【訃報】武上四郎氏死去

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737代打名無し:02/09/29 17:59 ID:UKN+Ai2D
ミッキー安川登場で一気に胡散臭くなった(w
さすがミッキー。

>735
大杉スレになったから。
738大杉の著書からの抜粋(52):02/09/29 22:20 ID:83JSLRH/
●疲労骨折で窮地に立つ

いよいよ開幕間近になった3月末、
ぼくは神宮球場で特打を30分ほどやった。
かなり気合を入れて打ち込んだ。
そのせいか、例の脇腹の痛みがまたぶり返してしまった。
すぐにトレーナーの手当てを受けたが、痛みが今までとは違う。
翌日、西武球場での試合に出かけたが、痛みはひどくなる。
それで監督にいった。

「まことに申し訳ありませんが、
 脇腹の肉ばなれ(とぼくは思っていた)がまた出てきたようなので、
 今日はバットが振れそうにありません。休ませていただけませんか」

「ああ、いいよ」

と武上監督はいった。

「どうだ、大杉。おまえ、ファームへ行って徹底してやらんか。
 納得のいくまで調整してこんか」

「そうですか。それならファームへ行って、
 ケガをきっちり治してくることにします。」

その日、ぼくは試合を休んで、次の日、中央鉄道病院へ行った。
この病院は、ヤクルトが国鉄スワローズだった時代から
お世話になっているところである。
レントゲン写真を5、6枚撮ってもらったが、
「何ともないですよ」といわれた。しかし、どうも痛さが普通ではない。
ぼくはその日のうちに、長野へ向かった。
国立長野病院の吉松俊一先生の診断を受けるためである。
739大杉の著書からの抜粋(53):02/09/29 22:33 ID:83JSLRH/
吉松先生とは、昭和48年以来の知り合いで、
特に昭和50年の鹿児島でのキャンプ中、
自打球を左ヒザにあててケガをした時、
3週間ほどお世話になった先生である。
その吉松先生に事情を話し、
断層写真というのを30枚ほど撮ってもらった。
現像されてきた写真を次々に眺めていた先生が、

「おっ、これはどうしたんだ」

と1枚を取り上げた。見ると肋骨の下のほうに、
薄い線が浮かんでいる。

「大杉君、こりゃ骨折だよ。疲労骨折だ」

第12肋骨疲労骨折。それがぼくを長い間苦しめてきた原因だった。
吉松先生は、しばらくバットを振らないほうがいいといわれた。

「痛みがとれたら徐々に始めなさい。絶対に無理してはいかん」

ぼくはすぐ東京に帰り、球団のトレーナーにそのことを報告し、
治療とトレーニングを兼ねてファームへ行かせてもらいますからと伝えた。
それで自分の荷物をまとめていると、しばらくして、

「大杉君、横浜鶴見のK病院へ行って診断をしてもらいたまえ」

とトレーナーがいってきた。

「どうしてですか」
「K病院へ行くようにというのは、球団の命令だ」
「しかし国立長野病院で診てもらってきたのだから、
 行く必要ないじゃないですか。
 ということは吉松先生を信用しとらんのですか」

と、ぼくは抗議したが、球団の命令とあれば逆らうわけにもいかない。
それでK病院へ行き、レントゲンを撮った。疲労骨折の形跡はないという。
740大杉の著書からの抜粋(54):02/09/29 22:41 ID:83JSLRH/
ぼくには何が何やらさっぱりわからん。だが、痛いのは絶対に痛い。
痛みさえなければ、バッティングではチームの誰にも負けない。
痛いから今の調子なんだ。

「わかってもらえませんか、先生」
「大丈夫、十分やれるよ」

とK病院の先生はいった。
どうにも納得がいかぬまま、翌日、神宮球場へ行くと、武上監督がいった。

「大杉、おまえはやれるそうだから、ファームへ行かんでもいい」

つい1日前には「ファームへ行け」といった同じ口から、
こういう言葉が出てくるのである。
そんなわけで、ファーム行きは中止となったが、ぼくはそれから10日間、
バットを振らなかった。オープン戦にも出なかった。
ただひたすら走り、体操で体をほぐし、ノックを受けた。
ぼくがようやくバットを振れるようになったのは、
シーズン開幕の2日前からだった。
741代打名無し:02/09/30 03:36 ID:EGBezZC7
保守
742大杉の著書からの抜粋(55):02/09/30 23:11 ID:vwVR2E/6
●引退への最初の兆し

オールスター戦が終わったあと、
8月初めに大分、小倉、広島へと遠征した。
広島カープとの3連戦である。
のちに、ぼくがこのシーズンを限りに引退せざるをえなくなった
最初の兆しが、この時の3連戦のさなかに起こった。
8月2日、大分での広島戦。この日は猛烈に暑かった。
体を動かすのもしんどいほどで、試合前のランニングを、
照明塔の影を縫うようにしてやった。気象台の発表では38度。
グラウンドの上は、おそらく40度はあったのではないかと思う。
暑さのせいで体がだるかったが、その日は、特別なことはなかった。
しかし、守備からベンチへ帰るたびに、暑い暑いといいながら
クーラーがガンガン効いたロッカールームへ飛び込んだことが、
やはり負担をかけたのだろう。
3日、小倉での試合を終えて、広島へ移動した。
4日、ぼくは3回にホームランを打ち、5回にライト前へ打った。
その5回裏の守備についた時である。
1アウトで、山本浩二がバッターボックスに入った。
突然、胸の動悸が激しくなった。
心臓の動きがものすごい。胸が苦しい。

