カイコスターズ発足の数ヶ月前、
アテネオリンピック、オーストラリアが日本に2連勝した影には、2人の日本人捕手の活躍があった。
7月10日、ナゴヤドームでのオールスターゲームの当日、自宅で他球団選手の研究に勉めるプロ野球選手がいた。
後に、『カイコスターズの良心』と呼ばれることになる心優しき男、中日ドラゴンズの中野栄一捕手である。
1塁手へのコンバートや、今年限りでの解雇を噂される身でありながら、彼の研究意欲はいささかも衰えることはない。今日は日本シリーズの出場をにらんで、パリーグの選手のビデオを見ながらメモを取っている。
「次は日本ハムか。プレーオフがあるから、もしかしたら出てくるかもしれないな。」
「ええっと、最初は高橋信二か。打撃はすごいが、リードはだめだな。キャチングはさらにひどい。」
「山田勝彦。ああ、懐かしいなあ。今は日本ハムにいるのか。」
「中嶋聡。これまた、大ベテランだな。ベストナインに、ゴールデングラブか。」
「次は、実松一成か。おお、なかなかいいリードをしてるな。キャチングもうまいし、スローイングもいいな。何でこんないいキャッチャーが控えなんだ?]
[うわっ、なんだなんだこのバッティングは。うちの幕田君も相当なもんだが、実松君はさらにすごいな。これじゃあ、ちょっと使えないよな。もっとも、うちの落合監督ならわからんけども。」
「あなた〜、電話よ。」
「誰からだい?」
「なんか、外人さんみたいなのよ。ビンゴ!ビンゴ!とかグッダイ!グッダイ!とか言ってるんだけど。」
「誰だろう。アア、ハロー、ハロー。ディスイズ、ナカノエイイチ、スピーキン。」
「グッダイ!エイイチ。ディスイズ、ディンゴ。やっとかめだなも。」
「オオ、ミスターディンゴ!やっとかめだなも。」
「ナンヤラ、カンヤラ、ペラペーラ…。」
「オオ、ヤァ。ナントカ、カントカ、ペラペーラ…。」
「あなた、誰だったの?あなたが英語がしゃべれるなんて知らなかったわ。」
「ほら、4年前に中日にいたディンゴだよ。シドニーオリンピックに出るために日本に来た。打てない、走れない、守れない、やる気もない、4拍子そろったお荷物選手。」
「あのときに球団から彼の世話を頼まれてね。ほら、俺は頼まれたらいやとはいえない性格だから。それで、ずっと一緒にいるうちに自然に英語がしゃべれるようになったんだよ。」
「でも、彼の英語はオーストラリア訛りがひどかったからね、アメリカ人選手に話しかけるとすごく笑われちゃうんだけどさ。」
「彼、今、名古屋空港に来てるらしいんだ。ちょっと迎えに行ってくる。夕飯は、いらないから。」
「グッダイ、ディンゴ!わざわざ日本まで来て、日本代表とキューバの偵察かい?オールスター見にいきたいんだろ?チケットはあるのかい?
