(住所不詳/男性)
〜 The Beatles / Hey Jude
(小林)リクエストは、結構音楽や芸術を深く考えてるんだなーという人とか、結構泣けるリクエストもいただきました。ありがとうございます。
話の方は、ビートルズの宣伝だとか広報の方に来ていますけど、実はビートルズが偉かったのは、音楽ばっかりじゃないんですよ。ビートルズ
はほら、最初はマネージャーがいたけど、ポール・マッカートニーとかジョン・レノンとか、みんなが宣伝の仕方を確立するんです。だから
他のアーチストが今やってるのは、みんなビートルズが始めたことなんです。そういう偉さがあるんですね。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年6月14日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(6月14日)
・1964年 (45年前)
45年も前のきょうです。リンゴ・スターが、オーストラリアはシドニーの空港に到着しました。そして午後には、シドニーから首都
メルボルンへ飛んで、そしてそこからビートルズの記者会見が行われました。これはね、どうしてリンゴがビートルズに加わったか
というと、ちょうど11日前、10日ぐらい前にリンゴ・スターは扁桃腺が腫れて、ロンドンの大学病院に緊急入院します。で、急遽
リンゴが出来ないってことで、代役が選ばれてジミー・ニコルというドラマーが、午後リハーサルやっただけで、もうすぐデンマーク
コペンハーゲンでのコンサートをやってね。オランダのアムステルダムでテレビに出てコンサートをやって、香港でコンサートをやっ
て、オーストラリアのアデレードでコンサートをやって、その頃リンゴ・スターは回復して、そして45年前のきょう、他の三人に加
わるため、オーストラリアにやってきたというわけです。ビートルズの代わりをしたジミー・ニコルは、ビートルズの歴史上、メン
バーの代役として出演した、ただ一人のミュージシャン。ジミー・ニコルは記者会見で、「とても嬉しかった。名誉なことだ。」と
語ったそうですけど。ま、映画のタイトルみたいに「10日間だけビートルズだった男」みたいな、タイトルがつきそうだね。それが
ジミー・ニコルであります。さ、この頃の初期のビートルズのツアーで、リンゴ・スターが歌っていたナンバーを聞いてください。
オリジナルは ── 、シュレルズって知ってますかね。黒人の女性グループです。ビートルズは結構、黒人の女性グループの音楽をカ
バーしてますよね。カバーの選曲のセンスがメチャクチャ良いです。
〜 The Beatles / Boys
なかなか楽しい曲だよね。やっぱ、ビートルズがカバーをすると、その曲がイキイキしちゃうね。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・「あんた、ホモでもなく、ユダヤ人でもないんだろ? なのに、なんで、ブライアンのところで働こうとしてるんだ?」 ── ジョンは
この初対面の男、トニー・バーロウに対し、いきなり大声でストレートな質問を浴びせた。時は、1962年11月。ビートルズは既に
「Love Me Do」でデビューを果たしていた。マネージャーのブライアン・エプスタインは、このバーロウという男を、ビートルズが
所属するオフィス、NEMSの広報担当として迎え入れようと考えた。そのためにはまず、ビートルズのメンバーとの相性が大切と思い
ロンドンのパブで、四人と引き合わせたのである。ところが、ジョンのいきなりの先制攻撃。バーロウは、驚いた。と同時に、ジョン
に対して普通ではない、底知れぬ興味を感じた。この頃バーロウは既に、故郷のリバプールを離れ、ロンドンのデッカ・レコードで、
音楽ライターという仕事に就いていた。そのせいで、もうリバプールのマージー・ビート・シーンの情報には、疎くなっていたのであ
る。この、ビートルズとの初デートで、彼等の故郷での最も有名なクラブ「キャヴァーン」で、いま何が起きているのか。そして、
ビートルズがいくつかの季節を過ごした、ハンブルグでのレイパーバーン地区での冒険物語を聞かせてもらった。そして、バーロウは
ロンドンのレコード業界で行きていく上での知恵、そして最近見たアーチストの話題を、ビートルズに提供した。次の日になって、
ブライアンから電話がかかってきた。「それで、心は決まったか?」ブライアンからの、その問いかけに対し、バーロウは「まだ決心
がついていない」と答えた。しかし、前向きな話し合いに応じるために、ランチの約束を交わした。バーロウが躊躇していた理由は
ビートルズの四人と仕事をする気持ちとは関係なく、単に自信がなかったというところが大きかった。バーロウは、デッカ・レコード
のライターに就いていたという定職があったし、プレスや広報といった仕事の経験は皆無であった。それに、バーロウは新婚であった。
安定した生活をすることが先決であるこの時期、ビートルズに懸けることが出来るか? 大きな決断を迫られていた。
〜 The Beatles / Please Mr. Postman
〜 The Beatles / Yellow Submarine
・ブライアン・エプスタインから、ビートルズの広報の担当にならないかと強く言い寄られていた、トニー・バーロウは悩んだ。確かに
ビートルズは、言葉では言い表せない魅力にあふれている。だが、今のこの新婚生活と、これからの人生をビートルズに懸けることは
出来るのか? 自分には、決心がつかない。無理もないことだ。元々、バーロウが抱いていた野望は、いずれレコード制作に関わるか、
もしくは、どこかの音楽雑誌の編集部に入るか ── というものであった。しかし、この時点では、今の職業であるデッカ・レコード
での、イギリス唯一のライナーノート専門ライターという職業に満足していた。バーロウはデッカの本社で、イギリス国内のポップ・
ミュージックのLP、もしくはEP向けのラーナーノートを書くか、あるいはアメリカからの輸入レコードに着いてくる、既存のライナー
ノートをイギリス風の綴りに直す仕事をやっていた。例えば、「カラー」「シアター」といった言葉は、アメリカとイギリスでは、ス
ペルが違う。彼が受け持つアーチストは、多種多様であった。アイドル・シンガーのビリー・フューリーをインタビューした翌日は、
ジャズの大御所デューク・エリントンのベスト・アルバムのライナーを執筆するといった具合である。またバーロウは、実は八年前か
ら、故郷の新聞「リバプール・エコー」の土曜版に「オフ・ザ・レコード」という、レコード業界のコラムを連載していた。バーロウ
を知る人は皆、なぜ記事の署名が「トニー・バーロウ」ではなく、「ディスカー」なのかを不思議がっていた。当時バーロウは、まだ
高校に通う17歳の少年で、編集部としては、そんな若造にレコード評論を書かせているということは、公にしたくなかったというのが
理由である。そうなると、どうしてもペンネームを考えなければならない。ある日バーロウ少年は、アメリカの有名シンガーのレコード
の宣伝ポスターの前で立ち止まった。そこには、こう書いてあった。 ── アメリカ最高のロカビリー・シンガーで、世界最高の売り上
げを誇るディスカー、ガイ・ミッチェル ── バーロウは、“レコードを出している歌手”という意味の“ディスカー”という言葉が気
に入った。よし、ディスカーで行こう。決定だ!
〜 Guy Mitchell / Singing The Blues
〜 The Beatles / Hello Goodbye
・ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが広報の担当者として、白羽の矢を立てた男トニー・バーロウは、音楽ライター
として既に17歳の高校生時代から、地元の新聞リバプール・エコーに連載コラムを書いていた。早熟な青年だったのである。バーロウは
この高校時代、執筆活動だけでなく、学校のダンス・パーティなどで演奏するバンドのマネージメントも始めていた。演奏場所は、学校
だけではない。教会、地元のフェスティバルの催し物 ── どこへでも出かけて、演奏を提供した。そして、一回の演奏で、バーロウ少年
が受け取る報酬は、30ポンド。当時としては、破格の金額であった。このお金のおかげで、バーロウはいつも、可愛い女の子とデートが
出来た。同じ頃、バーロウが住んでいたところから、ほど遠くない場所に住んでいて、年も近かったジョン・レノンは、ミュージシャン
としてのキャリアをスタートさせていた。ジョンにとっては、初めてのスキッフルのバンドを結成するために、クォーリー・バンク・ハ
イスクールの仲間を集めていた。同期は、バーロウと同じく、よりレベルの高い女の子をゲットするためであった。そして、ジョンの音
楽の興味は、スキッフルからロックンロールへと進化を遂げていた。リトル・リチャード、バディー・ホリー、チャック・ベリー、ジェ
リー・リー・ルイス。そしてもちろん、エルビス・プレスリー。ジョンは、バンドのメンバーに、ロックンロールを聞いて覚えるように
啓蒙していった。もちろん、ライブに集まる連中もロックンロールを歓迎し、リクエストも殺到した。時代のニーズに、ハマったのであ
る。その一方で、少し年上のバーロウにとって、マージー・ビートとは、伝統的なジャズ・ミュージックを意味していた。リバプール繁
華街のレストランでは、ジャズがいまだ演奏されていた。こうした、音楽の都リバプールの現状を、バーロウはくまなく観察してきた。
若き、生き証人だったのである。
〜 The Beatles / Honey Pie
〜 The Beatles / I've Got a Feeling
(小林)ポール・マッカートニーの幅の広さ、器用ですよね。一曲目は「ハニー・パイ」で、イメージとしてはどうですか。シルク・ハット
の男が歌いながら、タップ・ダンスでも踊っているような感じ。ポールのお得意な、ミュージック・ホールものですね。そして、「アイヴ
・ガット・ア・フィーリング」。
□リクエスト
・毎週、マニアックな放送をありがとうございます。この楽曲、どこかで一度聞いたことがあるのですが、軽快なメロディラインが気持ち
よくて、確かに「ヘルプ!」に似ているのですが、なんだか憎めない楽しい楽曲なのです。(越谷市/男性)
〜 The Rutles / Ouch!
(小林)マニアックじゃないですよね、この放送は。基本の基本の放送ですよね。原点放送とでも申しましょうか。
この曲はタイトルからして「アウチ!」。「痛い!」でしょ。のっけから、ビートルズのパロディだって、バラしてるわけです。
だから、面白いんですよね。
・ポールの唯一のテクノ・サウンドである「Temporary〜」が聞きたいのでリクエストします。もう入手困難なCDなので、ぜひお願いしま
す。克也さん、この曲どう思いますか?(横浜市/男性)
〜 Paul McCartney / Temporary Secretary
(小林)これは、ポールが成田で捕まった後に書いたもので、「Coming Up」とか覚えてますか? 独特な世界のものを、ポールが試験
的にリリースしましたよね? やっぱポールは、そういうような、新しいものにすぐ飛びついちゃうっていうたくましさがあるなって
感じがしました。
・ビートルズを聞き始めて、40年ほどになります。兄がビートルズ・ファンで、かなりのレコードを持っていました。でも、私が買ったの
は、ストーンズの来日記念盤のレコードでした。結局色んな問題があり、来日できませんでした。(所沢市/男性)
〜 Rolling Stones / Honky Tonk Woman
(小林)お兄ちゃんがビートルズに行ってるから、弟はストーンズに行っちゃう。良くわかる、典型的な例ですね。
・日本を代表する、キング・オブ・ロック。忌野清志郎さんが亡くなって、早いもので一ヶ月以上が経ちました。ロックンロール葬で、妻
と涙ながらに聞いた忌野さんの遺作「Oh! RADIO」が発売されると聞いて、いてもたってもいられず、メールを差し上げました。優しく
て、やわらかくて、そしてどこか切なげな清志郎さんの歌声。ぜひ、「ビートルズから始まる。」で、かけていただけないでしょうか。
(船橋市/男性)
〜 忌野清志郎 / Oh! RADIO
(小林)どうですか。色んな曲をこの番組は紹介しますが、彼の歌、独特ですよね。そのまま、すっと入っていきますよね、昔ね、レイ
・チャールズという人が、「自分はシンガーというよりも、語り部だ」という(言葉を残しましたが)、清志郎という人は、そういう
人だと思うんですよ。詩がそのまま、もちろんメロディーを伴って入っていく。心に入った時に、人を泣かせる。だから聞いた人は
「清志郎、泣いてる」と思っちゃうんだけど、実は泣いてないんですよね。天才的な人で、その遺作が「Oh! RADIO」という、ちょっ
と、格好良すぎますね。
(小林)お話の方は、トニー・バーロウという、みなさんあまりご存じない人の話に行っていますが、これはリバプールとか、その頃の歴史的背景
に触れることによって、ビートルズが皆さんに近づいてくると思います。リバプールは、きょうもお話ししましたけど、ビートルズみたいなロック
が来てましたよね。と同時に、ジャズが盛んなところであった。もう一つ面白いことに、リバプールという港町は、ちょっとイギリスの他のところ
とちょっと違っていたのは、1950年代の終わり、プレスリーの大ブームが来るんです。だけど、リバプールでは、プレスリーではそれほど盛り上
がらなかったんです。プレスリーは白人だと、黒人たちのもっともっと本物があるってことで、リズム&ブルースが大好きだったところだったんで
す。そういうところから、ビートルズが出てくるんですよ。実は、リバプールというのは、田舎ですよ。ロンドンに比べると、田舎っぽい。そんな
ハンディーを背負って、ビートルズが出てくるというわけです。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年6月21日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(6月21日)
・1976年 (33年前)
ポール・マッカートニーと彼のグループ「ウイングス」は、ロサンゼルスでコンサートをやっています。もう、この頃はポール・
マッカートニーとウイングスの絶頂期ですよね。年齢を考えてください、30半ばですかね。もう、一番脂がのってる時であります。
その、ポール・マッカートニーのコンサートに、リンゴ・スターが出てきます。リンゴ・スターは、ウイングスのギタリスト、
デニー・レインに花を贈って、ポールのカミさん ── ウイングスのメンバーです ── リンダ・マッカートニーの手にキスをし
で、ポールのベースを持って、ポールと腕を組んで、ステージからポールと降りていくという、もう本当に盛り上がって、連日数万
人のお客。アメリカ・ツアーは26都市で31公演を行ったそうですけど、その後が面白いんですよ。リンゴが登場して、ビートルズの
再結成説が出るんです。実は、このツアーでニューヨークに行った時、ポールはジョン・レノンのダコタ・アパートまで行きます。
ヨーコが仕事で留守! だから、ジャマがいない。面会は大成功、二人は飲みに出かけたという噂が広がって、ビートルズは再結成
するらしいぞ!というのが世界中に広まるんですけど。惜しかったね。結果は、ご存知の通りであります。さ、それでは全盛期の
ポール・マッカートニーとウイングスの、このアメリカ・ツアーの模様を収めた、3枚組のアルバム「ウイングス・オーバー・アメ
リカ」というのがあるんですが、その中で一番盛り上がってるメドレーの途中、強引に入ってこの曲をお送りしましょう。
〜 Paul McCartney & Wings / Jet
盛り上がってますねー。「ウイングス・オーバー・アメリカ」、これシャレてるの分かりますか? 「アメリカにかかる翼」 ──
そんなことは分かってる? あ、そうですか。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年11月 ── ビートルズの広報担当者として、音楽ライターのトニー・バーロウに白羽の矢が立った。しかし、安定した仕事と
収入があり、おまけに新婚生活をスタートさせたばかりだったので、バーロウは自らの進退を決めかねていた。ここから、時をさかの
ぼることおよそ一年弱。1961年11月 ── ビートルズは、いまにもブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結ぼうとして
いた時期である。バーロウは当時、故郷の新聞リバプール・エコーに籍を置き、音楽評論の連載を持っていた。そのバーロウ ── 正確
にはペンネームであった「ディスカー」宛に、ブライアンから一通の手紙が届いた。その内容は、自分の手がけるグループのことを、
ディスカーのコラム「オフ・ザ・レコード」で書いてもらいたいというもので、バーロウはすぐに、ブライアンに返事を書いた。この
時ブライアンを驚かせたのは、その返信の差し出し元が、リバプール・エコーではなく、ロンドンのデッカ・レコードだったということ。
もちろん、封筒の消印はリバプールではなく、ロンドン。つまり、この時点でバーロウはデッカ・レコードの正社員であり、リバプール
・エコーでのディスカーとしての記事は、高校生時代からの仕事を引き続き行っていたもので、いわば内職 ── アルバイトみたいなもの
であった。バーロウからの返事の内容は、「コラムは完全にレコードの評論だけで形成されているため、ビートルズがアルバムでもシン
グルでも、とにかく何か具体的な形になるまで、記事を書くことは出来ません」といった、丁寧ではあるが、毅然としたものであった。
この返信にブライアンは納得がいかなかったらしく、デッカ・レコードの窓際に追いやられていたレコード・ジャケット部門のバーロウ
の小さなオフィスにまで、リバプールからやって来てしまった。バーロウには、ブライアンが聞かそうと持ってきた音楽よりも、ブライ
アン本人の方が、印象的だった。外見的にはキチッとしていて、清潔感があり、まさに好印象。丁寧に散髪され、若干クセのある髪と、
磨かれてマニキュアを塗ったツメ。スーツはオーダーメイドで、仕立てのいいキャメルのコート。紺に水玉のシルクのスカーフ。そして
新品の靴。全てが、完璧であった。バーロウは、この男から何かを感じ取ったのである。
〜 The Beatles / Oh! Darling
〜 The Beatles / Free as a Bird
・ブライアン・エプスタインから、後にビートルズの広報担当として、白羽の矢を立てられ、引き抜かれることになるトニー・バーロウ。
このバーロウが勤務するデッカ・レコードを、ブライアンは訪問した。バーロウは、ブライアンの完璧な出で立ちに目を奪われた。そし
て、そのしゃべり口調。リバプールなまりなんて、微塵も感じさせない。まるで、国営放送のBBCニュースを聞いてるような、上品な口
調である。少なくとも、バーロウがこれまで接してきた、典型的な芸能関係者や、音楽出版関係者とは、全く違っていた。こういった、
音楽業界人のほとんどは、宝石の原石のように荒っぽく、大抵は吸いかけの葉巻をくわえ、むっとするタバコの匂いがした。こうした連
中に対し、ブライアンは見事にカットされたダイアモンドに近いものであった。もちろん、バーロウが音楽業界で、こういうタイプの人
間に会ったのは、ブライアンが初めてだったのである。ブライアンは、バーロウに尋ねた。「ビートルズの、キャヴァーン・クラブでの
演奏を録音したデモ・テープがあるんですが、一度聞いてはいただけませんでしょうか。」バーロウは、丁寧に答えた。「ええ、どうぞ。
そのレコード・プレイヤー、ご遠慮なくお使いください。」聞こえてきたのは、強烈なリズム&ブルースのビートと、それをほとんどか
き消してしまうかのような、凄まじい歓声であった。ギターやボーカルなんて、ほとんど聞こえない。音楽として聞くのは、不可能な状
態だった。これほど凄まじい熱狂とは、果たしてどういうものなのか。興味は持ったが、いい印象を与えるものではなかった。ブライア
ンの後ろ側に座っていた女性スタッフの表情を何度も確認したが、彼女はその度に“しかめっ面”で、その印象を表現してくれた。一介
のライナーノートのライターであったバーロウには、アーチストと契約するかどうかを決める権限など無かったのであるが、「こちらか
ら連絡を差し上げますので、お問い合わせはご遠慮ください」と決まり文句を添えて、お引き取り願うことにした。一応は了解したブラ
イアンであったが、帰り際にこう語った。「ビートルズはいまに、エルビス・プレスリーにも匹敵する ── いや、それ以上の大物の存
在になりますよ。」
〜 The Beatles / Help!
〜 The Beatles / Your Mother Should Know
・「ビートルズはいまに、エルビス・プレスリーにも匹敵する ── いや、それ以上の大物の存在になりますよ。」ビートルズのマネー
ジャー、ブライアン・エプスタインは、そう捨てゼリフを残して、初めて訪れたデッカ・レコードを去って行った。訪ねた先は、レコー
ド・ジャケットの制作チームで、ライナーノートを担当するトニー・バーロウ。完全に、お門違いであった。バーロウの方も、とりあえ
ずお引き取り願うしか、方法が無かったのである。プレスリーよりも大物か ── バーロウは、考え込んでしまった。この当時、エルビス
・プレスリーのシングル「His Latest Flame(マリーは恋人)」が、イギリスのチャートで1位を記録している最中で、アメリカではRCA
イギリスではバーロウの勤務するデッカ・レコードから発売されていたのである。ブライアンが有名な捨てゼリフを残して去った後、バー
ロウは、今一度考えてみた。キャヴァーンの客が起こした聴覚的騒乱に埋もれてしまってはいたものの、もしちゃんと聞こえていれば、ビ
ートルズの演奏は悪くはなかったかもしれない。実際に、ブライアンが音質も悪さの理由として述べた「ラジオ局の録音が下手で」という
のは、ちょっとしたウソであり、実際にはブライアン本人が自分の店NEMSで売っていた、家庭用の粗末なテープ・レコーダーとマイクで
録音したことにあった。それも、マイクをセットしたのが自分の頭上だったため、ステージのビートルズの演奏よりも、歓声の方が大きく
録れていたのは当然のことだったのである。いずれにしても、これが初対面のブライアンとトニー・バーロウのストーリーである。少しの
間考えたバーロウであったが、このビートルズというバンド、そしてそれ以上に、マネージャーのブライアン・エプスタインという人物が
気になってしまった。そして結局バーロウは、自分の勤務するレッカ・レコードのアーチスト担当部署である、A&Rに内線を入れることに
した。これは、同じ部署の女性スタッフの反対を押し切っての、まさに異例の行動であった。伝説の始まりである。
〜 The Beatles / I Feel Fine
〜 The Beatles / Get Back
(小林)おなじみの曲出し、そしてジョンが「オーディションに、俺たち受かったら良かったねー」みたいなことを言いますけどね。オー
ディションといえば、さっき「伝説の始まり」とビートルズの最初のオーディションのきっかけのところまで来てますね。これも面白い
ですね。リバプールから、わざわざ ── いいですか、ロンドンへ出て行ったわけですよ。エプスタインが。というのも、リバプールに
いると思ったんだよね、トニー・バーロウというか、ディスカーが。ところが、もうデッカ・レコードっていうところへ、行っていたわ
けですよ。それも、あまり大した仕事じゃないわけですよね。トニー・バーロウは。でも、トニー・バーロウがエプスタインに会った時に
感じたのは、この男すごいなっていう、なんかブライアンはご存知の通り、同性愛で知られている人ですけど、トニー・バーロウもちょっ
とそういうところがあるのかな。ブライアンがビートルズよりも、ビートルズのことあまり聞かなかったわけだからね。騒音にかき消され
て。だけど、ブライアンがあんなに言うんだからっていうんで、ビートルズというグループがいるから、どうのこうのって、デッカのオー
ディションが実現するわけですが、その模様はまた来週お話ししましょう。
□リクエスト
・ビートルズのエピソードを小林さんが語ったとき、楽曲がラジオを通じて、私の耳に入る時、上司の理不尽な叱責や同僚との人間関係で疲
れた私の心を癒してくれます。この曲は、「この人、男の人なのに、なんてセクシーな歌い方をするんだろう」と思った曲です。なんとな
く、梅雨時にしっとり聞きたいなあというナンバーなので、選んでみました。(船橋市/女性)
〜 Queen / Killer Queen
(小林)歌の内容がね、すごい高級な商売をする女性の歌だと思うんですよ。だって、キラーですからね。キラーっていうのは、最高の
っていうような意味合いですから。クイーンっていうのも、男性が男性を好きな…というような意味もあるんです。それだけに、怪し
い素晴らしさがあるんです。(曲が終わった後)何回聞いても良いですねー。サビのところが「Dynamite with laser beam」ですよ。
「Guaranteed to blow your mind」つまり、「彼女はダイナマイトだ。レーザー光線付きのダイナマイトだ。」どういうことですか!
で、「あなたがぶっ飛ぶこと受け合い」「試してみるアンタ(Wanna try ?)」ってのがコーラスで来ちゃう、怪しい曲だよねー。
・娘にビートルズを聞かせたところ、気に入ってしまい、Let it BeやHey Judeを口ずさんでしまうぐらい、気に入っています。娘が自分で
リクエストしたいと二つも書きましたが、ぜひかけてください。(野田市/女性/5歳)
〜 The Beatles / Ob-La-Di Ob-La-Da
・洋楽に弱い45歳のおばちゃんにとって、ビートルズと言えば「イエロー・サブマリン」。実は、金沢明子さん ── ロウソクの火を消さな
いで歌う ── が歌っていたことで知ったぐらい。はあ、今となっちゃあ、こんなに有名になったビートルズの歌を知らないなんて失礼で
すよねー。素敵な曲がいっぱいあるのにねー。(印旛郡/女性)
〜 Rolling Stones /
(小林)これは、さっきのキラー・クイーンの話と似てるんですが、イエロー・サブマリン=黄色い潜水艦でしょ。潜水艦の形をした
ドラッグのポピュラーなものがあって、これは「イエロー・サブマリン」っていうけれど、黄色い潜水艦の中は楽しいなーって歌う
けど、これはアレの歌じゃないか?って、国営放送BBCなんかは、本気で考えたんですよ。で、これはOKだということで。ものには
裏がある。で、裏を知ると、表も面白くなる。そんなの、どうでもいいー!って思わせるのが、良い曲というわけですね。なんて、
ちょっと時間が余ったので、曲の解説をしましたが、そんなのどうでもいいねー!
(小林)お話はちょっとジミでしょ? でも、始まります。伝説です! お子さんからもリクエストが来ます。そして、うるさい人からもリクエスト
が来ます。リクエストをお待ちしています。
それではここで交通情報です!
以下略
きょうはエンディングで
「ミートボールを差し上げます」って言ってたけど、ほかのものはくんないのか?
まあ、単に時間が足りなくなったような雰囲気でしたがね。
( ;∀;)イイハナシダナー
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年6月28日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(6月28日)
・1966年 (43年前)
もう、分かってる人いるかもしれませんが、きょうは、ビートルズの日です! 日本に、ビートルズが、やって来た日です。43年前の
きょうです。ドイツのツアーを終えて、実は台風4号というのが来てて、アラスカのアンカレッジで、9時間足止めを食らった後、羽
田空港 ── 当時は(成田ではなく)羽田です ── 羽田に到着、JALで来ます。JALのファーストクラスは、ハッピが着くんですよね。
で、そのリクエストに応えて、ハッピを着て、タラップを降りて行きます。ライブ前の記者会見でジョン・レノンが、「ビートルズを
聞きたい人は、レコードを聞いてください。ビートルズを見たい人は、コンサートに来てください。」(と言いました。) これは、どう
いうことかというと、“コンサートに来たら、歌なんて聞けないよ。見るだけだよ。”って、自分で、そう感じてたんですね。みんな、
キャーキャー言って、音は全然聞かなかった。公演は、読売新聞社、それから、中部日本放送の主催。6月30日から3日間、5回の公演
です。初日は夜のみ。2(日目)3(日目が)、昼夜2回公演。後、その頃はうるさかったんだよ。席を立ち上がったら、即退場という規制
も敷かれていたそうです。ほとんどが、ホテルで軟禁状態。ホテルを出られなかったんだけど、ポール・マッカートニーだけは、ロー
ディのマル・エヴァンスと、ちょっと変装をして、お出かけして、球場のあたりを見た。ビートルズのメンバーと会食をしたのは、加
山雄三。この頃のお話はいっぱいありますけど、演奏曲目は主催者や新聞社の発表とはまるで違って、オープニングはこんな感じ。武
道館です!
〜 The Beatles / Rock'n Roll Music
〜 The Beatles / She's a Woman
すっごいでしょ、歓声が。これはね、考えてください。武道館の客席に、マイクを仕掛けたわけではないんです。武道館のステージで
これですから。客席だと、こういう風に聞こえないわけですよね、「キャー」の方がでっかいから。だからね、ぼくはリンゴ・スター
とインタビューをしたことがあるんですけど、「武道館は、自分たちが何をやってるのか、分からなかった」というようなことを言っ
てました。何をやってるか分からない割には、ビートルズしっかりしてますよね。武道館の初日だと発表されてる、このライブの模様。
ああ、そうか、この頃武道館にいた人たちは、もう“アラ還”ですよ。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・時は、1961年11月。ビートルズのメジャーデビュー前。後に、ビートルズのマネージャーとなるブライアン・エプスタインは、なんと
か、レコーディングの契約を取り付けようと、奔走する日々であった。ブライアンが最初に目を付けたのは、地元リバプールの新聞「リ
バプール・エコー」に音楽批評コラムを連載していた“ディスカー”こと、トニー・バーロウであった。ビートルズをコラムで取り上げ
ていただけないだろうか ── という丁重な文面の手紙がマーロウの元に届き、ブライアンに返信が届いた。しかし、その差出人住所は
リバプールではなく、ロンドンの大手レコード会社デッカとなっていた。ブライアンは最初、なぜロンドンからなのか、理解が出来なか
ったが、バーロウと連絡を取り合ってる内、事の詳細が分かってきた。つまり、バーロウは既にリバプールの学校を卒業し、ロンドンの
デッカ・レコードに就職していた。つまり、リバプール・エコーでのレコード批評という仕事は、いわば内職。アルバイトの延長に過ぎ
なかったというのである。それであれば都合が良いと考えたブライアンは、ホテルをを予約し、電車に飛び乗り、一路ロンドンへ向かっ
た。親に経営を任されているミュージック・ショップNEMSは番頭連中に任せ、既に頭の中は、ビートルズの事でいっぱいだったのであ
る。音楽業界の事は、全くといっていいほど分かっていないブライアンは、デッカでバーロウと会えば、即契約してもらえるぐらいに考
えていた。しかし、現実は、それほど甘くなかった。なにしろ、バーロウはアーチスト担当ではなく、あくまでもライナーノートなどの
文章を書く、ライターのセクション勤務だったのである。ブライアンは、持参したキャヴァーン・クラブでのライブ録音音源を聞かせた
が、あまりの音質の悪さに、バーロウは何も言うことが出来なかった。結果、ブライアンには、丁重にお引き取り願うしかなかったので
あるが、バーロウはこのブライアンという男とビートルズの事が、なぜか気になって仕方がなかった。言葉では説明の着かない、運命の
糸に操られていたのかもしれない。
〜 The Beatles / No Reply
〜 The Beatles / Real Love
・デッカ・レコードを訪れたビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインに丁重にお引き取りいただいた後、対応したトニー・
バーロウは、落ち着かない何かを感じていた。ブライアンが持参したキャヴァーン・クラブでの演奏は、あまりに音が悪すぎて、評価の
しようがない。ただ、あれがもし、そこそこ良い音質で録音されていたとしたら、きっと自分の判断は違っていただろう。少なくとも、
観客の絶叫の中から聞こえてきた強烈なリズム&ブルースの演奏は、イギリスでは一度も耳にした事のないものであったし、それ以上に
エプスタインという男には、何か尋常ではないオーラが見えた。もしかすると、これは何か大きな、運命的な出会いなのかもしれない。
そう思ったバーロウは、ビートルズをデッカのアーチスト担当、そして制作スタッフに紹介したいと考え、内線電話をしようとした。こ
れには、同じ部署の女性スタッフから大反対に出会ったのであるが、トニーは考えを変えようとはしなかった。しかし、最良の方法を今
一度考え直し、制作部門よりも営業部門に連絡を取る事にした。その理由は、ブライアンがレコードショップの経営者であったことによ
る。もし、ブライアンの店とデッカ・レコードとの間でビジネス上の取引があれば、話の進展は早い。そうバーロウは目論んだのである。
内線を受け取り、社内の帳簿を調べた営業部門のスタッフは、また内線してきた。「あ、バーロウか。社内の営業帳簿を全部調べたんだ
けど、エプスタインという名前はどこにもないんだよ。そのブライアンとかいう男の店の名前、君は聞いていないのかな。」バーロウは、
答えた。「ああ、あそこは町中に店舗チェーンを展開していて、通称“NEMS”。ノース・エンド・ミュージック・ストアという名前で
営業してるんだ。」その瞬間、営業部は食いついてきた。NEMSと言えば、デッカのお得意様の一つで、そこと絡んでいるバンドなら、
ぜひとも、丁重にオーディションの機会を設けるべきである ── と、制作部に提案すると言い出してきたのである。この時点で、ブライ
アンとビートルズにとって、事態は好転したかのように見えていた。
〜 The Beatles / Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey
〜 The Beatles / Another Girl
・後に、ビートルズの広報担当として敏腕をふるう、トニー・バーロウ。1961年12月の時点で、デッカ・レコードのライナー部門にいた
バーロウは、ブライアンの訪問によって、ビートルズの存在を知った。ブライアンが持ち込んだテープは、ほとんど観客の声しか聞こえ
ないヒドいものであったが、それでもバーロウは、ビートルズとそれを売り込もうとしたブライアンに、なぜか特別な魅力を感じた。結
果、デッカの営業部にビートルズをプッシュすることになるのであるが、正直このバーロウの狙いは、もう一つあった。それは、学生時
代から続けていた、地元の新聞リバプール・エコーの音楽連載コラムのネタ探し。この時バーロウはちょうど、地元リバプールのバンド
のサクセス・ストーリーというテーマで、記事を書こうとしていたのである。そしてこの時、ビートルズにテスト・セッション ── つ
まりオーディションのチャンスを与えようとしたのである。会社にプッシュしていたのは、バーロウだけではなかった。ブライアンは、
時期を同じくして、デッカのリバプール、つまりイギリス北西部の営業担当者にも、しつこく迫っていたのである。その結果、デッカ・
レコードの若いプロデューサー、マイク・スミスが、リバプールから届くレコードで良いバンドがいる事を知り、12月の第2週にキャ
ヴァーンで演奏するビートルズを直に見るため、北へ向かった。その結果、ビートルズには、オーディションのチャンスが与えられた。
しかし、1962年元日に行われた、ビートルズのオーディションは、いくつもの理由により、最悪の事態となった。ビートルズは、リバ
プールからロンドンへの300kmの道程で、猛吹雪の後の豪雨というひどい天候に見舞われた。到着したのがあまりに遅かったため、飲食
も取ることが出来ず、翌朝デッカのスタジオに出向くまでに、十分な睡眠も取ることが出来なかった有様。一方、優雅に列車でロンドン
に乗り込み、いつものお気に入りのホテルで、十分に睡眠を取ってスタジオ入りしたブライアンが見たのは、すっかり冷えきって、明ら
かに不機嫌そうな顔をした、四人のビートルズであった。
〜 The Beatles / Besame Mucho (Anthology 1)
〜 The Beatles / Norwegian Wood
□リクエスト
・ビートルズのファンなので、彼女に聞かせていたら、なんと彼女がビートルズのとりこになってしまい、イギリスにビートルズ留学に
行ってしまいました。嬉しいやら、悲しいやら。でも、毎週この番組を聞いていると、必ず彼女から連絡が来るので、それが慰めになっ
ています。(水戸市/男性)
〜 Paul McCartney & Wings / Jet
(小林)ビートルズ留学って、何ですかね? リバプールに行って、ビートルズのことを勉強しているんでしょうか。ポール・マッカー
トニーも学校を作ったりしましたから、ちょっと良くわからないんですけど。ビートルズを聞かせたら、イギリスに行っちゃったって
スゴいことですよね。
・タイトルもバンド名も覚えてないけど、プロモーションビデオで、4人がマイクを前にした光景が思い出されます。たしか、80年代の
ベストヒット・USAで放映されたと思います。(さいたま市/男性)
〜 Traveling Wilburys / Handle with Care
(小林)ジョージ・ハリソンが、まずボブ・ディランと友達になるわけです。で、ジョージ・ハリソンとボブ・ディランは、一緒に仕
事をするわけですけど、全部収録されてないですけど、相当の量のテープがあると聞きます。ま、ボブ・ディランの舎弟はトム・ペ
ティですからね。それから、ジョージ・ハリソンは、ELOのジェフ・リンともお友達です。そしてこの後、亡くなるんですけど、ロ
イ・オービソンも入っています。だから、スゴい連中 ── 古い言い方だと、一国一城の主たちが集まって作ったグループであります。
良いよね、これ。5人集まって何か作ったというよりも、くつろいでやるっていう雰囲気がいいじゃないですか。
・二年目の浪人生活に入ってしまいました。5〜6歳の頃から、プレスリーやその他の60'sポップスを聴いて生活してきました。きょうのリ
クエストしたいのは、ビートルズと同じくイギリス出身の、ナッシュビル・ティーンズの「タバコ・ロード」をお願いします。ポップ・
ギアという音楽映画の中の一曲、なかなか音源になっているものが見つからないので、ぜひぜひお願いします。(住所不詳/男性)
〜 Nashville Teens / Tobacco Road
(小林)マニアだね、君は。年若くして、そこにハマっちゃったか。
・いろんな人のビートルズへの思い入れを聞いていると、車を運転しながら、自分はいつビートルズと出会ったのか、思い出しました。
中学三年、音楽の授業で、教科書ではなく音楽の先生が「この歌は良いよ」とらラジカセからビートルズの「イエスタデー」を流しまし
た。感動したというより、なんとその音楽に入ってしまいました。その後は、縦笛でイエスタデーを演奏。先生が黒板に楽譜を書いて
ただ、それだけの授業。その後にノートに書いたわけでもないのに、覚えちゃったんです。だから今でもイエスタデーを聞くと、
♪ソファファーラシドレミファーと今でも出てきちゃいます。子供のピアノのおもちゃで、片手で弾いて聞かせていますが、反応は今
ひとつですね。(稲敷郡/男性)
〜 The Beatles / Yesterday
(小林)ビートルズのお話は、売れる前が実は一番面白いんですね。リクエストお待ちしています。色んなエピソードをチラチラと書いていただ
くと良いですね。
>>53 よく「石井の今晩のハンバーグなどをセットにしてお送りします」って言ってるから、
詰め合わせ見たいのが届くんじゃないか?
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年7月5日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(7月5日)
・1966年 (43年前)
日本に到着してから、一週間後。この日は、ビートルズ受難の日です。ビートルズが、フィリピンから逃げ帰った日。ビートルズは
マニラからニューデリーを目指して、KLMオランダ航空の862便に乗って、命からがら逃げ出します。実はですね、日本の後、フィ
リピンに行くんです、ビートルズは。4日、ラサール・メモリアル・スタジアムで10万人を動員する、すごいコンサート。盛り上が
るわけです。で、このコンサートの後、大統領はマルコスです。で、大統領夫人は、あのイメルダです。で、イメルダ婦人が、パー
ティを主催します。ビートルズが来るということで、フィリピンの政界・財界・芸能界の大物がキラ星のごとく待ち構えています。
大人ばっかりじゃないんです。もう、ビートルズが来る! 子供たちが大変です。だからもう、そういった大物たちの子供もいっぱい
待ち受けてるんだけど、ビートルズはメチャクチャ疲れてるってことで、行きたくないよってことで、断ってたんです。だけど、そ
れをちゃんと伝える人がいなかったわけです。それで、ビートルズがすっぽかしたってわけで、大騒ぎになるんです。新聞やテレビ
で、「ビートルズはけしからん」ってわけでね。国民は、みんな怒り始めるんですよ。そんな、怒り渦巻くまっただ中、マニラの空
港まで行って、空港から飛行機に乗るんですが、その間は、暴徒と化した人たちが殴る蹴る、物を投げる。で、警察なんかも、いっ
ぱいいるんですよ。でも、警察もけしからんと思ってるわけだから、ビートルズを守る人間が誰もいない。一番ひどくやられたのが
ジョージ・ハリソン。何発もぶん殴られてます。で、ビートルズは、ホントにもう(逃げられて)良かったよってことで、飛行機でイ
ンドまで行くんですが、インドに到着するまで、誰も一言も口をきかなかったとかね。すごい雰囲気だったとか、そんな感じなんで
すが。そういう、ひどいことがあるんで、ビートルズはこの年、ツアーをやめることを決心するに至るわけですね。
〜 The Beatles / Rain
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年元日 ── ビートルズは、ロンドンにあるメジャー・レコード会社「デッカ・レーベル」のオーディションを受けるため、朝か
ら、スタジオに出向いた。この日のコンディションは、いくつもの理由によって、まさに最悪。ビートルズは、リバプールからロンド
ンへの道のり300キロの間で、猛吹雪の後、豪雨に出会う。ひどい天候に見舞われ、到着したのがあまりにも遅かったため、夕食もと
ることが出来ず、翌朝デッカのスタジオに出向くまでに、十分に眠ることも出来なかった。一方、列車でロンドンに乗り込み、お気に
入りのホテルで十分な睡眠を取ったブライアンが見た物は、すっかり冷えきって、明らかに不機嫌そうな顔をした四人のビートルズだ
ったのである。四人は今にも噛み付いてきそうな態度で、またあまりに疲れ果てていて、音楽を演奏するどころではなかった。さらに
この日の担当プロデューサーであるマイク・スミスが約束の時間になっても現れず、オーディションの開始時刻が遅れていたために、
ブライアンとビートルズの四人はいら立ち、怒りっぽくなっていた。とどめは、デッカの制作スタッフを前に、ビートルズがどの曲を
演奏して歌うかをブライアンが指図したことだった。ブライアンは、こう主張した。「ビートルズの魅力は、強烈なリズム&ブルース
のビートにあることは分かっている。だけども、こういった場面では、より洗練された楽曲が要求されるんだ。みんな、分かってもら
えるよね。」しばし沈黙の後、ポールが答えた。「ああ、ブライアン。分かった。俺たち、もうクタクタで、寒気もするんだ。早く終
わらせて、帰りたいんだ。何でも、言うこと聞くよ。」こうして、ブライアンの主張が認められ、リバプールのキャヴァーンの常連客
を熱狂の渦に巻き込んでいたハードなリズム&ブルースとロックンロールは一曲も演奏されることのないまま、元日の午前中のオー
ディションが行われた。結果が、惨憺たる物であったことは言うまでもない。
〜 The Beatles / Searchin'
〜 The Beatles / Kansas City - Hey Hey Hey Hey!
・1962年元旦 ── あのロンドンの凍てつく朝に行われた、ビートルズのデッカ・レコードでのオーディション。結果は、惨憺たる物と
なった。たしかにブライアンの主張通り、当時の大手メジャー・レーベルのオーディション用に選んだ曲は、間違っていたわけではな
い、しかし、結局は、選曲・演奏力のアピール。それに、ビートルズの魅力を理解してもらうという点に於いても、評価を得ることは
出来なかった。それにも関わらず、デッカがビートルズと契約を結ぶ可能性は十分にあると、オーディションを担当したプロデュー
サー、マイク・スミスは話していた。そこで、このオーディションの段取りを務めた張本人であるトニー・バーロウは、この良い知ら
せを伝える記事を1月27日付けリバプール・エコーのコラムに載せている。その内容は、リバプール出身のビートルズの成功物語にお
ける最新のエピソード。“先日行われたレコーディング・テストについて、デッカのプロデューサー、マイク・スミスが「ビートルズ
は、素晴らしかった」とコメントした。オーディションでの演奏テープは30分に及び、デッカはきっとビートルズをおおいに生かすこ
とが出来ると確信していると語った。最新情報は、随時お知らせします。”というもの。この記事に関して、「もしその記事を書く前
にオーディションのテープを聞いていたら、早まって記事を書くことはなかっただろう。」と、後にバーロウは語っている。それくら
い、このデッカ・オーディションの時のビートルズは、冴えない物であった。数日経って、デッカのアーチスト担当部署の責任者であ
るディック・ロウが、ビートルズとの契約案件を却下した時も、部署の全員が納得したぐらいである。制作部長であったディック・ロ
ウは、オーディション当日はクリスマス休暇であったため、休み明けになって、マイク・スミスからたくさんのバンドのオーディショ
ン・テープを受け取って、全て聞いて吟味していた。この時、最後まで残った二つのバンドがビートルズ、そしてブライアン・プール
&ザ・トレメローズ。その後の運命が決まる、選択であった。
〜 Brian Poole and The Tremeloes / Do You Love Me
〜 The Beatles / Twist and Shout
・1962年元日のデッカ・オーディションの結果、ビートルズは最終候補の二つのバンドに残った。もう一つのバンドは、同じ日にオー
ディションを受けていたロンドン郊外、エセックス州ダーゲンナム出身のブライアン・プール&ザ・トレメローズ。この日は、あまり
の悪条件のために、最悪のコンディションだったビートルズに比べ、トレメローズの演奏は、そつがなかった。オーディションを担当
したマイク・スミスは、上司であるのディック・ロウからは、「若いバンドは君たちに任せるが、個人的にはビートルズよりもトレメ
ローズの方が無難だと思う。」とアドバイスを受けた。この件に関し、制作部長であるディック・ロウは、ビートルズが他の部署、つ
まり、ライナーノート部署の社員であるトニー・バーロウからの推薦でオーディションを受けたということを、あまり面白くは感じて
いなかった。さらに、ビジネス上でも、ビートルズよりもトレメローズの方が優位にあった。というのも、もともとロンドン郊外出身
であるトレメローズは、既にメンバー全員ロンドン市内に住んでいて、今後予測されるレコーディングやラジオ番組への出演の際も、
リバプールから出てこなければならないビートルズよりも、はるかに都合が良かった。オーディションを担当したスミスは、語ってい
る。「ぼくは、ビートルズとトレメローズの両方が欲しかったのに、上司のディック・ロウは、『両方はダメだ』とどうしても譲らな
かった。彼は支配者タイプで、ぼくはほとんど彼の家来みたいな物だったんだよ。」そして、マイク・スミスは、ブライアンにこう告
げた。「エプスタインさん、はっきり言いましょう。あなたが抱えているビートルズは、そのバンドのサウンドに問題があります。そ
もそも、ギター・バンドは、もう流行りません。それに、あなたは地元のリバプールで立派にお店を切り盛りし、事業を成功させてお
られるのですから。こちらの世界には別れを告げて、ビジネスに精進なさるのが懸命かと思いますよ。」もちろん、マイク・スミスも
この忠告が、後にまったく的外れな物となることは、ロック・ファンなら誰でも知っている事実である。
〜 The Beatles / From Me to You
□リクエスト
・つゆに入って、気持ちも曇りがちにならないよう、パーッと行きましょう。(さいたま市/男性/47歳)
〜 荒井由実 / 雨のステイション
(小林)パーッとという曲じゃないけど。
・7〜8年前から聞いています。5年前に、日野市に引っ越してからはラジオの入りが悪いので、ビールを飲みながら、寒いときは震え
ながら屋外で聞いています。この曲は私が中学生の頃、クラスでバンドを組んで、私がポールのパートを歌ったのですが、Pleaseの
発音が悪いと、成績優秀の友人に指摘され、一生懸命練習した思い入れのある曲です。私の仕事が交代制のため、月一回聞けないの
が残念ですが、これからも応援して行きます。(日野市/男性)
〜 The Beatles / If I Fell
・早い物で長女は高校一年、次女は中学一年に今年進学し、最近自分自身の青春時代を思い起こすことが多くなり、とてもなつかしく
思っています。当時克也さんが担当していたラジオ番組「百万人の英語」で取り上げられ、失恋直後に歌詞に感銘を受けた甘く切な
い青春の思い出の曲、ベイシティ・ローラーズ。(千葉市/男性)
〜 Bay City Rollers / You Made Me Believe in Magic
(小林)泣けますねえ。
・私には、六年間おつきあいをしていただいた彼がいます。その彼がビートルズが大好きで、克也さんの「ビートルズから始まる。」
を楽しみにしていると言ってました。私も、彼がきっかけでこの番組を聞きました。その彼とちょっとしたことがきっかけで、会い
たくても会えない状況になってしまいました。彼は今、ラジオを聴くことが唯一の楽しみだと言っていたので、この番組に今回投稿
させていただきました。少しでも彼の好きな曲を聞かせてあげたいと思い、一緒に聴くことは出来ませんが、この番組を通して彼の
好きな曲を聴くことによって、一緒にいる気持ちになると思いました。大好きな彼のために、ビートルズのゴールデン・スランバー
をお願いします。(住所不詳/女性)
〜 The Beatles / Goleden Slumbers - Carry That Weight - The End
(小林)お話の方は、ビートルズが売れる寸前。61年から62年にかけて、もう本当にビートルズの苦しい時期。ビートルズは、下積みが三年。
ビートルズとしてスタートして三年弱ですね。もう本当にね、ビートルズの強みは何かというと、どんなことにもめげない。めげてからの回
復力が強い。それから、ジョンとポールとジョージとリンゴが揃うと、馬鹿なことを言い合って、そうした苦難を切り抜けてきている。そん
な頃ですよ。本当に最悪なデッカ・レコードのオーディションのことをお伝えしております。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年7月12日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(7月12日)
・1964年 (45年前)
ロンドンの新聞「オブザーバー」が、リンゴ・スターの演技をほめた記事を載せます。「ハード・ディズ・ナイト」リチャード・
レスター監督のアイデアで、ビートルズをドキュメンタリー・タッチで描こうというものですが、リンゴは一人で登場するシーン
があります。その演技が好調だった。新聞がほめたんです。リンゴ・スターはね、演技が認められて、ハリウッドの映画を始め
いろんな映画に出ています。主演ももちろんやっていて、リンゴ・スターはどういう役者かというと、前にも言ったことがあるん
ですが、分類すると、デッドパン・アクターなんですよ。直訳すると、死んだ顔。表情がとぼしい顔です。しかし、これが実は天
性のものなんです。(他に)どういう役者がいるかというと、チャールズ・チャップリン、バスター・キートン。古い役者ですが、
彼等は悲しいときも、嬉しいときも喜んだりしないという、表情を隠すというとおかしいですけど、見ているお客さんが(それを
見て、そういう)気分になるわけですよ。悲しい顔をしていないのに、(見ている方は)悲しいっていう、これが一番難しいところ
なんですよ。日本で言うと、高倉健という人は表情に乏しいという語弊がありますが、あまり表情を作らないじゃないですか。
そういうタイプの役者として、リンゴ・スターは認められることになったわけです。黙ってるだけで、笑いがこみ上げてくる、
おかしい人みたいな。当時は、そういうキャラクター的なイメージがありました。そして、ハード・ディズ・ナイトのサントラ盤
というのがあるんですが、きょうはその中から、リンゴ・スターのために、こんな曲が製作されていました。
〜 George Martin Orchestra / Ringo's Theme (This Boy)
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年元日 ── ビートルズは、ロンドンにあるメジャー・レコード会社「デッカ・レーベル」のオーディションを受けた。悪天候
の中のロンドン行き。おまけに、睡眠不足という最悪のコンディションでの演奏。惨憺たる結果であった。この日、オーディション
を担当したデッカの制作部長であるプロデューサー、ディック・ロウは、一ヶ月あまり経って、ブライアンにこう告げた。「エプス
タインさん、はっきり言いましょう。あなたが抱えているビートルズは、そのバンドのサウンドに問題があります。そもそも、ギター
バンドは、もう流行りません。それに、あなたは地元のリバプールで、立派に店を切り盛りし、事業を成功させておられるわけです
から、こちらの世界には別れを告げて、ビジネスに精進なさる方が懸命かと思います。」運命と歴史というものは残酷なもので、
ディック・ロウのこの忠告はこの後、全く的外れなものになる。そればかりか、ロウの所属するデッカ・レコードは、この後にやっ
てくる、リバプールなどのマージー・サイドのビート・ロック・シーンに完全に乗り遅れてしまう。そんなデッカ・レコードが、あ
のローリング・ストーンズと契約することになるのは、まったくもって皮肉な話である。当時としては、あのローリング・ストーン
ズをもってしても、ビートルズを逃した失敗の方がはるかに大きかったのだ。そして、一般的な説では、ビートルズのマネージャー
ブライアン・エプスタインがこの後、ロンドン中のレコード会社を訪ねてかけずり回り、その全てのレコード会社が、ビートルズに
不合格点を与えたということになっている。おそらく、この真相はこうである。ブライアンは、デッカでの苦い経験から学習し、
二度とビートルズにスタジオの生演奏という形でのオーディションを受けさせまいと、心に決めていた。さあ、そうなると売り込み
材料はどうしたらいいか。まずは手っ取り早く、地元リバプールのキャヴァーンのライブ録音を聞かせる。いや、あれは音がひど過
ぎる。となるとやはり、デッカのオーディション・テープしかない。 ── こうして、あの伝説の不合格演奏は、幾度となく、各方面
で聞いてもらうことになったのである。
〜 The Beatles / Like Dreamers Do (Anthology 1)
〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever (Love)
・ビートルズのマネージャーになったばかりの男、ブライアン・エプスタインは、デッカ・レコードで不合格になったテープを持って
ロンドン中のレコード会社を廻った。しかし、1962年の春までに、ビートルズに興味を示してくれたプロデューサーはゼロ。ただ
の一人もいなかったのである。はたしてブライアンの作戦はどうだったのか。いくら、自分のある程度の資金があると言っても、
プロのスタジオを借りて、エンジニアを雇って、きちんとしたデモ・レコードを作る費用なんて工面できるはずがない。いや、その
前に、そういう段取りを組むだけのコネクションもなかったのである。そうなると、少々コンディションが悪かったときの録音とは
いえ、やはりデッカのスタジオで録音した音源は貴重なものである。宣伝材料にしない手はないとばかりにブライアンは、この通称
デッカ・テープを聴かせて廻った。実は、これが失敗の元だったのである。ビートルズの本来の魅力は、ライブ演奏である。なぜ、
ブライアンは、地元リバプールのキャヴァーンで、改めて録音をしようとしなかったのか。ライブハウスでの一発録りの録音など
レコーディングに比べれば、何十分の一の出費で済んだはずである。それを、ブライアンがやはりこの道のプロでなく、この時点で
はホンの駆け出しのマネージャーであり、音楽業界人としてはズブの素人だったことが原因である。しかし、ブライアンには、持ち
前の粘りがあった。ホモ・セクシュアルとして、当時は日陰者だったブライアンが、なぜそこまでビートルズに入れ込むことが出来
たか。それは、この時点ではまだ謎であった。この年、1962年の前半、ブライアンは頻繁にロンドンを訪れ、ビートルズを知って
もらおうとかけずり回った。そんなブライアンを、ビートルズは次第に信頼し、慕うようになっていた。ブライアンがリバプールに
帰る度、決まってメンバー四人で駅まで迎えに出るまでになっていたのである。それにしても、レコードの契約が決まらない。レコ
ード会社も、BBCのラジオ局のディレクターも、そのすべてが、ブライアンにとって未知の世界。まだ、まったく別次元での出来事
だったのである。
〜 The Beatles / The Continuing Story of Bangalow Bill
〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
・1962年春 ── ビートルズは、いまだに下積みを続けていた。マネージャー、ブライアン・エプスタインは、不合格となったデッカ
・レコードでのオーディション・テープを持って、ロンドン中のレコード会社の門を叩いたが、どこもいい返事はくれない。リバプ
ールで、レコード店の経営を任されてたとは言え、音楽業界には全くコネのなかったブライアンは、地元の新聞リバプール・エコー
に音楽コラムを持ち、ロンドンのデッカ・レコードの正社員でもあった、トニー・バーロウに幾度となく相談を持ちかけていた。
バーロウは、自分の知る限りの実力者やクリエーターたちを紹介したのであるが、そのほとんどがビートルズに興味を示してくれな
かった。ああ、ビートルズの実力じゃ、デビューなんて、夢のまた夢か。と、心折れかけていたその矢先、ブライアンは、ロンドン
のオックスフォード通りにある、HMVレコードショップの上にオフィスを構える、EMI傘下の音楽出版社のスタッフ、シド・コール
マンに会った。それはまったく、偶然の出会いであった。ビートルズの音楽を人に聞かせる際に、テープをレコードにしておいた方
が勝手が良い。そう判断したブライアンは、遅まきながら、デッカでのオーディションをレコードにしてくれるエンジニアを探すた
めに、そのオフィスを訪れたのだ。その音源に収録された、ジョンとポールのオリジナル曲を2曲聞くと、そのオフィスにいるコール
マンという男は言った。「これ、いいね。ぼくだったら、喜んでこのバンドとビジネス・パートナーになりたいな。」それは、ブラ
イアンにとって、思いもかけない嬉しい言葉だった。そしてコールマンは、オフィスのビルから見えるEMIを指差して、そこの傘下
レーベルであるパーラフォンのプロデューサーであるジョージ・マーティンに電話して、自分が今聞いた曲を推薦しておくと約束して
くれたのである。ブライアンはお礼を述べて、オフィスを後にし、いまや相棒になりつつあるバーロウに滞在先のホテルから連絡をし
た。「もしもし、トニーか。ブライアンだ。いよいよ、ビートルズに運が向いてきた。これからが勝負だぞ、よろしく頼む。」
〜 The Beatles / Hello Little Girl (Anthology 1)
□リクエスト
・マイケル・ジャクソンのニュースを見たショックで、初めてメールしてしまいました。自分ではそんなに思い入れがないと思っていた
のに、いざ亡くなってしまうとショックですね。ぼくにとってマイケルは、結構な人数だった相部屋の学生寮にいた頃、音量を大きく
しても文句の言われないアーチストでした。リクエストは、冒頭のシュッという声に彼の色気を感じさせる、この曲でお願いします。
(千葉市/男性)
〜 Micheal Jackson / Come Together
・中学時代、友人に勧められてビートルズに出会いましたが、マイケルに衝撃を受けたのは、スリラーのPVを見た時。克也さんの番組で
7分にも及ぶPVをノーカットで流していたのを覚えています。私は音楽を聴く時、エディ・コクラン、レイ・チャールズなど、まわり
から古いと言われる曲ばかり聞いていますが、マイケルの楽曲は今聴いても全く色あせない名曲の数々。ジョン・レノンや、エルビス
と同じ時代に巡り会えなかったのは仕方ないとしても、マイケルと同じ時間を共有できたのは幸せだと思っています。同じ時代に出会
えた幸せを込め、リクエストはマイケルの曲で必死にダンスを覚えたビリー・ジーンを。(土浦市/男性)
〜 Micheal Jackson / Billy Jean
・先日、横浜アリーナのコンサートに行きました。席は後から2番目、ステージは遥か彼方です。しかし、始まると関係なくなるんですよ
ね。歌の熱さ、すべてに感動しました。アーチスト側にファンの思いは伝わるんですね、ビートルズのコンサート行ってみたかった。
ライブ音源が残っているなら聞いてみたいです。(松戸市/女性)
〜 The Beatles / Rock'n Roll Music - She's a Woman
(小林)1966年、武道館初日のオープニングから!
