江夏はうるせーぞ!

このエントリーをはてなブックマークに追加
42代打名無し
近鉄バファローズの石渡茂選手は、今でもまだそんなはずがないと思っている。
9回裏である。近鉄、最後の攻撃。ワン・アウト・フルベースのチャンス。スコアは4−3。
近鉄は1点の差を追っている。一打逆転、犠打で同点になる。ゲームの流れは、追いあげ、攻
めたててきた近鉄に向いている。

マウンド上には広島カープの江夏がいる。江夏はスクイズを警戒していた。石渡に対する2
球目、近鉄ベンチはスクイズのサインを送った。
そのスクイズはみごとにはずされる。江夏の投球は外角の高目に外れ、しかも、曲がるよう
に、落ちた。石渡が懸命に出したバットは空しく揺れ動き、ボールをとらえることができない。江夏の投
げた球は、バットの下を通り抜けた。スクイズのサインで猛然とホームベースに走りこんでき
た三塁ランナーの藤瀬は、スクイズが見破られたと、気づく。
43代打名無し:03/09/29 08:41 ID:U7aDLkxq
藤瀬史朗の話―≪バッターの石渡さんのカウントが1−0になったとき、ブロック・サイン
がでました。無死で三塁に来たときからいわれてはいたんですよ。“スクイズもあるからサイ
ンをよう見とけ”とね。
江夏さんはサウスポーやから、ぼくのスタートは見えんやろ・・・・・・それがまず頭に浮かんで・・・
・・・。それに江夏さんはポンポン投げてくるタイプでしょう。そういう先入観があったものだか
ら、スタートは余計早くしていいという気になってしまった。
キャッチャーのことまで気が回らなかった。まんるいでしょう。ホームはフォース・プレイです
ね。タッチ・プレイなら、ふつうのスタートでいいんやけど、フォース・プレイやから早よ
スタートせなあかんと、そればっかり考えていた。ホームに向かって走ってったところで石渡
さんの空振りが見えましたね。もう、いっぺんに元気がなくなってしまって・・・・・・。≫
44代打名無し:03/09/29 08:42 ID:U7aDLkxq
その1球が、バッター・ボックスにいた石渡の頭の中にいつまでもひっかかっているのだ。
石渡茂の話―≪江夏の投げたあのボール、あれはホントに意識的にはずしたのか・・・・・・。信
じられんのですよ。フォーク・ボールが偶然スッポ抜けたんじゃないか。
バットに当てられん球やなかった。スクイズってのは、速い球に合わせる気持ちでやるもん
です。ピッチャーも、はずすときは速球ではずすんです。ところが変化球やった。フォークで
す。それだけに信じられない。ホントにはずしたんなら、そりゃもう、大変なことですよ・・・
・・・≫
45代打名無し:03/09/29 21:51 ID:U7aDLkxq
しかし、間違いなく江夏の投げた球は石渡のバットの下をかいくぐったのである。
偶然ではなく、である。
大阪球場はほとんど近鉄ファンで埋まっていた。近鉄ファンはここで落胆しなければならな
い。
しかし、このシーンに吸い込まれた人間の気分は落胆というものではなく、むしろ興奮だっ
た。濃密に急回転する時間のなかには興奮しかない。
≪見破られました!スクイズを見破られたのです。ツー・アウト!ツー・アウトになり
ました!≫
実況中継のアナウンサーはマイクを握りしめた。
その1球は、このイニング、9回裏に江夏が投げた球のなかでは19球目に当たる。
46代打名無し:03/09/29 21:52 ID:U7aDLkxq

一九七九年一一月四日。
大阪球場で近鉄バファローズvs.広島カープの日本シリーズ第七戦が行われている。この日ま
での戦績は両チームともに3勝ずつをあげ、この日の第七戦で決着をつけなければならない。
カープは初回に1点、三回に1点、そして6回には水沼の2ラン・ホーマーで追加点をあげ、
勝ちに向かっていく。
近鉄は5回の裏に平野の2ラン・ホームランで反撃を開始し、つづく6回にはマニエル、栗
橋のヒット、有田の送りバントなどで1点を追加、激しくカープを追い上げてきた。点差はわ
ずかに1点である。
江夏がこの日、大阪球場のマウンドに登るのは、その直後、7回の裏、ワン・アウト・ラン
ナー一塁という局面だ。ピッチャー福士をリリーフしたものだった。
予定の行動だった。
試合が始まるころ、江夏はそっとベンチを出てロッカー・ルームに向かった。それもまた
江夏のいつもの行動だった。リリーフに徹するようになってからできあがった習慣である。ト
レーナーがやってきて入念にマッサージを始める。江夏の左腕は、そういうことでかろうじて
保たれているといってもよかった。江夏はプロ入り以来、公式戦だけでもう43311球もピ
ッチングをくり返してきているのだ。
47代打名無し:03/09/29 21:53 ID:U7aDLkxq

