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代打名無し@実況は実況板で:
Yomiuri Onlineより転載・・・
日本を出発する直前、長嶋茂雄監督(68)から24人の選手それぞれに個別のメッセージが託されていた。
松坂大輔は五輪直前のイタリア合宿中も、アテネの選手宿舎でも、一語一語に長嶋監督の思いが込められた1枚の便せんを
部屋に飾っていた。
グラウンドに出発する前、そのメッセージに向き合い、監督と“対話”した。「いつも一緒に戦っています」――。
痛恨の106球目だった。六回二死一、三塁、5番打者スターキングマンへのスライダーが甘く入った。鋭いライナーが
右前に飛んで、適時打となった。味方打線が好機を作りながら、決定打を欠いて相手投手を攻略できない重苦しい展開の中で
絶対に許してはいけない先制点を失った。この責任は極めて重い。
17日の1次リーグ、キューバ戦で打球を受けた右上腕部はどす黒く変色したままだった。まだ痛みの残る腕を、松坂は振り切った。
初回は3者連続三振で切って取った。150キロ台の速球も走ったが、変化球もまじえて、豪州の強力打線に狙い球を絞らせない
頭脳的な投球だった。特に鋭い曲がりのスライダーが狙ったところに決まり、五回までに毎回の10奪三振。しかし中盤の踏ん張り所で
1度だけ取り返しのつかない、許されない失投が出てしまった。
八回二死、この試合5本目の安打を許したところで、ベンチから大野豊投手コーチ(48)が飛び出した。リードを許したままの、屈辱の
降板だった。コーチの慰めの言葉も、場内で流れる音楽も、そしてエーゲ海から吹き付けてくる風の音も、何も聞こえなくなった。
能面のように硬い表情でベンチ裏のロッカールームに1人で消えていった。
タイトルというタイトルはほとんど手に入れた球歴の中で、ただ一つ大きな“宿題”を残していたのが五輪のマウンドだった。
2000年シドニー五輪でメダルを逃した悔しさだけではない。松坂は「あの時は、自分の力のなさを思い知らされた。この舞台で通用する
投手になりたいという思いで、ずっとやってきた」と話していた。
「君こそ、ジャパンのエースだ。頼んだぞ」。長嶋監督はメッセージの中で、松坂にそう託していたが、松坂はその思いに泥を塗った。
五輪の大一番をエースで失い、長嶋ジャパンの金メダルの夢がついえた。(津崎 勝利)
松坂が悪いんですかそうですか。