マラソン史上もっとも強いランナー・マラソン通史4

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1ゼッケン774さん@ラストコール
2ゼッケン774さん@ラストコール:2006/05/30(火) 00:23:17
3ゼッケン774さん@ラストコール:2006/05/30(火) 01:21:33
昔のレースを見たい
4がもり:2006/05/30(火) 17:10:18
宗双子兄弟は、旭化成の選手だった事を思い出すのは、北京マラソンです。
マラソン世界最高記録の遍歴

2時間55分18秒4 J.ヘイズ(アメリカ) 1908
2時間52分46秒0 フォウラー(アメリカ) 1909
2時間46分53秒0 クラーク(アメリカ) 1909
2時間46分05秒0 レインズ(アメリカ) 1909
2時間42分31秒0 バーレット(イギリス)1909
2時間38分17秒0 H.グリーン(イギリス)1913
2時間36分07秒0 アールグレン(スウェーデン)1913
2時間32分35秒8 コーレマイネン(フィンランド)1920
2時間31分31秒0 矢萩丹治(日本) 1932
2時間31分10秒0 楠好蔵(日本) 1933
2時間27分49秒0 鈴木房重(日本) 1935
2時間26分44秒0 池中康雄(日本) 1935
2時間26分42秒0 孫基禎(日本) 1935
2時間20分42秒2 ピータース(イギリス) 1952
2時間18分40秒2 ピータース(イギリス) 1953
2時間18分34秒8 ピータース(イギリス) 1953
2時間17分39秒4 ピータース(イギリス) 1954
2時間15分17秒0 S.ポポフ(ソビエト) 1958
2時間15分16秒2 アベベ(エチオピア) 1960
2時間15分15秒8 寺沢徹(日本) 1963
2時間14分28秒0 エデレン(アメリカ) 1963
2時間13分55秒0 ヒートレー(イギリス) 1964
2時間12分11秒2 アベベ(エチオピア) 1964
2時間12分00秒0 重松森雄(日本) 1965
2時間09分36秒4 クレイトン(オーストラリア)1967
2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア) 1969
2時間08分18秒 ド・キャステラ(オーストラリア) 1981
2時間08分05秒 S.ジョーンズ(イギリス) 1984
2時間07分12秒 ロペス(ポルトガル) 1985
2時間06分50秒 デンシモ(エチオピア) 1988
2時間06分05秒 ダコスタ(ブラジル) 1998
2時間05分42秒 ハヌーシ(モロッコ) 1999
2時間05分38秒 ハヌーシ(アメリカ) 2002
2時間04分55秒 テルガト(ケニア) 2003

オリンピック男子マラソン歴代優勝者

1 1896(アテネ) ルイス (ギリシャ) 2:58:50 ※40`
2 1900(パリ)ティアトー (フランス) 2:59:45 ※40.26`
3 1904(セントルイス) ヒックス (イギリス) 3:28:53 ※40`
4 1908(ロンドン) ヘイズ (アメリカ) 2:55:18:4 
5 1912(ストックホルム) マッカーサー (南アフリカ) 2:36:54:8 ※40.2`
6 1916(ベルリン)中止
7 1920(アントワープ) コーレマイネン (フィンランド) 2:32:35:8 ※42.75`
8 1924(パリ) ステンロース (フィンランド) 2:41:22:6  
9 1928(アムステルダム) エルアフィ (フランス) 2:32:57:0
10 1932(ロサンゼルス) ザバラ (アルゼンチン) 2:31:36:0
11 1936(ベルリン)孫 基禎 (日 本) 2:29:19:2
12 1940(東京) 中止
13 1944(ロンドン)中止
14 1948(ロンドン) キャブレラ (アルゼンチン) 2:34:51:6
15 1952(ヘルシンキ)ザトペック (チェコスロバキア) 2:23:03:2
16 1956(メルボルン)ミムン (フランス) 2:25:00:0
17 1960(ローマ)アベベ (エチオピア) 2:15:16:2
18 1964(東京)アベベ (エチオピア) 2:12:11:2
19 1968(メキシコ)マモ・ウォルデ (エチオピア) 2:20:26:4
20 1972(ミュンヘン)ショーター (アメリカ) 2:12:19:8
21 1976(モントリオール)チェルピンスキー (東ドイツ) 2:09:55
22 1980(モスクワ) チェルピンスキー (東ドイツ) 2:11:03
23 1984(ロサンゼルス)ロペス (ポルトガル) 2:09:21(五輪最高記録)
24 1988(ソウル)ボルディン (イタリア) 2:10:32
25 1992(バルセロナ)黄 永祚 (韓 国 )2:13:23
26 1996(アトランタ)チュグワネ (南アフリカ) 2:12:36
27 2000(シドニー) アベラ (エチオピア) 2:10:11
28 2004(アテネ)バルディーニ(イタリア)2:10:55



