阪神タイガースバトルロワイアル第六章

このエントリーをはてなブックマークに追加
61542(1/5)
>>前スレ104

53.崩壊現象

決して。
決して、彼が憎いというわけでは、なかったのだ。
『俺の目の前でまたそれはないだろう、それは!』
叫んだつもりの言葉は、藪の身体の輪郭より外に出る事はなく。
(ひどいじゃ、ないか……)
理不尽だと。不条理だと、血で灼けて嗄れきった咽喉が叫んでいた。金切り声を
上げても、みっともなく縋りついても、一向に答えは帰って来ない。
どうして。どうして、こんな事に。
「、っあ……ぐ、う……」
単純な音の羅列はまるで意味を成さず、勝手に口をつく呻き声が血液と共に
垂れ流されていた。胸にどす黒く、毒が広がる。感情を蝕むそれは憎悪だ。
行き場のない、憎むべき対象を得られない、暗くて激しい奔流。
―――それでも、目の前に立っている狂気の男その人が憎いというわけでは
決してなかったのだ。少なくとも、藪にとっては。
「最初っからオレを疑うてきたんはあんたらが初めてや」
まぁ言うてもそんなにようさん会うたわけやないけどなぁと補足し、片岡は手の
甲で口元を拭った。鼻腔からの出血は既に止まっていて、代わりに笑みを湛える
肉薄の下唇がぱっくりと切れている。小首を傾げるように頭を振って顎まで伝う
血をなぞり上げ、拭いきれない残滓をぺろりと舌で舐めとった。
肉食獣の仕草だった。
「何か、言い残したい事とかないのんか?」
赤いものの混じった唾を吐き捨て、片岡。
井川に投げかけられた何気ない問いは、情けをかけるというよりは寧ろ純粋な
好奇心から来ているもののように思えて、藪はおぞましさに背筋を震わせた。
62542(2/5):2005/06/18(土) 00:13:47 ID:O6pZAuHr0
「何スか……何が、言いたいんスか」
「まぁアレやん。何となく聞いといたろうかなーなんて思ってん」
「フン」
うっわ、可愛くないなぁお前。
大仰に肩を竦めながら呟く片岡はごく自然で―――
(ああ、普通だ。普通の、いつもと同じアッちゃんだ……)
『普通』というのが一体何を指す言葉だったのかはとうに忘れてしまったような
気もするが、兎も角彼は以前と変わらぬ彼のようであった。それがまやかしで
ある事は疑うべくもない。藪は半分吹き飛んだ痛覚に首まで浸かったまま、
崩れそうになる身体を必死に支えていた。
「まぁええわ。聞いといても忘れてもーたら意味ないし?」
ちゃか、と軽く音をさせ、トカレフを真っ直ぐ井川の額に向ける。
片岡の顔には薄く笑みが刷いてあった。その意味は知らない。知りたくもない。
知ったところで自分に何が出来るというのだ。
(後輩一人も助けてやれないオレが)
生きている間、きっと死ぬ直前まであの残像と感触がついてまわるのだろう。
それでいい、それでいいんだ。そうでなければ。
(お前の言ってた事、正しかったなァ……)
『何でお前はすぐ大事な事忘れんねん。いっそグラブに書いといたろか?
 それとも何か、ショック療法でもやってみるとええんかなぁ』
真面目で、そして意外と短気な女房役の言葉が耳の中で木霊する。
ショック療法でどうにかなるんやったら苦労せんやろー、と口々に容赦なく扱き
下ろしてきた当時の投手陣年長組の事も思い出して、藪はちいさく笑った。
悲しかった。こんな事を、こんな場面で思い出す自分が悲しかった。
藤川の悲しそうな顔。あんな顔は見た事がない。衝撃は想像以上で―――
以前、自分の失投で件の女房役が殴られるのを目の前で見せ付けられた時も
それはそれで藪の頭をぐちゃぐちゃにかき回すくらいにはショックだったのだが、
人の生き死にが関わってくると、もはや限界を超えてしまっている。痛みの
代わりに彼の裡を満たしていたのは、つまるところ死に至る病というものだ。
63542(3/5):2005/06/18(土) 00:15:28 ID:O6pZAuHr0
『ホンマになぁ、ちょっとは考えんかい!』
(怒るなよ、矢野)
自分が不甲斐ないせいで、彼にはかなり辛辣な事まで言わせたと思う。
同級生という気安さもあったのだろう。自分はその気安さに甘えて、ちゃんと
向き合う事なく、受け流す事ばかり上手くなっていった。畢竟堪えない自分も
原因の一端だったのかも知れない。今となっては後悔ばかりだ。
「お前ももう疲れたやろ。オレも疲れたわ」
オレだって疲れたよ、と藪はごちる。片岡の笑った顔はつくりもののそれで、
何を信じていいのか、何が本当で何が間違いなのか判断するすべがない。
確実に言えるのは彼がきっぱりと壊れきっているという事だけ。