「オールスターのチケットは出場選手しか貰えないんだよな。岡本に頼んでみようか?どうしたんだよディンゴ、なんか深刻な顔して。」
「中野さん。4年前のシドニーオリンピックで、私は非常に悔しい思いをしました。メジャーリーグを捨ててまで金メダルを狙ったのに、結果は予選リーグで2勝5敗の7位敗退。
今回のオリンピックでは、なんとしてもメダルが欲しいのです。
そのために、あなたの力をお借りしたいのです。」
「そんなこと言われてもなあ。まあ、助けてやるのはやぶさかじゃあないけど、果たして俺が力になれるようなことなんてあるのかな?」
「もちろんあります。まずひとつは、あなたの分析力を使って、日本チームの弱点を探っていただきたい。
もうとつは、あなたにオーストラリアのピッチャーのリードをお任せしたい。ぜひお願いします。」
「まあ、そこまで言うのならやってみるか。
セリーグの打者の攻め方は俺でも何とかなるだろうけど、パリーグのチームはちょっと自信ないなあ。
うーん、あいつに頼んでみるか。」
「もしもし。あっ、俺だけど。今、名古屋空港。これから北海道へ行ってくる。明日の朝食もいらないから。」
「と、言うわけで実松君。ぜひ君にお願いしたいんだ。」
「僕を選んでくれたことは嬉しいんですが、何で僕がオーストラリアチームを助けなくっちゃなんないんですか?日本代表には、実松世代の友達も選ばれてますし。」
「実松世代って…、まあいいか。
ええっと、君の弟の良太君、今アメリカに行ってるらしいね。このディンゴさんは今、ブレーブスの3Aリッチモンドに所属しているんだが。
君が協力してくれるのなら、彼が何とかしてやってもいいと言ってくれているんだよ。どうだろうね。」
「この人に、そんな力があるようには思えないんだけどなあ。まあ、だめもとでやってみますか。
でも、中野さん。僕オーストラリアのピッチャーがどんな球投げるのかぜんぜん知らないんですけど、大丈夫ですかね?」
「それもそうだな。ちょっと見てみるか。」
「もしもし。あっ、俺だけど。今、北海道。これからオーストラリアへ行ってくる。2、3日は飯いらないから。」
「どうですか、中野さん。うちのピッチャーの球を受けてみて。」
「そうだな。使えそうなのは2、3人かな。実松君、どう思う?」
「そうですね。あとは、ウィリアムスがいるから、投げるほうは何とかなりそうですね。」
「打つほうは俺たちには教えられないけど、なんとか日本のピッチャーの弱点は探っとくよ。」
「お願いします。中野さん。」
「もしもし。あっ、俺だけど。今、オーストラリア。これから帰る。なんか美味しいもの作って待ってて。」
「じゃあ実松君、あとは日本対オーストラリア戦までに各選手の情報を集めておいてくれたまえ。」
「そうですね、各チームの実松世代の選手たちにそれとなく聞いて回ってみます。もっとも、松坂君だけは僕と話もしてくれないんだけど。」
「まあ、松坂君は、横浜高校の先輩の僕でも相手にしてくれないからな。
それはそうと、本番までには確実に2軍に落ちといてくれよ。1軍の試合がある日なんだから。」
「わかってますよ。どうせ1軍にいても出番ないんだから、なんとかしてファームに行っておきますよ。」
「その点、俺はそんな心配はしなくてもいいな。とほほ。」
一次リーグ、日本対オーストラリア戦。
中野栄一の自宅。
「中野さん。情報は集めたし、対策もバッチリ練ったんですけど、これをどうするんですか?」
「実松君、インターネットって知ってるか?知ってるよな、そりゃ。
これを使ってだね、今、アテネのオーストラリアチームのベンチとつながっているんだよ。これを、こうやるとだね、あれ、おかしいな。こうだったかな、いや違うな。
ちょっと待っててよ。おーい、これどうやるんだったっけ?」
「ちょっと、静かにしてくださいよ。子供が起きちゃうじゃないですか。寝かしつけたばっかりなんですよ」
「ごめん、ごめん。また出来なくなっちゃったんだけど、どうやるんだっけ。」
「ここをこうして、こうやって、こうするんでしょ。私、買い物に行ってきますから。子供を起こさないようにしてくださいよ。」
「と、言うことでこれでつながったわけだ。」
「はい、それで?」
「日本の攻撃のときには、僕らがテレビを見ながらベンチに指示を出す。
そしたら、ベンチからキャッチャーのディンゴにサインが送られる。
それからディンゴがピッチャーにサインを出す。
もしピッチャーが首を振ったら、ディンゴが向こうのベンチに首を振る。
そしたら向こうからからこっちにどうするか問い合わせてくる。
そしたら、もう一度こっちから指示を出す。
と、これが一瞬のうちに出来るんだから、インターネットってすごいよね。」
「あまり、一瞬のうちってわけじゃないようなんですけど?あっ、先発投手が発表されましたよ。」
「今日の先発は、ロッテの清水君か。実松君の担当だな。」
「資料はまとめてきたんですけど、日本語で送って大丈夫ですかね?」
「ええっと、日本語をインターネットで翻訳して向こうに送ればいいんだけど、どうやるんだったかな?