世界陸上競技選手権 男子マラソン歴代優勝者

1 1983(ヘルシンキ) ド・キャステラ オーストラリア 2:10:03
2 1987(ローマ)ワキウリ ケニア 2:11:48
3 1991(東京) 谷口浩美 日 本 2:14:57
4 1993(シュッツトガルト)プラーティエス アメリカ 2:13:57
5 1995(イエテボリ) フィス スペイン 2:11:41
6 1997(アテネ)アントン スペイン 2:13:16
7 1999(セルビア)アントン スペイン 2:13:36
8 2001(エドモントン)アベラ エチオピア 2:12:42
9 2003(パリ)ガリブ モロッコ 2:08:31(世界陸上最高記録)
10 2005(ヘルシンキ)ガリブ モロッコ 2:10:10
8ゼッケン774さん@ラストコール:2006/05/30(火) 23:27:23
>>7
今でこそ2年おきに開催されるようになったけど>世界陸上
谷口の優勝は価値あるものだな。
>>7
マラソンでは五輪と比べると世界陸上(特に五輪翌年)は花相撲臭を感じたりするんだけど、
アントン、ガリブの世界陸上連覇も立派なものですね。

前スレにあった五輪メダリストを対象にしたものからあぶれる世界陸上のみの複数メダリスト
ってどうなんでしょうね。

http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/athletics/1094488524/883
> 【五輪男子マラソン複数メダリスト】
> ==========================================
> アベベ(60ローマ金,64東京金)
> マモ(68メキシコ金、72ミュンヘン銅)
> ショーター(72ミュンヘン金,76モントリオール銀)
> リスモン(72ミュンヘン銀、76モントリオール銅)
> チェルピンスキー(76モントリオール金,80モスクワ金)
> ワイナイナ(96アトランタ銅,00シドニー銀)
> ==========================================
>
> 【五輪&世陸 男子マラソン複数メダリスト】
> 注:五輪()、世界陸上[]としました
> ==========================================
> ボルディン(88ソウル金)[87ローマ銅]
> ワキウリ(88ソウル銀)[87ローマ金]
> サラ(88ソウル銅)[87ローマ銀,91東京銀]
> アベラ(00シドニー金)[01エドモントン金]
> バルディーニ(04アテネ金)[01エドモントン銅,03パリ銅]
> ==========================================
10ゼッケン774さん@ラストコール:2006/05/31(水) 00:00:29
イボンジュ引退
少なくともここ10年の実績では日本人の追随を許さなかったな
11ゼッケン774さん@ラストコール:2006/05/31(水) 00:14:47
>>10
マラソンの李鳳柱、今季限りで引退−五輪銀メダリスト
http://www.sanspo.com/sokuho/0530sokuho020.html
1996年アトランタ五輪男子マラソンの銀メダリストで韓国の国民的ランナー、李鳳柱が今季限りで引退することが30日、分かった。

同選手は98年バンコク、02年釜山両アジア大会を連覇し、アテネ五輪にも出場。所属するサムスン電子(韓国)の村尾慎悦コーチ
によると、同国から出場要請のあったドーハ・アジア大会を断念し、今後は韓国で駅伝などを走り、11月のニューヨークシティー・マ
ラソンが引退レースになる見込みという。
----
'92バルセロナ金:黄永祚
'96アトランタ銀 :李鳳柱

耐久夏マラソンの五輪で韓国が席巻するのか、という勢いがあったな。今どうなんだろう?
12ゼッケン774さん@ラストコール:2006/05/31(水) 00:34:16
>>10
スピードやタイムで李鳳柱を越える日本人はいるが、
勝負強さや粘りで李鳳柱を越える日本人はそういないだろうな。
正直、李鳳柱みたいにケニア勢を抑えてタフなコースのボストンを制覇しそうな
現役日本男子マラソン選手は1人も思い浮かばない。
>>9 チェルピンスキーは初回の世界陸上のメダリストとの修正
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/athletics/1094488524/884
にあわせて