ビートルズの演奏がキャーキャー言って聞こえなかったっていう人と、良い席にいた人はちゃんと聞こえたってことみたいですよ。
なんでも、ジョージ・ハリソンが楽屋で怒ったらしいですね。どうせ聞こえないからって、ジョン・レノンが手を抜いてるんじゃ
ないかって。ちゃんとやろうよと、シメたという ── 。それで、志気が上がったという話も伝わっています。
(小林)面白いことに、この年ビートルズが初めて武道館を使いましたね。約数十年間、武道館は音が悪い代名詞のように(言われてきましたが)
ぼく実際1974年だったと思いますが、ジャクソン5が武道館を使った時、司会をやってるんですけど、音無茶苦茶悪いんですよ。だから、誰も
武道館を克服することが出来なかったんだけど、今は(武道館でやるのが)当たり前になってるんですが、時代は変わってますね。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年7月19日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(7月19日)
・1965年 (44年前)
アメリカで、「Help!」が発売になりました。イギリスより4日先。映画のサントラとして、発売になるわけです。この曲は、元々
出だしが♪Help~!じゃないですか。そこから始まらなかった。デビュー曲の「Please Please Me」が、実はミディアム調のバラー
ドだったという話は有名ですよね。Help!もバラードっぽかったんですよ。こんな、早い曲じゃなかった。しかし、Please〜と同様
に、ジョージ・マーティンから「なんかパンチが足りないぞ、これは」ということで、サビからのスタートになるわけです。「She
Loves You」なんかもサビから出てますけど、ビートルズ以前は曲のスタートがサビスタートというスタイルはなかったんです。だ
から、ヒット・レコードで言うと、ビートルズが最初。ビートルズが当たり前のことにしちゃったということで、やっぱり「ビー
トルズから始まった」わけですね。それにしても、ビートルズはジョージ・マーティンという偉いプロデューサーと組んで、ラッ
キーだったわけです。で、このHelp!のために、ビートルズはかなりリハーサルをやっていて、レコーディングは4月13日12テイク
やった。それだけ ── というわけですね。ただ、いろんなエピソードがありますが、Help!の重要性としては、それまではアイドル
っぽいグループが作るラブソングという内容だったんだけど、初めて心の叫びと言うか、そういう内省的なことを歌にしたというワ
ケです。
〜 The Beatles / Help!
これは、エンディングもカッコいいし、出だしもカッコいいよね。そういうわけで、ジョージ・マーティンがダメ出しを出したわ
けですけど、考えてください。Help!は自分のものになってるから、♪らーららーららららーらららららー みたいな感じじゃないん
だよね。もっと♪ららら! これでいけよ、これで!みたいな感じで名作が出来上がったということを考えると、なかなか味わい深
いでしょ!
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年春 ── まだまだ下積みを続けるビートルズと、それを支えるマネージャーのブライアン・エプスタインは、同じリバプール
出身のライター、トニー・バーロウの手助けもあって、ついに成功をつかむ寸前までたどり着こうとしていた。ある日、ブライアン
は、あえなく不合格となったデッカ・レコードでの演奏テープを今後の宣伝素材として使おうと考え、ある音楽出版社の門を叩いた。
このテープをレコード盤にするための手順のリサーチに行ったのである。ところが、運良くここのスタッフである、シド・コールマン
という人物が音を聞いて、ジョンとポールが書いたオリジナル曲を気に入り、EMIパーラフォンを紹介してくれることとなった。紹介
してもらえるというプロデューサーの名は、ジョージ・マーティン。当時のプロデューサーというのは、ほとんどが社内スタッフで、
それぞれが特定の種類の音楽やアーチストを担当していた。ジョージ・マーティンは、突拍子もないコメディ関連のレコーディング
でその名を知られていて、マーティンも彼の所属するパーラフォンのレーベルも、ロックとポップの経歴に関しては、とても輝かし
いと呼べるものではなかった。そもそもマーティンは、クラシック音楽とイージー・リスニングのレコードを作りたくて、EMIに入社
した人物。後に、ロックやポップスがチャートをにぎわすようになると、勉強のためにそういうものも聞いてはいたが、あくまでも
専門はクラシック。特に、オーケストラである。編曲も出来た。プロデュースしたアーチストも、ピーター・セラーズ、スパイク・
ミリガン、バーナード・クリビンという、コメディもの。あるいは社会を風刺する集団、ビヨンド・ザ・フリンジといったものばかり
であった。EMIの上司たちは、その後マーティンがビートルズと組んで、音楽の歴史を塗り替えるようなレコードを作ることになるな
ど、誰一人予想もしなかったし、マーティン本人(も)「まあ、とりあえず会ってみようか」ぐらいにしか考えていなかった。一説には
この時期のマーティンは、ものすごくヒマだったという話もあるぐらいである。しかし、そのヒマがマーティンにもビートルズにも
あまりに大きな運命の出会いをもたらすのである。
〜 Peter Sellers / A Hard Day's Night
〜 The Beatles / Something
・ジョージ・マーティンは、ヒマで会社内での仕事量のつじつまを合わせるために、ビートルズと会うことにした。これは、当時のEMI
の社内事情を知るものの証言である。もし、これが本当だとしたら、この時のジョージ・マーティンのヒマは、その後のロックの歴史
を塗り替えることになる「運命のヒマ」であったということになる。当のEMIレコードは、ビートルズに関して、まったく無関心であ
った。それは、その数ヶ月後にビートルズが「Love Me Do」でデビューした際の、宣伝費の予算の低さが物語っている。こんなバンド
にお金をかけても、売れるわけがない ── 経営陣は、短絡的にそう考えてたのである。結果、ビートルズのデビューにあてがわれた
宣伝広告費は、最低ランク。それはほぼ、ゼロに等しかった。この頃のラジオ放送の威力というのはものすごいもので、品行方正でお
固い国営放送BBCや、ラジオ・ルクセンブルクでかかっただけで、ありきたりなレコードもヒット作品になることが多かった。ラジオ
でかけてもらえさえすれば、ある程度のヒットは期待できる時代だったのである。が、EMIはビートルズの「Love Me Do」に関しては
ラジオ局にプロモーターを送ることさえ、ほとんどやろうとはしなかった。理由は簡単、人件費をケチったのである。そんなレコード
会社の期待度ゼロ%の中、ジョージ・マーティンはビートルズのレコーディングテスト、つまりオーディション・セッションの予定を
アビー・ロードの第3スタジオで、1962年6月6日に行うことを決めた。ビートルズは、自分たちのプロデューサーとなる男に対し、
深い畏敬の念を抱いた。マーティンは優雅な声で、立派な身なりをし、背が高く貫禄があった。マネージャーであるブライアンと同様
に、品の良い一目置くべき存在として、彼等の目に映ったのである。逆にマーティンの方は、ビートルズとの初対面の瞬間を、後にこ
う語っている。「ビートルズとの出会い、それはまさに一目惚れでしたね。」
〜 The Beatles / Any Time at All
〜 The Beatles / Norwegian Wood
・1962年6月6日 ── EMIパーラフォンのプロデューサー、ジョージ・マーティンは、その日をビートルズとの最初のレコーディング・
セッションの日と決めた。これはいわば、お見合いのようなもので、もちろんまだ正式に契約書は交わされていない。しかし、マーテ
ィンの心は、ほとんど決まっていた。レコーディングを行う前から、なぜかビートルズとは良い仕事が出来るような予感がしていた。
理由はない。これは、直感と言うしかかなかった。マーティンは、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインに対して、
「ぼくは一ヶ月以内にビートルズと4曲レコーディングを行うと決めています」とハッキリ告げている。マーティンの頭の中では、ビ
ートルズのヒット・レコードを作るというイメージが、ハッキリと出来上がっていたのである。ブライアンは、そのマーティンの言葉
を聞いた瞬間に舞い上がってしまい、勢い余って地元リバプールの音楽雑誌「マージー・ビート・マガジン」の編集者ビル・ハリーに
誇張した最新情報を報告してしまった。ブライアンは、リバプール界隈では、信頼の出来るビジネスマンとして知られる男である。彼
の情報であれば信頼していい、そう判断したビル・ハリーは「ビートルズに関する素晴らしいニュース」というタイトルで記事を書い
た。その内容は、“ブライアン・エプスタインが、マージー・ビート誌に語ったところに寄れば、ビートルズはEMIという影響力の強い
会社とのレコーディング契約を決めた。リバプールのあるマージーサイドの住人で、ビートルズをナンバーワンのロックンロール・バ
ンドとして投票した多くの人は、今度は8月に彼等のデビュー・シングルが発売になり次第、すぐさま買いに走って、このシングルを
ヒットさせる機会を得たことになるのである。おめでとう、ビートルズ。”もちろん、すべてウソではない。しかし、ビートルズはま
だ契約はしていないので、もちろんブライアンは記事を見て驚いた。そして、動揺した。しかし、もう後戻りは出来ないのである。
〜 The Beatles / I Want You (She's So Heavy)
□リクエスト
・私に多大なる影響を与えてくれたアーチストが、次々他界。言葉になりません。マイケル・ジャクソン氏を初めて知ったのは、アルバ
ム「Off The Wall」。当時、チョッパー・ベースで有名だったルイス・ジョンソンが参加して、アルバムを探してはコピーしている時
に、マイケル・ジャクソン氏の「Off The Wall」に行き着きました。独特のノリ、傘下アーティスト、ラリー・カールトンらの豪華さ。
衝撃を受けたのを、今でもハッキリ覚えています。(千葉市花見川区/男性/44歳)
〜 Micheal Jackson / Girlfriend
・ビートルズに出会ったのは、34年前の中学生の時。当時、ベイ・シティ・ローラーズが全盛を迎えた頃の少数派ではありましたが、
ビートルズ・ファンをかたくなに守った硬派です。残念ながら、ビートルズをリアルタイムに味わうことは出来ませんでしたが、
ジョージ・ハリソンが来日したときは、コンサートにも行きました。ポール、ジョン、ジョージと、彼等三人の歌みんな好きなんです
が、やはりジョージの曲にはある種、心に沁みるメロディがあり、ポール・ジョンの曲を聴くときとは、違う感情が起きるのです。
(我孫子市/男性)
〜 The Beatles / Old Brown Shoe
・先日、ビートルズ好きを公言している井上陽水のデビュー40周年コンサートを見たんですが、年齢を感じさせない歌声で、次々披露さ
れる名曲に2時間があっという間に過ぎてしまいました。陽水のスゴいところは、70年代から今まで変わらぬクオリティ、曲を作り続
けてるところで、チケットが手に入らないというのもうなづける気がしました。(宇都宮市/男性)
〜 井上陽水 / 限りない欲望
(小林)20年前に聞いた話ですが、井上陽水が一番好きなビートルズの曲は「I am the Walrus」。
(小林)リクエストには、自分とビートルズとの関わり(を書いてください)。ビートルズの曲じゃなくても良いですよ。必ず、ビートルズと
つながりますから。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年7月26日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(7月26日)
・1968年 (41年前)
今から41年前のきょう、の夜です。ポールの家に、ジョンが行きます。そして、ポールが作った「Hey Jude」。これは、ポールと
ジョン、まだ仲が良い頃ですからね。気合いが入っています。なぜ、気合いが入っているかというと、彼等が作ったアップル・レー
ベルから、初のビートルズ名義としてのシングルとして発売になる。その内容は、ジョン・レノンの離婚で傷ついているかもしれな
いジュリアン・レノンに、ポール・マッカートニーががんばれっていう、激励の歌なんだよね。それで、ジョン・レノンが何をポー
ルに言うかというと、歌詞「The movement you need is on your sholder(君からの行動が必要なんだ)」というところなんだ
よね。これをポールはカットしようと思ってたんだけど、ジョンはココが一番良い詞だから残しておけよとアドバイスしたんです。
で、ジョンが亡くなった後もポールはこれを歌うわけですが、ここの歌詞を歌うときはジョンを思い出すと(語っています)。ジョン
は、「歌詞はポールが良い歌詞を書ける。がんばれば、ポールもやれる」みたいなことを語っていたそうです。ちなみに、その
「Hey Jude」をきょうは改めて聞いて欲しいんですが、「Remember to let her under your skin. Then youll begin to make it.」
の間に、ポール・マッカートニーの「F●cking Hell」…いけない言葉ですよね。これがかすかに聞き取れるんだそうです。聞き取れる
か、やってみる? ビートルズのセールス史上、最も売れた曲だそうです。
〜 The Beatles / Hey Jude
聞こえたでしょうか? ビートルズで一番売れた曲です。日本でもそうなんだよね。僕たちがラジオやってて、一番昔リクエストが
集まったのがこの曲でした。何回、聞いたことになるのかな。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年春 ── “ビートルズに関してのビッグニュース! ビートルズは、ロンドンの大手レコード会社EMIと契約し、既にデビュー・
シングルもレコーディング済。7月に彼等のレコードが発売されたら、みんなで買いに走ろうではないか。”と報じたのは、地元リバ
プールの音楽誌マージー・ビートで、これはビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインからの情報を元にまとめられた記
事である。もちろん、すべてウソではない。しかし、まだビートルズは契約していない。当然,ブライアンは記事を読んで驚いた。そ
して、動揺した。しかし、もう後戻りは出来ない。そして、急激に焦り始めた。しかし、これに対して、EMIパーラフォンのプロデュ
ーサー、ジョージ・マーティンの方は、いたってのんきなもの。最初から、ビートルズで一山当てようなどとは1%も思っていなかった。
一説には、自分を統轄する部署の仕事量が少なかったため、経営陣に対して仕事をしているポーズをしたかったという説もある。リバ
プールとロンドンとで、温度差はあったにせよ、マーティンがビートルズの魅力を認めていたことは間違いない事実。次にマーティン
がとりかかったのは、バンドのリーダーを決めること。当時人気のあったロックバンドのほとんどは、フロントにルックスの良いリード
ボーカルのいるスタイルで、バンドの名前も○○&ザ・○○ズというものが一般的であった。既にイギリスではNo.1の人気を誇っていた
クリフ・リチャード&シャドウズなどが、その良い例である。リーダーを決めるには、まず一人一人の歌と演奏のオーディションを行う
必要があった。こうすることで、クリフ・リチャードにも匹敵するようなフロントマンが浮上して、残りの三人はバック・ボーカルタイ
プ。もしくは、伴奏グループとして落ち着くだろうと、マーティンは推測していた。しかし、現状は違っていた。ビートルズの基本的
性格を変えるには、望ましくないということが徐々に明らかになり、ジョンとポールの強いボーカルを引き立たせつつも、他の二人にも
歌わせる方法はないものか。と、マーティンはいつしか,そう考えるようになっていた。世界初となる試みの始まりである。
〜 The Beatles / Nowhere Man
〜 The Beatles / All You Need is Love
・ビートルズに、リード・ボーカルは必要ない。四人みんなが、歌って演奏すれば良いんだ。こう決断したのは、ビートルズに惚れ込んで
契約した、プロデューサーのジョージ・マーティン。いつも決まったリード・シンガーを特定せずに、曲によって歌い手が入れ替わり
立ち代わり、真ん中に登場するというスタイルがコメディアンのレコードでずっと実験的な作業をしてきたマーティンにとっては、さほ
ど困難なことではなかった。むしろマーティンは、それまでなかったことに熱中する、革新的な本物のクリエイターだったのである。こ
んな歴史的にも類を見ないコンセプト固めがロンドンで行われている一方、そのことはまったく知らされていないリバプールでは、ジョン
とポールが9月の2週に行われる、初めての本格的なレコーディング・セッションに向けて、ベストな曲作りを始めている途中であった。
1962年当時の常識では、シンガーが同時にソングライターであることなどあり得ないことで、その逆もまたしかり。ポップスのヒット曲
を書くのは、専門のソングライターの仕事。そういう人たちは、音楽出版社やレコード・プロデューサーに、自分の書いた曲を聴かせる
ためのデモテープ以外には、まず自分の書いた曲を演奏することはなかった。ビートルズが最初のシングル「Love Me Do」をレコーディ
ングしていた当時、ジョージ・マーティンは音楽出版を手がけるディック・ジェームスと仕事をしていて、マーティンはジェームスから
プロの作曲家が書いた曲を、いくつかビートルズ用にと推薦されていた。それが、常識であった。そういった状況の中で、デビュー・シン
グルのA面曲として、レノン・マッカートニーの書いたオリジナル曲をレコーディングさせることは、さらなる実験的な試みであり、マー
ティンもしてみれば、普通では考えられない、寛大な決断である。しかしなぜ、それまでの慣例や常識をくつがえしてまで、マーティンは
ビートルズをまったく新しいロックのアイドルとしてデビューさせたかったのか。その理由は、ただひとつ。マーティンが語っている。
「それは、一目惚れだったからです。」
〜 The Beatles / Love Me Do
〜 The Beatles / In My Life
・1962年9月 ── ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」のレコーディングは一日で、いやほんの2時間程度で終わった。そして、10月
頭には発売。今ではとても考えられない日程ではあったが、当時の音楽業界では普通のことで、ビートルズをそれまでにないまったく新
しいタイプのロック・アイドルとしてデビューさせようと考えたEMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンは決まったリード・ボーカ
ルを決めず、演奏も作曲も自分たちで行うという革新的なスタイルをレコード会社の経営陣にも納得させた上でのデビューを進めた。し
かし、契約の内容というと、そうはいかない。ビートルズの最初の契約での印税率は、シングル1枚につき1ペニーきっかり。これは十進法
化される前のイギリスのポンドが240ペンスだった頃の話である。つまりもし、「Love〜」が100万枚売れたとした場合、ビートルズ側
の取り分は4200ポンドで、これをメンバー四人とマネージャーのブライアン・エプスタインが五等分したとしたら、一人約840ポンド。
1962年当時では、4200ポンドの価値は今より高かったとはいえ、100万枚の売り上げに対しての対価としては、まったくもって考えら
れない不当なものである。具体的に言うと、新車を買うことだって難しい金額である。しかし、この契約の内容も、ビートルズ側にして
みれば、まだ何のことやら皆目見当もつかない。自分たちのレコードの売り上げが、1万枚になるのか,100万枚になるのか。そんなこと
全く未知の世界。極端に言うともしかして、家族や親戚、そして友人とリバプールの同年のファンが買うだけで売り上げは止まってしまう
ことだってあり得る。EMIの経営時は、会長のロックウェルを始めとする貴族階級の資本家連中。資本家階層が労働者を金でこき使うとい
う、イギリス社会の思想がレコード業界にもしっかりと根付いていたのである。そして、そんな事実には全く無頓着なおぼっちゃまマネー
ジャー、ブライアン・エプスタインは、まったく疑いもせずに契約をしてしまうのである。
〜 The Beatles / You Never Give Me Your Money
〜 The Beatles / Drive My Car
ローリング・ストーンズのマネージャーでもあったアラン・クラインに、自分の不満を歌にしちゃった歌ですが、今月の始めに亡くなって
います。
□リクエスト
・映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公が演奏している「ジョニー〜」をお願いします。幼稚園の時に見てから好きで、今でも
聞くとテンションが上がります。ビートルズのものだと、もっと嬉しいです。(住所氏名不詳)
〜 The Beatles / Jonney B. Goode
・ここは横浜市なんですが、bayfmが実に良く入ります。隔てるものがないからでしょうか。ビートルズのCDは、すべて持っているのですが
リクエストしたくなったのでお願いします。(住所氏名不詳)
〜 The Beatles / Any Time at All
・9月に発売されるリマスター盤を首を長くして待ってます。この曲はまさにビートルズ的です。おそらく、この番組でしかオンエアしても
らえないでしょう。(浦安市/男性)
〜 The Knack / Good Girls Don't
(小林)この間、大瀧詠一さんとこの間「マイケルはまだ権利持ってるはずだから、生きていたらどっさりお金もらえて、借金
も返せたのになあ」なんてことを話しました。
・先日、東京ドームのサイモン&ガーファンクルのコンサートに行ってきました。舞台上で、仲が良かったのが印象的でした。ビートルズと
サイモン&ガーファンクルは、何か接点はないのでしょうか?(板橋区/男性)
〜 Simon & Garfunkel / Cecilia
(小林)接点は、おそらくないですね。ただ、影響、ルーツというと同じグループだったり、南部の音楽だったり。出てきたところは同
じ。こっちの方は、ロックっぽくないですね。
(小林)お話の方は何度も言ってるんですが、売れる前が一番面白いねー。ただ、ネタ元になってるのが色々あって、それぞれ解釈が違うんですよ
ね。お届けしているのが、マーティンがビートルズに一目惚れした!っていう強いものになってますが、他のものになるとどうだろうっていう懐
疑的なものもありますからね。聞いてる皆さんが判断するしかないですね。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年8月2日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(8月2日)
・1969年 (40年前)
バッド・フィンガーというグループを知ってますか? これは、ポール・マッカートニーがプロデュースして有名になるんですが、
40年前のきょう、EMIのスタジオで、バッド・フィンガーは「Come and Get it」をフィニッシュします。この前の年から、ポール
はプロデューサーとして仕事をします。というか、アップルというレコード会社を立ち上げて、ポールは経営者として、それから
プロデューサー的なものの見方をするアーチストに成長して行くわけです。で、メリー・ホプキンの「Those〜」。これが世界的
ヒットになって、ポール・マッカートニーは、ファーストクラスのプロデューサーというわけです。ジョージ・ハリソンも負けて
はいませんね。ジャッキー・ロマックスというアーチストをプロデュースしたりしますが、バッド・フィンガーは別名「悲劇のバ
ンド」と言われて、音を聞くとビートルズそっくり、あるいはポールの後の(バンドである)ウイングスのようなバンドなんです
けど、1975年にリーダーのピート・ハムがマネージメントとの衝突が原因でノイローゼになって自殺。バンドの行き詰まりから
トム・エヴァンズというメンバーも自殺するという、悲劇のバンドですが、最初出始めの頃は、ポールの応援のもと、ヒットを飛
ばします。
〜 Badfinger / Come and Get it
ビートルズに良く似ていますよね。アンソロジー3に、ビートルズのバージョンが入っています。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年10月 ── ビートルズは遂に、念願のメジャーデビューを果たした。しかし、それと前後して、マネージャーのブライアン・
エプスタインが進めていたのが、ビートルズをサポートする事務所のスタッフ集めに関しての作業。いくら、アーチストが優秀であっ
ても、その活動を運営するスタッフがあってのこと。スタッフが優秀でなければ、何事も始まりはしない。いくら、音楽業界一年生の
ブライアンでも、そのぐらいのことは良く理解していた。むしろ、自分の能力に自信がなかった分、他のスタッフに頼ろうとしたのか
もしれない。そんなブライアンが、ビートルズの所属する事務所NEMSエンタープライス ── もちろん、ブライアンの経営する事務所
であるが ── このNEMSに引き入れようとしていたのが、以前からこのストーリーに登場してくる、トニー・バーロウという男。バー
ロウは、ブライアンからの誘い、つまり、NEMSにビートルズの広報の責任者として、正式に入社してもらえないだろうかという頼みに
どう返事をすればいいか迷っていた。その理由は一つ。バーロウは、ブライアンに対して、明白な疑問を持っていたのである。それは
なぜブライアンが最後ではなく、最初にEMIをターゲットにしなかったのかということ。EMIは会社として、規模、歴史、経営状態、所
属アーチスト、どれをとってもイギリスでNo.1の会社である。それなのに何故? バーロウは語っている。「ある日、ぼくはブライアン
に、率直に質問したんだ。その時ぼくは、NEMSに行っても良いと考えていたからね。ただ、疑問を残したままで、ブライアンの元で働
くのはイヤだった。そしたらブライアンは、顔を赤らめながら白状したんだ。どうやら彼は、ぼくに会う以前、1961年の12月にEMIを
訪ねていた。ただ、いくら待っても返事は来なかった。そこで、次のレコード会社を探しているうちに、たまたまデッカで働いていた
ぼくに行き着いたというわけさ。本当に偶然だよ。運命的と言えば、それまでだけどね。」こうして、ブライアンとバーロウの伝説的
なコンビは、誕生することになる。
〜 The Beatles / Good Morning, Good Morning
〜 The Beatles / If I Needed Someone
・「ブライアン・エプスタインは、デッカで働くぼくのところに来る前に、EMIを訪ねていたんだ。もちろん、反応は芳しくなかったみた
いだけどね。」こう証言するのは、ビートルズの所属する事務所「NEMSエンタープライズ」の広報責任者として、名物PRマンとなる男
トニー・バーロウ。そしてさらに、バーロウは証言を続けている。「ブライアンは、正直に話してくれた。EMIにビートルズのデモ・テ
ープを持って行ったところ、色々と問題があって、担当者は忘れてしまったらしい。返事のしようがないんだ。遅い返事にしびれを切ら
したブライアンは、たまたまデッカに勤務するぼくのところにやって来た。だけどぼくは、ライナーの部署にいるライターで、アーチス
トの契約に関しては、権限なんてなかった。もちろん、丁重にお引き取りをいただいたわけなんだけど、その直後にEMIの営業本部長、
ロン・ホワイトから正式な通達があったらしい。内容は“弊社は、この手のグループに関しては、現在間に合っております”という素っ
気ないもの。そこでブライアンは、デッカでオーディションを受けられるように、ぼくに取りはからってもらえないかと頼んできた。」
この証言は、かなり信憑性があった。もちろん、ブライアンは公式には、この証言を認めていない。世界中の多くのビートルズマニアは
デッカこそが最初に落とされたレコード会社と信じて疑わなかったのである。さらに面白い事実が浮上してきた。バーロウは、語ってい
る。「ブライアンが、最初にEMIに持ち込んだ音源は、ドイツでビートルズが録音したもの。つまり、トニー・シェルダンのサポートバ
ンドとして、録音した例のレコードだよ。その録音には、トニー・シェルダン以外にも、ジョンがリード・ボーカルを取った歌があった
ので,ブライアンはそれをプレゼンしたわけだよ。ところが、そのレコードはポリドールという大手のレコードレーベルから出ていて、
一応は契約が交わされている。となると、バックバンドとしての契約とはいえ、EMIはポリドールと何らかの交渉をしないとならない。
そのあたりも、ブライアンは全く理解していなかった。本当に、ズブの素人だったわけだよ。当時のブライアンという男はね。」
〜 The Beatles / Ain't She Sweet
〜 The Beatles / Here, There and Everywhere
・1962年12月の時点で、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインはEMIの門を叩き、あっけなくビートルズとの契約を断
られている。次に望んだデッカ・レコードとのオーディションも最悪の結果に終わり、途方に暮れていた矢先、ひょんなことから、EMI
のプロデューサー、今や伝説となっているジョージ・マーティンに紹介され、めでたくメジャー・デビューへの道が進むことになる。
さて、そのことに対して,憤慨している人物がいる。その男の名は、ロン・ホワイト。最初ビートルズを落とした、EMIの営業本部長
である。ホワイトは、1962年6月26日付けで、ブライアンに手紙を書いている。その内容とは ── ビートルズが弊社と交わした契約
内容を詳細に目を通しながら、私としましては困惑しましたし、いささか閉口もしました。特に、貴殿に当てて、弊社のアーチスト担当
者たちが、ビートルズは採用できないと感じている。と、お伝えした1961年12月18日付けの手紙を鑑みて、そのような心境に至った
次第です。 ── というもので、これは明らかに怒り心頭であるように思われる。ホワイトは、社内で決まりの悪い思いをしただけでな
く、自分の知らない間に、ブライアンが秘密裏にEMIと契約をこじ開けたやり方に対して、おそらく多少なりとも腹を立てていたのでは
ないだろうか。もしホワイトが、今回の契約に対して、もっと早く知ってたら、ジョージ・マーティンがビートルズと契約するのを、間
違いなく阻止していたであろう。それは、ホワイトに限った話ではなく、おそらく誰が担当者であっても、ブライアンのEMIに対しての
敗者復活戦のようなコソコソしたやり方に憤慨しただろうし、ビートルズのデビューに対して応援する気にもなれなかったであろう。こ
れは、あくまでも推測の域を脱してはいないが、ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」の営業宣伝費の予算を握っていた人間に対し、
ホワイトが何らかの圧力を加えたとしても、何ら不思議なことではない。こうしてビートルズは、デビューに対して、順風満帆どころか
多くの問題を抱えながらの船出となってしまったのである。
〜 The Beatles / P.S. I Love You
〜 The Beatles / Here Comes The Sun
□リクエスト
・イエスタデーを聞くと、いつも中学の英語の授業を思い出します。英語の授業の始めに歌っていました。先生が簡単な曲を選んでくれる
ので、歌いやすく、英語に親しみを覚えることが出来ました。先生のあだ名は、オリバー先生でした。(越谷市/女性)
〜 The Beatles / Yesterday
・4年ぶり2回目のリクエストですが、当時6歳だった娘も10歳になり、なかなかパパとママの言うことを聞いてくれない年頃です。そんな
娘が先日手芸でフェルトのお守りを私にプレゼントしてくれました。裏には、お仕事がんばれのメッセージが入り、春から私の職場が変
わり、ちょっとへこみ気味でもあり、ぐっと来てしまいました。先週娘に「リクエストしようか、今一番好きな曲は?」と聞くと「ヘイ・
ジュード」と即座に答えます。なんだかまた、ぐっと来てしまいました。(下妻郡/男性)
〜 The Beatles / Hey Jude
・デッカ・レコードのオーディションの話がありました。合格したのは、トレメローズとのことでしたね。Silence is Goldenのトレメローズ
でしょうか?(つくばみらい市/男性)
〜 Tremeloes / Silence is Golden
・ヘイ・ブルドッグの中の犬の声は、人がやってるんでしょうか? 私は犬だと思うんですが、子供は人間だと言い張ります。(松戸市/氏名
不詳)
〜 The Beatles / Hey Bulldog
(小林)子供が正しいです。
(小林)ビートルズは、正々堂々のスタートじゃなかったというわけです。これは、結果論ですけど、どの世界でも成功したりする人は、全部が
全部優等生としての道を辿らないですよね。だから、我々も希望が持てるんですよ!
奇跡の良スレ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年8月9日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(8月9日)
・1965年 (44年前)
ぼく知らなかったんですけど、ジョン・レノンがプロデュースしてるんです、この日。場所は、IBCスタジオ。ちょっと馴染みの
ない場所ですね、ロンドンのスタジオ。グループは、当時女子大生だったシルビー・タトラーを中心としたフォーク・グループで
す。シルキーズというんですが、それをプロデュース。でも、このスタジオに行ったのは、ジョン・レノンだけじゃなくて、ギ
ターで参加するためにポール。タンバリンで、ジョージが参加しています。この1965年というのは、とても大切な年なんです。
アメリカでは、ロックンロールが廃れてフォークの時代に入ってくるじゃないですか。ロックは結局幼すぎたということで、ボブ
・ディランなんかが出てくるわけですが、この年はバーズの「ミスター・タンバリングマン」なんかが大ヒットして、フォーク・
ロック元年とも言える年。で、ディランの「Bring it〜」「Highway〜」という、ロック史上とても大切な二枚のアルバムが発売に
なった年。ジョンがディランの影響を受けたというのは有名な話だけど、ディランやバーズがビートルズの影響を受けてないかと
いうと、そんなことはないんですよね。バーズなんかは、モロに受けています。
〜 Silkie / You've Got To Hide Your Love Away
後半はフィル・スペクターっぽくなるんだけど、ジョンはまだフィル・スペクターと知り合ってないんだろうけど、そういうのを
やってたということで。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年10月 ── ビートルズは、A面「Love Me Do」、B面「P.S. I Love You」という両面オリジナル、当時としては画期的かつ、
前代未聞な形でのデビューを飾った。しかし、レコード会社EMIパーラフォンとの契約は、容易なものではなかった。元々ビートルズ
のマネージャー、ブライアン・エプスタインはリバプールから数百キロ離れたロンドンのレコード会社を廻る際、まず最初にアプロ
ーチしたのが最大手のEMIであった。しかし、審査の結果は、あっさり不合格。そして、その後に門を叩いたのが、ビートルズと同じ
リバプール出身の音楽ライター、トニー・バーロウの勤務するデッカ・レコード。ここでは、バーロウの働きかけもあって、1962年
元旦のあの伝説となるオーディションまでこぎつけたのであるが、悪天候によるコンディションの悪さ、ブライアンの作戦が外れた
せいもあって、あえなく敗退。これで大手は全滅かと思っていた矢先、ひょんなきっかけで、一度は門前払いとなったEMIの窓際レー
ベル「パーラフォン」のプロデューサーを紹介された。その人こそ、あのジョージ・マーティンである。ビートルズが、前の年に同じ
EMIのメジャーなセクションで不合格となったことなど、少しも知らない同じ会社のマーティンは、ビートルズに一目惚れしてしまっ
た。荒削りで、幼いところも残っていたビートルズではあったが、今までのロックバンドにはない、未知の魅力があった。仮契約、
レコーディング、そして本契約と、何とか格好のつく形にまでこぎ着けたのである。しかし、このいわば裏口入学的な契約に対して、
最初ビートルズを不合格にした部署の責任者は面白いわけがない。不満たっぷりな内容の手紙を、ブライアンに送りつけてきたので
ある。しかし、契約書にサインしてしまった以上、もうこっちのもの。ブライアンは、無視し続けていた。もちろん、EMIというイギ
リス最大のレコード会社は、お役所のようなもの。連中は色んな手を使って、ビートルズがスムーズにデビューするのを阻止しよう
と試みた。まずは、デビュー曲「Love Me Do」につぎ込む宣伝費を出来るだけ削ることから始めた。ビートルズは、デビューから早
くも、ピンチを迎えるのである。
〜 The Beatles / Helter Skelter
〜 The Beatles / Ticket to Ride
・「最初にビートルズを落としたあの連中、ぼくが敗者復活戦を挑んで、なんとか生き延びたのが、どうもしゃくに障るらしい。ビート
ルズが所属するパーラフォンの宣伝費まで、難癖を付けてきやがった。このままじゃ、"Love Me Do"は全然ヒットせずに、泣き寝
入りだよ。たのむ、トニー。何とか知恵を貸してくれないか。」こう泣きついてきたのは、他ならぬビートルズのマネージャー、ブラ
イアン・エプスタイン。お願いされているのは、ブライアンが最も頼りにしている男で、後にビートルズの広報担当として世界中を一
緒に旅することになるトニー・バーロウ。トニーは、ビートルズのPRに自分の音楽ライターとしてのキャリアを十分に活用しようと考
えた。この時、現役の音楽評論家として活躍していたトニーは、レコード会社から受け取る宣伝や広報資料の他に、アーチストの所属
事務所が独自にPR会社を使ってもっと友好な、つまり気のきいた宣伝文書や写真を作っていることに注目した。そして、ブライアンに
アイデアを出した。「ブライアン、EMIが宣伝費を削ったっていっても、もともと奴らにはPRの能力なんてないんだよ。それなら、ぼく
らでイカした宣伝セットを作って、音楽業界やラジオ局、そしてレコード店にばらまこうじゃないか。」ブライアンは、わらにもすが
るような表情で、こう答えた。「トニー、わかった。それは良いアイデアだ。君の言うとおりにするよ。じゃあ、さっそくその宣伝セ
ットを作ってもらえるかな。お金は、ぼくが用意するから。」トニーは、すぐには返事が出来なかった。なぜなら、この時点で彼は
ビートルズを落とした、あのデッカ・レコードの社員で、ライナー・ノートを書いていたのだ。しかし、もはや乗りかかった船。会社
のデスクで、バレないように内職をする覚悟を決めた。ブライアンが用意してくれた金額は、当時のお金で20ポンド。この20ポンド
という金額を稼ぎだすには、当時最低ランクの印税契約を結んでいなかったビートルズが「Love Me Do」というデビュー曲を、最低
5000枚も売らなければならなかったのである。
〜 The Beatles / Love Me Do
・「トニー、EMIの宣伝予算は、まったく当てに出来ない。このままじゃ、Love Me Doは、発売しただけで終わってしまうよ。なんとか
してもらえないだろうか。」そう泣きついてきたのは、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタイン。泣きつかれた側の男
トニー・バーロウは、1962年10月のこの時点で、まだビートルズを落としたデッカ・レコードの社員だったが、会社に秘密の内職と
いう形で、ブライアンからの仕事を引き受けることにした。最初にトニーが取りかかったのが、リバプールにいるビートルズのメンバー
一人一人と長電話をして、個人データのリサーチをすることであった。あまり予算の組めないブライアンは、わざわざトニーをリバプー
ルに送り込むよりは、その方が安上がりであると考えた。もちろん、問題はある。なにせ、顔の見えないインタビュー。コミニュケー
ションを取ることが難しい。そういった欠点を補うため、バーロウはビートルズ4人の好きなもの、嫌いなもの、身体的特徴などを、
前もって彼等の所属する事務所NEMSの女性スタッフから徹底的に聞き出した。ジョンの趣味は、曲や芝居の脚本を書くこと。女の子
も好き。絵、テレビを見ること。人と会うこと。ポールの好きなものは、やっぱり女の子。作曲、そして寝ること。ジョージは、女の
子よりも、車の運転や音楽鑑賞の方が大切で、リンゴが最も好きなことは、夜のドライブや西部劇を見ること。そして、寝ること。好
きなミュージシャンに関しては、みんな玄人好みで、ジョンはシュレルズ、ミラクルズにベニー・E・キング。ポールも同じく、ベニー
・E・キング、そしてリトル・リチャード。ジョージもポールと同じく、リトル・リチャード。そして、アーサー・キッド。リンゴは
リズム&ブルースのブルック・ベントンと、ブルースのライトニン・ホプキンス。みんなそれぞれ、特徴がある。こうして、トニー・
バーロウのきっちりとした仕事ぶりのおかげで、ビートルズと人となりが、イギリスのファンの間に、次第に普及して行くのである。
〜 The Beatles / Baby It's You
□リクエスト
・マイケルがこの番組の主役でもあるポール・マッカートニーとデュエットをしたこの曲をお願いします。この当時、ジョンを亡くした
ばかりのポールは、音楽活動をする上で新たなパートナーを捜していて、その候補の一人がマイケルだったと聞いたことがあります。
マイケルもジョンと同じように天才的でカリスマ性を持った人物であるので、ポールもマイケルのことをジョンと重ね合わせて見てい
たことと思います。(つくば市/男性) 当時、わたしは小学6年生で、運動会でスリラーを踊りました。もう、マイケルのような人は
現れないかもしれないけど、いつかアジアで現れて欲しいです。(吉川市/女性)
〜 Paul McCartney & Micheal Jackson / Say Say Say
(小林)それは、100%違うと思います。ポールの話に寄ると、ある夜突然マイケルから電話がかかってきて「一緒にやらない?」
「OK!」ということで引き受けたということで。まあ、パートナーシップは、ポールの方は全然考えていなかったと思いますよ。
ただ、マイケルはビートルズに入れあげていて、ビートルズの出版権を買い上げたことは有名ですよね。だから、新しい良い音で
出直すんですが、マイケルが生きていたら、もうマイケルの借金など簡単に払うくらいの、すごいお金が入っていたんだなと、
これはまたちょっとね、そんなことを考えて失礼だという人もいるかもしれませんが、どうしても人間考えちゃんです。
・彼は、これで楽になれたような気もします。誰かが語っていました。「MJは、相手を潰してしまう」。この曲の頃は、まだブラックで
それがかっこ良かったのに。(住所氏名不詳)
〜 Micheal Jackson / Off The Wall
(小林)このアルバムは、実際数百万枚売れてヒットするんだけど、これじゃダメだ!と彼が思っていたことは事実なんですよね。
このアルバムを聴くとわかるんですけど、クインシーの古いタイプのフュージョン・ジャズなんです。もっと、マイケルは、
ロックなもの、R&Bなものをやりたかった。世の中は、その頃は白人の世界ではパンクとかニューウェーブが出てきて、
マイケルはちゃんと聞いてるし、黒人音楽で言うと、ストリートやラップ音楽が出かかっていることを知ってたわけですよね。
そういったものを全部取り込んで、マイケルが作ったスリラーは全然違うんですよ、オフ・ザ・ウォールとは。だから、オフ〜
は、700万枚ぐらいしか売れないんだけど。700万枚しかってのも変だけど、スリラーは1億行っちゃいますからね。そういう
ものなんですよね。改革を起こす人というのは。
・日本に来ていましたが、浪人中のため行くのをあきらめました。(宇都宮市/男性)
〜 Simon & Garfunkel / Scarborough Fair / Canticle
(小林)また来るかもしれませんよ、最後なんて言ってたけど。
・年齢を感じさせない歌声で素晴らしかったです。(練馬市/女性)
〜 Simon & Garfunkel / The Boxer
(小林)アリスのチャンピオンの土台になった曲ですね。
(小林)ビートルズは売れる寸前ですけど、ジャマが入っています。さてどうなるのか、番組をやりながらドキドキしています。リクエストは
マイケルとサイモン&ガーファンクルでしたが、彼等はビートルズの影響を受けていないアーチストですよね。マイケルは受けてるのかもし
れませんが。逆に、マイケルたちの音楽はビートルズに影響を与えていますからね。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年8月17日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(8月17日)
・1965年 (44年前)
今から44年前のきょうは、ビートルズはアメリカ・ツアー中です。で、NYのワーミック・ホテルに泊まっています。そこに、
シュープリームス、エキサイターズ、ロネッツ、ボブ・ディランたちが遊びにきました。ちなみにこの日は、夜はNYメッツの
野球場・シェア・スタジアムでのライブを、二番目のライブを(やるわけですが)、だから昼間はホテルに遊びにきたわけで
すね。ま、売れてるグループは。ボブ・ディランとは、もうお友達になってて、ご存知の通り一年前に行った時には、ボブ・
ディランにいけないものを教わりました。ディランがイギリスに来た時には、ストーンズの連中なんかと一緒に遊び、親交を
深めました。で、ロネッツはですね、ジョン・レノンの大好きなプロデューサーのフィル・スペクターのお人形様的なグルー
プです。ま、この前に実はロンドンで会ってたんです。で、また会いに来るわけですが、ロネッツのロニー・スペクター、中
心の美人のシンガーですけど、ジョン・レノンがイギリスにいる時にちょっかいを出すんですよ。ふふふ。これは...なんとも
なかったらしいんですけど。ジョン・レノンはそのおかげで、ロネッツのプロデューサー、フィル・スペクターと仲良しにな
ります。因縁の関係になるというか、だからほら、最後はビートルズはフィル・スペクターがプロデュースするわけですよ。
ポール・マッカートニーが嫌いになっちゃう、プロデューサーなんですけどね。さ、この頃はスーパースターが、ビートルズ
が着ているからと遊びに行っちゃう、ビートルズに対抗できるグループはアメリカにはいなかったぐらいです。ただ、1960
年代、音楽は違いましたけど、実はビートルズが影響を受けたモータウンのダイアナ・ロスのグループ、シュープリームスだ
かはビートルズに負けないくらい、チャートの記録を残しています。
〜 The Supremes / Stop! In the Name of Love
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年10月 ── 「トニー、EMIのクソ連中と来たら、ビートルズにはロクに宣伝費も出してくれない。もう、君のアイデアに
頼るしかないんだ。トニー、なんとかしてくれないか。」ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインは、後にスタ
ッフとしてビートルズの広報を一手に引き受けることになるトニー・バーロウにすがった。正確に言うと、この時点でバーロウ
はまだ、デッカ・レコードの社員ではあったが、ビートルズとブライアンに興味を引かれていたため、あくまでも会社には秘密
の内職として、広報資料をまとめる仕事を引き受けた。十代の半ばから音楽評論家としてやってきたバーロウである。さすがに
仕事の手際はいい。リバプールにいるメンバーへのインタビューも、そつなくこなしていった。好きなもの、趣味、お気に入り
のミュージシャンなど、PRに必要な資料は着々と集められた。このインタビュー、「あなたの野望は?」という質問で締めくく
られているのだが、これに対する答えはちょっと興味深い。ジョンは「ミュージカルの曲を作曲すること」、ポールは「一流の
男性雑誌に、自分の写真が掲載されること」、ジョージは「ギターのデザインをすること」。そしてやはり、リンゴの答えが最
もシンプル。「幸せになること」。こういったマスコミや音楽業界向けのPR資料を作る上で、バーロウは二つの優先事項を設け
た。その一つ目は「ビートルズというバンド名を強調すること」である。もし、バーロウがビートルズの綴りの中の「EA」の文
字をあえて強調しなければ、イギリス中の文書を直す校正者たちや編集補佐たちが、辞書にあるとおり、ビートルズを「BEETLES」
と訂正することは目に見えていたからだ。これに関した話題になるが、この二ヶ月ほど前に、ジョンがリバプールの音楽雑誌
「マージー・ビート」向けに自ら書いたユーモラスな記事をわざわざバーロウに送っていた。「ビートルズのうさんくさい起源に
まつわる短い気分転換」というタイトルのその文章は、一風変わったグループ名とデビューまでの経歴に注目させるため、ジョン
が手がけた、まさに「PR文章」。これには、プロのライターであるバーロウも脱帽した。この時すでに、後のレノンのスタイルが
出来上がっていたと言っても過言ではない。
〜 The Beatles / I am the Walrus
〜 The Beatles / I Feel Fine
・1962年のビートルズデビュー前、ジョンはリバプールの音楽雑誌「マージー・ビート」に、こんな文章を寄せている。「むかし
むかし、ジョン、ジョージ、ポールという、その名前からいって洗礼を受けた三人の小さな男の子がいました。ある日、彼らは
集まることにしました。なぜなら彼らは、集まるタイプの子供たちだったから。そして彼らは、突然それぞれに、ギターの種を
植えて、大きく育て、一つのノイズを作りましたとさ。」さらにジョンは、何故バンドがビートルズと名乗るに至ったか、につい
て綴っている。「なぜ、ビートルズか? うん、ビートルズ。どうやって、この名前が生まれたのか。彼らは、まぼろしを見たんで
す。燃え盛るパイに乗った男が現れて、彼らにこう告げました。『おい、坊主。きょうからお前たちは、Aの着くビートルズだ。』
すると、男の子たちは答えました。『ありがとうございます、ミスター。』と彼らは、パイに乗った男に心から感謝しましたとさ。」
この文章を読んだ、ビートルズの広報担当トニー・バーロウは、初めてジョンの言葉を操る、風変わりで知性のあるセンスを垣間
みた。しかし、ジョンの文章は実際にはもっと長く、すごく奇妙すぎる展開もあり、PR資料に載せるには適さないと判断した彼は
これを少し編集して短い形に直してみた。「BEETLES ── ビートルズ ── カブト虫を知っているかい? ジョージ。お前のおじい
ちゃんは、カブト虫が家に入ってこないように、よく殺虫剤を撒いていた。」「違うよ、おばあちゃん。ビートルズじゃなくて、
BEATLES、Tの前がAなんだよ!」「なんだって? あれはAなんかじゃないよ、あれは確かに何かの粉だったよ。それにカブト虫が
Tをすするわけがないだろ。」「おばあちゃん、本当にビートルズだってば。四人組のロックバンドで、EMIパーラフォン所属なん
だ。」「もう、カブト虫の話はたくさんだ。不愉快だよ。あんなに大きくて黒い生き物!」「ちがうよ、おばあちゃん。ビートルズ
は黒くないんだよ。イギリス生まれの白人なんだよ!」
〜 The Beatles / She's a Woman
(小林)さっきかかった、I Feel FineのB面ですが、共通点わかりますか? 両方とも出だしが無茶苦茶カッコいいですよ。あんな
カッコいい曲はないですよね。ビートルズの才能が、詞を書いたりとか、曲を書いたりとかばかりじゃなくて、音とかアレンジ
とかが、無茶苦茶すごいということが良くわかります。
・「おばあちゃん、ビートルズは黒くないよ。イギリス生まれの白人なんだってば!」ジョンが少々ふざけて雑誌に寄稿したこの文章
は、ビートルズの広報担当トニー・バーロウの心に響いた。一見、まったくナンセンスにも思える文章の中に、キラリと光る想像力
そして、辛辣で批判的な側面もあった。とにかく、何らかの強烈なセンスを感じた事実。結局、このジョンの書いた散文は、音楽業
界以外の目に触れることはなかった。しかし、ビートルズという新人グループのバンド名を、音楽雑誌の編集者、ラジオDJ、テレビ
のプロデューサー連中に印象づけるという目的は、十分に果たしていた。そしてバーロウが、ビートルズを宣伝する上での二つ目の
優先事項 ── それは音楽評論家やDJに届く、山のような数の紙資料の中で、いかにビートルズの資料を目立たせるか ── というこ
とである。バーロウは、ローリング・ストーンズも担当した敏腕宣伝マン、レスリー・ペリンの仕事の仕方を盗んだ。ペリンの作る
プレス資料は、すべて項目事に色分けされた紙を使っていた。ツアー・スケジュールの色、レコード発売情報の色、経歴データの色
といった具合に、全て巧みに使い分けられていたのである。トニーもこれに習い、それぞれのページに最大のインパクトを与えるべ
く、鮮やかな色を選んだ。そして、再大問題。それは、この完璧なまでに作られた資料を、必要な人物の手に確実に届けるというこ
とである。バーロウは、これには自信があった。この時点でまだ、デッカ・レコードの正社員であったバーロウは、つい先日会社を
辞めたスタッフが、広報活動に有力な関係者のメーリングリストを持ち出していることを知っていた。もちろんバーロウは、この男
に電話をして、その情報を自分にも公開してもらうように話を持ちかけた。これはハッキリ言って、脅迫であった。こうして、ビー
トルズを宣伝するお膳立ては、きっちり整ったのである。
〜 The Beatles / I Saw Her Standing There
□リクエスト
── 名前を呼ばれたくないという方は、そう書いてくれれば読みませんから。最初の方がそうなんですよ。松戸市○○XXX-XXの....
(小林、町名番地まではっきり放送に乗せてしまう)、まあ、それは良いんですが.....、これじゃ郵便屋さんも届けられないよね。
・世間ではビートルズやストーンズがリマスターが話題になっています。昔既に録音されたものが、どうして高音質になるんでしょう
か? 気になります。個人的には、アルバム「アビーロード」がどうなったか、気になります。あれはあれでいいと思うんですけど。
音がきれいになるのは、良いことなんでしょうか? なぜだか、少しさびしい気がします。(松戸市/性別不詳)
〜 The Jimi Hendrix Experience / Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band ~ Spanish Castle Magic
(小林)あなたの言うことは正しいです。そういう風に感じる人が、半分以上います。でもまた半分ぐらいは、新しい音でも聞き
たいなーなんて。自分の中でも、例えば、自分の中でも二ついるはずです。ぼくは、2006年のLOVEというジョージ・マーティン
親子がやった作品が、いきなり最初に聞いた時は、「ああー、ロクなことしねーな。こいつら!」と思ったんですが、聞いている
内に、「これはスゴいよ! ビートルズをリスペクトしてやってるんだ!!」っていう、だから自分の中にも別れ別れになってるはず
です。複雑ですよね。で、あなたがまた通好みのヤツをリクエストしましたね。ビートルズがこの曲を出したら、10日もしない
内にカバーやってたというから、すごいよね!
・ビートルズの曲は、中学のときの英語の授業で初めて聞きました。担当の先生は、ビートルズやカーペンターズの曲の歌詞をプリント
してくれ、授業の始めにみんなで歌ったことを覚えています。こんなに素晴らしい歌があったのかと、先生にカセットを借りて録音し
繰り返し聞いていました。(千葉市中央区/女性)
〜 The Beatles / Let it Be
・先日、交差点で信号待ちをしていたら、隣の車線に大型のバイクが停まり、そのステレオから大音響で洋楽が流れていて、思わず窓を
開け、その洋楽を聴いていると、そのライダーはメットのフードを開けて、「良い音楽だろー」と親指を立てて走り去っていきました。
ちょっと、カッコいい中年のおじさんでした。アーチストはアメリカなんですが、曲名が思い出せず、四日間あれこれ考えましたが、
やっと思い出し、この曲を始めから聞きたいのでリクエストお願いします。(川越市/男性)
〜 America / A Horse with No Name
・去年の夏に、父がガンで手術をしました。そして、ぼくは築地の国立がんセンターから見える風景が、特捜最前線のエンディングテー
マの背景に似てると、「私だけの十字架」をこの番組でかけてもらいました(2008年7月27日)。その父ですが、去年の秋に他界いたし
ました。ぼくは、この夏になって、ようやく父の死を受け入れられるようになりました。でも、父は運のいい人だったと思います。
良き同僚や妻に恵まれ、75歳まで現役で働いていましたから。そんな父に、ホワイトアルバムの「グッド・ナイト」を送りたいと思い
ます。(江戸川区/男性)
〜 The Beatles / Good Night
(小林)なかなか良い曲ですねー。グッと来ましたね。
(小林)ビートルズは、売れる前色んなことやったんだね。脅迫まがいのことまでやってるもんね。今だったら、メールリスト盗まれたとかって
言いますけど、それを使ってビートルズの宣伝物を送ったりしてたわけですね。来週はどうなるでしょうか。
111 :
ホワイトアルバムさん:2009/08/23(日) 13:33:59 ID:a8cSCeL7O
111
( ^ω^ )っ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年8月23日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(8月23日)
・1962年 (47年前)
ビートルズは、まだまだ売れていません。47年前のきょう、ジョン・レノンがシンシアと結婚します。これは、マウント・プレ
ザント・レジスター・オフィス、つまり登記所に行って、簡単な結婚の登記を行うわけですが、その後の披露宴とでもいうんで
しょうか。登記所をはさんで、通りの向こうにあるカフェテリアで、質素なランチをします。全部、マネージャーのブライアン
がお金を出します。乾杯はワインではなく、水だったそうであります。そして、ジョンはそのまま、リバプール・ボールパーク
でのライブ、仕事に出かけて行くわけです。だけど、この結婚というのは、ファンに隠した結婚だったんです。これから有名に
なるかもわからないからということで。そして、シンシアのおなかには、赤ちゃんがいました。ジュリアンがいました。でき
ちゃった結婚だったわけです。そして! 続きがあります。6年後の同じ日、つまり結婚記念日、1968年です。シンシアは、
ジョン・レノンが不貞を働いたといことで、相手はヨーコです。ギリシャ旅行から帰った時に、ヨーコが自分の家にいるわけで
すよね。その前は、インド旅行から帰る時に、「俺はな、300人以上の女と浮気した」みたいなことを、酒飲んで色々言ったり
するわけですよ。そういうことも重なって、離婚となってしまう。面白いですね、62年結婚するわけですよね。そして、6年後
の結婚記念日に、シンシアは離婚を発表したということです。それでは、ジョン・レノンが女性を歌った作品の中で、最高傑作
と呼ばれる作品を紹介しましょう。これは、1965年のラバーソウルの中に入っているんですけど、有名なところでは、tit,tit..