おかしいな。どうしたんだろう。

そう思ったとたん、山本浩二がぼくのところへゴロを打った。
2アウト。次いで衣笠がライトフライでチェンジ。
6回表の攻撃。角がヒットを打ち、若松が四球を選び、
ノーアウト一・二塁。バッターボックスへ向かう前、ぼくは武上監督に、

「どうも胸が苦しくていかんのです。動悸が激しくて打てそうもないので、
 送りバントをさせてください」

といった。
送りバントも失敗だった。キャッチャー前のフライがワンバウンドとなり、
走れずにいるぼくはタッチされ、ボールはセカンドへ転送されて、
一瞬のうちにダブルプレーとなってしまった。
743大杉の著書からの抜粋(56):02/09/30 23:28 ID:vwVR2E/6
とても野球をやれる状態ではなかった。
ぼくはベンチへ帰って、監督にいった。

「今までとはどうも状態が違うようなので、このまま休ませてほしい」

ベンチの奥のロッカールームで横になり、息苦しさをじっと耐えた。
脈拍が平常に戻るまで30分ぐらいかかったと思う。
この日はこれで済んだ。
動悸がおさまってしまうと、別に何の不都合も起きない。
「何があったの」てな感じでケロッとしている。
この試合で3回に津田から打ったホームランによって
ぼくは4000塁打を記録した。
これは、王、野村、張本、長島、土井、山内に次ぐ7人目の記録である。
記録といえば、2度目にダウンした8月8日の神宮での巨人戦が、
セ・パ両リーグ1000試合目の出場だった。
この試合では1回早々、センター前へ打って一塁へ駆け込んだ時に、
前回と同じ状態になり、途中退場して慶応病院へ行った。
診断は、単なる疲労性の動悸亢進ということだった。
しかし、この時にはわからなかったが、後日、
鉄道中央病院で精密検査を受けたところ、不整脈であるといわれた。
軽い気蓋収縮も起こしているが、それは非常に軽いもので心配はいらない。
原因についてははっきりしないが、たぶんストレスによるものだろう、
との診断である。
不整脈というのは、誰にでも起こりうるものだともいわれた。
健康な人でも、脈がポンと飛ぶ。
ただそれをドキンと感じる人と、感じない人がいるそうだ。
ぼくの場合は、非常に感じやすい体質なのだろうとのことであった。
744代打名無し:02/09/30 23:38 ID:Cl8uSO5K
なんで最後だけageるかね。
基本的にスレ違いなんだからsage進行で・・・。
745代打名無し:02/10/01 01:25 ID:9LQkzpSB
まあまあ別にいいじゃないか
ROMが多くいる有意義なスレなんだから
746代打名無し:02/10/01 01:33 ID:tUcB/t6P
おぅ、俺もROMってるよ。
747大杉の著書からの抜粋(57):02/10/01 06:23 ID:N+JSvE5L
●オレは神宮に咲いたかすみ草

(この章、後に出てくる一語の説明なので一部抜粋。
 史上5人目の1500打点達成の日。)

試合後、ぼくは記者団にこう話している。

「王、長島さんがひまわりで、野村さんが月見草。
 まあ、ハリ(張本)さんも月見草で、オレはひっそりとかすんでいるから、
 さしずめ神宮に咲いたかすみ草だな」

ぼくの前に1500打点を記録しているのは、
王、野村、張本、長島の諸先輩たちである。
そして王、長島さんを”ひまわり”といい、
自分を”月見草”と称したのは野村さんだ。
それならぼくは”かすみ草”といおうとして、
ハッと張本さんを忘れていたことに気づいた。
ハリさんは何だろうと一瞬考えた。
プロ野球の選手は、誰でも自分がひまわりだと思っているものだが、
そうもいえない。どちらかといえばハリさんは”雑草”だろう。
しかしそれでは失礼だ。
そこで、ガラじゃないと思うが、野村さんと同じ”月見草”にして、
ぼくは”かすみ草”といったのである
(こんなこというと、ハリさん怒るかな)。
748大杉の著書からの抜粋(58):02/10/01 06:40 ID:N+JSvE5L
●不整脈で心臓検査を受ける

むろんその時には、
まさかこんなことになるとは思ってもみなかったが、
結果的に、9月29日広島球場での対広島24回戦が、
ぼくの現役最後の試合となってしまった。
2回裏の守備を終えたあと、不整脈に襲われたぼくは、
救急車で広島県立病院へ運ばれた。
胸部外科で心電図を撮り、点滴を受けた。
不整脈そのものは、3時間ほどでおさまったが、
その夜は病院に泊まった。
10月1日、現役選手登録抹消。
同時に「治療に専念させたい」との武上監督の談話が新聞に掲載されている。

「自分もコーチ1年目の昭和51年に不整脈の症状が出るようになって、
 完治するまで1年かかった。
 それはシーズン途中で休まなかったためであり、
 大杉の場合は、2、3ヶ月休めば治ると思う。
 両リーグ200号本塁打など記録も大事だが、
 ここで無理すれば、選手生命はおろか本当の命まで危うくなる。
 休んで治れば来期もプレーできる選手なので、
 あえて登録を抹消することにした」

