西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター限定(4)

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269代打名無し
昭和二十七年七月十六日、平和台球場で行われた西鉄−毎日戦のスタンドは、不穏な空気に包まれていた。
試合開始は午後五時。四回まで4−9と劣勢だった毎日ナインは、露骨な遅延行為を始めた。
ショートが水を飲みにベンチに戻る。セカンドの目にごみが入る。捕手がミットのひもを結び直す…。
いつまでたっても試合は進まない。当時、平和台に照明設備はなく、試合成立の五回を終えることができず、
ついに午後七時二十分、主審は日没ノーゲームを宣告した。ただでさえ気の荒い平和台のファンの怒りが爆発し、
グラウンドになだれこんで乱闘となり、球場側は警官隊を導入した。騒ぎはこれで収まらず、
武装したファン約三十人は毎日選手の宿舎を目指した。球団幹部はすでに逃走して宿舎にはいない。
そこへ殴り込もうとするファンらの前に一人の選手が立ちはだかった。大館さんだった。ハワイ・マッキンレー高校出身。
京都の平安中(現平安高)卒業後、武道専門学校に進み、柔道家として、後にプロレスに転向する木村政彦氏とも対戦した。
神戸の警察署で柔道師範を務め、戦後の二十四年、怪力を買われて三十一歳で阪神入り。その後、毎日にトレードされ、
西本幸雄選手と交互に一塁を守っていた。プロ在籍七年間で二百六十四試合に出場、通算成績は打率二割五分三厘、本塁打十三本。
記録は平凡だったが、九十三キロの巨漢。加えて、柔道家の気迫。「平和台事件」のあの日、暴徒化したファンは大館さんの姿を前に、思わず足を止めた。
深々と頭を下げ、謝罪する大館さんに、西鉄ファンも「大館さんが謝ってくれるなら」と引き揚げたという。敵方のファンにも敬服の念を持たれた選手だった。