ブーンを産んだのは、使われていない土蔵の中だった。
主は赤ん坊を土蔵の外には出さないという条件で、下女に世話を許した。
子を育てさせてくれないなら自害する、この脅しが効いた。
富家の息子は、下女に心の底から惚れていたからだ。
土蔵は高い場所に小さな天窓があるだけで、他に窓は無い。
さらにその天窓は、昼間の間は閉ざされている。
乳離れし、自分で飯が食べられるようになった頃から、
ブーンの食料は一日一回だけの、天窓から投げ込まれる一個の握り飯だけだ。
ブーンは文字通り、闇の中で生まれ、闇の中で育った。
塞がった天窓から漏れる、微かな陽の光だけで、昼と夜の概念を覚えた。
狭い土蔵の中で、話す相手はいない。
そもそも会話ができるほど、言葉を知らない。
空腹を我慢できないとき、虫やねずみを食う、ただそれだけを繰り返した。
暗闇の中で獲物を捕らえる術を、いつの間にか身につけていた。
夜が来る度に、下女は土蔵へやってきた。
天窓から握り飯を投げ込むと、決して開かない扉に顔を寄せて、呪いの言葉を呟く。
下女はブーンを産んでからも、毎晩、毎朝、犯され続けていた。
死んで欲しい。
下女は毎夜繰り返す。
みんな死んで欲しい。
死に尽くして欲しい。
死んで消えて欲しい。
死んでくれないかしら。
死にたい。
死ね。
支離滅裂で、意味もよくわからない。
ブーンにとって、それは夜の音に過ぎなかった。
夜というのは、そういうものだと思っていた。
八年もの間、ブーンは土蔵の暗闇で生きた。
糞尿にまみれた中で握り飯を食っても、病気にならない体を得ていた。
ある日、唐突に、土蔵の扉が開いた。
四畳程度にしかないはずの世界が、何万倍にも広がった。
全てが初めて見る景色だった。
空が、広かった。
星の明かりでさえ、眩しくて目が眩んだ。
自分と同じような姿をしている生き物が、月の光を受けて立っていた。
肩を斬られていて、着物を血に染めていた。
女は、みんな殺して、と言ってブーンに脇差しを与えた。
初めて触れる刀だったにも関わらず、どういう使い方をすればいいのか、何となくわかった。
女は懐刀で、ブーンの目前で腹を切った。
ぼたぼたと内蔵が溢れている中で、女は笑っていた。
倒れ伏した女の後ろから、やはり似たような生き物が駆けてくる。
ブーンは刀を構えていた。
気がつけば、辺りには屍体しか転がっていなかった。
自分の体も少し斬られていたが、あまり気にはならなかった。
屍体の肉を喰ってみた。
ねずみより、不味かった。
だだっ広い世界で、何処へ行けばいいかわからなかった。
脇差しを抱えて、当てもなく世界を彷徨った。
言葉を覚え、会話を覚え、まともな食事を覚えていった。
だが満たされない気持ちがいつも胸の奥で広がっていた。
人を斬る度に、心のつっかえが取れていくのを感じた。
手があり、足があり、布を纏っているのが人間である。
人間には、色々な性質のものがある。
ブーンは少しずつ学んでいく。
放浪の旅が始まってから一年が経とうとしていた。
その頃になると、人を見る目がまた変わっていた。
人は欲望の生き物だ。
ねずみや蛇のように、生きるためだけに生きようとはしない。
心の中で罵倒し合い、悪を隠したまま笑い合う。
闇に生まれ、闇に生きたブーンは、人の中にある闇を見通す力を持っていた。
この世は闇に包まれている。
土蔵の中と、何ら変わらない。
やがて荒巻に拾われ、剣の道に足を踏み入れた。
道場の中で、竹刀を振り合う。
何の面白みも感じなかった。
ただ、荒巻の中に、闇を感じなかった。
それが居心地がよく、人を殺さなくなった。
しかし十年以上が経った頃、耳の奥であの女が囁き始めた。
殺して欲しい。
殺して欲しい。
眠れない日が続いた。
また世界が闇に染まっていくのを感じた。
殺して欲しい。
死んで欲しい。
死んでよ。
死ぬ。
死。
糞尿よりも汚らわしい人の闇に包まれる。
天窓の隙間から漏れる僅かな光、それすらも存在しない。
