(2)それでもバットを振って、出番を待ち続ける
昨シーズンの成績は思い出したくもない。出場した試合はたったの35試合。
生え抜き選手としてはチーム初の金字塔となる2000本安打まで99本から始まった数字は、
たったの20本しか減らすことができなかった。
「けがもありましたし。でも、納得できるはずはありませんよ」。
決してタイトルを奪取するようなホームランバッターではないが、
肩の故障で1年間を棒に振った92年(出場1試合)以来、本塁打は「0」だった。
「それも結構ショックなことですよ」と田中幸は振り返った。
すべてが最悪な年だった。試合途中に出場し結果を残すタイプではなく、
長年、スタメンで出場しレギュラーを張ってきた。
もちろん、チームを継続的に強化していくには若手の台頭が必要だし、起用することはもっと大切になってくる。
出番が激減したここ2年間は、常にスタメンに名前を連ねた自分と、
ベンチを温める自分の姿がぶつかり合う日々でもあった。
大好きな野球をやる上で葛藤が生じるのは、プロであるがゆえ。
だが、人生の半分以上を過ごしてきた世界で、いつも心掛けていることは
「チームのために自分は何ができるか」だった。
ベンチに座っているだけでは、プラスになることは少ない。
以前から「バッティングはフィーリングがいいと思っていても、実際には結果が出ないことも多い」というのが持論。
ベテランは機転を利かし、ベンチ裏で選手たちが素振りなどをするミラールームへと歩む。
19年間にわたり培ってきた経験と、ゲームの流れを読む感覚。ブン、ブン、ブン―。
試合前の練習中に打撃ケージ付近から聞こえる乾いた音は、試合中でも途切れることがないという。
内角、外角、変化球と、さまざまなボールを想定して振り込む。
正面から、そして横向きになってスイングプレーンを確認し、
いつ出番が来てもいいようにスタンバイする。「じっとしているとダメなんです」。
誰にも負けないぐらいに、バットを振り込んできた証しが、両方の手のひらに無数にある。
素振りダコや、時には痛みが伴う突起物もできる。
樹木に年輪があるように、彼の両手には喜びと悔しさを物語る宝物≠ェ、しっかりと刻まれている。
(3)「あの経験がなければ今はない」
昨年10月、ファイターズは85〜88年まで監督を務めた高田繁さんにGMの重責を任せた。
現役時代はプロ野球史上最強軍団、破竹の9連覇を達成した巨人で不動の左翼手だった。
そして、ファイターズの指揮を執った3、4年目にはチームをAクラスに引き上げ、
球団初の観客動員200万人突破(245万8500人)という実績を残した。
監督1年目のオフに、ドラフト3位で指名し、ルーキーから一軍の試合を経験させるなど、
そのメガネにかなった選手こそ田中幸だった。プロ初出場となった86年6月1日の対南海戦(後楽園)。
9番ショートとしてゲームに臨み、五回に放った初安打が初本塁打となった。
2年目の後半戦からは定位置のショートでさらに出番が増え、3年目にはフル出場した。
10代の選手を使うには、それなりのリスクも伴う。しかし、高田監督は使い続けた。
田中幸は振り返る。「正直、(高田)監督とはあまり話をした記憶がないんです。
若造には遠い存在でしたし。ただ、出るんだからガムシャラにやっただけですね。
普通だったら、実績もない人間を使わないでしょう。
一つ言えるのは、あの経験がなかったら今はないってことです」。
当時は田中という姓がチーム内には多かった。また偶然ではあるが、
ノーヒットノーランを達成している田中幸雄投手(現編成部スカウト)とは同姓同名。
190センチを超す長身の幸雄投手がいるばかりに、若い田中幸は「コユキ」と呼ばれた。
だが、その末っ子≠ェみるみるうちにファイターズの看板選手に育っていった。
「だけど、自分のエラーで負けた試合は数知れない。野手もそうだけど、
投手陣なんて大先輩ばかりだから、針のムシロ状態なんてたくさんありましたよ」