時折、ドッと歓声がロッカー・ルームにも聞こえてくる。誰かがヒットを打ったか、三振
でもしたのだろう。その歓声が聞こえるたびに、江夏は筋肉を緊張させる。そして、自分の出
バンが一秒一秒近づいてくるのを、肌で感じとっていく。
試合は3回に入った。≪よし≫といって江夏は起きあがった。それも、いつもの行動だ。そ
のまま、ブルペンへ向かった。
7回、江夏がマウンドに登るとき、空からは小雨である。腰の左ポケットにロージン・バッ
グを入れた。すでに照明灯のスイッチが入っている。
ゲームは江夏を軸に動き始めた。
7回、後続を断ち、8回も江夏は近鉄打線を三者凡退に打ちとった。
9回の守りにつく前、江夏はベンチの奥に坐ると、ショート・ホープを一本とり出して火を
つけた。点差はわずか1点リード、残るイニングは一回―。
≪ここを投げ切れば≫と江夏は考えていた。≪もうしばらく野球はせんでもいいだろう≫
このシーズン、江夏は働きすぎていたのかもしれない。9勝5敗22セーブ。広島カープにと
って重要な試合には必ずといっていいほど、江夏はマウンドにあがった。
ショート・ホープをゆっくり吸っている時間はなかった。
48代打名無し:03/09/30 07:57 ID:uvCszKoD

高橋慶彦が三振に倒れると、江夏はマウンドへ向かった。
それから約二六分間、江夏は大阪球場のマウンドに立ち尽くし、”勝者”と”敗者”の対角
線上を激しく往復する。
そして、その間に江夏の1球1球をめぐって広島、近鉄両ベンチ、そしてグランドに立つ
選手のあいだを様々な思惑が交錯した。野球とは、あるいはこの様々な思いが沸き立ち浮遊し
交錯するところに成立するゲームであるのかもしれない。
その渦のなかにいて、江夏はあるシーンを見るのだ。
49代打名無し:03/09/30 07:57 ID:uvCszKoD

江夏がマウンドに歩いていく。
これが最後という気負いはとりたててなかった、と江夏は語った。江夏は、再び、こん
なふうにかんがえているのだ―。
≪この回が終わればもう野球をせんでもいい。あと一回投げれば、休めるんだ≫
バッター・ボックスに六番打者の羽田が入った。江夏は1球目から打ってくることはまずな
いだろうと考えている。
≪最終回でしょ。とにかくこれが最後なんだ。慎重に攻めてくると考えるのが普通やと思
う。それでカウントをとりにいった。アウトコースの真っすぐだね。それをスコンとやられた。
センター前やったな。あッ、痛っ!っていう感じ≫
50代打名無し:03/09/30 07:58 ID:uvCszKoD

ドラマは唐突に始まった。江夏の1球目はコンダクターのタクトだった。その腕が振りおろ
されたとき、最終楽章はアレグロで動き出す。
大阪球場のグラウンドはすり鉢の底のように見える。急勾配のスタンドの喚声が、テレビのボ
リュームを突然大きくしたようにどよめき始めた。鳴り物入りで大阪球場がうなり出した。も
う紙吹雪までが舞ってしまう。
羽田耕一の話―≪外の真っすぐですよ。初球から真っすぐを狙ってましたからね。バット
はすんなり出たいう感じですね。直球がきたら、何でも振ってやろうと思ってました。まあ、
会心の当たりというところですね。予定通り代走に藤瀬が出てきて、ああ、こいつが本塁に
かえってきたら同点なんだなと思って、一塁で交代するとき”かえってや”って声かけたんで
すよ≫
51代打名無し:03/09/30 20:10 ID:uaXL0gxO
江夏って大物なのに
監督にもコーチにもなれそうにないから
カネあまり持ってないだろうな。
犯罪起こした人だから当然かもしれんけど
かわいそうな人やね。
52代打名無し:03/09/30 21:57 ID:uvCszKoD

