イヤッッホォォォオオォオウ!ジャンパイア2 2005

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63こぴぺ
威谷都方(いやつほう)

漢代、西域の威谷(いや)に威谷都(いやつ)という城塞都市があったという。
残念ながら現在のどこにあたるかは不詳であるが、香阿府(かあぷ)と並ぶ異民族
の都市で、数人の留位親(るいしん)という特殊な役職の者により統治されていた。
しかし、香阿府人の人柄が「剛直にして情に厚い」(班固評)のに対し、
威谷の人間は「悪事を好み、蛇矛牌屋(じゃむはいや、>>29参照)が多い」(同上)
という。代表的な逸話を紹介しよう。
香阿府の佗何覇(たかは、字は子建(しけん))は非常に優れた商人で、威谷都での
取引では多くの儲けを得ていたという。彼の名は留位親たちにも知れ渡っており、彼
らの間ではいずれ排除せねばならない存在であった。威谷都で佗何覇が鬼世陣(きよ
じん)出身の商人と取引していた時、田丹(たに)という留位親が佗何覇に向かって
「今、商品の刃物の刃先をこちらに向けた」と言い、手持ちの金品を没収のうえ追放
した。寒風吹きすさぶ中、佗何覇は威谷都には蛇矛牌屋がいる、という意味で「威谷
都方蛇矛牌屋(いやつほうじゃむはいや)」と言い残し薨れたという。さらに、留位
親たちは威谷都にいた香阿府の人間全員から罰金徴収に踏み切ろうとし、反抗した阿
羅亥(あらい)を全財産没収のうえ追放にした。彼も同様に「威谷都方蛇矛牌屋」と
言った。一大事とみた香阿府の有力者、費射子(ぴいこ)は留位親たちに苦情を言お
うとしたが、威谷都からは門前払いを受けた。香阿府の人々は、香阿府の武術の教師
である師乙(しいつ)に懇願した。「威谷都方の蛇矛牌屋をなんとかしてください」
師乙はすぐに威谷都に赴き、「威谷都方蛇矛牌屋!」と叫びながら留位親たちを葬乱
(ほうむらん、>>37参照)したという。それは6月5日のことであった。
以降、「威谷都方蛇矛牌屋」は「卑怯者」の意で使われるようになり、短縮されて
「威谷都方」と言われるようになった。

(民明書房刊『感情に合わせて叫ぼう中国語入門』(卑怯者に会った場合) より)