時代は流れて、田中幸は今年20年目を迎え、選手で最年長となった。
2000本安打という金字塔を前に、高田GMは
「プロは成績を出してナンボ。幸雄の記録はもちろん球団挙げて達成させたい大きなものだが、
チャンスは自分でつかむもの。まだまだできる選手だと思っているよ」。
いくらミスターファイターズと呼ばれようが、高田GMからみれば、田中幸はいつまでたっても泥だらけの若アユだ。
再び同じ釜の飯を食うことになった二人。師匠はまな弟子に愛情あふれる喝≠入れた。
(4)後輩が尊敬し、あこがれる存在
20年目を迎える現役最年長選手に、若い後輩たちは常に尊敬の念を持ち、あこがれのまなざしで見つめている。
「自分はガツガツ言ったり、引っ張っていくタイプじゃない。どんな風に見られているかなんて、考えたこともないですよ」
と田中幸。昨年はふくらはぎを痛めるなど、ファームでの長い調整を余儀なくされた。
若手育成の聖地でもある千葉・鎌ケ谷に、連日のように通う姿は、やはり不釣り合い≠ナはあった。
だが、若手にとって田中幸は、数々の記録を残してきた生の見本でもあった。
若手はその一挙一動をつぶさに見つめた。また田中幸も気軽に若手に声を掛ける。
聞かれれば、体を使って教える場面もよく見られた。
ファーム担当の太田マネージャーは「もちろん、幸雄さん自身にとって、
ここ(鎌ケ谷)にいることはいいことではないですよね。でも若い連中にしてみたら、
グラウンドに一歩足を踏み入れたところから、すべてがこれ以上ない教材なんだと思います」と話した。
投手陣の大黒柱として君臨する金村も言った。
「絶対に優勝して、札幌ドームで胴上げをやってみたい。
僕自身は、ここまでチームのために尽くしてきてくれた幸雄さんを、何度も何度も胴上げしたい」。
入団した時、すでにスターだった田中幸の背中を見て、金村は育ってきた。
ポジションは違っても、プロとしての重みとは何か、そして練習することがどれだけ大切なのかを、背番号6に学んできた。
後輩たちが先にプロの世界から去っていく姿も、田中幸は数多く見てきた。
同じバットマンで昨シーズン限りで退団した藤島もその一人。
「あいつの打撃は本当にすごかった。できれば、代打などの道を究めてほしいと思ったけど、
自分が思っただけではどうにもなりませんから」。田中幸は寂しそうにつぶやいた。
昨年12月、タクシードライバーに転身した藤島の送別会を、仲間内で盛大に開催した。
飲んで歌って、後輩の新たな門出を心から祝い、送り出した。
「絶対におまえの車を使うからな」。そう声を掛けた田中幸は毎年、球団と契約できる幸せと、その責任の重さに襟を正す。
(5)空から見守る兄と弟
宮崎県都城市で生まれ育った田中幸は、小さいころから大きな病気やけがとは無縁だった。
早くから野球に親しみ、地元都城高では2年の春、夏と甲子園に駒を進めた。
そして「3年生の時に大沢さんが直接、学校の方へ見に来たみたいなんです」。
県内はもちろん、九州でも屈指の高校生として知れ渡り、プロ3、4球団から熱視線を送られた大型内野手だった。
ファイターズを語るとき、絶対に忘れてはならない
親分£シ々の訪問を受けたことで、田中幸の道は決まったのかもしれない。
「本当にここまで自分は運だけですから。
運がなければレギュラーだって取れなかったでしょうし、プロにもなれなかったんじゃないですかね」
そんな田中幸が持つ運。それを支える星が二つ、背番号6を見守っている。田中幸には、健在な姉のほかに兄、弟がいた。
兄は生後1週間でこの世を去り、また二つ下で誕生した弟は4歳の時に脳腫瘍で短い人生を閉じた。
「兄のときは話しか聞いたことがないが、弟のときは病院行ったりしましたから」と、つらい過去を話してくれた。
今でも年末年始に帰郷したときには、必ず墓前に手を合わせる。
「健康にここまでいい人生を送ってこられたのも、二人が守ってくれているからだと思いますよ」。
絶対に1日、1時間たりとも無駄にできるわけがないのだ。
昨年は長年飼ってきた2匹の愛犬が8月、9月に相次いで死んだ。
