【楽天】野村克也 21ツンデレ

このエントリーをはてなブックマークに追加
3代打名無し@実況は野球ch板で
「すばらしいなあ、君は。くらべると、僕の十八歳のときなどは、クズみたい
なものだったな」高知県・春野の西武キャンプで、私は清原にこういったが、
本当にそう思ったからで、お世辞でもなんでもない。

私が清原に会ったとき、ほれぼれとながめてしまい、ふだん解説者として禁句
にしている「すばらしい」という言葉を使ってしまった理由はほかでもない。
新人に必ずあるといってもいい、ひと目で見ぬける弱点がなかったからだ。打
撃フォームは、すでに完成品だった。内角・外角と打つポイントが一定しない
例はいくらでもある。フィニッシュも安定している。タイミングのとり方、バッ
トを移行させる軌道も正しい。技術的な弱点の見えない十八歳の新人はめずら
しい。この「見えなさ」を証拠だてる例に、長嶋と張本の清原評のちがいがあ
る。長嶋は「上半身は完璧、ただ、下半身の使い方が疑問」というが、張本は
「下半身は完璧」と、まったく反対の意見となる。

とはいっても、私の記憶の中にある榎本、中西、張本らの一年目にくらべてみ
ると、清原の場合、実はもうひとつピンとこないところがある。彼らには、はっ
きりと未熟さが見える一方で、未知数の粗けずりな魅力があった。清原の場合、
未熟さを感じるのだが、その未熟さがはっきりと目には見えてこない。
4代打名無し@実況は野球ch板で:2009/02/22(日) 17:33:05 ID:ShGBdVDA0
気にかかることをもうひとつ。彼の器用さである。外角球をチョンと右へ打つ。
私は、ホームランの量産は意外に少ないのではないか、とみる。器用さに流れ
てしまうことは弱点に通じるといっていい。不器用族と起用族、どちらが強い
のか結論ははっきりしている。「オレは不器用だ」という自覚が「どうすれば
いいか?」という質の向上につながっていく。私の出会った一流選手の多くは
不器用族だった。あの金田は、はじめはストライクを満足に投げられなかった。
王については二十二年間の三振の多さ、千三百十九個という記録を指摘すれば
足りる。

清原の遅れているところは、スイングのスピードだ。いまのスイングでは速い
球についていけない。内角球に苦しむ、となると一流の打者の資格がないこと
になる。救いは、清原の体がまだ少年のそれであることだ。スイングのスピー
ドは、下半身の強化と、ムダな力を抜くことで改善できる。スピードの根源は、
下半身からの瞬発力にある。三、四年たったあとの清原が楽しみだ。この一年
目、清原はそこそこに打つだろう。合格点である打率二割五分にはたぶん達す
ると思う。いまのパ・リーグにはほんとうに速いピッチャーはいない。清原の
いまのスピードでも、とりあえずついていける。これは強運のひとつともいえ
ようが、将来の大成を考えれば、危険な落とし穴と紙一重でもある

週刊朝日『プロ野球・野村克也の目』(1986年4月4日号)
5代打名無し@実況は野球ch板で:2009/02/22(日) 17:33:15 ID:ShGBdVDA0
ペナントレース前半戦。清原は弱点をさらけだした。内角球をバットの根っこ
で打たされていた。私の見誤りの原因は、強打者になる条件としては致命傷で
ある、この弱点へのこだわりであった。内角球を打つには最高のテクニックが
いる。これを会得するには、どんなに順応力を備えている選手でも最低一年、
ふつうは二年かかるのだ。だが、彼の進歩は私の目のはるか先にいってしまっ
たようだ。

清原の成績を支えているのは「修正」の能力だ。シーズン前半は手も足も出な
かった内角の厳しい球を、脇をしめたおっつけでこなし、最近はい当たりのファ
ウルにする。まだフェアにする力には乏しいが、投手をおどかすには十分だ。
ホームランを打てる甘い外角球を投げてもらえるのはこのためだ。
6代打名無し@実況は野球ch板で:2009/02/22(日) 17:33:26 ID:ShGBdVDA0
清原は久々の、そして全く新しいタイプの傑出した十九歳の野手だろう。シー
ズン後半の活躍を予測できなかった不明を認めていい。だが、私の本当の気分
は、ここまでみてきた彼の”進歩”が面白くない。長い目でみれば、逆に災い
になる不安すら感じる。かつて強打者と呼ばれた選手たちはデビュー時、いず
れも内角に強く、下半身がうまく使え、腕の操作が巧みだった。必然的に「引っ
ぱる」打者だった。清原は流すことで成績をあげている。外角に強いのはリー
チの長い打者特有のものとはいえ、流し打ちはしょせん労力が少なくてすむ打
法である。バースや落合の活躍を見習い、「とぶボールの時代だから、僕は楽
な右打ちでいや」と悟ってしまっているのならこわいことだ。未熟-基本- 応
用の階段を着実にのぼらず、未熟からすぐ応用へ走ってしまったツケはやがて
払わされると思う。体をひらいて外角球を見逃す。苦手のところを空振りして
みせる。スタンスを変えてみせる。こんな投手との駆け引きは、天性の限界が
みえた後、プラスアルファを出すためのものだ。清原の今は、天性・素質の限
界をためす時期である。未熟時代は「ためし」、基本会得期は「おぼえ」、応
用期は「みつける」ことに専念するのが常道である。投球への読みでは第一人
者の山本浩二も大卒で入団後、しばらくは荒々しく素質の限界をためしていた。
王が一本足打法に変えたのは、二本足で残せる数字の上限を思い知ったからで
ある。清原は克明に対戦相手のデータをとっているという。これは応用期の作
業だ。「未熟」から「基本」へ階段をのぼりかけた彼に、いまはかえって邪魔
になる。

週刊朝日『プロ野球・野村克也の目』(1986年9月26日号)