10月11日、榊原記念病院に検査のため、入院。
この病院は松園オーナーの心づかいで紹介していただいたところだった。
院長の小船井先生は、わが国心臓医学の権威である。
ぼくには何としても達成したい記録が、まだふたつ残っていた。
それは両リーグ200号ホーマー(あと1本)と、
500号ホーマー(あと14本)である。
とくに500号については、できることなら、
東映フライヤーズ時代からの先輩であり、
兄貴分のような存在である張本さんの504本を1本でも超えたいと思っていた。
それが、影となり日向となってぼくを応援し、
指導してくれた張本さんへの恩返しとなるはずだ。
749大杉の著書からの抜粋(59):02/10/01 06:53 ID:N+JSvE5L
たとえ榊原記念病院の小船井院長から
「もう野球のできる体ではありませんよ」
といわれたとしても、
バットマンの夢であり財産であるこのふたつの記録だけは、
命をかけてでもやりとげたい。

入院を決めた時、ぼくはそう心に誓っていた。

野村克也大先輩は、かつてこういってくれた。

「大杉君、野球やめるのは、いつでもやめられる。
 しかし苦しいだろうけど、
 1年でも2年でも長く現役を続けることが、男の仕事なんだ」

ぼくはこの言葉を、かみしめながら病院へ向かったのである。
榊原記念病院708号室。それがぼくに与えられた部屋だった。
入院したその夜、ぼくは病室のテレビで、ジャイアンツ優勝の瞬間を見た。
寂しい夜だった。
翌日から早速、検査が始まった。
心電図、レントゲン、心臓負担検査、エコー検査など、
いくつかの精密検査を受けたが、いずれもとりたてて異常なしであった。
10月13日、担当の阿部先生から”カテーテル検査”というのを
やってみませんか、といわれた。
これは心臓血管狭窄の発見法だという。
股のつけ根の動脈に細い管を通し、
そこから造影剤を心臓に送ってレントゲン検査をすれば、
より確かなことがわかる。

「強制ではありません。大杉さんの場合はそこまでする必要はありませんが、
 もし、今後の野球生活のためにやっておこうという気持ちがあれば、
 やってみませんか」

ぼくは、「やりましょう」と答えた。検査は10月18日と決まった。
750大杉の著書からの抜粋(60):02/10/01 07:09 ID:N+JSvE5L
●引退への道が進められていた

今、入院中に書いた日記を読むと、ぼくも少なからず弱気になっていたようだ。

<<いろいろ考えても仕方がなかろう。
 病院と先生、スタッフの人たちを100パーセント信じて、
 とにかくやろう。この苦しみは長い人生のほんの一里塚にすぎない。
 お袋や女房、ふたりの子供たちのためにも、必ずバットが振れる日がくる。
 もう一度、神宮のボックスに立ちたい>>

<<病院の朝は早い。6時には看護婦さんの検温がある。
 カーテンを閉め切っているので外の様子はわからないが、
 ビルの谷間の一角の当榊原病院の朝は静かだ。
 しかし生と死の間で闘っている人は多い。
 当然かもしれんが、皆さん、闘いの不安をチラッと見せることがある。
 ぼくは軽い症状なのに、不安は人一倍強い。
 いろいろと看護婦さんに症状を訊いては困らせている。
 チームプレーの大切さをプロ野球を通じて知っているのに、
 そのチームプレーをこわそうとしている。
 元気になりたい。早く元気になりたい>>

<<ぼくは現代の医学を100パーセント信じている。
 小船井院長先生や阿部先生を100パーセント信じている。
 心臓病よりも、江川のあの150キロを超えるストレート、
 彼が自ら名づけたナイアガラカーブのほうが、
 よっぽどやっかいで怖い>>

<<カテーテル検査、10月18日午後1時半、プレーボール。
 秋が日に日に深まってくるが、今朝はもう初冬の感じがする。
 澄みきった空気のように、ぼくの心も澄みきっている。
 まさしく、江川君との対決を前にした心境である。
 すべて自分の力を信じてボックスに立ち、江川君に向かっていくように、
 今日は阿部先生を信じて頑張りたい>>
751大杉の著書からの抜粋(61):02/10/01 07:21 ID:N+JSvE5L
検査には約2時間を要した。
その結果は、心臓の血管に狭窄は見られない、
正常であるとのことだった。阿部先生は、
「大丈夫です。野球はできます。心配いりません」といってくれた。
検査そのものはさほどではなかったが、終わったあとが大変だった。
細い管を入れるために切開した右足つけ根の動脈から出血しないようにと、
6時間の絶対安静をいいわたされたのである。
これはつらかった。ピクリとも動いてはいかんという。
腰の痛みがきつい。まさに難行苦行であった。
そんな状態のなかで、取り寄せたスポーツ紙を見ると、

”大杉、不整脈のため引退”

と、1面トップにデカデカと出ている。例の夕刊スポーツ紙である。

また仕組んだな。

とぼくは思った。記事を読むと、
引退後は打撃コーチの席を用意しているなどと書いてある。
こういう記事は、球団首脳の誰かがニュースを流さなければ
書けるものではない。
記事を読みながら、ぼくは自分の引退の道が、
引退といえば聞こえはいいが、要するにぼくを辞めさせるような用意が、
ぼくの知らないところでどんどん進められているのではないかと感じた。
退院の前日、ジャイアンツの堀内の引退試合の記事を、2時間かけて読んだ。
またひとり、ぼくと同時期に活躍した仲間が引退していったことを、
非常に寂しく思った。
ぼくは日記に書いた。

