【目指せロンドン】 柏原竜二 30 【ブレない漢】
思考は脳、物質の活動であれば、どの様なプロセスで、脳活動を可能にするのでしょうか。
この点について、ベルクソンは精神活動の「純粋持続」は根源に於いて創造的な「生命躍動」で
あると述べている。つまり「生命」そのものの中に、精神的な面と物質的な面の両方が存在して
いると述べている。現在、物質の究極はクォ−クとレプトンに行き着く。「生命」が物質の
クォ−クとレプトンで構成されているのであれば、究極の世界で、「純粋持続」としての精神活動
と生命活動は、同一化(融合)して行くと思われる。
現代の科学で、思考、記憶、判断といった心的機能の脳の物理的な過程は、解明が可能な領域
に入っいている(イ−ジ−・プロブレム)。しかし、あなたは他の誰でもなく、今のそのあなたの
体験をしているのかという問題(物質から、なぜ主観的体験が生まれるのかという問題)は、
ハ−ド・プロブレム(物質としての脳の主観的意識体験を解明する学問)は、科学の問題であると
同時に哲学の問題として、科学の限界を、哲学的概念で補足する新しい学問が、主流となっている。
あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて
一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。創世記
その日には、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を
結ぶ。ホセア
蛇は女に言った。
決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものと
なることはを神はご存じなのだ。創世記
最古代人(アダム教会)たちは、人間の中にあるものをすべて、草や樹木、鳥や獣
などの呼称により表現していた。それがかれらの話し方であり誇りでもあった。
ノアの洪水後の古代教会にもそれが受け継がれ、同じように預言者たちもそれに準じた。
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うもの
を造られた。」神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣
地を這うものすべてを支配させよう。」創世記
書かれてある文字通りの意味でとれば、神の生き物創造以外のなにものでもない。
その意味でしか誰も理解できないであろう。
聖書は書かれたまま理解しなければならないという原理から、「創造論」なるものが
生れたのは必然の結果としか言えない。
しかし創世記は相応の知識で記されているので、内的な意味によらなければ誰も理解
できない。創世記第1章は、人間の「新しい創造」すなわち「再生一般」、および最
古代教会にかんするものがテーマとなっている。
内的意味は、出鱈目勝手につくられたものではない。
それは聖書がすべて相応の知識で記されているからだ。
場当たり的でない証拠に、相応の知識は聖書全体を通じて共通なのだ。
後付けでは、内的意味が共通するようなものになることはまったく不可能なのだ。
畑は略奪され、地は嘆く。
穀物は略奪され
ぶどうの木は枯れ尽くし
オリーブの木は衰えてしまった。ヨエル1.10
「人 homo」は、ヘブル語で土humus からとられたアダムAdamのことを指し、
それは教会を意味している。「畑」も教会を意味する。
「穀物」「ぶどう」「オリーブ」は、教会の善と真理のこと。
ここを文字の意味でとるならそれだけで終わってしまう。
聖書としての学ぶべきものはない。
いちじくの教え
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいた
ことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのすべてのことを見たなら、
人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」マタイ24
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に
入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
そして洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。」マタイ
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」マタイ22
神の創造の七日間とは
創世記の初めは神の天地創造の話となっている。これは現代科学の常識からすると
あまりもお粗末な創作としか思えない。神はこんな愚かなことしか言えないのかと、
いぶかしく思う。
しかしこれは、人間の精神の成長段階を表現した話であり、教会の成立の話であると
みると、そのような不信感も払しょくされるのである。
ダニエル書第9章27
憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが坐す。
そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
マタイによる福音書第24章21
「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの
患難がくるからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人
救われない。」
黙示録の第二章は、七つの教会に宛てた手紙のことが記されているが、
キリスト教会が設立後すぐ腐敗・堕落して行く様子が記されている。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」マルコ5.34
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。・・・
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」・・・その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている
前へ出て行った。」人々は驚き・・・神を賛美した。」マルコ2.5、9、10、12)
イエスはご自分を「人の子」と呼び、「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせようと」と明言されている。
それにたいし、パウロは、
「しかし、わたしたちはまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、
なおさらのことです。」(ローマ5.8-9)
「『御言葉はあなたに近くにあり、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させらてたことを信じるなら、あなたは救われ
るからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10.8-10)
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせる
ためである。」(ルカ5.31-32)
「すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5.12)
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために
死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリスト
によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、
御子の死によって神と和解をさせていただいたのであれば、和解させていた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです」ローマ5.8-10
「そして、キリストが復活しなかったなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、
あなたがたの信仰も無駄です」コリント15.14
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活
させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」ローマ10.9
Jの言葉
「エゴから、生命や無辜と対立し、さらに神ご自身の意志と対立する罪や
罪悪感や死が生じる。そのような対立物が存在するところとして、
狂気に献身して天国の平和に反対する常軌を逸した病んだ心以外の場が
あるだろうか? 確かなことがひとつある。罪も死も創り出さなかった神が、
あなたがたを罪や死に縛りつけるはずがない。彼は罪もその結果も知らない。
葬列の埋葬布に覆われた遺体は、創造主を称えて行進するのではない。
創造主のご意志は彼らが生きることだ。
彼らはそのご意志に従っているのではなく、反している。」
0101> イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
0102> ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。
0103> この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちは、さいわいである。時が近づいているからである。
0104> ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、
0105> また、忠実な証人、死人の中から最初に生まれた者、地上の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
0106> わたしたちを、その父なる神のために、御国の民として、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。
0107> 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
0108> 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。
0109> あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
0110> ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。
0111> その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テラテア、サルビス、ヒラデルヒア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。
0112> そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
0113> それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
0114> そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
0115> その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
0116> その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
0117> わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
0118> また、生きている者である。わたしは死んだことがあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
0119> そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを、書きとめなさい。
0120> あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。
0201> エペソにある教会の御使に、こう書き送りなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
0202> わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
0203> あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
0204> しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
0205> そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
0206> しかし、こういうことはある。あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
0207> 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、神のパラダイスにあるいのちの木ノ実を食べることをゆるそう』。
0208> スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終わりである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。
0209> わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実はユダヤ人ではなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
0210> あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。