平成元年10月30日、初めてヤクルトの秋季練習を見学した野村監督が、
思わず悲鳴をあげた。「大変やナ、外から見たイメージとまるで同じや」。
野球の基本が出来ていない。小学生にでもわかる理論を知らない。予想以上の
印象に、苦笑いを浮かべるしかすべがなかった。その日から野村監督の戦いが
始まった。
”研修会”と称して、野球の基礎を講議もした。グループに別れてミーティング
も行った。リポート提出やミニテストで意識改革も試みた。その分、ダラダラ長い
練習メニューを短期集中型に変えた。当然、非難の声も周りから聞こえた。
敵はペナントレースでしのぎを削る他の5球団ではなく、味方にあることも知った。
伸び伸び野球が身についたイケイケ軍団のヤクルトナインには「野球はアタマでやる
もんや」の真意が掴みきれないまま、1シーズンが過ぎて行った。親切心からのアドバイス
も、ある者には意地悪ととられ、ある者はプライドを傷つけられた。そんなことが原因で
監督と選手の関係が急速に冷めたりした。だが”来る者は拒まず、去る者は追わず”の
指揮官は自分から動かなかった。
「あの人ならヤクルトを何とかしてくれるかも知れない」との期待には裏腹に、監督自身
個々の能力を把握する前にシーズン突入。ネット裏から「やっぱりネ」と拍手を送るOBもいた。
頭に描く作戦通りに動かない駒達に、ついついグチの量も増えてゆく………。
-バントが出来ない。走れない。フライばかり打つ、振り回す。配球が悪い、プレーに手抜きがある-
思惑に反するプレーへの苛立ち。1年目を終え、残された数字は借金”12”で10年連続Bクラス。
又、初歩から同じコトを繰り替えさなければいけない空しさ。シーズンを振り返った
野村監督の口から聞こえる「今年は区切りよく60勝やったから、来年は70勝、その次
は75勝(優勝)を目標にするか」と本気とも冗談ともつかない一言にも、なぜか重みが
感じられなかった。
2年目、野村監督は捕手というポジションにいた自分に感謝した。
捕手に要求されるのは責任感、義務感、勇気と繊細さと根気。
全てを抱えて選手に接した。ある時は彼らの自信をくすぐり、又
ある時は選手の発奮を促し、各自の立場や実力に応じた対話作戦に出た。
広沢には「4番は決まりや、三冠王も狙えるで」
古田には「お前のサイン一つで、ワシのクビが飛ぶんやで」
その上で、巨人コンプレックスを排除し、バッテリー教育を徹底した。
2死三塁からのエンドラン、ボークを誘う盗塁、大胆なバントシフトなど
奇策も多用して相手チームに「何かをしそうだ!」の恐怖心を植えつけた。
逆に、門限やプライベート面での制約をなくした。少しずつではあるが、
就任1年目と比べれば、チームに明るさが戻って来た。(略)
人を理解するのに急いではいけない。2年間、個々の能力、育ち方、人生観、
性格を把握し、適材適所の判断もついた3年目。お互いのコミュニケーションに
よって、チームが一つにまとまった手ごたえを感じた。優勝に必要なのは、
チームのムードや勢い。おまけに2年目は、11年ぶりのAクラス入りで選手達は
勝つ喜びを知り、自信を持った。これならVが狙えるかもしれない。
控え目な野村監督は、目前に山があると実感した。(略)
シーズン終盤に来て、選手を講師とするミーティングが開始された。
コーチから与えられるだけのヒントは忘れるのも早い。又、講師になるためには
研究も必要。知識や姿勢をさらけ出さなければならないからと野村監督が提案したのだった。
第一回は古田が指名された。中日、山本昌の攻略法は一分も経過しないうちに終了したが、
その日のヤクルトは16安打、11得点の猛攻を見せ、連敗を4でストップさせた。
試合中、伊勢コーチに野村監督は「お前がやるより、よっぽど効果的やナ」と白い歯をみせた。
これでこの後、荒木感動の復活、岡林炎の大車輪、ポカリ新井の劇的サヨナラ打、
角の2打席連続代打アーチで王手、そして荒木、伊東のリレーで甲子園での胴揚げ
と続く・・・・・。
90年代のヤクルトは万年Bクラスチームが3年の後に優勝するという「成長の物語」
があったからあれほど熱狂的で面白くもあったのだと実感。
ああ、もういっぺんあの頃のように輝いてほしいなあ・・・。(現実逃避終了)