パリーグを愛し続けた伝説の野球バカ・永田雅一

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25代打名無し
大映入社三年目の脇役俳優、柴田吾郎を社長室に呼び、タイガースからオリオンズ
に移籍してきた田宮謙次郎にあやかり、”田宮二郎”と言う芸名を与えたのが永田。
後に、産まれた子供を自転車に乗せ、永田社長に見せにくるほどの田宮二郎だったが、
昭和43年に映画「不信のとき」のポスター序列問題でもめ、結局永田の判断により
ポスターのトップの序列に田宮を持ってくる替わりに、田宮を大映解雇にした。
田宮は、興奮状態で口も利けずに涙を流すばかりの映画打ち上げパーティーを最後に
大映を去っていった。
”五社協定”の為、他社映画に出演できずホサれた田宮は、歌手として地方回りをやり、
キャバレーやクラブで歌って生活していた。
この頃、帝国ホテルでエレベーターを降りようとしていた永田社長とバッタリ出会うが、
田宮の顔を見た永田社長は、エレベーターにまた乗ったので、田宮はエレベーターの前で
待ち続けた。15分位たった後、今度は降りてきた永田社長が田宮に一瞥もくれず、その
まま歩いていこうとしたとき、田宮は永田社長に追いすがり、こう言った。
「永田さん、ボクはあなたに負けませんよ」

昭和53年12月28日、田宮二郎は散弾銃で左胸部を撃ち、自殺。享年43歳だった。