藤瀬は近鉄の代走の切り札である。七九年のシーズンは27個の盗塁を記録している。
広島の田中コーチがベンチを飛び出した。カープの内野手がマウンドに集まる。近鉄の西本
監督もベンチを飛び出して次の打者、アーノルドのところへ歩いた。
江夏は別のことを考えていた。
≪羽田には、第三戦のときの印象があったんだね。こっちが1点リードしているときの9回
やったな。ノー・アウト・ランナー・セカンドで出てきた羽田が、カウント1−2からじつに
簡単にフライを打ち上げた。もうちょっと工夫して打てばいいのにと、オレが思ったくらいだ
った。あんまり賢こうない奴だなと思った。その記憶が残ってたんだろうね。そこをスコンとや
られたから痛かった。手を抜いて投げてるわけやないんだ。ただ、ときどき初球をスコンとや
られるんだ、オレは。
七九年のシーズンに10本、ホームランを打たれた。そのうちの7本が初球。しかも、いわゆ
るホームラン・バッターではなしに、ふだんはめったにホームランを打たん奴にやられとる・・・
・・・≫
53代打名無し:03/09/30 21:59 ID:uvCszKoD

カープの内野手が集まったのは、守備の打ち合わせである。バントでランナー藤瀬をスコア
リング・ポジションに送ってくるか、藤瀬の単独スチールか、あるいはヒット&ランか・・・・・・。
結果は、藤瀬の単独スチールになった。アーノルドのカウント1−2からの4球目に、藤瀬
は走った。
江夏の投げた球は、右打者アーノルドにとっての外角球。直球である。が、サウスポー、江
夏が外角に投げた球はシュートがかかっていた。主審のコールは「ボール」。キャッチャー水沼
はあわててセカンドへ投げる。タイミングはアウトである。しかし、水沼の投げた球はセカン
ド・ベースの手前でワン・バウンドし、センターへ抜けた。藤瀬はそのまま三塁ベースに走り
こんだ。
54代打名無し:03/09/30 21:59 ID:uvCszKoD

ノー・アウト三塁。近鉄に思わぬチャンスがめぐってきた。大阪球場は熱狂する。テレビ・
カメラは一塁側ベンチ上に舞い散る紙吹雪を追った。実況中継のラジオのアナウンサーも、思
わず絶叫調になる―≪ノー・アウト三塁!ノー・アウト、ランナー三塁です!近鉄にと
っては願ってもないチャンス!紙テープが舞っています!みかんも投げこまれていま
す!≫
ラジオの解説者はしごく当然のことを重々しくいった―≪よほどのことがない限り、同点
になるケースですね≫
そのシーンは、たしかにランナー藤瀬が単独スチールし、あわてて水沼がセカンドに悪送球
したように見えた。
55代打名無し:03/09/30 22:01 ID:uvCszKoD

ネット裏で観戦していた野村克也(現在・評論家)にも、それは単独スチールに見えた。客
観的にはそう見えて当然である。
≪野球の定石からいうと、ここでスチールさせるのはえらい冒険なんですよ。9回のドタン
場。このランナーが殺されたら終わりですよね。それを走らせる。野球は”結果オーライ”い
うて、作戦が成功すればそれでいいわけだけど、失敗したらまず間違いなく責められるポイン
トですね。江夏―水沼バッテリーvs.藤瀬というなかで考えて、100%成功するという自信が
なければできない。西本さんは、ふだんはこういう作戦をとらない人なんですよ。非常に慎重。
石橋をたたいても渡らないところがある。スチールのサインを出したのなら、作戦的に邪道じ
ゃないかと、ぼくの目には見えましたね≫
56代打名無し:03/09/30 22:03 ID:uvCszKoD

しかし、ユニフォームを着てこのシーンを見ている側は、また違った思惑を抱えている。
江夏が言う。
≪何かしてくるのはわかってる。それはしゃぁないっていう感じだね。日本シリーズに初め
て出てきたとき(第二戦)が似たようなシーンだった。ランナーに藤瀬がいて、バッターはチ
ャーリー(マニエル)。あのときは気負っていた。ランナーもなんとかしよう、バッターもお
さえようと思うてた。それが失敗だったと思う。チャーリーに打たれた。今度はそういうわけ
にはいかない。
藤瀬の足はたしかに速いよ。オレのクセも見抜かれてるやろ。そんなら走ってもかまへん。
そう思った。それよりバッターに集中したほうがいい。
1球目はバントを警戒してはずした。バントの気配は全然なかったね。2球目は、打ってく
れればいいという、これもはずし球。全然、打つ気がないようだった。アーノルドもウェイテ
ィングに入ってるみたいなんですわ。藤瀬が走るのを待っている。ヒット&ランはないと思っ
た。アーノルドは空振りが多いからね・・・・・・≫
57代打名無し:03/09/30 22:05 ID:uvCszKoD

