※有機合成化学の未来※

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87哲学者
有機合成とオナニーは同じである。
人はこんな事を言う私を「下品」と言うだろう。「荒し」と呼ぶだろう。「変態」だと定義するだろう。
しかし、「有機合成」自体がそれほど「下品」であり共同社会における「荒し」であり「変態」的な行為であることの裏返しなのである。
考えてもらいたい。どちらも狭い部屋(または実験室)で隠れてコソコソやっている分には誰にも迷惑をかけていない。
自らの好奇心や性欲としての快楽を得ることができる。元々、己のみの快楽を求める行為を人は卑しむのである。であるから性欲は卑しいものとされてきた。
一方で「私的好奇心」、これに関しては確かに「自分勝手な人だ」などと表現するものの完全に隠すことが出来ないため「研究」の場として活用しようと、考えたのである。
有機合成学会のマナーや学者思考は、本来卑しい「欲望」を文化としてカムフラージュすることに成功した。

こうして「好奇心(合成)」は「陽」、「性欲(オナニー)」は「陰」として社会に定着したのである。すると、どうだろう「尿」や「便」なども「性器」及び「その付近」に関わるものであるため
「性行為」程ではないが「準隔離」の扱いをせざるを得なくなったのである。
「立小便」が禁止されたのは明治に入ってからである。
88哲学者:02/10/27 00:49
では次に、「有機合成」についてはどのように考えられるか。合成に陰部は使わない。使うのはオナニーと同じ「手」である。

であるから合成屋はこう言うだろう「合成とオナニーを一緒にしないでくれ、立ちションと一緒にしないでくれ。私的好奇心を持つことはそんなに下品ではないのだ」と。
彼らの拠り所はただ一つなのである。「合成において触るのは性器ではなく実験器具」。ただ一つなのである。

だが、もうそれも通用しなくなるであろう。「立ちション」は、ある意味仕方のない行為である。尿道を縛ってでも排尿を阻止すれば生きてはゆかれないだろう。
鳥類のように卵から生まれれば別だが、排尿計画の失敗は本人にある、と言われてしまえばそうに違いはないが、場合によってはどうにもならないことも確かであろう。

それに対して「有機合成」と「オナニー」はどうであろう。なにか街中で刺激的なものを見てしまった場合、ムラムラする人もいるだろう。しかしそこで突然「オナニー」をしだすだろうか。
どうしても我慢が出来ない人間は「風俗店」などに入ってしまうかもしれないが「歩きオナニー」をいまだかつて目撃したことはない。
なぜなら「性欲」は陰であるとコンセンサスが定着しているからであるし、人前でオナニーをする恥ずかしさと自らの快楽を比較した際、恥ずかしさが快楽を上回るからであろう。
89哲学者:02/10/27 00:50
有機合成も本来同様であるはずだ。「風俗店」に対応する「研究室」に行き「私的好奇心」を処理すべきである。しかしなぜ私はそれを否定するのか。
本来人間は社会的動物であり、フランスの思想家ルソーが言うように自分の欲望の処理だけでは、社会は成り立たないのである。
研究室内だけの集団において、小さな社会契約論を結んでいても、一般社会における均衡性の寄与は極めて少ない。
研究者同士しか理解できない、まさに「洞窟のイドラ」的な快楽を消費しているのである。
これはまさに「有機合成」と「オナニー」がまったく同じレベルにあるという合理的な理由なのではないだろうか?

例を出せば「外でのオナニーは捕まるが有機合成は捕まらない」のはどう考えてもおかしなことである。

これを考えたとき、我々はやはり、「陰部」か「ガラス器具」かという部位による分類に疑問を抱く。
90哲学者:02/10/27 00:50
「摂食、排便、排尿、射精、好奇心」どれも人間の「快楽」に関わりのある行為であろう。日常、何処でも行われている行為であろう。そして、人前で、構わず行えば「迷惑」がかかることが多々在るのだろう。

であるから我々は慎まねばならぬ。これらの行為を「人前では」慎まねばならぬ。「陰部」であろうと「器具」であろうと関係無い。もし分類するならばむしろ「生命維持に必要か」という分類の方が筋が通るのではないだろうか。

だとすれば「摂食、排便、排尿、射精(妊娠を目的としたもの)」「射精(オナニーなど)、有機合成」と言った分類のは決して「誤り」ではないだろう。
だから言うのである。「有機合成はオナニーである。故に実験室での研究は歩きオナニーである」と。こうした意見を「下品、変態」などと一概に評するべき問題ではないであろう。

何度も言う。有機合成は下品な行為なのである。奇麗事では解決しない。合成屋本人が「下品」であることを考えようとせず、逃げてばかりでは、所詮、独り善がりなのである。そして、それこそがやはり「自慰」なのである。