田中幸だけではなく、妻の千恵子さんも失意のどん底に。
「一緒に暮らしてきたわけですから家族と同じです。ショックでしたけど、今年守ってくれているような気がします」。
20年目に突入する大ベテラン。実績がすべての世界で、それだけの年数を運だけでは到底生き抜いてこられない。
持ち前の技術に人の痛みや苦しみ、また人を敬う気持ちがあるからこそ、第一線で働き続けてこられたのだ。
野球ができる幸せを心から感じている。だからこそ、やり遂げなければいけないことがまだ山ほどある。
田中幸は重荷には感じていない。ただ一生懸命にやれば、必ず野球の神様はほほ笑んでくれる。
そして二人の兄弟、家族だった愛犬たちが温かく見守り、田中幸の向かうステージを照らし続けている。
(6)ゴルフもトコトンこだわる 球界でトップクラス
「幸雄さんの徹底ぶりはものすごいですよ。
野球の世界であれだけの実績を残してきた裏付けはしっかりと(練習内容などに)表れていますからね。
また、趣味なんかにしても中途半端じゃないですから」と言うのは、
田中幸とともにファイターズ内野陣の先頭に立つベテラン奈良原。
多くのプロ野球選手はシーズン中にはできないゴルフを、オフの間に堪能する。
田中幸もその一人だが、腕前はチームではナンバーワン。
球界の中でもトップクラス。70台のスコアは当たり前だ。
「始めたのはプロに入って3年目ぐらいです。最初は見よう見まねでやってみたんですけど…」。
特別にティーチングプロに教わったわけではなく、すべてが「自己流」と話す。
184センチ、91キロの恵まれた体格。
まるで超合金が埋め込まれているのではと思うぐらいの肉体から生み出される飛距離は半端じゃない。
ドライバーなら300ヤード超、3Wでも「280ぐらいですかね」と涼しい顔で話す。
たぐいまれなヘッドスピードから、ボールが悲鳴をあげそうになるほどの衝撃音を残して生み出される打球は、
いつまでたっても飛び続けている。また、ショートゲームもお得意だ。
「去年、今年とゴルフの回数は半減してますよ。でも、練習は野球同様に好きなんです。
思い立ったらすぐに(練習場へ)直行しちゃいます」。こんなことがあった。
あるオフの日に家でノンビリと過ごし、そろそろ寝ようかなと床に就こうとした。
しかしそのとき、ふっとゴルフのスイングなどを考えた途端、夜の11時ごろから練習場へ向かった。
「最低でも300球ぐらいは打つ」と田中幸。
むやみやたらと打ち込むのではなく、一通りなじんだころにはラウンドしたコースなどを思い浮かべながら、
戦略とともに番手を変えて打っていくこともよくやるという。
さまざまな思いを巡らせながら数を重ねるのは、野球の練習やゲームにも通じるものだろう。
「帰ってきたら明け方の4時近くでした」。
トコトンこだわり、トコトンやり抜く。その強固な姿勢が彼のバックボーンにあることは間違いない。
(7) 「絶対に、必ずやり遂げなくては」
青空が広がる沖縄・名護。プロ入りしてからずっとここで<Vーズンの第一歩をしるしてきた。
田中幸雄という選手の喜怒哀楽を知っていると言っても過言ではないのが名護球場だ。
フラフラになるまでノックを受けたことがあった。手のひらに痛みを感じながらも、必死にバットを振り込んだときもあった。
また、キャンプの半分以上が雨にたたられ、カッパを着ながら外野を何往復も走り抜けた日もあった。
田中幸は「ここまで来られたのは運」と片付けるが、半面「やるべきことはやってきた」という自負は強い。
その名護球場で田中幸は静かに口を開いた。「絶対に…、必ず(2000本安打は)やり遂げなければいけないですね」。
これだけ真正面から「欲」をあらわにした田中幸はいただろうか―。
球団の生え抜き選手としては初の金字塔まであと79本。彼の記録はそれだけではない。
300本塁打まであと23本。1000打点まであと19打点。
すべて達成可能な数字だが、それには試合に出続けることが必要なのは本人が一番分かっている。