しかし、近鉄ベンチ、西本監督の出したサインはヒット&ランである。
≪当たり前やろ。あの場面でスチールがないのは当然。ヒット&ランのサインだった≫
それが単独スチールになってしまった。藤瀬は「こりゃダメだ」と思って走っている。
≪カウント1−2になってからヒット&ランのサインが出たんですよ。ヒット&ランやか
ら、スタートは多少おくらせますよね、見破られないように。だからスチールのときよりスタ
ートは遅い。スタートしてから三歩ぐらいいったときにアーノルドがヒット&ランのサインを
見逃しているのに気がついた。アウトのタイミングです。けど、万がひとつにセーフになるこ
ともあるやろと思うて走ったんですよ。ええ、もう諦めてね・・・・・・≫
58代打名無し:03/09/30 22:07 ID:uvCszKoD

西本監督はベンチの奥に足を組んで坐り、苦笑いを浮かべている。作戦とは違った結果にな
り、しかもそれはいちおう悪い結果にならなかった。
ノー・アウト三塁。江夏vs.アーノルドのカウントは1−3.江夏は外野フライを警戒してイ
ンコース低目に投げる。主審は”ボール”を宣した。フォア・ボール。ランナー一、三塁。アー
ノルドに代わってピンチ・ランナー吹石が出た。
江夏は、
≪1点はしゃあない≫
と思った。それがマウンド上にいる者にとっての正直な実感である。
59代打名無し:03/09/30 22:09 ID:uvCszKoD

ベンチの古葉監督は、しかし、内野に前進守備の指示を出す。つまり、1点も与えまいとす
る守備体制だ。
古葉監督の話―≪あの場合、内野手をややうしろに守らせたほうがいいとういうのはわかる
んですよ。前進守備をしていれば、一塁ランナー吹石はは盗塁しやすい。吹石がセカンドへ行け
ば、一打逆転になりますからね。
しかし、ウチとしてはとりあえず1点もやたくなかった。三塁ランナーの藤瀬はゆるい内
野ゴロでもホームベースに突っこんでくるでしょう。1点とられて同点にされたらもう負ける
と、そう思ったわけですね。だから、一、三塁であっても前進守備をとらせた≫
このシーン、いやもうしばらくあとのさらに緊迫したシーンにあっても、古葉監督は≪冷静
だった≫という。
60代打名無し:03/09/30 22:11 ID:uvCszKoD

しかし、冷静に見れば、これは広島の敗因につながるかもしれないと、ネット裏の野村克也
は客観的に見ている。
≪あの場面で、守る側にとっては、三塁ランナーより一塁ランナーの吹石のほうが大変なん
ですよ。吹石をホームにやらなければ、カープは少なくとも同点のまま延長戦にもっていかれ
る。その吹石にただで二塁ベースへ走ってくれという守備になっていますからね≫
61代打名無し:03/09/30 22:13 ID:uvCszKoD

江夏はさらに追いつめられる。
あるシーンが、江夏の目に飛びこんできたのである。
それは江夏にとっては、ゲームの流れよりも気になることだった。この場面でマウンドを守
っている江夏の張りつめた気分はかき乱された。
あるラジオ中継のアナウンサーが、カープ、ピンチの状況を描写しようとして、グラウンド
の動きに神経を集中させていた。そして、カープのピッチャーが三塁側のブルペンに向かうの
を見た。
彼はそれをマイクに向かって説明した―≪三塁側ブルペンでは池谷がでて投球練習を始め
ました。カープ、ピンチです!≫
62代打名無し:03/09/30 22:15 ID:uvCszKoD

江夏は、三塁側、自分のベンチの動きを見逃すことがない。池谷がピッチング練習を始めた
のも見ている。同時に、北別府がブルペンに向かって走っていくのも江夏は見ている。
≪なにしとんかい!≫
江夏はそう思った。それにはいろいろな思いがこめられている。
≪このドタン場に来て、まだ次のピッチャーを用意するんかいうことですね。
そうか、オレはまだ完全に信頼されているわけじゃないのかと、瞬間、そう思った。
ブルペンが動いた。なんのためにオレはここまでやってきたんや。そう思って、釈然とせん
かった。ブルペンが動くとは思っていなかったからね≫
それが3勝3敗で迎えた日本シリーズ第七戦、4−3とわずか1点だけリードしている側が、
リリーフの切り札として自他ともに認める投手をたてて9回裏の最後の守備につき、大ピンチ
に襲われているときのマウンド上の投手の心理の一断面だった。
63代打名無し:03/09/30 22:21 ID:uvCszKoD

江夏はそのシーンを、そういう角度から見てしまっている。それは試合が終わって広島カー
プが”日本一”の座についたあとも、彼の心に長く居残っている。あれはどういうことなのか、
オレでは不足なのか― 端的にいってしまえば、そういう思いである。
そのわだかまりを残したまま、江夏はノー・アウト・ランナー一、三塁という状況に対処し
なければならない。バッター・ボックスには平野が入っている。
64代打名無し:03/09/30 22:22 ID:uvCszKoD

