(=゚ω゚)ノ
◎ハタケ(その2)
古田着任早々、宮本ムリ、は総意だった。全盛期の01年優勝時でさえ、出塁率.281で年間2番に居座った。守備でも当時既にこのスレで叩かれてた通り、足腰グラグラだった。
その後岩村も失い、FA小笠原は当然スルー、400万ノリさんまで却下され、三遊間は壊滅状態になった。(古田時代駒に恵まれなかったのはブルペンだけではない)
ムリ筋承知でサード宮出とかショート飯原を試さざるを得なかった。それでもなお、古田はハタケ起用を避けた。
実力は知り尽くしていた。それどころか、あの選球眼こそ古田の目指す打線に必要不可欠なことも。
これは監督期間中1度しか聞いたことがないが、「戸田行ってるんだったら、(ハタケと)話してみてわかるでしょ?」
確かに、ファンに対しても誰でも平等に、誠意の感じられないつっけんどんな物言い、対応だった。一言で言うと、人間関係を拒絶してるような、ファンからも選手からも壁を作っていた。
和を重んじたらとても怖くて使えない、古田にしては珍しく、理由は精神論、ハタケの素行や性格だった。
それが、退任後に「悔い」として名が挙がるんだから、ハタケときっちり向かい合って話すべきだった、と考えているんだろう。
ハタケ固定、というパンドラの箱を開けたのは。他ならぬあの勝率2割君、バカ田死ゲルだった。
戸田ファンには逆に失望、の一軍では長打力のなさ、という数値に終わったものの、戦力としてのハタケに先鞭をつけたのは、間違いなくバカ田だった。これだけは認めざるを得ない。