【Number 584 】
私とタイガースの18年 久万俊二郎 (阪神電気鉄道会長)
なんで星野監督になったのかといえば、これはもう、ご縁があったと申し上げるしかあり
ませんね。
あの頃、中日を辞めた星野が、「会ってお願いしたことがある」と、人を介して私の家に
やってきたことがありました。「島野(育夫。前ヘッドコーチ)を何とかしていただけま
せんか」というのが星野の頼みでした。自分がいなくなったあと、中日に置いていくのは
心配だと言ってね。
島野は前にウチにおったんです。82年に横浜で審判を蹴る問題を起こしまして、出場停止
処分になったことがあるんですが、会社まできちんと謝りに来ましてね。それから親しく
なりました。彼は誠実な男ですよ。そして、なかなか、年寄りの機嫌を取るのが上手なん
です。私の機嫌なんか上手にとります。気が付いたらコロッと乗せられてます。義理人情
に厚いんでしょうな。
その後、星野が中日の監督になって、コーチとして呼ばれたときも、「星野から頼まれる
と断れません」ときちんと挨拶に来ました。「阪神を放って行くんかい!」と言いました
けどね。(笑)
星野と話していたときに「お前さん本人のほうはどうなんじゃ?」と尋ねたんです。辞め
てすぐに同一リーグの他球団の監督になるのは抵抗があるとか、評論家としてやっていく
ために会社を作り、NHKの解説者に決まっているとか答えました。
これはご縁がないな、アカンなと思いましたが。しかし優勝経験のある監督ですし、島野
があれだけ信頼している人間ですからね。やってくれんでもともとという覚悟で、ぶつか
っていったわけです。口説き文句?「やって下さい。」だけですよ。
野村が辞めて、後任探しでバタバタしましたが、私の本音を言うと、いざとなったら岡田
しかいないと考えていました。
もちろん岡田本人には、そうは言ってませんよ。言ってませんが、星野にぶつかっていた
のも、岡田がいたからこそできた芸当です。ただ一方では、いま岡田に監督をさせるのは
あまりいいことではないと思ってもいました。監督としてはまだ大人っぽさが足りてない
というか、世間に対して、もうちょっと上手にモノを言えるようになってからの方がいい
かなと考えていたんです。
だから星野に監督を要請したときも、条件の一つとして、「監督して岡田を育てて下さい」と
言いました。「無理だというなら言うて下さい」とね。星野は「はい、育てます」と言うてました。
ただ周囲の話では、今になってみると、星野もだいぶ辛いらしい(笑)。
(中略)
私がタイガースの6代目オーナーになったのは84年のオフのことでした。当時は阪神電鉄
の社長を務めていたんですが、前任の田中隆造オーナーが急に体調を崩されて、「お前が
やれ」ということになりましてね。
最初は「野球が分かりませんからオーナーだけは御免こうむります」とお断りしていたん
です。しかしタイガースのオーナーは電鉄本社の社長か会長がやるというのがウチの考え
ですから、当然私のところに回ってくる。「分かりませんから」と固辞していると、「と
にかくお前、安藤(統夫)と中村(勝広)、あの二人を監督に使えば間違いない」と。安
藤が慶応、中村が早稲田ですが、「名門を出た人間をうまく使っていけばいい」、極端な
話、「二人を交互に使えばいい」みたいなことを言われましてね。「分かりました。やり
ます」と答えざるを得なかった。いまにしてみれば非常に安易な感じに思われるかもしれ
ませんが、当時の私にとっては、野球はその程度の認識だったわけです。
実際、野球に対する関心はほとんどありませんでした。社長である自分にとって大切だっ
たのは、西梅田の2万平米の土地の再開発ですよ。そんな中でタイガースはどうかという
と、恥ずかしながら、まあまあ、囃しておればええわというウエイトで(笑)
ところが、のっけから次の監督問題が起こってしまった。当時、球団は先輩の小津正次郎
さんが社長でいてまして、監督の安藤が辞めることになった。これがおかしな辞め方をし
たんです。どうも小津さんと仲間割れしたようですね。結局、小津さんも退任することに
なたんですが、西本(幸雄氏。元大毎、阪急、近鉄監督)さんを監督にしようと動いてい
て、田中さんもOKという感じになっていた。
新米オーナーの私の初仕事は、実は西本さんを引っ張ってくることやったんです。「西本
さんに任せておいたらええ。あとは勝っても負けても楽しんどったらええ」ぐらい言われ
て、密かに交渉を進めてました。しかし、これは後で分かったんですが、どうも小津さん、
本心は村山(実)を監督にしようとしていたらしく、西本はアテ馬だったのかもしれませ
んな。そうとは知らずに「オーナーの仕事は監督を捕まえることだ」と言われて動いた私
は、西本に「やってもいい」と返事をもらったのにどうも話がうまく進まない。
一体どういうことだったのかというと、西本が来ると、彼の弟子もコーチとしてウチにく
ることになります。そうしますと、ウチの従来の監督たち、OBたちからすれば、後輩の
道を絶つことになりますわね。OBたちにすれば伝統を守って、ウチで育った選手を監督、
コーチにしていきたい。生活にも関係しますしね。自分たちの利益だけというんじゃない