1球目、江夏は早い球を高めに投げこんだ。スクイズを警戒しているのだ。平野はこれを見
送る。ボール。
平野に対する2球目、江夏は、このイニングを左右する球を投げている。右打者のひざもと
へ曲がりながら落ちていくカーブである。これをフォークと呼ぶ人もいる。江夏の指はプロの
投手にしては短く、完璧なフォーク・ボールは投げられない。
江夏の話―≪あのコースへのカーブは、それまで使えなかった。一番こわいコースなんや。
ワン・バウンドになりやすいし、キャッチャーがパスボールすることもある。
そこへ投げて、平野がハーフスイングした。カラ振りになったけどね。あれを見て、このボ
ールはいけると思った≫
江夏はこのあと重要な場面でこの球を使っている。
65代打名無し:03/09/30 22:23 ID:uvCszKoD

平野に対する1球目は、いちおうスクイズを警戒してはずした。スクイズはないとみて2球
目で打ち気を利用してボールになっていくカーブを振らせてカウントをかせぐ。それが江夏の
この状況での攻め方だった。
いちおう、というのは、江夏の目から見た場合―≪平野は打ちたがりだからね。まずバン
トしてこないだろうと思ってた。しかし、あの場面だから何があるかわからん。それで1球目
は外したわけや≫
66代打名無し:03/09/30 22:25 ID:uvCszKoD

ところが、平野は、バッター・ボックスからマウンド上の江夏を見て、まったく違うことを
考えている。
≪1球目は完全にボール、2球目はカーブだかフォークだか・・・・・・思わず振ってしまったけど、
あれはボール球だったな。
それにしても1球、2球を見てて江夏はそうとう動揺してると思ったね。初球のボールね。
あんな高いボールになるなんて、江夏本来のピッチングとは思えないからね≫
バッター・ボックスに立った平野は江夏の出来をそう見ている。たいしたことはない、と。
その平野に対して、西本監督は、この場では特にサインを出していない。≪ノー・アウト一、
三塁いうたら絶好の攻撃パターンやな。その場で監督は何もいわんとまかせてくれた。気合い
が入ったね≫
その気合を見て、江夏は内角に沈むカーブを投げているのである。
67代打名無し:03/09/30 22:26 ID:uvCszKoD

どちらが読み勝っていたのか・・・・・・。平野が江夏の中に見た動揺は間違いなかった。江夏はバ
ッターではなく、自軍のベンチの動きを見て動揺している。それを誰にも見せずに平静さを装
っている。心の中から噴きあげてくる思いにふたをしている。そして、そういう思いがあるか
らこそ、江夏は自分が動揺している以上に冷静になろうとしている。
68代打名無し:03/09/30 22:27 ID:uvCszKoD

この勝負は、江夏の3球目に一塁ランナー、吹石がセカンドへスチールすることによって中
断される。予定どおりのスチールだった。キャッチャー水沼はセカンドへ投げられない。三塁
には足の速い藤瀬がいる。
これでノー・アウト二、三塁。
広島ベンチは平野を歩かせ満塁策をとる。敬遠のフォアボールである。
江夏は再び広島ベンチを見た。マウンド近辺に集まっている内野手と話を交わしながら江夏
の目はベンチの動きを追っている。ブルペンにも目を走らせる。池谷、北別府は投球練習を続
けている。ノー・アウト・フルベースである。
69代打名無し:03/09/30 22:28 ID:uvCszKoD

江夏は思わざるをえない―ここまできたてマウンドを降りるわけにいかないじゃないか。誰
がオレに代わるというのか・・・・・・。
≪ここで代えられるくらいならユニフォームを脱いでもいいんだ≫
江夏はそう思った。
そういう思いを持ち、また、その角度からブルペンの動きを見ている江夏には、当然のこと
ながら、”自負心”が脈打っている。
その自負心が一三年間のプロ野球生活を支えてきたといってもいい。マウンドを守るとは、
つまりそういうことである。自らを恃むことによってしか、投手は投手たりえない。
このシーンのなかでブルペンの動きに気をとられている江夏は、自尊心を傷つけられている。
≪なにしとんかい!≫
と、江夏がつぶやくとき、その内側にはプライドを逆なでされた投手の戸惑いと、不安、そ
して怒りにも似た感情がないまぜになって、在る。
70代打名無し:03/09/30 22:29 ID:uvCszKoD

しかし、考えてみれば、江夏は誰によって傷つけられているのだろう。
池谷、北別府をブルペンに行かせ、ウォーミング・アップを始めるように指示したのは古葉
監督である。
その古葉監督は、このシーンでこう考えている。
≪仮にあの場面で1点とられたとしましょう。そのまま延長戦にもつれこんでいきます。や
がて江夏のところに打順がまわってくる。そのときどうしてもピンチ・ヒッターを送りたい状
況になったらどうするか。
そのときあわてて次のピッチャーにウォーミング・アップを命じてもおそいんですよ≫
71代打名無し:03/09/30 22:31 ID:uvCszKoD