ここ1、2年の役割からすると、全試合出場は難しいかもしれない。
だが、肉体的には若手の中に入っても見劣りしないし、
過去88〜91年の4年連続全試合出場を含め、548試合連続でゲームに出続けた実績もある。
田中幸は挑戦する覚悟でいる。「どこでも守るし、いけと言われれば準備は万全に整えておく」。
そして、ヒルマン監督が、20年目の大ベテランをいかに起用するかにも注目が集まる。
もう一つ、どうしても欲しいもの、それは優勝だ。93、96、98年と3度の2位は経験している。
また、昨年はプレーオフにも進出した。田中幸は「チャンスがあった年もありましたけどね。
やっぱりこの世界は勝たなければダメなんですよ。現役の間に1度は優勝してみたい」。
移転元年の昨年、普段はあまりサインの横に言葉を書かない田中幸が、新年最初の色紙に「夢」と書いた。
それだけ新天地に込めた思いや、自らが戦う場所として選んだ土地に懸けた夢は、大きかった。
38歳になる今季は、どんな言葉を掲げているのだろうか。
ミスターファイターズ、その重みを一番感じているのは田中幸自身なのだ。
岩本 勉編
(1)男泣きのお立ち台
涙で顔をクシャクシャにしたガンちゃんがいた。
昨年4月17日、東京ドームのお立ち台で岩本が声を震わせた。
「まいど!」。4万2000人の前で叫ぶ決めぜりふ。
ロッテ・黒木に投げ勝って、02年4月12日の近鉄戦以来736日ぶりの勝ち星を挙げた。
「ファンの人がフェンスにしがみついて涙流してて。チームメートもベンチに残っててくれて。
ファイターズで良かったと思った瞬間、込み上げてきましたわ」。
2年連続開幕完封勝利の偉業を達成したことのある元エースの復活を、誰もが予感したに違いない。
だが、岩本が再びお立ち台に立つことはなかった。続く4月24日のダイエー戦から5連敗。
6月10日にファーム降格すると、昇格チャンスはもう巡って来なかった。
「運もなかなか味方に付けられず、えらい早い尻すぼみしてしまいましたわ」と自嘲気味に笑った。
初登板が、困難なシーズンを暗示していたかもしれない。チームが開幕3連敗で迎えた3月30日のオリックス戦。
万全の調整で臨んだ試合が雨天で中止。誤算だった。
翌日、ナイターでのスライド登板が決まり、室内練習場でブルペンに入った。
そしてホテルに戻ると、部屋から一歩も出なかった。
「1日静養しよう思ったら、次の日、体がボケて動かんかった。
パチンコでも行って、体を動かせば良かったんやけど…。ここ(指先)の1センチは、向こう(ホームベース)の15センチやから」。
右手を見つめながら、調整の失敗を悔やんだ。
移転1年目の歴史的な1勝を託されて登ったマウンド。
いきなり右前打を許すと、この回4安打で4失点。
三回途中で降板するまでに計7安打を打たれ、6点を失った。
オープン戦は4試合に登板して2勝0敗、防御率2.25と抜群の安定感を示して、
ローテーション入りを勝ち取った。24時間の時差が、絶好調の岩本を狂わせた。
スライド登板に始まり、打線の援護に恵まれない不運も続いた。
「でも、内容はどうあれ勝たないと、世の中、肯定してくれへんから。新監督を迎えて2年目。
もう一度岩本と言ってもらったんやけど、うわさ通りの普通のピッチャーと思われたんちゃうかな。
光るアピール度、納得させる力が、僕になかったんやと思います」。
1勝6敗、防御率6.16に終わった04年を冷静に振り返った。
だがシーズン中、ファームで投げる岩本には、ある思いが芽生えていた。
(2)衝撃の移籍志願→チーム残留で決着
「このまま線香花火で終わりたくない!」。
炎天下のファームで黙々と投げ続ける岩本の闘志は、メラメラ燃えさかっていた。
昨年6月10日に降格して以来、若手に交じって復活を期した。
決して腐らず、中7日前後でマウンドに登り、一軍から声が掛かるのを待ち続けた。
だが、呼ばれることはなかった。