んでしょうけど、そうならざるを得ないでしょう。世界が狭いですもん。そういう抵抗が
強すぎたということです。
そんなとき西本から「どうもおたくはよそから監督を迎えるのは難しいらしい。吉田(義
男)がいいだろう」と言われて、結局、吉田になった。このとき吉田は2回目の監督就任
で、言わば過去の監督でした。
これ以降、98年オフの野村を迎えるまで、伝統に従ってウチで名を成した人を監督にする
という”阪神ドクトリン” ”阪神主義”で通してきました。しかし、私はすでにこの時
点から、ウチは生え抜き監督の人材がおらんようになって、野球がやりにくくなってるな
と思うてました。いずれ外の血を導入せねばならんと。いま振り返れば、私のオーナーと
しての18年は”抵抗勢力”との戦いそのものだったかもしれませんな。
(中略)
ただ、電鉄本社の会長の立場からすると、阪神は野球でもっとる会社やと言われても困る
な、というところもあるんです。
阪神電鉄グループは連結で2800億円の売り上げがあります。そのうちタイガースが占める
のは100億円ちょっと。全体の28分の1のことを、なんでそないに大事にせんといかんのか
と。だからそれまでは、負けてもええ、という雰囲気もあったんやと思います。にもかか
わらず、熱心なファンの方々がいまもそういう感覚で応援してくださっているのは、ほん
まにありがたいことです。
経営的にはウチの場合、その辺が読売さんと違って辛いとこなんですよ。というのは、何
で野球なのか?ということです。読売さんは野球によって、巨人によって、新聞ジャーナ
リズムの覇を唱えました。ではウチはどうするんや、ということです。タイガースだけか
という、忸怩(じくじ)たるものがあったんです。
だけど、せめてもうちょっとね。ひょっとすると、もう惚れてももらえんようになるとこ
まで器量が落ちて、このまま愛想をつかされてしまうんやないかと。もう「負けてもええ
」という太平楽なことを言うてる場合ではない、危ない時期がいよいよ来てしまったんで
す。
しかも、阪神電鉄グループは甲子園とタイガースを持っているとこで計り知れない恩恵を
蒙っていると、私は痛感していました。
実感があるんです。地方へ採用に行きますでしょ。「阪神電車?」「知らん」「甲子園は
?」「知っとる」「タイガースは?」「知っとる」。当たり前ですわね。甲子園では春と
夏に高校野球をやってるんですから。だからタイガースの名前も皆さんの頭のどこかに入
ってる。そのイメージは藤村(富美男)はじめ初期の選手が作り上げたやんちゃなイメー
ジですよ。そのタイガースと甲子園が合わさって、皆さんの頭の中に「阪神」というイメ
ージが広がる。これはなんぼ金をかけたところでにわかに作り出すことができない、ご先
祖が脈々と築き上げた、かけがえのない財産です。
このままでは、言うたらご先祖様に申し訳ないと。ほっとくとそれこそ、ご先祖から戴い
たタイガースとおう財産がメチャメチャになる。少なくとも、タイガースをダメにした社
長やと言われるのは嫌やと(笑)。
それにはまず勝たなきゃいかんだろうということで、いよいよ外から監督を呼ぶために本
気で動き出したというわけです。
(中略)
星野が今年、タイガースをここまで引き上げてくれたんは評価しています。
しかし、実は、私はいまでも西本幸雄という人が一番、ウチなんかの監督には向いてたん
やないかと思うことがあります。人柄から言うても、努力する点から言うてもね。しかも、
あの人は監督を育てる能力もあった。
決して器用な男じゃないですよ。今のウチの監督(星野)のほうがずっと器用だし、考え
ようによっては野村のほうが器用な面もあります。日本一になったこともない。非常に愚
直ですが、その代わり、部下が素晴らしい。いまの近鉄の監督をしている梨田(昌孝)な
んて部下に対する思いやりがあって本当に素晴らしい。グッときますよ。いまでもウチに
欲しくらいです(笑)。
野球に限らず、どこでもでしょうけれど、情のない上司なんて、およそナンセンスですか
らね。鍛えるという意味で辛い目に逢わせてもいいけど、最後のところは一緒に泣いてや
れないといかん。特にプロ野球なんか、結果が出ないで叩かれたとき、そっとカバーして
やれる上司がどれだけ必要か。最後は、一緒に死んでやらないかんですわ。
私は海軍に行きましてな。だんだん戦争が熾烈になってきて、最後は小さな一個中隊ぐら
いの部隊だったと思いますけど、その部隊を「お前に預けるから、それと一緒に死んでく
れるか」と言われました。大学を仮卒業して、昭和20年3月4月です。自分の部下が目の前
におるんですよ。目の前におって、どっちが先に死ぬかということになってきたら、身体
は別々ですけど完全に運命共同体ですよ。ともかく、一緒に死のうと。それは何のためか
というと、国のためと言っても、本当に目に入っているのは親兄弟やら、友達ですわ。先
輩や後輩です。彼らの楯になるんだったら死んでもええと思いました。
星野がこの先、選手と死んでくれるような、情の深い監督になってくれたら、と思うてま
す。(ナンバー 9月18日号 / 2003)