10回の表に入ると、広島は2番の衣笠から攻撃が始まる。普通に考えれば、11回に江夏の
ところに打順がまわってくることもありうる。
9回の裏、近鉄の攻撃のとき、時計の針は午後四時三〇分に近づいている。ゲーム開始から
三時間半になろうとしている。
日本シリーズの場合、延長戦は試合開始から四時間を経過したあと新しいイニングに入らな
いという規定がある。あと一時間。同点のまま延長戦にもつれこんだ場合、五時半まで試合は
続くのだから11回まで進んでいく可能性はある。
古葉監督はそのことを考えているわけだ。ブルペンに投手が走っていくのを見て、マウンド
上の江夏が、
≪なにしとんかい!≫
とつぶやいているのを、古葉監督は知らない。
72代打名無し:03/09/30 22:33 ID:uvCszKoD

再び、古葉監督―≪そこまでは考えませんでしたね。また逆に、あえて若いピッチャーに
ウォーミング・アップさせることで江夏を発奮させようとも、あの場面では考えなかった。
ただ一つ、同点になったときのことを考えていただけですからね≫
実務的である。
このホットなシーンで古葉監督はひたすら実務的であろうとしている。それがゆえにマウン
ド上のピッチャーのエモーショナルな感情の揺れが見えない。
誰も、江夏の自尊心にナイフを向けようとしているわけではない。にもかかわらず、マウン
ドの上の投手は心に傷を作っている。多分、自分の手によって、である。彼自身を支えている
自負心が、気づいたときには、自分に刃を向けている。
73代打名無し:03/09/30 22:33 ID:uvCszKoD

ノー・アウト・フルベース。9回裏。シーズンの悼尾を飾る日本シリーズ最終戦。それによ
って全か無かが決まってしまう濃密な瞬間を、十数メートル離れたところで共有しながら、そ
の立っている位置によって思いは異なったベクトルを描きあっている。江夏も古葉監督も、そ
の熱気と緊張の中で、お互いの見つめているものが全然別個のものであることに気づきようも
ない。
74代打名無し:03/09/30 22:34 ID:uvCszKoD

さて、江夏である。
ノー・アウト・フルベースになったとき、江夏はこう思っている―≪あきらめたね。これ
はもう負けや≫
西本監督は笑い出さんばかりの表情でベンチを出た。ピンチ・ヒッター、佐々木を告げ、そ
の佐々木にアドバイスをする。
西本監督の話―≪勝てると思うとった。当たり前やろ。ノー・アウトなんやで。ランナーが
三人いるんやで。勝てるはずだ≫
そして、しきりとベンチを出入りしている。うろうろと、落ち着かない。
江夏は、その西本監督を見ていた。≪チョロチョロせんかてええやろ、もうお前ら勝ったん
やんか≫−と思いながら見ていた。江夏がそんな心境にあるのを、西本監督は気づきようも
ない。バッター・ボックスに佐々木が入った。江夏はいう。
≪どうやったってゼロでは切り抜けられない。
なら、いっそきれいに散りたいと、そう思ったね。押し出しや外野フライで点が入るのはも
のすごいいやだった。むしろガツンと打たれたい。打てるなら打ってみろいう感じやね。ホー
ムラン打たれたってええじゃないか。中途半端で決着つくのが一番いやだった≫
そう思いこんだところで、江夏は佐々木に対して完璧なピッチングを展開してしまうのだ。
75代打名無し:03/09/30 22:35 ID:uvCszKoD

ネット裏の野村は、そのピッチングの組み立てに目をみはった。
≪ここで江夏は佐々木のバントを全然気にしてないんですよ。佐々木が小細工のできないバ
ッターということもある。江夏は南海にいたことがある。その南海時代に西本さんの野球を見
て、どういうときにスクイズをやるかを知ってるということもあるね。西本さんという人は、
ドタンバのスクイズをあまりやらない人だから。そういうのを見て知っているということもある
けど、江夏の場合は、勝負師としての天性のカンだろうと思える。
1球目は右打者のひざもとへ落ちるボールのカーブ。佐々木は打ちにきて、かろうじてバッ
トをとめている。それを見て、佐々木が打ちにきてることが江夏にはわかった。佐々木は直球
にヤマをかけてたのがバレたと思ったんじゃないかな。第2球、佐々木はカーブに的をしぼっ
ている。そこに江夏は外角の直球を投げている。これがストライクで1−1。
3球目に投げた球は、真ん中から低目に沈むフォーク・ボール。佐々木はこれを振って三塁
ベースをわずかにはずれるファウルになった・・・・・・≫
76代打名無し:03/09/30 22:35 ID:uvCszKoD