とコーラスが入るわけですが、これは「おっぱい」っていう意味がありますからね。ちょっと面白い曲でもあるわけです。
〜 The Beatles / Girl
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年10月 ── ビートルズのデビューに際し、マネージャーのブライアン・エプスタインは、その広報、PR活動の一切を自分
たちと同じリバプール出身の音楽評論家、トニー・バーロウにゆだねた。ブライアンは既に、このバーロウを自分の会社NEMSの
正社員とし、ビートルズの広報担当責任者として、正式に迎え入れようと考えていた。しかし、この時バーロウはまだ、大手のレ
コード会社、あのビートルズを不合格にしたデッカの社員であったため、その希望はすぐにはかなわなかった。バーロウも少し考
えた末、デッカ・レコードのデスクを使って、会社にバレないように、いわば内職として、ビートルズの広報のための資料を作成
していた。この仕事を進める上で、まずバーロウが念頭に置いたこと、それはビートルズというバンド名を強調することだった。
BEATLESというバンド名は、もともと「カブト虫」という意味の「BEETLE」に由来する。しかし彼らは、その綴りをロックの
イメージを連想させる「BEAT」という言葉に置き換えて「BEATLES」と命名した。このことは、世の中にきちんと認識させる必
要があった。これに関して、ジョンが地元リバプールの音楽雑誌マージー・ビートに寄せたコラムのおかげで、ある程度は理解を
求めることが可能となった。次に、バーロウが考えたのは、いかにビートルズの資料を目立たせるかということ。これに関しては
いつも自分の送られてくる新人アーチストの資料の中でも、見やすく目立っているものを参考とした。そのために、カラフルな色
の資料を作成し、スケジュール、レコードの発売、プロフィールなど、すべてきれいに色分けしたのだ。こうして、ビートルズの
最初の広報資料は整い、音楽業界の各方面へと配られた。しかし、これを作ったトニー・バーロウ本人はまだ、ビートルズの所属
する事務所NEMSエンタープライズへの入社を保留にしていた。ビートルズは、確かに魅力にあふれた、可能性もあるグループ。
しかし、まだこの先どうなるか、全くわからないし、新人ロックバンドに自分の人生を懸けて良いものか。悩み続けるバーロウで
あった。
〜 The Beatles / Happiness is a Warm Gun
〜 The Beatles / Come and Get it
(小林)今、聴いてもらった曲は、アンソロジー3の中に入っている「Come and〜」ですが、これはバッドフィンガーという、
ポールがプロデュースするグループのため、デモテープを作るために、1時間程度でポールが全ての楽器を演奏して録音した
ものです。それから、ビートルズのバンド名の由来が「カブト虫」で、それにBEATをかけたというのはおなじみの話だと思
いますが、まだあるんですよ。その頃、主流となっていたのが、新しい感覚を持ったビートニックという、日本ではビート族
と言いましたけど、そういう新しい感覚という意味もあるんです。それからまだあって、ジョン・レノンが良く言っていた
「俺たちが全部やっつけてやる」、やっつけるというのがBEAT、全部やっつける=BEAT ALL。そこから。後付けかもわかり
ませんが、ジョン・レノンが語っておりました。
・俺は、ビートルズやブライアンと運命共同体になっていいのだろうか。後に、ビートルズの交付担当として、マネージャーのブラ
イアン・エプスタインに最も頼りにされる男、トニー・バーロウは悩んでいた。1962年のこの時点で、悩むのは当然である。なに
せ、ビートルズが契約したEMIのパーラフォンは、コメディやイージーリスニングの専門部署で、会社内でも完全に窓際族の吹きだ
まりである。会社の存続に関しても、何ら影響を与えるセクションではなかった。つまり、ビートルズがヒットするかどうかなんて
EMIの経営陣にとっては、まったくもって無関心なことである。結果、デビュー曲「Love Me Do」に組まれた宣伝予算は、ほとんど
ゼロ。つまり、期待度もゼロに近かったということになる。こんな状態では、バーロウもNEMSへの入社を悩んで当然である。そん
な中、しびれを切らしたブライアン・エプスタインは、ヘッド・ハンティングに乗り出した。ブライアンが選んだ人材は、若く頭脳
明晰であり、映画と音楽に関するPRコンサルタント業を行っていた、アンドルー・オールダムという男。オールダムは、後にローリ
ング・ストーンズのマネージャー兼プロデューサーになる若者であった。しかし、彼はバーロウとは逆に独立を好み、誰かの下で働
くことを拒否したため、ビートルズの仕事を断った。しかし、ブライアンの強い押しに負けて、オールダムは臨時で一時的にビート
ルズの立ち上げ期間のPRと雑務を引き受けてくれた。基本的にこれは、ロンドンのウエストエンドにあるさまざまな雑誌の編集部を
廻って、直接バンドを売り込む。メンバーを有名なジャーナリストに会わせる。そして空き時間は、メンバーの付き人的な職務をこ
なすなどが含まれていた。このように、ロックバンドの広報、PR業務というものは、大変な仕事である。なにかの片手間にやれるよ
うな、甘い世界ではない。それは、バーロウも重々わかっていることではあったが、自分と結婚したばかりの妻との生活もある。
デッカ・レコードのデスクに縛り付けられながら、まだバーロウは悩んでいた。
〜 The Beatles / I'm a Loser
〜 The Beatles / Eleanor Rigby
しかしなんで毎回毎回、
メッセージ送ってくる奴の中に住所氏名等を書いてこない奴がいるんだろ。
毎回、克也さんは同じこと言ってて、ストレス貯まってくるだろうな。
(小林)ジョン・レノンには、ポール・マッカートニーとの違いがあるんですよね。「I'm a Loser」とか、自分はもう負けている
んだとか、「Help!」とか、もう助けてくれとか、そういう自分の弱さを前面に出した曲って多いよね。ポールは結構、イケイケ!
みたいな曲が多いわけですけどね。
・ビートルズが、記念するデビュー曲「Love Me Do」を発売する前、ラジオDJを始めとする音楽業界に配らるための、業界では通常
白盤と呼ばれる、宣伝用サンプル盤が出来上がってきた。すると、マネージャーのブライアン・エプスタインが顔を真っ赤にして、
かんしゃくを起こし、「あいつら、ポールの名前を間違えやがった!」とツバを飛ばしながら怒鳴った。確かに、作曲者のクレジッ
トには、「レノン・マックアートニー」と書かれていた。すぐに、ブライアンはEMIに電話を入れたのであるが、謝罪はなかった。
「ああ、それなら店頭に並ぶまでには、訂正を入れますので。」と、返してきただけだった。こんなことでは、怒りの治まらないブ
ライアンは、怒鳴り続けた。「そういう問題じゃない! ジャーナリストやラジオのDJが、ポールの名前を間違って覚えてしまった
ら、お前らどう責任をとってくれるんだ。」そして、ブライアンの心配したことは、現実に起こってしまった。リバプールの音楽雑
誌マージー・ビートも、ポールの写真の下にしっかりと「ポール・マックアートニー」とやってしまった。こういうことから分かる
とおり、EMIは最初からビートルズのPRにまったくノータッチで、ブライアンの事務所に、すべて丸投げだったのだ。つまり、面倒
なことには関わりたくない、やる気ゼロの連中だったのである。しかし、こんなことにめげてなんかいられないブライアンは、Love
Me Doの発売の前に、ニュー・ブライトン・タワーのボールルームでNEMS・ロック・スペクタキュラーという、ステージショーを
開催した。この時のメインアーチストは、リトル・リチャード。50年代に登場した、ロックンロール創始者であり、ビートルズの特
にポールの、最大のアイドルでもあった。ここに、ビートルズのライブ・パフォーマンスはブライアンが、そして広報はバーロウが
担当するという、後にロック界最大のスタイルが生まれたのである。
〜 The Beatles / Long Tall Sally
〜 The Beatles / Kansas City ~ Hey Hey Hey Hey!
(小林)2曲、ビートルズのカバーが続きました。これも、ブライアンがNEMSのスターを総動員したショーで演奏されたんだけど
主役は、アメリカのリトル・リチャード。ロックンロールの創始者、とても有名。ビートルズはご存知の通り、人のカバーをや
る時は、あまり有名な曲とか、自分たちのイメージが負けるような曲はやらなかったんだけど、例外的にポール・マッカートニー
が2曲やったのは、ポールの歌い方がリトル・リチャードみたいな歌い方をしているわけですよ。これは、よほど自信があったか
ら、やったわけだよね。リトル・リチャードとは、ハンブルグにビートルズが行くんですが、その時も一緒になって、色んなこ
とを教わったりするというわけです。
□リクエスト
・マイケル・ジャクソンとポール・マッカートニーの「Say Say Say」が流れてしまったので、ポール・マッカートニーの「ソーサー」
をお願いします。(住所氏名不詳)
〜 Paul McCartney / Another Day
(小林)「ソーサー」って曲、ないですよね? そこで、「So Sad」と歌っている曲ではないかというわけで…。
・先日、日比谷野外音楽堂で「レジェント・オブ・ロック」という、60年代王道ロック音楽のイベントがありました。日本のおじさま
中心のトリビュート・バンドが集まりました。色んなバンドのトリビュートでしたが、ビートルズはみんなスーツ姿で、炎天下にが
んばっていました。わざと、片言の日本語を使って、「キョウ、ニホンニキマシタ。ヒコウキオリマシタ。ワタシ、ハッピーデス。」
なんて言ったり、炎天下の日比谷野外音楽堂のロック・フェスティバルは、お客さんも中年がほとんど。私は34歳で、70年代ロック
は詳しくありません。昔、歌舞伎町のキャバクラでキャバ嬢をやっていましたが、そこはステージがあり、ビートルズはもちろん、
ストーンズやABBA、いろいろ歌わされ、踊らされていました。私は、ビートルズのコーラスが精一杯。踊るのは大好きですが、まさ
か、ステージで歌わさせられるなんて。かなり、貴重な体験をしました。キャバなのに、照明・スモーク・ステージにお金をかける
オーナー。飲みにくるおやじは、40代50代60代が多かったです。(葛飾区/女性)
〜 The Beatles / We Can Work it Out
・子供の頃は、サザエさんの終わりの歌を聴くと「明日学校でイヤだな」が、今はこのラジオのエンディング、サージャントのリプリー
ズを聴くと「明日会社かイヤだなー」となって久しいです。ところで、克也さんはポールのアルバム「ラム」をじっくり聴いたことが
ありますか。この作品は、昔は単なる駄作との評価が一般的でしたが、最近では素晴らしいメロディの宝庫であるとの意見が多く、
私もそのように感じています。あり得ない話ですが、もしこのアルバムをスペクターがプロデュースしていたら、超名盤になってい
たことは間違いありません。(江戸川区/男性/40代後半)
〜 Paul McCartney / The Back Seat of My Car
(小林)そうとう音楽を聴いている方のようですが、ただぼくは、(ポールは)歌がウマいから、フィル・スペクターのお化粧塗
りたくりみたいなのは、イヤなんだよねー。
・私は、大学でビートルズ研究会に所属していましたが、現在は会計士を目指し、一人で勉強しております。(住所氏名不詳)
〜 Micheal Jackson / Come Together
(小林)名前を知らせてください! それから、ちょっと遅めに放送しておりますが、試験受かってるかな?
(小林)きょうは、ポールが目立った週だったね。ボーカリストとしての評価は、ポールが一番。二位が、ジョン・レノン。三位がジョージ
ハリソン。そんな感じだったかな。お相手は、小林克也でした!
>>116 リクエスト方法が、ただメールアドレスを言ってるだけだからね。
ちゃんとサイト内にフォームを設けて、そこで氏名・住所を入力必須に
しちゃえば、こういうことも減ると思うんだけど。
>>122 それも手ですなー。
bayだと17時からの斉藤誠の番組はそうだよなー。ほかはしらん
あ、いつも乙です。
いつも楽しくこのスレを読ませてもらっています。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年8月30日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(8月30日)
・1968年 (41年前)
イギリスでのシングル「Hey Jude / Revolution」、ポール・マッカートニーがA面、ジョン・レノンがB面です。これは、
ビートルズが立ち上げた会社アップルからの最初のシングルです。そして、もう一枚、この日出てるんです。それは、「Those
Were The Days」、メリー・ホプキン。歴史的に、運命的な日です。ジョンもポールも、アップルは本気でね、インドから帰って
まもない5月、二人揃ってアップル設立とプロモーションのために、ニューヨークに飛びますが、アメリカではインタビューも受
けて、テレビ出演もして、「アップルというレコード会社でやります、よろしく」っていう、この影では、ポール・マッカートニ
ーは、リンダ・マッカートニーと会うわけですね。で、結婚することになるわけですが、結果アップルでビートルズの最初のシン
グル、きょう出た「Hey Jude」は700万枚、メリー・ホプキンの「Those〜」は1,000万枚を越えるスゴいヒットになるわけです。
まあ、ホントにアップルの将来はバラ色。しかし! アップルのレコード部門はうまくいくんだけど、ファッション部門・発明開発
部門は大きな借金を抱えて、アップルを破産に追い込んでしまうという。ま、ビートルズの会社だってことで、色んなスタッフが
きて、そのスタッフのほとんどがあまり良い仕事をしなかったってことで、結果的には。ビートルズだけが仕事したみたいな感じ
なんですけど。その、きょう発売された「Hey Jude / Revolution」、ホワイトアルバムのセッションとは別のものですね。ジョン
がイメージするアップルの姿は、本来ここにあったのではと言われています。これは、前も紹介したことあるんですけど、この頃
は反体制とか革命ってのが時代の合言葉みたいになってて、今の変革・チェンジみたいなものですよね。それで、ジョン・レノン
は、そんな革命とかに走らない。俺はイヤだよ、頼むから仲間に入れないでくれみたいな。実はね、この間もビデオを見たばかり
なんですが、ポール・マッカートニーが天真爛漫な顔をしてるんですよ。だから、漫才のボケとツッコミみたいにね、ジョンがそ
いうことを歌って、ポールがあんな顔をするとね、この曲の強さってのがスゴく出るんですよ。ライブでもレコードでも名曲だと
思いました。
〜 The Beatles / Revolution
(小林)ビートルズの曲の権利をすべてマイケル・ジャクソンが買うじゃないですか。で、最初にこの「Revolution」が、コマー
シャル、どこだっけ、服飾メーカーが使うんですよ。ビートルズの曲って、普通コマーシャルに使わせないんだけど、マイケル
が許可を出して「Revolution」を使わせる。昔の出来事でしたけど、あの頃はショックでしたね。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1962年10月 ── ビートルズは、シングル「Love Me Do」でのデビューが決まっていた。しかし、所属レコード会社であるEMIの
やる気はゼロ。宣伝費も雀の涙ほどであった。これでは、広報・宣伝活動に関しては、自分たちでやるしかないと、マネージャーの
ブライアン・エプスタインたちは、腹をくくった。最初に相棒として目を付けたのは、このときデッカ・レコード、あのビートルズ
を不採用にしたデッカで働いていた音楽ライター、トニー・バーロウ。ブライアンは本心では、バーロウにデッカを辞めて、自分の
会社NEMSエンタープライズに来て欲しかったのあるが、当時新婚であり、安定志向の強かったバーロウは、この決断にはまだ踏み
切れないでいた。しかし、バーロウは内職という方法で協力を買って出た。PR資料も完成し、各方面にばらまかれた。さらに、デ
ビューの前の週には、ブライアンがアクションを起こした。ニューブライトンでのレコード発売前公演である。共演者は、アメリカ
の大物ロッカー、リトル・リチャード。相手に不足はなかった。これで、ビートルズには箔がつく。そして、バーロウもがんばった。
彼が10代の頃から執筆している地元の新聞リバプール・エコーの音楽コラムのほとんどをビートルズに割いたのである。もちろん、
これには編集長を納得させるための、ちゃんとした大義名分もあった。バーロウの言い分はこうである。ビートルズは、リバプール
を中心とするマージー・サイドのバンドの中で、最初の全国区のレコード会社でレコーディングをしたバンドである。 ── という
ものである。これは、確かな事実。誰にも文句は言わせない。バーロウは、自信たっぷりに「Love Me Do」を評する名文句を載せ
た。タイトルは「ビートルズにとって史上最大の日」。その内容は、「Love Me Doは病み付きになるミドル・テンポのバラードで
耳に着いて離れないハモニカ演奏がシンプルな曲に印象を与え、トップ20入りする大ヒット曲にはかかせない独特なインパクトと
雰囲気を持っている」というもの。これで、ビートルズを後押しするものは、全て出そろったのである。
〜 The Beatles / Love Me Do
〜 The Beatles / I Want to Tell You
・ビートルズの記念すべきデビュー・シングル「Love Me Do」が発売になった週のイギリスでのヒット・チャートに顔を出している
アーチストを見ると、アメリカのトップ・シンガー、ボビー・ダーリン。コーラスで人気があった、フォー・シーズンズ。亡くなっ
たバディ・ホリーのバック・バンドである、クリケッツ。既に、少し保守的になっていた、エルビス・プレスリー。そして、イギリ
ス版のプレスリーとして人気が高かった、クリフ・リチャードなどなど。これを見て、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エ
プスタインもPR担当のトニー・バーロウも安心した。というのも、ビートルズはこれらのどのアーチストとも違う独自のオリジナル
な魅力を持っていたし、何よりも作曲能力があった。これならば、もっと売れる要素はいくらでもある。二人は、改めて自信を持っ
たのである。さあ、こうなると次の宣伝活動も、休んでなんかいられない。11月になるとビートルズは、当時影響力の強かったラジ
オ・ルクセンブルグの番組で、EMIがスポンサーになっている「フライデー・スペクタクキュラー」に出演した。収録場所は、ロン
ドンのマンチェスターにあるEMI本社の小さなスタジオ。EMIは、新たに契約したアーチストに、こういった番組収録に参加させて、
ハガキ応募の抽選で招待された10代の客の前で、発売されたシングルに合わせ、口パクで歌わさせていた。この番組の司会者は、
ミリエル・ヤングという人物であったが、この時ブライアンとバーロウを驚かせることがあった。司会者のヤングは、「ビートルズ
です」と紹介する前に、「ジョン、ポール、ジョージ」とメンバーの名を呼び、一人ずつ四人をステージにあげた。すると、最後の
「リンゴ」と紹介する前に、観客が「キャーッ!」と甲高い歓声を上げて、小さなステージに押し寄せてきたのである。デビュー・
シングル「Love Me Do」が店頭に並んでわずか一ヶ月。宣伝のための、ロンドンでのライブ日程も決まっていないというのに、ここ
にいるロンドンのキッズたちは、メンバーの名前を既に知っていたのである。「ぼくらのPR作戦は、間違っていなかったね。」ブラ
イアンとバーロウは思わず顔を見合わせ、肩を叩き合ったのである。
キロックトニーさん、いつも乙ですー。
今週も名無しのリクが採用されたな。
いい加減、イライラしてくるよ。
〜 The Beatles / She Loves You
〜 The Beatles / P.S. I Love You
・ビートルズのデビュー・シングル「Love Me Do」は、発売されて数週間、リバプールで売り上げトップになった。しかし、マネー
ジャー、ブライアン・エプスタインの経営するレコードショップ・チェーン「NEMS」を含む、街の多くの店では、大量の売れ残り
在庫を抱えていた。地元のレコード店は、音楽雑誌マージー・ビートの人気投票で、ビートルズが1位になったことをきっかけに
リバプール中の若者がこのレコードを買いにくると予測し、大量に仕入れていたわけである。しかし、それは現実とはならなかった。
そして、どうやらブライアンは、ビートルズを誇大に宣伝しようとして、ビートルズを全国チャートに送り込むために、何千枚とい
うシングルを自分で買い込んだに違いないと非難する噂が広まり始めた。確かにブライアンは、大量に「Love Me Do」を買い込んだ
のかもしれない。しかし、それは何年間も店の倉庫に眠らせておくためではなく、いずれ売り切ることを見込んでのことであったと
思われる。そうでなければ、ビジネスとして理由がつかない。実際、地元リバプールのファンの多くは、ビートルズが全国区のスタ
ーになって、ロンドンに行ってしまい、地元でライブをやらなくなることを恐れた。その結果、あまりレコードは売れて欲しくなか
ったというのが本音であったらしい。あくまでも、ビートルズは自分たちのローカルヒーローであって欲しかったのである。しかし
それはイギリス中のロックファンが許さなかった。音楽業界紙で最も信頼されるレコード・リテイラー&ミュージック・インダスト
リー・ニュースの1962年12月27日付けチャートで、「Love Me Do」は27位から12位にランクアップしていた。ちなみに、この時
の第1位は、エルビス・プレスリーの「Return to Sender」。第2位は、クリフ・リチャードの「The Next Time」であった。確かに
時のスーパースターには及ばないにしても、ビートルズは着々とスターダムを上り詰めている。リバプールのファンが心配するように
キャヴァーン・クラブでのビートルズが見られなくなるのは、そう遠い日ではなかったのである。
〜 The Beatles / Drive My Car
〜 The Beatles / All You Need is Love
(小林)ブライアン・エプスタインがビートルズのレコードを買い占めたんじゃないかという疑惑はずっとつきまとっていて、な
ぜかというと、イギリスはこの連続なんですよ。イギリスはせまい国だから、チャートを作る時にすべてのレコード店の売り上
げを調べたりするわけじゃないんですよね。主なレコード店(だけ)の売り上げを調べて、それで(チャートを)出したりして。
1980年代半ばまで、どのレコード店の売り上げを合計しているというのを秘かに調べて、レコード会社やプロダクションなんか
は、そこからレコードを買い占める。そうすると、チャートがバーン!と上がるわけですよ。そういうことが、良く行われてい
た、らしいんですよ、イギリスは。
□リクエスト
・マイケルとポールの「Say Say Say」をリクエストします。(住所不詳/男性)
〜 Paul McCartney & Micheal Jackson / Say Say Say
・(なぜかリクエスト者を紹介せず)
〜 The Beatles / Yellow Submarine
・8月9日の夜の7時、公共放送局のニュースで、ビートルズのことを放送していました。アビー・ロードのジャケット撮影が行われて
40年を記念して、アビー・ロード・スタジオ前の横断歩道に集まって祝うことでした。そこで流れたのは、ほとんどがポール・マッ
カートニーの曲でしたね。リクエストは、「Here Today」をお願いします。ジョン・レノンのための曲なのは有名なことですが、
シングル・カットを今から行って欲しいですね。克也さんは、アビー・ロード前の横断歩道に行ったことはありますか?(さいたま市/男性)
〜 Paul McCartney / Here Today
(小林)行ったことないです。ただ、イベントで、あのアビー・ロード前のそっくりのものを作って、そこで写真を撮るやつが
あって、ぼく写真を撮ったんですけど、あまりにも似つかないんでショックを受けて、その写真どっかにしまったままになって
ますね。この曲は、ポールがスター・バックスと契約した時に、インストア・ライブでこの曲を演奏して、涙したそうです。
お客の中には、リンゴ・スターもいたそうです。
・昨日、コータローさんの番組の中で、日本人ロックアーチストの曲の中からということで、イントロだけで数曲流れて、その中に
モンキーズの「Day Dream Believer」by 清志郎さんが流れていました。ん、これは?と思い、せっかくですから、この番組の中で
清志郎さんのビートルズ・ナンバーがあれば流してください。(四街道市/男性)
〜 忌野清志郎&仲井戸麗市 / Don't Let Me Down
(小林)ビートルズには、入れ込み度が浅い方、深い方、色々いるんです。それぞれ皆、楽しいんですよ。色々、教えられたりすることも多い
ので。小林克也でした!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年9月6日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(9月6日)
・1968年 (41年前)
きょうはね、ちょっと面白い日なんです。ジョージ・ハリスンが、この日はインドから帰って来たばかりで、ホワイト・アルバム
を作ることになるわけですが、ジョージは精神的にも色々成長するんですが、楽器がどうも下手だということで、特にポールから
イビられていたんですよね。機嫌が悪いと、メチャクチャ言われたりして。で、作戦を考えます。それは、ゲストを呼ぶとスタジ
オの雰囲気が変わる。ポールもジョンも、人がいると体裁を考えて機嫌が良くなる。それだったら、当時最大のギタリスト、エ
リック・クラプトンを呼んでこようということで、車で送ってって欲しいと言い訳でスタジオに連れて行きます。当初は渋ってい
たエリックですが、ビートルズのアルバムに参加するという栄誉を断るわけにもいかず、ギターを弾くわけです。でも、エリック
・クラプトンが参加したというクレジットは無しです。ノー・ギャラだったということです。でも、出来がスゴかったので、ホン
トにこれジョージ・ハリスンがやったのか?ということを色々言われるようになって、ジョージ・ハリスンが白状するんですよね。
エリック・クラプトンが参加したんだと。だけど、ノー・クレジットは、ジョンとポールが決めた全ての音楽は、ジョン・レノン
&ポール・マッカートニーで行こうという鉄則を守ったとも言われています。だからポールは、ウイングスの時代になっても、ギ
タリストのデニー・レインのクレジットは絶対に入れなかったという、ケチなのか激しいのか、そういうエピソードも残っていま
す。しかしまあ、エリック・クラプトンは渋々なのか、名誉なことだということでやったのかもしれないけど、結構緊張したんだ
と思いますよ。
〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
(小林)相当盛り上がってる様子が想像できますね。ジョージ・ハリスンがイビられていたと、ぼくが言いましたけど、半分ホン
トで、半分創作なのかも分からない。というのも元々「While〜」というこの曲はジョージ・ハリスンが作った曲で、彼の頭の
中では、今聞いたようなのが鳴ってて、臨時にエリック・クラプトンを車で送ってくれたという言い訳を使ったのかもしれない。
最初からクラプトンを入れて、自分の構想では、例えばポールが弾いてもジョンが弾いても出来ないような世界を想像していた
から、ジョージ・ハリスンがやったのか。ジョージ・ハリスンのファンだったらそう思いたいと思うんですけど、どれが本当な
んですかね。今となっては分からないですよね。だけど、それぞれの話に本当の話があるということです。
136 :
ホワイトアルバムさん:2009/09/06(日) 18:24:12 ID:VpnoJ6AG0
137 :
ホワイトアルバムさん:2009/09/06(日) 18:27:47 ID:46RZLQ5a0
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・イギリスの音楽業界紙で最も信頼される「レコード・リテイラー&ミュージック・インダストリー・ニュース」の1962年12月27
日付けのチャートで、ビートルズのデビュー・シングル「Love Me Do」は、22位から12位にランクアップしている。いつの間にか
ビートルズは、着々とスターダムをのぼり始めていたのである。そして、次に控えていたのが、プロデューサー、ジョージ・マー
ティンによって一旦はダメだしされていたジョンのオリジナル「Please Please Me」。ビートルズはどうしても、自分たちのオリジ
ナル楽曲でいきたいとマーティンに強く申し出ていた。これだけは絶対に譲れなかった。ジョンが演奏した最初のバージョンは、ミ
ディアムスローのバラードタイプ。これを聞いたマーティンは、まだ駆け出しの新人であるビートルズがバラードを出すのは早過ぎ
ると判断し、「よし、次の機会にもう一度トライしてみよう」と約束。この言葉にウソはなかった。「Please〜」は二ヶ月後にマー
ティンの提案通りかなりテンポをあげ、ボーカルハーモニーとハーモニカをプラスしてリメイクされたのである。このレコーディン
グの最後に、プロデューサーのジョージ・マーティンは興奮気味にこう語っている。「いいか、みんな。君たちはたった今、ビート
ルズの最初のNo.1となるレコードを録音し終わったんだ。」有名な言葉である。もちろんこれは、過大評価でも自画自賛でもなく、
本当のこととなった。「Please〜」は発売からわずか数週間でイギリスチャートのトップに立ち、ビートルズに最初の大ヒットをも
たらしたのである。さあ、これはハプニングである。あのリバプールのローカル・バンドであり、地元のキャヴァーン・クラブの昼
の部の演奏からスタートし、ハンブルグでは一日12時間もの演奏と「いけないもの」だらけの年月を送り、きちんとした言葉遣いも
食事の作法も知らない若者四人組がイギリスのチャートでトップに躍り出たのだ。こうして、マネージャーのブライアン・エプスタ
インは、早急に事務所の体勢を整える必要にかられたのである。
〜 The Beatles / Please Please Me
〜 The Beatles / From Me To You
・1963年1月に発売された、ビートルズのセカンド・シングル「Please〜」は、ニュー・ミュージカル・エキスプレス、メロディ・
メーカーという、有名な音楽雑誌のチャートで二週間連続一位の大ヒットとなった。イギリスでは30万枚以上売り上げ、シルバー・
ディスクを獲得した。これはもう、立派な記録と言わざるを得ない。多くの評論家や音楽業界関係者、そしてロック・ファンは、ビ
ートルズなんて、Love Me Do一枚で消え去ってしまうものと考えていたからである。マネージャーのブライアン・エプスタインも
覚悟を決めた。よし、レコード店の経営は家族や社員に任せれば何とかなる。俺はビートルズに、この人生を懸けてみよう。そうと
なれば、次はスタッフ固めである。広報PR担当は同郷のリバプール出身である、あのトニー・バーロウをデッカ・レコードから引き
抜こうと考えていた。ブライアンは、トニーを正式に説得しようとランチに誘った。場所はロンドンのウエストエンドにある、シー
フード・レストラン。もちろん最高級の店で、ロンドンでも上流階級の人だけが出入りする店である。ここでブライアンとトニー・
バーロウはドーバー海峡で取れた舌平目をシャブリーの白ワインで流し込むという贅沢なランチを取りながら話を進めた。まずトニー
の肩書きは広報宣伝部の主任、そしてNEMSエンタープライズ初のロンドン支社のマネージャー、つまり責任者にするとブライアン
は語った。もちろん、肩書きより大切なのは給料である。ブライアンは、トニーにこう言った。「トニー、君がデッカ・レコードか
らいくらもらっているかは知らない。もちろん、言わなくて良い。ただ、どれだけもらっていようと、ぼくはその倍以上の収入を保
証しよう。」これには、トニー・バーロウも心を打たれた。もはや、断る理由はない。お金の面ももちろんであるが、それにも増し
てトニーは、ビートルズとブライアンの魅力に惹かれ始めていた。こうしてブライアンはコニャックで、トニーはコーヒーで乾杯し
がっちりと握手を交わしたのである。
〜 The Beatles / Oh! Darling
〜 The Beatles / Day Tripper
(小林)1968年〜9年になると、ポールの作る曲の中にはとてもシンプルなロッカ・バラードみたいな曲が出るんですけど、これ
はポールが口を酸っぱくして「ビートルズはコンサートを辞めたけど、俺たちはまたライブをやらなきゃダメだ。絶対、ライブ
をやろう。」と言う風に三人に口が酸っぱくなるほど言うんですね。ただ、ジョンやジョージも心の中ではやりたいみたいな気
持ちがあるけど、もう(関係が)しっくり行ってないから、ちょっと…とやる気にならないんですね。だからそれを誘うように
こういう曲や「Get Back」みたいな(あの頃に戻ろうという)曲を書いています。
・ビートルズのセカンド・シングル「Please|」が大ヒットしている中、ビートルズを不合格にした、あのデッカ・レコードから引き
抜かれた広報のスタッフ、トニー・バーロウは正式にビートルズの所属するNEMSエンタープライズに入社した。報酬は、デッカ・
レコードの二倍。文句はなかった。これで、新婚生活を送るアパートにも、まともな家具が揃えられる。現実的に言えば、そういう
部分から変化があった。しかし、まわりの反対も激しかった。特に、保守的なリバプールの両親が納得しない。「お前、自分が何を
やっているのか、分かっているのか? ビートルズの事務所だなんて、そんなんで女房を食わしていけるのか。デッカ・レコードの方
がずっと安定した評価が高い会社じゃないか。それを、ビートルズだなんて、全く理解が出来ない。しかも、お前のボスのエプスタ
インは、ただのレコード屋じゃないか。それが、リバプールでしか知られていない若者連中を集めて商売をするだなんて。うまく行
くわけがない。」これが、トニーの父親の言い分である。いくら、レコードが一位になったからといっても、時代が変わればそんな
ものは無名に等しい。これじゃ、どうすることも出来ない。それに、この頃はまだ人種差別や偏見も半端ではなかった。オマケに超
保守的な田舎の街、リバプールの話である。そんな状況の中、トニーはブライアンがホモ・セクシュアルであり、ユダヤ人であるこ
とを父親には伝えていなかった。もし、そんなことが分かったら、父親は体を張ってでも反対するに決まっていたからである。しか
し、トニーの決意は変わらなかった。ビートルズに、音楽業界人としての自分の人生を懸けてみようと、心に決めたのである。こう
して、トニーとビートルズの付き合いは、六年間続いた。面白いことに、逆にトニーがNEMSを辞める時に、トニーの父親が言った
言葉がある。「息子よ、お前は自分が何をやっているか、分かっているのか。あんな素晴らしいビートルズの会社を辞めるなんて、
思いとどまるのなら今の内だぞ。」
〜 The Beatles / It Won't Be Long
これで、トニー・バーロウ編は終わり?
□リクエスト
・洋楽に目覚めたのは小学六年の冬でした。ラジオの深夜放送を聞いていた時に不意に流れてきたのは、エリック・クラプトンの
「Hello〜」。もう、全身に衝撃が走ったものです。でも、どのアルバムに入っているかが分からず、ようやく「No Reason to Cry」
を探し当て、比較的に短い曲ですが、鳥肌を立てながら聞いたものです。このアルバムにより、バンドやボブ・ディランとも出会い
ました。もちろん、レイラにも感動しましたが、小学生の私には二枚組のLPは高くて買えなかったものです。あれから早30年以上が
たちましたが、あまりラジオでかかることがないのでよろしくお願いします。(さいたま市北区/男性)
〜 Eric Crapton / Hello Old Friend
・ビートルズと言えば、抱きしめたいを完コピしたトッド・ラングレンの、この曲をお願いします。いまだ、FENで真夜中たまにかかる
とぞくっとします。関係ないけど、いにしえの全米トップ40復活させてください。(さいたま市/男性)
〜 Todd Rundgren / Hello It's Me
(小林)若い方はご存じないかもしれませんが、結構ビートルズの影響を受けたというか、ビートルズのことを研究し尽くした天才
的なプロデューサー、ミュージシャンと言われている人です。それから、全米トップ40ね、まだあそこではやってるみたいです
よ。ただ、あなたが昔聞いたトップ40とは違って、もうブラック・アイド・ピーズとかレディ・ガガとか、全米トップ40ですか
ね、そういうのしか流れないです。FEN(Far East Network)というのは、「東の端」というのは差別に当たるということで、FEN
という名称はとっくにやめて、AFNということになっています。
・最近出たシンガー・ソングライターの村田和人さんのニュー・アルバム「ずーっと夏に」に「ビートルズを聴いてはいけません」と
いうタイトルの曲がありました。一体、どんな曲なのかなと思いながら聞いたら、これが歌詞曲共にすごくいいんです。1966年の
来日のあの夏をテーマにしたビートルズ・フリークなら、ちょっとうるっときちゃう内容です。あの夏の時代感を見事に切り取った
作詞は田口俊さんのもの。村田和人さんのメロディと相まって、素晴らしい世界になっています。(江戸川区/男性)
〜 村田和人 / ビートルズを聴いてはいけません
・高校生の息子がハマり、すっかりビートルズ・ファンになりました。先日は、友達とカラオケでビートルズ・ナンバーを歌ったと聞
いてびっくり。息子は英語が中学の頃から苦手教科なので、私としてはビートルズから英語好きになってくれることを期待していま
す。私は、「60歳のラブレター」で涙した、ミッシェルをお願いします。(成田市/女性)
〜 The Beatles / Michelle
(小林)これはね、絶対ビートルズ好きなったら英語得意になるって。ぼく、友だち結構知ってますよ。ウマくなった人。
(小林)ビートルズのお話の方は、とうとうNo.1になっちゃいました。だけど面白いのは、トニー・バーロウがビートルズの会社に呼ばれて
ちょっと大きなレコード会社からビートルズの個人企業に入る時のお父さんの反対。あれは、あの頃の時代を映していて、とても面白かった
と思いますよ。やっぱり60年代、イギリスなんかは古い国ですからね、いまだに階級みたいなものを言ってるんですからね。そういう社会の
空気みたいなものの中に流れるビートルズを想像しながら楽しむのも良いですよ。お相手は、小林克也でした!
146 :
ホワイトアルバムさん:2009/09/07(月) 02:27:06 ID:RFay19pz0
この番組のネタ本は何ですか?
147 :
ホワイトアルバムさん:2009/09/07(月) 06:37:50 ID:FhrEBrwp0
トニー・バーロウの本、その他色々
リマスター盤聞き比べやるかな?
前はなんかの聞き比べやったよな。ネイキッドの時だったかな
この番組は、あまりレコード発売のことを話題にしないよ
せいぜい、曲をかけるぐらい
でもその時はやったよ。
昨日のラジオサプライズでコメントしてたね
小林克也って、エルヴィス世代でストーンズ派って印象があった。
だけど、かなりのビートルズ・ファンらしくて意外だった。
ストーンズは、あまり好きじゃないみたいね。
このあとのJの克也さんの番組、特集なんだろ。
1時からだから、マサと被るんで困るよ。
ポール・キロックトニーさんは、今回のリマスター盤、どれ買った?
>>155 ステレオ・ボックスです。モノは金欠につき、あきらめました。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年9月13日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(9月13日)
・1968年 (41年前)
ビートルズが、世界的に売れていた写真雑誌「ライフ」の表紙になります。1968年ですから、これはライフという写真雑誌が
ビートルズを利用したと考えても良いと思います。今でもそうですが、ニューズウィークとかタイムとか時事系の週刊誌の表紙
になるといったら、世界でとても騒がれているという印なんですよね。あとちょっと前はローリングストーンというロック雑誌
の表紙になることが勲章みたいな時代がありましたが、ライフというのはつい最近廃刊された世界的に売れた、大きな影響をも
った世界的な雑誌だったんですが、それにとうとう表紙にビートルズが出たということで。1968年というというのは、ビート
ルズの体制が変わっていた、私生活ではジョンとシンシアが別れて、結婚するはずだったジェーンとポールが別れたり、アップ
ルをスタートさせて、ビートルズは実業の世界で活躍している。だけど、このところお話ししているトニー・バーロウは、1968
年にアップルをやめるんですよ。一方、EMIの第2スタジオでは、先週はエリック・クラプトンがきて「While〜」を録音したと
う話ですが一週間後、ジョージ・マーティンは休暇を取っています。そして、クリス・トーマスという、その頃はビートルズに
若造と馬鹿にされながらプロデューサーを務めて、ジョン・レノンの曲を録音していますね。リンゴ・スターがね、この頃ビー
トルズとケンカして「俺、やめる」と言ってスタジオに来ない時期があったんですけど、リンゴが帰って来て、ドラムとピアノ
がオーバーダブで追加されたとあります。それでは、リンゴ・スターがやめるとありましたが、最初はジョージがいびられてん
ですが、リンゴがやめるとなって、その次ジョージがやめるって、そんなこともあったということですね。41年前のきょう、
録音された曲は、ジョン・レノンの得意なシュールな世界の曲です。
〜 The Beatles / Glass Onion
(小林)ぼくの想像ですけど、アイデアに窮したジョン・レノンが、ストロベリー〜を始め、過去の作品をコラージュっぽく
寄せ集めて、どうだ?っていう。これはあんまり長くなったら駄作になっちゃうけど、短くまとまってるところがいい
かなと。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・「ボーイズ! たった今、君たちの初のNo.1レコードが出来たぞ。上がって聞いてみろよ。」そう言いながら、ビートルズのプロ
デューサー、ジョージ・マーティンは「Please Please Me」の17回目のテイクを録り終えた、ジョン、ポール、ジョージ、そして
リンゴを、自分のいるコントロール・ルームへ呼んだ。1962年11月26日、場所は北ロンドンのセント・ジョーンズウッド・アビー
・ロードにあるEMIスタジオの今や伝説となっているあの第2スタジオである。後にビートルズの広報担当として四人と世界中を廻る
こととなるトニー・バーロウはマネージャーのブライアン・エプスタインからの仕事のオファーに同意したばかりであった。その内
容は、NEMSエンタープライズの正社員として、正式にビートルズの広報責任者に就任するというもの。最初の使命はまず、プレス
&パブリシティ・ディヴィジョン・オブ・NEMSエンタープライズを立ち上げること。仰々しい部署の名前であるが、「宣伝課」で
ある。そして、このオフィスで可能な限り、ビートルズについて知ることであった。与えられたタイムリミットは業務を開始すると
ブライアンに約束した1963年5月1日。もう、5ヶ月しかない。トニーが自分自身に課した、ビートルズについての学習の一環とし
て、パーラフォンからの第2弾シングルを作るという、飽きるほどの反復的な仕事の現場を見学した。現代の進歩したレコーディン
グの技術を使えば、この時代つまりビートルズの頃の4分の1の時間で終えられる仕事も、1960年代初頭には、ほんの些細なミスを
犯しても曲の頭に戻って全員で録り直すという方法しかなかった。そんな地味な作業にも見えるレコーディング現場を見ながら、ト
ニーは直感的に思った。「ジョージ・マーティンの発言は、単なる思い込みでも自画自賛でもない。この曲「Please〜」は売れるぞ。
間違いない。それにしても地味で我慢のいる作業だな。レコーディングの現場ってヤツは。」
〜 The Beatles / Please Please Me
〜 The Beatles / Octopus Garden
・ビートルズのセカンド・シングルとなる「Please〜」のレコーディングを見学して以来、広報担当のトニー・バーロウは6年間に渡
って、メンバーの誰かに用事があるときをのぞいては、出来るだけレコーディング・セッションに同席しないようにした。トニーに
とっては、翌日まで待って完成したレコードをオフィスで聴く方がより報われる体験だったからである。そして、この後ビートルズ
はレコーディング現場、つまりスタジオに客が来ることを拒否するようになる。自分たちのプライベートで個人的なスタジオという
聖域をガードしていたのだ。トニーは、そのやり方を尊重し、自分も距離を置くことを心がけた。マネージャーのブライアンも同じ
である。ビートルズにとってスタジオ空間とは、役者にとって幕が上がるまで30分の楽屋と同様、特別に神聖なものであった。レコ
ーディング作業が次第に複雑になり、緊張感が増すにつれ、メンバーのファースト・レディたち、つまり妻や愛しの女性たちも、訪
問時間を短くするか、もしくは全く来ないよう求められた。そんなわけで、シンシア・レノン、ジェーン・アッシャー、パティ・ボ
イド、モーリーン・コックスは、当時流行のロンドン・ウェストエンド界隈のディスコ「スピーク・イージー」や、「スコッチ・オ
ブ・セント・ジェームス」といった店で、男たちが仕事を終えてアビー・ロードから合流するのを待つようになった。それも、夜中
の3時4時といった時間までである。それでも、スタジオ巡礼をやめない男がいた。ビートルズの楽曲管理を任されていた音楽出版社
のディック・ジェイムスである。ジェイムスは、とにかく口数の多い男で、ことあるごとにミックス卓のマイクを通して、メンバー
たちに話しかけた。「今のは良かったよ、これはヒット間違い無し!」といった具合である。これには、メンバーも参ってしまった。
そして、ある日ジョンが遂に口を開いた。「ジェイムスさん、もう良いからあっちに行っててくれ。俺たちはレコーディングをして
曲を完成させる。だから、向こうで金勘定でもしていたらどうだ。それがあんたの仕事だろ。」
〜 The Beatles / Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey
〜 The Beatles / I've Got a Feeling
・「Love Me Do」「Please Please Me」と二曲立て続けにオリジナル楽曲で勝負をかけたビートルズ。これは、当時としては画期的
前代未聞であった。常識的に言ったら、プロの作曲家が書いた曲をシンガーが歌うというが当たり前の時代である。さらにビートル
ズは、リード・シンガーも固定していない。フロントの三人、ジョン、ポール、ジョージが入れ替わり立ち替わり、マイクの前に立
つ。もちろん、演奏もすべて自分たちだけで行う。その全てが新機軸であった。メンバーの中でも特にジョンとポールは、競争を糧
に成長していった。二枚目のシングルA面の座をプロの作曲家ミッチ・マーレーが書いた曲に明け渡さなければならないかもしれな
いという時、その対抗馬としてジョンが書いた「Please〜」のレコーディングに、自分たちの持てる全てを注ぎ込もうと真剣に取り
組んだ。プロデューサーのジョージ・マーティンがビートルズの曲とミッチ・マーレーの曲「How Do You Do it」のどちらかに決め
かねているのを彼らは知っていた。二ヶ月ほど前、ビートルズは「Love Me Do」のセッションの際に「Please〜」「How〜」の両方
の曲の最初のバージョンをレコーディングしている。その時のマーティンは、「Please〜」のスローなテンポに不満げな様子で、こ
うアドバイスした。「曲は良いと思う。ただもっと大音量でテンポの速いロック・ナンバーとして成立させるべきだね。ボーカルだ
って、もっと前に出すべきだ。」ビートルズはこの曲を持ち帰り、何度も何度もリハーサルを重ねた。そして二ヶ月が過ぎ、再びロ
ンドンのアビー・ロード・スタジオに戻ってきた。テンポはアップし、アレンジも大きく変わった。ジョンがロイ・オービソンに影
響を受けて書き上げた曲は、誰も聞いたことがない、新しい世代のためのロックとして生まれ変わった。こうして、ロックのトップ
を目指し、レコーディングは進むのである。では、記念すべきこの曲、ハーモニカを録音する前の状態で聞いていただこう。
〜 The Beatles / Please Please Me (Anthology 1)
〜 The Beatles / This Boy
(小林)いかかですか? ハモニカ抜きで聞いたら、曲がバラバラに聞こえたでしょ? 耳がハモニカ入りのものに慣れてるからね。
面白いでしょ、ハモニカを一つ入れるだけで曲があんなに生きるってことを、スタジオでビートルズは学ぶわけですけど
大学でも高校でも教えてくれないよね、こういうことは。それと面白いのは「Please〜」の大成功で、イギリスではハモ
ニカがメチャクチャ売れる現象が、ビートルズと共にハモニカが売れるんですよ。ところがビートルズは売れてから、
1966年になるとハモニカの曲がなくなるんですよ。で、ハモニカの協会から、「またお願いしますよ、ハモニカの曲を
使ってください」という手紙が来たりしてるんですよ。
□リクエスト
・最初にビートルズを聞いたのは、35年前の中学一年の頃でした。当時AM放送局で鈴木ヒロミツさんのビートルズなんとかという
ラジオ番組で聞いた記憶があるんですが。(山武郡/男性)
〜 Grand Funk / The Loco-Motion
・ビートルズ全録音がリマスタリングされた再発売されるのは嬉しいことです。個人的には中期のラバー・ソウル〜サージャントが
好きです。(市原市/男性)
〜 The Beatles / Let it Be
(小林)頑固なビートルズ・ファンは「いや、それは違うんだ昔のでいいんだ」と我慢してますけど、元々ビートルズ・ファンは
新しもの好きのところがあるんですよ。だからウズウズして、売り上げが1兆円を突破するんじゃないかとか。大騒ぎで
すよね。
・今はCDを買っても、あまり聞かなくなりました。(大田区/男性)
〜 The Tornados / Telstar
・1977年の武道館、キッスの初来日公演映像を見て思ったんですが、ビートルズの初来日客席は、着席が強制だったという話を放送
で聞きました。キッスの初公演の会場でも最前列が画面に映りましたが、ファンが座ったままで手を叩いて楽しんでる様子が印象的
でした。いつ頃からみんな立つようになったのでしょうか?(浦和市/男性)
〜 Kiss / Cold Gin
(小林)これはね、その頃からなんですよ。78年ぐらいから、別に強制されたわけじゃなくて、座って楽しむのが習慣だったみたい
で。で、アンコールの時に立ち上がるみたいな。はっきりしたことは分かりません。
(小林)じゃ、また来週。お相手は、小林克也でした!
でもたしか、昔は立つと怒られた記憶があるぞ。
164 :
155:2009/09/13(日) 20:01:04 ID:???0
いつも乙です。
俺は、単品でイエローサブマリン以外全部買いました。
でも全部揃ってないと気分が悪くなってきたので買います。
モノボックスも欲しくなってきました。
きょうリクエストで090909盤の話題あったけど、
来週か再来週で聞き比べやらないかな。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年9月20日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(9月20日)
・1969年 (40年前)
ジョン・レノンが他の三人に「俺は、このバンドやめるから」と言います。しかし、実はレコードの契約があります。契約がある
から、これはマスコミには言うこと出来ないわけですね。だから、もうバラバラなんだけど、ビートルズは継続しているふりをす
るという、微妙な状態ですよ。でも70年になって、ポール・マッカートニーが最初にやめちゃうんですよ。ジョン・レノンは、
自分が最初にやめるつもりだったのに、これは滅茶苦茶怒るわけです。他のメンバーももちろん怒って、ジョンとジョージとリン
ゴの三人が訴えて、ポールも訴え返して、裁判は泥沼。一年くらい、その醜い状態が続くんですよ。大変なことになるきっかけで
す。ジョン・レノンの最初のソロ・アルバムの中から「ゴッド」という曲があるんですが、これを一曲目に聞こうと思います。
結局ジョンは、何も信じてないというんですけど、この中で一行ですけど「ビートルズも信じてない」という、これはどういうこ
とかというと、ビートルズを過去の通り過ぎたものとして、結構客観的に冷たく見てるというので、ファンは「ほぉー、そうか」
という状態だったんだけど、だけど、ビートルズも信じないというところがジョン・レノンらしいんですよ。複雑ですよね。
色んなものを信じないと言ってるんだけど、逆説的に言うと、ビートルズはスゴかったと認めてることになるわけ。だから、複雑
なんです。
□トニー・バーロウから見たビートルズ史?
・1963年1月11日 ── ビートルズの2枚目のシングル「Please Please Me」は発売となった。本来、プロデューサーのジョージ・
マーティンは、レコーディング候補曲として、ビートルズのオリジナルではなく、プロの作曲家ミッチ・マレーが書いた「How Do
You Do it」という曲をあげていた。しかし、これに作曲者であるジョンを始めとする、ビートルズの面々が食い下がった。スタジ
オでジョンがすごみのある目つきで言った。「マーティンさん、この"How〜"って曲、プロの作曲家の先生が書いただけあって、
よく出来ている。だけど、こんなんじゃ、俺たちビートルズの魅力は表現できないと思う。"Please〜"が今の状態じゃ発売できない
のは良くわかった。ただ、もう一回だけトライさせてはもらえないだろうか。」ジョンの執拗な食い下がりに、ジョージ・マー
ティンも折れるしかなかった。「よし、分かった。きょうのお開きにして、次回もう一度だけトライしてみよう。ただ、忘れないで
くれ。"Please〜"は、今のテンポとアレンジではダメだ。もっとアップテンポにして、ハモニカと派手なコーラスを入れる。これを
念頭に入れて、リハーサルを積んでくれ。いいな。」すると、ポ−ルはすかさず反応した。「分かりました、プロデューサー殿。き
っと良くしてみせますから。」こうして、ロンドンのアビー・ロード・スタジオを後にしたビートルズは、二ヶ月後に戻ってきた。
そして、見事にオリジナル・シングルを仕上げ、デビューから二曲連続で、シングルの両面をオリジナル曲で飾ることになったので
ある。さあ、ここからが勝負だ。シングルが発売されると、前回の「Love Me Do」とは比べられないほど、ラジオ局での放送回数
も多くなった。そして、ビートルズの出版部門を任されていたディック・ジェームスは、この当時最も影響力のあったテレビ番組
「Thank Your Lucky Star」への出演を取り付けた。この時のビートルズのパフォーマンスは、イギリス全土で大評判となる。この
ジェームスの手柄が、ビートルズの運命を最高の方向に導くのである。
〜 The Beatles / Please Please Me
〜 The Beatles / Nowhere Man
(小林)一曲目はステレオ、二曲目はモノラルでお送りしました。ご存知の通り、9月9日にリマスターが発売されて、ほとんどの
方はステレオで買うわけですが、モノというのは独特の強みがあって、車の中で聞いてる方なんかは、ボリュームとかにもよる
んですけど、力強く響いたはずです。bayfmのマスター室の方も気がついたでしょうか?
・ビートルズのセカンド・シングル「Please〜」が、1963年1月11日発売にされると、バンドの周辺は急激に忙しく動き始めた。ラ
ジオやテレビのプロモーション、雑誌からのアプローチ。効率的なツアーのスケジュールなど、どれをとってもベストを尽くす必要
がある。もう、「Love Me Do」の時のような甘い考えは許されない。当時No.1の人気を誇ったテレビ番組「Thank〜」への出演を
成功させると、今度は大人気女性シンガー、ヘレン・シャピロとの全国ツアーが待っていた。ここでもビートルズは、レコードの
宣伝をかね、毎日2回ずつ「Please〜」を演奏した。当時のツアーは行く先々の地で何千枚ものシングルやアルバムを売り上げる
最高のマーケティング手段であった。ビートルズのとった手法は、現在のロック・シーンでも根強く受け継がれている。1960年代
のイギリスの音楽雑誌は、それぞれ独自のヒット・チャートを発表していた。「Please〜」は2月の4週目にはニュー・ミュージカル
・エキスプレス(NME)のチャートで、堂々のトップを記録。しかし、音楽業界内ではより信頼度の高かかったレコード・リテイラーむ、
を含その他のチャートでは2位どまり。しかし、ビートルズの所属事務所NEMSの広報担当トニー・バーロウは、NMEのチャートを
根拠に「ビートルズ、イギリスで遂にNo.1に!」と大々的にプレス発表を行った。これはハッタリでも何でもなく、トニーの作戦
勝ち。朗報を聞いたマネージャーのブライアン・エプスタインは、「ついにやった!」と我を忘れて、狂喜乱舞した。そして、「も
はやボーイズの勢いを止めるものは、何もないぞ!」と叫び続けた。この頃までにブライアンは、ビートルズのことを「ぼくの可愛
い男の子たち」という愛情を込めて「ボーイズ」と呼ぶようになっていた。この観察力は偉大なるもので、ボーイズという愛称が事
務所関係者やレコード会社のスタッフの間に蔓延するまで、時間はかからなかった。そして彼らはやがて、世界中のファンの「ボー
イズ」となっていくのである。
〜 The Beatles / Boys
(小林)NMEは今でも発売されてるんですが、昔あったレコード・ミラー、メロディ・メーカー、それからレコード・リテイラー
この3つはもう残っていないんです。
・1963年2月17日 ── ビートルズが当時の大人気女性シンガー、ヘレン・シャピロと一緒に冷えきったツアー・バスに揺られている
頃、彼らのセカンド・シングル「Please〜」が音楽雑誌メロディ・メーカーのチャートの2位に浮上した。そのため、彼らの音楽出
版を担当するディック・ジェームスからの要請で、宣伝のために人気テレビ番組「Thank〜」に出演することになった。当然、ツアー
の進路は変更である。ビートルズ一行は、南に向かった。番組出演を果たした翌週の、やっと雪も溶け始めた2月22日、ついに朗報
が舞い込んだ。前の週は2位で停まっていたメロディ・メーカーのチャートで、「Please〜」がついに1位になった。マネージャー
のブライアン・エプスタインは、リバプールの事務所NEMSエンタープライズのデスクにこの雑誌を広げ、女性スタッフのオリーブ・
ジョンソン、フリーダ・ケリーを始めとする社員全員がまわりに集まり、その記事をのぞき込んだ。ウソでも夢でもない正真正銘の
1位である。ロンドンに比べ、はるかに田舎者であるリバプールの人間にとって、見たことのないものの一つ。それは、大量のファ
ン・レターである。ビートルズのオフィスには、ファン・レターが続々と舞い込んだ。トイレット・ペーパーの一巻きを使って書か
れたもの、1メートルを超えるハートの切り抜きに書かれたもの、壁紙の芯棒に書かれたものなど、色々である。お祝いのプレゼン
トも後を絶たなかった。等身大のぬいぐるみ、一流ベーカリーのケーキ、ブレスレットやブローチに、高級なエタニティ・リング。
物騒なものの代表としては、特別な換気装置の付いた箱に入った、生きた毒蜘蛛。これは、スタッフの誰もが開けなかったことで、
何とか最悪の被害は避けられた。このタランチュラは、ブライアン・エプスタインの判断で熱帯医学研究所に送られることになった。
こうして、リバプールのNEMSエンタープライズは、それまでは聞くことの出来なかった、嬉しい悲鳴に見舞われたのである。
〜 The Beatles / Slow Down
□リクエスト
・この人の声のイメージって、秋冬ですよね。ダンナさんは初夏だけど。(江戸川区/女性)
〜 竹内まりや / セプテンバー
・私のリクエストが採用されたのに、いつ放送されたか分かりません。(つくばみらい市/男性)
〜 Paul McCartney / No More Lonely Nights
(小林)ラジオのリクエストは、個人のためにかけているように思えるかもしれませんが、本当は違うんです。リクエスト採用さ
れて、放送された時点で、個人のものではなく、みんなが分かち合うみんなのものになっちゃうんですよ。だから、本人が聞こ
うが、聞くまいが、楽しく放送できてるわけですね。
・彼らのコンサートに行ってから、彼らのソロの曲を聴くようになりました。(千葉市美浜区/女性)
〜 Art Garfunkel / Bright Eyes
・今月、最大の弟分けいじ君からこの番組を教えてもらい、初めて聞きました。この番組を教えてくれたけいじ君へのお礼を込めて
私の人生そのものの曲をリクエストします。8月23日は、けいじ君の誕生日でした。けいじ君、53歳おめでとう。(所沢市/男性)
〜 The Beatles / In My Life
(小林)これは、モノです。モノ!
