もし園川がヤクルトに入団していたら。 修正版。
園川一美は昭和60年秋のドラフト会議で2位指名を受けヤクルトに
入団した。1位指名は社会人ナンバーワンと名高かった伊東昭光(本田技研)だったが交渉の席上、開口一番「なんで僕が一位じゃないんですか?」とスカ
ウトに詰め寄ったという。「うちは園川君も欲しかった。しかし、伊東君がそ
れ以上に欲しかった。それだけだよ」とさとされるとあっさり引き下がった。
彼に与えられた背番号は21。この年スワローズは13、15、16、17、
18と空いていたが(18は1位の伊東昭光が着用)そこであえてあの756号
被弾男鈴木康二朗のナンバーというのがその後の園川のポジションをなんと
なく位置付けてしまったように思うのは結果論に過ぎるだろうか。
1986年はちょうどスワローズ投手陣が世代交代の時期に来ていたことも
あり、1年目から28試合に起用される。あの性格が江戸っ子の土橋監督に
気に入られず、主に中継ぎ・敗戦処理での便利使いに終始したが、それでも
3勝5敗はたいしたものであった。
また、この年引退した山本浩二の引退試合に登板し、最後のホームランを浴びる。試合後、 「どうだい、536本目を打たれた感想は?」という問いに対し
「いや、別に。僕一人で打たれたわけじゃありませんからね」と返し記者連を
黙らせた。
翌年関根監督が就任すると「あの子はねぇ、面白いですよ、ええ」と
高評価を受け先発に回る。巨人戦には滅法強く6戦に登板して4勝を
上げた。しかし他球団相手ではなぜか威力を発揮せず通年では8勝10敗。
スワローズでは浅野以来となる巨人キラー扱いには「別に巨人戦だろうと
そうでなかろうと一緒にやってますよ」とのみ答えた。
87年は開幕戦が巨人戦ということもあり伊東・尾花・荒木を押し退けて
開幕投手に指名される。ずらりと並んだ左打線を見事抑えるが五回表終了
0ー0で降雨コールド。せめて試合が成立していれば、と惜しまれる
幻の開幕投手となった。
88年、長嶋一茂が入団、東京ドーム開業と話題に花咲く中
園川にとっては、長嶋一茂の「神宮より広いからホームラン出にくそうですね」発言に
「お前はまず神宮で打て」と突っ込んだことくらいしか逸話がない。
あえて挙げるならば伊東昭光が最多勝のタイトルを取ったが、その18勝目の試合、
先発したのは園川だった。4イニング無失点でバトンタッチし、後を伊東が受けて
3イニングを投げ、勝利投手に。
「同期の友情リレー」とサンケイスポーツではそこそこ扱われた。
しかし園川は嬉しそうでも悔しそうでもなく淡々としていた。これを
「思うところを内に秘めたポーカーフェイス」と誤解する向きも多かった。
またこのころ、池山・広沢のいわゆるイケトラコンビ台頭でチーム全体も
テレビ露出が増える中、巨人キラーで名を売ったことがある園川にも
出演依頼が来るものの、バラエティ番組には余りに不向きな
キャラクターであったために壁の花となることが多かった。
89年。チームとしては、前年の55試合登板という無理がたたって
エース伊東が調子を崩したため先発陣は頭数不足になるも
なぜか園川は投球回数130回2/3という微妙な起用に留まった。
それでもようやく二桁の壁を突破する。10勝13敗。
90年、野村監督が就任。野村監督をして「よその誰よりまずこいつが分からん」
と嘆かれながら左不足のチーム事情から先発三番手に抜擢される。
御存じ「ID野球」がスローガンとなるが、先発即炎上の試合などでは
「ID(いきなりダメ)園川」などとスポーツ紙に揶揄された。
91年、チームは11年ぶりのAクラスに輝き西村、川崎、岡林らが軒並み二桁、
広沢が打点王、古田が首位打者と華々しく話題をさらう中、7勝11敗で防御率3.96。
打線や野村采配の恩恵を受けているのかいないのかさっぱり判別できなかった。
さらに、この年特筆すべきこととしては、オフにトレード話が持ち上がったことだろう。
巨人からは井上+四條、西武からは大久保+金銭の名があがり、新聞辞令が
大分にぎやかだったが、結局壊れた。理由は現在も不明。
92年、チームは14年ぶりの優勝に輝く。天王山大詰めの阪神戦で八木に
幻のホームランを打たれたりしながら先発に中継ぎに、時に敗戦処理にと
大車輪。7勝5敗と優勝に貢献。
しかし日本シリーズでは森西武に通用せず、めった打ちを食らう。加えて
