流れ出た血はあまりにも多く、土の色が赤く染まっていた。
雨で多少は隠れているものの、血の臭いが強く鼻をついた。
ブーンは境内の中心にいた。
彼の周りだけ、屍体が転がっていなかった。
まるで屍体が意志を持って、ブーンから遠ざかろうとしているように見える。
刀を持ったまま、項垂れた姿勢であらぬ方向を向いている。
返り血が全身を染めているが、彼自身の血は流れていないように見えた。
屍体の上を踏みつけながら、ブーンの周りを取り囲んだ。
三方から、刀を向ける。
まだブーンは項垂れたままで、何処にも視線が向かっていない。
シャキンの、兄者の、モララーの、刀の切っ先がブーンに向いている。
三者三様の剣気がブーンを囲んだが、彼は何の反応も返さなかった。
まさか、死んでいるのか、と思わせる程に、動きを見せない。
だが斬りかかる隙など微塵も存在しなかった。
( 塔ヨ^)「斬れるのかお」
雨は強さを増していた。
ブーンが小さく呟いた言葉は、どういう訳か三人全員に届いていた。
(`・ω・´)「斬る」
シャキンが短く応える。
ブーンが、笑ったように見えた。
ブーンはとうとう動きを見せた。
腰を低くし、脇構で刀を構える。
荒巻一刀流で培った、超速の横薙ぎを放てる構えだった。
(`・ω・´)(この剣で、兄さんを、斬ったのだな)
シャキンは血が冷たくなっていくのを感じた。
人を斬るときは、いつもこうなる。
熱を失い、光を遮ることで、自分の体が別のものになっていくような感覚に陥る。
兄者は左手で構えた刀を前に突き出していた。
この刀は、弟者の形見であった。
使い始めた頃から不思議とよく手に馴染んだ。
やはり兄弟ということかと、苦笑した記憶がある。
モララーは、自身の心から恐怖と迷いが消えて行くのを感じた。
死の淵に立ってみて、わかったことがある。
自分は死から逃げていたのだと。
心の底から夜猿を恐怖していた。
だが心の奥、魂と呼ばれる場所で、死を恐れる自分自身に怯えていたのだ。
三人は感覚を研ぎ澄まし、全ての五感をブーンに向けていた。
雨音が耳の奥で吸収されていく。
血の臭いが消えた。
四人全員は、微動だにせず対峙していた。
動いた者から死んでいく。
斬り合いよりも先に、心を絶つ戦いが始まった。
死合とは往々にして、そういうものだ。
膠着が続いて、一刻(二時間)が経った。
雨は未だに、強く降り続いている。
徐々に、空気と体が混ざっているような感覚に陥った。
境内に満ちる空気と自分の存在の境界線が曖昧なものへ変わってゆく。
変わらないのは、ブーンの放つ闇だけだ。
闇と、水と、空気。
今存在するのは、それらだけだった。
さらに一刻が経ち、境内の空気に変化が訪れた。
雨が降り止み、雲が引いていく。
徐々に青空が空に混じっていった。
曖昧だった体の感覚が引き戻され、再び剣を持った人間へと変容する。
濁流の如き滅びの気配が放たれたのは、その直後だ。
空気が歪み、目の前を大口を開けた獣の幻影が通過する。
毛穴の穴が開き、ぷつぷつと汗の玉が浮かんだ。
地面が崩れる幻覚を感じたが、三人は足裏に気合いを入れ、
決して倒れることなく踏みとどまった。
膠着は何処までも続いた。
地獄の淵に足を踏み入れた状態で、滅びを受け続けた。
一生分の時間を何度も経験した気分になった。
対峙を始めてから、何百年も過ぎた気がした。
こうしてさらに、一刻が経つ。
常人であれば一瞬で気を失いそうになる滅びの空間、
懸命に耐え続けてきた三人の中で、限界を迎えた者がいた。
彼は青眼に構えた刀を振り上げ、大きくブーンへ踏み込んだ。
残りの二人が、死へと向かうモララーを止めることはしなかった。
モララー自身、そんなことは望んでいない。
ブーンが体の向きを変え、肩を沈める動作を見せた。
ふと、目の前に、笑いかけた者がいたように見えた。
モララーには見覚えの無い少年だった。
それでも何処か、懐かしい気分になった。
