「三原修・川崎球場・大洋ホエールズ」

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1天下の智将
 「最下位になったというが、投手陣はいいじゃないか」
 最悪のチームといわれた西鉄を、史上最強の軍団に作り変えて、
宿敵巨人・水原茂監督を叩きのめした智将・三原修監督が、大洋
の選手データをじっくり見たあと放った、第一声がこれであった。
 確かに秋山登を筆頭にして、投手陣は個性的な連中が名を連ねて
いた。しかし前年までは万年最下位に甘んじていた・・・。
 キャンプイン直前、大物監督の就任に喜んだ中部謙吉オーナーは、
三原監督に対して「私はね、もう少しだけでも良い成績を挙げたら
球団を手放してもいいと思っとるのですわ。今のまま手放したら、
恥が残るだけですからなぁ・・」と言った。これには三原監督は
驚き、あきれた。新任の監督に「経営をやめたい」という話だ。
この言葉に三原監督の闘志に火がついた。「よーし!巨人を叩き
のめして野球の本当の面白さを味わせてやる!」
 昭和35年のシーズンは、前年の日本シリーズで4連敗して首を
かけた水原巨人と、打倒巨人に燃える三原大洋の激突であった。
長打力のない大洋は、徹底した守りと、相手のすきを衝く
いやらしい攻めで1点差ゲームのほとんどをものにしていった。
 8月11日の対阪神戦では、この年突如開花した島田源太郎投手
が完全試合を達成。川崎球場に詰めかけたファンは狂喜乱舞した。
その中でも応援団長の池長さんは、泣きながら一塁側スタンドを
走り回った。大洋が川崎球場を本拠地にした直後から、横浜市電の
運転勤務をしながら応援を続けていた人だ。
 完全に勢いに乗った大洋はそのまま走り続け、ついに優勝した。
前年最下位からの優勝である。
 そして大毎オリオンズとのシリーズ。川崎球場から開幕し、1対0
3対2と勝って後楽園に乗り込んだ。ここでも1点差で2連勝して、
ついに4戦すべてを1点差で勝ち、日本一に輝いた。
 川崎球場に初めて訪れた栄光。翌年はスコアボードの上に、
チャンピオンフラッグが誇らしげにひるがえった。
 これが、川崎球場49年間の、唯一の栄光となった。
2代打名無し:2001/03/31(土) 20:25
たてた時期が悪かった
3代打名無し:2001/03/31(土) 20:26
>>2
同感
4代打名無し:2001/04/01(日) 02:59
 その、当時の大洋のオーナーの言葉を、今の近鉄の
金森オーナーも言ってそうで嫌だな・・・・
5代打名無し:2001/04/01(日) 03:03
スレの1は簡潔に
6代打名無し:2001/04/01(日) 03:22
>>1
でも翌年は最下位。名将三原曰く「手綱を緩めすぎた」

池長さんは横浜ベイの優勝は見れずに亡くなったんだっけなぁ。
7ライオンズファン
スレッドは良いが、名前は正確に。
三原「脩」が正しい。