(小林)イギリスでビートルズの曲が1位になるわけですが、イギリスは昔から統一したチャートがない国としておなじみなんです。せまい
国だから、レコード会社が買い占めたりして、チャートを操作したりする事件が歴史上いっぱいあって、最近ですよチャートが統一された
のは。リクエストする時には、これはモノでお願いしますとか言う人がいたりして、車の中だとどこで聞いても同じに聞こえると思います
が、小林克也でした!
キロックトニーさんは、きょうはお出かけ中かな?
リクエストでビートルズの曲は、
モノとかリマスターとか指定してねって克也さんが言ってた。
毎週このスレ読むの楽しみなんだよね ここはビー板の良心みたいなスレで好きだ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年9月27日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(9月27日)
・1963年 (46年前)
これは、知らない人もいるかも分かりませんが、シーラ・ブラックという女性シンガーの最初のレコードが出た日です。シーラ
・ブラックという人は、ビートルズがレギュラー出演していたキャヴァーン・クラブでクローク係で、ときどき知ってるバンド
なんかで歌っていて、ビートルズの成長と共にマネージャーのブライアン・エプスタインの事務所のNEMSが大きくなっていき
ますよね。その一つが色んなアーチストを扱いますよね。で、ブライアン・エプスタインは、このシーラ・ブラックをスターに
しようとして、それもロックじゃなくて、ポップスのスターにしようということで、ジョン・レノンとポール・マッカートニー
も曲を頼むんですよね。デビュー曲は、イギリス最高位35位、こりゃダメですね。でも、シーラ・ブラックは、NEMS事務所が
後にいます。だから、色々曲を出す内に、とうとう彼女はイギリスで2曲No.1、他にも10曲以上中ヒットが出る歌手になって
60年代・70年代にはテレビに出たり、セレブになったわけですね、ビートルズのおかげで。ビートルズの物語を読むと、シーラ
・ブラックがパーティーに来てたとか、そういう下りが出てくるんですが、シーラ・ブラックのためにジョンとポールが曲を書
きましたが、それは不発だったというわけで、きょうの一曲目は皆さん、客観的に聞いてくださいね。
〜 Cilla Black / Love of The Loved
これは、レノン=マッカートニーとなっていますが、おそらくマッカートニーでしょうね。ジョージ・マーティンがアレンジなん
かもやったのかもしれません。ちょっと007みたいな感じがありました。リバプールッ子みたいな感じが面白い、ちょっとトリビア
みたいな感じでした。
□ビートルズ、デビュー
・1963年2月 ── ビートルズの2枚目のシングル「Please〜」が、ついにイギリスのチャートでトップに躍り出た。これはもう、
緊急事態である。所属事務所であるNEMSには、ファン・レターが続々と舞い込んだ。トイレット・ペーパーの一巻きを使って書
かれたものから、1メートルを超えるハートの切り抜きに書かれたものまで、それはもう様々なスタイル。そして、お祝いのプレ
ゼントも後を絶たなかった。等身大のぬいぐるみ、一流ベーカリーのケーキ、ブレスレット、ブローチに、最高級ブランドの指輪。
物騒なものの代表としては、特別な乾燥物の付いた箱に入った生きた毒グモ・タランチュラなど。嬉しいものから、迷惑きわまり
ないものまで、とにかくその数と量がスゴい。この騒ぎにポーカー・フェイスで有名だったマネージャーのブライアン・エプスタ
インも、その嬉しさを隠すことは困難だった。女性スタッフのリーダーは、こう語っている。「あんなに興奮したブライアンは、
後にも先にも見たことがなかった。」もちろん、電話もひっきりなしにかかってくる。するとブライアンは、必ず相手に尋ねる。
「なあ、ボーイズのことを聞いたかい?」ボーイズとはもちろん、自分の可愛い男の子たち。つまり、ビートルズのことである。
この言葉が、しばらくブライアンの口ぐせになった。そして、リバウールから遠くは慣れたロンドンには、担当プロデューサーの
ジョージ・マーティンがいた。マーティンは、このビートルズがイギリスでNo.1という出来事を大喜びした一人であると同時に、
深い悩みを抱え込んでしまった人物でもある。ビートルズが、この2月の第4週目に成し遂げたことは、1957年にも1960年にも
そして2年前の1961年にも、他のアーチストが達成していた。そう、それらのアーチストはみんな「ワン・ヒット・ワンダー=
一発屋」であった。マーティンの長年に及ぶ音楽人としての経験と予測からすると、ビートルズが一発屋で終わることのない、つ
まり次にもヒットを出すという確率は、極めて低いものであった。さて、どうしたものか。眠れぬ夜の続く、マーティンであった。
〜 The Beatles / I am The Walrus (MONO)
〜 The Beatles / Here, There and Everywhere (MONO)
・確かにビートルズは「Please〜」でイギリスNo.1になった。そして、次に残されている道。それは、一発屋で終わって、またクラ
ブ・バンドに戻るか。もしくは、あのプレスリーにも匹敵するスーパースターになるか。二つに一つ。さて、どうしたものか。と
にかく、作戦を練らなければ。プロデューサーのジョージ・マーティンは、自問自答した。そして、悩んだ。しばらくして、考え
抜いた結果が出た。それは、アルバムを作ること。1963年当時のイギリスの音楽業界には、もしシングルで大ヒットが出たら、急
いで同じタイトルのLP、つまりアルバムを出すという暗黙のセオリーがあった。これは、実のところ姑息な手段ではあるが、10代
の子供たちに同じ曲を買わすのには手っ取り早いし、シングルの三倍もの金を使わせることも出来る。実際には、タイトル曲以外の
曲など、何でも良かった。ほとんどの人は、ヒット曲以外の曲は飛ばして、聞きもしなかったからだ。この作業は、すぐに消えてし
まう歌手をオール・ラウンドなエンターテイナーに変身させる手段として、多くのプロデューサーが用いていた。したがって、アル
バムに入っているのは、使い古されたスタンダード・ナンバーがほとんど。しかし、マーティンは“ビートルズならもっとレベルの
高いアルバムが作れる”と予測した。理由はなかった。しかし、直感的にそう思ったのである。そもそも、彼はライブ録り=一発録
りを得意とするプロデューサーであった。まずは、ビートルズ本来の魅力を引き出そうと、地元リバプール・キャヴァーンでのライ
ブ演奏を収録し、それをそのままアルバムとして発売しようと考えた。“ようし、そうとなればまずはリサーチが必要”と、マー
ティンは彼の秘書で後に妻となるジュディを引き連れて、リバプールに乗り込んだ。しかし、キャヴァーン・クラブの音響は劣悪。
まさに、穴蔵そのものである。これは、使えない。しかし、マーティンはあるアイデアを思いついたのである。
〜 The Beatles / Sweet Little Sixteen (Live at BBC)
〜 The Beatles / Day Tripper
・そうだ、ビートルズのデビュー・アルバムは、ライブ録音にしよう ── そう考えたEMI・パーラフォンのプロデューサー、ジョージ
・マーティンは、1963年1月、彼の秘書で後に妻となるジュディを引き連れて、リバプールに乗り込んだ。しかし、キャヴァーンの
中の音響は、その名の通り「穴蔵」そのもの。とても、聞くに堪えない。しかし、マーティンは考えた。よし、それならアビー・ロ
ード・スタジオで、ライブやラジオ放送と同じ方法で一発録りすれば良い。それが今のビートルズの魅力を伝えるのに、ベストな方
法じゃないか。 ── レコード会社の会議でも、その企画は通った。もちろん、Please〜の一位の勢いに乗るビートルズである。社内
で反対を唱える者はいない。それに、どうせ一発屋だろうと思われていたビートルズである。アルバムさえ出せば、後はどうでもいい
だろう ── と、さほど期待されていなかったというのも実際のところであった。そうなれば、善は急げである。出来るだけ早くファン
の心をつなぎ止めておくために、レコーディングも発売も早ければ早いほど良い。リンゴ・スターのドラム・プレーも安定してきた。
もう、「Love Me Do」の時のようにスタジオ・ミュージシャンを雇う必要もない。もし、ピアノも必要となれば、音楽教育で十分に
鍛え上げたジョージ・マーティンが自分で弾くつもりであった。ロックのピアノなど一度も演奏したことがなかったが、なぜか無性に
ビートルズのアルバムには参加したくなっていた。次は、曲の絞り込みである。既にジョンとポールは数十曲ものオリジナル曲を書き
溜めていたが、プロの厳しい耳からすると合格ラインに達しているものは十曲前後。これでは曲が足りない。でも、問題はなかった。
リバプールやハンブルクで鍛え上げたビートルズには、オリジナル曲以外に百曲を越えるレパートリーがある。よし、これで条件は
揃った。こうして、デビュー・アルバムのレコーディングの日程は、2月11日に決定したのであった。
〜 The Beatles / Ask Me Why
□リクエスト
・このたび、真心ブラザーズがデビュー20周年を迎えたのを記念して、先日ベスト盤がリリースされたので、久々にこの曲をリクエス
トします。(柏市/男性/27歳)
〜 真心ブラザーズ / 拝啓、ジョン・レノン
(小林)真心を通じて、ジョン・レノンを知ったのかな? 彼らは、ポールというより、ジョンのファンでもありますからね。
・実家に帰った時、お袋のお供でスーパーマーケットで買い物をした時、ご馳走すると言うのでかなり買い物をして帰りました。する
とビールと牛肉がないとお袋が言いだし、スーパーへ忘れたのに気づいて、ダメ元でスーパーへ帰ると、サービスカウンターに届いて
いました。届けてくれた方は分かりませんが、なんか世の中捨てたものじゃないなと感じた一日でした。そういう小さなことから平
和が生まれると思います。(八千代市/男性)
〜 John Lennon & Yoko Ono / Happy Christmas
・今月に、ぼくは40歳になります。そう、ジョンに追いついてしまうんです。最近、マイケルが死んだということで世界が悲しんでい
ますが、ジョンのときもそうではなかったのか、それを共有できなかったのが悔やまれます。(江東区/男性)
〜 John Lennon / Grow Old with Me
・普通のロックの他にヘビー・メタルが好きで、オジー・オズボーンを崇拝するボーカリストの一人です。ブラック・サバスでの昔
からすると以外ですが、オジーが音楽の道を目指したのは、ビートルズの活躍を見たのがきっかけだそうです。(所沢市/男性)
〜 Ozzy Osbourne / Woman
(小林)きょうは、期せずしてジョン・レノンのミニ特集みたいなものになりましたが、ぼくはジョン・レノンを神様にしちゃ
ダメだと思ってね。みんな、神みたいにしてるけど、神様にしちゃったら歴史を曲げることになるから。真心ブラザーズが
「バカな平和主義者!」って言ってたけど、愛情がこもった、ジョンへの彼ら独特のコメントですよね。あのスタンスがうら
やましいと思います。
(小林)いつも思うんですが、ジョージ・マーティンが良い役割を果たしていて、売れるのは良いマネジャーがいて、プロデューサーがい
て、本人たちも素晴らしかったわけですが、リクエストコーナーでも分かりますよね。みんな、つながってるという。小林克也でした!
きょうはNHK-FMもあるから聞くほうは忙しいや。
おまけに、昼間にはInterFMで、バラカンさんの番組もありました。
>>171 プロバイダーが規制にまきこまれてしまったので
後でまとめて書き込みました。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年10月4日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(10月4日)
・1974年 (35年前)
もちろん、4年前にビートルズは解散しています。もう、別々。ジョン・レノンのアルバム「Walls〜」、これがイギリスで発売に
なっています。ジョン・レノンは、このアルバムを作る前は、ヨーコから別居を言い渡されて、ロサンゼルスで中国人女性のメイ
パンと二人で、メイパンは後になって本を出しますけど、その頃の愛人というわけですね。で、ヨーコはここだけの話、違うギタ
リストに気があったという話、ここは詳しく話さないんですけど。で、ジョン・レノンはロサンゼルスで色んなことをやります。
ネルソンの「Pussycat」をプリデュースしたり、ディビッド・ボウイの「フェーム」に参加したり、アルバム「Walls〜」を作っ
たり、そんな中で、エルトン・ジョンがジョン・レノンに「一緒にやりたい、一緒にやりたい」と、ジョン・レノンを尊敬してま
すから(訴えてたわけですけど)、それでジョン・レノンが「Whatever〜」で一緒にやります。で、エルトン・ジョンは、この
曲は絶対一位になると言い出したんです。ジョンが一位は無理だろと弱気な発言をすると、エルトンは「じゃ、一位になったら
自分のコンサートに飛び入りで出てくれるか?」「もちろんOKだよ」で、結局ビルボードで11月16日になるというわけです。
で、後の話になるけど、2週間後の11月28日、NYのマジソン・スクエア・ガーデンでエルトン・ジョンのコンサートがあって、
そこにジョン・レノンが飛び入りして、「Lucy〜」、それからポールの曲をやるんだよね「I Saw Her〜」。これをやって、これが
ジョン・レノンの最後のパフォーマンスになると、いうことで。で、まだその続きがあって、その時のコンサートのエルトンの楽屋
に行ったところ、そこにオノ・ヨーコが来ていて、そこでまた一緒に暮らすかというきっかけになるというわけであります。
〜 John Lennon (feat. Elton John) / Whatever Gets You Thru The Night
この時、エルトン・ジョンから「Imagine」もやったら?という話があったんだけど、やらなかった。どうしてやらなかったかと
いうと、Imagineはロックン・ロールのコンサートの中でフォークっぽいというのと、歌詞がオノ・ヨーコの影響が強いんですよ
ね。そういうのがあったかどうか、分からないんですけど、ということで。
□ビートルズ、デビュー
・ビートルズの2枚目のシングル「Please〜」は、イギリスのチャートで17位まで浮上していた。1963年1月のことである。プロ
デューサーのジョージ・マーティンは悩んだ。そして、考えた。多くの新人アーチストで初期に成功を収めたものの多くは一発屋で
終わる。しかし、オリジナル曲で勝負しているビートルズは、どこかが違う。これまでの新人にはない、強い個性と魅力がある。よ
し、今までの新人アーチストでは作れなかったデビュー・アルバムをビートルズでやってみよう。連中なら、きっとやってみせる。
そう考えたジョージ・マーティンは、ビートルズの魅力を再検討してみた。検討の末、出た結論は、ビートルズの最大の魅力は、
ライブにある ── ということ。つまり、デビュー・アルバムをライブ・アルバムにしようという考えになった。即刻マーティンは
ビートルズの本拠地リバプールに飛んだ、彼らのライブの現場を見るため。「Please〜」の成功も相まって、ホーム・グランドであ
るキャヴァーン・クラブの熱狂ぶりは、さらにヒート・アップしていた。もちろん、その演奏も素晴らしい。荒削りでワイルドでは
あったが、持ち前のポップで楽しく、そして憂いに満ちたセンスは、どこから見ても魅力の固まりであった。よし、これならいける
そう判断したマーティンは、すぐに録音した。しかし、ただ一つ問題だったのはキャヴァーンの音響状態である。いくら音楽の街、
リバプールで一番人気のクラブとは言え、ロンドンとは違う。感覚が田舎だ。サウンド・システムなんて、あってなきに等しい。し
かし、機材に関しては、EMIから持ち込めば良い。しかし、このレンガで出来た劣悪な音響状態だけはどうすることも出来ない。とり
あえず録音したテープをロンドンに持ち帰ったマーティンは、技術スタッフにそれが何とかなるレベルであるか聞いてみた。その結
果、チーフ・エンジニアのノーマン・スミスの答えが戻ってきた。「マーティンさん、この音ではとても商品にするのは難しい。場
所を変えるか、スタジオで録音することをお勧めしますよ」というもの。マーティンのプランは、一旦は暗礁に乗り上げてしまうか
のように思われた。
〜 The Beatles / One after 909 (Anthology 1)
〜 The Beatles / Kansas City ~ Hey Hey Hey Hey! (Anthology 1)
・「マーティンさん。この音では、とても商品にするのは難しい。場所を変えるか、やはりスタジオで録音することをお勧めします。」
これはビートルズの地元、キャヴァーン・クラブでの簡単な録音テープを、EMIのチーフ・エンジニアで、後にピンク・フロイドのプ
ロデューサーとなる人物ノーマン・スミスが出した結論である。その道の専門家がそう判断するのであれば、しかたがない。マーティ
ンのプランは、暗礁に乗り上げてしまうかのように思われた。しかし、マーティンは引き下がらなかった。ビートルズの最大の魅力は
ライブにある。判断は間違っていない。一番の魅力を生かす、それがプロデューサーの最も大切な仕事じゃないか。そう自問自答する
マーティンはさらに熟考した。ビートルズのライブの魅力を出来る限り良い音質でLP盤に収めるには、どうしたら良いか。答えは出た。
それは、普段からライブでやっている曲を、そのままステージの曲順に演奏し、出来る限りダビングを加えず、そして余計な時間をか
けず、一発で録音することであった。翌日、マーティンはその考えを制作会議にかけた。もちろん、反対意見もあった。デビューした
ばかりの新人に一発録音のスタジオライブをやらせるなんて、前代未聞である。誰もが、それが出来るとは思っていなかった。しかし
マーティンは、自信を持って主張した。「皆さん、一度でも良い。ビートルズの生演奏を見ていただきたい。それは素晴らしいものだ。
ワイルドでありながら、計算されていて、さらに泣ける部分もある。こんなに優れた商品が他にあるでしょうか。今、録音しなかった
ら、その旬を逃してしまうことになる。どうか、私の勘を信じて欲しい。絶対に良いものを作ってみせます。」結果、まわりの不安を
振り切って、マーティンの主張は通った。このようにマーティンは、いつの間にかビートルズに入れ込んでいた。もちろん、他のアー
チストの録音も忙しかった。しかし、ビートルズは彼の中で完全に別になっていたのだ。そして、レコーディングは、2月11日日曜日
に決定したのである。
〜 The Beatles / Please Mr. Postman
〜 The Beatles / This Boy
・「デビュー・アルバムの録音スケジュールが決定。2月11日日曜日、EMIアビー・ロード、第2スタジオに朝9時に集合されたし。EMI
パーラフォン制作部長、ジョージ・マーティン。」リバプールのビートルズの元に、電報が届いた。とは言っても、直接ではない。な
にせビートルズは、当時人気の女性シンガー、ヘレン・シャピロとのツアーの真っ最中。マーティンからの電報は、事務所からマネー
ジャーのブライアン・エプスタインへの電話を通して聞かされた。続いて、レコーディングの内容についても、連絡が入った。それは
ビートルズの記念すべきデビュー・アルバムのレコーディングであり、ライブ・パフォーマンスと同じ曲順で、ほぼダビングなしの一
発録音となる。そして、録音そのものに費やされる時間は、たったの1日である ── などであった。さあ、そうなるとツアー中とはい
え、準備が必要となる。曲も選ぶ必要がある。普段やっている曲とはいっても、ハンブルクでの修業時代に築き上げた曲を入れたら、
余裕で200曲は越える。しかし、あのデッカ・オーディションの時のような、ダサイことはやりたくない。さあ、どうしたらいいか。
メンバー四人で、ミーティングを開いた。意外なことに、こういう時に限って、リーダーのジョンは弱気になる。「曲なんて何でもい
い、みんなに任せるよ。」実は、ジョンはビビっていた。ポールは、常に前向き。「アルバムってことは、14曲具合かな。じゃあ、オ
リジナルにこだわらず、得意な曲をやったら良いんじゃないか。」ジョージは、マイペース。「ライブと同じで良いって言うなら、特
に心配ないと思うよ。」リンゴは、いつもの調子である。「朝早いのはちょっと困るけど、やることは同じで良いんだろ。じゃあ、問
題ないさ。」こうして、ビートルズにとって、アルバム・デビューがいよいよ現実となってきたのである。
〜 The Beatles / Anna (Go to Him)
〜 The Beatles / Norwegian Wood (This Bird has Flown)
□リクエスト
・迷ってることがあります。ビートルズの新しいアルバム、今買うべきか、借りるべきか迷っている私です。それから、もう一つ質問。
「Let it Be」は、DVDで発売されないんでしょうか?(千葉市/男性)
〜 The Beatles / I'll Cry Instead
(小林)(Let it Beの質問に)ちょっと、ぼく分からないんで...。
・デジタル・リマスターが発売され、いつでもどこでもビートルズが聴けて、嬉しい限りです。ランキングには参加しなかったんですが
結果を見るのも楽しかったですね。「In My Life」が2位だったのが意外でした。複数投票だったからでしょうね。え?この曲、こんな
下?なんてのもありました。あれ?この曲のサビの少し前に「In My Life」のフレーズがありましたよね? 父親が酔って買ってきたド
ーナツ盤、不朽の名作をお願いします。(住所氏名不詳)
〜ザ・フォーク・クルセダーズ / 帰ってきたヨッパライ
(小林)...It's been a Hard Day's Night..って、ビートルズなのが良いね。
・マネージャーのブライアンが、ビートルズのことをボーイズと呼んでたことが放送されましたが、ぼくの中ではボーイズとくれば、
ビーチ・ボーイズとなります。昔のビーチ・ボーイズのビデオの中で、ブライアン・ウィルソンの家庭的な誕生パーティで、ポール
・マッカートニーが参加しているのを見て、偉大なアーチストの友だち関係って、スゴく興味があります。お友達関係があったか分か
りませんが、ロニー・スペクターが歌う、ブライアン・ウイルソンの名曲をお願いします。(つくば市/男性)
〜 Ronnie Spector / Don't Worry Baby
・来日したときの印象はまったくありませんが、この曲は「Saturday Night」より印象的です。勢いのあるイントロにしびれていま
す。(上尾市/女性)
〜 Bay City Rollers / I Only Wanna Dance with You
(小林)イントロ賞をあげたいくらいの格好良さがありましたものね。
(小林)ビートルズをどうやったらスゴいグループとして紹介できるか、プロデューサーのマーティンは考えるわけですね。で、ライブで
「せーの!」でやらせようっていう。だけど、ビートルズは「せーの」でやってしまうわけですよ。だけど、普通のグループじゃないよ、
ビートルズは。それから2年も経つとビートルズは成長して、自分たちの芸術としてのことを考えるグループになるわけです。そして今、
2009年は、ビートルズの新しい音が出て、その頃のことを耳を澄まして、全部その時のことが音に詰まってますからね。聞き取ることが
出来るという素晴らしい時代というわけです。だけどね、昔も良かっただ。昔はそういう情報がないから、みんな命かけて聞いたものだ。
ま、昔も良いし、今も良いということで。
キロックトニーさん、乙です。
番組イベントには参加したことある?
平日に19時に幕張はけっこう厳しいよなあ。
参加したことないです。
楽しそうだけどね。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年10月11日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(10月11日)
・1965年 (44年前)
ポール・マッカートニーが、ロンドンのデッカ・レコードのスタジオに行きます。ビートルズをクビになっちゃったアレですよ。
不採用になっちゃった、悪い思い出のレコード会社に、ポール・マッカートニーが行った。何のためか? マリアンヌ・フェイスフル
の録音、イエスタデーをやる。そう、ポールのイエスタデーをやる! 問題は、マリアンヌ・フェイスフルです。マリアンヌ・フェイ
スフルを知ってる人は? さあ、どうでしょう。実は、マリアンヌ・フェイスフルは歌手で、1960年代にイギリスで、そして世界中
で売れちゃうんですよ。なぜかというと、この人歌手でもなんでもない、ちょっと美人の子だったんですよ。で、ミック・ジャガー
の恋人になって、あのー、あのー、ローリング・ストーンズ、あのー、キース・リチャーズとジャガーが書いた「As Tears Go By」
でヒットするんですが、そのマリアンヌ・フェイスフルにポール・マッカートニーのイエスタデーを歌わせるってんで、ポールきて
くれよ!と、おそらくミック・ジャガーから電話があったんでしょう。で、イエスタデーというのね、この頃はまあ、ねー、とても
有名な曲なんだけど、これが10年経ち、20年経ち、1970年代までの統計だと、既に世界一カバーされた曲で、その当時で1,185
バージョンあったそうです。ギネスブックによっても、イエスタデーというのは最もカバーされた曲というわけですが、ポール・
マッカートニーが悪い思い出のあったデッカのスタジオに、今はもう世界の頂上にいますからね、自分の大ヒットをミック・ジャガー
の恋人がやってくれるというので、遊びに行った日であります。
〜 Marianne Faithfull / Yesterday
あの、ちょっと、声の震えがね、トレモロが気になりますよね。でも、あれが一つの芸の内ですよね。あれが良い!という人もいたん
じゃないかと思いますが。それから、マリアンヌ・フェイスフルに興味がある人は、1980年代になってジャガー&リチャーズの、つ
まり彼女のデビューソング「As Tears Go By」をやり直してる。これはね、もうオバさん声になってるんですよ、この人は。もう、
全然この声と違うんだよ。オバさん声になってね、これがまた、スゴい迫力があってね。これはおススメです。
□ビートルズ、デビュー
・ビートルズのデビュー・アルバムのレコーディングが、1963年2月11日に決定した。この時ビートルズは、国民的人気美少女ヘレン・
シャピロとのイギリス・ツアーの真っ最中であったが、レコード会社の決定は絶対である。雪の中、ツアー先からロンドンのEMIアビー
ロード第2スタジオに到着した。集まった4人のメンバーに対し、プロデューサーのジョージ・マーティンは、一枚の紙を渡した。その
紙には、曲目が書いてあった。まるで、ライブの時の曲目表、いわゆるセットリストのようでもあった。マーティンは、言った。「今
から、これをやってもらう。君たちがキャヴァーンでいつもやってる曲の中から選んだ曲ばかりだ。」この日、ビートルズのためにおさ
えられたスタジオのスケジュールは、朝の10時から午後の1時、そしてランチをはさんで、午後2時半から5時半までの二コマである。当
時のEMIは、まるでお役所のような体質であり、組合からの圧力とも相まって、労働基準やスタジオ時間の管理がとてつもなく厳しかっ
た。その条件の中で、アルバムの録音をたったの一日で行う。それは、無謀とも言える計画であった。しかし、これにはしっかりとした
理由が存在した。それは、プロデューサーのジョージ・マーティンが考えたコンセプト ── 観客こそ入れないが、リバプールのキャヴァ
ーン・クラブでやってるのと同じ、極力ダビングや手直しなしで行う、スタジオ・ライブ・パフォーマンスである ── というものに準じ
ているのである。実際、この頃のビートルズのライブ用レパートリーは、非常に磨き抜かれたものであった。それもそのはず、ビートルズ
はこの時点から3年前、1960年からほぼ毎日のようにライブ・パフォーマンスをこなしていた。これならいけると、マーティンはそう踏
んだのである。それに、ビートルズの演奏はものすごくハードなものであるから、何度もテイクを重ねると、ボーカルのパワーが落ちてく
ることは歪めなかった。そんな理由で組まれたスタジオ時間は、前半後半それぞれ3時間ずつの合計6時間。もちろん、これはマーティン
にとってもビートルズにとっても、危険な綱渡りであったことは言うまでもない。
〜 The Beatles / I Saw Her Standing There (Anthology 1)
〜 The Beatles / There's a Place
・「今から、これをやってもらう。君たちがいつも、キャヴァーンで演奏している曲の中から選んだものばかりだ。」プロデューサーの
ジョージ・マーティンは、ビートルズに一枚の選曲シートを渡した。1963年2月11日日曜日、ロンドンEMIアビー・ロード第2スタジオ
での、実際にあったやり取りである。ビートルズのデビュー・アルバム録音に割り当てられた時間は、前半後半それぞれ3時間ずつの合計
6時間。危険な綱渡りセッションである。「ようし、やってやろうじゃないか。」ビートルズの4人は、腹をくくった。しかし、そうは
言っても、ビートルズのツアーの真っ最中であり、真冬のイギリスはとてつもなく寒かった。案の定、ジョンは風邪で、かなりコンディ
ションが悪かった。メンバーは、そんな弱った体調をお互い気遣いながら、セッションは始まった。チーフ・エンジニアの、ノーマン・
スミスは語っている。「この日のセッションでは、お菓子屋にあるような大きなガラス瓶に入った飴が用意され、ピアノの上に置かれて
いた。ジョンのノドを心配したスタッフが用意したんだよ。そのくせ、すぐ隣にはね、彼らの好きなタバコ、ピーター・スタイヴェサント
の大きなカートンがあってね。連中は、ひっきりなしに吸っていたね。」午前中のセッションで最初に演奏されたのは、オリジナル曲の
「There's a Place」、当時アメリカを中心に大ヒットしていたモータウンのリズム&ブルースに影響されて、ジョンとポールで書き上げ
た曲である。そして次が、この時点では「セブンティーン」と仮のタイトルが付けられたチャック・ベリー・スタイルのロックン・ロー
ル・ナンバー、後に「I Saw Her Standing There」として、アルバムのトップを飾ることになる。そして本来は、午後1時からランチタ
イムとなるところを、そのままリハーサルは続いた。曲は、ポールがいつもステージで受け持つスタンダード・ナンバーの「A Taste of
Honey」を繰り返して練習した。こうしたジョージ・マーティンの選曲が、アルバムに彩りを添えていくのである。
〜 The Beatles / A Taste of Honey
〜 The Beatles / She's Leaving Home (MONO)
・のど飴とタバコ ── まったくもって、正反対のものが示すように、ビートルズのデビュー・セッションは、独特の雰囲気かつ急ピッチで
進んだ。なにせ、時間は一日しかないのである。午後1時になってランチタイムになったが、ビートルズは昼食なんてそっちのけ。セカン
ド・エンジニアのリチャード・ランガムが語っている。「休憩してくれと言ったら、彼らはこのままリハーサルを続けたいと言うんだよ。
それで、プロデューサーのジョージ・マーティンと、チーフ・エンジニアのノーマン・スミスとぼくは、近くのヒールオッズ・オブ・パ
ルマというパブに行って、パイとビールの昼食をとったんだけど、ビートルズはスタジオに残って、ミルクを飲んでいて、ぼくらが戻っ
ても、まだリハーサルを続けていたね。これはもう、信じられなかった。これまで、昼抜きで演奏するバンドなんて見たことがなかった
からね。」午後のセッションは、ポールが歌う演劇の主題歌「A Taste of Honey」。この曲は最終的には、ポールの声をユニゾンで重ね
る、いわゆるダブル・トラック・ボーカルで仕上げられた。続いての曲は、ジョンとポールが書いて、ジョージに歌わせた「Do You
Want Know a Secret?」この曲は後に、ビートルズと同じ事務所であるNEMSに所属するバンド、ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス
に提供され、彼らのイギリスで1位の大ヒットとなっている。次の曲は、このレコーディングをはさんで、一緒にイギリス中を廻っていた
少女シンガー、ヘレン・シャピロのためにジョンとポールが書いたものの、ボツにされていた曲「Misery」。なかなか良い曲であるが、
なぜかヘレン・シャピロは録音すらしていなかった。「Love Me Do」などと同じく、ジョンとポールが二人でリード・ボーカルを担当し
た。この「Misery」は、日を改めてプロデューサーのジョージ・マーティン自らピアノを弾いて、完成させた。こうしてマーティンは、
五人目のビートルズと呼ばれるようになるのである。
〜 The Beatles / Misery
〜 The Beatles / Something
□リクエスト
・社会人になった88年の頃は、ベスト・ヒット・USAをビデオに録って、見ていました。一週間でランクに移動はあまりないんですが、
克也さんは極力同じ曲がかからないように、工夫してくださってました。というわけもあって、私は番組の中のリクエストの時間が楽し
みです。ビートルズだけでなく、さまざまな音楽の歴史を刻んできた方々が、ジャンルにとらわれない感性でリクエストされています。
<長いので、以下省略!>(流山市/男性)
〜 Europe / Final Countdown
(小林)あなたのリクエストにお応えして、「百年に一度の名曲」!
・先日、昔購入したオープン・デッキをオーバーホールしました。30年も経っている機器なので、メーカーでは扱ってもらえず、ネットで
修理の方を探して依頼しました。70年代の機械はスゴく、接点などを磨くだけで見事復活し、さっそくビートルズを聞いてみました。大
きなリールが廻るメカニックな雰囲気は、最近発売されたリマスター・シリーズに(小林、笑いを必死にこらえる)負けるとも劣らず、
久々に感動ものです。(春日部市/男性)
〜 The Beatles / Back in the U.S.S.R.
・もうすぐ52歳になる私とビートルズの始まりは、中学1年生だった1970年だったと思います。お昼の給食タイムで、放送係が音楽を流
してくれるんですが、先日亡くなったマリーのPPMやビージーズのマサチューセッツとか、他にもライオンは寝ているとか、たまに洋楽
をかけてくれるんです。その中でも、ビートルズのイエスタデーは好きな一曲でした。そんな私が買った初めてのアルバムは「Help!」。
そう、その中にイエスタデーが入っているからという理由だけで。そして、初めてレコード針を落として、初めて出てきた曲が、イント
ロなしの「Help!」でした。「Help!」の曲を知らずに聴いた、私の衝撃は、もうビックリの一語です。(鎌ヶ谷市/男性)
〜 The Beatles / Help!
・娘3歳の代理でリクエストです。以前は、CMの「ミートボール、ポン! 照り焼き味、ポンポンポン!」以外は無反応だった娘、この年
じゃ仕方ない、ビートルズの良さは分からないなと思っていたら、ある日「おかあさん、ヤンソモリンのうた歌って」と言ってくるでは
ありませんか。でも、ヤンソモリンのうたってなんだ?と思って、娘の歌うのをよくよく聞いてみたら、それはイエロー・サブマリンの
ことでした。(柏市/女性)
〜 The Beatles / Yellow Submarine
(小林)リクエストの話が、全部良かったねー。いやー、感動しました。お相手は、小林克也でした!
はい、乙です。
克也さんも言ってたけど、きょうはリクエストのメッセージが良かったなあ。
52歳の人のと、もうじき子供が4歳になる人のやつ。
飲酒しながら聴いてたらグッと来たよ。
リクエストした人達のエピソード良かったね。
読まれたときに恥かしくなりそうで、あまり長くて内容のあるメッセージ書けないや。
毎回リクエストのコーナーはメッセージの内容がいいね。
本編よりも楽しみなときもある。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年10月18日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(10月18日)
・1988年 (21年前)
ビートルズというよりも、ビートルズ・ファンは知っておいてほしいですね。トラベリング・ウィルベリーズのアルバムが発売に
なった日です。ジョージ・ハリスンが中心になって結成された、スーパー・バンド。だけど、覆面バンド。ジョージの「クラウド
9」のアルバムの中からシングルをカットして、B面の新たな録音が必要だということで、友だち関係が集まります。そのメンバー
がスゴいんです。いいですか? ウィルベリーズということで、腹違いのウィルベリー兄弟。メンバーは、本名というか、自分たち
の名前を名乗ってないんです。ジョージ・ハリスンが、ネルソン・ウィルベリー。ジェフ・リンが、オーチス。ボブ・ディランが
ラッキー・ウィルベリー。チャーリー・T・ジュニア・ウィルベリー、これがトム・ペティー。レフ・T・ウィルベリーが、ロイ・
オービソンっていう顔ぶれなんですが、この顔ぶれはどうですか? 例えば、ジョージ・ハリスンよりも格上みたいな人がいますよ
ね。ボブ・ディランとビートルズの関係は、ボブ・ディランが遊びにきたということから始まって、付き合いは長いんですが、ジ
ョージとディランが一番親しく、発売にならなかったけど音楽を一緒に作ったりしています。ディランの弟分のトム・ペティーは
ディランについてきた感じですね。ロイ・オービソンと知り合ってたというのも、ジョージらしいですよね。一枚目のアルバムが
出て、実はロイ・オービソンが亡くなってvol.2はお蔵入りになって、その後vol.3が発売になっています。宣伝とか、そういうこ
と、レコード会社が違うから、そういう活動はいっさいやらなかったにしても、例えば21年前のきょう発売になったアルバムは、
6週間連続第3位だったんですよ。
〜 Traveling Wilburys / Handle with Care
□ビートルズ、デビュー
・ビートルズのセカンド・シングル「Please Please Me」が、イギリスのチャートで17位に上昇する中、デビュ・ーアルバムのレコー
ディングが1963年2月11日に行われていた。午前中のセッションでは、最初にリズム&ブルースっぽい曲「There's a Place」。そし
てこの時には、まだ「17」という仮のタイトルで呼ばれていたポールの曲「I Saw Her〜」が録音された。ライブの勢いを、そのまま
LPレコードに刻みたいという、プロデューサーのジョージ・マーティンのもくろみ通り、ビートルズは素晴らしい歌と演奏を続けた。
この日、ビートルズのためにおさえられていたスタジオのスケジュールは、朝の10時から午後の1時、そしてランチをはさんで、午後
2時半から6時半での2コマである。労働基準やスタジオ時間の管理がとてつもなく厳しい当時のEMIの管理の中で、アルバム一枚分の
録音をたった一日で行う。これは、かなりタイトな計画であった。ビートルズは、ランチタイムも惜しんでリハーサルを重ね、スタッ
フがランチから戻ると、すぐに午後のセッションに移った。曲は、スタンダードの「Taste of Honey」。そして、ジョンとポールの
オリジナル「Do You Want〜」と「Misery」。「Do You Want〜」を書いたのは、ジョンとポール。つまり、後に20世紀を代表する
コンビ、あのレノン=マッカートニーなのであるが、リード・ボーカルをとっているのは、最も静かでハンサムなビートルと称された
ジョージ・ハリスン。この頃、まだジョージにはオリジナル曲はなかった。いや、せいかくには合格点に達する曲がなかったため、レ
ノン=マッカートニー作品を、ジョージに歌わせることになった。これは、リード・ボーカルが決定せずに、バンドのメンバー全員が
歌うというマーティンのコンセプトを忠実に守った結果である。ジョージ・ハリスンは、緊張した。地元リバプールでも、巡業先のハ
ンブルクでも、そしてあの悪夢のようなデッカ・レコードでのオーディションでも、リード・ボーカルを経験したジョージであったが
本チャンのレコーディングとなると、やっぱり違う。心なしか、声が震える。二十歳の、ジョージ・ハリスンであった。
〜 The Beatles / Do You Want to Know a Secret
〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
・ビートルズのデビュー・アルバム「Please Plase Me」のレコーディングは、午後になってもどんどん進んだ。1963年2月11日日曜日
ロンドンのアビーロード・第2スタジオでのセッションである。「Taste of Honey」「Do You Want〜」「Misery」、そして午前中に
録り終えていた「There's a Place」と「I Saw Her〜」もコントロール・ルームで聞き直した結果、プロの耳からすると、まだまだ甘い
ということで、午後にもテイクを重ねて録音された。そして、予想されていたことだったが、6時半になっても、とても終わる気配はな
かった。ここで、極めて特例ではあったが、スタジオの使用時間が夜の10時まで延長されたのである。当時のEMIアビー・ロード・ス
タジオの管理基準はお役所そのもの。労働組合もあり、そう簡単には時間の延長など許されなかったが、プロデューサーのジョージ・
マーティンの前の週からの根回しで、なんとか変更された。というか、サインがされた。第2スタジオ、使用時間延長10時まで。目的
ビートルズ録音。さあ、そうなれば、作業は急ぐしかない。次の曲はオリジナルのR&Bのナンバーだ。「Hold Me Tight」、なかなか
良い曲であったが、曲が多すぎるため、この曲はアルバムに入れてもらえなかった。レコーディングし直して、次のアルバムに収録さ
れることになる。さらにビートルズは、この後5曲のカバー曲を演奏する。まずはR&Bのヒットメイカーであったアーサー・アレキサ
ンダーの「Anna」、これは三回演奏して仕上げた。続いて、リンゴが歌う女性グループ、シュレルズの「Boys」。これで、四人のメ
ンバー全員が、ボーカルを担当した。次はやはりガール・グループ、クッキーズのナンバーで、キャロル・キングが専属作曲家時代に
手がけた「Chains」。この曲はジョン、ポール、そしてジョージが、見事なコーラスの技を見せてくれた。そして、さらにカバーは続
く。またしてもシュレルズの「Baby it's You」。あの、バート・バカラックの作品である。これらのすべては、2回か3回の演奏で完成
となった。まさに、正真正銘。ライブの一発録りだったのである。
〜 The Beatles / Baby it's You
〜 The Beatles / Lucy in the Sky with Diamond
・一日で、アルバム一枚分をレコーディングしよう。現代ではとても考えられない、ビートルズのデビュー・アルバム「Please Please
me」の録音スケジュール。しかしこれは、スケジュールや予算がなかっただけではなく、プロデューサーのジョージ・マーティンが
考えた、しっかりしたプランがあった。そのプラントは、ビートルズの最大の魅力はライブ。そのライブを、観客なしのスタジオで
やってみたらどうかというもの。それは成功させるには、出来るだけ時間をかけずに、ぎりぎりの切羽詰まった状況を作るのが一番と
マーティンは考えた。しかし、それにしてもタイトなスケジュールである。それでもビートルズは朝2曲、午後4曲。そして、時間を
延長して望んだセッションで5曲を録り終えた。時間は既に、スタジオを閉めなければならない午後10時に近くなっていた。しかし、
アルバムを満たすには後1曲足りない。そこで、作戦会議のために、ビートルズのメンバーとプロデューサーのジョージ・マーティン
そしてスタジオのスタッフ全員で、明かりの消えたアビー・ロード・スタジオの食堂に集まった。煮詰まったコーヒーとビスケットで
空腹を満たしながら、後1曲何を演奏するか、意見を出し合った。ジョンが、口を開いた。「アルバムのラストに入れるんだったら、
やっぱりいつもライブのシメに演っている"Twist and Shut"がいいな。でも、きょう俺風邪引いてるし、散々歌った後だし、声出るか
な。」正直、全員が不安であった。しかし、もうやるしかない。ジョンは、上半身裸になって、例のノド飴をなめた後、ミルクでうが
いをした。吐き出したミルクは、ノドからの血が混じって、ピンク色に染まった。「よぉし、マーティンさん。テープ回していいよ。」
ジョンが、そう告げた。テープが廻った。正真正銘、ビートルズのスタジオ・ライブの、あの最後の曲が始まったのである。
〜 The Beatles / Twist and Shout
〜 The Beatles / She's a Woman
ハード・ロックの第一号だと言っていい「Twist and Shout」。ビートルズの色んな場面を、ぼくは本から表現を借りて演出してきま
したけど、ミルクでうがいをして、そのノドからの血が混じってピンク色に染まっていたというのは、一番生々してゾクッとする表現
ですよね。ジョン・レノンが血を振り絞ってというか、ノドを振り絞ってというのか、歌った「Twist and Shout」。デビュー・アル
バムから。
□リクエスト
・ついに、リマスターが出ましたね。モノ・ボックスからお願いします。(静岡県富士市/男性/53歳)
〜 The Beatles / Eleanor Rigby (MONO)
(小林)ジョージ・マーティンは、モノで聞いてくれ!とトラック・ダウンとか最終仕上げに一週間以上かけたそうですよ。ただ
上の連中が騒ぐんでしょうがないかってんで、ステレオを2時間か3時間かけて、仕上げたそうです。ただ、モノは最後の3枚が
ないんですよ。切れ方が、心を残すんですよね。
・私事ですが、下腹部にしこりが見つかり、急遽入院。手術となりました。まだ、検査結果待ち状態ですが、心身共に病んでいることに
間違いありません。現実から目をそらさず、直視できるか不安です。(稲敷市/女性)
・一昨日、誕生日を迎え、33歳になった記念に初メールさせていただきます。bayfm開局20年、おめでとうございます。僕とビートル
ズの出会いも、ちょうど20年前の中学の頃、先生が授業の前にビートルズを流して、みんなで歌ったことから始まりました。英語を
好きになってもらいたいという先生の考えで、日本語訳を書いた紙を配り、英語の歌を歌うことで、英語が好きになりました。イエス
タデーの次はレット・イット・ビーで、カーペンターズの歌も歌いました。あれから20年、先生のおかげで英語がペラペラ!とは行き
ませんでしたが、先生のおかげでビートルズのファンになったことを感謝しています。(夷隅郡/男性)
〜 The Beatles / Let it Be
・中学の時、ビートルズが来日したんですが、残念ながら親の許しが出ず、テレビにかじりつきました。ビートルズのレコードは小6から
買い集め、全てを手にしました。ロンドンやニューヨークへ旅行した時、UK・USA盤も手にしました。その後、33歳のとき、ある人
から六本木のライブ・ハウスを教えてもらい、キャヴァーン・クラブへ通い始めました。2年目にパロッツというバンドが結成され、
とりこになってしまいました。このバンドは、オリジナルを忠実に演奏してくれる、唯一のバンドです。今は、アビー・ロードという
ライブ・ハウスに移り、早6年が経ちました。本物の公演に行けなかった悔しさを、このパロッツに託して、今でもう16年目です。
(所沢市/男性)
〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps (LOVE)
(小林)ジョン・レノンが牛乳でうがいをしたら、血が混じってピンク色になったという話は感動的ですよね。リクエストの方もよろしくお願い
します。最後の方、ビートルズしか聞かないという人、熱心だねというファンから、何でも聞くよ!だけどビートルズが好きよというワイルド
なビートルズ・ファン、いろいろいます。ビートルズという人たちは、それまであった決まりを破っていったこと、それを心において、何でも
いいんですよ。ビートルズに帰ってくれば、いやビートルズから始まってくれれば。お相手は、小林克也でした!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年10月25日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(10月25日)
・1974年 (35年前)
ジョン・レノンのアルバム「ロックンロール」ご存知ですよね。アレの最終日でした。LAのレコード・プラントという有名なスタ
ジオで最終録音が行われました。このアルバムは、ちょっと悲しいアルバムです。ジョンが最悪の時期だったんだよね。オノ・ヨ
ーコに追い出されて、メイパンという中国人女性をあてがわれてLAにいて、この頃はニルソンとか友だちがいたんですけど、飲ん
だくれの毎日ですよ。そしてこのアルバムを作らなきゃダメだったのは、ジョンは最初作る気はなかったんですけど、「Come
Together」がチャック・ベリーの盗作だと訴えられたんです。和解したんですが、その条件としてチャック・ベリーの出版社の言
う条件をのんで、このカバー・アルバムをやることによって、チャック・ベリーの出版社にお金が入るように ── だから、動機が
不純だよね。ろくなアルバムじゃないよね。だけど、ジョンはちゃんとやりました。そして、フィル・スペクターという一緒に仕事
をやる天才的なジョン・レノンが信用していた人、今までアルバムを何枚も作った人とやるんですが、彼も大変な状態にあって、今
までと違って、スタジオでミュージシャンを脅してピストルをぶっ放すとか、色んな奇行に走って、とうとうフィル・スペクターは
マスター・テープを持って逃げちゃったりするんですよ。レコーディングは中断するんですけど、最後にジョンが一人でプロデュー
スして、このアルバムは35年前のきょう、フィニッシュしたというわけであります。フィル・スペクターがプロデュースしたと思っ
てる人が多いかもしれませんが、ジョンが一人でプロデュースしています。
〜 John Lennon / Stand By Me
□ビートルズ、デビュー
・「アルバムのラストに入れるんだったらやっぱり、ライブでいつも最後にやってる、アイズレー・ブラザーズの“ツイスト&シャウト”
がいいな。でも俺、散々歌った後だし、風邪引いてるし、声出るかな。」アビー・ロード・スタジオにいる全員の不安をよそに、ジョン
は熱演、熱唱した。気休め程度にノド飴をなめ、ミルクでうがいをした。吐き出したミルクは、ノドからの出血でピンク色に染まって
いた。しかしジョンは、上半身裸になり、全身全霊を込めて歌った。これをやり遂げないと、ビートルズの記念すべきデビュー・アル
バムは完成しない。実際のライブだって、最後が決まらないと台無しになる。そういう思いが、ジョンにロックの神様を舞い降ろした
のだ。録音した回数は、たったの2回。これで満足か? いや、満足かどうかより、ジョンのノドはこれが限界だった。とにかく、終わ
った。録音が完了すると、メンバーたちは演奏を確認しようと、コントロール・ルームまで階段を駆け上った。この時の様子を、アシ
スタント・エンジニアのリチャード・ランガムが語っている。「セッションは、夜10時で終わりと決まっていたんだ。普通なら、10時
15分には参加したミュージシャンが家に帰ろうと最寄りの地下鉄のセント・ジョーンズウッド駅にいたよ。だけどあの晩は、最初の演
奏確認の後、もう一回聞き返したい曲があるからと、ビートルズの面々が言うんだ。ぼくは上司のノーマン・スミスに目をやりながら
時計をチラチラ見て、明日の朝には出社しないといけないんですが、電車がなくなってしまいますと言うと、ブライアン・エプスタイ
ンがテープをもう一度かけてくれたら、家まで車で送っていってあげるよと言うんだ。これじゃ、言うことを聞くしかない。ジョージ
・マーティンだって、早くテープを用意しないかと言わんばかりの目つきをしてる。それでぼくはテープをかけて、その日の演奏を皆
に聞いてもらった後に、エプスタインの愛車フォード・アングリアに乗せてもらって家に帰ったというわけさ。」かくして、ビートル
ズのデビュー・アルバムのレコーディングは、無事終了したのであった。
〜 The Beatles / Chains
〜 The Beatles / Love You To
ジョージ・ハリスンがインドに傾き始めたっていうのは、結構時代感が生まれるね。もう一発で1966〜7年っていう感じがするもんね。
・1963年2月11日日曜日、ロンドンEMIアビー・ロード第2スタジオでのたった一日のセッションで、ビートルズのデビュー・アルバム
「Please Please Me」の録音は終了した。残念なことに、そのレコーディング・セッションには立ち会えなかった男がいる。彼の名は
ジェフ・エメリック。彼は後にアビー・ロード・スタジオで行われる数々のレコーディングのチーフ・エンジニアとして、ビートルズ
サウンドを築き上げる重要人物。そのエメリックであるが、EMIというお役所体質の会社のシフト管理のせいで、ビートルズのデビュー
アルバムの誕生に立ち会うことが出来なかった。後日エメリックは、セッションに立ち会ったリチャード・ランガムからその日の一部始
終を聞くことになる。場所は、EMIの社員食堂。もしくは、仕事帰りのパブ。ランガムが、得意げにしゃべりだした。「ジェフ、ビート
ルズの連中は、本当にスゴかったよ。なんせ、アルバム一枚分の曲を全て一発録りでだよ。10曲以上も演奏しちゃうんだ。それも、演奏
する回数なんて、ほんの3〜4回だぜ。出来の良さと言ったらもう、ピカイチだよ。それに夜10時近くになってから、ジョンがもう一曲
やらせてくれって言うんだよ。曲は“ツイスト&シャウト”だ。もう暖房も止まって寒いし、演奏しすぎでクタクタだってのに、ジョン
は上半身裸になって、ノドも張り裂けんばかりに熱唱するんだよ。俺は彼らのライブは見たことないけど、きっとアレはライブを越えて
ると思うよ。いや、大げさじゃなくて、本当に超スゴかったんだから。」こんなに興奮した様子で語るランガムは、珍しかった。当然こ
の話を聞いたランガムは、どうしてもその曲が聞きたくなった。しかし、お役所会社EMIの社内規定で、録音物は勝手に聞いたりすること
は御法度。何とかビートルズの熱演を収めたテープを試聴することは出来ないものか。そのチャンスをうかがう、若き日のエメリックで
あった。
〜 The Beatles / Twist and Shout
〜 The Beatles / Drive My Car
・なんとかして、ビートルズのテープを聴けないものか。ああ、でも無理だよな…。 ── デビュー・アルバム「Please Please Me」の録
音現場に立ち会うことの出来なかったアシスタント・エンジニアのジェフ・エメリックが、なかばあきらめていたその矢先、彼の願いは
かなえられた。一週間後に、プロデューサーのジョージ・マーティンの仕事に呼ばれたのである。おそらくその日は、エンジニアのノー
マン・スミスも同僚のリチャード・ランガムも体が空いていなかったあろう。とにかく、ラッキーである。この日の作業では、2〜3曲
にマーティン自らキーボードをダビングするというもの。ジョージ・マーティンは、ロンドンのギルドホール音楽院で音楽の基礎をきっ
きり学んだ、アカデミックで素養豊かな人物である。だが、おそらくロックの音楽に、演奏家として参加するのはこれが初めて。この日
マーティンはピアノと、可愛らしい音のする鍵盤楽器チェレスタを演奏した。そしてそこで、アシスタント・エンジニアのジェフ・エメ
リックは、噂に聞いていたマーティンの十八番ワインドアップ・ピアノに初めて遭遇した。このワインドアップ・ピアノは、日本語にす
ると巻き上げピアノとなる。詳しく説明すると、最初に録音したテープを半分の速度で再生し、それに合わせて最終的な音程より1オク
ターブ低いところでピアノを弾き、ダビングを加える。それを、通常の速度で再生すると、最初に狙った音域に収まり、さらに通常に弾
いた時より重量感のあるエレガントでゴージャスなロック・サウンド・ピアノとなる。それに半分の速度で演奏するということは、かな
り早い、実際にはあり得ない速度のフレーズでも、何とか演奏することが出来る。まさに、一石二鳥。もちろん、半分の速度で弾くとい
うことは、テンポが不安定になりやすいため、クラシックの素養があるマーティンでさえ、苦労しながら演奏した。しかし、その姿はか
なり、楽しそうでもあったのである。こうして、数々の演奏は完成していった。
〜 The Beatles / In My Life
〜 The Beatles / Yesterday
このたびデジタルのリマスターが発売されたということで人気投票があったようですが、In My Lifeが2位なんですよ。スゴいことです。
ただ、Yesterdayは8位でした。どういうことでしょう?
□リクエスト
・僕は高校一年で、もうビートルズで12年間聞いています。クラスメイトで、ビートルズを知ってる人が一人もいないので、ビートルズ
の話題が出せず、さびしいです。ひとりでも多く、僕の理解者が出来るよう、がんばっています。P.S. ヘフナーのベースを買いました。
(石岡市/男性)
〜 The Fireman / Sing the Changes
(小林)高校の仲間が分からないってのはね、聞かせてあげれば、これはスゴい!と言うハズですよ。ただ、機会がないだけですよ。
・リマスター盤が発売され、ビートルズ・ブームが起こりそうな気配。そして、ビートルズの楽曲を日本でも様々なアーチストがカバー
していますが、きょうのリクエストはアルフィーのTicket To Ride。アルフィーは、ビートルズと同じぐらい僕の大好きなアーチスト
なので、かけてくれると嬉しいです。(宇都宮市/男性)
〜 THE ALFEE / Ticket To Ride [涙の乗車券]
(小林)アルフィーらしい、アレンジの大サービス! 高見沢臭が強かったのかな。
・リマスターのCD、ツタヤで借りて聞きました。ホワイト・アルバムを聞き比べて驚きました。特に低温がこもってなくて、迫力がある
んです。最後まで聞きたいので、克也さんの力で最後までお願いします。(さいたま市/男性)
〜 Led Zeppelin / Stairway to Heaven
(小林)全部かけたぞ! …よく言われるのは、Stairway to Heavenというのは、ドラッグのことを言ってるんだと言われた時代です。
でもこの番組は、ビートルズから始まる。わけですよね。そして、ビートルズが終わるんです。そして、ビートルズを継いでいく
のは、隣の畑にいたツェッペリンだったわけですね。ビートルズみたいに天才的な人が揃っていても、エゴが強くなってくると
バラバラになって失速していくわけですね。かたやツェッペリンが勢力として現れるわけです。ジミー・ペイジに至っては、
「ビートルズ? ビートルズはスゴかったけど、俺たちはビートルズに比べて、同じ4人でも音楽性とか、音楽のスキルとか、精神的
なものが上だった」みたいな、次の時代を担う者の発言ですよね。
(小林)そうですか、時の流れを感じませんでした? ツェッペリンの方が良いなと思った人もいるはずですよ。しかし、歴史がだんだん進行して
今の時点で振り返ると、ビートルズが燦然と輝いてる。もちろん、ツェッペリンもスゴいですよ。面白いもんですね。音楽は次々とつながって
受け継がれていくわけですね。ということで、皆さんからのリクエストもお待ちしています。お相手は、小林克也でした!