第5戦では当て馬に使用され、西武球場に「四番DH園川」のコールが響いた。
しかし、このDH起用が波瀾を呼ぶのである。
ルール上DHは最低一回は打席に立たなければいけない。
スタメン交換の際に隣の広沢と守備位置を間違えたのだという説から
ノムさんのルール勘違いという説、さらには相手の動揺を誘うための策略説まで
諸説紛々巻き起こったがそのあとの出来事からすればそれも所詮前振りに
過ぎなかった。
この異例の事態に動揺したのか、先発の渡辺久信大乱調。立ち上がりヒットとフォアボール
でノーアウト満塁のピンチを作って園川を迎えてしまうのであった。
一回表、無死満塁。バッター園川。異様な雰囲気の中、マウンドに集まる西武内野陣。
レフトスタンドからは「ホームランホームラン園川」の無茶な要求大合唱。
伊東は後に語る。「あのときはスクイズしか頭になかったですね。野村さんの采配からして
必ず何か仕掛けてくると、そればっかりで頭がいっぱいでした」と。
にやりと笑って打席に立つ園川に、スクイズ外しの外角球が1球、2球。気が付けばカウント
ノースリー。しまったと思ったときにはもう遅かった。押し出しのフォアボールでスワローズ
1点先制。東京音頭の大合唱の中、園川は代走秦に代わってベンチへ引っ込む。
このリードを保ったままスワローズが勝利したためこの試合勝利打点は園川についた。
試合後、「スクイズ?別に」とだけ答えた園川だが、満場の観客を前にお立ち台での
ポーカーフェイスはある種園川の真骨頂であった。
93年、チームは連覇し、園川も日本シリーズに7戦中5戦登板。両チーム通じて
最多イニング数を投げるが勝ち負けなしという空前の記録を作る。
また、今回はピッチャーとして打席に立つ機会に恵まれたが、見逃し三振に終わっている。
94年、巨人キラーぶりが復活するが優勝はさらわれる。終盤、中日との
デッドヒートを繰り広げる巨人に完封勝利し、次の中日戦でノックアウトを
食らうなどして巨人ファンから怒りをぶつけられることもしばしばだった。
95年。2度目の開幕投手に。試合前「今度は東京ドームだから降雨コールドは
ないですね」の突っ込みに苦笑い。終盤、新外国人シェーン・マックと松井秀喜に
一発を浴びたが、この2失点のみ。9回を投げきったが味方も好投する斎藤雅樹から
点が取れず、敗戦投手に。「今回も雨天コールドだったら負けなくてすんだんですけどね」
との記者の質問に「しょうがない。俺が開幕で投げてること自体がおかしいんだから」
とコメントしている。このシーズンから先発は谷間のみで、中継ぎに回ることが多くなった。
投球回数は規定に届かなかったもののシーズン42試合登板は生涯最多となる。
日本シリーズ前の特番で古田が「唯一配球を任せるピッチャー」として
名をあげ、一部で話題となる。
96年。正確には95年オフ。
巨人長嶋監督が自らのレフティーズコレクションに園川を加えたがり、
今度はトレード話ではなくFA騒動となる。一躍渦中の人となったが、本人は宣言を
せずに残留。「巨人?別に」の一言が、この件で残されている彼の唯一の
オフィシャルコメントである。
代わりに河野がファイターズからFAで巨人入りし、長嶋監督の傷心を
慰めることとなった。
96年のシーズン、別に際立って変化はないものの、メイクミラクルを
掲げて逆転優勝を目指す長嶋ジャイアンツにしばしば冷水を浴びせるような
ピッチングを行なって「だからあのとき園川をとっていれば」と
長嶋監督に臍をかませたという逸話がまことしやかに伝わっているが
その真偽は定かではない。
ただ、その経緯を意識して、野村監督はこれ見よがしに園川を
巨人戦で登板させ、野村長嶋対立の歴史に地味な一コマを
添えることともなった。
97年、選手生命晩年期に入り、マシンガン打線にぼこぼこにされながら、
戸田で昼寝する姿もしばしばみられるようになった。
98年、野村監督の退陣と同じ年に、ひっそりと現役を去った。華々しい
野村演説の影で、ライトスタンドから流れる東京音頭に送られるその姿は、
決して一流とはいえないものの、確かに一時代を支えたプロのものだった。
「家族主義」を掲げるヤクルトは彼を手放さず、球団職員として迎え入れた。
現在でも、インタビューを受ける若松監督の横で報道陣を仕切っている
園川の姿を見ることができる。「広報としてはアレだ。明らかにミスキャスト」
との声をその背に受けながら。