和製大砲と期待されながら伸び悩んでいた新井貴浩。
自分を買ってくれていた山本浩二監督からも見放されたかのように感じられる今日この頃。
焦燥感と孤独感から次第に酒に逃げるようになる。
いきつけの飲み屋では連日ひどく酔いつぶれていた。
2005年の開幕、巨人戦緒戦。新井はスタメンを外れた。
巨人に勝ち開幕戦を飾った喜びもどこか他人事のように思えた新井は、
人目を避けるように繁華街から外れた場末のスナックで一人飲んでいた。
そんな時、隣に座ったある男が悪酔いしだした新井に声をかけた。
「あなた、広島カープの新井さんですね」
「ああ、それがどうした。ワシなんか知っとっても何の得もないじゃろう」
ろれつの回らなくなり始めた新井をなだめた男は、飲み直しに場所を変えましょう、と店を出た。
タクシーを拾った男は、新井を怪しげなバーへと連れて行く。
新井がジンをボトルごと要求するのを制し、男は水を2杯貰おうと言って、
そしてしばらくこちらを構わないようにと告げてバーテンダーを遠ざけた。
「飲みに来たんじゃろうが。水飲むんじゃったら、ワシは帰るぞ」
怒る新井に「俺の言うことを聞け!」とピシャリと言い放った男は、新井を正面から見据えた。
「いいかい、新井さん。あんたは素晴らしい素質を持っている。しかしあんたはそれを持て余しているんだ。なぜだか分かるかい?」
男に見つめられた新井は、正気を取り戻した。
「分かっておったら、こんなとこに来とらん」
「あんた、この世界で一花咲かせたいと思わないか?」
「思わんやつはおらんよ」
不貞腐れ気味に返事をした新井に、男が身を乗り出した。
「俺が力を貸そうじゃないか」
そう言って男は、ポケットからピルケースを取り出した。
そしてそこから錠剤を一粒手に取り、新井に差し出した。
「これを飲むんだ。騙されたと思って飲んでみろ」
「なんじゃ、これは?」
男はニヤリと笑った。
「俺はね、医者だよ。これはね、神経を集中させる、あるクスリだ」
「クスリ?」
さすがに怪訝に思った新井を気遣った男は、その店を出ると今度は自宅に連れて行くと言う。
帰ろうとする新井に男が言った。
「ここで帰ったら、あんた今シーズンもこのままだぜ」
怒気を含んで睨み返した新井に男が殺し文句を言った。
「あんたを信じた山本浩二監督に、ご恩返しをしたくはないのか?」
『これ以上悪ぅなることもないじゃろう』
なかばヤケになった新井は、男に連れられるままに男の自宅へと行った。
そこはちいさな神経科の開業医院だった。
「ほう、ホンマに医者なんじゃな」
通された待合室には、広島の選手のポスターがべたべたと貼ってある。
サインボールもたくさん飾られていた。
どうやら熱狂的な広島ファンのようだ。
「故郷の広島から独り出て来て、ここまでになったのは、広島カープが心の支えだったからなんだよ」
男は新井にそう言うと、またあの錠剤を取り出した。
「新井さん、これは一種の麻薬だ。神経を極度に集中させる効果がある。アメリカ球界では禁止薬物だ。
しかし今の日本のプロ野球界では、まだ知られていない。試合の1時間前に服用してくれ。
飲み過ぎると逆効果になる。必ず1錠だけを、試合の1時間前に飲むんだ」
「でも、それは、、、やってはいかんことじゃろ」
「いいか悪いかはバレてからの話だ。でもこれを飲まなければ、あんたは今季もパっとしない成績のまま。そして広島は今季もBクラス。下手すりゃ最下位。そうなれば浩二監督はクビだ。あんたそれでもいいのかね」
それは悪魔の囁きだった。
「なに、ステロイドなんかの筋肉増強剤と違う。あんたの肉体的資質は抜群なんだ。そんなものは必要ない。ただ、一打席一打席、今よりもっと集中させるだけのものなんだよ。あんたの素質を、ほんのちょっと引き出すお手伝いをするだけのものだ。決して悪いことじゃないよ」
なお逡巡する新井に、男は錠剤を強引に渡した。
「騙されたと思って飲んでみろ。飲まなきゃ、あんたは去年と同じ。そして浩二監督はクビだ」
意を決して錠剤を飲み込んだ新井は、半時間後、今までにない高揚感を味わっていた。
『広島カープは、ワシが救う!』
「どうだ?効いてきただろう?」
「ああ、ええ感じじゃ」
「もう一度言うが、これは魔法のクスリじゃない。あくまであんたの力を引き出すお手伝いをするだけのものだ。一番大事なのは、練習だ。くれぐれも、飲み過ぎんように」
男は新井に錠剤の入ったピルケースを渡し、タクシーを呼んだ。
巨人に快勝し開幕2連勝した広島。
ラロッカが故障で試合に出られないことが分かった第3戦の試合前、
山本浩二は新井に「今夜、出るぞ」と告げた。
新井はもはや迷っている場合ではないことを察した。