注:五輪()、世界陸上[]としました
【五輪男子マラソン複数メダリスト】
==========================================
アベベ(60ローマ金,64東京金)
マモ(68メキシコ金、72ミュンヘン銅)
ショーター(72ミュンヘン金,76モントリオール銀)
リスモン(72ミュンヘン銀、76モントリオール銅)
チェルピンスキー(76モントリオール金,80モスクワ金)[83ヘルシンキ銅]
ワイナイナ(96アトランタ銅,00シドニー銀)
==========================================

【五輪&世陸 男子マラソン複数メダリスト】
==========================================
ボルディン(88ソウル金)[87ローマ銅]
ワキウリ(88ソウル銀)[87ローマ金]
サラ(88ソウル銅)[87ローマ銀,91東京銀]
アベラ(00シドニー金)[01エドモントン金]
バルディーニ(04アテネ金)[01エドモントン銅,03パリ銅]
==========================================
14ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/01(木) 00:24:48
東京五輪以降の世界大会をみたとき、
メキシコ五輪の次に優勝タイムが悪いのが東京世界陸上の谷口なんだな。
あの時の気象条件は真夏の高湿度だった覚えがあるなぁ。
中山がげっそりした表情で上のユニフォームを舗道を歩いてたのが印象に残ってる。
1514:2006/06/01(木) 00:29:59
訂正= 中山が上のユニフォームを脱いで舗道を歩いていた。= 途中棄権
あれで当時はバルセロナ行きは難しい気になったよ。
16ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/04(日) 00:13:40
夏マラソン専門のような言われ方をしたのは
東京世陸で5位に入った篠原太が最初じゃないか。
>>16
懐かしい名前だね。今は天満屋女子陸上競技部のヘッドコーチしてる。
ttp://www.tenmaya.co.jp/track_and_field/member.html
主なタイトル/'90北海道マラソン優勝、'91東京世界陸上マラソン5位

> 夏マラソン専門
と言われてもしょうがないか。トラックも含めたパーソナルベストも、それほど良くないんだろうな。
18ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/04(日) 00:54:59
日本の暑さは異常
アフリカとか南米で40度ぐらいの気候で育った人でも独特の湿気を含んだ気候にはまいるらしい
おまけにヒートアイランドの東京の大都心を夏場走るんだから日本人にしか走れないでしょ
第3回 東京世界陸上選手権 男子マラソン

優勝 谷口浩美(日本) ラップタイム

5km 15.38
10km 31.06(15.28)
15km 46.55(15.49)
20km 1.02.53(15.58)

中間点 1.06.25

25km 1.18.59(16.06)
30km 1.35.34(16.35)
35km 1.52.08(16.34)
40km 2.08.17(16.09)
2.195km 6.40

 2時間14分57秒


5位 篠原太 ラップタイム

5km 15.38
10km 31.16(15.38)
15km 46.58(15.42)
20km 1.03.14(16.16)

中間点 1.06.25

25km 1.18.58(15.44)
30km 1.35.34(16.36)
35km 1.52.07(16.33)
40km 2.08.45(16.38)
2.195km 7.07

2時間15分52秒
>>18
気温30度 湿度62% 
60人参加で途中棄権が24人。


>>16
このとき篠原は補欠(前年の北海道マラソンで優勝し、暑さに強い
ところを見せたが、世界陸上3人目の代表を決める東京国際マラソン
の成績が悪く、補欠に甘んじていた)だったが、
急遽、大会3週間前に参加が決定。
原因は代表メンバーの一人 小指徹(ダイエー)が故障のため。
前々から小指の調子が悪く故障持ちという情報を篠原サイドは
知っていたため、参加できるかもしれないという淡い期待を持って
早くから心身の準備をしていたらしい。
>>14
>>15
中山は32,6kmでリタイヤ。
8月に入って右ふくらはぎを痛め、その後2週間ジョッグしか
できない状態でレースに参加。
「これでマラソンをやめるつもりなら、完走してましたよ。
でも、まだ競技生活は終わりじゃない。次のレースが大事とだから
無理しなかったんです。」とコメントを残した。
>>20
> 気温30度 湿度62% 
> 60人参加で途中棄権が24人。

大阪の暑さはまた一味違うからなぁ。
2007大阪世界陸上は悲惨なことになりそう・・・
夏マラソンならエリック・ワイナイナもそうだろ。
北海道マラソンの優勝経験をもち、オリンピックで3大会連続入賞。