<<堀内、おまえの分まで頑張るぞ>>
752代打名無し:02/10/01 07:57 ID:7xojXub+
>>737
>ミッキー安川登場で一気に胡散臭くなった(w
ワラタ
753大杉の著書からの抜粋(62):02/10/01 08:08 ID:N+JSvE5L
●球団命令のマスコミ発表に抗議

10月24日、退院の日、ヤクルト球団からトレーナーと課長が来て、
ぼくと一緒に小船井院長先生から検査の結果を聞いた。
その概略は次のようなことである。

検査の結果、所見としては発作性の心房細動ということである。
これは自律神経の失調、あるいはストレス、あるいは肉体的疲労、
睡眠不足などの要素が4つか5つ重なった時に、
はじめて起こりえるのであって、決して野球ができない状態ではない。
検査の結果、心臓そのものに異常は認められないことがはっきりした。
大杉さんの場合に考えられる主たる原因は、おそらくストレスだろう。
薬を投与するほどのこともない。
発作性心房細動というより、
むしろ発作性貧脈症といったほうがいいかもしれない。
天下の榊原記念病院の小船井院長はこういってくれたのである。
ところがトレーナーは、

「いや、それではマスコミとファンが承知しない」

といった。

「それはどういう意味ですか」

とぼくは訊いた。トレーナーは、

「病名をマスコミに発表しなければならない。これは球団の命令だから」

という。そして小船井院長にしつこく訊いた。

「大杉さんが現実に起こした発作というものを、病名でいうと何というんですか」
754大杉の著書からの抜粋(63):02/10/01 08:18 ID:N+JSvE5L
「マスコミに発表するというのは、ちょっと行き過ぎじゃないですか。
 わたしどもは大杉さんのプライバシーを守りたい。
 どうしても、特にとおっしゃるなら、
 病名は特発性発作性心房細動ということになりますが、
 わざわざ球団が発表されるほどではないのではないですか」

小船井院長はそこまでいってくれた。しかしトレーナーは、

「では、その病名で発表します」

と譲らなかった。

「待ってくれ」

ぼくはいった。

「オーナーや球団に報告はしても、マスコミに発表する必要はないじゃないか。
 発表されたあとのぼくの人生はどうなる。
 町を歩いている、車で通りかかる、電車に乗る、飛行機に乗る、そのたびに、
 あ、大杉は心臓病だ、心臓が悪いんだとみんなに思われ続けて、会う人ごとに、
 大杉さん、心臓の具合はどうですかなどといわれたら、逆にストレスがたまる。
 だから発表するような愚かなことは、やめてくれませんか」

「いや、これはどうしても発表しなければまずい」

「もう勝手にせい!あなたの好きなようにすればいいだろう」

とぼくはいった。

「今後ぼくがバッターボックスに立つたびに、グラウンドに立つたびに、
 ホレ特発性心房細動だの発作性心房細動だのといわれたら、どうなる?
 そんな中でぼくに野球をやれというんですか」
755大杉の著書からの抜粋(64):02/10/01 08:23 ID:N+JSvE5L
あとになって考えてみれば、ぼくの抗議はまったく無意味だったことになる。
すでにあの頃、ぼくの”引退”のレールは敷かれていたのだと思う。
そしてトレーナーはそのことを知っていた。

知らないのは、当事者のぼくだけだった。
しかし、その時は、大観衆の神宮球場でバッターボックスに立つ
自分の姿を、ぼくはまだ信じて疑わなかった。

「ちょっと球団の考えていることはわかりませんね」

最後に小船井院長のいわれた言葉が、今も印象ぶかくぼくの頭に残っている。
756大杉の著書からの抜粋(65):02/10/01 08:33 ID:N+JSvE5L
●人生で最大の決断もあっけなかった。

退院後数日して、ぼくは松園オーナーのところへ挨拶にうかがった。
お礼を述べるためである。

「榊原記念病院へ入院させていただき、
 しかも十分な検査を受けさせていただくことができました。
 まことにありがとうございました。
 おかげさまで、異常なく野球ができるということですので、
 来年も一所懸命、頑張りたいと思います。
 本当にありがとうございました」

ぼくがお礼を述べ終わるか終わらないうちに、オーナーは、

「まあ、座れ」

といった。そして予想もしなかった話を始めた。

「榊原記念病院の小船井院長からの報告によると、
 きみの心臓は緊張感に耐えられない心臓だとのことだ」

ぼくは、一瞬、ガーンと頭を殴られたような気持ちになった。
それはずいぶん話がちがう。
後日、ぼくはこの一件を小船井院長に直接確かめた。
オーナーに”緊張感に耐えられない心臓”だと話されましたか、と。
小船井院長は即座に否定した。

「いや、そんな話は一言もしておりません。
 わたしが患者のあなたに対して、なぜそんな嘘をつく必要があるんですか。
 そんなことはありません。大杉さん、あなたは野球をやれる体です。
 自信を持ってやってください」

ここでも何かの作為があったのではないだろうか。
ぼくは、話がおかしいほうへ進んでいるなと思いながら、
オーナーの次の言葉を待った。
757大杉の著書からの抜粋(66):02/10/01 08:43 ID:N+JSvE5L
「どうだ、大杉。おまえ、他の球団へ行って野球やらんか」