最後のチーム練習を終えた10月7日、真っ黒に日焼けした岩本の口から飛び出したのは、衝撃的な移籍志願だった。
「まだまだできるし、僕を必要としてくれるところでやりたい」。三沢今朝治チーム統括本部長(当時)にも直接訴えた。
球団は無償トレードも視野に入れ、岩本の希望をくむことを約束した。
この3年間でわずか2勝。02年1勝、03年0勝、04年1勝と不完全燃焼が続いていた。
02年4月に襲った右ひじの故障が、つまずきの始まりだ。
シーズン中に初めて経験するけが。病院を何軒も回り、
そのたびにメスを入れることを勧められたが断り、痛み止めの注射に頼るしかなかった。
「これ以上打ったらアホになるよ、と先生からいわれるくらい打ちました」と岩本は笑う。
時間とともに痛みはなくなり、意欲満々で臨んだ翌03年の名護キャンプ。
外国人新監督の前では、5度の開幕投手も務めた名前≠ヘ通用しなかった。
開幕ローテ入りを逃すと、不慣れな中継ぎに回り、結果を出せずに5月に降格した。
無駄な3年間ではない。03、04年は、猛暑の中で故障もせずに投げ続けた。
球速も140キロ超を維持。
「猛暑と闘って、ちゃんとクリアできたのは自信になった。
体力的には今が一番馬力あるんかなと思います。
スピードは落ちてないし、球質も一番いいデリケートさを持っとる」。
だから周囲でささやかれ始めた引退≠フ2文字は、全く念頭になかった。
移籍話はなかなか進展せず、オフは苦悩の日々。
ひたすら電話を待ち、呼び出し音が鳴るたびにドキドキした。
「今だから言えますけど、毛が抜けるんじゃないかと思いました。気が気じゃなかったですよ」。
最終的にはチーム残留で決着した。
「今思えば、新球団だったらファンにも納得してもらったかもしれんけど、
ほかの球団ならピンとこないのかなと。野球の神様が一番環境のいいとこ選んでくれた。
まだ恩返しが足らんと言ってるのかと思ってます」。完全に吹っ切れた岩本の笑顔は晴れやかだった。
(3)今年こそ、札幌で叫んでみせる
「まいど!」。お立ち台で名物になった決まり文句は、2年連続2ケタ勝利を挙げた99年に誕生した。
神戸での試合前、ジョギング中の岩本に「毎度毎度よく来てくれるなー」と声を掛ける男性がいた。
翌日、お立ち台の岩本に向かって、その男性が「ガンちゃん、毎度!」と叫んだ。
岩本は思わずスタンドに叫び返していた。「ありがと! 毎度おおきに!」。
この場面がテレビで使われて定着した。「1、2、3、まいどー」。東京ドームで叫ぶと、どっと沸いた。
名物になり、グッズもできた。ファンとの対話で生まれた決めぜりふ。ファンを大切にする岩本らしい。
当時は、人気、実力とも押しも押されもせぬ大黒柱だった。
99年には史上2人目の2年連続開幕戦完封勝利の偉業を達成した。
98年11勝、99年13章。オールスターにも98年から3年連続出場した。
「過去の話ですわ」。復活の糸口を探る岩本はサラリと言う。余韻に浸る余裕はない。
「自分が一番投げやすい先発ならうれしいけど、言える立場ちゃうから」と、今季は先発でも中継ぎでも何でもやる覚悟だ。
山梨県笛吹市で始めた今年の自主トレには、巨人・清原和博と同様の金髪で臨んだ。
「泥水を飲む覚悟」と言った清原に対し、同じ大阪人の岩本は
「泥水どころか、泥の下まで行ったろという気持ち」と言う。ここ3年間で2勝に終わり背水の陣。
「プロになると決め、両親や周りの人の協力でなったんやから、その人たちの期待を裏切りたくない」と決意を語る。
「プロ野球選手になる」と両親に宣言して、小2で野球を始めた。
父・龍政さん(56)は「そんなら、毎日走れ!」と激励。
小3から、朝と晩10キロずつ毎日20キロを一人で走った。
「誰よりもケツが大きなった。走りながらいろんなことを考えて、忍耐力がついたような気がします」と懐かしむ。
巨人の江川卓投手にあこがれた。84年オールスターでの8者連続三振は、テレビに
かぶりついて見た。「真ん中来ると分かっていても打てない剛球と、目が動くくらいのドロップカーブ。
