冬休みに本格的に論理的文章の読解を教える@4年。
文章読解の第一として、文章の難易が問題となる。
難しい文章と簡単な文章では読み方のアプローチが
大きく異なってくる。
まず文章の難易について。
文章が簡単とは、自分が既知のことと文章の内容が多く
重なる場合を言う。このような場合自分のスキーマに照らし合わせて、
文章を読み進めればよい。
一方、文章が難しいとは、文章の内容に未知のことが多い場合である。
相手の論理を追随していかなくては、文脈が把握できない。
何しろ未知に充ち満ちているのだから、自分の論理で文章を読み解こうとすれば、
そこに読み違いが発生する。
このように自分の土俵に上げて文章を読み砕くか、あるいは相手の土俵で
ひたすらその真意を追っていくかといういわば真反対のアプローチが必要になってくる。
さて、文章が分かるとは、どういうことだろうか?
ルビ付きの般若心経を最後まで読んだからと言って、般若心経が
わかったとは言わない。わかったとは、音の再生ではない。
実は分かったには、レベルがあると考えるのが良い。
最低レベルの「分かった」として、文章をある一定の繋がりを保ちつつ、
最後まで読み終えることを挙げてみたい。
話題が何か、筆者の主張は何かなど、文章を読み終えた段階では
キチンと取り出せないが、とにかく最後まで読み終えた。
一見これでは、「分かった」と言うには、何の値打ちもないように思うかも知れない。
しかし、難しい文章になればなるほど、筆者の論理を一生懸命に追うことで精一杯になってしまうのだ。
というか、自分の論理を持ち出しこそが誤読の一歩となる。
そこから先2度読み段階で、話題や、まとめの文章、具体例の括りだし、
段落間の繋がりなどの読解技術が文章を構造化していく。
学生レベルでの読解の完了を挙げておく必要があると思う。
それは話題について、各形式段落、あるいは各意味段落がどのような役割を担っているかを
明らかにすること。そしてミクロ的には各文章間がどのような論理構成で繋がっているかを
便宜取り出せれば、ほぼ完璧ではないだろうか。
このように手探りから文章に立ち向かい、最後は自分の棚にきれいに整理して並べる。
これが文章読解の一連の流れだと考えます。
子供に読解指導をすることは、難しい。
指導するには、子供がどの程度分かっているのか、
教える側が把握していなくては出来ないからだ。
予習シリーズでは三回音読して、字ズラでの理解→
辞書引き、親聞き等を通じて意味レベルでの理解を深め、→
設問読み、本文照らせ合わせ、解答の書き出しの流れ→
解答解説読み
この流れで読解力を高める手順となっている。
しかし、音読三回読みなどが実戦でそのまま通用するはずがない。
音読は意味把握を横に置き、音声レベルで文章を読み終える作業である。
ある一文を意味把握しつつ読み繋ぐには、読み終えた箇所に戻ったり、
先を盗み見したりの行為が不可欠だ。そのためには音読はあり得ない。
黙読しかありえない。
まずリラックス&コンセントレートで文章を読み繋ぐことだ。
そして余裕があれば読解技術を使って同時に文章の構造化を図ればよい。
その一回の読みで、どれほど読解出来るかがテストにおける読解力の指標である。
そこでどれほど読めたかを2回目以降の音読や、指導する側の質問や、設問解き
などを通じて把握していく。教えるべき内容を指導する側がしっかり理解していることは
当然だし、それに加えて子供の状態が見えなくてはいけない。
とにかく読解指導は難しい。こんな難しいこと下手な塾講師になど任せておけない。