「他の球団というのは、どういうことなんでしょうか」

「今、おまえが野球を辞めるということであれば、
 評論家、解説者として十分な仕事ができるようにしよう。
 もしそれがイヤなら、ジャイアンツなり他の球団なり、
 おまえが好きな球団でユニフォームが着れるよう、
 わたしが電話1本で取りはからってやることもできる」

オーナーはそこまでいわれた。
正直なところ、ぼくはジャイアンツに行って野球をやりたかった。
そこまでオーナーがいわれるほど、
ヤクルトで野球をやることに障害があるなら、辞めてもいい。
しかしジャイアンツへ行けるなら、ジャイアンツでやりたいと思った。
だが、オーナーは、”緊張感に耐えられない心臓”といったではないか。
それでいて他の球団で野球をやれとは、どういうことなのか。
第一、ジャイアンツの事情を考えた時、創立50周年であり、
王新監督に是が非でも優勝の責が課せられているなかで、
ぼくの”病気”の烙印が迷惑にならないだろうか。
ぼくがジャイアンツへ行って貢献するということよりも、
万一の迷惑を考えた場合、マイナス面のほうが多くはないか。

オーナーの話の合い間、瞬時にぼくは判断した。
つまり、ぼくに与えられた道は、一つしか残されていないのだと。
758大杉の著書からの抜粋(67):02/10/01 08:48 ID:N+JSvE5L
「わたしは、ヤクルトのタテ縞のユニフォームを着たまま、
 引退させていただきます」

話し合った時間は、30分ぐらいだっただろうか。
あっけなかった。
ぼくの人生で最大の決断を下すには、あまりにもあっけない時間だった。
別れ際、オーナーはこうもいわれた。

「大杉君、両リーグ200号本塁打にあと1本を残して
 やめていくというのは、さぞかしつらいだろう。
 だがな、両リーグで199本打つバッターだっておらんよ。
 それを考えたら、きみの記録は偉大なんだ」

オーナーの深い心づかいも、今回ばかりはあまり慰めとはならなかった。
ただひとつの救いは、「引退試合を用意しよう」という言葉だけであった。
759大杉の著書からの抜粋(68):02/10/01 09:02 ID:N+JSvE5L
●野村、王先輩の心遣い

引退発表の記者会見は11月8日にやろうと、球団がいってきた。
ちょっと待ってくれ、とぼくはいった。
11月8日は、王貞治さんの巨人軍監督就任が発表される日である。
当然、その記事は、スポーツ各紙の1面を飾るだろう。
ぼくの引退記事などは、3面か4面で、50行ぐらいで終わってしまう。
ぼくははっきりいった。

「それでは、ぼくの野球人生のケジメがつまらんものになる。
 発表は、王さんの監督就任の次の日にしてほしい。
 そうすれば、ぼくの記事を1面で扱ってくれる新聞もあるかもしれない。
 そこらあたりを配慮してもらえませんか」

ぼくは確かにかすみ草だ。ひまわりでも月見草でもない。
いつもナンバー2の存在かもしれん。
しかし、せめて最後の引退発表ぐらいは、
多少なりともかすみ草にスポットをあててくれてもいいではないか。
それぐらいの貢献を、ぼくはヤクルト球団にしてきたつもりである。
ぼくの主張が通って、引退発表は11月9日に行われた。
マイクの前に立って挨拶をするようにといわれた時、、
ぼくはなかなか言葉が出てこなかった。
ここで「引退します」の一言をいってしまえば、
ぼくは二度とあと戻りができないのだ。
本当にぼくは、自分の意志で辞めていくのだろうかという気持ちが、
あの引退発表の席のマイクの前に立っても、心の中にあった。

なぜオレは辞めなけりゃならないのか。
どうしてこんなことになってしまったのか。
ぼくは、ここまでぼくを追い込んだ目に見えないものに、
激しい怒りを感じていた。
760大杉の著書からの抜粋(69):02/10/01 09:17 ID:N+JSvE5L
あれは誰がいった言葉だったろうか。

”野球選手は、ユニフォームを着ている時がいちばん強い”

そんな言葉を聞いたことがある。まさしくそうだ。
ユニフォームを脱いだ野球選手なんて、屁のつっぱりにもなりやしない。
ぼくはその時初めて、その言葉の本当の意味がわかったと思った。
引退当日、野村克也大先輩から電報をもらった。

「引退残念。19年間、おつかれさま。これからは体力が勝負ですぞ」

翌日の夜、王監督から電話があった。

「大杉クン、19年間頑張ってきたことに対して、
 ほんとにご苦労さんでしたといいたい。
 引退は、自分で考えて、考え抜いて決心されたのだろうから、
 これからの人生を大切にしてください。評論家、あるいは解説者としても、
 一所懸命、頑張ってください。期待しています」

王さんは、そういって励ましてくれた。これはあとで知ったことだが、
電話をいただいた時、王さんはカゼで熱を出して寝込んでいたとのことであった。
熱をおしてぼくのために電話をかけてくれた。ぼくは感謝の念でいっぱいである。

松園オーナーと引退について話し合った日、ぼくは気分を落ち着けようと、
帰りに球団の秘書課へ顔を出した。するとある人が、

「大杉さん、長い間ヤクルトスワローズのためにありがとうございました。
 ごくろうさまでした。今の心境を何か書き残しておいたらどうですか」

といってくれた。まず”かすみ草”という文字が浮かんだ。
これを末尾に入れよう。最初の句はどうするか。未練なようだけど、
実際、未練があるのだから、その気持ちを表す言葉として、
”去りし夢”としよう。これが本当の気持ちだ。
それでは夢をどこに残してきたのか。むろん”神宮の杜”以外にはない。