ここを、こうだったかな。あれ、おかしいな。こうだったかな、いや違うな。
ちょっと待っててよ。おーい、これどうやるんだったっけ?」
「奥さんさっき出かけましたよ。」
「そうだな、何とか自分で頑張ってみるか。」
「おい、ディンゴ。日本からこれが送られてきたんだけど、何なんだこれ?シミズについての情報みたいなんだけど?」
「どうもドイツ語に翻訳されてるみたいですね。うちのチームに誰かドイツがわかるやついたかな?」
「次は、日本の攻撃ですよ。1番は福留選手ですね。」
「うちの選手だけど。ちょろいちょろい。彼の場合は、ここにこう投げて。次は、ここ。それからここに投げれば。ほら三振だ。」
「次のピッチャーは岩瀬ですよ。中野さん。」
「ええっと、岩瀬が出たらあきらめろ。と送ってくれ。」
「やりましたね。逆転勝利ですよ。」
「日本が負けて、嬉しいような、悔しいような。まあいいか。次も頼むよ、実松君。」
準決勝、日本対オーストラリア戦。
中野栄一捕手の自宅。
「まずいですね。先発は実松世代最高のピッチャー、松坂大輔ですよ。僕の資料では、弱点無しとなってます。」
「大輔に関しては、一度だけ使える作戦があるんだ。ちょっと練習しといたほうがいいから、もうディンゴには伝えてある。いつ使うかはこっちから指示を出すけど。」
「あっ、始まりましたよ。うわっ、松坂はいい球投げてますね。これは打てそうにないですよ。あっという間に、終わりましたね。」
「今日は厳しい戦いになりそうだから、まずは、点を与えないようししなくちゃな。」
「1番は福留選手ですよ。」
「彼の場合は、ここにこう投げて。次は、ここ。それからここに投げれば。ほらポップフライだ。」
「中野さん、2アウト1、3塁のチャンスですよ。例の作戦はどうですか。」
「そうだな。でも、勝負してこないこともありうるから1球は様子を見よう。」
「ボールになりましたけど、勝負に来てるようですね。」
「よし、実松君。ディンゴにプランMを実行しろと伝えてくれたまえ。」
「プランMですか。どんな作戦かワクワクしますね。」
松坂大輔がセットポジションから第2球を投げるモーションに入ったその時、オーストラリアベンチの全員がマウンド上の松坂に向かって叫んだ、
「マクタケンジ!」
思わぬ名前に動揺したまま投げてしまった結果、スライダーが外角の甘いコースへ。
キングマンの打球は、ライト前に落ちるタイムリーヒットとなり、オーストラリアが1点を先取した。
「なんだかよくわからないですけど、作戦は成功したようですね。いったいマクタケンジって何なんですか?」
「なんていうのかな、マクタケンジというのは、彼の心の傷のようなものなんだよ。あれが松坂大輔のたった一つの弱点なんだ。」
「これで、あと4回を抑えきったら、歴史的な勝利ですよ。がんばりましょうね、中野さん。」
「ああ、うん、そうだな。あと4回か。」
「どうしたんですか中野さん。さっきからぼうっとして。オーストラリアのピンチなんですよ。しっかりしてくださいよ。」
「実松君、あの姿をよく見たまえ。日本の選手もオーストラリアの選手も1つの勝利を目指して、懸命にプレーしている姿を。」
「そうですね。なんか高校生のころを思い出しますね。白球を無心に追っていたあの夏の事を。」
「実松君、こんなところから指示を出すのはもうやめようじゃないか。グランドにいるあの選手たちに全てを任せようじゃないか。」
「そうしましょうか。僕らは所詮、部外者ですから。」
「こんなすばらしい試合をすることが出来て、あそこにいる選手たちが羨ましいな。」
「僕もいつかはあんなところで野球をやってみたいですね。」
「日本シリーズに出ることが出来たら。」
「そうですね。日本シリーズで会えるといいですね。」
「あーあ、とうとう日本が負けてしまいましたね。」
「やっぱり、勝って欲しかったなあ。」
「そうですね、残念ですね。」
「オーストラリアは良くやったよなあ。」
「日本のチームも頑張りましたよ。特に、実松世代は。」
「テレビ見てるのも疲れるな。実松君、ちょっとキャッチボールでもやらないか。」
「いいですねぇ。僕も体がむずむずしてきたところですよ。でも、僕の剛速球が中野さんに捕れますかね?」
「俺は、捕るのはうまいんだよ。投げるほうはだめだけど。とほほ」