何もかもが闇であれば、どうやって生きればいいのだ。
闇の中、死のうと思った、だが、死ねない、生きたかった。
光を。
光が。
光へ。
土蔵の中へ帰りたかった。
人の悪が、何よりも恐ろしかった。
闇の中で生きるには、闇へ同化するしか無かった。
陽の当たらない場所に籠もり、糞尿を喰らって生きた。
これからも、そうするしかないと思った。
どれほどの時間が経ったか。
空は、うっすらと青みがかっていた。
体の表面に砂とほこりが纏わり付いていた。
二人の刀だけが、鈍い光を放っていた。
対峙を続けた両者の間に、僅かな変化が訪れていた。
張り詰めたものが時々弛緩し、またぴんと張る。
押し寄せる波が砕け、また引いていくように。
いくつもの波が砕けは引いていった。
無数に散らばる空気の粒が、宙でぶつかり、弾け、混ざり合う。
ブーンとシャキンは、同時に踏み込んだ。
お互いが間合いの中に入り、至近距離で顔を見合わせた。
ブーンの割れた右目から覗く闇に、シャキンが自らの姿を見つけた。
ブーンは薙いだ。
シャキンは突く。
境内に群がる鴉たちが一斉に飛び立ち、濃紺の空を黒く染めた。
シャキンは、視界に血の色が広がるのを感じた。
膝が折れ、その場に崩れる。
ブーンの右目に、自分の刀が突き刺さっていた。
自分の方は、腹を斬られている。
だが致命傷ではない。
顔を拭うと、手に血が付いた。
ブーンを突いたときの返り血だった。
右目に刀が刺さったまま、しばらくの間ブーンは立っていた。
何か、言いたいようにも見えた。
間もなく、直立したままブーンは後ろに倒れた。
顔の部分から血が広がり、地面を円状に染めた。
腹に手を当て、止血を試みる。
しばらくすれば、血は止まりそうだった。
(`・ω・´)(兄さん……兄さん)
目を瞑れば見えていた兄の残影が、見えなくなっていた。
頭の中で囁いていた荒巻の気配も、既に感じない。
空を見上げると、既に夜の名残は消え去っていた。
片膝をついて、立ち上がる。
屍体の上をまたぎ、町がよく見える場所まで歩いた。
昨日と、何も変わらない、町の景色があった。
遠くの山から、眩しいほどの光も感じる。
朝日が、顔を出そうとしていた。
何年かぶりに、気持ちの昂ぶりを覚えた。
同時に、背中に熱が走るのを感じた。
体力も気力も、底をついている。
一握りの生命力で、後ろを振り返った。
胸の前で白い剣閃が光った。
直後に、血が噴き出したのもわかった。
今度、目の前を遮ったのは、血の赤ではなく、闇だった。
何処までも落ち続けられる、地獄へと続く闇に、身を投じた。
これが、本当の闇なのか。
最後に、何かを思い出そうとしたが、それすらも闇に消えていった。
ξ゚听)ξ「だから、無理だと言っただろう」
音もなく倒れたシャキンから、血溜まりが広がっていく。
人を殺したのは初めてだった。
(;'A`)「死んだんですか」
ツンの後ろから、体を震わせながらドクオが顔を覗かせた。
ξ゚听)ξ「ああ」
(;'A`)「一緒に夜猿を倒すっていう話じゃ、なかったんですか?」
ξ゚听)ξ「夜猿はここにいる」
まだ血に濡れた刀で、シャキンの屍体を指した。
ξ゚听)ξ「そして、闇に墜ちた」
これで満足か、と既に事切れたシャキンに、心の中で問いかける。
闇に墜ちたいと言ったのは、確かにシャキンだった。
ドクオは周りの屍体を見渡し、深々と息を吐き出した。
('A`)「それにしても、凄い。一体どういう戦いが起こったんでしょう」
ξ゚听)ξ「戦いなど起こってはおらんさ」
('A`)「はい?」
ξ゚听)ξ「ここにはただ、闇があった」
眩しさを感じ、目を細めた。
遠くの山々から、朝日が顔を覗かせ、境内を煌々と照らしていた。
ξ゚听)ξ「夜が……明ける」
小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
風が吹き、新緑の匂いを運んでくる。
朝の気配が、境内に満ち始めた。
( ^ω^)悪の華を咲かせるようです ―終―