ピッチングスタイルが大好きでした。ぼくの投げ方、どことなく似てません?小さい時からマネしてきましたから」と笑う。
子供のころから、一本気に投手にこだわってきた東京ドームのエース。
ファンも待ち望む札幌での「まいど!」を、今年こそ叫んでみせる。
(4)球団社長に直談判した エース番号
「来年も18番を付けさせてもらえることが素直にうれしかった」。
昨年12月に契約更改を済ませた岩本は、感慨深げに語った。
背番号18。95年オフにこのエース番号をもらうまでには、波乱のドラマがあった。
入団時の背番号は20。腰痛で登板機会のなかった3年目の92年オフ、60番台への変更を言い渡された。
「やんちゃだったんやね。じゃあ、僕辞めます、と言って電話を切ったんです」と岩本は笑う。
翌日、球団から電話が来た。新人王を争った片岡篤史内野手が38から8に変わることが決まっていた。
「その38を付けて、もう1回やり直せ」と言う妥協案だった。
「じゃあ、僕が一軍のピッチャーになったら、その時はもう1回20番を付けさせてください」。
血気盛んな21歳は、怖いもの知らずで自己主張した。
背番号を発奮材料にして、95年に初勝利を含む5勝を挙げた。
規定投球回数をクリア、防御率3.07で10傑入り。オフに満を持して背番号話を切り出した。
20番は外国人外野手のデューシーが付けていた。空いている10番台は、FAで巨人に移籍した河野博文投手の18。
「自分に付けさせてください!」。当時の小嶋武士社長に直談判。
契約更改を終えて、社長室に行くと小嶋社長は言った。
「18の意味、分かってるな。腹くくってやれよ。おまえにやる」。
退団まで口にし、自分にハッパを掛け、たどりついたエース番号。ふさわしい男になろうと誓った。
翌96年に初の開幕投手となり、10勝をマーク。
シーズン終了後に「18番が似合ってきたな」と小嶋社長から掛けられた言葉がうれしかった。
プライドと愛着のある背番号だが、チームのためなら譲る覚悟もあった。
当時、横浜高の松坂大輔投手の争奪戦が繰り広げられていた98年オフ。
松坂の好きな番号が18と聞いた岩本は「彼がどうしても欲しいと言うなら、いいですよ」と語った。
「鳴り物のピッチャーに、やらん言うたら水差すでしょう。
それで彼がアメリカとか大学行くと言ったら大変なこと」と日本球界のことを考えての発言だった。
三沢今朝治社長補佐は「あの時は感動したよ。本当に球団に愛着を持ってくれている選手」と賞賛する。
プロ16年目を迎えるシーズン。岩本はあらためて背番号に誓う。
「18番にふさわしい成績と行動を心掛けて頑張ります」。
(5)完全復活して宮本スカウトに恩返しだ
一軍で活躍する前に、球界から去っていたかもしれない。94年、首脳陣にたてつき、自ら退団を宣言した。
「よく、へそ曲げて辞める人おるでしょう。もうちょっとで、それになってましたわ」と最大の転機を振り返る。
ファームで結果を出し、昇格が見えた5月、新外国人獲得で一軍枠から外れた。
前半戦の昇格が不可能になり、当時ファーム監督だった種茂雅之さんに1時間も猛抗議。
帰寮後にもう一度、監督室を訪ねた。「実力の世界やというて入って来たのに、
若いからということで名指しされたんは納得いかん。誰が言うたんですか。明日、東京ドームで聞いてきますわ」。
さらに翌朝。再び監督を訪ねた。「やっぱり、納得いかん。自分は今すぐ一軍で投げられる自信あります」。
まくし立てる岩本に、種茂さんは「オレの力不足や」と頭を下げた。だが、もう収まりはつかない。
「分かりました。僕もガキですけど、意地があります。辞めます」と宣言。
両親にも「辞めたから、明日帰る」と電話を入れた。
その日の午後、荷物をまとめていると、担当だった宮本好宣スカウトから電話が入った。
電話口から聞こえてきたのは、予想に反した罵倒の嵐。
「おまえ、一軍で勝っとるんかい!何プロ野球選手のツラしとんじゃ!
辞めんのやったら辞めろ!おまえなんか、野球やるのが恥ずかしいわい!