214 :
ホワイトアルバムさん:2009/11/02(月) 00:07:44 ID:29CLDOeq0
In My Lifeの人気は、アンソロジーの影響大。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年11月1日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(11月1日)
・1963年 (46年前)
ビートルズじゃないんですが、ローリング・ストーンズです。ローリング・ストーンズの「I Wanna Be Your Man」がイギリスで
発売になります。で、ビリー・J・クレイマー&ダコタスの「I'll Keep You Satisfied」、この曲も同じ日に発売になってます。ど
ういうことかというと、両方ともビートルズが書いた曲なんです。ストーンズはご存知の通り、ビートルズと良く比べられるんで
すが、最初はR&Bとか、ストーンズはブルースのカバー・バンドだったんです。だから、人の有名な曲をやればいいというんで、
パフォーマンスのことを純粋に考えてたバンドだったんだね。ところが、ビートルズは根本的に違っていました。ポール、ジョン
が曲を作ったわけです。で、ビートルズが先に売れるわけです。ストーンズも ── これはまずマネージャーが先に感じるんです
よ ── あ、曲を作らなきゃってことで、最後には強引にホテルに閉じ込めて、ミック・ジャガー、キース・リチャーズに曲を作
らせるようになるわけですが、最初はビートルズと親しくなって曲を欲しいということで、実はコレは簡単に書いて、楽屋か何か
で書いて渡したという話も伝わってきます。この曲は「♪お前の男になりたいんだ、お前の男に〜」みたいな簡単な曲ですからね。
ああ、そうかそんなに簡単に。というか、ミックとキースはそんなに曲をかけなかったの?っていう、面白いですよね。
〜 Billy J. Kramer & The Dakotas / I'll Keep You Satisfied
□ビートルズ、デビュー
・1963年2月11日 ── ビートルズは、たったの一日でデビュー・アルバム「Please〜」のレコーディングを終えた。まるで、ライブ
と同じ、一発録音である。1963年当時、アルバムをライブと同じような状態で一日で録り終えることは、さほど珍しいことではなか
った。しかし、ビートルズの場合、他のバンドとはかなり違っていた。大抵のアーチストの場合は、スタジオに入ってしまうと、萎
縮してお行儀が良くなりすぎてしまい、こじんまりとまとまってしまうのが普通。つまり、ライブと同じように録ってはいても、そ
れは実際のライブとは、ほど遠いものとなる。しかし、ビートルズはやはり、特別であった。集中力が違っていた。むしろ、地元リ
バプールの本拠地キャヴァーン・クラブでの演奏より、熱いものになっていた。それはまさに、ツアーで廻る際の一夜限りの演奏。
いわゆる、ワン・ナイト・スタンドそのものである。プロデューサーのジョージ・マーティンが、自らピアノをダビングしたところ
はあったが、その他はスタジオ・ミュージシャンのサポートなし。ビートルズの四人だけの演奏だ。しかし、その環境は厳しいもの
であった。この頃まだ、地元リバプールに住み、仕事のたびにロンドンで演奏していたビートルズの体調は、決して万全ではない。
特にジョンのノドの調子は、風邪のせいで最悪に近いものであったという。何とか調子を取り戻そうと、ノド飴をなめて、ミルクで
うがいをした。夜になると、さらにノドの具合は悪くなり、うがいの際に吐き出したミルクには血が混じって、ピンク色に染まった。
それでもジョンは上半身裸になり、全身全霊を込めて最後の曲「Twist and Shout」を熱唱したのである。ジョージもボーカルを担当
し、リンゴも一曲歌った。もちろんいつものように、アレンジや演奏の面では、ポールがリーダーシップをとった。とにかく、ランチ
タイムもそっちのけでリハーサルを続けて望んだレコーディングは、夜の10時を回って、ようやく終了したのである。コントロール
ルームで、その日の演奏を聴くメンバーもスタッフも、大満足であった。こうして、ビートルズのデビュー・アルバム「Please〜」
は完成した。
〜 The Beatles / I Saw Her Standing There
〜 The Beatles / Getting Better
・1963年2月11日日曜日 ── ロンドンEMIアビー・ロード・第2スタジオの、たった一日のセッションで、ビートルズのデビュー・
アルバム「Please〜」の録音は終了した。その後日、プロデューサーのジョージ・マーティンの手による独特の手法、巻き上げピアノ
のサウンドがダビングされた後、モノラルにミックスされて、マスター・テープは完成された。ミキシングと言っても、この時代の録
音は、たったの2トラックしかないテープ・レコーダーで行われている。つまり、最初のトラックには演奏。そして。残る2トラック目
にはボーカルということ。これでは、エンジニアに出来ることと言えば、演奏とボーカルのバランスをとって、エコーを加えるのが関
の山である。なのに、なぜビートルズのレコードは生き生きとして、躍動感にあふれているのか。それはまず、最初に録音した際の
エンジニアの腕がいいこと。つまり、バンドの持っているポテンシャルを100%残さずテープに記録しているという点があげられる。
もちろん、ビートルズの演奏はテクニックうんぬんよりも、リスナーに訴えかける何かにあふれている。そして、忘れてはならないの
が、ビートルズが解散まで愛して使い続けた、アビー・ロードの第2スタジオが持つマジック。当時、何もこのスタジオに機材があった
わけではない。逆に「なかった」からこそ、ジョージ・マーティンやエンジニアのノーマン・スミス、その他全てのスタッフが創意工
夫をこらし、ビートルズのサウンドをよりよいものにして、ファンに提供するという愛に満ちていた。そんな全員の気持ちが、ビート
ルズのレコードにマジックと言っても良いほどの、大切な何かを注ぎ込んだのである。デビュー・アルバムの「Please〜」から、実質
的には最後のアルバムとなる「Abbey Road」まで、ビートルズのアルバムのほとんどは、このスタジオから生まれていったのである。
〜 The Beatles / There's a Place
〜 The Beatles / Come Together
・ビートルズのメンバー一丸となっての演奏と、スタッフの一流の仕事ぶりで、デビュー・アルバム「Please〜」のマスター・テープは
完成した。当時の完成型は、もちろんモノラル・ミックスである。しかし、これだけスゴい仕事をしたばかりだというのに、ビートル
ズはふたたび、人気少女シンガー、ヘレン・シャピロとの全国ツアーに戻っていった。この時代、まだバンドの収入源は、ライブの
ギャラ。つまり、日銭稼ぎの毎日である。印税生活なんて、まだまだ先の話だった。その印税収入を稼ぎだすために、マネージャーの
ブライアン・エプスタインを始め、所属事務所であるNEMSのスタッフは、仕事を続ける。まずは、アルバムのライナー・ノート。
NEMSには既に、広報担当兼ロンドン支社長として、トニー・バーロウがいた。元々リバプール音楽雑誌の専属コラムニストで、ビー
トルズを落とした ── 採用しなかった ── あのデッカ・レコードの社員でもあった人物である。バーロウは、デッカ・レコードで
ライナーの達人と呼ばれていた。バーロウは、デビュー・アルバム「Please〜」のライナーに、こういう文章を書いた。「プロデュ
ーサーのジョージ・マーティンが、選曲に頭を悩ませることは全くなかった。ジョン・レノンとポール・マッカートニーという、バン
ド自身の作曲家チームは、この1963年から1975年までオリジナルのシングルを定期的に発表していけるだけの自作曲を既にたっぷ
りと蓄えているのだ。ビートルズは、レコード制作の第一歩から、何でも自分たちでやっていける姿勢をとってきた。自分で歌詞も
書くし、バックの演奏も自分たちで考え、最終的にはそれを作り上げ、ボーカルのアレンジも自ら練り上げる。彼らの音楽は、野性的
で痛烈で、自由奔放で個性的だ。」バーロウの表現は、読み手であるリスナーの気持ちをあおる部分もあったが、そのほとんどは事実
を淡々と表現したものであった。そして、ビートルズの潜在的な能力は、この先さらに開花していくのである。
〜 The Beatles / A Hard Days Night
□リクエスト
・音楽で、元気をもらっています。彼らの音楽はリアルタイムではありませんが、今聞いてもカッコいいです。先日、加藤和彦氏が死去
で、とてもショックです。やさしくて、とても感じがいい人でした。中学の頃に音楽の授業で「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌っ
たことがありますし、彼が残した作品はいつまでも歌い継いで欲しいと思っています。(吉川市/女性)
〜 サディスティック・ミカ・バンド / タイムマシンにおねがい
(小林)あなたは、この番組10年近く聞いてるんじゃないですか?
・この間、なけなしのお金をはたいて、ビートルズのリマスター、ステレオBOXとモノBOX両方買いましたよ! 私がビートルズを聞き始
めた頃は、ステレオが一般的になっていたので、Help!以降のモノラル盤を聞くのは今回初めてなのですが、モノの方が圧倒的にカッコ
いいですね。音質の違いだけじゃないんですね。受ける印象が全く違うのに驚きました。ステレオは音がクリアですが、ロックとして
の迫力に欠けてしまうように思いました。ビートルズ・サウンドは、モノで聞いてこそ、その本質が分かると思いました。しかし、私は
小学生の時からビートルズを聞いて30年余りになるんですが、本当にはビートルズの良さを分かっていなかったのかと思うと、愕然と
なります。ああ、私のビートルズ・ファンとしての、この30年は一体なんだったのでしょうか。また、これからやり直しです。(松戸市
/男性)
〜 The Beatles / We Can Work it Out
(小林)いや、それは違うと思います。これからも、大変。その30年は貴重だと思うよ。この方は、これだけモノが良いって言って
おきながら、曲によってはステレオの方が良いものもあるってことで、ステレオでお送りしました。
・随分前にビートルズの雑誌を読んでいたら、メンバー四人のプロフィールが載っていて、各自の身長が書いてあったんですが、ジョン
ポール、ジョージの三人の身長が全く同じだったのを覚えています。フロントに立つ三人の身長が全く同じなんて、絵的に最高です。
そんなグループ、他にないと思います。神様が作ったとしか思えない。その他にもビートルズには、信じられない偶然があるように思い
ます。ポールがたまたま左利きで、一本のマイクで歌っても楽器がぶつからない。ジョンとポールの声質のバランスや、作曲の好みなど
そんな絶妙の組み合わせがあると思います。そして何よりの偶然は、四人が新しいものが好きで、世の中を斜めに見て、ユーモアにとん
だ性格であることです。リクエストは、当時のイギリスのブルース・ブームを皮肉った曲だということですが、パロっているようで、
ビートルズらしさが漂っています。(匿名希望)
〜 The Beatles / Yer Blues
・先日、リバプールに行ってきました。街の人は親切で、ビートルズについて色々説明してくださる方からは、リバプールを誇りに思って
いる気持ちが伝わってきました。実際に見るストロベリー・フィールズは、赤い門も敷地内の木々で出来たトンネルも、その先に見える
光にも特別なものを感じる場所でした。ジョンは人気者だねと言って、写真を撮ってくれた通りすがりのおじいさんは、帰り際にこちら
に向かって「Strawberry Fields Forever」と歌いかけてくれて、私も「Forever」と歌い返しました。世代や国境を越えて、これからも
愛され続ける名曲だなと思いました。(匿名希望/女性)
〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever
(小林)映画みたいな体験をされましたね。
(小林)1963年あたりのお話、やはりビートルズはスゴいんだということが伝わってきます。そして、デジタル・リマスターが出てから、この
番組楽しみが増えました。なにしろ、音が色々楽しめる。音が素晴らしい。リクエストお待ちしています。モノ、ステレオ、指定してくださっ
て結構です。来週は、公開録音の模様をお送りします。お相手は、小林克也でした!
地方に住む人間としては、一度音声でこの番組を聴いてみたいものだ。
キロックトニーさん、先週は規制にひっかかってた?
きょうの放送は、公開録音分か。楽しみだな。
224 :
ホワイトアルバムさん:2009/11/23(月) 06:45:15 ID:+37mGIl9O
こんばんは、渋谷陽一です。
スレ主さんもう来ないのかな(´・ω・`)
キロックトニーさんどうした?
力尽きたか?
ビー板の良心が(´・ω・`)
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年11月8日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□クラブ・イクスピアリでの公開録音(10/28)
「こんばんわ! 小林克也です。(歓声)元気ですかー。(歓声)伊藤銀次!(歓声)RAGFAIR!(歓声)これだけしか、覚えてない!
パーティー!(歓声)パーティー!(歓声)お名前は?」「○○○です」「どこからきましたか?」「えー、市川です」「この番組、
いつから聞いてるの?」「最近..、聞き始めたので..」「どこがいい?」「え?...ビートルズの話を..」「してくれるところ? はい!
何歳?」「13歳」「13歳!(歓声)うわー、ありがとう!ありがとう。そして、かたやお隣の方です。お名前は?」「えーと、
匿名希望でお願いします」「とくさん!どこから来ました?」「千葉県松戸市の新松戸というところから」「あ、新松戸から、この番組
を。いつ頃からこの番組を?」「8年ぐらい前から」「ありがとうございます。どこがいい?」「皆さんからのリクエストのコーナーが
あるんですけど、そこで色んな私と同じような古い方や新しい方からのビートルズの話が聞けて、楽しみです」「きょうはちょっと違う
だけどビートルズで育った二組です。楽しんでいただきたいと思います。この番組のどこが?(笑)あの?」「え?...ないです。」
「ということで、パーティー!(歓声)ビートルズから始まる。スペシャル・パーティ!この番組は、石井食品の提供でお送りします!」
「奥村政佳! 加納孝政! 引地洋輔! 加藤慶之! 土屋礼央! 荒井健一! Ladies and Gentlemen! RAGFAIR!」
〜 RAGFAIR / あさってはSunday
「どうもこんばんは、みなさん。RAGFAIRです! ビートルズから始まる...と言いつつ、我々のオリジナルから始まってしまったわけですが
おいおい、どうなってるんだとお思いの方、お待たせしました。ここからでございます。なにかビートルズから一曲とお願いされまして、
まー我々は優柔不断なのか欲張りなのか、一曲ですか?それはもう選べない!というわけで、ちょっといっぱい歌って良いですかという
わけで、良いとこ取りですけど、メドレーをお聴きいただきたいなと。ほんと、ビートルズをお好きな方は、あの曲も混ざってるんじゃな
い?と、数えると10曲近い要素が入ってるんじゃないかと思います。それではどうぞ!」
〜 RAGFAIR / ビートルズ・メドレー(She Loves You ~ Anna ~ A Hard Days Night ~ Twist and Shout ~ Drive My Car ~ Help!)
「ありがとうございます。選べないですよねー、一曲だなんて! というわけで、ビートルズ・メドレーお届けしました。では、もう一曲
お聞きいただきたいんですけど、我々この夏にニューアルバム、"Magical Music Train"というアルバムをリリースしてまして、その中の
(拍手)まだ夏という気分ですので、ぜひ購入していただきたいんですが、その中から一曲、全員がヒーローという曲を聴いてください。」
〜 RAGFAIR / 全員がヒーロー
「ありがとうございます!(歓声)」
「うわー!うわー!いえー!RAGFAIR!ごくろうさん!このスペシャル・パーティーの売り物はね、ステージの短さ。(笑) あと、これで
本当に終わりなの。でもこの後はね、伊藤銀次さんとスペシャルで、ビートルズやりますから。はい、それでは一応送り出してください。
RAGFAIR!どうも!どうもありがとう!」
「それでは、ぼくが尊敬するシンガー・ソングライターであり、ロッカーであり、そして古くはアン・ルイス、新しくはウルフルズなんか
のプロデューサーでもあります。紹介します!伊藤銀次さんです!銀ちゃん!銀ちゃんと呼んで!(銀ちゃーん)」
「どうもありがとう!」
「改めて拍手をお願いします、伊藤銀次さんです。」
「伊藤銀次です。なんかね、六人いた後に一人ですから、音的にはしょぼいですけど、気分だけは盛り上がっていきますんで、みんなも
手伝ってくれます?今ね、今年ずっと、I Stand Alone..一人で立つってね、ギター一本で全国ずっと廻ってきました。ぼくずっと10年ぐらい
はウルフルズとかプロデュースばかりやってて歌を歌ってこなかったんだけど、今年はまた歌を歌っていこうかなと始めました。そして
各会場で、北海道から九州に至るまでギター一本で、ノリの良い曲は皆に手伝ってもらってます。みんな僕のドラムになってくれるかな?
(拍手)OK!じゃ、いくよ。」
〜 伊藤銀次 / 風になれるなら
「どうもありがとう!ノリすぎて、マイクに当たっちゃって..。きょう初めて逢う方もいると思います、伊藤銀次です。よろしく!先に出て
くれて、素晴らしいコーラスを聴かせてくれたRAGFAIRと同じく、ビートルズの曲で始めてません!(笑)ビートルズから始まると言っておき
ながら。えー、ではビートルズの曲を続けてやろうと思うんですけど、今回ビートルズの曲をやるということで、ビートルズの曲を全部聞き
直して、全部良い曲でどの曲をやろうか本当に迷ったんだけど、やっぱり難しいのは、ビートルズの曲ってコーラスが多いですね。だから
RAGFAIRなんかは非常に選曲が楽だったと思うんですけど(笑)。ね、コーラスが武器だから(笑)。ぼく一人で、二声は出ないのでね。で色々
考えたあげく、一人で歌ってもすごく良い曲に聞こえる曲を考えたあげく、で、ぼくはジョン・レノンの曲が好きなんですね。もちろん、
四人とも素晴らしいミュージシャンでみんな好きなんだけど、なんかぼくは中学生の時にジョン・レノンの Please Mr. Postman という曲を
初めて聞いて、なんというか切ない、激しく切ない、ジョン・レノンの声にすっかり魂を奪われて、それからビートルズ好きになったもので
どうしてもジョン・レノンにひいきをしてしまうんだけど。きょうの曲は(ギターをじゃらーん)、ジョン・レノンの曲です。..うまくいくかな
あまり普段やったことないんでね。ビートルズ・ファンの投票によりますと、ビートルズの曲の中で、日本人が二番目に好きな曲だそうです。
一番目は Let it Be かな。In My Life。」
〜 伊藤銀次 / In My Life
「本当に、こんな素晴らしい曲を作れる人たちなんて、人間じゃないんじゃないかと。とっても、素敵な曲ですね。先ほどもちらっと話しまし
たけど、今年はアーチストとして、ギター一本で廻っています。自分のもので、過去にレコーディングした曲をギター一本で出来ないかという
ことで、またアレンジしまして廻ってるんですけど、面白いものでオリジナルにはドラム、ベース、キーボードとか、ちゃんとフルの楽器が
入ってて、それをギター一本で廻ってる内に、ライブに来られたファンの方が"この今やってる曲のアコギのバージョンが聞きたい"という
メッセージがホームページに来まして、そのアコースティック・バージョンをCD化しました。きょう歌った"風になれるなら"という曲は
元々はピアノでガガガガ、ガーンとやってた曲をギター一本でやって、最初は大変だったんですけど、もし良かったら、今日は表に置いてます
んで、ここ自己宣伝です(笑)。気に入った方がいたら、聞いてください。それから、ぼく実は誕生日、12月の24日なんです(拍手)。故郷では
キリストと呼ばれてましたが(笑)、その24日の前日、12月23日になんと、今年一年の I Stand Alone ツアー、ギター一本で弾き語りツアーの
ファイナルが、渋谷の 7th FLOOR という所であるんですが、ま、何曲歌えるか分かりませんが、なるべくたくさんの曲を歌って、そして
ビートルズのカバーとかも歌いたいと思いますんで、もしなんか時間のある方は、ぜひ来ていただいて、ぼくの誕生日を祝いながら(笑)
来てください(拍手)。ありがとう。さっき楽屋で、RAGFAIRの本当に元気のいい演奏を聴いていて、なんか本当にスゴく良いなあって思いまし
たね。ぼくがビートルズと出会った中学生の時は、あんなことをやろうと思っても、周辺にそんな友だち集めてなんて出来なかったから、
やっぱりそれだけ日本の音楽シーンが、こう誰もが自由に音楽をやれるような環境になってきたのかなと、すごく嬉しかったです。で、ここで
やっぱり楽屋でね、血がムラムラと騒いできたんだけど、若さでは勝負しても負けるだろうと(笑)。どんなに一日10キロぐらい走っていようと
それぐらいではRAGFAIRには勝てないと(笑)。ここは大人の世界で勝負しようと(笑)、ぼくの最後の曲はちょっと大人っぽいというか、誰でも
経験あると思います。若いときでも年をとっても、昔のうまくいかなかった恋。ぼくは結構あるというか、人の気持ちをあまり考えないときを
過ごしたもので、結構自分勝手な自分だったものでね..。そういったことを思い出しながら、歌にした曲です。涙のわけを聞いてください。」
〜 伊藤銀次 / 涙の理由を
「どうもありがとう。」
「うぉー!銀ちゃーん!(銀ちゃーん!)」
「さあ、それでは名前全員言えるかな(笑)。若い衆に、まさちゃーん!たかちゃーん!..それから、けんちゃーん!ようちゃーん!よしちゃー
ん!..あれ?れおちゃーん!全員だよね? RAGFAIR! 銀ちゃーん! みんな、それぞれコールして、ほら好きな人! まさちゃーんとか、銀
ちゃーん! かんちゃーん! ありがとう! で、これ、みんなね。本当に最後、コーラスのところだよね。歌詞カードいってる? 歌詞カード
あっても、ラでいいから。ラララでいいから。」
〜 RAGFAIR & 伊藤銀次 / Hey Jude
「(後半、小林悪ノリ)みんな歌ってー! 銀ちゃーん! まさちゃーん!たかちゃーん! けんちゃーん! ようちゃーん! よしちゃーん!
えっと、それから後一人、誰だっけ?(笑) れおちゃーん! bayfmちゃーん! 石井食品ちゃーん!」
「ありがとう! RAGFAIR! 伊藤銀次! ありがとう!(大拍手) 後は食べるだけだ。」
「ビートルズから始まる。スペシャル・パーティ、いかがでしたか?(大拍手) わぁー!良かった? もう、ありがとう、ありがとう、ありがとう
○○○君、楽しかった?」「もう、すげえ楽しかった」「匿名希望のあなた、どうだったですか?」「いやあ、もうノリノリだったです」
「どうも、ありがとう! 伊藤銀次! RAGFAIR! 小林克也! この番組は、石井食品の提供でお送りしました! どうもありがとう!」
キロックトニーさん乙です!(`・ω・´)
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年11月15日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(11月15日)
・1962年 (47年前)
ビートルズは、マネージャーのブライアン・エプスタインと一緒に、当時の西ドイツのハンブルグから帰ってきます。ハンブルグへ
ビートルズは出稼ぎに行くわけですよ。実は、ビートルズのたくましさはスゴいんですけど、ハンブルグで、行くクラブ行くクラブ
で、ビートルズは人気者になるんです。で、四度目のハンブルグ行きから帰ってきます。で、その後で手紙のやり取りがあるんです
けど、興行師のラリー・パーンズは、一週間140ポンドでどうだっていうことをいうわけです。ところがマネージャーのブライアン
・エプスタインは「ノーノー」。200ポンドを要求します。この200ポンドを今のお金に直すとどうでしょうね。10万行かないです
けど、当時のお金だと、相当のギャラですよね。ビートルズはちなみに「Love Me Do」をイギリスで出してて、まだまだ印税とか
入ってこない。で、ドイツで有名。ハンブルグで、地域的にスゴいバンドだという存在でした。その頃であります。実は、契約が残っ
ていて、最終的には翌12月クリスマス・シーズンに、最後のハンブルグ巡業に出かけていくわけであります。後半は、スター・クラブ
という所でビートルズは仕事をするわけですが、そこでの貴重なライブが残っています。マイク一本、家庭用のテープレコーダーで
録っています。
〜 The Beatles / Sweet Little Sixteen
□ビートルズ、デビュー
・ビートルズの記念すべきデビュー・アルバム「Please〜」の発売に際し、所属事務所NEMSエンタープライズの広報担当兼、ロンドン
支社長で、元デッカ・レコードのレコード・ジャケット担当者だったトニー・バーロウは、次のようなライナー・ノートの文章を書い
た。「プロデューサーのジョージ・マーティンが、選曲に頭を悩ませることは、まったくなかった。ジョン・レノンとポール・マッカ
ートニーというバンド自身の作曲家チームは、この1963年から1975年までずっとオリジナルのシングルを定期的に発表していけるだ
けの自作曲を既にたっぷり蓄えているのだ。ビートルズはレコード制作の第一歩から何でも自分たちでやる姿勢をとってきた。自分で
歌詞も書くし、バックの演奏も自分たちで考え、最終的にはそれを作り上げ、ボーカルのアレンジも自ら練り上げる。彼らの音楽は野
性的で痛烈で、自由奔放で個性的だ。」この文章が果たして大風呂敷、もしくはでっち上げかどうかは、誰もがご存知の通り。この後
のビートルズが塗り替えるロックの歴史が証明することになった。そして、アルバムのレコーディングから9日経った2月20日。ジャ
ケットの撮影のため、ビートルズのメンバーの4人は、再びロンドンにやって来た。撮影場所はアビー・ロード・スタジオではなく、
EMIの本社ビル。通称、EMIハウス。このジャケットのカバーに使われた写真も、画期的なものである。なにせ、ビルの階段から四人が
下を見下ろして、にっこりと微笑んでいる。この撮影の構図は、その後数多くの写真家によって、真似をされることとなる。そして
これを機にビートルズは、アルバムのジャケットにもこだわりを見せることになる。単なるアイドルではない、ロックをアートの世界
に引き上げるきっかけとなったのも、間違いなくこのビートルズである。そして、撮影の二日後の2月22日。アルバムの発売を待たず
して、シングル「Please〜」は、ついにイギリスのチャートでNo.1に輝いたのである。
〜 The Beatles / Please Please Me
〜 The Beatles / She Said She Said
(小林)3年経って、ビートルズは成長しています。「Please〜」ではダジャレっぽいラブ・ソングだったのが、「She Said〜」では
サイケっぽい、謎を残す、立体的な詩になっています。
・1963年2月22日 ── ビートルズの二枚目のシングル「Please〜」は、イギリスのチャートでトップに輝いた。アルバムのレコーディ
ングも終了している。これで、ブレイクへの準備は全て整ったかのように見えた。しかし、手を休めることは出来ない。レコーディン
グが終わったとはいえ、アルバムの発売まではまだ時間がかかる。シングルの発売と違って、曲のミキシングや曲順決め、そしてジャ
ケット制作はもちろん、宣伝に関しての準備も必要である。ビートルズが契約したEMIは、イギリスでも最大のレコード会社。そう簡単
に事が運ぶわけもない。そのことは、プロデューサーのジョージ・マーティンもマネージャーのブライアン・エプスタインも、十分に
理解している。そうなると、先手を打っていくしか方法はない。マーティンとブライアンは、良く話し合った。その結果、出た結論が
こうである。ビートルズは、三ヶ月毎にニュー・シングル。半年に一枚のペースで、ニュー・アルバムを発表すること。もちろん、これ
がすべて計画通りにいったわけではない。しかし、マーティンはこれを念頭に、ビートルズの尻をうまく叩いた。さあ、次もヒット曲を
作ろう。もっとヒットする曲を書いてくれよ。マーティンのこの言葉に、ジョンとポールは励まされ、がんばった。もちろん、ジョージ
もリンゴも、最高の演奏を常に心がけている。3月5日に、レコーディングされた「From Me〜」は、ビートルズの三枚目のシングル曲
候補であった。曲は、ジョンとポールが、ヘレン・シャピロとのツアーの間にバスの中で書き上げた、まさに出来立てのホヤホヤ。この
当時のレコーディングは、常にライブと同じように、歌と演奏を同時に行う一発録りスタイルであるが、これは既にアルバムのレコー
ディングで十分に経験している。問題はない。四人で同時に出る所を最初に録音して、これにハモニカとコーラスをダビングする。そし
てマーティンの提案で、イントロをコーラスで始めるという独特なスタイルが出来上がった。ビートルズは、早くも独自の手法で新曲を
完成させたのである。
〜 The Beatles / From Me To You
〜 The Beatles / Across The Universe
・ビートルズは、三ヶ月毎にニュー・シングル。半年に一枚のペースで、ニュー・アルバムを発表すること。 ── これは、プロデューサー
のジョージ・マーティンとマネージャーのブライアン・エプスタインが、話し合って立てた計画である。なぜ、ここまで早いペースで
新曲を発表していくのか。その理由は、ビートルズが契約したレコード会社、EMIのお役所的な体質にあった。レコーディングの時間は
決められ、エンジニアのシフトも徹底的に管理され、宣伝予算は要求額の半分出たらマシな方。スタジオ内では、出して良い音量に始ま
り、マイクロフォンから楽器の距離に至るまで、全て細かくてがんじがらめであった。そのため、常に先手を打って、いつでも新曲を
発売できる状況を作っておくしか、対抗する手段はなかったのである。せっかく「Please〜」がNo.1を記録したといっても、イギリス
では発売されている新曲はビートルズだけではない。ロックの世界も、当然競争社会。手を緩めたら、すぐに負けてしまうのである。
三枚目のシングル「From Me〜」のレコーディングは、順調に進んだ。B面予定の「Thank You Girl」もビートルズらしい、軽快でポッ
プな曲。ここまですんなりと行き過ぎてしまって、時間が余ってしまった。貴重なスタジオ時間である。無駄にしてはもったいないと
いうことで、ビートルズが用意してあったもう一曲を録音してみることにした。タイトルは、「One After 909」。ジョンとポールが
高校生の頃、書いたロックン・ロール・ナンバーである。曲は良かったのであるが、アレンジがどうしても決まらない。ジョージのた
どたどしいプレイに対し、ジョンが怒鳴った。「おい、なんてひどいソロなんだ!」結局、この曲は5回録音されたが、誰も満足を示
す者はいなかった。完全なる、ボツ曲である。最終的にこの「One After 909」は、1969年に改めて録音され、ビートルズ最後のアル
バム「Let it Be」で日の目を見ることになる。
〜 The Beatles / One After 909
〜 The Beatles (with Billy Preston) / Don't Let Me Down
(小林)「Let it Be」はビートルズ最後のアルバムですが、曲目を見ると最後のアルバムを意識したものだということが分かります。
特にお馴染みの「The Long and〜」は、振り返ってるわけですよね。前を見るわけじゃなくて、後ろを振り返っている。そして、
「One After 909」も、自分たちが始めた頃の、初心のロックン・ロールというわけで、この二つを見ても、最後なんだなというの
が分かる。やっぱり、ビートルズって、けじめを付けてるというか、結果的にそうなってる。それとも、僕たちの深読みなんでしょ
うか。面白いですよ、ビートルズは。
□リクエスト
・先日、夜道をドライブしていた時に、少し雲がかかったおぼろ月を見ていたら、ふと自分が免許取り立ての頃、親父の車で、酔っぱ
らった親父を駅まで迎えに行った時のことを思い出したんです。駅で親父を拾うと、親父はなにげにカセットのスイッチを入れたんで
すが、スピーカーから流れてきたのがビートルズだったんですよ。そして、「Mr. Moonlight」が流れてきたら、「♪みすたぁ〜、む〜
んら〜いと」と親父がシャウトしたんです。親父がビートルズが好きで、車で聞いていることを、そのとき初めて知りました。そして
自分がビートルズを好きになるきっかけでもありました。親父が亡くなって12年になりますが、仏壇の前でビートルズを流し、たまに
は、親父とサシで酒でも飲もうかなと思っています。(越谷市/男性)
〜 The Beatles / Mr. Moonlight
(小林)なかなか、良い話じゃないですか。これ、気持ち分かりますよね、ビートルズが好きになったっていうのはね。その時の状態
がスゴく良かったのに。で、この曲のいきなりの格好良さが来るものね。この曲、ボクが初めて聞いた時のことを思い出しましたよ。
オルガンが入っててね、最初の内はうっすらと聞こえるんですよ。うわー、雰囲気良いなと思ったら、それが間奏に入ってくると、
ジョージ・マーティンが弾いてるらしいんですけど。ビートルズは、一曲一曲この頃は、相当考えて作ってますよね。
・親友から手紙という本をもらいました。内容は、Imagineをコピーするバンドの話なんですが、話を読んでたら Imagineをちゃんと聞き
たくなりました。(佐倉市/女性/35歳)
〜 John Lennon / Imagine
・なんとなく、家にあったビートルズのCDを聞いたら、毎日ビートルズを聞くぐらいの大ファンになってしまいました。中学生で知識も
あまりないので、毎週このラジオを聞いて勉強しています。先日、克也さんのテレビ番組でマイケル・ジャクソンの特集をやっているの
を見て、この曲をリクエストすることにしました。父の話によると、最初にイギリスでこういう活動を始めた聞きました。成り立ちや
メンバーの人たちのことを教えていただけると嬉しいです。(匿名希望/中学生)
〜 USA for Africa / We are the World
(小林)結構たくさんの人たちがいるので…、イギリスのミュージシャンというのはスゴく、特に80年代・70年代はチャリティーを
盛んにやってます。これは、アフリカの飢えた人、特にエチオピアの飢えた人を助けようということで、イギリスのミュージシャン
が始めるわけですよ。あれも、そうですからね。9.11で消防士の人たちがなくなって、それを助けようというのでやり始めたのが
ポール・マッカートニーが最初のコンサートをやりましたからね。80年代では、その他の有名な所では、炭坑が閉まっちゃって、
その炭坑夫の人たちを助けるとか、ライブ・ハウスが壊されちゃうんでそれを存続しようとか、ロンドンからニューヨークに安い
飛行機を飛ばしていたレイカーズという飛行機会社を助けようとか、いっぱいやってるんです。ミュージシャンばかりじゃないん
ですよ。例えば、ライブ・エイドの時は、ミュージシャンばかりじゃなくて、漫画家とかイラストレーターたちが自分たちの活動を
やったんです。それが、USA for Africaにつながったんです。マイケルとライオネル・リッチーなんか参加して、30数名の大スター
たちが参加した…。詳しいことはおとうさんに聞いてください。もしくは、ネットで調べてください。
(小林)ビートルズのスゴさを毎週伝えていますが、きょうみたいに最後に USA for Africa がかかると、時代というものがビートルズを作ったと
いうことが良くわかるんですけどね。いかがでしたでしょうか。お相手は、小林克也でした!
乙です!(`・ω・´)来週も楽しみにしてます!(`・ω・´)
キロックトニーさん、ご健在でしたか。なにより
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年11月22日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(11月22日)
・1963年 (46年前)
もうイギリスでは、ビートルズは大変なことになっています。ビートルズ狂、ビートルズ・マニアという言葉も生まれています。
だけど、イギリス以外、ヨーロッパは知ってたかもしれないけど、ほとんどの国、日本、アメリカ、誰も知りません。二、三ヶ月
経ったらとんでもないことになるんですよね。全世界が知ることになる、ちょうどその頃。ビートルズは、秋のオータム・ツアー
ってのをやってて、ストックトンでコンサートをやってますね。そして、この日はイギリスで二枚目のアルバム「With〜」が発売
になって日であります。これは、予約で30万枚入っていたという、この頃でいえばスゴいことですよね。ビートルズが如何にスゴ
かったか。きょうは、話の後で登場しますが、マネージャーのブライアンとマーティンは、契約した時に予定を立てていました。
ビートルズは、三ヶ月毎にシングルを発売し、アルバムは半年に一枚出して行こうということで、デビュー・アルバムは1963年の
春に出て、半年経った46年前のきょう、「With〜」という二枚目のアルバムを出しています。一枚目も二枚目も、けっこうカバー
が入っています。まあ、ビートルズはもちろんオリジナルも作ってるし、カバーも選曲がスゴい巧みですね。その話は、良くして
ますが。それでは、デビュー・アルバムに続いて、二枚目のアルバムもラストを飾るのは、リズム&ブルースのカバーです。モー
タウンって、知ってますよね。モータウンを作ることになるベリー・ゴーディが作って、バレット・ストロングが歌った大ヒット
曲でした。それをカバーしたのが、ビートルズ。二枚目のアルバムの最後に入っているという曲であります。その曲は!
〜 The Beatles / Money
後半は、「銭や、銭や、銭や!」という感じになりますけど、ビートルズからのメッセージだったんでしょうか。
□ビートルズ、デビュー
・1963年2月 ── シングル「Please〜」が好調なチャート・アクションを見せている中、同じタイトルのデビュー・アルバム「Please
〜」は、レコーディングに入った。スタジオで録音に費やす時間は、たった一日。現在では、考えられないスケジュールである。
しかし、ビートルズはそのたった一日という時間の制約の中で、まさにライブさながらの最高のパフォーマンスを見せた。そして、
翌月の3月5日には、早くも第三弾シングル「From Me〜」の録音である。今回も、曲はジョンとポールのオリジナル。それも、ツアー
中のバスの中で書き下ろされた、出来立てのホヤホヤ。この「From Me〜」は、二つのオリジナリティー。つまり、ビートルズならで
はのポイントがある。一つは、サビで用いたキーを転調するコード進行。これは、ジャズのスタンダードやボサノヴァなどでは、多
用される手法であったが、デビュー仕立てのロック・バンドが、自分たちのオリジナル・ソングとして使うことは前例がなかった。
ジョンとポール、特にポールがいかに色々な音楽に精通していたかを物語る事実である。そして、二つ目のポイント。それは、イント
ロの例の「ララララドゥンドゥンドゥン(小林、思わず吹き出す)」。えー、このコーラスが、ハモニカとユニゾンで使われていること。
最初は、別のイントロが付け加えられていたこの曲であったが、プロデューサーのジョージ・マーティンのアイデアで、ボーカル始ま
りとなった。これもまた、斬新である。「Love Me Do」「Please〜」に続き、こうしてハモニカは、ビートルズのトレードマークに
なった。楽しげな雰囲気と、どこかもの寂しげなハモニカが共存するという、10代の若者にとってはたまらないサウンドが出来上が
っていったのである。ビートルズは、三ヶ月毎にニュー・シングル、半年に一枚のペースでニュー・アルバムを発表すること。という
ジョージ・マーティンとブライアン・エプスタインの目標は、この1963年当時はなんとか実現されていた。1月に発売された「Please
〜」。3月には、デビュー・アルバム。そして4月11日には、三ヶ月ぶりのシングルとなる「From Me〜」が発売されたのである。
〜 The Beatles / From Me to You
〜 The Beatles / If I Fell
・三ヶ月毎に、ニュー・シングル。半年に一枚のペースで、ニュー・アルバムを発表すること。ジョージ・マーティンとブライアン・
エプスタインの立てた目標に従って、三枚目のシングル「From Me〜」は発売された。1963年4月11日のことである。当時、シング
ル盤には、アナログのドーナツ盤の裏側に、B面の曲がある。この頃のイギリスの経済は、現在のような状況ではない。若者たちにと
って、シングル盤を買うという行為は、めったにない特別なものであった。当然、A面だけでなく、B面だって大切に聞いていた。送
り手側のアーチストやレコード会社だって、手を抜くわけにはいかない。いつでも100%、全力投球でサービスを提供しようとがんば
っていたのである。ビートルズのレコーディング現場も同じ。B面がやっつけの手抜き曲であるわけがない。今回のシングル「From Me
〜」のB面となる曲「Thank You Girl」もジョンが中心となって書き上げた、かなり良い曲である。前回のレコーディングのバージョン
では、ちょっとパンチが足りない。ハモニカをダビングしようということで、一週間後の3月13日水曜日、ジョン一人だけがアビー・
ロードの第2スタジオに呼び出された。この日のジョンは風邪にやられていて、体調は最悪であった。なにしろ、前の夜のライブは、
ジョンが休み。ビートルズは三人でステージに立つことになったほどである。しかし、レコーディングのスケジュールは、そう簡単に
は変更できない。ジョンは、ホテルのベッドからそのままやって来たような雰囲気で、かなり無理をしている。当時のビートルズは、
ライブで食べていた状態。いかに、スケジュールが想像以上で過酷なものであったことが分かる。さらに、問題が起こった。ジョンが
ハモニカを忘れてきたのである。すぐに、楽器屋に買いに行かせる案も出たが、出来るだけ早くジョンを帰してあげようということで
セッションは、スタジオのアシスタントが遊びで吹いていたハモニカを借りて行われ、30分程度で終了した。そして、帰り際にジョン
は、こう語った。「きょうのハモニカは、ジャガイモ袋みたいな味がしたよ。」
〜 The Beatles / Thank You Girl
〜 The Beatles / Old Brown Shoe
(小林)この「Thank You Girl」は、ジョンが猫なで声みたいな、甘い声を出すじゃないですか。あれは、バディ・ホリー風。インス
トゥルメンタル風の、相当昔のバディ・ホリーの影響を受けた感じでした。
・過酷なツアー・スケジュールの中、ジョンは遂に風邪をひいてしまった。ライブも休み。その日のステージはジョン抜きの三人で切り
抜けたのであったが、レコーディングとなるとそうはいかない。ライブを休んだ翌日、ジョンは一人でスタジオに出向き、「From Me
〜」のB面に収録される「Thank You Girl」にハモニカをダビングした。最悪の体調の上に、ハモニカを忘れて行ったため、スタジオ
のアシスタントに拝借した。ジョン曰く「ジャガイモ袋の味がした」というハモニカで演奏されたという「Thank You Girl」を加え
三枚目のシングル「From Me〜」は、4月11日に発表となった。デビュー・アルバム「Please〜」もイギリス・チャートの10位に入
って、既に三周目。かなりの人気ぶりを見せていたビートルズであったが、内情は自転車操業である。なんせまだ、印税が入ってこ
ない。四人のメンバー、マネージャーのブライアン・エプスタイン、リバプールはロンドンのスタッフの食いぶちは、すべてライブ
のギャラでまかなっていた。そうなると、レコーディングのない日はツアーに出るというというのが当然となる。三枚目のシングルが
発売となった日も、地元リバプールのホーム・グラウンド、キャヴァーンでの演奏であった。こうした忙しさに追われる中、一見しあ
わせに見える出来事が起こった。出来ちゃった結婚であったジョンと妻のシンシアに、長男のジュリアンが誕生したのである。ジョン
は正直、複雑であった。今、ロック・バンドとしてイギリス全土を征服しようとしているこの時期、女房子供の存在というのは足かせ
になる場合もある。と考えたジョンは、ジュリアンが生まれた日も病院には電話をしただけ。出産には、一切立ち会わなかったとされ
ている。マネージャーのブライアン・エプスタインもジョンの考えに賛成であり、ジョンの妻と子供を表沙汰にはしなかった。こうし
て、ジョンの妻シンシアは、ビートルズが成功すればするほど、日陰の存在となっていくのである。
〜 The Beatles / Girl
〜 The Beatles / Penny Lane
(小林)この前亡くなった加藤和彦さんは、この「Penny Lane」が入ってる「Magical〜」のアルバムが一番気に入っている。なにせ
このアルバムには、無駄が入っていないからと語っていました。
□リクエスト
・10年ほど前の六本木のアビー・ロードというライブ・バーで、パロッツというビートルズのコピー・バンドの生演奏を聞いて以来、
ビートルズにハマった遅咲きのビートルズ・ファンです。RAGFAIRのメドレーで体が温まって、銀次さんの選曲最高。お一人でも、
ビートルズを堪能できるナンバー。そして、みんなで歌った「Hey Jude」。声が枯れるまで、大声で歌いました。私事で大変恐縮で
すが、今年31歳で10月26日に入籍7年目を迎える夫婦で公開録音に参加しました。普段、私からは何もプレゼントなどあげたことが
なく、5歳と3歳の子供の育児に奮闘する妻にはとても良いプレゼントになったようです。放送の時間に車に乗っていたら、必ずチュー
ニングを合わせる程度です、リスナー歴は。そんな私が10倍20倍を超える倍率に当たって、たった一通申し込みしただけで当選した
なんて、とってもビックリ。とても、楽しい時間でした。石井食品さん、美味しい食事をどうもありがとうございました。ビートルズ
の中で、私が一番好きなのはこの曲です。お気に入りの店で初めて聞いて、ノリの良さ、コーラス、親しみやすいメロディ。もう、お
酒が進むこと、進むこと。(市川市/男性)
〜 The Beatles / I Saw Her Standing There
・念願の公開ライブチケットが当選。21日にイクスピアリで会いたかった小林克也様(小林、笑)に、ようやく会うことが出来ました。公
開ライブが始まった頃から毎回応募してやっとの当選。当日は、どこから小林克也様が登場するかと楽しみでしたが、なんと真後ろか
ら登場。ビックリしましたが、握手できて、とても嬉しかったです。そして、ライブも予想以上に盛り上がって楽しかったです。番組
はもう8年近く聞いています。ビートルズ秘話などが楽しみです。これからも、ずっと続けてください。大好きな人が歌ってくれた歌
ですので、銀次さんの声に胸が熱くなりました。もう一度、聞かせてくださいませ。(松戸市/女性)
〜 The Beatles / In My Life
・先日、ザ・ナンバーワン・バンドの「ももんこ」を買いました。数年ぶりに「茅ヶ崎はきょうも黄色い」や「ロックン・ロール最後の
日」などを聞いて、とてもなつかしかったです。ザ・ナンバーワン・バンドは中学生の時に、ビートルズを聞きだした頃に聞いて大好
きでした。そこで提案です。ビートルズもデジタル・リマスターをやったことだし、ナンバーワン・バンドも全作デジタル・リマスター
をしてCDを出していただけませんか。(足立区/男性)
〜 小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド / 東京街頭録音
(小林)やんないと思いますけどね。
・28日のクラブ・イクスピアリでの公開録音に参加させてもらった者です。これまで何度か公開録音に参加させていただいていますが、
あんなに出演者の方の名前を呼び、汗をかいた公開録音は初めてでした。克ちゃーん!銀ちゃーん!奥くーん!今考えると恥ずかしく
なるくらい絶叫しました。でも本当に楽しくて、一生の思い出になりました。全員で熱唱したこの曲をお願いします。bayfmを聞いて
早4、5年。これからもずっと応援しています。(守谷市/女性/26歳)
〜 The Beatles / Hey Jude
(小林)音楽とかリクエストとか、自分との音楽との関わりを聞くと、その人のことが良くわかるじゃないですか。この音楽で人生が変わった
とか、この音楽で結婚したとか、そういったことを送ってください。採用の方には、石井食品のミートボール他、詰め合わせをお送りします。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年11月29日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(11月29日)
・2001年 (8年前)
きょうは、ジョージ・ハリスンの命日です。今から8年前のきょう、ジョージ・ハリスンはロサンゼルスの、これは有名なボディ・
ガードなんですが、彼の友だちでもあったジェフ・ブーチャーのロサンゼルスの家で病気のまま、ずっと療養していました。そして
11月29日のロサンゼルス・タイムの午後1時半、ジョージ・ハリスンは息を引き取った。その時に、奥さんのオリビア、息子のダー
ニーが一緒にいたということですね。原因は肺がんと脳腫瘍だった、まあ転移していたわけですね。療養中は、リンゴもポールも何
度もお見舞いに訪れたということであります。それからその後なんですが、死亡した場所とか、オリビア夫人がビートルズ・ファン
からの巡礼を逃れるために、大騒ぎになるのを防ぐために、虚偽の住所を死亡証明書に書いた ── だから定かではない。それから
遺体は荼毘に付されて、ガンジス川に散骨 されたという噂もあります。詳しいことは分かりません。ジョージ・ハリスンは、ビート
ルズとしては、一番 Quite Beatles 静かなビートルと呼ばれました。しかし、ビートルズが解散して最初に活躍を始めたのはジョージ
でして、ジョージが一番色んなレコードを出してるんじゃないでしょうか。ビートルズ時代は、ジョンとポールの影に隠れていたん
ですけど、後半はだんだん才能を発揮します。そして、最後にはビートルズのシングルに採用されます。イギリスという国は色んな
調査があったりする国ですけど、ビートルズの中で一番好きな曲はという調査の中でジョージの曲が選ばれたこともあるほどです。
この曲の評価は、スゴい高いです。ちなみに「イエスタデー」もカバーしたフランク・シナトラは、イエスタデー以上の名曲だと絶賛
しています。では、ジョージが自宅でギターで録音したバージョンをどうぞ。
〜 The Beatles / Something (Anthology 3)
女性で言うと、お化粧をする前みたいに、ジョージ・ハリスンの声が前面にグッときました。
□ブライアンとの関係
・1963年4月11日 ── ビートルズの3枚目のシングル「From Me〜」が発売となり、イギリスでの人気はさらに上昇していた。その少し
前、ジョンに事件が起こった。もちろんそれは、普通なら目出たい出来事なのであるが、ジョンにとっては少し事情が違った。ジョン・
レノンが急速に名声の波に乗って栄光へまっしぐらになって進む一方で、妊娠中の彼の妻は、孤独とわびしさを噛み締めていた。1963
年4月6日の午後、リバプールのペニー・レーンで親友のフィリスと一緒にショッピングをしていたシンシアは、陣痛の気配を感じた。
慌てて、メンディップスの実家に帰ってきた時には、痛みは治まっていた。だが彼女は、フィリスに泊まっていってもらうよう頼んだ。
シンシアが突然ものすごい悲鳴を上げたのは、二人が床についてからのことだった。フィリスは飛び起きると、救急車を呼んだ。二人の
女性は寝間着姿のまま、救急車でセフトン総合病院に急いだ。自宅や救急車の中で生まれなくて良かった ── と、シンシアはホッとし
た。翌日も、陣痛は続いた。彼女は苦しみ抜いて大声を上げ、ようやく翌日4月8日の午前7時45分に、無事出産を終えた。頭に大きな
アザが有り、首に巻き付いたへその緒のせいで、顔色の悪い赤ん坊であった。ジョン・チャールズ・ジュリアン・レノンと名付けられた
その子は母親の元から離され、二日間の集中治療を受けた。生後一週間を経過してから、ジョン・レノンはやっと病院に現れた。彼は、
シンシアの部屋に飛び込むなり、興奮してしゃべりまくり、赤ん坊を抱き上げて大声で言った。「シンシア、この子は最高だ! このパ
パのようにロック歌手になるだろうよ。」こんな楽しげなシーンが展開されていく内に、大勢の女性がやってきて、廊下側の窓に顔を
押しつけ、地元の名士ジョン・レノンに笑いかけたり、彼を指差したりし始めた。それを見るとジョン・レノンはイライラし、顔を
こわばらせた。逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。だが、それにはまず、ちょっとした問題を片付けなければならなかった。それ
は前からジョンに気があったとされる、ホモ・セクシュアルで有名なマネージャー、ブライアン・エプスタインの存在だったのである。
〜 The Beatles / I'm a Loser
〜 The Beatles / Act Naturally
・1963年4月8日 ── ジョンとシンシア・レノン夫妻の間に、長男が誕生した。生後一週関して、やっと病院を訪れたジョンは、この子
にジュリアンと名付けた。しかし、ジョンにはある悩みがあった。それは、自分に言い寄る男の存在 ── ジョンは、シンシアの方に向
き直るとこう言った、「シンシア。俺、少し休暇を取って、ブライアンと一緒に旅に出かけるつもりなんだ。」ブライアンとは、もちろ
んマネージャーのブライアン・エプスタインである。その言い方が余りにもぶっきらぼうだったので、シンシアは驚いた。まさに、青天
の霹靂。当然シンシアは、怒った。「生まれたばかりの赤ん坊と私を置いて、どうして出かけるなんて出来るの? それも、よりによっ
て、ホモのブライアンと一緒なんて。」ジョンは冷ややかに言った。「また、わがままを言うんだね。」そして、言い訳がましく続け
た。「ボクはここんところ、毎晩ドサ周りで働い過ぎなんだ。それでブライアンが、そんなボクに骨休めに一緒に行って欲しいって言う
んだ。あの哀れなヤツのために、ボクが一緒に行ってあげなければ、いったい誰がヤツと一緒に行ってやれると言うんだい。」こうして
都合のいい言い訳を残して、ジョンは出かけていってしまった。実際にはビートルズのツアーは、三月末には終了していた。それ以来
彼らは国内を旅行して、ブライアンがブッキングしたその他の出演契約をこなしたり、ラジオやテレビ番組の収録をやっていた。こう
いった一夜限りの仕事でも、ビートルズはまだ大物ではなかったため、ジョンの妻の妊娠のためにスケジュールを変更することなど、
とても出来ない相談だったのである。実際のところジョンは、ジュリアンが生まれる二日ほど前に、リバプールには帰ってきていた。
キャヴァーン・クラブでジョンを見かけたという情報もあるのである。しかし、何故ジョンは病院に姿を見せなかったのか。それは、
ブライアンとの親密な関係にあったという説が有力である。
〜 The Beatles / I'll Be Back
〜 The Beatles / You Like Me Too Much
・ジョンに、長男のジュリアンが生まれた。しかし、いたわってあげるべき妻のシンシアに対してのジョンの態度は、どこか冷たく変で
あった。出産後、病院に現れたのも一週間が過ぎてから。おかしい。シンシアは、その理由が分からなかった。もっとも有力な説は、
その頃ジョンとマネージャーのブライアン・エプスタインとの間に芽生えた、ただならぬ関係。ブライアンは、ロンドンのウエスト
エンドの演劇仲間が寄り集まったゲイの世界をジョンに紹介した。この世界は、ジョン・レノンという若いロック歌手を、たちまちの
内に魅了した。シンシアが産みの苦しみに耐え抜いている中、ジョンの行いについて、ブライアンの親友であるピーター・ブラウンが
詳しく語っている。「まず、ブライアンはロンドンのNEMSのオフィスを開設する際、ジョンをいつも側に置いていました。えらく忙し
い週で、その間にブライアンはやたらとパーティーをやっていたんです。ブライアンのゲイ・パーティーに行くのは楽しかったって、
ジョンは後になって言ってましたよ。ジョンにとっては、まったく馴染みのない世界を、こうしたパーティーで覗き見させてくれたん
ですからね。ジョンは、自分を場違いな存在と感じながら、目のやり場にも困っていて、いつも隅の方に立っていましたね。おどかす
ようなおっかない顔つきでね。だから当然、居合わせていた男たちは思いましたよ。ヤツは、どSじゃないかってね。そうなると、Mッ
気がある連中が、ジョンに集まるんです。この光景を見るのが、ブライアンに取っては至福のときです。そして遂に、ジョンをスペイン
旅行に誘ったんです。スペインに行って、美しい闘牛士をナンパしようってね。そして、ジョンはこの倒錯した世界にのめり込もうとし
ていました。でもまず先に、自分の息子に会わなくてはならない。そこで妻のシンシアを説得して、旅行に出かけようとしたんです。
ジョンは、父親としての役割どころか、男性であることすら捨てるべきか、かなり悩んでいたのは本当ですね。」
〜 The Beatles / Happiness is a Warm Gun
〜 The Beatles / Get Back (Anthology 3)
(小林)Happiness〜は、俺はダウンしてるから注射を打ってくれとも取れる歌詞が出てきます。この頃が一番、そういう気持ちだっ
たのかな。
□リクエスト
・この季節になると聞きたくなるんですが、何十年も聴いていない曲があります。ビョルンとジェニーの「木枯らしの少女」です。ぼく
が中学校の頃、約40年前FMラジオから色んなヨーロッパのポップ・ミュージックが流れていました。ミッシャル・ポルナレフなどの
フレンチ・ポップスや、イタリアのジリオラ・チンクェッティなど。個性的な音楽が放送から流れてくるのを楽しみにしていました。
そんな時に、国宝スウェーデンからの二人組と紹介されました。軽快なメロディと独特のハーモニーが印象的でした。たしか、後の
ABBAのルーツだと思います。ぜひ、聞きたいと思います。(江東区/男性/50代)
〜 Bjorn & Benny / She's My Kind of girl
(小林)そうなんだよ、ABBAの男二人なんだよ。聞いてみると分かるんだけどね、完全にビートルズになりたがっています。音を
聞くと分かります。この曲のタイトルは、彼女はボクのタイプだってことです。これ直訳したら、当時はヒットしないでしょう。
だけどね、この曲の歌詞の中に木枯らしなんて全然吹かないんですよ。だけど、あの頃の邦題の付け方は独特でしたよね。
・初めてビートルズを聞いたのは、中学生の時。その頃クラスの半分はベイ・シティ・ローラーズ派、半分はビートルズ派と分かれていま
した。しかしその後、プログレッシブ、ヘビメタなど、海外アーチストの色んなロックを聴くようになり、やっぱりビートルズだったか
なと思うようになりました。相反するようなリクエストで大変恐縮なんですが、今ではあまり聞くことの出来なくなった、同じイギリス
のベイ・シティ・ローラーズ「二人だけのデート」をお願いします。(千葉市美浜区/女性)
〜 Bay City Rollers / I Only Want to be with You
・Yesterdayを聞いていたら、Imagineが聞きたくなったのでお願いします。しかし、Yesterdayがランキングで8位とは。知名度は抜群で
も、ランキングにするともっと良い曲があるということでしょうか。(住所性別不詳)
〜 John Lennon / Imagine
(小林)結局好みですからね。だから、良い曲悪い曲と言うべきじゃないかもしれません。
・11月1日のリクエストで、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにお願い」がかかりましたが、この曲はエンディングで
「タイムマシンにお願い」といフレーズを延々と繰り返し、突然止まって終わります。ビートルズの I Want You の終わり方のオマージュ
なんじゃないかと思いました。ビートルズのカバーを数千曲集めた本があると聞きました。ビートルズのオマージュも本が書けるくらい
存在するのではないでしょうか。(古河市/男性)
〜 The Beatles / I Want You (She's So Heavy)
(小林)どうでしょうかね。ビートルズのオリジナル・アイデアとは限らないからね。でも、何かからヒントを得てスタートさせたと
いうか、物事は廻っているんですよ。それに、タイムマシンはビートルズの一番最後の頃、まだ駆け出しでビートルズのミックスを
担当していた有名なプロデューサー、同じプロデューサーですから。関係があるのかも分からないし、ないのかも分からないし。
(小林)リクエストは、最後の方みたいに自分の意見なんかを書いたりして、そういうの読むのを楽しみにしていますから、よろしくお願いしま
す。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年12月6日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(12月6日)
・1980年 (29年前)
ジョン・レノンが射殺される、二日前の日。ジョンは何をやっていたかというと、前の月の11月には「Starting Over」を出して
アルバム「Double Fantasy」が発売されて、これからがまたミュージシャンとして帰ってきた!という、やる気いっぱいです。
で、ちょうど29年前のきょうは、オノ・ヨーコと共にBBCラジオ・ワンの「Lennon Tapes」のためのインタビューをやります。
そして、それよりもっと大切な仕事かもしれないけど、オノ・ヨーコの名曲とされる ── 一番有名な曲ではないでしょうか ──
Walking on Thin Ice のミキシングをやっていたわけです。仕事ですごく忙しかった、やる気まんまンであった。で、二日後ジョン・
レノンが射殺されるときも、毎日スタジオに入っていたわけですよね。スタジオからダコタ・アパートメントに帰ってきたとき
射殺されるということであります。さあ、それじゃ、ジョン・レノンの声は出てこないけど、完璧にオノ・ヨーコの作品です。
この意味も考えてください。本当、薄っぺらな氷の上を歩くってことは、結構冷や冷やで冒険心いっぱいで、どうなるか分からな
い気持ちで歩くってことはどういうことか。それを、ジョン・レノンがミキシングしています。
〜 Yoko Ono / Walking on Thin Ice
どうですか? ビートルズ・ファンが多いと思いますが、その頃「Double〜」が出たばかりで、オノ・ヨーコはこういう世界を言って
いました。ジョン・レノンは、長いこと音楽の世界から引きこもっていたわけですよね。それで、いろんな音楽を聞いていたそうで
すが、ニューヨークあたりは、新しく売れていたのはトーキング・ヘッズね。それっぽい感じがありますよね、ハードなブロンディ
みたいな感じもしますよね。それから、ジョン・レノンはB-52'sというニュー・ウェーブ系の音楽を聞いて、自分もやっぱり音楽を
やるべきだと強くかんじたというようなことが伝えられていますが、そういった時代的なものがみんな入っていて、それからオノ・
ヨーコの芸術家としてのものが心意気みたいなものが感じられませんか。ちなみにオノ・ヨーコという人は1980年の時点で、世界的
には嫌われ者ですよね。だから、なかなかオノ・ヨーコの音楽というのはかかったり売れたりしないんだけど、この「Walking〜」は
ラジオでかかったり、一番売れた曲であります。
□ブライアンとの関係
・1963年4月 ── ジョン・レノンと妻シンシアとの間に、長男が誕生した。しかし、父親であるジョンは、出産に立ち会わなかったば
かりか、病院を訪れたのもやっと一週間経ってからのことであった。そして、やっと戸籍に登録された男の子の名前はジュリアン ──
後にロック・シンガーとしてデビューする、あのジュリアン・レノンである。出産後間もない時期だというのに、ジョンは妻のシンシア
に向かってこう言った。「な、シンシア。俺、休みをとってマネージャーのブライアンとスペインに行こうと思うんだ。君もそろそろ退
院できるし、お母さんが見てくれるから、ジュリアンがいても大丈夫だよね。」もちろん、シンシアは激怒した。「ジョン、あなた自分
が言ってること、分かってるの。ツアーだ、ラジオ出演だって、ずっと家にいなかったばかりか、この子が生まれる時だって、ずっと行
方をくらまして、どんなにわたし心細かったことか。それなのに、今度は旅行だなんて。大体あのブライアンって、ホモなんでしょ。あ
なた、まさか?」シンシアが心配するのも、無理はなかった。大都会であるロンドンならいざ知らず、当時の保守的なリバプールでは、
ホモセクシュアルは完全に裏社会の生き物であった。しかし、これにジョンは強烈に興味をひかれたのだ。ブライアンの親友であるピー
ター・ブラウンが語っている。「まず、ブライアンがロンドンのNEMSのオフィスを開設する際に、ジョンをいつもそばに置いていまし
た。ブライアンのゲイ・パーティーに行くのは、すごく楽しかったって、ジョンは後になって言っていました。ジョンにとってはまった
く馴染みのない、そういった世界をパーティーでのぞき見させてくれたんですからね。そしてついに、ジョンをスペイン旅行に誘ったん
です。スペインへ行って、美しい闘牛士をナンパしようってね。ジョンは、この倒錯した世界にのめり込もうとしていました。ジョンは
父親としての役割どころか、男であることすら捨てるべきか、かなり悩んでいたのは本当ですね。」ジョンの心は確かに、揺れ動いてい
た。見たこともない世界にハマりこもうとしていたのかもしれない。こうしてジョンは、シンシアの反対を押し切って決断したのである。
〜 The Beatles / I am The Walrus
(小林)ホモであるブライアンとスペイン旅行に行くという話の後にこの曲を聞くと、この曲がもっと怪しく聞こえるでしょう。すごい
曲だよね。だけど、ジョン・レノンがホモセクシュアルとかそういうことじゃなくて、ジョンはずっと女性が好きだったわけで、これ
が本当にジョンのピンチなのか。本当にそういうことが起きたのかは、決定的な証拠がないんですよね。周りの人がいろいろ語るだけ
で。ということであります。
・イギリスのマスコミは、ビートルズが12日間の休みを過ごすためにモロッコ沖大西洋に浮かぶカナリア諸島へ出発するというニュース
を4月最後の週末に発表した。1963年のことである。ジョン・レノンは、自分もみんなと一緒であることをわざわざ強調して、一行が皆
ギターを持っていこうと思っていると言った。ひょっとしたら、島の人達をお祭り気分にさせることも出来るんじゃないかというわけで
ある。ジョン以外のビートルズの3人は、発表したとおり4月28日に、島の中の一つテネリフェに飛んだ。数日後、海で泳いでいたポール
は、すんでのところで溺れ死ぬところを助けられた。一方、ジョンとマネージャーのブライアン・エプスタインは、やはり二人だけでス
ペインのバルセロナへ向かった。当時ブライアンの親友であったピーター・ブラウンの話では、そこで彼らは毎晩、歩道に面したカフェ
に座り、奇妙な遊びに興じていたという。ピーターは、次のように語っている。「ジョンが、ブライアンに通行人の男を指差すと、ブラ
イアンはその男の魅力は何か、あるいはイマイチの男とすればその理由をジョンに説明してやっていました。ジョンは、『僕はどちらか
というと、この体験を楽しんでやっていたね。僕は、作家になった気持ちでこれを楽しんでいるんだ。』と言っていました。」ジョンは、
ほどなく作家ではなく、一男性としてこの体験をするようになった。ジョンとブライアンは、親密な関係になった ── と、言われてい
る。当然ジョンは、この事実を公表することも、動機を説明することも渋った。ただしジョンは、高校生時代の仲間であるピート・ショ
ットンにだけは、この頃の体験を語っている。実際には、ジョンはブライアンに自分の体の一部を触らせてやっただけであること。ビー
トルズを支配しようとする人間を、実際は自分が支配してやりたかった ── などなど。興味深い話だ。いずれにしろ、ジョンにとって
ブライアンは死ぬまでずっと、自分から求める恋人だったわけである。
〜 The Beatles / I Feel Fine
(小林)やっぱり、ビートルズの新しい音はいいね。ガンガンきますね。というわけで、幼なじみのショットンには、ちょっと体を触ら
せただけだよと。だけど本当のことをね、強がったりする可能性があるわけですよ。本当のことは本当に分からないんだけど、ただこ
の頃のパーティーで、その後のパーティーで、ジョン・レノンが冷やかされるんですよね。お前、スペインどうだった?みたいな。
ジョンは、その男を半殺し状態にしちゃうんですよ。滅茶苦茶怒って。コレはどうだったのかな、本当だったから怒ったのか。謎です。
・1963年春 ── ジョン・レノンとマネージャー、ブライアン・エプスタインの怪しい関係が闇に包まれたまま、ビートルズは押しも押さ
れもせぬイギリスのトップ・バンドとなり、チャートのトップを飾ったシングル「Please〜」とデビュー・アルバムの両方でラジオ電波
を独占していた。もちろん、その後のビートルズは誰も想像できなかったくらいなビッグなグレートな存在となっていくわけであるが、
それでもやはり、この日のレコーディング・セッションは記憶に残るものとなる、手のつけられない大騒ぎであった。レコーディングが
決まっていた曲は4枚目のシングル「She Loves You」。過酷なスケジュールのせいで、ビートルズは何ヶ月かアビー・ロードに姿を現
していなかった。そんな6月初旬のある日、ビートルズの名前をスケジュール表の中に確認したアシスタント・エンジニアのジェフ・エ
メリックは興奮した。アシスタント・エンジニアの欄に、いつも書き込まれるリチャードの名前ではなく自分の名前「ジェフ・エメリッ
ク」が記入されていたからである。時間は、午後と夜。またビートルズと仕事をしてもらえるどころか、残業代までいただくなんて、こ
りゃラッキーだ。エメリックは急いで、レコーディング・スタジオに向かった。月曜日の朝の儀式であるワックスがけが終わったばかり
の床は、教会を連想させた。ただし、やたらとカビ臭いところは皆が認めている。イギリス特有のカビである。エンジニアやプロデュー
サーが仕事をするコントロール・ルームには、まだ誰も来ていない。スタジオに眼をやると、いつもの名物男、巨漢のローディー、マル
・エヴァンスがせっせとりんごのドラムスをセットしている。エメリックがスタジオに降りていくと、マルは愛想よく挨拶してきた。横
には見慣れない、やせた男が立っている。マルは紹介してくれた。「きょうは、もう一人のローディーを連れてきたんだ。ニール・アス
ピノール。ニール、彼はアシスタント・エンジニアのジェフ・エメリック。よろしく頼むね。」まだ、嵐の前の静けさだったのである。
〜 The Beatles / Birthday
(小林)これは「今日は誕生日なんだってな!! 楽しくやろうな!!」っていう曲なんですよね。
□リクエスト
・少し前のことですが、元プリンセス・プリンセスのメンバーが結婚したという記事を見て思い出したことがあったので、メールしました。
ダイヤモンドが大ヒットして、続くシングルも大ヒット。この二曲が入ったアルバムが出たら大ヒットだろうと友人たちと話していたと
ころ、なんとアルバムにはシングル曲は入れない、しかもそのアルバムからシングルカットもしないとのこと。お気づきの方もいらっ
しゃると思いますが、ビートルズと同じことをしたんです。売れたのでアーチストの意向が反映されたんでしょうが、ビートルズの影響
があったのは間違いないと思います。(千葉市/性別不詳)
〜 プリンセス・プリンセス / HEART STOMPIN' MUSIC
(小林)ビートルズは偉かったよね、ファンに二重に金を出させたくなかった。
・リマスター盤が出ましたが、なかなか買えません。妻と話し合った結果、一つずつゆっくり集めようと言ってます。そういう妻は、車で
ビートルズを流すと寝てしまいます。家でも、あまり聴かせてもらえません。そんなわたしに、ヘルプ!をお願いします。(横浜市鶴見区
/男性)
〜 The Beatles / Help!