近鉄は勝ったと思ったに違いない。一塁ベンチには紙吹雪が舞った。見る角度によっては三
塁線を抜くヒットに見えた。
≪きわどい!きわどい当たりです。フェア・グラウンドに入っていたらもちろん逆転!
勝負はまったく紙一重です!≫
アナウンサーの声はうわずっている。それは同時に大阪球場を埋めつくした三万人の観客の
思いだろうし、テレビ、ラジオ中継にくぎづけになっていた数千万人の人が感じた思いでもあ
るはずだ。
しかし、江夏は≪何を騒ぐんだ!≫という心境である。
≪あのコースを引っ張っても、絶対にヒットにならないんだ。ファウルか、内野ゴロになっ
てもボテボテの当たりになる。絶対フライにはならないはずなんだ。だからあのとき、オレは
全然あわててなかったね≫
77代打名無し:03/09/30 22:36 ID:uvCszKoD

このシーンを見つめている側は、マウンド上の江夏がそんな風に思っていることを知らない。
気がつかないが、しかし、別の思い込みのなかで十分に盛りあがっている。
ネット裏の野村も、江夏と同様、この一打に驚かなかった。
≪江夏のカウント稼ぎに振らされたんですね。江夏は次に胸もとに思い切って捨て球を放っ
た。ファウルされたけど、これはウイニング・ショットの前の捨て球です。次の5球目にもう
一つ、内角低目に真っすぐを投げる。これも捨て球ですわ。で、最後に5球目とまったく同じ
球道で、バッターの近くに来てスッと落ちるカーブを投げた。
目の錯覚を利用しているわけだね。さっきのボールと同じ球道でくるから。佐々木にはその
球道が見えている。振る。落ちる。
佐々木にはボールが一瞬消えたように見えてるんじゃないか≫
大阪球場にどよめきが走った。三振、ワン・アウト。
78代打名無し:03/09/30 22:37 ID:uvCszKoD

その息づまる緊張のなかを、カープの一塁手、衣笠が江夏のところに近づいていったことを
記憶にとどめている人は少ない。
江夏が佐々木を2−1と追いこんだとき、衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこうい
ったのだ。
≪オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな≫
江夏がいう。
≪あのひとことで救われたいう気持ちだったね。オレと同じように考えてくれる奴がおる。
おれが打たれて、何であいつが辞めなきゃいかんのか、考えてみればバカバカしいことだけど
ね。でも、おれにはうれしかったし、胸のなかでもやもやっとしとったのがスーッとなくなっ
た。そのひとことが心強かった。集中力がよみがえったいう感じだった≫
江夏が、バッターの平野のときに投げた内角へ沈んでいくカーブを佐々木への勝負球にしよう
と思うのは、その直後のことだ。
おなじコースのおなじ球で、江夏はスクイズ失敗で気落ちした最終打者、石渡も三振にうち
とることになる。
79代打名無し:03/09/30 22:38 ID:uvCszKoD

衣笠のいった≪オレもお前と同じ気持ちだ≫−とは、ブルペンが動いたことに対する何が
しかの思いが同じだということである。ここまできてそれはないだろうという、つまりはダイ
ヤモンドの中にいて、その中の空気を吸っている人間が、あのシーンの中であるがゆえに感じ
てしまう、それは思いであるのかもしれない。
ビッグ・タイトルがかかっているという緊張感と、それを背負っているという自負心が彼ら
にそういう気分を起こさせるのか。だとするならば、プレイヤーたちは、ビッグ・ゲームに心
理的にあやつられている。主人公は1球1球、局面を変えていくゲームそのものなのではない
か。
80代打名無し:03/09/30 22:39 ID:uvCszKoD

江夏は≪冷静だった≫という。
古葉監督もまた≪冷静だった≫といった・・・・・・。ゲームはコミュニケーション・ギャップのな
かでドラマまで形作ってしまう。
江夏は集中力を取り戻している。
石渡がバッター・ボックスに入った。
≪1球目、投げたのは外角から入っていくカーブだね。石渡はまったく動かなかった。それ
でこれはスクイズが必ず来るとわかった。あそこで少しでも打ち気に来てたら考え直したかも
しれない。あとはスクイズがいつ来るかだ。シリーズ七戦目に入って、近鉄のブロック・サイ
ンはだいたい読めていた。でも、あのときは近鉄ベンチからスクイズのサインが出ていたかど
うかわからんかった。
次が問題の2球目だった。カーブのサインだった≫
81代打名無し:03/09/30 22:40 ID:uvCszKoD

