北海道日本ハムFIGHTERS Part405

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308代打名無し@実況は実況板で
和人の進出
文字記録をもたないアイヌには歴史の記録がない。
現代まで和人の視点からの記録が歴史とされている。アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。
13世紀 - 安藤太が蝦夷代官職になる。
この頃元がアイヌを征討する。
1268年 - 津軽でエゾの蜂起があり、安藤氏が討たれる。
1295年 - 日持上人が樺太南西部(後の樺太本斗郡本斗町阿幸)に上陸し、日蓮宗の布教活動を行った。
15世紀 - 和人が蝦夷地南部12箇所に勢力を張る。道南十二館(どうなん じゅうにたて)という。
勢力を張った和人土豪はアイヌとの交易や漁場への進出を通して成長する。
1457年 - コシャマインの戦い。
和人の蝦夷地進出に対してアイヌの首長コシャマインが起こした蜂起。花沢館の館主である蠣崎氏の客将、武田信広が制圧し、蠣崎家を相続したと伝えられている。
1514年 - 蠣崎氏が他の渡党に優越する地位(上国・松前両守護職)につく。
1550年 - 安東舜季、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る。(東公の島渡)
蠣崎家はその後、豊臣秀吉から所領安堵され「蝦夷島主」となることにより名実ともに安東氏から独立した。
さらに江戸幕府からアイヌとの交易独占を認められ、それからは「松前氏」と名乗った。
松前藩の支配下におかれてから、松前商人が不平等な交易をするようになったため、アイヌの不満は高まり、下記に示すような蜂起にいたることになる。
それらの戦いでは銃器を大量に投入できた和人側に利があったが、アイヌも火縄銃を利用したといわれる。幕府はアイヌに銃を渡すことを禁じたが、ロシア由来の銃も利用された。
クナシリ・メナシの戦いに破れて以降、アイヌによる組織的な武力抵抗は見られなくなった。