「そうゆうわけで―――さよならや、井川」
井川に向けられる、トカレフTT33。
安全装置が全く存在せず、すぐに撃てる。装弾数は8発。口径は小さいものの
火薬の量が多いため、貫通能力が非常に高く、それ故にマン・ストッピング・
パワーは乏しい。精度が良くてスマート、能力値は高い。だが決定力に欠ける。
「二人とも、すぐ楽にしたるよ」
添付された説明書を見せ、まるで藪さんみたいな銃ですねぇと井川は言った。
彼なりの冗談のつもりだったらしい。その時は一緒になって笑ってやった。勿論、
このガキ、からかいやがって、と軽く小突いた後でだ。
「じゃあな」
片岡が笑う。にこりと笑う。
オレみたいな銃で、井川は殺されるのか。
あんな恐ろしい武器がオレみたいだって?おいおい冗談も大概にしてくれよ。
オレはそんな事したくない。殺したくもないし、殺されたくもない。嫌だ。嫌だ。
大体、人を兇器に例えるなんて悪趣味ってモンだろ?ましてや例えた本人が
それで殺されるなんて滑稽だとしか言いようがない―――
―――ああ、でも。
そこで、はたと思い当たる。
―――オレみたいな銃なら、きっと欠点だって一杯あるんじゃないか?
64542(4/5):2005/06/18(土) 00:17:51 ID:O6pZAuHr0
『重度のマゾヒストですね』
井川の糾弾が舌先で転がる。シニカルと言うよりかは、哀れまれていたと解釈
するのが妥当だろう。ぽっと浮かんだ自虐的な発想はしかし、実際的確な認識
だった。銃の特徴通り弾は左肩を貫通しているらしい。重傷だ。だが重体では
ない。身体はまだ動く。ただ今度こそ左腕は使い物にならなくなったようだが。
『後悔すんで?』
矢野の声で、そう一言。
後悔。
これまで散々味わってきたその単語に対し、その時ほど強い焦燥感を覚えた
事はなかったと、後に藪は思う事になる―――
「―――」
白く白く、限りなく白く。抜け落ちる。染め上げられてゆく。
視覚も聴覚も嗅覚も、触覚も、味覚も。感覚という感覚、思考の糸の一本一本。
全てが白く浸される。考える余裕も考える気もなかった。身体が動く。不随意だ。
もはや自分のコントロール下にない己が肉体だったが、それをどうにかしようと
いう気はない。それはある種の既視感、或いは予感。
鉛のように重かった身体がゆらりと持ち上がり、小振りな兇器を拾い上げる。
何も考えなかった。
ふわふわと、頭の中が柔くてわけの解らないもので満たされる。
プロセスは簡単だ。利き腕が無事であるなら尚更。
まっさらな世界の中で、今度は違う声がした。曰く『大丈夫だよ』と。何が大丈夫
なんだ、と少し思ったが、考えるのが面倒になってこちらはあっさり放棄する。
もうどうでもいい。ああ、でも、どうでもいいって言うと語弊があるか―――
振り上げて、振り下ろす。
ああ、簡単、だ。
65542(5/5):2005/06/18(土) 00:18:48 ID:O6pZAuHr0
痛覚が完璧に壊れたらしい。
痛みはどこかに散逸し、代わりに温くて激しい熱さが隅々まで行き渡る。
「―――」
音が聞こえない。聴覚も壊れたのか?
「―――」
いや、本当はきっと聞こえている。聞きたくないと思うから聞こえないだけだ。
オレの身体が、勝手に聞こえないフリをしているんだ。いつものビョーキだな。
「っあ゙……、あ、ぁ!」
ほら、ちゃんと聞こえるじゃないか。嘘吐きめ。我ながらホントに困った奴だ。
まーた矢野に説教されるぞ―――
「この、っ、!!」
アッちゃん、怒ってるなぁ。
いや、怒らせるつもりはなかったんだけど、でも仕方ないじゃないか。
もう何か、イヤになっちゃったんだから。
そういう時ってあるだろ?ピンと張った糸がプツっと切れて、その後の反動が
凄くて、わけが解らなくなっちゃうって事。誰だってあるだろ?
オレさ、今、現実を見たくない気分なんだよな。
これ以上この続きは見たくないんだ。
仕方ないだろ?もう、ホントにちょっと疲れちゃったんだから。
だから許してくれよ。もういいだろ?一息ついてもいいだろ?
な?
だから、もう―――
「……疲れた、なァ……」
限界を超えるという事はつまり、壊れるという事だ。
その論理で行くと、藪は今まさに壊れようとしていた。誰が壊したわけでもない、
しかし確実に崩壊の連鎖を惹き起こし、彼を構成する回路がめちゃくちゃに
破壊されてゆく。元に戻るかどうかは神様の気まぐれ次第だ。あっさり修復され
るか、それとも足の下で踏みつけられ、粉々になって風化してしまうか―――
致命的な事に、処方箋を書ける人物は幾人もいない。

【残り41人】