(小林)寝ちゃうのは、安心しているからですよ。
・ビートルズに恋して、もう35年。リアルタイムで経験していなかったのが残念で、最近その気持ちが強くなり、62年の頃から69年の実
際にビートルズが活躍していた頃のものが欲しくてたまらなくなり、当時のものを集めるようになってしまいました。たぶん、本物は少
ないと思います。ニセモノでも構わないんです。安物でいいんです。ライブのビートルズ空間をそこに感じられれば。(佐倉市/男性/
51歳)
〜 チューリップ / 銀の指輪
(小林)いや、まあ、そのー、それもいいかも。僕はできるだけね、他の音楽を聴くということをおすすめします。ビートルズだけで
作ったわけじゃないんですよね。もらったり、もらわれたり、みんな時代を生きているんですよ。あと、本だとかね、雑誌なんか見
ると、ファッションなんかも分かるかもしれないと思いますね。
・就寝前に音楽を楽しむのが、私の習慣です。ある日、部屋から漏れていたであろうメロディを、長女が口ずさみました。「♪ラララ〜、
ラララ〜。いい曲だね、なんて曲?」なぜかとても、暖かい気持ちになりました。世代を越えて共感しあえたこと、ちょっと嬉しくなっ
たので、ビリー・ジョエルのピアノ・マンをリクエストします。そうそう、この曲にジョンやポールも出てくるんですよね。素敵な酒場
ですね。(千葉市/男性)
〜 Billy Joel / Piano Man
(小林)ジョンもポールも出てくるけど、あれは僕の意見では、意図して出したんじゃないと思いますけどね。ま、ジョンは普通の名
前だから…バーテンのジョンですし。で、バーテンも欲求不満で、違うことをやろうとしてるんだけど、ここにいるんだっていう、
そういう意味ではジョンかな。ポールは、売れない小説家とか、ディビッドとか他の人の名前も出てきますけど。人間模様ですよね。
ビリー・ジョエルは、こういう世界を歌うのがうまいよね。ポールを少し発展させたみたいな。
(小林)話の方は1963年、ビートルズがイギリス国内でガーンと売れ始めた頃の、ジョンにも疑惑とかそういうのがあった頃のお話です。リク
エストお待ちしています。小林克也でした!
キロックトニーさん 乙!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年12月13日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(12月13日)
・1962年 (47年前)
ビートルズと契約したプロデューサーのジョージ・マーティンが、マネージャーのブライアン・エプスタインの招きで、リバプール
に到着しました。何しに来たかというと、キャヴァーン・クラブで、ビートルズの魅力はライブにあるということで、そこでライブ
を録ろうとしたわけですね。音がどういう状態か、調べに来たわけですけど、結局クラブの音響が良くなかった。おそらく、ライブ
で音が回ったりするということで、これはもう録れないっていう結論になるわけです。それで、デビュー・アルバム「Please〜」は
ライブと同じ、せーの!という録り方をするという話をしましたけど、この日ジョージ・マーティンは自分の秘書と一緒にきている。
この秘書とはまだ結婚してない状態なんですよね。いけないんだ、いけないんだ状態です。まあ、結婚するわけですけど。それから
ですね、このキャヴァーン・クラブのクロークで働いていたプリシラ・ホワイトという女性を紹介されます。実は、彼女は歌ってい
て、レコード・デビューしたくてしょうがないという。で、マネージャーのエプスタインが紹介して、ビートルズと同じ会社と契約
して、ジョージ・マーティンがプロデュースして、結局バート・バカラックの曲なんですけど、イギリスで1位になって、ビートルズ
も売れますけど、この女性も当時は大変な人気者になるんですよね。数年間はビートルズとも友達として付き合うことになる、プリ
シラ・ホワイト。面白いですよね、プリシラのシーラ。で、芸名がホワイトじゃなくて、ブラックってのがいいよね。シーラ・ブラ
ックという芸名で、この曲がイギリスで1964年ナンバーワンになります。
〜 Cilla Black / Anyone Who Had a Heart
いかがですか。ビートルズの副産物という言い方も出来るかもしれませんが、シーラ・ブラック。イギリスでは大変なスターになっ
ちゃうわけですよね。日本でも紹介されて、かなり人気が有りましたよ。
□事件
・1963年春 ── ビートルズは、押しも押されもせぬイギリスのトップバンドとなり、チャートのトップを飾ったシングル「Please〜」
と、デビュー・アルバムの両方でラジオの電波を独占していた。そんな中、次のシングル「She Loves You」のレコーディングがブッ
キングされた。久しぶりのビートルズとの仕事で心おどる若きエンジニア、ジェフ・エメリックがアビーロードの第2スタジオに到着し
スタジオに眼をやると、いつもの名物男、巨漢のローディ、マル・エヴァンスがせっせとリンゴのドラムスをセットしている。エメリ
ックがスタジオに降りていくと、マルは愛想よく挨拶してきた。横には見慣れないやせた男が立っている。マルに紹介されたその男は
ニール・アスピノール。ニールは、一歩前に出て握手を求めてきた。感じは悪くない。エメリックは尋ねた。「ビートルズは、まだ
到着してないのかな。」ニールは、妙な顔をしてこう答える。「彼らは、そこの横丁で写真を撮ってるよ。もっとも、まだファンにビ
リビリに引き裂かれてなければの話だけどね。」ニールとマルは顔を見合わせてて笑いだした。マルが続けた。「ジェフ、おたくの上
官と副官も一緒に行ってるみたいだぜ。」上官と副官とは、もちろんプロデューサーのジョージ・マーティンとチーフ・エンジニアの
ノーマン・スミスのことである。数分後、スタジオのドアが開き、ビートルズの四人が飛び込んできた。上役の二人、そして初めて見
る上品な装いの紳士も一緒である。全員が興奮した面持ちで、表にいるファンのことを熱心にしゃべっている。ジョンは「壁に押し寄
せてくる野蛮人共」という表現を使ってジョークを飛ばし、ジョージとポールは、不法侵入の疑いで警察に連行された、やたらと体格
なんかスゴいスレだな
情熱的というのはこういうことなんだな
のいいファンの女の子に関する情報を交換していた。全員が話しに没頭していて、エメリックはほとんど取り残された状態になった。
ジョージ・マーティンとノーマン・スミスの上司の二人も、まったく無視。いったい、何が起こったのか。エメリックには、皆目見当
もつかない。そんな中、初めて見る紳士がやってきて、エメリックに手を差し伸べて話しかけてきた。「初めまして。私、マネージャー
のブライアン・エプスタインです。」
〜 The Beatles / The Night Before
〜 The Beatles / Nowhere Man
・「初めまして。私、マネージャーのブライアン・エプスタインです。」きちんとした英国紳士、といった風貌のブライアンの挨拶を受
けたアシスタント・エンジニアのジェフ・エメリックは緊張した。エメリックは、ビートルズの謎めいたマネージャーに関しての情報
は、新聞や音楽雑誌で読んではいた。が、スタジオで見るのは、それが初めてであった。見るからに上流階級といった雰囲気を持つ物
静かな男で、人当たりは良かった。が、エメリックは、何か妙なものを感じた。レコーディングには、さほど顔を出さず、来た時には
いつも礼儀正しく接してくれたものの、エメリックはそのたびにビートルズがブライアンを煙たがっているのではないかと印象を感じ
た。さらに何分間かしゃべったところで、マーティン、ノーマン、ブライアンがコントロール・ルームに向かい、その日の仕事に着手
した。ノーマンとエメリックが、マイクとレコーディング機材のチェックを始めるそのかたわらで、ブライアンとマーティンは急遽ミ
ーティングに入り、翌月の録音スケジュールやその朝の写真撮影について話し始めた。この時点でブライアンは自分の事務所NEMSに
ジェリー&ペースメイカーズやビリー・J・クレイマー、そしてシーラ・ブラックなど、かなりの数のアーチストを傘下に加え、その
全員がEMIパーラフォンと契約し、ジョージ・マーティンにプロデュースされていた。ビートルズの初期において、スタジオの外には
いつも車から飛び出すか、飛びこんでいくメンバーの姿を一目でもいいから目にしたいというファンが少なくとも百人は集まっていた。
ビートルズのスタジオ・スケジュールは、いつもダコタスという偽名で登録されていたのであるが、もしかすると誰かがその情報を
ファンに売っていたという可能性もある。どうやら、ファンの間には秘密のネットワークがあったと思われる。そんな中、警備担当は
たったの五人程度。いつ事件が起こっても不思議はない、一触即発の状態だったのである。
〜 The Beatles / A Hard Days Night
・1963年、初夏のある日。ビートルズは新曲のレコーディングのため、ロンドンのEMIアビーロードスタジオに現れた。珍しく、録音開
始の数時間前に到着したビートルズであったが、それはスタジオの裏の路地で写真撮影を行うためだった。そのおかげで、ビートルマ
ニアと呼ばれる根ッ場的なファンの女の子たちは独自のネットワークを使って、仲間を呼び集める余裕ができた。その結果、群衆はい
つもの数倍にふくれあがってしまっていた。スタジオの敷地を囲む塀のてっぺんに登るとビートルズの姿が見え、メンバーもその撮影
の間、集まったファンに向かって微笑んだり、手を振ったりしてサービスした。しかし、これがいけなかったのだ。熱気をさらにかき
立ててしまったのである。その後、一応レコーディングは平穏にスタートした。ベース・アンプの調子がわるいので、アシスタントの
ジェフ・エメリックがポールのところに降りてセッティングを確認すると、ローディのマルとニールが急いで後ろから駆け出していっ
た。食堂にお茶を取りに行くにしては様子がおかしいと思っていた矢先、二人はすぐに戻ってきて叫んだ。「ヤバイぞ! ファンだ。」
ジョンが口を開いた。「一体全体、どうしたんだ?」マルが答えるより早く、スタジオのドアが勢い良く開き、思いつめた表情の少女
が駆け込んできた。ドラム・セットの向こうで背中を丸め、困ったようにしているリンゴに真っ直ぐに向かっていく。本能的にニール
がフットボールのタックルのような攻撃に出た。少女は阻止されて、床に転がった。スタッフ全員、目を丸くしている中、すべてはま
るでスローモーションのように展開した。マルが、すすり泣く少女をスタジオの外に引きずり出し、ニールが状況を説明した。「あま
りの数のファンに、警察が静止しきることができませんでした。正面玄関は突破され、既にスタジオの社員食堂は占拠されています。
とにかく、非常に危険な状態なんです。どうしたらよいでしょう。」これで万事休すと思われた、ビートルズの面々であった。
〜 The Beatles / She Loves You
〜 The Beatles / All You Need is Love
□リクエスト
・質問です! 10月最後の放送で十年近く聞いてるさいたま奥地の方からリクエストが有りましたが、この番組はいったい何年放送してい
るんでしょうか。夕方、あたしも三畳半の対面式キッチンからビートルズを聞き、歌い、叫びながら夕飯をおまけのように作っています。
石井食品のごぼうサラダは美味しいです。1960年代から70年代にイギリス周辺で活動していた不良系ガールズボーカルグループですが、
四人のメンバーの中、一人が出不精で世間では三人グループだと思われていたグループだと聞きました。メインボーカルのメアリー・
ワイズさんは今や70代でニューアルバムをリリースしたとも、風の噂で聞きました。すべて、風の噂程度の知識で恐縮ですがシャング
リラーズって、ご存じですか。マニアック過ぎるシャングリラーズの事に関して話の出来る、そうだ克也さんにリクエストしようとハ
ガキを出させていただきました。(上尾市/女性)
〜 The Shangri-Las / Leader of the Pack
(小林)10年近くかな、あまりそういうのこだわらないから。これも音楽的にはすごくパンクだし、エアロスミスがカバーしたぐらい
影響力が有りました。カッコいい曲だよね。
・先日、イクスピアリのパーティーに参加させていただきました。当日は、本当に楽しかったー。石井食品素材料理も美味しくいただき
ました。そして銀ちゃん、横顔ヤバイ。横顔がジョンに見えてきたほどです。最後の総立ちでは、おっくんのボイパーをバックにして
がっつり歌っちゃいました。(船橋市/女性)
〜 古内東子 / In My Life
(小林)みんな好きな曲だから歌いたがるんだけど、それをこうやって自分なりにカバーするってことは、本当はとても難しいこと
なんだよね。
・先日の放送で、ビートルズのハンブルグ時代、酔っぱらい連中相手にWhat I sayをぶっ通しでキメていたというエピソードを聞いて
放送後にレイ・チャールズを聞こうと探したものの見つからず、代わりに大瀧詠一の呆阿津怒哀声音頭をかけました。大瀧さん曰く、
ジョンの声はデビュー前に完成していたというパフォーマーとしてのビートルズは、純粋なブルースをやっていたある意味全盛期の
ものなら聞いてみたいです。遅まきながらナイアガラを志そうと聴きまくっています。5月に「おら東京さ行くだ」とリクエストし
たのを覚えていますか。FMでは結構アウトローなものだと思うのでご容赦を。(南埼玉郡/男性)
〜 大瀧詠一 / 禁煙音頭
(小林)大瀧詠一によると日本唯一のリズムがドドンパって言ってましたけど、ドドンパに乗って音頭をという世界でした。
・ビートルズは子供の頃、よく母がカセットテープを流していましたので、昔から知ってる曲が多いです。でも、自分からすすんで洋楽
を聴き始めたのは中学になってから。ビートルズ関連で好きなのは、ポールの「一人ぼっちのロンリー・ナイト」です。リクエストは
この番組のエンディングテーマです。楽しそうな曲で気になってるんですが、最後まで聞いたことがないので。(習志野市/女性)
〜 The Beatles / Sgt. Peppers Lonely Hearts Band ~ A Day in the Life
(小林)話の方は、ファンも知ってると思いますが、イギリスにビートルマニアていうものが生まれるんです。そのマニアという言葉ですが
例えば You're Mania. お前はマニアだというワケですよ。そうすると、横文字だからマニアというのは言葉の魂が抜かれて、強烈なものじゃ
ないんですよね。どちらかというとManiaというのは、あまりにも強烈な言葉で、四文字で放送局で使わなくなった言葉がふさわしいんです
よね。つまり、何十人ものイギリスの中学生や高校生の女の子がピー!になったぐらいの強烈さなんです。そんな感じがビートルズにふさわ
しいんです。時間が来ちゃいました。お相手は小林克也でした!
キロックトニーさん規制中?(´・ω・`)
キロックトニーさん、あけおめ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年12月20日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(12月20日)
・1966年 (43年前)
もうビートルズは、ライブをやめています。ビートルズは、イギリスのインディー系のニュース・ショーの特集のために、インタ
ビューを受けています。ニュースの映像の部分では、ビートルズがアビー・ロードに到着して、レコーディングをする風景が撮ら
れますが、インタビューでは一人ひとりがいろんなことを聞かれています。ジョン・レノンは特に「映画はやらないんですか?」
「映画はたくさんだ」というのは、ジョンは「How I won the war」に兵隊役で出るわけですよね。本人は、あまり面白くなかった。
この映画で、かけた丸メガネが流行することになるんですが。ポールは「もうビートルズは、ライブやらないんですか?」とふられ
て、「ちょっと無理だ」ということを言います。「だけど、今作っているアルバムはすごいから期待して欲しい」と言います。リン
ゴはいつもの社交的。ジョージはインド哲学だから、引きこもったような状態であります。さあ、そんな中、アビー・ロードの第2
スタジオでは早くもビートルズは仕事をしていた。その模様を撮ったわけですよね。どんな仕事かというと、翌年に発売になる
「Sgt〜」用の曲を録音しているのであります。この日、主にボーカルを入れていたようなのでありますが、この頃はどういうアル
バムになるか分かってなかったと思いますが、完成品を聞いてもらいましょう。
〜 The Beatles / When I'm Sixty-Four
□事件
・「あまりの数のファンに、警察が防ぐことが出来ませんでした。正面玄関は突破され、既にスタジオの社員食堂は占拠されています。
とにかく、非常に危険な状態です。どうしたら良いでしょう。」ビートルズのローディ、ニール・アスピノールが状況を説明した。
アビー・ロードが、ビートルズのファンにとり囲まれ、占拠されていたのだ。時は、ビートルズがヒット・チャートの一位を独占し
ラジオのオンエアも独占していた1963年夏であった。「ヤバイぞ、ファンだ。」ジョンが口を開いた。「一体全体、どうしたんだ。」
もう一人のローディ、巨漢のマルが答えるより早く、スタジオのドアが勢い良く開き、思いつめた表情の少女が駆け込んできた。ドラ
ムセットの向こうで体をかがめ、困った表情をしているリンゴ・スターにまっすぐ向かっていく。本能的に、ニールがフット・ボール
のタックルのような攻撃に出た。少女は阻止されて、床に転がった。スタッフ全員目を丸くしている中、すべてはまるでスローモー
ションのように展開した。マルがすすり泣く少女をスタジオの外に引きずり出したが、これはもう大騒動である。これで万事休すと
思われたビートルズの面々であった。ニールは、説明を続けた。「向こうはもう、おかしくなった連中の巣窟だ。嘘だと思ったら、自
分で確認してくれ。」いつもは冷静なニールも、興奮せずにはいられなかった。スタジオのアシスタント・エンジニア、ジェフ・エメ
リックは、もうどうして良いかわからず、まるで地面に根が生えたかのように立ち尽くすしかなかった。コントロール・ルームを見に
行くと、プロデューサーのジョージ・マーティン、上司のエンジニア、ノーマン・スミス、そしてビートルズのマネージャー、ブライ
アン・エプスタインが心配そうな顔でこちらをみている。特に恐れおののいた表情をしているのは、ブライアンだった。ノーマンは
居ても立ってもいられない様子で、こう叫んだ。「ジェフ、何を突っ立ってるんだ。内線電話で、警備員を呼べ。」ジェフはハッと我
に返り、コントロール・ルームへの階段を駆け上るその時、聞こえたのは耳障りな笑い声。なんと、ジョンがケタケタと笑い出してい
たのである。
〜 The Beatles / Revolution
ビートルズの歌は、コマーシャルなどに使われることは特に70年代なんかはなかったんですが、80年代にマイケル・ジャクソンが権
利を買うわけですよね。ビートルズの曲の。で、この曲はナイキのコマーシャルに使われて、世界中がびっくりしたことがあります。
・「ジェフ、何を突っ立ってるんだ。内線電話で、警備員を呼べ。」アビー・ロード・スタジオのチーフ・エンジニア、ノーマン・スミス
がアシスタントのジェフ・エメリックに指示している中、なんとジョンがケタケタと笑い出した。その声は壁にこだまして、薄気味悪
く響いた。スタジオが暴徒と化したファンに占拠されているのに、なぜジョンは笑い出したのか。それは、誰にも理解できない。もし
かしたらジョンは身の危険、それも尋常でない危険を察知し、これはもう笑うしかなかったのかもしれない。ジェフが内線電話で警備
を呼ぼうとしたその時、守衛のジョン・スキナーが既に第2スタジオのコントロール・ルームに到着していた。「皆さん、大丈夫です
か。」心配そうにスキナーが聞いた。ジェフは、全員が五体満足であること、そして状況は把握出来ていることを伝えた。「全員を
ここから追い出すまで、ドアにバリケードをした方が良いでしょう。」そう言い残すと、守衛は外に戻っていった。「一体全体、どう
なっているんだ。」ふと好奇心に駆られたジェフは、ドアから顔を突き出してみた。すると目に飛び込んできたのは、とても現実とは
思えない恐るべき光景であった。と同時にたまらなくおかしく、ジェフは思わず爆笑してしまった。そこにはまるで、いにしえのドタ
バタ喜劇さながらの追いかけごっこが繰り広げられていたのである。ちょっとおかしくなったように絶叫しながら、廊下を駆けていく
何十人もの少女たちと、困惑した表情で息を切らしながらその後を追いかけるロンドンの警官たち。警官がファンを一人一人捕まえる
度に、二・三人の女の子たちがどこからともなく現れ、声を限りに絶叫する。哀れな警官たちは自分ともみ合っている子を話して、他
の女の子を追い払うべきか、あるいは手中の鳥を離さずにおくべきか、判断がつかなくなっている。不謹慎とは思いながらも、アシス
タント・エンジニアのジェフは、本当におかしくてしょうがなかったのである。
〜 The Beatles / Good Morning, Good Morning
〜 The Beatles / Hey, Bulldog
・1963年、夏のある日の大騒動。ビートルズがレコーディングのために訪れた、EMIのアビー・ロード・スタジオは、暴徒と化した数百
人もの熱狂的なファンに占拠された。ビートルズが使っていた第2スタジオのドアの外では、昔のドタバタ喜劇さながらの追いかけご
っこが繰り広げられ、その光景だけを見たら、まさに大爆笑シーンであった。スタジオの廊下をさらに進んで行くと、似たような光景
があちこちで繰り広げられていた。ドアを乱暴に開け閉めする音があちこちに響き渡り、怯えたような表情をしたスタッフは、次々に
髪の毛を引っ張られた。後で警察が確認した内容によると、ビートルズのメンバーが変装して、スタッフの中に紛れ込んでいないか、
女の子たちはそれをチェックするために、こうして髪を引っ張っていたというのであるから、これはたまったものではない。それだけ
何が何でもビートルズに会いたくてしょうがなかったのである。とにかく、スタジオのビルの中では、見渡す限り全員が全力で走って
いた。ファンはとにかく、野放し状態だった。もし彼女たちが実際にビートルズの4人を捕まえていたとしたら、いったいどうなって
いたか。考えただけでも身震いがする話である。少女たちの思いつめた表情に、まるで獣のような絶叫が加わって、すべてがグロテス
クにさえ見えてきた。アシスタント・エンジニアのジェフ・エメリックがその戦場から、ビートルズの入る第2スタジオに戻ると、そ
こは奇妙なぐらい静かで、まるで台風の目のようであった。どうやら、ここはまだいくらか統制が取れているらしい。そして、今度は
ジェフに代わり、ビートルズのローディであるニール・アスピノールが偵察に出ることになった。もう一人のローディ、巨漢のマル・
エヴァンスは、やせっぽちのニールを偵察に行かせることは正直不安だった。しかし、もしビートルズに何かのことがあったら、その
時には自分が命に変えてでも守らなければならない。自分がここを離れるわけにはいかないのである。その憂鬱そうな表情を浮かべた
マルが表情を変え、文字通りドアの前に立ちはだかるその表情は、まるでバッキンガム宮殿で女王陛下を護衛する衛兵を連想するもの
であった。
〜 The Beatles / Martha My Dear
〜 The Beatles / Ticket to Ride
ジェフ・エメリックが書いた本を中心に、ジェフ・エメリックがスタジオから顔を出したら吹き出しそうになっちゃったという状況を
皆さん頭に描いてますかね。もう本当に、警官と泥棒を追いかける、昔のサイレント映画そのものですよ。ただ、数は多いわけですよ
ね。女の子の数が無茶苦茶多くて、警官が女の子を捕まえると数人がタタタタと走ってでて、警官はその子をどうしようかと、放して
追いかけるとダメだし、コメディのような状況になっているわけですけど、こういった状況が1963年の夏、出てくるわけです。そして
ビートルマニアという言葉が生まれるわけですよね。ビートルマニアと言いましたが、ビートル狂では足りないぐらいのニュアンスを
持った言葉なんですね。その模様を、このところお送りしています。
□リクエスト
・先日のオバマ訪日のおかげで、天皇皇后陛下との挨拶の時にお辞儀をしたのを見て、国内外で賛否両論が沸き起こっていますが、郷に
入れば郷に従えのことわざもあり、アメリカ一極集中の政治も国賓大統領の登場とリベラル派の政権誕生のおかげで様変わりしたよう
に思います。国内では、民主党の国策事業の棚卸を毎日仕事帰りにテレビで見ていると、こういうスタンスの仕事も悪くないと思いま
す。世間ではバブル経済の崩壊以来、長期的なデフレ経済に突入。物価の下落が続いています。景気がいいと給与水準も上昇し、雇用
統計も改善すると聞きますので、早く景気が良くなると良いですね。黒人大統領の誕生を記念して、この曲をお願いします。一時期、
麻薬に溺れて、再起不能と言われたスライですが、40年経過すると世相も当時の黒人解放運動の影響か、オバマのような人物が政治世
界に登場する世の中になっています。先だっての来日では、日本のコットン・クラブでも意気揚々と演奏していたと聞きます。(市原市
/男性)
〜 Sly & The Family Stone / Stand
・今年は有名人が亡くなったり、政権交代したり、色んなことがありました。個人的にはマイケルの死が衝撃的でした。ヨーロッパにいて
テレビでマイケルの特集番組をやっていて、まさか追悼番組とは思わなかったんですが、一日中マイケルだったんで変だなと思っていた
ら、亡くなったとのこと。早すぎます。私的には、マイケル・ジャクソンの曲の中ではスリラーが最もインパクトがありました。たぶん
日本でもスリラーが最も人気があるのではないでしょうか。ヨーロッパでは、人気No.1はビリー・ジーンでした。克也さん、マイケル・
ジャクソンのNo.1は何ですか?(佐倉市/男性/51歳)
〜 Micheal Jackson / Thriller
(小林)やっぱり僕は、ビートルズと同じですよね。曲を突き詰めていくと、中期の「I am the Walrus」とか面白くて良いなとか思う
んですが「She Loves You」のパワーには、これはすごいと思ったり。そういう点で、マイケルの「Jam」とかね、後半のいい曲あ
るじゃないですか、「Scream」とか。だけどやっぱりNo.1というと、ジャクソン5のデビュー曲ですよね。面白いですよね。
・お客との電話の中で「13日の金曜日でお願いします」と話したとき、そういえば昔ブラック・サバスが13日の金曜日にデビュー・アル
バムを発表したとのガセネタを思い出しました。その他有名なガセネタとしては、キング・クリムゾンのデビュー作がアビー・ロード
を追い抜いてトップに立ったという話もありました。このようなガセネタはともかくとして、プログレとハード・ロック、そしてビー
トルズ、この三つのジャンル以外全く興味の無い自分にとっては、いずれも大切な名盤です。また、その他にロックの世界で面白いガ
セネタがありましたらお願いします。(江戸川区/男性)
〜 King Crimson / I Talk to The Wind
(小林)時間が無いのでまたの機会に。この番組は、ビートルズを盲目的に支持するだけじゃなくて、かなり客観的に見る番組でも
あるわけなんですけど、事実1969年から70年代にかけては、ビートルズがダサく響き始めた時代です。そんな中に出てきたキン
グ・クリムゾン、ものすごく新鮮な感じで、若い連中が「もうビートルズは終りよ、こういった連中がトップの時代よ!」と思っ
たのも事実なんですよ(なぜか小林嬉しそう)。
(小林)交通情報聞いてても、やっぱり年末という感じがしてきてるでしょ? お話、年末にかけては、1963年ビートルマニア誕生という、
イギリスでビートルズが本当にすごかった頃のお話。だから、いっぱい小さな面白いお話があると思いますが、ビートルズのアシスタント・
エンジニアのジェフ・エメリックの話を中心に盛り上がっています。小林克也でした!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2009年12月27日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(12月27日)
・1967年 (42年前)
ちょっと面白いんですよ、この頃。1967年は、Sgt〜を出した年ですよ。そして、ポール・マッカートニーの勢いがすごいんですよ
ね。Sgt〜もポール・マッカートニー主導で作ったものなんですが、もうSgtの時点でポールは次のアイデアを持っている。それが、
Magical〜ですよ。Magical〜は、元々映画なんです。ポール・マッカートニーのアイデアを映画化したものです。それは、12月26日
つまり42年前のきのう、イギリスのBBCでモノクロで全国放送。ところがですね、その翌日。評論家たちは、けちょんけちょんにけ
なすわけです。ビートルズの最新の映画は、ろくなもんではないと、完全な失敗作だみたいなことを言うわけです。それで、42年前
のきょう、ポール・マッカートニーは「そんなことはないだろ!」というわけで、ディビッド・フロストの番組「Frost Program」
に出て、そのフィルムのことを説明するんです。そして、ディビッド・フロストと、どこかダメなんだ。どこが、自分は優れている
と思ってるということを、堂々と言ったというわけです。とにかく、滅茶苦茶お金を使って出した映画なわけですから、それがけな
されたということで、ポールは頭に来てるわけですよ。これ、モノで公開されたわけですけど、後になって正当化されて、これは失
敗作ではないというような名誉挽回になってくるわけですけど。だけど、その頃ポールは頭に来て、テレビに出たというわけです。
映像の方は滅茶苦茶言われましたが、音の方は評価高かったですね。アルバムに入っていた新曲が、4週間1位になっています。
〜 The Beatles / Hello Goodbye
ポールが婚約していたジェーン・アッシャーの誕生日を祝うために、アメリカでパフォーマンスをやっていたジェーンに会うために
ポールはアメリカに行くんです。その時にバスに乗っていて、バスをサイケデリックなバスにして、いろんな所に行っていろんなこ
とが起きるみたいなことをアイデアにして、映像を作ったら面白いだろうと、ポールはその時に考えついたんですよね。
□事件
・1963年、夏のある日 ── ロンドンのEMIアビー・ロード・スタジオは、ビートルズのファンにより占拠されかかっていた。その数、
数百。いや、実際には二千に達していたという証言もある。とにかく、ものすごい大騒動であった。しかし、ビートルズがいる第二ス
タジオは、外の激戦状態とは打って変わって、奇妙なくらい静かであった。まるで、大風の目のようでもあった。ドラムのスツールに
座ったままのリンゴ・スターは、まだ少し同様しているように見えたが、ジョンとポールとジョージは、じきにリンゴを冗談のネタし
し始めて、彼に抱きつこうとした哀れなファンを真似て、くすくす笑ったり金切り声を上げたりしながら、部屋の中を駆け回り始めた。
騒動の最中は動揺を隠せなかったプロデューサーのジョージ・マーティンも、ようやく校長先生めいた威厳を取り戻し、「おふざけは
もう終りだ。仕事を再開する。」と重々しい口調で告げた。幾分落ち着きを取り戻したマネージャーのブライアン・エプスタインは、
「じゃ、僕は次の打ち合わせに場所を移動しますので、後はよろしくお願いします。」と現場を一番下っ端のアシスタント・エンジニ
ア、ジェフ・エメリックにまできちんとお辞儀をして、スタジオを後にした。ジェフはてっきり巨漢のローディ、マル・エヴァンスに
護衛を頼むのだろうと思っていたのであるが、意外にもブライアンはひとりで帰っていった。その日のセッションでは、小柄なローディ
ニール・アスピノールが定期的にスタジオに飛び込んできては演奏を中断させ、ファンの包囲網に関する最新情報をレポートした。
ジェフ・エメリックは、何かを感じた。ビートルズは、並のバンドじゃない。この大騒動、身の危険に晒されたこの一大事をも、バンド
のパワーとして取り込んでしまうんじゃないか。ジェフの推測は、この後の演奏。そして、録音で証明されることになるが、プロデュー
サーのジョージ・マーティンには、それがまだわからなかった。とにかく言えることは、既に一位になった「Please〜」、それに続く
「From〜」を超える新曲を作り出さないと、ビートルズ帝国は崩壊する。その危機感だけであった。
〜 The Beatles / From Me To You
〜 The Beatles / Dig a Pony
・1963年7月1日、アビー・ロード・スタジオが数百、いや一説には数千人のファンに占拠されるという大騒動、大事件の中、ビートルズ
の四枚目のシングルとなる新曲のレコーディングは進められていた。前の月、1963年の6月にはビートルズの他、ジェリー&ザ・ペース
メイカーズ、ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタスがイギリスのチャート3位までを独占していた。この三組のアーティストはすべて
ジョージ・マーティンがプロデュースしたものである。実際この頃、プロデューサーのジョージ・マーティンのスケジュールは、ビート
ルズに負けないくらい忙しいものであった。6月半ばに二週間のバケーションから戻ると、マーティンはスタジオに籠りっきりになった。
これまでのアーティストに加え、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインがつれてくる新人のセッションも手がけなけれ
ばならない。それはもう、目が回るぐらいの忙しさ。7月1日、ビートルズのレコーディング。2日、ジェリー&ザ・ペースメイカーズ。
3日、新人フォー・モーストのレコーディング。4日、ビートルズのミックス。16日、ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス。17日は
また、ペースメイカーズのレコーディング。18日は、ビートルズのレコーディング。22日、ビリー・J。24日、フォー・モーストのデ
ビュー曲のレコーディング。25日は新人女性シンガー、シーラ・ブラックのオーディション。29日には、ビリー・Jのミックス。そして
30日は、ビートルズの次のアルバムに収録される曲のレコーディングと、ざっと並べただけでもこういった具合である。これはもう、
超人的と言っても良い。ビートルズのツアーや、テレビ・ラジオ番組、インタビューと多忙を極める中、新曲を書き上げてきた。ジョン
とポールが、イングランド北東部の町ニューキャッスル・アポン・タインにツアーで行った6月22日の夜に、ホテルの部屋で一気に書き
上げた。この頃のジョンとポールは正真正銘、二人三脚のソングライター・コンビだったのである。
〜 The Beatles / One after 909
〜 The Beatles / If I Fell
・ロンドンのEMIアビー・ロード・スタジオが大勢の熱狂的なファンに占拠される中、ビートルズの新曲のレコーディングは進められた。
曲のタイトルは「She Loves You」。前の週にツアー先のホテルで書き下ろされた、出来立てのホヤホヤである。前のシングル「From
〜」もそうであったが、シングルのA面は勝負の曲である。それまでに書きためてあった数十曲の中からでは、プロ中のプロであるジョ
ージの検閲をくぐることはできない。となると、新たに曲を書くしかなかった。ジョンとポールのソングライター・コンビは、こうして
鍛えられ、さらにその才能を磨いていくことになる。新曲の「She〜」は、元々ポールが掛け合いにしようと考えていた。つまり、ポー
ルが「She Loves You」と歌うと、これに続いてジョンとジョージが「Yeah, yeah, yeah」と続くスタイルで、しかしこれにはジョンが
反対し、ポールをそれとなく説得し、ユニゾンで二人が歌うこととなった。ジョージ・マーティンは回想する。「最初、ジョンとポール
がアコースティックで歌って聞かせてくれた。曲は素晴らしかったが、一番興味をひかれたのは、曲の最後のコードだった。ジョージが
6度。つまり、ハ長調のラの音。ジョンとポールは、3度と5度。つまり、ミとソを出していた。彼らは自慢げに『こんなの、今まで誰も
やってない。』って豪語していたけど、実際にはジャズのグレン・ミラーがやっていたことを私は知っていました。でも、そんな知識も
なく、こんなイカしたことが出来るなんて。ビートルズは本当に素晴らしいと、いたく感心したことを覚えています。それに、彼らが譜
面台の歌詞カードを見たら、そこには She Loves You, Yeah, yeah, yeah. としか書かれていない。なんだこれは!って思いましたね。
でも、一旦録音が始まりましたら、その素晴らしさときたら、もう説明のしようがないくらいでした。なんせ気がついたら私は、ミキサ
ー宅の周りを走り回っていたんですから。」
〜 The Beatles / She Loves You
〜 The Beatles / Penny Lane
□リクエスト
・先日、この番組が夢に出てきました。ラジオを聞いていたら、克也さんが私のメールを読み始めました。「あ、採用された!」わくわく
しながら聞いていたら、途中から文面が変わり始め、リクエストとは全く違う曲がかかります。「あれ、誰の曲だろう?」と聞いていた
ら、MONKEY MAJIKでした。ファンでないのに、私のリクエストは「A Day in the Life」なのに。夢にまで見るなんて、どんなにこの番
組を愛しているんでしょう。私ったら。(住所不詳/女性)
〜 MONKEY MAJIK / OPEN HAPPINESS
・10月28日、クラブ・イクスピアリでの公開録音に招待していただき、本当にありがとうございました。たまたま隣りに座った人がRAG
FAIRのファンの方で、この曲の手拍子の仕方を教えてもらって、盛り上がった曲です。(八千代市/男性)
〜 RAG FAIR / 全員がヒーロー
・過日、主人と二人で笠間を訪れてきました。我が家の恒例行事です。学生時代、クラスの一曲として合唱した思い出の曲です。(稲敷市
/女性)
〜 The Beatles / Hey Jude
(小林)2009年色々ありましたが、我々に一番近いところでは、ビートルズのリマスターが出ましたよね。マイケルが6月に亡くなって、昔の
アルバムが売れるようになって、そんな中ビートルズのリマスターが発売されて、マイケルとビートルズが戦ってるなんて言われて。これは
不景気なCD業界盛り上がるだろうと思っていたら。それでも売れてなかったっていう年なんですよね。それでもリマスターというのは、ひと
つのチャンスになりましたね。これでぼくは、いろんな人に会ったときに必ず「リマスター聞いた?どうだった?」って聞くんですよ。そう
するとその人のことがよくわかるんですよ。「とても面白かった」という人や「いや、あんなものいらないよ」という人とか、それぞれの音楽
の世界を持っているということが良く分かったりして、面白かったです。来年もひとつよろしくお願いします。小林克也でしたー。
キロックトニーさん いつも乙です(`・ω・´)
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年1月3日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(1月3日)
・1970年 (42年前)
もうビートルズはバラバラというか、お互いに会おうとしない時期です。例のスタジオで、第2スタジオでレコーディングがありま
した。これは16回やったらしいんですが、 I Me Mine というジョージ・ハリスンの曲です。プロデューサーは、もちろんジョージ・
マーティン。ビートルズが録音した曲としては、これで最後です。ジョン・レノンは、おりません。ポールとジョージとリンゴがい
ました。そして、あの、この、レコーディングの途中でジョージが Peggy Sue Got Married というアドリブでやった、で皆従った
ていうような記録があります。まあ、ビートルズの終り。なんか、四人が揃ったのは8月8日だけど、9月10月11月12月、誰も一緒
にならなかった。一説によると、Let it beがサントラ盤としても発売が決定ということになって、曲が足らなくなったからさ、どう
しよ、ジョージお前の曲があったじゃん、あれをやろうよっていうことになったともいわれております。16回録って、この曲の長さ
は1分34秒ですが、アルバムに収録されるときにはプロデューサーのフィル・スペクターの編集によって56秒ほど長くなっておりま
す。では、16テイクの内の一つだと思いますが、自分の曲なんでジョージ・ハリスンがコメントしておりますが、このコメントが
ね、今はもうディブがいなくなっちゃってということを言ってますが、これはディブのグループに例えていますが、これは自分たち
のことなんだよね。ジョン・レノンはいないけど、残った彼と彼と彼でちゃんとやりますということなんだよね。そのコメントも添
えて。
〜 The Beatles / I Me Mine (Anthology 3)
ジョージ・ハリスンの哀愁漂う歌なんだけど、これがビートルズとしての最後の録音ということを知ると、ちょっと悲しい感じがし
ますね。ちなみに、ジョージ・ハリスンの自伝のタイトルは I Me Mine ということで。
□事件
・1963年7月1日 ── ロンドン、アビー・ロードのEMIスタジオは数百、いや一千人を超えるビートル・マニアたちに占拠された。熱狂
的なファンによる暴動である。Please Please MeとFrom Me To Youの2枚のシングル盤が一位に輝き、デビュー・アルバムも大ヒット
を記録している今、ビートルズの人気は正真正銘、イギリスでNo.1となっていた。つまり、いつこういう事態が起こっても何ら不思議
ではない状況であった。しかし、ロックの本場アメリカならいざ知らず、ここは品行方正な国、大英帝国である。こんなことは、前代
未聞であった。なにせ、一人の少女にいたっては、ビートルズが使っている第2スタジオまで侵入してきたのである。本当にこれは、
ありえない事態であった。しかし、この大騒動もスタジオの警備員とロンドン市警の必死の攻防のおかげで、ビートルズ側には実質的
な被害はなかった。それよりもこの日の大事件から発生したパワーをも、彼らは自分たちの物に変換し、見事なレコーディング・セッ
ションを繰り広げた。忙しいツアーとテレビ・ラジオ番組出演の合間をぬって、ジョンとポールが書き下ろしたばかりの新曲 She Loves
You 。この曲は、最初デモンストレーションとしてアコースティックギターで歌われた時から、スタジオ中のスタッフを魅了した。も
ちろん、プロデューサーのジョージ・マーティンにもダメ出しをする理由など、どこにもなかった。強いて言えば、曲の最後のハーモ
ニーがビッグ・バンド、ジャズの大御所グレン・ミラー楽団のスタイルに似ていたことぐらいである。しかし、良く考えてみると二十歳
そこそこのロック・バンドが自分たちの思いつきでこれをやってのけていることに、その値打ちがあった。ビートルズは、知識ではなく
すべて感覚でそのオリジナルな部分を構築していたのである。ジョージ・マーティンは語っている。「テープが回り、録音が始まりまし
た。すると、その素晴らしさと言ったら、説明のしようがないくらいでしたね。なんせ気がついたら私は、ミキサー卓の周りを走りまわ
っていたんです。」こうしてビートルズの三枚目のNo.1シングルが完成したのである。
〜 The Beatles / She Loves You
〜 The Beatles / Please Mr. Postman
・千人以上のビートル・マニアたちにアビー・ロードを占拠されるという大騒動の中、ビートルズの4枚目のシングル She Loves You は
レコーディングされた。楽曲・歌・そして演奏、そのどれをとっても百点満点に値する素晴らしいものであったが、スタジオのスタッフ
もこの素晴らしさに仕事でもって答えた。1960年代当時から21世紀の現在にいたるまで、ビートルズのレコードは音質が良いというの
が、音楽業界のみならず世界中のファンの定説である。これは、ビートルズの出す音の存在はもちろんのこと、やはりレコーディング・
エンジニアの技術やセンスによるところが大きい。ビートルズのデビューから活動の前半の数年間、チーフ・エンジニアとして活動を共
にしたノーマン・スミス。彼はこの頃既にベテランであり、一説にはプロデューサーのジョージ・マーティンよりも年上であったとされ
ている。となると、ノーマンがビートルズとの仕事を始めたとき、既に彼の年齢は40歳になっていたことになる。今でこそ40歳なんて
まだまだ若造であるが、この当時特に保守的なイギリスにおいて、40歳の中年男が年下の港町からやってきた男と仕事をするなど、それ
こそ前代未聞のことであった。しかし、そんな中年男をもビートルズは完全に魅了してしまっていた。最初のシングル Love Me Do の
セッションの時から、既にプロ中のプロであるクリエイター魂をがっちりとつかんでしまったのである。ノーマンは、思った。「コイツ
らは、すごいぞ。今まで聞いたこともない音を出し、第一自分たちで曲を書いてくるなんて見たこともない。面白いじゃないか。こうな
ったら、ビートルズが一体どこまですごいことになるか。俺も自分の持つ技を全てつぎ込んでやろう。よし、マイクの位置を変えてみよ
う。次は、ドラムスにエフェクターをかけてみるか。よーし、これはすごいぞ。ぶっとい音になった。クリフ・リチャードなんてお上品
なだけで、全然ロックじゃない。こっちは、本物のロック、本物のロックの音を目指すんだ。」こうして、ビートルズ・サウンドは、徐
々に磨きあげられて行くのである。
〜 The Beatles / It Won't Be Long
〜 The Beatles / Everybody's Trying To Be My Baby
・4枚目のシングル She Loves You を契機に、ビートルズのサウンドはよりロック的でオリジナルなものに進化していく。ビートルズの
初期のレコーディングの場を共にしたベテラン・エンジニアのノーマン・スミスは、自分の持つ腕とセンスのすべてを注ぎ込んだ。ビ
ートルズの持つパワーとカリスマが世代を越えて、スタジオ全員の心を一つにまとめ上げた結果である。その産物として、ビートルズの
サウンドはよりリズムを強調したノリの良いものになった。ベースとドラムの両方が、それまでのビートルズのレコードに比べて、ずっ
とクッキりし、存在感を増していた。そして、それがトップ・グループになったことで新たに得られた自信と、より熱のこもった演奏も
手伝って She Loves You を一層未旅育あふれるものに仕立て上げていったのである。この日ノーマンのアシスタントについたジェフ・
エメリックは、ビートルズの演奏をスタジオで生で体感し、思わず上司であるノーマンに言った。「スミスさん、これは一体どうしたん
ですか。ドラムとベースの音が、以前と比べてまるで違う。ビートがカタマリになって飛び込んでくるのに、音は濁ってなくクリアーに
耳に届いてきます。こんなサウンド、今までぼく聞いたことがないです。」すると、普段は寡黙なノーマンが振り向き、「この老いぼれ
犬は、いくつかの技を隠し持ってるんだぜ。」と嬉しそうにウインクした。このノーマン・スミスは後にEMIを退社し、あのピンク・フ
ロイドのプロデューサーとなり、アシスタントのジェフ・エメリックはその後釜として、ビートルズの専属エンジニアに大抜擢される。
さらに、このビートルズのチームからはクリス・トーマス、アラン・パーソンズといった、後に有名な仕事をするアーチストも輩出され
た。ビートルズがクリエイティブな仕事を過ごしたアビー・ロード第2スタジオは、まさに優秀なロック・スクールそのものだったわけ
である。
〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever
クリス・トーマスなんて、ロックの一番偉い人の一人ですしね。加藤和彦なんかにつながるしね。アラン・パーソンズとか、ビートルズ
がいたから、いろんな人が生まれたとも言えます。
□リクエスト
・ビートルズで好きな歌は沢山あるけど、ジョン・レノンさんの歌でもいいですか。去年12月障害者週間に行われた、障害者が歌や踊りを
発表するイベントで、私が勤める施設の知的障害者が歌・ソプラノリコーダー・ハンドベルの発表を行いました。その時、イルカさんの
「まあるい命」を歌いましたが、最後のところでハンドベルでビートルズのハッピー・クリスマス・戦争は終わったをあわせて歌いまし
た。障害者が練習の成果を発揮して、本番では頑張ってくれました。それから、好きな一曲に加わりました。ジョン・レノンさんの歌で
よろしければ。(行方市/女性)
・一昨年辺りに話題になった料亭の女将のささやき、ささやき女将の「頭の中が真っ白になってしまって」を連想させ、つい笑いそうにな
ってしまうんです。あの頭のささやきが。同じように感じておられる方もいらっしゃると思いますが。(江戸川区/男性)
〜 John Lennon & Yoko Ono / Happy Christmas (War is Over)
・高校生の息子がビートルズのファンになり、息子たちの小さな頃を思い出しました。主人の単身赴任中で、週末は私が運転して実家に帰
っていました。実家から家に帰る時、この番組がかかると、「イエロー・サブマリンって、変な歌!」と言って笑っていた息子。「ぼく
はミスチルの方がいいよ」なんて言ってたのに、すっかり大人になったと思っています。(成田市/女性)
〜 The Beatles / Yellow Submarine
(小林)いや、ぼくはミスチルがいいと言った時点で、ビートルズはOKですよ。ミスチルだってビートルズから、特にジョン・レノンか
らいただいてます。「Tomorrow Never Knows」という歌があるくらいですから。
・ぼくは主にエレクトリック・ミュージックと呼ばれる音楽が大好きで、クラフト・ワークやダフト・パンクら、この番組のメイン・リス
ナー層からすると、あまり聞き慣れない音楽かもしれませんが、現にぼくのお父さんなんかは「こんなもの音楽じゃない!」と全否定し
ます。その父も「これはまあまあだな」と認めてくれた曲があります。親の承諾を得てリクエストします。ビートルズの Tomorrow〜
がサンプリングされていて、ロック・ファンにも十分通用する音だと思います。(横浜市西区/男性)
〜 The Chemical Brothers / Setting Sun
(小林)人によっては別の音楽だっていう人もいるかもしれないけど、象徴的なのはコールド・プレイのクリス・マーティンという人に
会ったときに、前のアルバムですけど、前のアルバムを作る前に、クラフト・ワークばかり聞いていたから前のアルバムができたと。
クラフト・ワークというと、ケミカルみたいな音楽ですから。みんな一緒なんだよね。同じところから着ているということで。
・去年の音楽界は色んなことがありすぎて、私に音楽のすばらしさを伝えてくれた方々が天へ召されました。残念な意味で、忘れられない
一年になりました。(千葉市花見川区/男性)
〜 RCサクセション / Imagine
(小林)忌野清志郎という人は詩人だね。もちろん、ジョンの作品なんだけど、完全に自分のものにしているからね。
(小林)今年もよろしくお願いします。リクエストもよろしくお願いしますね。お相手は、小林克也でしたー。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年1月10日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(1月10日)
・1969年 (41年前)
ジョージ・ハリスンが、「もう俺やめた!」って家に帰っちゃう。映画「Let it Be」の撮影中に、ジョンはやる気ゼロで、ポールは
もう滅茶苦茶ビートルズを引っ張ってるわけですね。で、みんなにうるさく指示するわけです。で、がんばりぶりが空回りして、
ジョージが怒るわけです。それまでポールは、ジョージをかなりイビってたと言われています。映画の中でもジョージがキレて、
「お前が弾けっていうなら、俺は弾くよ。言うとおり弾くよ。弾くなって言うなら、弾かないよ。お前が俺の代わりにやるなら、そ
れでも構わないよ。」とやけくそになっているシーンが実際に Let it Be になるんですけど、これはもうポールがミュージシャンに
とっては頭に来るような指示をするわけですよ。いいか、こうやって弾くんだよっていう風に指示して、もうプライドを無視してい
るんですよ。ポールも出過ぎだと思うんですよ。で、ジョージがキレちゃったのが、今から41年前のきょう。ジョージはビートルズ
の中では、ポールとジョンという天才的な人間がいて、それはジョージは才能があったんだけど、結構不運ていうか、不遇な位置に
いるわけですよね。ポールとジョンが中心だから。良い曲を書いても、ポールとジョンが決めちゃうわけですよ。これはちょっとダ
メ、これはOK。せいぜい、アルバムに1〜2曲。だからずーっと、ストレスがたまってた。ジョージ・ハリスンが亡くなった時、
ジョージ・マーティンがインタビューに答えて、「ジョージは、相当がんばった。あの二人の天才に負けないように、最後はスゴか
った。」というようなことを語ってましたけど。ま、ジョージがキレた日。結局撮影は一旦中止になります。リンゴ・スターや、
スタッフの説得で撮影に帰ってくることになるんですが、2月25日は2歳の誕生日ということで、自分へのプレゼントの意味を込め
て、この曲を録音しています。結局、ビートルズとして発表されなくて、ソロで発表するんですけどね。そのソロの超大作のアルバ
ムのタイトルになっている名曲です。これを聞くと、ジョージ・ハリスンも相当後半はがんばったんだな。
〜 The Beatles / All Things Must Pass (Anthology 3)
□事件
・1963年7月1日に行われた新曲「She Loves You」のレコーディングは、ビートルズの四人だけでなく、アビー・ロード第二スタジオ
にいるスタッフにとっても、今までにない実りの多いものであった。楽曲、アレンジ、演奏そしてボーカル、ハーモニー、そして新た
に試されたロックなサウンド作り。すべてが最高なものであったことは、誰もが革新していた。ビートルズは、さほど時間をかけずに
演奏部分を録り終え、ジョンとポール、そしてジョージは、やはり手早くボーカル部分をオーバーダビングした。アシスタント・エン
ジニアのジェフ・エメリックは思った。これは、スゴい。この曲、今まで録音したどの曲よりもいい曲だぞ。マーティンさんが、グレン
・ミラーみたいだからやめないかと言っていた最後のYeahのハーモニーだって、逆にあれが決め手になっている。これはスゴい。もう
すごすぎる。 ── 四人が上の階にあるコントロール・ルームで最終的な録音のプレイ・バックを聞いていた時には、メンバー全員が