ワシはそんなん思って入れたんちゃう!おまえの性根は何なんじゃい!」。
目からウロコだった。「あまりにも的を射ていて、自分の幼さ、未熟さが悔しくて、
涙ボロボロ出てきて、思わずスンマセンと言葉が出ました」と岩本は話す。
翌日から心を入れ替え、グチは言わず、黙々と練習した。
6月にイースタン3完投、2完封の活躍でMVP受賞。7月に40人枠入りし、一軍昇格した。
7月に宮本さんと再会すると、二人は黙って泣いた。
「宮本さんがいなかったら…。そういう約束、きずながあるから、
いろんなことがあっても普通に白い球を握ってマウンドに立てるんです」。
だから、体がボロボロになるまでは、辞めると言いたくない。
「最後はみっともないくらい、野球選手にこだわろうと思います」。
単なる現役続行で終わるつもりはない。完全復活してこそ、恩返しができる。
「復活言うたら、規定投球回数投げて2ケタ(勝利)やと思う。絶対にやります」。
970 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 10:43:20 ID:JNqFezbV0
埋め
今ならいえるぬるぽ(゚д゚)ウマー
ファンタスティムポ
973 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 11:36:35 ID:faduucjA0
○小笠原、スカパー「LOVE BASEBALL!」キャンペーンCMに起用
合言葉は「LOVE BASEBALL!」。
沖縄・名護で先乗り自主トレを行っている小笠原道大(31)が29日、
選手会とスカイパーフェクト・コミュニケーションズが手を組んだCM撮影に臨んだ。
選手会からの出演は会長の古田、礒部、そして小笠原の3人だけ。
特に小笠原は道内向けバージョン用の出演となり、“北海道の顔”はやっぱり今年もガッツで決まり!
昨年、パ・リーグ全試合を放送し、今季もよりプロ野球を重視しているスカパーと、
プロ野球をもっともっと盛り上げていこうというプロ野球選手会が合致したコラボレーションキャンペーン。
「LOVE BASEBALL!」のスローガンを掲げ、
「昨年盛り上がった北海道と、今年大いに期待される仙台バージョンを考えた」と日本プロ野球選手会関係者は明かす。
選手会会長の古田、新規参入を果たした楽天・礒部が出演する全国用のほかに、仙台用、
そして昨年もスカパーCMを経験済みのガッツ出演による“北海道限定”の3バージョンが制作された。
CM撮りは、練習後、名護市内の体育館を貸し切って行われた。
スチール撮りでは、スカパーのアンテナをグラブに見立てて、ダイビングキャッチでもしそうな格好のカットも。
「普段、背筋なんかそうやらないから、一番ハード」と苦笑。
しかし、メッセージでは、ほとんどが一発OK。本番での強さを見せつけた。
「本職じゃないんで…。いつまでたっても慣れないし、うまくいくわけがないよ」。
だが、昨年からCMなどに引っ張りダコの小笠原、貫禄の1時間半だった。
「起用されたのはたまたま選手会長だからだよ。
『LOVE BASEBALL!』はいいんじゃないですか?みんなのプロ野球なんだから」。
CMはスカパー、地上派で2月10日から放映される予定。
ファイターズの顔は、今や北海道の顔。きょう自主トレを打ち上げるが、一足早いユニホーム姿がやっぱり一番カッコいい。
974 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 11:45:49 ID:faduucjA0
ヒルマンが今大泉洋とCM撮りの真っ最中らしい
アナ「コンサドーレ札幌がセレッソ大阪と試合することになったらどっちを応援しますか?」
日本ハム社長「その場合には逃げますね…ハハハハハ」
>>976 (´-`).。oO(三木谷に「ベガルタ仙台とヴィッセル神戸が試合をすることになったらどっちを応援しますか?」
って聞いたら何て答えるんだろう・・・?)
>>977 ファンクラブ会員にはサービスして欲しいね
982 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 16:45:22 ID:syCR7x9Q0
アナ「ウンコドーレ札幌がセレッソ大阪と試合することになったらどっちを応援しますか?」
社長「ありえませんな・・ウンコドーレは消滅5秒前ですから・・ははは」
983 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 16:54:01 ID:a8E9nbOB0
984
985 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 19:33:55 ID:6S5YeJjo0
うめー
986 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/30 21:59:20 ID:5StOJBo90
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γ ⌒ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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(__) \__つ
広報(;´Д`)ハァハァ
989 :
代打名無し@実況は実況板で:05/01/31 00:28:06 ID:kwSxIIja0
>>986 (・∀・)サテオシゴト・・・ ε三三三三(; ・∀・)鯖マデオツカイ
( ・∀・) 鯖カラヘンジ(・∀・ ;)つ□ 三三三三3
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じゃあそろそろ埋めるか
1番 センター SHINJO
2番 セカンド 木元
3番 サード 小笠原
4番 ファースト セギノール
5番 指名打者 オバンドー
6番 キャッチャー 高橋信
7番 レフト 小田
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。