ぼくの<辞世の句>である。

     去りし夢 神宮の杜に かすみ草
761大杉の著書からの抜粋(70):02/10/01 09:33 ID:N+JSvE5L
●最後の打席が欲しかった

今年の2月、3月頃、よく夢を見た。
場所は広島だ。
宿舎にしているホテルからバスに乗って球場へ向かうところである。
ヤクルトのチームメイトたちが、次々とバスへ乗り込んでいく。
当然ぼくもバスに乗ろうとするのだが、どういうわけか足が動かないのだ。
そのうちバスは出発する。

待ってくれ。オレを乗せてってくれ。オレは北別府を打つんだ。
山本浩二とホームランを打ち合うのだ。
走ろうとするのだが、金縛りにあったように体が動かない。
叫ぶのだが、声が出ない。
チームメイトの誰ひとりとして、ぼくのほうを振り向きもしない。
まるでぼくなど存在しないように。

最近でこそ、そんな夢は見なくなったが、
夢から目ざめるたびに悔しい思いをした。
ぼくは最後の打席が欲しかった。小さい頃から野球をやってきた。
プロ野球の世界に入って19年間頑張ってきたという、
心のけじめをつける最後の打席が、どうしても欲しかった。

ああ、オレはこの打席を最後にプロ野球という生活を終えるんだ。
選手生活を終えるんだ。

そう思える打席が欲しかった。
プロ野球の選手なら誰でもそうだと思う。
とりわけぼくは、自分から望んで辞めたわけではない。
広島で倒れた時も、それが最後の試合、最後の打席になるなどとは、
夢にも考えなかった。それだけにぼくは
”最後の打席”に対する執着心が一層強かった。
だから松園オーナーから「引退試合を用意する」といわれたことが、
どれほどありがたかったか。
762大杉の著書からの抜粋(71):02/10/01 09:44 ID:N+JSvE5L
新しい年を迎えて、評論家1年生として
ぼくも各チームのキャンプ巡りをした。
むろんジャイアンツのキャンプへも行った。その時のことだ。
王監督のところへ取材の挨拶をしに行くと、

「ところで大杉クン、引退試合はいつだったかな」と王さんが訊いた。

「3月24日、土曜日、神宮球場です。どうかよろしくお願いします」

すると傍にいた堀内コーチが、

「大杉さん、ピッチャー、誰がいいですか」という。

「誰でもいいですよ。何なら堀内君、きみが投げてくれると
 どっちもキズがつかずに済むから、それがベストなんだけどなァ」

「まさかそういうわけにもいきませんから。本当に誰がいいですか」

「まあ、ローテーションどおりにうまくはまれば、
 江川君か西本君をお願いします」

とぼくはいった。

「わかりました」と堀内コーチがいい、
王監督も頷いて約束してくれたのである。
ところが、である。
3月24日、ぼくは江川の球も西本の球も打つことはなかった。
ぼくがプロ野球生活最後の打席で打った投手は、鹿取である。
むろん鹿取投手だったから不満だというわけではない。
まして王監督や堀内コーチが、ぼくとの約束を忘れてしまったわけでもない。
ただ、最後の打席は江川か西本と思っていただけに、残念な思いがした。
763大杉の著書からの抜粋(72):02/10/01 09:56 ID:N+JSvE5L
●父の言葉・苦闘ありて栄冠あり

昭和59年3月24日、神宮球場。曇天が、昼すぎから怪しくなり、
試合開始後しばらくしてポツンポツンと冷たいものが降り出した。
それでも観衆約2万。熱心なファンがスタンドに足を運んできてくれた。
回は進んで、5回裏のヤクルトの攻撃である。
ジャイアンツのブルペンを見ると、西本がピッチングを開始している。
王監督は、約束どおり、ちゃんと西本を用意してくれたのである。
ぼくはベンチからジャイアンツのブルペンのほうを見ながら、

”ああ、西本を出してくれたなァ。
 王さんありがとう、堀内ありがとう、西本ありがとう”

と心の中で感謝していた。
そして西本のシュートに何回も泣かされたこと、ホームランを打ったこと、
キリキリ舞いをさせられたことなど、西本との数多くの対戦場面を思い起こして、
何ともいえぬ深い感慨にとらえられていた。

それにしても引退試合か。寂しいな。これが本当に最後なんだな。
最後の打席の相手は西本か。
やはり彼のことだから、シュートを投げてくるだろうな。
またつまるかなァ。ちょっとシュート打ちの極意でも見せんといかんなァ

などと、ひとり、さまざまな思いを胸のうちに馳せていると、突然、

「おい、ピンチヒッターいくぞ」

ときた。

「え!?」

マウンド上は鹿取である。
764大杉の著書からの抜粋(73):02/10/01 10:12 ID:N+JSvE5L
「この雨だ。中止になるかもしらんから、おまえ、早よう行け」

