昭和瓦斯実業

「坂崎さん」
「はい」
「私も結婚して、息子がいます」
「えっ……」
坂崎は、女の左手を見つめた。
「指輪は、もう外してあります。心は夫からは離れました」
女は坂崎を真っ直ぐ見つめた。
「私、もうすぐ元の姓に戻ると思います」
「元の姓？」
坂崎は、「元の姓」という言葉に
微妙にアクセントが掛かっていることに気付き、
ふと問い返した。
「越江の姓にです」
　千恵子は、静かに、しかし確りとした口調で言った。
「越江……」
坂崎は、唾を飲み込んだ。

越江千恵子は、テイアンの創立者越江三郎の孫であり、
現社長の栄作の長女だった。慶応大学在学中に知り合った、
とある大企業の御曹司と恋に落ち結婚、一男を儲けた。
しかし、恋愛時代のときには隠されていた夫の人間性が、
段々と現れてきた。暴力。わがまま。
千恵子は、しばしば夫に殴られた。
やがて夫に女ができ、夫婦生活にも完全な隙間が出来た。

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