顔を輝かせ、チーフ・エンジニアのノーマン・スミスもそれまでにないくらい興奮していた。実際みんな喜びのあまり、ミキサー卓の
周りで踊りだしてしまったくらいである。プロデューサーのジョージ・マーティンも踊りはしなかったが、スタジオの隅に座り、ただ
誇らしげにその光景を見守っていた。彼は技術スタッフに向かって「いい仕事をしたぞ」としか言わなかったが、マーティンの気持ち
の高ぶりは見てるだけで誰にも伝わってきた。この日、スタジオにいた全員が「She Loves You」は「Please〜」以上の大ヒットにな
ると確信していたが、その予想は裏切られることはなかった。夏の終わりになってようやく発売されたシングルは、即座にNo.1の座に
輝き、史上最速のヒット記録を作った。もちろん、この時点でアメリカ進出はまだであったが、翌1964年遅まきながら全米進出を果た
すと、途端に数百万枚というものすごいセールスを記録する、ビートルズにとって特別な楽曲であることは間違いない。
〜 The Beatles / She Loves You
〜 The Beatles / Don't Let Me Down (Naked)
・ビートルズの初期のキャリアの中で重要な「She Loves You」のレコーディングも一段落すると、夕方の休憩時間になっていた。それ
までのセッションでは待ち時間の度に、メンバーはスタジオの食堂に向かい、紅茶とサンドイッチで手早く空腹を満たしていたが、今
回はかなり事情が違っていた。下界から遮断したスタジオの中で、集中して作業をしていたので、すっかり忘れていたのであるが、こ
の日は午前中から千人以上もの熱狂的なファン、いわゆるビートルマニアに建物全体を占拠されていたのである。ローディのニール・
アスピノールが言うには、まだまだ予断を許さない状況とのことであったが、果たして実態はどうなのか。人一倍好奇心の旺盛なジョ
ンが偵察に行ったところ、そそくさと戻ってこう言った。「とてもじゃないが、無理だ。連中はもう、マトモじゃない。」代わりに、
もう一人のローディ、ボディ・ガードを兼任する巨漢のマル・エヴァンスが送り出された。テイク・アウトの料理を買出しに行くため
である。悲しいことに、この日を境に、ビートルズがEMIの社員食堂に足を踏み入れることはなくなってしまった。代わりに彼らは、
ローディのマルに紅茶と食べ物を持ってこさせるようになった。その内マルとニールはスタジオの片隅に、一種の簡易食堂を構えた。
電気ポットと小さなテーブルを持ち込み、紅茶とジャムサンドを作れるようにしたのである。このように今やビートルズは、イギリス
国内で完全な社会現象になっていた。以前のようにロンドンの街を散歩したり、スタジオの中を自由に歩きまわるなんてことは、金輪
際なくなっていた。まだまだアメリカ進出では時間があるとはいえ、確実にこの先長く続く幽閉状態は始まっていた。もちろんこのと
きまだ、ビートルズ四人は自分たちがロック史上最大の大騒動の台風の目になることなど、予測すらしてなかったのである。
〜 The Beatles / I Want to Hold Your hand
〜 The Beatles / Something
・ビートルズにとって最初の契機となったシングル「She Loves You」のレコーディング以来、夏から秋にかけては、彼らはスタジオに
姿を見せなくなった。イギリスの端から端までを廻る強行軍ツアーに追われていたからである。それでもコンサートの合間をぬって、
何度かはアビー・ロード・スタジオに現れ、セカンド・アルバム「With〜」に収録される曲をぽつりぽつりとレコーディングしていた。
この頃、ビートルズの大ファンであるアシスタント・エンジニアのジェフ・エメリックは、スタジオのシフトの都合でなかなかビート
ルズの録音にはつかせてもらえなかった。しかし、実際のレコーディングではなく、録音したものの後処理、具体的に言うと編集やミ
キシングの時は、ジェフがジョージ・マーティンと上司であるノーマン・スミスの助手として参加した。コントロール・ルームで、ビ
ートルズが新たに録音した音を聞き、ジェフはビックリした。あのデビュー・アルバム「Please〜」と比べ、かなりの進歩をとげてい
るのがすぐに分かる出来栄えだったのである。新しく書き下ろした「All My Loving」、異色のミュージカル・ナンバー「Till〜」、そ
してアメリカのモータウンのカバー「Please Mr. Postman」などの曲では、全員の演奏から並々ならぬ自信を感じ取ることができ、ま
るでメンバーがそれぞれ他のメンバーに自分の腕を自慢しているようにも聞こえた。ジョンとポールの書く楽曲は以前から素晴らしか
ったし、今回も彼らの作曲能力に大きな変化は感じられない。既にプロとして安定しているのである。それに対し、バンドとしてのビ
ートルズは、間違いなく圧倒的に向上していた。おそらく毎日のようにステージに立っているおかげだろうと、ジェフは思った。しか
し、既にそのライブ演奏はあまりの歓声にかき消され、ビートルズ本人たちにもほとんど聞こえないものになっていたのである。
〜 The Beatles / Money
□リクエスト
・小林さんは、ビータリカというバンドはご存じですか? メタリカとビートルズを合わせて、いいとこ取りのアーチストです。なかなか
味を出しています。ここまでやるには、研究が必要だと思います。(松戸市/女性)
〜 Beatallica / Masterful Mystery Tour
(小林)知りません。
・わが子が通っていた幼稚園では、母親の人形劇団がレパートリーのひとつに「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」の曲に合わせて、男の
人形と女の子人形が楽しく踊るものがあるんです。園児たちは軽快な音楽とかわいい人形の動きに大盛り上がりでした。でもその頃
15年前、ビートルズの曲とは知らなかったんです。息子の弾く「オブ・ラ・ディ〜」の曲を聞く度に、恥ずかしくもあり懐かしくも
思い出します。(佐倉市/女性)
〜 The Beatles / Ob-La-Di, Ob-La-Da
・先日紹介してもらったポールのプロジェクト Firemanのプロジェクト、いいですね。ベストヒットUSAでも放送されているのを見ました
が、艶のあるナンバーはウイングスの頃のサウンドを彷彿とさせます。オノ・ヨーコの「Talking〜」は、確かにトーキング・ヘッズの
サウンドに似ています。私は聞いた瞬間に、ディビッド・ボウイに似ていると思いました。また、先週のリクエストでかかったベイ・
シティ・ローラーズの「I only〜」驚きました。私は基本的にロックばかり聞いているロック人間ですが、初めて日本武道館で見たのが
当時ビートルズの再来と言われていたベイ・シティ・ローラーズでした。たしか1976年頃だったと思いますが、そこでリクエストです
がディブ・ナバーロが在籍していた頃のレッチリのナンバー「教祖たちのゲーム」。(小平市/男性)
〜 Red Hot Chili Peppers / Shallow Be Fly Game
(小林)調子狂っちゃうね。
・ジョンの命日が過ぎ、気がつけばとっくにジョンの年齢を飛び越した自分。ジョン・レノン・ミュージアムの閉館の危機など、寂しい
話題も聞こえてくる今日この頃。私は姉の影響でFab Four ── ビートルズに魅せられたクチです。初めてこの曲を聞いたときは、
エクソシストのサントラに入ってそうな曲と思い、不思議な気分でした。ちなみに姉は、克也さんと同じ3月27日生まれです。
(市川市/男性)
〜 The Beatles / I am The Walrus
(小林)後半のリクエスト、結構面白いですよね。リクエストするそれぞれの方が、ビートルズ歴っていうのかな、ちょうどつかり具合が
足だけ入ってる人、首まで入ってる人、いろいろいたり楽しいですね。通りすがりの人、あるいはビートルズを捕まえてずーっとついてる
人。それぞれ楽しみにしています。リクエストください。お相手は、小林克也でしたー。
304 :
ホワイトアルバムさん:2010/01/10(日) 20:24:44 ID:jg/oTKob0
料
キロックトニーさん乙っす(`・ω・´)
キロックトニーさん、今年もよろしく。
きょうの放送はリクエストが充実してたな。初めて聴いた曲もあった。
307 :
ホワイトアルバムさん:2010/01/12(火) 09:47:44 ID:hZWyTzmg0
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年1月17日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(1月17日)
・1964年 (46年前)
ビートルズの I want〜、これがなぜか日本語のタイトルは「抱きしめたい」。これが初めてアメリカでNo.1になります。当時アメリカ
のチャートというと、今でもみなさん聞いたことのあるビルボードね。ところが、ビルボードと並んでキャッシュボックスという業界紙
があって、これが二分してたんですね。ただ、キャッシュボックスは80年代に入って潰れてしまうわけですが。キャッシュボックスの
チャートで I want〜が1位になった日であります。その時ビートルズは何をやっていたかというと、パリのオランピア劇場で、パリのク
リスマス・ショーというのをビートルズはやっていました。ビートルズのショーではなくて、パッケージのショーで、トリがアメリカの
ロック歌手で人気のあったトリニ・ロペスなんですよ。その他フランスのシンガーなんかも出ていて、そのひとつがビートルズだった。
この頃ビートルズは、パリでは女性が騒がなくて、パリの男の子たちが騒いでいたという。ゲイの男の子たちが騒いでいたんじゃないか
んという、いろんな噂がありますが。で、彼らが泊まっていたのがジョルジュ5世ホテル。マネージャーが、「おい!俺たち大変なこと
になったぞ。俺たち一位になったぞ!」ってことで、ビートルズは枕投げや大騒ぎをして、お前たち何でも好きなものを頼んでいいぞ
てことで、ルームサービスも取り放題だったというわけであります。じゃ、これはイギリスでいうとビートルズ5枚目のシングルなん
ですが、歌詞を含むソングライティング、サウンド、四人のパフォーマンス。すべてがアメリカのティーン・エイジャーたちにとって
新鮮そのものだったわけですね。いわゆる、ブリティッシュ・インヴェイジョン。イギリス人が攻めてきた!
〜 The Beatles / I Want to Hold Your Hand
「手を取りたい」ですよね。それが「抱きしめたい」っていう訳になるわけですが、これが邦題の面白い所であります。
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・1963年 ── Please〜、From Me〜、そして She Loves You。ビートルズがイギリスでのNo.1ヒットを連発する中、所属事務所である
NEMSは急速に忙しくなった。社長でマネージャーのブライアン・エプスタインは、ビートルズ以外のマネージメント契約にも積極的に
乗り出し、広報担当者であるトニー・バーロウも次々にその手腕を発揮していった。バーロウは元々ビートルズを不合格にしたデッカ・
レコードの社員で、レコード・ジャケットやライナー・ノーツを作る担当部署にいた人間である。ビートルズの担当になっても、また
ライナー・ノーツを担当することになった。まさに適材適所、渡りに舟であった。ビートルズのデビュー・アルバム「Please〜」は、
レコーディング用のリハーサルの中、できるだけ取り直しも少なくしたという点で、実質的にライブ・パフォーマンスと呼べるもので
あった。しかし、1963年当時でロック・グループが一日のセッションでアルバムを完成させるというのはさして特別なことではなかっ
たため、バーロウはそのことについてライナー・ノーツでは触れていない。あの時代には、ヒット・シングルに続いて同じタイトルの
アルバムを大急ぎで発売するのが通例のこと。つまり、会社は力を入れていなかったのである。しかし、ビートルズの才能を信じるバ
ーロウは、ライナー・ノーツにこう書いている。「プロデューサーのジョージ・マーティンが、ビートルズの選曲に頭を悩ませること
はまったくなかった。ジョン・レノンとポール・マッカートニーというバンド自身の作曲家チームは、今から1975年までずっとオリ
ジナルのシングルを定期的に発表していけるだけの自作曲を既にたっぷり蓄えているのだ。ビートルズは、レコード制作第一歩から
何でも自分たちでやってしまう姿勢を取ってきた。自分で歌詞も書くし、バックの演奏も自分たちで考え、最終的にはそれを自分たちで
作り上げ、ボーカル・アレンジも自ら練り上げる。彼らの音楽は野性的で痛烈で激しく、自由奔放で個性的だ。」バーロウが添えた
この名文が、アルバムのセールスに一役買ったことは言うまでもない。
〜 The Beatles / Boys
〜 The Beatles / Kansas City ~ Hey Hey Hey Hey
・ビートルズの音楽は、野性的で痛烈で激しく、自由奔放で個性的だ。 ── ビートルズの広報トニー・バーロウは、得意のライナー・
ノーツをこう締めくくった。バーロウがライナー・ノーツを執筆するときのスタイルは、前の会社デッカ・レコードでもビートルズ
時代でも、基本的には同じ。お客を煽るようなタブロイド紙の記事と雑誌広告の中間みたいという色合いが強かった。バーロウ自身、
メンバーの誰が何を歌い、どの楽器を担当しているかという詳細を知ることが好きだったので、レコード評論家の心得として、ライナー
・ノーツではアルバムを通してトラックごとにそういう情報を盛りこんでいた。ところが、このアルバム「Please〜」では、ある曲の
情報を入れ忘れた。その曲とは「P.S. 〜」。この件に関し、一般の人々からあまりにも多くの問い合わせがあったため、バーロウは
事務所に置いてあるレコード・ジャケットに手書きで「リード・ボーカル:ポール、コーラス:ジョンとジョージ」と書き加える羽目
になった。事務所のスタッフは、これを見て問い合わせに対応したのである。バーロウがライナーに書かなかったことといえば、ジョン
の喉がその日のセッションの終わりまでには出血していたということ。ジョンは「ひーひー」と痛みを伴うノドを和らげようと、レコー
ディング中、ずっとのど飴をなめ続け、何杯もの紅茶を飲み続けていたが、しまいにはよく冷えた牛乳をビンから直接飲むようになった。
最後の曲 ── 素晴らしい曲ではあるが最もノドに負担のかかる「Twist〜」を録っている間、ジョンが牛乳をラッパ飲みする度に、ノド
からの出血で、そのビンをピンク色に染めていた。そうした文字通り血のにじむ熱演のかいあって、多くの評論家がこの「Twist 〜」を
アルバムの中のベスト・ソングにあげている。こうしたビートルズのロック・バンドの底力は、この数年間に彼らがハンブルグで経験し
てきた、地獄の特訓によって築き上げられたと言っても過言ではない。
〜 The Beatles / Twist and Shout
〜 The Beatles / She's a Woman
・NEMSの広報担当者、トニー・バーロウという男。この人物は、ビートルズの活動において、重要なキーマンであった。ビートルズのマ
ネージャーになったばかりのブライアン・エプスタインは、メジャー・カンパニーであるデッカ・レコードを訪ねた際、そこは新人オー
ディションを行う制作の部署ではなく、レコード・ジャケットやライナー・ノーツを作る部門であり、そこで対応したのがバーロウであ
った。しかし、バーロウはこのお門違いな訪問者を無下には扱わず、しかるべき部署と担当者を紹介してくれた。結果、オーディション
は不合格ではあったが、ブライアンはこのバーロウという人物になにか特別な縁を感じ、引き抜きにかかった。バーロウは1968年にビ
ートルズの事務所を離れることになるが、今でもフリーのジャーナリストとして活躍している。そんなアーチスト広報のプロフェショナ
ルがビートルズと仕事をした中で最も印象に残っているのがライナー・ノーツに関しての手紙の数であった。それはもう、想像を絶する
ほどの数である。その中でもバーロウにとって一番想い出深いのが、1963年9月に発売された4曲入りのEPレコード「ザ・ビートルズ・
ヒッツ」である。From Me〜、Thank You Girl、Please〜、Love Me Do。この四曲を収録したお買い得なレコードである。そのジャケッ
トに書かれたライナー・ノーツの一部を紹介すると、「このEPレコードに収録された四曲は、レノン=マッカートニーの曲から選り抜か
れたものだ。この言い方が意味もなくもったいぶったものに思えるとしたら、このライナー・ノーツを10年間保存しておくことをあなた
に提案しよう。そして、10年後の1973年半ば頃に、あなたのコレクションの中から掘り起こして、これを読み返し、その時もし70年代
のポップ・ミュージック・ファンがこの四曲のうち少なくともに曲に対して不満を抱き、敬意を評さないのであれば、私にすごく不愉快
な手書きを送ってきて構わない。」バーロウは確かに70年代以降、多くの手紙を受け取っている。しかし、これらは少しも不愉快なもの
ではなかったことが、ビートルズの素晴らしさを物語っている。
〜 The Beatles / From Me To You
〜 The Beatles / Two of Us
□リクエスト
・高校一年からずっと聴き続けて45年になりました。レコードも、日本で発売されてから聴き続けています。今回のCDは、買いませんでし
た。結局、モノクロ・ジャケットの東芝オデオン盤に戻ってしまいます。いろんな聞き方があるとは思いますが、当時のヒット曲がほぼ
入っていますので、私のアルバムの中では、数あるアルバムの中でも最強だと思います。リクエストは1964年、ビートルズのチャート
独走を止めたこの曲をお願いします。(千葉市美浜区/男性)
〜 Dave Clark Five / Glad All Over
・私は高校三年生で、毎日のことで頭がいっぱいです。部屋に閉じこもって、机に向かっている時間が多くなりました。そこで、お供にな
るのがラジオ、大好きな洋楽です。父の影響で、洋楽が大好きです。しかもビートルズだったり、マイケル・ジャクソンだったり、ボビ
ー・コールドウェルだったり、父世代の洋楽が大好きなんです。自分はマイケルばかり聞いていますが、やっぱりビートルズも大好きで
一番好きなのは「ノルウェーの森」です。ジョージによるシタールが、なんとも印象的です。(千葉県/女性)
〜 The Beatles / Norwegian Wood
・ナンバーワン・バンドのデジタル・リマスター推進委員会会長の小宮です。先日、職場の飲み会の後、カラオケに行きました。ナンバー
ワン・バンドがあったんです。「うわさのカム・トゥ・ハワイ」、「六本木のベンちゃん」。嬉しくて迷わずベンちゃんを歌いました。
秋がぶっとんじゃって、冬春はぶいちゃって、いきなり夏が来たのところは、なんど口ずさんでも快感です。ビートルズも歌っていて
リズムが気持ちいい曲は多いですが、ナンバーワン・バンドも負けてないです。英語が堪能な克也さん、リズム感がなせる技です。リク
エストは、41歳婚活中の私にナンバーワン・バンドのこいははぶないをかけてください。六本木のベンちゃんは、CDを買ってください。
(足立区/男性)
〜 ナンバーワン・バンド / 恋は危ない
・先日はリクエストをかけて頂き、ありがとうございました。その時、一番好きな曲はポール・マッカートニーの「ひとりぼっちのロンリ
ー・ナイト」と申し上げたんですが、その曲をリクエストします。この曲が流行っていたのは、私が中学三年のちょうど今頃で、私も
まわりの友達も高校受験前でピリピリしていました。そして今は中学の長男が受験でピリピリしています。最近は喧嘩も多くなりました
が、一番不安なのは初めての受験を体験する長男ですよね。ですから、ここは私もポールの曲で気持ちも中学の自分に戻って、同じ目線
でエールを送りたいと思います。(習志野市/女性)
〜 Paul McCartney / No More Lonely Nights
(小林)トニー・バーロウという、ビートルズがオーディションで落ちたレコード会社の、ただ優しく声をかけたからという理由で、ビートルズ
のマネージャーが我がスタッフに引き入れたトニー・バーロウ。トニー・バーロウの話、面白いですよね。なかなかいい話だよね、10年がかり
だもんね。レコードを買って、10年後に文句があったら手紙をちょうだい。手紙がいっぱいきたっていう話もいいじゃないですか。それもみん
なダメって話じゃなくて、良かったっていう話も多かった。これはいい話じゃないかと思います。お相手は、小林克也でしたー。
キロックトニーさんいつも乙!!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年1月24日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(1月24日)
・1962年 (48年前)
当時ビートルズは、ジョン、ポール、ジョージ、まだドラムスはリンゴがいなくて、ピート・ベストです。そのビートルズが、ブライ
アン・エプスタインがマネージャーになる、マネージメント契約というのを交わした日です。ただ、この契約書はビートルズ側はサイ
ンしたんだけど、ブライアン・エプスタインはサインをしなかった。これは、ブライアンは「お前たちは俺のことをいつでもクビに出
来る」ていうふうなビートルズへの信頼感を表した。一方、いやそうじゃない!実はお金にシビアなのはポールとジョージ。この二人
がうるさく言うかも分からないから、逆にいい加減な契約にしたかった、空欄にしたという説もあるんです。で、このブライアン・エ
プスタインは、どうしてビートルズのことを知るきっかけになったかというと、ユダヤ系のお父さんがとても金持ちで、お父さんの会
社を手伝っていて、リバプールの港の近くに、リバプールで一番大きなレコード屋さん、そのレコード屋には電気製品も売ってたそう
なんですが、そこにある日中学生や高校生たちが「マイ・ボニーのレコードありませんか?」て来るようになって、置いてないという
ことで、それを仕入れたらプレスリーやクリフ・リチャードの新曲なんかより売れたっていうんです。それで、実際にキャヴァーン・
クラブに見に行くわけですよね。有名な話ですけど。そこで、ビートルズに惚れ込んで、惚れ込んでというかジョン・レノンのことが
ホモ・セクシュアル的に気に入ったとかいろんな話があるんですが、とうとうビートルズとマネージメント契約を結ぶというわけです。
さ、その問題のCDを中学生や高校生が買いに来て滅茶苦茶売れたというCD、実はトニー・シェリダンというイギリスのシンガーが歌
っています。これは、ドイツで録音されました。で、後にトニー・シェリダン&ザ・ビートルズというクレジットですが、当時はトニ
ー・シェリダン&ザ・ビートボーイズとなっておりました。ジョン・レノンは後になって、あんな演奏は俺たちじゃなくたってどのグ
ループだってできたと語っています。しかし、これはビートルズにとってレコーディング第一号であります。
〜 Tony Sheridan & The Beatles / My Bonnie
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・このEPレコードに収録された曲は、レノン=マッカートニーの曲から選り抜かれたものだ。この言い方が意味もなくもったいぶったもの
に思えるとしたら、このライナー・ノーツを10年間保管しておくことをあなたに提案しよう。1973年半ば頃にあなたのコレクションの
中から掘り起こして読み返し、その時にもし70年代のポップミュージック・ファンが、この4曲のうち少なくとも2曲に対して不満を抱
き敬意を評さないのであれば、私にすごく不愉快な手紙を送ってきてもらって構わない。 ── これは、ビートルズの広報担当者トニー
・バーロウが1963年にザ・ビートルズ・ヒッツという4曲入りの7インチEPレコードに寄せたライナーの文章である。バーロウは確かに
70年代以降多くの手紙を受け取った。しかしそれらはすべて、不愉快なものではなかった。つまり、ビートルズは10年以上経っても、
少しも古くはならなかったという証明にもなる。さらにバーロウは同じ1963年の11月に発売予定となっていたセカンド・アルバム
「With〜」のためにリイナー・ノーツを書いた。バーロウは、その収録曲をステージで受けること間違い無しのレコーディングされたば
かりの14曲として紹介し、自ら手がけたオリジナル8曲と彼らが最も敬愛するアメリカのリズム&ブルースのレパートリーからそれぞれ
のパーソナルな視点から選んだ楽曲群から収録 ── と続けた。さらに「Don't〜」でジョージ・ハリスンが作曲家としてレコード・デ
ビューしたことを明記し、耳にこびりついて離れない主旋律をかなでるいい曲だ。二重録音されたジョージの声の後ろで
fabulous foursomeの面々が並外れた楽器演奏の効果をみせている。 ── と付け加えた。fabulous foursome = 素晴らしい四人、この
時初めて登場した言葉であるが、ビートルズの四人に対するボーイズに続く呼び名は、こうして誕生していくのである。
〜 George Harrison / When We was Fab
〜 The Beatles / I am The Walrus (Anthology 2)
・ビートルズの広報担当、NEMSのロンドン支局長、さらにわかりやすく言えば、マネージャー、ブライアン・エプスタインの右腕トニー・
バーロウは、レコードのライナー・ノーツに次々と名文を寄せていった。そして、こうしたライナーの執筆の合間に、バーロウは常にビ
ートルズのプレスリリース、つまりマスコミや音楽業界向けのPR資料を作成しては、バンドを紹介するための新しいキャッチ・フレーズ
できれば流行りそうなものを考えだそうとしていた。最初は「fabulous foursome」というフレーズを考えた。それはセカンド・アルバ
ム「With〜」のライナー・ノーツを書いたときに作った言葉だったが、ちょっと長ったらしいと思っていた。それで、バーロウはそれを
「fab four」に縮めたのである。やがて、このfab fourという呼び名は40年以上経っても生き残って、メディアで使われるキャッチーな
フレーズとなった。そしてバーロウはさらに忙しくなっていった。実は当初彼はビートルズの仕事と、まだ籍の残っている前の会社デッ
カ・レコードの社員としての仕事を二足のわらじ状態でこなしている。もちろん、デッカには内緒である。ビートルズが軌道に乗ると、
バーロウは正式にデッカに辞表を提出し、NEMSの社員となった。まず最初の仕事は新しい広報オフィスを構えるのにちょうどいい物件
探し。相談に乗ってくれたのは、ビートルズの楽曲の出版を管理するディック・ジェイムス。ジェイムスは友人でもあるピアニストで
作曲家ジョー・ヘンダーソンがロンドンのマンモ・ストリートにある小さな物件を引き払おうとしているという情報をくれた。ここは、
コヴェント・ガーデン、つまり繁華街にも近く立地条件は良かった。しかし、下の階の奥、カーテンの先ではエロ本を売っているという
いかがわしい雰囲気であった。が、家賃は安い。ここに決めることにした。後日、ブライアン・エプスタインからオフィスのオープン祝
いに、オーディオ・セットが送られてきた。ブライアン曰く「最新型」のそのセットは、見るからに旧式の安物。ロンドンに比べリバプ
ールはまだまだ、田舎だったのである。
〜 The Beatles / Penny Lane
〜 The Beatles / I Call Your Name
・ロンドンの繁華街コヴェント・ガーデンにほど近いマンマ・ストリートに構えたビートルズの広報室、言い換えれば、NEMSロンドン支
社が稼働し始めた。ここに四人のメンバーが頻繁に顔を出すようになるまで、そう時間はかからなかった。1963年の夏の間ずっと、彼
らは予告も無しにふらりと現れ、ランチや仕事の後の飲み会に誘うのである。特にポールは直前にランチデートに誘うのが得意であった。
誘われるのは決まって、ロンドン支社長兼広報担当のトニー・バーロウの秘書、バレリー・プラット。今や、人気絶頂のビートルズのポ
ールに誘われるのである。バレリーだって、悪い気はしなかった。マンマ・ストリートの界隈には、オフィスから数件先にある小ぢんま
りとした高級フランス料理店モン・ブレジールを含め、おいしいレストランが沢山あった。残念なことに、窓に貼られたフランス語のメ
ニューにおじけづき、ポールもバーロウもここの店に入る勇気はなかった。リバプール出身の田舎者連中にとって、ロンドンのフレンチ
レストランはまだまだ敷居が高かったためここは諦め、もっぱら通りの外れにある庶民派のレストランのステーキ・レストランを選んだ。
ポールは、ウェルダンのサーロイン・ステーキとたっぷりのフライドポテトが大好きで、焼き加減に対してかなりうるさい方であったら
しい。ジョン、ジョージ、そしてリンゴも同じくとっさの思いつきでオフィスを訪れ、ファン・レターを整理するために雇われた女の子
たちと時間を過ごしている。特にジョージは、またかと思われるくらい毎回女性スタッフを真剣な表情で口説いていたという。もちろん
女の子の側も本気ではない。若者どおしのたわいも無い会話をしばし楽しんだのである。セクハラなどという言葉もなかったおおらかな
時代。しかし、ビートルズの人気がこんな程度で終わらないという近い将来のことを、この時まだ誰も予想などしていなかったのである。
〜 The Beatles / Taxman
〜 The Beatles / Michelle
(小林)オバマの嫁さんと同じ....、関係ないか。
□リクエスト
・先日アンソロジーを聞き返していたらエルビス・コステロ・バージョンの Leave My Kitten Alone が聞きたくなりました。コステロ本人
はオリジナルのリトル・ウィリー・ジョンを手本にしたと言ってますが、完全にビートルズのそれですよね。でもこちらもジョンに負け
ないシャウトだと思いますので、よろしくお願いします。(市川市/性別不詳)
〜 Elvis Costello / Leave My Kitten Alone
(小林)コステロは生まれがビートルズと同じあたりでしょ。で、初めて買ったアルバムが「Please〜」だったから、ビートルズが
デビューした頃、少年時代を過ごしています。そして、ビートルのファン・クラブにも入っていました。だから、そういうわけです
よ。
・素晴らしさは最高です。最近は、レコードで聞いています。(流山市/男性)
〜 The Beatles / Yesterday
・早いもので、彼が射殺されてから何年も経ちますね。この季節になると、彼の曲がアチラコチラから流れ、今でもどこかで元気に歌って
いるような気がします。(静岡県富士市/男性)
〜 John Lennon / #9 Dream
(小林)ジョン・レノンから始まるじゃないけど、実は去年オアシスというグループが解散しているんです。またやるんじゃないかと
か色々言われてますけど、オアシスというのはビートルズが解散してから何十年たって、まあビートルズの再来みたいにあの音楽を
聴くとね、ジョン・レノンがつづいているような気がするんですよね。1994年頃もう、ほとんどレコードを出していないのに、ビ
ートルズ・マニアにふさわしい、ライブが滅茶苦茶になったらしいですからね。ビートルズの頃みたいなじゃなくて、みんなダイビ
ングやっちゃうわけ。それで、兄貴の方はここにいたら死ぬんじゃないかと思って逃げるんですよね。それが、ずっと業界を支えて
きて、解散したんですけど、ぼくは若い人はジョン・レノンを追っかけるのもいいけど、もう消えちゃったけどオアシスを追っかけ
るのもビートルズに通じるじゃないかなという気がします。時間が来たんで、変なことを言っちゃいましたが。
(小林)ジョン・レノンは、オアシスに乗り移っていたという...。そういえば、リアムの息子はレノンという名前つけてたよね。というわけで、
リクエストお願いしますね。採用の方には、石井のミートヴョールなどを...ミートボールなどをプレゼントしております。小林克也でしたー。
いつも乙です。
>ジョン・レノンは、オアシスに乗り移っていたという...。
なんでやねんw
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年1月31日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(1月31日)
・1969年 (41年前)
実は41年前のきのうは、あの有名なアップル・レコードの屋上でライブをやった日です。その翌日です。スタジオで、ちょっと
時間は定かでないですが、Long〜、Lady〜、Let it Be、On Our Way Home ── これは Two of Us のことですが、これを録音
したということが記されています。ジョージ・マーティンがプロデューサー。それから、エンジニアがいますよね。第二エンジニア
助手でしょうか、アラン・パーソンズ。そうですよ、ビートルズが終わりの頃、アラン・パーソンは始まったわけですね。80年代、
アラン・パーソンズ・プロジェクトになる、ピンク・フロイドをプロデュースする歴史もこの辺にありますね。つまり、どういうこ
とかと言いますと、屋上で盛り上がるライブじゃなくて、ちょっとライブ向きじゃない、アコースティックな曲を録音したわけです。
結果、アルバム「Let it Be」に収録される四人揃っての録音は、この日が最後。後は、ジョン・レノンが呼んできた鬼才で変人の
フィル・スペクターが編集・リミックス・大コーラスを加えたり、オーケストラを加えて突っつきまわしたという。ポール・マッカ
ートニーなんかは怒ってますからね。自分の名曲をこんなにしてくれた! Long 〜ってあるでしょ、てぃーらら〜って盛り上がって
いく、あれはフィル・スペクターがアレンジしたイメージなんです。ポールが思う、シンプルでちょっとセンチメンタルな感じは
違っていたわけです。だから、ポールは怒りました。で、2003年。ポールが言い出しっぺで、Nakedのアルバム ── 本当はこうし
たかった。「裸」っていうアルバムが出たんですが、そのバージョンを聞いてみます。
〜 The Beatles / The Long and Winding Road (Naked)
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・新しいキャッチフレーズ、ニックネームが「Fab Four」に決まって、PR用のロンドン・オフィスも小さいながら新体制によるスタート
を切ったビートルズの四人たち。ビートルズの広報担当は、彼らのマネージメント事務所NEMSのロンドン支局長で、わかりやすく言
えば、マネージャー、ブライアン・エプスタインの右腕、トニー・バーロウという男。みんなと同じリバプールの出身で、地元の新聞
リバプール・エコーに音楽コラムを持ち、さらにビートルズを最初にオーディションで不合格にした大手レコード会社デッカでライナー
ノーツを書いていたことでも知られていた。バーロウは特に魅力のないレコードでも、ライナーノーツのその技でそれを魅力的に見せる
達人でもあった。そんな彼がブライアンに見初められ、ヘッド・ハンティングされてNEMSにやってきたわけである。とにもかくにも
このトニー・バーロウはビートルズの広報、PRを一手に引受け、マスコミやファンに届く情報はすべて管理した。もちろん、ツアーの
際も、世界中どこでも同行した。その労力たりや大変なものであったに違いない。そんなミスター広報マン、トニー・バーロウが当時を
振り返り、語っている。「1960年代は、望ましくない話を報道させないようにするのが、今よりずっと楽な時代でした。編集者たちも
若い読者たちは自分の好きなポップ・スターの良いニュースだけを読みたがっているということを了解しているので、昨今流行している
ような意地の悪い暴露記事はほとんどありませんでした。こちらがもみ消したいようなプライベートな内容は、単純に出回らせないとい
うことで、マスコミ連中共暗黙の了解を取り付けてましたからね。時代がちがうんですよね、今とでは。」この結果、マネージャーの
ブライアン・エプスタインの断固とした主張により、ジョンが既婚者で1963年にはジュリアンという男の子が生まれているという事実
をバーロウは決して明かさなかった。人気絶頂のアイドル・グループのメンバーに妻や子供がいることなど、もってのほかだったのであ
る。
〜 The Beatles / She Loves You
〜 The Beatles / Paperback Writer
・「ジョンに息子のジュリアンが生まれたことは、一切表沙汰にしないでくれ。」マネージャーであり、事務所NEMSのボスであるブライ
アン・エプスタインは、広報担当で自分の右腕でもある広報担当のトニー・バーロウに何度も念を押した。この時代、アイドルに妻や子
供などご法度そのものだったのである。リバプールの人々が、かなり大ぴらにベビーカーを押して、地元の店で買物をしているジョンの
妻シンシアを見かけたとしても、事務所側はそれに関して一切情報を提示せず、マスコミ側もその事実を突き止めようと躍起になること
はなかった。これはもちろん、ファンが喜ばない情報は流さないようにしようという暗黙の了解であり、賢い大人たちのビジネス上の作
戦でもあった。シンシアとジュリアンに関する情報でメディアをわかした張本人は、むしろジョンである。ジュリアンが生まれたとき、
ジョンはシンシアの側についている代わりに、10日間の休暇をとって、ブライアンとスペインのバルセロナに飛んでしまったのだ。これ
は、周辺の者にとっては、相当の驚きであった。浴びせられた批判のすべてに対し、ジョンは自分はなんて最低な野郎なんだと思ったけ
ど、それでもそのまま行くことにしたという一言で片付けた。広報担当のトニー・バーロウは語っている。「ブライアンが、ジョンに真
剣にホレていることは、僕たちも当然わかっていた。ブライアンは、それまでにもコペンハーゲン、アムステルダム、そしてウェールズ
のポートウェールズにもしつこく行こうとジョンを誘っていたんだからね。ただ、そうは言ってもジュリアンが生まれたその直後に二人
がさっさとバルセロナに行ったことは、さすがに僕らもショックだったね。」バーロウをはじめとするビートルズ関係者の中で、ジョン
は良くブライアンを誘うより、ギリギリのところで拒絶することを楽しんでいるというのが、半ばジョークのようになっていた。それだ
け、ジョンのブライアンに対する態度は、露骨だったのである。
〜 The Beatles / Happiness is a Warm Gun
(小林)もちろん、こんな歌を作るのはジョン・レノンです。危ない歌です!
・ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインはホモ・セクシュアルで、ジョンにぞっこんである。この事実は、ビートルズ
の関係者や音楽関係のマスコミ連中の間では、誰もが知ってることであり、半分冗談のように語られてもいた。ジョンは良く、ビート
ルズの広報担当トニー・バーロウに、こう言っていた。「ブライアンの感情は、俺に対する一方通行だよ。俺がブライアンにそそられ
るところなんて、微塵もない。大体俺、ゲイじゃないしね。今後そっちに行くことなんてないから、みんなにそう説明しておいてくれ。」
もちろんジョンは、ブライアンが自分にぞっこんであることは、良くわかっていた。バルセロナに行った時も、ブライアンはジョンの
気をひくために、わざと街行く美少年をナンパしてみせたのである。その休暇から戻ると、ブライアンはゲイ仲間たちに対して、今回
のヴァケイションで、ジョンは自分のものになったと宣言していたという。これには、関係者も驚いた。もちろん、ジョンという男が
人並み外れた好奇心を持ち合わせた人物で、時に変人的な行動に出ることは有名であった。しかし、無類の女好きであるジョンが、ま
さかブライアンとそういう関係になるなんて、信じられなかった。バーロウは、念のためにジョンに確認した。広報担当者としては、
きちんと把握しておくべきだと思ったのである。ジョンは、大笑いしながら答えた。「バカ言え、トニー。俺が、ブライアンと関係を
持っただなんて、あるわけないだろ。本当のところをいうと、ヤツには本格的に言い寄られたんだよ。だけどさ、そんなの無理に決まっ
てるじゃないか。ぎりぎりまで気を持たせておいて、結局お預けということにしておいたんだよ。愉快だったよ。」ほっと胸をなで下
ろすトニー・バーロウであった。
〜 The Beatles / I Want You (She's so Heavy)
(小林)これは、長い曲ですよね。お馴染みの、ポール・マッカートニーの I Want You。カッコして、She's so Heavy。この曲はめった
に紹介しない…時々紹介するんですがそのたびに、Heavyはその時代の象徴であると言ってますが、改めて言うと Heavy はスラングで
今は Awesome! とか言わないですか? すごいねー!て言う時に「That's awesome!」と言いますが、それと同じようなすごい!という
いい意味を込めて流行っていた言葉です。だから、She's so Heavyというと、彼女はすごいよ!という意味ですよ。だけどあの、日本で
はHeavyというのがちゃんと伝わらなくて、あの人の話はヘビーだねとか、ちょっと耐えられないという感じになっていくんですけど
この頃は純粋にカッコいい!という、だからあの HeavyRockという言葉がありましたけど、「重い」と「カッコいい」がかかっていた
んですね。
□リクエスト
(小林)さっき、She's so Heavy〜!という曲を、間違えてポールと紹介しましたが、ジョンです。
・受験生なので、毎日勉強しています。がんばれるように、この曲のリクエストをします。(茨城県鉾田市/男性)
〜 Billy Joel / Stranger
・ビートルズではないんですが、曲の中である国の地名を言ってます。おいらはそれを聞いたとき、このバンドはビートルズを好きなんだ
なーと思いました。家で聞きたくてもテープがすり切れてしまい聞けませんので、ぜひお願いします。(八千代市/男性)
〜 RCサクセション / トランジスタラジオ
・ビートルズとの出会いによって、洋楽に目覚めました。彼らの音楽は、リスナーの血液に染み込み、体中を駆け巡る気がします。先日
映画「ゴールデン・スランバー」の試写会に当選しました。大好きな俳優が主演で、また大好きなビートルズの曲がテーマになってい
て、ぼくにとっては最高の映画です。だから、ぜひゴールデン・スランバーを流してください。(千葉市緑区/男性/18歳)
〜 The Beatles / Golden Slumber ~ Carry That Weight ~ The End
・元々ビートルズ・ファンだった主人は、ドライブの時ビートルズの曲を聞きたかったんですが、興味のない子どもたちにブーイングさ
れ、なかなか車では聞けませんでした。ところが、息子がビートルズに興味を持ち、車で曲が流れたとき、涙ぐんで心から喜んでいた
んです。最近では、二人でギター片手にコンサート。ギターの腕は上がったものの、歌が苦手な息子に、歌が得意な主人。二人の曲に
娘は呆れ顔ですが、なかなか平和な我が家です。二人の十八番、It's Only Love をリクエストします。(佐倉市/女性)
〜 The Beatles / It's Only Love
(小林)この曲、なかなかかからないと言いましたが、評価はちょっと低いというかね、やっつけで作ったような曲なんですよ。歌詞
を見ると分かるんですが、英語で書こうという方とか、最近はラップなんかでは韻を踏んだりするのが当たり前になっていますよ
ね。♪きっぱりとさっぱりとだか、なんだか知りませんが。ああいうベーシックな韻の踏み方というか、It's Only Loveは最低です。
最初から最後までね、例えば nearby 、I get highとか、byとか brightとか、本当に中学校の二年で習うような英語で、韻の踏み方
とかが分かる。教科書みたいな曲なんでね、歌を歌い始めた方、ギターを引き始めた方、作詞作曲を始めた方にお勧めしたい曲で
あります。
(小林)リクエストを募集しています。お相手は小林克也でした!
キロックトニーさん毎回お疲れ様です。
>It's Only Loveは最低です。
のところは「最高です」とおっしゃっていませんでしたか?
>>329 いま、録音したものを聞き返してみたら「最適です」と言ってますね。
どうやら、記録するときに聞き間違えたようです。すみません。
お詫びがてら、克也さんの耳にタコが出来る話を
1. I Want You (She's So Heavy) 〜 Heavyは当時のスラングでカッコいいという意味
2. Girl 〜 バックで「おっぱいおっぱい」と歌っている
3. Twist and Shout 〜 世界初のハードロック
4. ABBAのビヨルンとベニーは、ビートルズになりたかった
5. 秋川雅史さんは、「ビートルズから始まる。」に出てから、有名になって紅白にも出場した。
他にもいっぱいあるような気もするけど、とりあえずこれだけ。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年2月7日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(2月7日)
・1964年 (46年前)
イギリスからアメリカに遠征の日です。6時半にロンドンのヒースロー・エアポート、ビートルズがニューヨークに出かける前に
早朝です。記者会見です。こりゃ、すごいでしょ。そして記者会見とか色々あって、午後1時35分のパンナムのフライトでロンドン
からニューヨークにたちます。そして、十日間のアメリカでのコンサート、そしてテレビ出演のためにでかけるわけですが、同じ日
にニューヨーク・ケネディ空港に到着します。そこでも、ビートルズはもうアメリカで大変な事になってますから、到着したところ
ケネディ空港で記者会見であります。で、その後プラザ・ホテルに連れて行かれるんですが、もう飛行場からホテルまでファンが
追っかけて、大変な目に遭っちゃう。そして、その日あまりの忙しさにジョージ・ハリソンが風邪を引いちゃって、十日間結構風邪
で悩まされるという、有名なお話です。エド・サリバン・ショー2回、合計3回出るんですが、2回は生放送、あと1回は録画で仕事が
おさめられるわけですが、エド・サリバン・ショーでも収録されたこの曲を聞きましょう。
〜 The Beatles / All My Loving
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・「バカ言え、トニー。俺がブライアンと関係持ったなんて、あるわけないだろ。本当のところを言うと、ヤツは本格的に言い寄ってきた
んだゆお。だけど、そんなの無理に決まってるじゃないか。ギリギリまで気を持たせておいて、結局おあずけってことにしといたよ。あ
れは愉快だったよ。」これは、ビートルズの広報トニー・バーロウに対し、1963年にジョンが語った言葉である。当時ジョンはマネー
ジャーでホモ・セクシュアルであるブライアン・エプスタインとの仲が噂されていた。なにせ、息子のジュリアンが生まれたばかりだと
いうのに、ブライアンの誘いを断らずに二人でバルセロナにバケーションに出かけたのである。そういう噂がたっても、何の不信もなか
った。しかし、当のジョンは長いツアーの疲れを癒すためなら、一緒に行く相手がブライアンだろうが誰でも良かった。単純に骨休みに
行きたかっただけなのである。実際ジョンは、そっちの気は全くなかったと言われている。その根拠は、こんなポールの発言にある。
「ぼくがジョンの側にいた頃、彼がぼくに言い寄ってくることは一度もなかったけど、何十人もの女の子をモノにしているところは、確
かに何度も目撃してるよ。」こうしたブライアンとジョンの謎めいた関係がクライマックスを迎えるのは、1963年6月18日。ポールの
おばさんの家の裏庭に張ったテントの中で開かれたポールの21歳のバースディ・パーティでのことであった。地元リバプール界隈の
ミュージシャンや昔からのファンの間でヒーローだったキャヴァーンのDJボブ・ウーラーが、酔っ払った勢いで軽い冗談のつもりで、
ジョンにこう切り出した。「なあ、ジョン。バルセロナで、君とブライアンの間で何があったのか、詳しくきかせてくれよ。みんな、
聞きたがっているから。」ジョンの方もかなりの量のアルコールが入っていたせいで、手加減を忘れ、ウーラーに殴りかかった。当たり
所が悪かったのか、ウーラーはそこにうずくまったまま起き上がってこない。「マズイ!」広報担当のトニーは、この傷害事件が警察沙
汰になることだけはどうしても避けたかったのである。
〜 The Beatles / Birtheday
〜 The Beatles / Something
・1963年6月18日、ポールの21歳の誕生日パーティが、ポールの母親がわりのーニーおばさんの家の裏庭で最大に行われていた。この
日のパーティーを盛り上げるバンドは、ビートルズの所属するNEMSエンタープライズと契約したばかりの新人グループ、フォー・モー
スト。このバンドには、ポールの弟のマイケルがマイク・マクギアという芸名で参加していた。ご機嫌な演奏とジニーおばさんのおい
しい手料理で盛り上がる中、キャヴァーン・クラブの人気DJボブ・ウーラーが、酔っ払ってジョンに切り出した。「なあ、ジョン。バ
ルセロナで、君とジョンの間に何があったか説明してくれよ。みんな、聞きたがってるぜ。」これに対して、ウーラー以上にアルコール
の入っていたジョンはぶちきれた。まわりが止める間もなくウーラーに襲いかかり、ぶちのめしてしまったのである。当たり所が悪かっ
たのか、ウーラーはそこにうずくまったまま起き上がってこない。結局、彼の肋骨は三本も折れていた。重症である。このパーティーに
は親しい記者も何人か出席していたため、この情報はすぐさま音楽業界に出まわってしまった。いまや、イギリスでNo.1の人気を誇る
ビートルズのリーダー格ジョン・レノンが起こした傷害事件。話題になって、当然である。すぐさま、広報担当のトニー・バーロウは、
この傷害事件のもみ消しにとりかかった。当然、謝罪するようにジョンを説得した。しかし、ジョンは全くこれに応じようとしない。
それどころか、こんな発言までしてしまった。「ウーラーの方こそ、度を越して酔っていたんだ。あいつが俺のことを、ホモ呼ばわり
したからボコボコにしてやったんだ。酒のせいなんかじゃないよ、あれは自業自得。あいつが俺をからかって、俺はあいつを殴った。
もちろん、謝る気なんか全くないね。」さて、この問題をどう処理したらいいのか。頭を抱えるバーロウであった。
(小林)ポールのおばさんの家の裏庭でテントを張ってパーティーを開いたと言うと、日本人は小さいことを考えてしまいます。まず裏庭
というと、欧米特にアメリカやイギリスでは backyardというと表の庭よりも backyard の方が広いから、テントというのも運動会なん
かでお馴染みのテントがあるじゃないですか。あれより大きいですからね、で backyard というのは裏庭と言えば裏庭なんだけど、本格
的なお庭のことですからね。日本人だと間違えちゃうよね、間違わないでね。
・1963年6月、ポール21歳誕生パーティの席で、ジョンは傷害事件を起こした。被害者は、地元リバプールのあのキャヴァーン・クラブ
の人気DJボブ・ウーラー。原因はウーラーが冗談半分でジョンとマネージャー、ブライアン・エプスタインのホモ・セクシュアルな関係
をからかったことにあった。それにしても、肋骨三本を折るという被害はやりすぎである。あんなの自業自得だ、謝る気なんかないねと
いうジョンの発言になんとか手を加え、口調も変えて、あまりけんか腰ではなく、いかにも反省しているかのように取り繕ったのは、敏
腕広報マンのトニー・バーロウである。それでも、この件はまずいニュースとして伝わったことに代わりはなかった。ディリー・ミラー
紙のビジネス担当記者ドン・ショートはこう書いた。“ポップ・グループ、ビートルズの22歳のリーダーであり、ギタリストのジョン・
レノンは、昨夜こう発現している。「なぜ、ぼくが親友を殴らなければならなかったのかって? ぼくはすごくハイな気分で、自分が何を
しているのか分からなかったんだ。本当は世界中の誰よりも、ボブとだけはケンカしたくないと思っているくらいなんだ。ぼくがあまり
にも酔っ払っていて、自分のしていることさえ分かってなかったと、彼が理解してくれるのを願うばかりだ。」”情に熱く、ビートルズ
のことを心底応援しているウーラーは、その暴行を訴え出ないことにすぐ同意したが、その代わりとして不快な事件に身も心も決着をつ
けるためにジョンから今の価値にすると100万円程度の示談金を受け取ることにした。それが、トニー・バーロウにとってジョンの厄介
ごとを処理する最初の事件となったが、このエピソードによって強く思い知らされたのは、ジョンの結婚生活において、妻のシンシアと
の関係がいかに微妙なものであったかということであった。最初の子どもが生まれてすぐ、その子をおいて太陽が燦々と輝く南国に出か
ける男。そういう一面がジョン・レノンという人物には、確実にあったのである。
〜 The Beatles / Across The Universe
(小林)ピート・ベストのインタビューによると、俺の方が最初に誘われてどうのこうのとかね、ジョンは何をするか分からない男だよと
か、いろんな可能性があるとね、本当のことが分からなくなっちゃうわけだよね。そうするとやっぱり、ファンとしても覚悟がいるわけ
だよね。その音楽と人とは違うんだとケジメをつけるのか、いや色んなことがあっても、俺は好きなんだというかね。むずかしいところ
だね。
□リクエスト
・去年の洋楽ロック界ではスティーブン・タイラーとジョー・ペリー、この二人の間にちょっと変な空気が漂いました。と思ったら、
ジョー・ペリーがソロ・アルバムを発表してくれました。そのアルバムのボーナス・トラックにビートルズのカバーで Revolution が収
められていたのはこの作品に大きな価値があるのだと思います。エアロスミスとしてでは、過去の作品でもビートルズのカバーをしてい
ましたが、今回はジョーのソロ・アルバムの中にビートルズのカバーを収めたということは、ブルースを機軸とする彼の音楽のルーツの
中でも深い意味を持ってるんだなと感じます。ジョー・ペリーの最新作の中からこのカバーをお願いします。(船橋市/男性)
〜 Joe Perry / Revolution
・きのう、某スタジオにラブ・サイケデリコを見に行きました。ちょうど、新譜発行したばかりでしたが、相変わらず気負いのないラブ・
サイケデリコのお二人でした。克也さん、ラブ・サイケデリコのKUMIは生まれながらに声という楽器を奏でることが出来るんですね。
(市原市/男性)
〜 LOVE PSYCHEDELICO / Help!
