1669年 - シャクシャインの戦い。このころ以後、和人がアイヌに軍事的にも優越する。
1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
1789年 - クナシリ・メナシの戦い。
18世紀後半 - ロシアが蝦夷地を訪れる。
1798年 - 近藤重蔵が東蝦夷を探検、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。
1799年 - 東蝦夷地を幕府が直轄化。
1800年 - 伊能忠敬が蝦夷を測量。
1801年 - 最上徳内や富山元十郎などが千島列島の得撫島を探検し、「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。
1802年 - 江戸幕府、蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行となる。
1804年 - ニコライ・レザノフが日露の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。
1807年 - ニコライの部下、フォボストフらが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う(フォボストフ事件)。幕府は東北諸藩の兵で警備を強化。
西蝦夷地を幕府直轄化。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。
1808年
幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
長崎でフェートン号事件。
1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを発見し、呼称を北蝦夷と正式に定める。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1811年 - ゴローニン事件。日露の緊張が高まる。
1813年 - ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。
1821年 - 日露関係の緩和を受け、幕府は蝦夷地を松前藩に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。
1854年 - 日露和親条約締結、北海道が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。ただし、樺太方面の国境は未確定。