「だけど、西本はまだブルペンですよ」

と、ぼくはいいたかった。
いいたかったが奥歯を噛みしめて、言葉を呑み込んだ。
せっかく、王さん、堀内コーチが西本を用意してくれているのに、
ヤクルトベンチもそれを見て知っているのに、この始末だ。
雨が降っているから試合が中止になったら困るというが、
これはぼくの引退試合だ。
ぼくが出て行くまで、アンパイヤがゲームセットにするわけがないではないか。

今さら文句をいって引退試合のムードをぶち壊すのも、せんないことだった。
ぼくは黙ってバットを取り出し、ゆっくりとベンチを出た。
三、四度素振りをくれ、バッターボックスへ向かう。
19年間のプロ野球生活、長くもあり、夢のように短くも感じられた歳月の、
最後の打席へとぼくは、ゆっくり歩いて行った。
走馬灯のように、ありふれた表現だが、まさしく走馬灯のように、頭の中を、
胸のうちを、さまざまな思いが駆け抜けていった。

(以下数章、大杉の野球人生が綴られ、ラストに。)

ぼくが最後のバッターボックスへ歩いて行ったのは、5回裏だった。
1死ランナー一塁に八重樫がいた。マウンド上は鹿取義隆投手。
カウント0−1からの2球目。インコースに食い込んでくるシュートだった。
ぼくは、万感の思いをこめてバットを振った。鈍い音がした。
ぼくの最後の一打は、これから日本の球界を背負って立つ原辰徳三塁手の前へ
ゆるゆると転がっていった。
まるでスローモーションで見るように転がっていった。
その時のぼくには、確かにそう見えた。

この引退試合が終わったあと、
最後の別れの挨拶をするためにぼくはマイクの前に立ち、
こうしめくくった。

「あと一本に迫っていました両リーグ200本塁打、
 この一本をファンの皆様の夢の中で、打たせてやってくだされば、
 これに勝る喜びはありません。
 長い間、誠にありがとうございました」

神宮の杜に声がこだました。
765抜粋終わり:02/10/01 10:16 ID:N+JSvE5L
「サムライたちのプロ野球」(副題:プロ野球における監督と選手の研究)
 大杉勝男・著  発行・徳間書店 1984年6月30日初版
766代打名無し:02/10/01 14:29 ID:9LQkzpSB
乙!
767代打名無し:02/10/01 16:47 ID:BW+fYd1o
Z〜
武上、嫌な奴だな
768代打名無し:02/10/01 21:48 ID:YfzY3+Gh
う〜ん。
いまごろあの世で武上は大杉に…
769629:02/10/01 23:06 ID:9pJOE3cM
半月以上の間、本当にお疲れ様でした。
炊き付けておいて自分は勝手なことばかり書いていましたが、
スレタイとは別に大杉勝男伝の一部といった意味で、
カキコがあるのが楽しみでした。

以下は自分にとっての大杉の思い出になりますが、
パリーグのホームラン王だった大杉がヤクルトに来た当初、
信じられないくらい打てなかったのを覚えています。
当時厨房だった自分が神宮の一塁側で観戦したとき、
平凡なごろをエラーして客から派手に野次られたのに対して、
笑顔でその客の方をずっと見ていたのが印象的でした。

ヤクルトが初優勝した昭和53年、
阪急との日本シリーズ第7戦で打ったホームランは、
上田監督の講義や長時間の中断などで有名ですが、
どう贔屓目に見てもファールだろうなと思わざるを得ませんでしたが、
何年か後、プロ野球ニュースに出演した大杉がそのVTRを見ながら、
「ほら、ポールを巻いてますよね」と語った言葉を聞いて以来、
あれは間違いなくホームランだったんだと思うようになりました。


770629:02/10/01 23:08 ID:9pJOE3cM
× → 講義
○ → 抗議

   面目ない。
771629:02/10/01 23:10 ID:9pJOE3cM
× → 講義
○ → 抗議

   面目ない。
772628:02/10/01 23:37 ID:2tfidCaB
>>769
この本の副題にある、監督と選手の研究。
最初にこの副題を紹介してなかったんですが、
昔読んだ時には、この副題に違和感があって、
この本は武上批判を含む大杉の自叙伝だろうと思ってました。
今、武上関連を抜粋して読み返してみたら、
野球理論は当時のものであるものの、
今の野球に当てはめて、監督論になってるのがわかりました。
武上監督への評価を反面教師として読むと、
若松監督が去年日本一になれた理由が見える感じがします。
ヤクルトを再生させた土橋、強いチームにした野村と、
交流を持っていたり、
荒木大輔の素質を、活躍以前に的確に見抜いていたり、
大杉が野球を見る目も、なかなか鋭かったんだなと思います。

この本では武上以外にも、
大杉が関わった全ての監督の話が出てきますが、
大杉がヤクルトに移籍した時の不振は、
荒川監督に原因があるようです。
王選手を指導した有名な日本刀での練習、
あれが大杉には合わなかったとしています。
(武上に対するような批判は、荒川を含む他の監督にはしていません。
 自分には合わなかった、という感じで書いています)

遅レスになりますが、
自分もヤクルトを応援はじめたのが昭和50年です。
大杉は張本の本塁打記録を抜くまで引退はしないと思っていたので、
引退は驚きでした。
病気だと聞いても、両リーグ200本塁打にあと1本、
これは大杉なら代打で打てるだろ、なんで引退なんだ!?、と。
そして、翌年、この本を読みました。
773代打名無し:02/10/02 01:13 ID:vtiYKsOm
保守
774代打名無し:02/10/02 07:30 ID:Ikk5E+bw
>>772
>そして、翌年、この本を読みました。