自身の腰を通過する斬撃を、確かにモララーは見た。
目は良かったが、できれば見たくないものでもあった。
視線がぐらりと宙を舞い、地面が迫ってくる。
何もかもが如実に見えた。
逃げ続けた先に、闇がいた。
闇の中で、光を得た。
光は屈託無く笑い、笑うと前髪がさらさらと揺れた。
痩せていて、抱くと骨が痛かった。
頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる。
どうして自分が闘うか、わかった気がした。
生きる意味を見つけたかったからだ。
横向きになった世界で、白い光を見た。
それがモララーの捉えた、最後の景色だった。
シャキンたちは、胴体を絶たれたモララーには目もくれず、
同じ構えのままブーンに集中している。
ブーンが構えを直し、また対峙が始まった。
空には夕陽が混じり、境内を濡らす血の色で世界が染まっていた。
やがて、夜がやってきた。
太陽が沈みきってから半刻が絶ち、空には星が光っている。
今日は満月だった。
斜め向こうの空から、青い光を放っている。
夜は明るい。
星の光、月の光、たき火などすれば、書物だって読める。
夜の闇など、温すぎるほど明るい。
ブーンの放つ闇は深淵の黒で染まっている。
光すら呑み込み、破壊する。
そこでは何も照らされず、ただ闇へと沈んでいく。
一刻、二刻、時が進む。
一秒を何時間にも感じる、気が狂いそうになる死闘の中でも、
時の流れは変わることがない。
命もまた、時の流れに浮かんでいく。
どこからか生まれ、どこかで死んでいく。
誰も逆らうことなどできない。
だからこそ、無頼なのだと考えた。
時に縛られた命、何を躊躇する必要がある。
そう考えて、今まで生きてきた。
死ぬ時は死ぬ、今の今までがそうでなかっただけ。
今が、死ぬ時であるというだけ。
兄者は声を上げて笑い出した。
悲鳴のような笑い方だった。
跳躍し、宙を舞った。
一足飛びで、人を飛び越える程の高さの跳躍になった。
空中で体を翻し、弟者の形見を振り下ろした。
斬った、と思ったのは、ブーンの残像であった。
肩口から切り込まれた刃が、左半身ごと弟者の刀を斬り捨てた。
それでも兄者は笑っていた。
体を二つに断裂されてなお、右手に持った刀を振ろうとした。
しかし兄者の最後の斬撃は、ブーンには届かず、虚空を彷徨い、地面に落下した。
俯せで崩れた兄者は、瞬きほどの時間、夢を見た。
地面の上で干からびる、みみずの屍体の夢だった。
兄者は最後にもう一度、笑った。
笑い声は、誰にも届かなかった。
空高く昇った月が、二人の男を映し出す。
シャキンは最初の構えから、不動のまま立っていた。
表情には感情が見られない。
闇だけがそこにあった。
ブーンもまた、闇を携えていた。
夜の闇よりも濃い二人分の滅びが、境内を包み込んだ。
二人は無表情のようであり、笑っているようでもあった。
狂気か、凶気か、それともやはり、形容することなどできないのか。
二人はただ、闇の中で対峙を続けた。
闘っている相手が誰なのか、お互いわからなくなっていた。
自分と対峙している気分だった。
ブーンの話をしよう。
誰も知らない、彼の中に巣くう闇の話だ。
ブーンの母親は、富家の主が雇っていた下女である。
ある日、その家の息子が下女を犯した。
まだ十二才だった下女を、毎晩のように犯し尽くした。
膣を、尻穴を、口内を、欲望のままに犯した。
四年後、下女は一人の子を孕んだ。
残虐非道の末に生まれた命、だが下女は子を産もうとした。
絶え間なく襲い来る闇の中で、大きくなる自分の腹だけを希望に感じた。
だが主は産むことを許さなかった。
息子の仕打ちが外に漏れる可能性を恐れたのだ。
毒を含んだ水を飲ませ、腹を殴り、子を堕ろさせようとした。
しかし下女の精神力のおかげか、過酷な環境にも耐え抜き、
下女は赤ん坊を産むことになる。
子は、ブーンと名付けられた。