(小林)声もすごいと思うけど、この二人の場合はリフって言うんですかね、リフ・グループですよね。だから、Help!にあのリフを作る
ことによって、KUMIさん、ボーカルも生きるわけだし、KUMIさんが歌うことによって、またギターの違うアイデアが出てきて、だか
らジョー・ペリーもすごいけど、それをはるかに上回ってるんだね。音楽的にね。こっちの方の勝ちだね。で、この間のスタジオは
あれだよ。ラブ・サイケデリコのファンはアメリカにもいるみたいで、アメリカのテキサスの音楽評論家も来てたね。
・今年は、新年にやはり斉藤和義の僕の見たビートルズはTVの中をリクエストします。(船橋市/男性)
〜 斉藤和義 / 僕の見たビートルズはTVの中
・去年の吉田拓郎のツアーは体調不良で途中で中止になってしまい、ジャンルも違いますが歌詞の下りに女王陛下が登場するというのが
あります。ビートルズだけがそれを許されたのかと思いを馳せたりしています。(千葉市美浜区/男性)
〜 吉田拓郎 / ビートルズが教えてくれた
(小林)これは、ビートルズが勲章をもらうじゃないですが、でポールが「いい女だったよ」みたいに言うんですよね。それからきて
いるのかと思います。また彼が偉かったと思うのは70年代深夜放送でボブ・ディランすごいよ。バンドとツアーやるけど見に行きた
いとか言ってあおって、それでボブ・ディランなんか聞かないような人も引っ張ったというのはちょっと功績がありますよね。
(小林)この番組は、ビートルズの偉大さを伝える番組じゃないんです。真実に迫る、ビートルズの偉大さは良くわかっているわけです。ビート
ルズがどうしてかね、なぜそんなにすごかったのかとかに迫る、真実に迫る番組というわけで。あとは、みんなが判断するということですよね。
それから、リクエストに参加してください。お相手は小林克也でした!
キロックトニーさん、今週も乙です。
今週は拓郎がよかったな。
石井食品のCMのバックにジムノペティが流れるのあるけど、
観てきたばっかの映画「涼宮ハルヒの消失」を思い出させて泣ける
340 :
907:2010/02/10(水) 20:10:22 ID:???0
遅ればせながらキロックトニーさんいつも乙!
どういたまして。
キロックトニーさんは忙しいのかな?
344 :
ホワイトアルバムさん:2010/02/16(火) 20:05:47 ID:IaGG96a80
お待たせ^^
キロックトニーさん マダー? aa省略
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年2月14日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(2月14日)
・1996年 (14年前)
14年前のきょうは、世界のラジオ局が大変だった。世界のラジオ局で、この曲を同時にかけて良い! ビートルズの新曲だ!! 新曲って
ことはあり得ないわけですよえ。ジョン・レノンが亡くなって(るわけですから)。だけどこれは、いままで誰も聞いたことがない新曲
だったわけです。その曲というのは Real Love です。Real Loveが、今から14年前のきょう、日本のラジオでも、どこの国のラジオで
もかけて良いという日でした。で、これは、ビートルズのアンソロジー2の中に入った曲なんだけど、元々オノ・ヨーコが持っていた
カセット・テープ、デモ・テープみたいな状態ですね、これを渡しました。で、メンバー三人がジェフ・リンのプロデュースの元、こ
れを作りました。最終的に一番目立っているのは、ジョージ・ハリスンのスライド・ギター。この曲の特徴になっているよね。で、
ELOのジェフ・リン、ジョージ・ハリスンの友だちです。親友です。ジョージにスライド・ギターをやったら?と提案します。ところ
がポール・マッカートニー、え?ジョージのへなへなのスライド? こりゃ、どうかな? ところがですね、もう昔のジョージ・ハリスン
じゃありません。長い年月を経て、成長したジョージのスライド・ギターを聞いて、ポール・マッカートニーは、うわ!すげ!ブルー
ジーでかっこいい!感動した!というエピソードがあります。というわけで、14年前世界中のラジオ局で解禁になったジョージ・ハリ
スンのスライド・ギターも目立っているカセット・テープのものでもここまでよみがえったというお手本のような曲を改めて聞いてみ
ましょうか。
〜 The Beatles / Real Love
(小林)いかがでしたか? 結局これはヒット曲になるわけですが、いろんな年代の方が聞いてどう感じますかね。亡くなったジョン・レノ
ンのカセット・テープを生きていた三人が、ジョージ・ハリスンももう亡くなってますが、三人がやったという。だけど、サウンドが実
は、僕らの年代から言うと、ポール・マッカートニーとジョン・レノンは結構仲が悪くなるわけですよ。ところが、ジョン・レノンが亡
くなってから、世の中はジョン・レノンの方にすごく傾いて、ポールもジョンを敵にするとこれはヤバいなという、まあ亡くなった後で
言うのはなんですけど、そういうような流れがあります。だからこのサウンドは、実はポールが嫌いなサウンドなんです。元を正すと、
音の壁とされるジョン・レノンやジョージ・ハリスンをプロデュースしたジェフ・リンは大好きだったフィル・スペクターのサウンドな
んですよね。だけど、ポール・マッカートニーは、あの人は回転速い人ですからね、結構陽気な人ですからOK!OK!!と言ったんじゃない
かと。まあ、メンバーひとりひとりどういう気持で、ジョン・レノンが亡くなった後で仕事に参加したか考えるとね、面白いですよ。
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・1963年6月 ── ポール21歳の誕生日パーティーの席で、ジョンは傷害事件を起こした。被害者は、地元リバプールのキャヴァーン・ク
ラブの人気DJボブ・ウーラー。原因は、うーらーが冗談半分で、マネージャーのブライアン・エプスタインとジョンのホモ・セクシュア
ルな関係をからかったことにあった。それにしても、肋骨三本の被害はやりすぎだった。マズい! 誰よりもそう思ったのは、広報担当の
トニー・バーロウ。この傷害事件が警察沙汰になることだけは、どうしても避けたかったバーロウは、実際にはそれほど安静にしていな
いジョンのコメントを、いかにもそれ風にアレンジしてマスコミに発表した。「なぜ、ぼくが親友を殴らなければならなかったかって?
ぼくはすごくハイな気分で、自分が何をしてるのか分からなかった。本当は、世界中の誰よりもボブとだけはケンカしたくないと思って
るぐらいなんだ。ぼくがあまりに酔っ払っていて、自分のしているさえ分かっていなかったと、彼が理解してくれるのを願うばかりだ
よ。」実に苦し紛れではあるが、これでなんとか体裁をつくろうことはできた。警察の介入もすんでのところで阻止することに成功し、
ジョンには被害者であるウーラーに謝罪させ、示談も成立。今の金額に換算すると100万円以上となる金額を所属事務所であるNEMSエ
ンタープライズが肩代わりした。今回の事件の発端は、事務所の社長であるブライアンにもあったので、彼もしぶしぶではあったが、
その金を用立てするしかなかった。もしこれが、1963年でなかったら、21世紀の出来事であったら、それはもうおしまいである。イン
ターネットに支配された現在、スキャンダルは恐るべき速度で世界中に波及する。それが人気急上昇中の新人ロックバンドであったらど
うだろう。おそらくそのアーチスト生命は完全にたたきつぶされてしまっても不思議ではない。だいたいにおいてロックなんて、まだま
だ市民権を得ていない1960年代、多くの大人達はこれを音楽とは認めていなかった時代である。そして、この事件を起こしたバンドが
その未来を書き換えてしまうなど、予想もしていなかった。
〜 The Beatles / All You Need is Love
〜 The Beatles / Tomorrow Never Knows
・ジョンの傷害事件をなんとか収束の方向に向けると、ビートルズの広報トニー・バーロウは、その夏のマスコミ向けのキャンペーンを
念入りに実行した。1963年、ビートルズの人気が急上昇していた時代の話である。まずバーロウは、新聞各紙や雑誌で最大の記事スペ
ースを獲得すべく、ビートルズをかなり酷使した。ことあるごとに連中を捕まえて、ロンドンの新しいオフィスへ連行し、そのたびに数
時間かけてインタビューに応じさせたのである。その頃バーロウは、リバプールのNEMS本社から送ってもらった予定表を徹底的に調べ
あげて、写真撮影や地方紙の記者・編集者へかける電話の時間を組み込むために、レコーディング・セッションやラジオの特別番組出演
の合間のほんの小さな空き時間でも探したものであった。もともと、リバプール出身で高校生の頃から地元の新聞リバプール・エコーの
音楽コラムを担当していたバーロウは、地方紙という存在をかなり重んじていた。100万人を超える人々がリバプール・エコーしを読み
信頼していることをバーロウは理解し、さらにイギリス中の何百万もの人々が全国紙よりもそれぞれの地方紙に目を通すことに時間を割
くことを良く知っていたのである。長時間に及ぶインタビューでは、その環境をできる限り快適なものにしようとして、飲み物をふんだ
んに用意していた。コークの瓶には自由にスコッチが注がれ、スナック休憩も頻繁に設けられ、そのたびごとにパイやサンドイッチが運
びこまれた。ボーイズ ── つまり、ビートルズがそれぞれの地方紙の記者と電話で話し始める前には、相手に親しみを持たせるために
記者のファースト・ネームを大きな字で書いたカンペを用意した。「やあ、ピーター。そっちの天気はどう?」「こんにちは、アニー。
とても、セクシーな声だね。」といった具合である。こうして敏腕広報マン、トニー・バーロウの仕切りの元、ビートルズのキャンペー
ンが順調に進んでいった。
〜 The Beatles / Please Mr. Postman
〜 The Beatles / Day Tripper
・1963年夏 ── ビートルズのマスコミ向けの本格的なキャンペーンは続いていた。もちろん、レコーディングやツアー、そしてラジオ番
組出演の合間をぬっての仕事である。スケジュール的には、かなりハードであった。このキャンペーンを計画し、一手に引き受けていた
のは、ビートルズの所属事務所NEMSエンタープライズのロンドン支局長で、広報担当部長のトニー・バーロウ。バーロウは元々リバプ
ール出身で、高校生の頃から地元の新聞リバプール・エコーに音楽コラムを持ち、さらにロンドンに出てからは大手レコード会社デッカ
の社員でもあった人物。ビートルズをオーディションで不合格にした、あのデッカ・レコードでいろいろなレコードのライナー・ノーツ
を担当していた。マネージャーのブライアン・エプスタインは、最初にデッカを尋ねたとき会ったのが、このバーロウである。オーディ
ションを受けられるように取り計らってくれたのも、このトニー・バーロウであった。ブライアンは、そんな彼に強い縁を感じ、すぐさ
まデッカからNEMSへ引き抜いたというわけである。ビートルズ最初のキャンペーン活動においても、バーロウの仕切りは見事であった。
インターネットどころかテレビの普及もまだまだであった1960年代前半、バーロウは何よりも地方紙の重要性を見抜いていた。記者の
ファースト・ネームをビートルズに読ませることで、記者たちの共感を得ることに成功した。バーロウという男は人の心をつかむ技に長
けていたのである。それでもこうしたインタビューは、かなり過酷な仕事であることも確かであり、取材の日、夕刻になるとビートルズ
の面々はインタビュー中に渡された紙に落書きを始めることもあった。ジョンは、恐ろしい小さな怪物を好んで描き、ジョージはコミカ
ルでセクシーな女の子。ポールは、風景を描きのが好きだった。そしてなぜか、リンゴ・スターは、船か潜水艦を描いていたものである。
〜 The Beatles / Yellow Submarine
(小林)イエロー・サブマリンは本当に潜水艦のことを歌っていますが、当時の黄色い潜水艦と呼ばれていた、いけないもののニックネーム
であったというのも有名だし、まあリンゴはね、ほんのわずかだけど船乗りをやろうとしたこともあったようです。
□リクエスト
・私が克也さんの番組を初めて聞いたのは約30年前、AMのラジオ局でやっていた「ポップ・イン・ポップス」という番組で、当時洋楽なん
て知らなかった私は、この人すげー詳しいなと感心するのと同時に洋楽のイロハを克也さんから教えてもらいました。その後、テレビの
「ベストヒットUSA」で、克也さんはこんな人なんだと分かり、さらに80年代の洋楽の映像をいろいろ楽しみました。いまも洋楽は大好
きです。克也さんから受けた影響は、本当に大きいと思っています。というわけで、克也さんのラジオ番組を聞いていた頃、ヒットして
いたこの曲をお願いします。(夷隅郡/男性)
キロックトニーさん待ってたよー
〜 Linda Ronstadt / Ooh Baby Baby
・私は25歳ですが、小学生の頃からビートルズのファンなので、既に人生の半分以上を彼らの音楽で過ごしています。ところで、ラヴァー
ソウルですが、ポールのMichelleとジョージのIf I Need〜があります。ポールの方は、ミッシェルという女性を頑張って口説いていると
見受けられるのですが、ジョージはかなり控えめに話しているように思えます。草食男子という言葉は当時はないはずですが、このIf〜
を聴くと、いつの時代にもそういう人はいるんだなと思ってしまいます。メンバーは所属事務所の女性を良く食事に誘ったという話が
ありましたね。その時ジョージが最も頻繁だったとか、彼の書いた詩からは、あまり想像出きないですが、なんとなく安心させられまし
た。余計なお世話ですみません。(中野区/女性)
〜 The Beatles / Till There was You
(小林)独特の聞き方をしていますね、いいですね。
・ジョン・レノンのアルバム「Imagine」を聞いて思ったんですが、ジョンは性格的にかなり極端だったのかと思いました。Imagineでは、
皆が平和に暮らす世界を想像してごらんと歌い、Give me〜では延々と社会に対する不満をぶちまけたり、挙句の果てには How〜では
ポール・マッカートニーをボロクソに言っていたりします。ある意味、こんなに変化に富んだアルバムもないと思います。みんなに平和
を呼びかけている裏で、親友の陰口を叩いているんですから。言行不一致も良いところじゃないですか。でも、この矛盾に満ちてるよう
に思えるところが、また人間味があって私は好きです。リクエストは、All My Loveをお願いします。メロディと歌詞が美しくて好きな
曲です。この番組の拝聴歴も10年、今でも新たなる発見があり、驚かされています。10年余りの活動期間なのに、10年たってもネタが
尽きることがないのがさすがビートルズ。これはもちろん、克也さんが膨大な知識を...。(さいたま市/女性)
〜 John Lennon / All My Love
(小林)いや、ぼくの知識はないです。話すと長くなるけど...。
・ニュースでも取り上げられていますが、10年目になるさいたま市のジョン・レノン・ミュージアムが今年の秋で閉鎖されるという方向で
話が進んでいます。ミュージアムのおひざ元さいたま市に住む有志の方々がミュージアム存続を求めて該当での署名活動に加え、メール
やFAXでも署名が出来るようになっているので、ラジオを聞いてくれているリスナー様にそのことを告知したいと思い、個人的な思い入
れを電波に乗せるなど大変失礼だと思いますが、なんとか閉鎖をまぬがれて欲しいと、思い切ってメールをさせていただきました。活動
を行っているのは、ジョン・レノン・ミュージアムの存続を求める市民の会と言います。ネットを検索すればすぐに見つかるのでご協力
を。
(千葉市花見川区/男性)
〜 John Lennon / Power to The People
(小林)これはね、署名とかはね、全部ヨーコ・オノ、オノ・ヨーコのところに届くようにした方が良いです。彼女が仕切っているは
ずですから。
(小林)草食系とかそういう感覚はね、やっぱり若い人でないとないですからね、こういうのをお待ちしております。話の方もとても面白いと思い
ます。ビートルズの宣伝のことが、きょうは伝えられましたけど、1960年代にビートルズが自分たちの宣伝方法、プロモーションの方法を作っ
たといってもいいですよ。いま、FM曲なんかでいろんな人が登場してしゃべったりするじゃないですか。ああいうスタイルも全部、ビートルズ
から始まった!と考えるととてもわかりやすいと思います。特に、ビートルズが解散した後も、それぞれソロ・アルバム出していきますよね。
そういうやり方、そして許可を出すやり方。この日にお願いします、この日からこの曲をかけてもいいので。よろしくお願いします。こういう
やり方は、みんなビートルズから。この番組にタイトルどおりです。またお会いしましょう、お相手は小林克也でした!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年2月21日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(2月21日)
・1968年 (41年前)
メリー・ホプキンのアルバム「ポストカード」が、イギリスで発売になりました。プロデュースは、もちろんポール・マッカートニー。
えーと、もうあのー、ビートルズのこと、それからビートルズが作った会社がアップルである。レコード部門から、そのヒットを出し
て、どんどん出して儲けていこうみたいな、芸術の総合会社アップルみたいな会社を作って、そしてポール・マッカートニーはプロ
デューサーとして新人を探して売り出していこうと思うわけですね。そんな時に、メリー・ホプキン、17歳の女性がテレビのタレント
ショーに出ていました。それを、ツィッギーって皆さん知ってますか? 最初のミニ・スカートをきたモデル、有名になったモデルさん
です。ツィッギーは小枝のように細くて、ツィッギーというニックネームで呼ばれていたんですが、実はツィッギーはポール・マッカ
ートニーの友だちでした。ツィーッギーが、メリー・ホプキンという女の女性歌手を見ます。そして、タレントを探しているという
ポール・マッカートニーに電話をします。良い子がいるわよってことで、彼女は契約をして、Those〜という曲をポールがプロデュー
スして、1,000万枚を超える世界的な大ヒットになって、それに続くアルバムが41年前のきょう出たというわけです。で、このアルバ
ムにはポールとコネのあるハリー・ニルソンとか、ドノヴァンとか、プロデューサーの先生のジョージ・マーティンのオリジナル。そ
れから当時アメリカでヒットしていたヤング・ラブ。それから、シャンソン。アメリカのジャズとかミュージカルのスタンダードにも
挑戦していました。そういった曲をポールはカバーさせたわけですね、いろんな国で売っちゃおうという魂胆が見えますけど。それで
はこれ、ちょっと珍しいです。あのジョージ・ガーシュインという有名な人が作った曲です。それをカバーしています。もちろん、ア
レンジやプロデュースは、ポール・マッカートニーが担当しました。
〜 Mary Hopokins / Someone to Watch Over Me
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・「やあ、ピーター。そっちの天気はどう?」「こんにちは、アーニー。とにも、セクシーな声だね。」 ── 1963年夏、ビートルズ最初
のマスコミ向けキャンペーンは、こういうフレンドリーな雰囲気で進んでいった。地方紙の記者に対し、そのファースト・ネームで呼び
かけるという方式は、もちろん敏腕宣伝マン、トニー・バーロウが考えたものである。が、いくら和気藹々に進んだとしても、長く続く
インタビューは、次第に退屈なものになっていく。そんな時、ビートルズの面々は誰からともなく、落書きを始めることが多かった。
ジョンは、奇妙な怪獣を。リンゴは、船か潜水艦を。ジョージは、ロング・ヘアーに丸い顔。そして、セクシーでクラマーな女の子。ポ
ールは、風景を書くのが好きであった。その絵は、毎回当然のように捨てられてしまったのあるが、バーロウは今考えると、ほとんどこ
れは犯罪に近い損失だと語る。「いやあ、あの時ほんのひと欠けらでも落書きが残っていたらなあ。今のビートルズに関するmemorabilia
つまり、ゆかりの品やグッズの人気を考えると、それらの落書き、いや立派なアートワークは一体いくらになっただろか。想像できるか
い。あの頃を思い出してみると、それらの落書き帳がクシャクシャに丸められて、空になったコーラやスコッチの瓶や、干からびたパン
の耳と一緒にNEMSのスタッフの女の子バレリーが、ゴミ箱に捨てていたんだから。もう、思い出したくもないね。」バーロウは、笑い
ながら思い出している。ビートルズの四人が、NEMSのロンドン・オフィスにやってくる日には、必ずファンが送ってきてくれたサイン
帳やコンサートのプログラム、そしてアルバムのジャケットにサインするように、バーロウから仕事としてお願いしていた。これに、協
力的だったのはポールとリンゴ。特にポールは仕事熱心でせっかちだったので、電話インタビューを受けながらでもサインをするぐらい
であった。ジョージはちょっと面倒くさそうにぐずぐずするのがいつものこと。そして、一番最後にサインをするのがジョン。四人の人
となりが伺えるなかなか興味深いエピソードのひとつである。
〜 The Beatles / We Can Work it Out
〜 The Beatles / Don't Bother Me
・1963年、夏 ── ビートルズ最初のマスコミ向けの宣伝キャンペーンは、忙しいスケジュールの中、順調に進んでいった。この時期、ビ
ートルズに会おうコンテストや、さまざまなインタビューを特集を含め、いまやファブ・フォーと呼ばれるビートルズと若き世代のファ
ンとの関係をより強めるため、広報マンのトニー・バーロウは、10代向け雑誌におびただしい数の特集を組んでもらっていた。こういっ
た雑誌の編集部からは、ほとんどの場合可愛くて若い女の子がビートルズと会えるよう、記者として送り込まれていたので、インタビュ
ーは関係者全員にとって、楽しい時間となった。こうした努力の末に、バーロウたちはティーン雑誌業界と、その数百万人に及ぶ思春期
の読者からの長きにわたる確実なサポートを獲得し、そのことはやがてツアーをやめた1960年代後半に、ビートルズのレコード売り上
げにつながっていったことと確信する。さらに、その頃のファンの多くは21世紀の現在、新しく発売されるCDの購買層にもなっている
ことは、まぎれもない事実である。このキャンペーンの期間、ビートルズから唯一公認された月刊誌が、ザ・ビートルズ・ブックという
名称で創刊された。もちろん、メンバーに関するニュースや特集のみで構成された雑誌である。発行人兼編集人、ショーン・オマホニー
は、マネージャーのブライアン・エプスタインやバーロウとの交渉を通して、独占的な刊行権を獲得した。ブライアンは、ビートルズに
雑誌を通しての印税が支払われることを望んでいたが、バーロウはむしろ宣伝目的で利用できるファン向けの定期的な刊行物が出来るこ
とに、興味を持っていた。こうした双方の思惑が一致して、オマホニーはザ・ビートルズ・ブックの創刊を始めた。創刊号発売から二ヶ
月たたないうちに、イギリスではビートルマニアが発生し、そのニーズから雑誌の発行部数はうなぎのぼりになった。労せずして利を得
るというバーロウの作戦は、見事功をなしたのである。
〜 The Beatles / Paperback Writer
〜 The Beatles / Revolution 1
(小林)この曲は「革命」ですけど、ジョン・レノンは色んな曲の内容には関係あるのかわかりませんけど、色んな新しい実験をやってい
ますが、この曲ではジョンが寝転んで、マイクを下に置いてもらって、寝転んで歌ったというエピソードがある。そういうのって、ちょ
っと分からないけど、ジョン・レノンは自分の声の響きを変えたかったようであります。
・1963年、夏 ── ビートルズの最初のマスコミ向けキャンペーンの真っ最中に、唯一正式に発行された月刊誌が、ザ・ビートルズ・ブッ
クという名称で創刊された。創刊号発売から二ヶ月もたたないうちに、イギリスではビートルマニアが発生し、そのニーズから雑誌の発
行部数はうなぎのぼりとなる。この雑誌ビートルズ・ブックについて、マネージャーのブライアン・エプスタインの右腕でもあり、優れ
た広報マンでもあったトニー・バーロウは、こう考えた。こいつは使える、この雑誌は間違いなく成功する。そうすれば、我々NEMSエ
ンタープライズがわざわざファンクラブ用の会報を発行したり、それをファンへ発送するコストも掛けずに、ビートルズとファンの接点
を設けることが出来る。これは、素晴らしい方法だ。これはしばらく、利用させてもらうことにしよう。 ── 見事な大人のビジネスマ
ンの発想である。そこで、発行人であるショーン・オマホニーとの交渉でバーロウが要求したのは、編集権とどういう内容にするかで
あった。毎号少くとも二ページ、表紙にできるだけ近いところをファンクラブからのニュースレター用に割いて貰う約束をオマホニーか
ら取りつけた。この頃には、NEMSは全国からのビートルズ・ファンクラブの本部をロンドンの広報オフィスのワンフロア上に発足させ
ていたのだ。発行人のオマホニーは、このオフィスの住所マンマ・ストリート13番地をファンクラブの入会案内と一緒に毎号きっちりと
紹介することを承諾した。このオマホニーの価値ある成約の見返りとして、ザ・ビートルズ・ブックは写真やインタビューのために、定
期的にジョン、ポール、ジョージ、リンゴに会えることを保証された。バーロウの方も、可能な限り独占的なニュースも含め、グループ
の現状や近々の予定などの最新情報を提供出来るようにした。こうしてビートルズ側とザ・ビートルズ・ブックは、長きに及ぶ素晴らし
いビジネスの関係を築くことになっていくのである。
〜 The Beatles / Get Back
〜 The Beatles / Oh! Darling
(小林)ポールが頑張っている、Oh! Darling。そして、同じくポールのGet Back。ジョンの有名な「オーディション、パスしたかな」てい
うセリフも入っていました。特にこのOh! Darlingは、あのー、1969年アビー・ロードの中に入っている曲ですけど、ロッカ・バラード
っていうんですかね、それからあのー、そのー、恋人にこう哀願するストレートなひねりの少ない曲なんですよ。歌のウマさというか、
表現力の要求される曲で、ポール・マッカートニーは一番早くスタジオに来て、メンバー三人がいないときに、ひとりでこれを録音して
なかなか気に入らなくて、もう本当に途方に暮れてたということが伝えられています。だから、このOKテイクでは、やっぱりOh! Darling
とメロディが変わるBメロかCメロかでは、もうギャー!って言うじゃないですか。お前が俺をふったとき、俺はとっても悲しかったんだ
だからお願いだ!俺はもう約束するから!に戻るわけですよ。ここのところがねえ、表現ですからね。ジョン・レノンはそれを聞いて、
「お前、自分の曲そんなに気に入らないんだったら、俺が歌ってやる」って言って、ジョン・レノンがこれを歌った曲というのが、オク
ラになってるけど残ってるはずだっていう....、聞いてみたいよね、ジョン・レノン。聞かせてくれると良いよね。
□リクエスト
・ぼくは、バンドでベースをやっています。特に尊敬しているのは、ポールとザ・フーのジョン・エントウィッスル。ポールのベース、
すごいです。(白井市/男性)
〜 The Who / My Generation
(小林)ジョン・エントウィッスル、フーのサウンドもすごいです。スーパーボウルのハーフタイムにフーが出るということで、
フーが出ると言っても、ドラムスとベースは別の人がやるわけですが、だけどねビートルズが始まる、この番組はビートルズ中心です
けど、もしビートルズが本当に好きだったら、やっぱりビートルズと同時の仲間のようなフーとか、ローリング・ストーンズとか、キ
ンクスとかを聞くことをおすすめします。もう、あなたが人間的にもっともっと魅力的になるはずです。お母さんとかお父さんから言
われるでしょう。お前、根菜って言ったって、ゴボウばっかり食うんじゃない。ニンジンだとかレンコンも忘れないように。たとえが
良くないですけどそういうことです。
このMy Generationは、ロック世代のナショナル・アンサム。ロック世代の国家とも言うべく、代表的な曲です。すごい傑作ですよ。
ビートルズの傑作とは違う意味でね、歌の歌詞なんか Why Don't ****.. あ、f で始まったイケない言葉が出るんじゃないか... fade away
とかね。....sayとか、もう吃音をうまく使ったり、今でこそサンプリングとか、そういうのを使ったり出来ますけど、フーってグループ
には結構オリジナルな良いところがあります。特に1960年代の終わりは、ビートルズもSgtを始めとしたトータル・アルバムを発表して
いますが、フーも負けていないんですよ。もし、良かったらフーのことも。
・ぼくの父がビートルズやグループサウンドのCDばかり聞いているので、その影響で今の歌手よりも詳しくなってしまいました。こないだ
眠れず、父からビートルズのCDを借りて聞いたら、初めて聞いていい曲だなという曲がありました。それを、リクエストします。(取手市
/男性/22歳/大学生)
〜 The Beatles / If I fell
(小林)あなたの気持ち、良く分かりますよ。
・流れてくるビートルズの歌は、優しさとあたたかさを感じます。苛立っているときに聞くと、穏やかな気持ちになります。不思議な力を
持つ曲だと感じます。私がカラオケで歌って、唯一ほめてもらえる曲です。(柏市/性別不詳/54歳)
〜 The Beatles / Hey Jude
(小林)さっきの交通情報聞かれたと思いますけど、渋滞の時でもビートルズは一番ガマンでいる感じがするけどぼくは、みなさんはどうでしょ
うか。お相手は、小林克也でした。
キロックトニーさん乙!
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年2月28日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(2月28日)
・1962年 (48年前)
あのリバプールのキャヴァーン・クラブに、ビートルズが出ています。しかし、ビートルズだけではありません。これは、当時の習わし
ですね。ひとつだけバンドが出るんじゃなくて、複数出ていた。そのバンドは、ジェリー&ザ・ペースメイカーズ、サーチャーズ。この
当時ね、リバプール周辺には700から1,000ものロック・バンドがいた。これは、スゴいことだよ。若者が、単純に計算して、あの辺
りの人口が20万と計算すると、ひとつのグループが4人だと計算すると、えー、50人に一人はバンドをやっていた。ただ、バンドをや
るのは二十歳前後と考えると、10人に一人はバンドをやっていたということになりますよ! スゴかったんだよね。だけど、ほとんどの
グループの基本になったのは、黒人のグループのリズム&ブルースだったわけですよ。だけど、イギリス人の、特にリバプールの連中
がやると、独特の味わいがあったと言われています。ギターがまず、ラウドだった。それから、アメリカの黒人バンドなんかに比べると
ヨーロッパの持つ哀愁感があった。それが、二年後にビートルズを先頭にアメリカに上陸することになるわけですよ。アメリカのサウン
ドにかなりの影響を与えることになります。
〜 Searchers / Love Potion No.9
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・1963年、夏 ── ビートルズ唯一の公認月刊誌「ザ・ビートルズ・ブック」が創刊された。創刊号発売から2ヶ月も経たない内に、イギ
リスではビートルマニアが発生し、そのニーズから雑誌の発行部数はうなぎのぼりとなる。この雑誌について、マネージャーのブライアン
・エプスタインの右腕であり、優れた広報マンでもあったトニー・バーロウは、こう考えた。“こいつは使える。この雑誌は、間違いなく
成功する。そうすれば、我々NEMSエンタープライズがわざわざファンクラブ用の会報を発行したり、それをファンに発送したりする費用
をかけずに、ビートルズとファンの接点を設けることが出来る。これは、素晴らしい方法だ。これは、しばらく利用させてもらうことにし
よう。”見事な、大人の発想である。発行人であるショーン・オマホニーとは、きちんとした誓約書も交わした。その内容は、最終的な編
集権は、ビートルズの事務所であるNEMSエンタープライズが持つということ。つまり、どういう内容にするかという決定権は、ビートル
ズ側にあるということ。さらに、毎号少くとも2ページ、表紙近くのところをファンクラブからのニュース・レター用に割いてもらうとい
うことも含まれていた。この誓約の見返りとして、発行人のオマホニーは、写真撮影やインタビューのために、定期的にビートルズのメン
バーと会えることを保証された。広報担当のトニー・バーロウも出来る限り独占的な情報を用意し、ビートルズの現状や予定、ニュースな
どを提供することになった。こうして二人は長きにわたる、素晴らしい仕事の関係を築くことになり、直にバーロウとオマホニーは、良き
友人となるのであった。ショー・ビジネス関係の集まりだけでなく、様々な勤務外のディナーにも、それぞれのパートナーを伴って出かけ
ることも多かった。こうして、ビートルズのPR作戦は、着実に実を結ぶための準備も整い、トップスターの座に上り詰める一歩手前までき
ていたのである。
〜 The Beatles / Drive My Car
〜 The Beatles / Devil in Her Heart
・1963年夏に創刊されたビートルズ唯一の公認雑誌、その名も「ザ・ビートルズ・ブック」は、宣伝媒体としては最高の効果をもたらして
いた。ロック・スターにはつきものである悪い噂も、この雑誌があれば、なんとかいい方向に修正出来る。つまり、うまい具合に情報操作
が出来る。かなり、好都合な存在だったわけである。敏腕PRマンであったトニー・バーロウは、ビートルズの事務所NEMSにあてがわれた
2ページに、ビートル・ピープルからの手紙というクールなタイトルをつけた。この中に掲載された、ある文章を紹介してみよう。ロンド
ン郊外サリー州に住む、クリスチャン・ケトルという一人のファンからの投稿である。“きょう、あなた達がラジオ番組「サタデークラ
ブ」に出ているのを聞いて、嬉しかった。Roll over〜を聞いたとき、私はキッチンで皿を洗っていて、あわててラジオの音量を上げようと
したら、つまずいて靴が脱げて、ツメを折ってしまいました。あなた達のサインがもらえれば、この傷も癒されると思うのですが。”と
いう、かなり親密なページと活用されているのが分かるエピソードである。またバーロウは、マネージャーのブライアン・エプスタインと
プロデューサーのジョージ・マーティンも、このページで紹介した。“ブライアンは、生まれつき沈着冷静にして、温和そして自信にあふ
れている。マーティンは、グループのレコーディングでは、ビートルズたちと親密に仕事をする。”こんな具合に、舞台の裏側まで見せ、
ファンの興味をひきつけることを狙った。さらに、この後に続く号では、ビートルズが早くもイギリス・ショー・ビジネス・シーンの次の
スーパー・スターとして注目され、大物プロデューサー連中からの仕事が舞い込んでくる気配であること、などなど適度な大風呂敷で、
ファンを飽きさせない素敵な情報を流すことになる。この、ザ・ビートルズ・ブックは、大成功であった。
〜 The Beatles / Lady Madonna
〜 The Beatles / Don't Let Me Down (Naked)
(小林)60年代後半になると、もう時代がちがうんですよね。ヒッピー文化になっています。そんな時代の曲でした。
□リクエスト
・オアシスの曲には、今まであまり興味を持たないでいたんですが、先日この曲を聞く機会があり、とても良い曲だと思ったので、今回リク
エストします。このバンドは、ビートルズの〜Walrusをカバーしていること。この曲のイントロが、ジョン・レノンのImagineに似ている
など、ビートルズの影響が強いバンドなのだろうと思います。この曲をきっかけに、最近このバンドに興味を持つようになりました。
(佐倉市/男性/19歳学生)
〜 Oasis / Don't Look Back in Anger
(小林)あなたの読みは当たっています。特に、ジョン・レノンの影響を強く受けています。
・今度の火曜日に、県立高校の試験です。ビートルズの中で一番好きな曲は、While My Guitar〜です。曲のバックで鳴る、クラプトンのギ
ターも最高。(鉾田市/男性)
〜 The Beatles / While My Guitar Gently Weeps
(小林)名前書いてないと、物が送れないから、書いて!
・ビートルズのアルバムで、パスト・マスターズがありますよね。このパスト・マスターズの前身は何なのでしょうか。私が、盲学校だった
んですが、その友だちから「リアリティーズ」を借りて聞いたことがあるんですが、それだったんでしょうか。それを拡大したのが、パス
卜・マスターズなんでしょうか。Across〜のバード・バージョンを聞いたとき、当時としてはぶっ飛びましたね。それをお願いします。
(常陸大宮市/男性)
〜 The Beatles / Across The Universe (Bird version)
・ビートルズの偉大さを伝える番組ではなく、ビートルズの真実を伝えていますという克也さんの言葉に、なるほどと思いました。私のよう
なビートルズの素晴らしい曲しか知らないファンは、メンバーのやんちゃな事実にびっくりしたり、時にはがっかりしたりしますが、世界
中に今も沢山のファンがいるバンドの人間らしいエピソードに、ますます魅力を感じています。(成田市/女性)
・まわりから、古い曲を聞いてると批判されますが、ビートルズを愛してるから、これからもガンガン聞きます。(流山市/男性)
〜 The Beatles / Yesterday
(小林)古くないですよね、ビートルズは。年代的には古いかも分からないけど、今は感覚的に、新しいのに古い曲がいっぱいあるような気
がします。
・先日、拓郎の曲で女王陛下の話をされましたが、私はあれでHer Majestyの歌詞を引用したのだと思いました。克也さん、どう思いますか。
Abbey Roadのラストに収録されていますが、この曲のエピソードを教えてください。私は、この曲が深い意味はなく好きなので、短い曲
ですが、リクエストします。なかなかかからないけど、いい曲でしょ?(横浜市・男性)
(小林)当たり前じゃないですか! これは、本当にかからないですね。これは実はね、Abby Roadのメドレーにする予定が、それから外され
たそうです。でもそれから、ビートルズが録ったものはすべて残しておけということで、後からポールがくっつけたそうであります。ちな
みに吉田拓郎は、裏原宿の入り口で昔「ペニー・レイン」という店を始めました。彼も、やっぱりビートルズでこの世界に入った人ですか
ら。
(小林)Her Majestyは短い曲だったね! 女王陛下はいい女だって、タメに扱った歌でした。リクエスト、お待ちしています。お相手は、小林克也
でした!
キロックトニーさん毎回乙です。ほとんど放送時間と大差なく書き込まれているんですね。
チラ裏ですが、自分がリクエストした曲が採用されていたことをこの今スレで知りました。聞き逃したのが残念orz
×この今スレ
○今このスレ
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年3月7日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(3月7日)
・1994年 (16年前)
イギリスで、シングル「Money」が発売になりました。実は、映画がらみです。バック・ビート! このMoneyは、バック・ビート・
バンドというクレジットがありますが、ハンブルク時代のビートルズを描いた貴重なもので、もちろんくれは役者がやってて、ビート
ルズに関係ない人たちが出ているんですが、面白いのはジョンが良い人、ポールが悪者みたいな感じ。それから、主役はスチュアート
・サトクリフ。なんで、ジョンが良い人かっていうと、スチュアート・サトクリフとジョンは親友ですよね。ジョンが一番尊敬した、
元々ビートルズのベースをやってた人。だけどポールは、スチュアートは楽器がダメだよ、イモだよってんで嫌っていた。だから、悪者
になっちゃうわけですが。ハンブルクに行ったときに、恋に落ちます。その相手が、アストリッド・キルヒヘル。写真をやる女の子です
が。二人の愛の生活が、ハンブルクを舞台に描かれたのが「バック・ビート」っていう映画ですが、DVDはもう廃盤になっているそうで
す。レンタルはあるかもわからないんで、もし良かったら。サントラはですね、当時売れていたプロデューサーのドン・ウォズが担当し
ています。もう、REMのマイク・ミルズとか、ニルヴァーナのデイヴ・グロール。ソニック・ユースのサーストン・ムーアとか、音楽を
担当してまして、今から16年前のきょう出た Money は、バック・ビート・バンド。ボーカルはですね、サントラでジョンを担当してい
た、アフガン・ウィッグスのグレッグ・デュリが担当しています。なんか、ビートルズっぽいよ。
〜 Backbeat Band / Money
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・1963年夏に創刊されたビートルズ唯一の公認雑誌「ザ・ビートルズ・ブック」は、大好評であった。敏腕宣伝マン、トニー・バーロウは
この雑誌の中で、ビートルズのメンバーのこと以外に、その裏方であるマネージャーについても掲載した。ビートルズがこれから、どこま
で登りつめて行くのか、まだ誰にも分からなかったのであるが、少くともまだまだ上り調子であることは確かであった。そして、ザ・ビー
トルズ・ブックの第2号では、こんな文章が掲載された。“ビートルズの四人は、マー・ゲイトにあるインター・ガーデンズという会場で
6日間の連続公演を行った。この会場は、イギリスのショー・ビジネス界の会場の殿堂とも言える由緒正しい場所で、多くの映画プロデュ
ーサーたちも、ビートルズの公園を見に駆けつけた、それも、当然である。いまや、イギリスのヒットチャートを独占し、飛ぶ鳥をも落と
す勢いのビートルズ。彼らがえいあに(小林、言い間違える)映画に出演すれば、その作品は間違いなく魅力的なものになり、観客動員も
記録を更新することは目に見えてるのだ。映画プロデューサーたちは既に、マネージャーのブライアン・エプスタインにこっそりと脚本を
渡しているという話である。”確かに、すべてが嘘ではないが、これはギリギリの線で大風呂敷かと思われる。しかし、こんな大風呂敷も
かわいいもので、別段誰かに危害を与えるものではない。逆に、ビートルズのファンにとっては、大きな夢を与えてもらうことになり、嬉
しいニュースであることの方が大きなポイントである。こうした情報の操作は、広報のプロフェッショナルである、トニー・バーロウにと
っては、まさにお手の物であった。スーパースターを生み出す影には、こうした罪の無い嘘も数多く存在するという、良くお手本だったの
である。
〜 The Beatles / All I've Got to Do
〜 The Beatles / Lucy in The Sky with Diamond
・ビートルズ唯一の公認ファン向けマガジン「ザ・ビートルズ・ブック」は、発行人であるション・オマホニーの協力と、敏腕広報マン、
トニー・バーロウのキレのある仕事ぶりで好評を得ていた。第3号では、ローディのニール・アスピノールが紹介された。“誰が、アンプ
のバッテリーを差し込み、リンゴの大事なドラムを組み立てるかって? その役目を担う超多忙な男は、10月13日で22歳になるツアー・
マネージャーのニール・アスピノールだ。1960年以来ニールは、どこへでもビートルズと旅をしていた。パスポートから、のど飴から
列車の予約から、ホテルの鍵までを世話するという重要な役目を果たしている。”この記事でファンにとっては、ビートルズがまた一つ
身近なものとなった。ビートルズとそのマネージャー、ブライアン・エプスタインの方針として、ファンクラブはグッズ販売よりも、純粋
な情報源として運営されるべきだとして、それがザ・ビートルズ・ブックにも適用された。しかし、この方針は1964年3月までには緩和
され、自分の一族たちにこの雑誌を通して公式ビートルズ・エンブレムを販売させた。売り文句は、「最高品質・洗練された赤とゴールド
の2トーンカラーの刺繍で丁寧に仕上げました」だった。これに続いて、同じくブライアンの親族であるウェルドン社製のビートルズ・ピ
ープルのために特別にデザインされたメリノウール100%のファッション性の高い、黒のポロネック・セーターが発売され、雑誌のファン
クラブ・ニュースレターのページに、ふわふわした髪のファンクラブ会員メリー・コクラムという女の子がモデルとして、それを着て登場
した。こうして、ビートルズをめぐる様々なビジネスの中核として、この雑誌ザ・ビートルズ・ブックは、さらにその重要性を増していく
のである。
〜 The Beatles / Yellow Submarine
〜 The Beatles / Nowhere Man
Yellow Submarineじゃなくて、Octopus's Gargenだった...
・1963年夏に創刊されたビートルズ唯一の公認雑誌、その名も「ザ・ビートルズ・ブック」。ビートルズとファンを結びつける、最大の存
在であった。ビートルズが解散したとき、発行人のショーン・オマホニーは、77号に及ぶ雑誌を、順番に新しい表紙と裏表紙にくるんで
再発行した。もちろん、爆発的に売れた。さらに、1982年10月には雑誌を再び立ち上げ、その後も21世紀に入るまで、10年に渡り発行
した。この雑誌はマーケティングの手段として、FAB4つまりビートルズにまつわるニュースや記事を読める媒体としても、信頼をおける
情報源としても、かなり成功した、創刊号は今や、オークションでかなり高値がついていると予想される。ザ・ビートルズ・ブックに載っ
た名前はすべて本名だったわけではない。ショーン・オマホニーは、ジョニー・ディーンという編集人になりすました。本人が書いている
毎月の論説ページは、すべてジョニー・ディーンの名前となり、時にはその名前で他の雑誌や媒体のインタビューでも答えている。ビート
ルズの広報マン、トニー・バーロウもこの雑誌に数えきれないぐらいの記事を書いた。その内の一部は本名で書き、一部はビートルズのメ
ンバーになりすまし、残りはバーロウのミドル・ネームである、フレデリック・ジェームスという名前を使った。ファンクラブ・ニュース
レターのニュース記事も、大多数はアーン・コリンガムという女性の名前が署名されていたが、これも実は架空の人物で、ファンクラブで
働く女性スタッフ全員が持ち回りで執筆していたのである。そしてまさに、家内工業的に作られた雑誌「ザ・ビートルズ・ブック」。その
後のファンクラブ・マガジンの大きなお手本となったことは言うまでもない。
〜 The Beatles / Rock'n Roll Music
〜 The Beatles / I've Got a Feeling
□リクエスト
・ビートルズは、5歳の頃から聞いています。いろんな曲が好きですが、アメリカ上陸から日本公演の頃までに出した曲が特に好きです。
その中から、ジョン・レノンのぼくのディラン時代の頃に出された〜For saleに収録のこの曲をお願いします。(八千代市/男性/13歳
中学生)
〜 The Beatles / I Don't Want to Spoil The Party
(小林)本当に、中学生ですか? 文章がしっかりしてますね。
・2月の最終放送日は欠席させていただく予定。その日は、いとこのお姉さんのはからいで、アリスの復活コンサートに行ってくるのです。
ところで、今月15日は私の46度目の誕生日です。イントロの迫り来るサスペンスから、転調するところが芸術的。(江戸川区/女性)
〜 Paul McCartney & Wings / Live and Let Die
・ぼくが初めて克也さんを知ったのは、FMの深夜番組・渡辺貞夫マイ・ディア・ライフだったと思います。渋いトーンで温かみのあるナレ
ーションは当時も今も変わることなく、いい塩梅でビートルズのサウンドに溶け込んでいて、毎週嬉しいビートルズの時間を過ごしてい
ます。オリジナル・リマスター・アルバムがでてから、ますます番組もパワー・アップしています。リクエストは、克也さんのナレーシ
ョン入で。(葛飾区/男性)
〜 山下達郎 / Windy Lady
(小林)ナレーションが入っていないのをかけますよ!
・いちご狩りに行きました。普段は、ワンパックを家族四人で食べるんですが、畑一面を食べつくしてやるという勢いで行きました。(八千
代市/男性)
〜 The Beatles / Strawberry Fields Forever
(小林)マネージャーのブライアン・エプスタインは、本当にファンのことを思って、良い行いをしていたわけですよね。最初は。ほら、有名なの
は、シングル曲は絶対にアルバムに入れない。ビートルズ・ブックも、ファンへの通達のところは、ファンへの情報だけにするべきだ。そこで
お金を儲けちゃいけない! だけど、ビートルズがイギリスで売れて、アメリカで売れるとね、とうとう仕方なく、ぼく見ましたけどね、ひどい
時はビートルズ・ストッキング、ビートルズ消しゴム、ビートルズ鉛筆とかね。じゅる。何でもあったからね。そんな、やっぱ負けちゃうんです
よね、ポリシーも。またお会いしましょう。お相手は、小林克也でした!
いつも乙!
378 :
ホワイトアルバムさん:2010/03/07(日) 21:13:54 ID:PkluQNkj0
本当におもしろいですね。
初めてみるのですが、小林さんがそのように話されているのでしょうか?
だとすると、本当にビートルズに詳しい方ですね。
克也さんは、用意された原稿を
時々つっかえながら読んでるだけ。
■石井食品Presents「ビートルズから始まる。」bayfm 78.0MHz
2010年3月14日(日)18:00〜19:00放送内容 DJ:小林克也
□ビートルズカレンダー(3月14日)
・1964年 (46年前)
アメリカのチャートが大変な事になっています。イギリスは、With〜がずーっとNo.1を続けていて、この頃はシングルの時代ですから
ビルボードのチャートは、いいですか? 行きますよ。1位、I Want a Hold Your Hand。2位、She Loves You。3位、Please〜。そして
以下15位に、I Saw Her〜。75位に、From Me〜。それから、55位がTwist and〜。これはですね、この頃初登場1位なんてことは珍し
くて、ビートルズの場合早くて3〜4週間かけて1位に上がっちゃうってことなんですけど、1位から3位までベスト3がビートルズなんて
大変なことですよ。もっとはなはだしい時期もあるわけなんですが、トップ10の内ほとんどがビートルズということもあるわけですが、
これがね、I Wanna〜が次の週は1位から下がって、変わってShe Loves Youが1位になっております。すごいです、この時期のビート
ルズは。アメリカには、ご存知かもしれませんが、リズム&ブルースばかりかけるところとか、ラップ系ばかりかける放送局。ロック系
例えばロック系もオルタナ系しかかけないような放送局がありますが、この時点瞬間的ではありますが、アメリカのラジオ局で朝から晩
まで、ビートルズしかかけない放送局も生まれたりしました。そんな時代だったわけです。そんな、ビートルズはすごかったわけです。
ということで、これが46年前のきょう。一週間後には、現在2位の曲が1位になってるわけですね。その曲を聞きましょう。
〜 The Beatles / She Loves You
これが、アメリカでの二枚目のNo.1です。アメリカの中学生や高校生たちは、びっくりします。ビートルズというグループに。これが
最初のNo.1です。I Wanna〜、お前の手を握りたいんだっていう曲。そして、二枚目のNo.1が今聞いていただいたShe Loves You。こ
れは、今までアメリカの若者たちが聞いたことのない歌です。彼女がお前のこと好きなんだよ、お前すごいじゃない、良いことじゃない
喜べよ! そんなラブソング、あった?というわけですよね。I Love Youとかはあったけど、彼女がお前のこと好きだって、喜べよすごい
ことだって、アメリカの若者たちは、こんなシンプルな歌の中にもカルチャー・ショックを感じいたわけですね、この時代。
□トニー・バーロウの目から見たビートルズ史
・ビートルズのメンバーの内、誰が一番好きでしたか? どのビートルズとの仕事が、一番やりやすかったですか? ── この二つの質問は
デビュー当時から数年にわたって、ビートルズの広報担当を務めてきたトニー・バーロウが、今まで聞かれる代表的な質問である。バー
ロウは語っている。「実際のところは、めまぐるしく気分が変わり、それによって、慈悲深い神様にも冷酷な悪魔にもなるアーチストと
仕事をするのは、天国と地獄を交互に味わうようなものさ。とはいえ、苦労よりも楽しい事の方がずっと多かったし、今も蘇ってくるの
は、四人と世界中を旅した懐かしい思い出ばかりだね。」バーロウは、ジョン、ジョージ、ポール、そしてリンゴを良く知るようになる
に連れ、音楽に限らず、熱い友情や上機嫌な会話といった類にも、それぞれがとても印象的な何かを持っていることが分かっていった。
四人から提供される友情の形は異なり、時がたつに連れ、その関係性も変化していったのである。ビートルズというグループが世界のトッ
プに君臨していた数年間、年がら年中その行動を共にしていたトニー・バーロウである。そういった仕事上の友情というものは、プロフェ
ッショナルとしての努力によって獲得しなければならないことは、十分理解していた。それだけ、ビートルズ・ファミリーの中に溶け込む
ことは大変なことであり、勇気のいることであった。もちろん、ビートルズが大きな成功を収めるに連れて、最も変化を感じていたのは
四人のメンバーたちであった。その人気の絶頂期に、記者団が好んで質問したのは、リバプール時代と比べて、自分たちはどう変わりま
したか?という質問。これに対し、ビートルズは必ずこう答えていたのが印象的である。「俺たちが、昔と変わったかって? こっちは、
たいして変わってないよ。ただ、売れてくるとどういうわけか、まわりのみんなが変わってくるんだよな。どうしてなんだろうね。見てて
おかしい時もあるぐらいさ。」
〜 The Beatles / You Really Got a Hold on Me (Anthology 1)
〜 The Beatles / Lady Madonna (Love)
なかなか、このLady Madonnaってのは、ビートルズに対する愛情が感じられた、いい作品ですよね。ご存知のように、ネットでこの2年
ぐらいですかね、ビートルズの曲をいろいろいじくって発表しているのを聞いたりするんですけど、ビートルズの歌心とか、愛情を感じさ
せるのはないですよね。プロの作品でも、結構器用にうまくやってるっていう(のはあるけど)。ただ、最終的にビートルズの良さを出し
てるのは、ほとんどないんですが。こういうのが、本当のプロの作品でしょうね。
・世界的なスーパー・アイドルになるに連れて、ビートルズはどう変わっていったのか。彼らの所属事務所NEMSの広報担当で、ロンドン支
局長であったトニー・バーロウは、語っている。「ぼくが思うに、1962年のLove Me Doと1966年のPaperback Writerあたりの間に、
ビートルズの間に起きた変化は、メンバー自身が頂点に上り詰めるに連れ、新たに発見していった己の権力を行使するその術を学んだとい
うことです。初期の頃、スタジオの中で彼らは、プロフェッショナルであるプロデューサーのジョージ・マーティンが教えることを、素直
に聞いていました。つまり、師匠の弟子であるということに満足していた、というわけです。そういう環境、人間関係の中で、スタジオ技
術やレコーディングの手法について教えられ、そのすべてを吸収していきました。彼らは一心に聞き入り、マーティンの優れた専門技術に
疑問を感じることは、微塵もありませんでした。しかし、1966年までには、マーティン及びマネージャーのブライアン・エプスタインと
ビートルズとの関係性は逆転していきます。それは、見ていて良く分かりました。」ここで、バーロウが言う「関係性の逆転」とは、具体
的には、どういうことなのか。確かに、1966年当時のビートルズは、もはやわざわざ「お願いします」とか、「ありがとう」といったセ
リフを発する必要もなく、些細な用事から実現不可能なことにいたるまで、すべてがビートルズのために自動的に叶えられるようになって
いた。彼らはもう、マネージメントの管理下にはなく、ほとんどのことは自分たちで決断していた。成功というものは、計り知れないほど
の影響力と、競争相手や仲間たちから驚くほどの尊敬をもたらし、ビートルズはその新たな立場を最大限に活用していった。その一部始終
を、広報マン、トニー・バーロウは常に確実に見ていたわけである。
〜 The Beatles / Paperback Writer
〜 The Beatles / Hey, Bulldog
前半は、熱心な弟子であった。後半は、その関係が逆転した。ビートルズは成長して、自分たちで好きなようにと言うと語弊がありますが
自分たちの芸術活動を、音楽活動をやったということを聞いて、二曲おなじみの曲を聞いたんですけど、ちょっとニュアンスが違って聞こ
えましたね。
・ポール・マッカートニーという人物を一言で言うと、どんな人なんでしょう? ── これまた、トニー・バーロウが良く聞かれた質問であ
る。バーロウはもちろん、ビートルズのデビュー当時から、広報の担当者として一緒に世界中を飛び回った男である。バーロウの視点か
らのマッカートニー論を、彼の回顧録から少し紹介しよう。「1957年のある夏の午後に行われた教会の催しで、ポールが初めてジョンと