日本シリーズ第七戦の江夏―水沼バッテリーのサインは公式戦でのサインに戻っていた。日
本シリーズの前半の数試合は、シリーズ用のサインを使っていた。公式戦でのサインはすでに
解読されていると思ったからだ。が、数試合を戦ううちに、サインを見破られることのマイナ
スよりも、新しいサインにバッテリーが戸惑い、神経を使うことのマイナスのほうが大きいこ
とに気づいた。
水沼がキャッチャー・ミットのかげで指を動かす。一本、二本、三本・・・・・・と、水沼がアッ
ト・ランダムに指を示す。江夏は自分の投げたいボールのサインが出たところでうなずく。そ
れが基本的なサインの交換である。その、いつもながらのサイン交換で江夏はカーブを選んだ。
82代打名無し:03/09/30 22:41 ID:uvCszKoD

江夏は、いつものように投球動作に入った。江夏のピッチング・フォームには一つだけ、ク
セがある。それがこの場の結果を左右するとは、江夏自身も思ってはいない。
≪オレは投球モーションに入って腕を振りあげるときに一塁側に首を振り、それから腕を振
りおろす直前にバッターを見るクセがついている。これは阪神に入団して三年目ぐらいのとき
に金田(正一)さんから教わったものなんだ。投げる前にバッターを見ろ、相手の呼吸をそこ
で読めば、その瞬間にボールを外すこともできる。石渡に対する2球目がそれだった。石渡を
見たとき、バットがスッと動いた。来た!そういう感じ。時間にすれば百分の一秒のことか
もしれん。いつかバントが来る。スクイズをしてくるって思いこんでいたからわかったのかも
しれないね。オレの手をボールが離れる前にバントの構えが見えた。真っすぐ投げおろすカー
ブの握りをしていたから、握りかえられない。カーブの握りのまま外した。キャッチャーの水沼
が、多分、三塁ランナーの動きを見たんやろうね。立つのが見えた・・・・・・≫
83代打名無し:03/09/30 22:42 ID:uvCszKoD

それが、バッター・ボックスにいた石渡には信じられない。あそこからスクイズを外してくる
なんて、しかも変化球で外してくるなんて・・・・・・ありえない。
瞬時の出来事である。
センターから江夏の背中を通してバッター・ボックスを狙っているテレビ・カメラは、江夏
のいつもながらの投球モーションを捉えている。江夏が腕を振りおろす。キャッチャーの水沼
が立ち上がる。バッターの石渡がバントの構えをとり始める―。すべては同じ時間軸の上に
あった。差し出された石渡のバットは、ブラウン管の上で一、二センチ上下にふらついた。体
がもう、あえいでいる。
ただし、球種は石渡のいうようにフォークではなかった。真上から投げおろすカーブである。
江夏はスライダー気味のカーブ、真上から投げおろすカーブの二種類のカーブを持っている。
真上から投げおろす場合、手首は90度左に開いている。その握りで直球は投げられない。その
せいで、この1球は石渡をほんろうすることとなった。球はバットの下をかいくぐったのであ
る。
84代打名無し:03/09/30 22:43 ID:uvCszKoD

三塁ベースから疾走してきたランナーの藤瀬は踵を返して戻ろうとする。三塁ベースに向か
ってつんのめりそうになるその背中を水沼のキャッチャー・ミットが激しくたたいた。江夏は
投げ終わった瞬間、ぴくりと背中をふるわせている。
そしてすべてが終わるのだ。
三塁ランナーは挟殺された。ツー・アウト。石渡のカウント、ツー・ナッシング。
江夏はそのまま勝負に出た。インサイド低目の直球である。石渡はかろうじてバットに当て
た。江夏は早いテンポで4球目を投げる。インサイド低目に沈んでいくカーブ。石渡のバット
が空を切った。
それは9回裏に江夏が投げた21球目のボールである。
85代打名無し:03/09/30 22:44 ID:uvCszKoD

正確にいえば二六分四九秒―その間、江夏はマウンドの一番高いあたりから降りようとは
しなかった。マウンドは江夏のためにあった。
石渡が気圧されるように三振に倒れると、江夏はマウンドを駆けおりた。大きくとびあがり、
その周囲に選手が集まり胴上げシーンが展開された。古葉監督、そして江夏の体が宙に舞った。
江夏のブルーのビジター用ユニフォームの背中には赤く≪26≫という数字がぬいこまれている。
その≪26≫が、大阪球場の今にも泣き出しそうな空の下で舞った。
その直後、江夏はベンチに戻り、うずくまって涙を流したという。


 −−− ≪完≫ −−−