2006年5月 広島東洋カープのエース黒田 FA権取得
彼は悩んでいた 人知れず悩んでいた しかし誰も彼の苦悩を解っていなかった
FA権取得から毎日のように報道陣が質問してくる
「やはりメジャー挑戦ですか?」
「阪神が調査を進めているそうですが」
「巨人が水面下で調査を進めているという噂もありますが」
様々なデマが飛び交っているが彼の心の中には2通りの未来しかなかった
カープを優勝に導くか メジャー挑戦か
正直カープに残っていても優勝できる可能性はかなり低いだろう
実際今シーズンが始まる前まではメジャー挑戦を8割方決めていた
しかし 一人の男が彼の心を動かした
闘将 マーティー・ブラウン
彼のおかげでチームは少しずつではあるが確実に戦う集団へ変わっていった
彼は迷った末 シーズン終了まで様子を見る事にした
じつは以前 彼は一度だけ自分の苦悩を人に話した事がある
WBCでわずかの期間だが共に戦い 意気投合した西武 和田選手である
「お前も大変だな・・・・・」
彼の答えは簡潔な物だったが親身になって聞いてくれた事で
黒田の心は癒された
開幕から数ヶ月が過ぎた チームは勝ったり負けたりだったが
彼は故障も無く確実に白星を重ね 今年も最多勝を狙える位置にいた
しかしそれに比例してどんどん報道陣はエスカレートしていく・・・
今日も完投勝利 ヒーローインタビューを終えて引き上げる黒田に
正面から横から背後から容赦なくフラッシュが浴びせられる
彼は苛立っていた 毎日の取材攻勢のストレスに
そのストレスがまた彼の苦悩を広げていく悪循環に・・・
帽子を取り 汗をぬぐう黒田の背後からまたもやカメラのフラッシュが来た
もう限界だった 彼はドスの利いた声で言った
「どうせ使わねえ癖に後姿なんて撮るなよ」
場が凍りついた 彼は普段は取材に快く応じる選手だったから
それから彼は報道陣の質問には一切口を開かなかった
いつも人前では帽子を深くかぶり 俯いて顔を隠すようになった
2006年のシーズンが終わった
チームは惜しいところでAクラスを逃す4位
だが確実に去年とは違う手ごたえがあった 来年はひょっとして・・・と彼も思った
しかし彼の耳には不穏な噂が流れていた
今年で2年契約を終えるベイルの獲得を狙っている球団があるというのだ
いくら自分が頑張ったところで全試合完投できる訳じゃない
守護神ベイルのありがたさを一番わかっているのは自分だった
彼の苦悩はどんどん大きくなっていく・・・・・
更に追い討ちをかけるように悲しいニュースが飛び込んでくる
「広島東洋カープ 身売り」
松田元オーナーがついに球団を手放したのだ
巨人戦放映権の減収や交流戦による観客動員減など色々理由はあるが
1オーナーが球団を持つのはもう限界だったのだろう
複数の企業が手を上げていたようだが彼はもうそんな事には興味は無かった
秋口 メジャー挑戦を決めていた黒田の元に電話が入った
新オーナーがぜひ会いたいとの事だった おそらく彼の進路の事だろう
自分の心はもう決まっていたのだが やはり元エースとして
直接話をするのが礼儀と思い 彼はオーナーに会いに行った
社長室に通された 目の前に豪華なソファーに座ったオーナーがいた
やさしい目をした初老の男性は黒田の眼を見て微笑みながらこういった
「君の悩みは僕が全て解決する だから来年 一緒に頑張ろう」
その優しい目に黒田は惹かれた そして今までの思いを全てぶちまけた
弱小球団のエースとしてのつらさ
頼りになる仲間が他チームに金で取られていくやるせなさ
そして何よりも自分の苦悩を 声を詰まらせながら話した
オーナーは優しい微笑を浮かべながら聞いていた・・・・・
2007年 春
心地よい風が吹く中 広島市民球場に黒田の姿があった
彼の目に迷いは無かった 去年までの葛藤はまるで無かった
グラウンドの片隅でベイルとダグラスが談笑していた
そう オーナーは本当に彼の悩みを全て解決してくれたのだ
チーム名は多少変わってしまったがそんな事は些細な事に思えた
(今年は優勝いけそうだな・・・・)
そう考えていた時 報道陣に囲まれてオーナーが姿を現した
今日は試合を観戦するという話は前もって聞いていた
オーナーは彼を見つけると笑顔で手を振ってくれた
黒田は直立不動になり 去年は人前では殆ど取らなかった帽子を取って
深々と頭を下げた 報道陣からどよめきの声があがった
優しい風が黒田の豊かな黒髪を軽く揺らす
オーナーはそれを見て あの時の優しい笑顔でまた手を振ってくれた
顔を上げた黒田の目に 球場ないで一際大きく目立つ看板が入ってきた
アートネイチャー
その文字が今の黒田には他の何よりも頼もしく写った
2007年 広島東洋マープが球界に旋風を巻き起こす