『なにがなんでも、結果を出さにゃならん』
取り出した錠剤を、半ばやけくそ気味に水無しで飲み込んだ。
心なしか気分がいいようだ。神経の高まりを感じる。いい感じで試合に入れた。
巨人の先発は久保だった。
初回、いきなりチャンスで打席に立った新井は、久保の球筋を見た。
『よく見える。よく見えるぞ!』
2球見たあとカウント1−1の3球目。直球をフルスイングした打球は、糸を引くようにスタンドへと消えていった。
スタジアムは大歓声に包まれた。
『打てた!ホンマに打てたぞ!』
新井は全力疾走でダイヤモンドを駆け抜けた。
しかし試合は広島先発の大竹が打ち込まれ、巨人1点リードで迎えた8回。
ランナーを一人置いて、新井に打席が回ってきた。
マウンドにはシコースキー。
新井はまた2球、球筋を見た。
よく見える。
3球目、待っていた直球が来た。
やや高めだったが、フルスイングした打球は、スタンドに吸い込まれた。
広島、再度逆転となるツーランホームラン。
大歓声の中、新井は思わず雄たけびを上げた。
ダイヤモンドを一周する足が、あるで自分の足でないかのように思えるほどに夢見心地であった。
新幹線の名古屋駅を出ると東京弁モードに切り替わる山本浩二も、
今夜ばかりは広島弁丸出しではしゃいでいた。
「気持ちええのぉ、巨人に3タテじゃぁ!貴浩がやってくれたのぉ!」
銀座の行き付けで勝利を決める通算100号ホームランの“ご褒美”を受けていた新井は、
しかし今ひとつ心が浮かなかった。
「どうしたんじゃ、貴浩、飲め飲め!」
酒を勧める山本浩二に、しかし新井は後ろ暗さを感じていた。
『クスリの、お蔭なんじゃ...』
「貴浩、どうした?通算100号の記念の夜じゃあ言うのに」
心配そうに顔を覗き込んだ山本に、新井は無理に笑顔を作った。
「言うても、まだ監督の5分の1もいっとりゃせんですから」
「なに言うとる、素直に喜びゃあええじゃないの」
「い、いえ...ワシゃ、これぐらいで喜んどったらイカン立場ですけぇ。もっともっと打って、監督にご恩返しせにゃならんですから...」
「そうか、そうか、ええ心掛けじゃ!」
浩二は一層機嫌を良くした。
新井はそんな上機嫌の浩二の姿を久しぶりに見た。
『クスリは、必要じゃ...』
薬物を使用しているという後ろ暗さを払拭するために、新井は例年にも増して狂ったように練習した。
そして試合前に服用する錠剤の効き目とあいまってか、
新井はプロに入って最高の成績で4月を終えることができた。
『もう、ええじゃろう』
新井はクスリを飲むことをやめた。
と、途端に成績が下がりだした。
やはりクスリは必要なのだろうか。
5月21日、対楽天戦。新井は、とうとうスタメン落ちを告げられた。
新井はもう一度、錠剤を飲んだ。
5回、満塁の場面で代打新井が告げられた。
打席の新井は集中力がみなぎっていた。
『この感じじゃ』
マウンドの有銘が投げ込んだ初球内角高めの速球を一振りすると、
打球はライナーとなって右翼スタンドに突き刺さった。
広島市民球場の満員の観衆の大喝采に包まれダイヤモンドを一周する新井は思った。
『やっぱり、クスリは要るんじゃ...』
新井はあの男の言った言葉が常に頭をよぎった。
『これは魔法のクスリじゃない。あくまであんたの力を引き出すお手伝いをするだけのものだ。一番大事なのは、練習だ』
たとえクスリを飲んでも、結果が出ない日もあった。
しかしそんな時こそ一層練習に身が入った。
練習は打席での自信につながった。
しかもその上、集中できるクスリを飲んでいる。球筋が実によく見える。
いつしか新井は、外角に逃げる変化球にまったく手を出さなくなっていた。
落ち着いて、直球を待てるようになった。
それどころか、甘い変化球についていけるだけのバットコントロールも身に付いていた。
だが心のどこかに常に後ろめたさがある。
なので気を抜かずに練習する。好循環である。
6月。新井は6試合連続ホームランを放ち、20号へと到達した。
しかし周囲の騒ぎにも、新井はどこか遠慮がちだった。
『ワシは、クスリをやっとる...』
でもそんなことをつゆとも知らない周囲の者は口々に言った。
「実るほど頭を垂れる、じゃ。精神的にも成長したのぉ」
「28本打ってはしゃぎよった3年前と、えらい違いじゃ。大人になったの」
7月3日。新井は4番を告げられる。
試合前、新井の心に急に今までに無い重圧がかかってきた。
錠剤を取り出した新井は、水無しで飲み込んだ。
『これで大丈夫じゃ』
つとめて冷静でいられた新井は、その日21号を含む3安打の爆発。
7月9日には、2本塁打と逆転サヨナラのタイムリーヒット。
立派に4番の重責を果たした。