その頃、漏れは横山エミーの暴露本読んでますた。
775代打名無し:02/10/02 07:44 ID:qrVmYx0O
お疲れさま。
多少スレチガイ的な気がしてたし、故人のスレだしと思って静観しておりましたが
楽しめました。ありがとう。
776代打名無し:02/10/02 22:14 ID:KyJWgtqF
>>774
井本はダメポな印象しかないな。
今だったら、2ちゃんのスターだったかもしれない(w
777代打名無し:02/10/02 22:42 ID:KyJWgtqF
武上四郎 年次成績

1967 107試合 .299  3本 27打点
1968 125試合 .283  4本 30打点
1969 114試合 .250 21本 53打点
1970 121試合 .265  9本 39打点
1971 126試合 .272 15本 51打点
1972 101試合 .279  5本 38打点
1973  68試合 .211  2本 12打点
1974 113試合 .260  5本 33打点
1975 102試合 .229  7本 18打点

通算    977試合 .266 71本 301打点

これを見ると、

>>701

>というのは、ぼくはこの6月29日の時点で、
>打率 .311でベストテンの第8位。
>ヤクルトで打撃10傑に入っているのはぼくだけだった。
>若松が .288で13位、杉浦 .273で20位、
>角が .272で23位、

>>711

>「練習では打てるのに、ゲームで打てぬのはどうしてだ!」

こんな事言っても、選手は(゜Д゜)ハァ?って感じかな。
大杉の数字は武上の最高成績以上だし、
23位の角の成績でさえ、武上の通算成績よりは上。

広岡や野村も厳しかったと思うけど、
広岡は残した数字見ると選手としてイマイチだった気はするけど、
うるさかった守備に関しては一流だったわけだし、
野村の選手実績は言うまでもなし。
もちろん、名選手名監督ではないけど、理論も無しでよく罵倒できるな〜って感じ。

大杉の繊細さから、若松が育てた今の岩村を連想した。
選手も生身の人間なわけで、上司が誰かで変わってくるなと。
778代打名無し:02/10/02 23:54 ID:yLnssaq3
>>772

>>639
>それにまあ、55年のシーズンは、われわれの選手仲間だった、
>あるいは兄貴分的な存在だった武上さんが監督をやるということもあり、
>広岡監督で日本一になった時とはひとつちがった意味で、
>頑張らなきゃならん、武上さんをバックアップしてあげなきゃいけない、
>男にしてあげなきゃいけないなという気持ちが強かったことも事実である

これ、若松が監督になったときの古田が同じようなこと言ってたっけ。
初優勝に導いた広岡の後の武上、純黄金時代を築いた野村の後の若松、
立場も近いものがある。
それがどうしてこうも違う結果になってしまったのか。

その原因となった武上の問題点を、大杉は冷静に見てたんだな。
俺は関根監督時代からのファンだから、大杉の現役時代をほとんど見た
ことがない。けれど、いろいろなエピソードを聞いていて、すごい選手だなあと
思うようになった。ただ、一般によく言われる武勇伝に気を取られていて、
大杉がこんなものの味方をする選手だってことに気づいていなかったよ。

大杉の別の一面を見せてくれた>>628氏に敬礼。
779代打名無し:02/10/03 11:39 ID:OH1qea3j
>>777
まあ、選手を叱るのに監督の現役時代の成績は関係ないと思うけど、
武上は叱り方が悪いわな。
ハッパかけてるつもりなのかもしれんが、やる気奪ってるだけだし
780代打名無し:02/10/03 17:57 ID:snDtyGWt
まだ当時はそういう精神論的な教育が
王道とされていたのもあったんだろ。
「イヤならヤメロ。やる気ないんならカエレ」と。


江本の解説なんか、こんなんばっかりだし(;´Д`)
スレ違いsage
781774:02/10/03 18:30 ID:Gle9gD1a
>>776
内容は覚えていないけど、
巻頭カラーの1ページ目は見事、完封勝利をあげて大矢と握手する
井本の写真ですた。
井本は引退後、ラーメン屋修行していたけど、今どうているのだろう。
782西井哲夫:02/10/03 18:55 ID:+4hxE6Fs
井本と井原がごっちゃになるのは俺だけでつか?
783代打名無し:02/10/04 00:02 ID:mlTkccDN
>>628 さま  本当に本当にお疲れさま。そしてありがとうございました。
私の通算25年(!)のヤクルトファン生活の中で、大杉選手は今でも強い
印象と、限りない哀惜を覚える方です。豪快なスイングと温かい笑顔、
勝負師の厳しいまなざしと子供のような茶目っ気、いろいろな意味で、
私の理想のプロ野球選手でした。亡くなったという知らせを聞いた時、
文字通り号泣いたしました。その年、ヤクルトが14年ぶりの優勝をした
のも、きっと大杉さんが天国から助けてくれたのだと確信しております。

ただ、こんな良スレが武上さんのスレから発展したと思うとフクザツ。。。
784代打名無し:02/10/04 22:18 ID:FfLZcX7r
785代打名無し:02/10/04 23:49 ID:TKiKy6Hs
>>784
松岡、井原についてはともかく、
井本をファームに落としたのは、
別に間違ってないかもしれない(w
っていうか、それ以前に、獲得したのが間違いなんだが。

藤井なんて全然普通の人だな。
786代打名無し
age