しかし周囲が喜べば喜ぶほど、新井は心の中に澱が沈むようだった。
『クスリの、お蔭なんじゃ』
新井はまたクスリを飲むことをやめた。
するとどうしても成績が下がる。
7月27日のヤクルト戦、とうとう新井は4番から6番に降格させられてしまった。
新井はまたクスリを飲んだ。
するとどうだ。9回表、劇的な逆転の3ランホームランを放って、見事土壇場で逆転勝利をおさめた。
もう、クスリをやめることはできない。
『ワシのことはどうでもええ。チームが勝つ。それでええんじゃ』
新井は罪悪感を押し殺した。
8月2日、新井はとうとう30本目のホームランを放つ。
8月21日には、5位巨人を追撃すべく新井の2本のホームランで勝利。
8月を終わって新井のホームランは37号にまで到達していた。
しかし新井が打てども打てども投手陣が崩壊している広島は、
5位巨人に大きく離されて最下位を独走していた。
そうなってくると周囲は個人タイトルの話題をし始める。
本塁打王争いは新井が独走態勢。初のタイトルなるか、ということともう一つ。
広島カープの年間本塁打の球団記録、山本浩二の持つ44本を、
新井がこの勢いだと越えそうなのである。
9月24日対阪神戦、とうとう新井は43号目を打った。
しかし新井は罪悪感に責め苛まれていた。
ただでさえ薬物使用という後ろ暗さがある。
それに加えて大恩人の山本浩二の記録を、クスリの力を借りて今越えようとしている。
新井は山本浩二の、
「遠慮せんと打て打て。貴浩はワシの記録を破るにふさわしい男じゃ」
という言葉に一層の辛いものを感じていた。
新井の我慢は限界だった。
『クスリを飲んで、監督の記録を超えることだけは、やってはいかん』
錠剤を飲まなくなった新井は、ホームランがパッタリと止まってしまう。
9月下旬の対阪神3連戦、そして対ヤクルト2連戦ともに、ホームランは全く出ない。
9月末から10月にかけての対中日3連戦でも打てない。
山本浩二はそんな新井を気遣った。その気遣いがまた新井の心に突き刺さる。
10月4日、巨人との2連戦に東京へとやってきた新井は、
巨人に敗れた深夜独りタクシーに飛び乗った。
やって来たのは、あの神経科の医院である。
インターホンを押したら、聞き覚えのある男の声。
中に通された新井は、あの男に会うやいなや叫んだ。
「ワシはクスリをやってたからホームランを打てたんじゃ!ワシは全てを監督に話す!
ワシは球界から追放されるじゃろう!悪いがあんたもお咎めを受ける覚悟をしてくれ!」
男は新井の剣幕に驚いたが、すぐに大笑いをした。
きょとんとする新井に、男は例の錠剤が詰まったビンを取り出した。
「新井さん、あなたが飲んでたクスリってのは、これですよ」
そのラベルには、こう書いてあった。
こどもようパンビタン
「はあ?」
「安心なさい。あなたが飲んでいたのは、単なる子供用の栄養剤。勿論、禁止薬物でも何でもないですよ」
「え?...じゃが、最初に飲んだあの感覚は...」
「最初の一粒、あれだけは、軽い抗鬱剤だったんです」
「じゃが、これを飲んだら試合で集中できたのは...」
「あなたはこの世界に入って10年以上になるんだ。何もしなくとも試合前にはアドレナリンが分泌されて、高揚感が湧き集中力は高まるもんです。そういう体になっているんです。あなたはそれに気付いていなかっただけですよ」
「はあ....」
「こういうのを プラシーボ効果、って言うんですよ。どういうことかと言うと、つまり...」
男の解説を聞きながら新井は、全身の力が抜けてその場にへたりこんだ。
10月12日、広島市民球場でのシーズン最終戦。
新井は本塁打球団記録更新の期待がかかっていたが、とうとうホームランを打てなかった。
試合後、球場を出た新井の前に、ひょっこりあの男が現れた。
「新井さん、残念でしたね」
「あ!あんたは!」
「毎年最終戦は見に来ることにしてるんですよ」
そこに嶋が通りかかった。そして嶋が男に
「おや、お久しぶりですね!今日の試合、見てらしたんですか。いやあ申し訳ない、今シーズンはお恥ずかしい成績で...」
と話し掛けたのを見て、新井は驚いた。
「なんじゃ、重宣、この人知っとるんか?!」
嶋は照れくさそうに笑いながら言った。
「ああ、実はこの人は、俺が去年首位打者を獲った時の恩人なんだ。まあ、うまく担がれたんだけどね。ええっと、プラなんとか効果、とか言って...」
2006年3月26日。オープン戦最終試合の巨人戦を負けに終わった広島。
去年1勝しかできなかった佐々岡は、焦燥感と孤独感を紛らわすため、東京の夜を独り場末のスナックで深酒をしている。
そこに、隣に座った男が佐々岡に声を掛けてきた。
「あなた、広島カープの佐々岡さんですね」