寒さが苦手であることとスピード不足気味なので、サブテンは1回しか出してないが。
とはいえ東京で2勝してるから、対応できないわけじゃないんだろうけど。
>>20

今までで補欠選手が急遽、正選手として登録され、
レースに参加したのは篠原だけかな?
>>20

東京世陸は朝6時スタートだった。
その時の気象条件でさえ気温26度、湿度73%になってた。
谷口サイドはありとあらゆる給水は全部取る指示がでていたようだ。
38kmの坂道で谷口がスパートした時は鳥肌が
立つくらい興奮したなぁ。懐かしい。
たしかこの時、谷口は14回のマラソンで6回目の東京のコースだったように思う。
自分が谷口を見た頃にはもう全盛期過ぎてたからなぁ。
実績は超一流だから、偉大な選手だということはわかるんだけど。

指導者としても沖電気で3位に復活入賞を決めたけど。
>>27
谷口はサブテンが思ったより少なく3回だけなんだよな。
でも東京、ロンドン、ロッテルダム、そして世界陸上と
優勝実績は瀬古と匹敵するものがあった。
第3回 世界陸上 東京大会 男子マラソン成績(1991年9月1日)

1、2時間14分57秒 谷口浩美(日本)
2、2時間15分26秒 A.サラ(ジブチ)
3、2時間15分36秒 S.スペンス(アメリカ)

4、2時間15分47秒 J.フルク(ポーランド)
5、2時間15分52秒 篠原太(日本)
6、2時間15分58秒 S.ベッティオル(イタリア)
7、2時間16分15秒 M.カスティージョ(メキシコ)
8、2時間17分03秒 G.ボルディン(イタリア)

9、2時間18分37秒 T.ギシラセ(エチオピア)
10、2時間19分01秒 K.ドブラー(ドイツ)
11、2時間19分18秒 S.モネゲッティ(オーストラリア)
12、2時間20分02秒 S.ケアリー(イギリス)
13、2時間20分31秒 P.メーア(カナダ)
14、2時間21分16秒 D.ガルシア(スペイン)
15、2時間21分37秒 D.ショーブリエ(フランス)
16、2時間22分17秒 T.ディルクス(オランダ)
17、2時間22分43秒 E.ギニンザ(スワジランド)
18、2時間23分13秒 S.フライガング(ドイツ)
19、2時間23分14秒 金元卓(韓国)
20、2時間23分24秒 D.ブザ(ドイツ)

主な途中棄権
中山竹通(日本)
S.ムラシャニ(タンザニア)
M.マティアス(ポルトガル)
A.シャハンガ(タンザニア)
J.ペーター(ドイツ)
A.ニムチャク(ポーランド)
A.メコネン(エチオピア)
Y.トルスティコフ(ロシア)
J.ピニェイロ(ポルトガル)
T.ダディ(エチオピア)
谷口浩美(旭化成) 世界選手権までのマラソン成績

1、優勝 2時間13分16秒 別府大分(85年2月)
2、2位 2時間10分01秒 福岡国際(85年12月)
3、7位 2時間11分42秒 東京国際(86年2月)
4、2位 2時間10分08秒 ソウルアジア大会(86年10月)
5、優勝 2時間10分06秒 東京国際(87年2月)
6、優勝 2時間09分50秒 ロンドン(87年5月)
7、6位 2時間12分14秒 福岡国際(87年12月)
8、9位 2時間13分16秒 東京国際(88年2月)
9、2位 2時間07分40秒 北京国際(88年10月)
10、優勝 2時間09分34秒 東京国際(89年3月)
11、優勝 2時間13分16秒 北海道(89年8月)
12、優勝 2時間10分56秒 ロッテルダム(90年4月)
13、9位 2時間11分55秒 東京国際(91年2月)
14、優勝 2時間14分57秒 東京世界陸上(91年9月)

14レース 優勝7回  2位3回
>>29

東京世陸 レース展開

競技場内でキューバのクバが飛び出すが4kmで集団に吸収される。
5kmの通過が15分38秒。
集団には中山、モネゲッティがリード。ボルディンは集団から10m遅れる。

10km31分08秒。
ボルディンは50m以上後方へ。
しかし13kmで先頭集団のペースが落ち始め篠原、ボルディンが追いつく。

折り返し
有力候補のメコネンが50m遅れる。
徐々に集団は絞られ23kmで12人になる。

24kmでフルクが軽いスパート。サラ、ギシラセがつきリード。
25kmで日本人3人、ボルディン、モネゲッティ、ベッティオルが
おいつく集団は9人。

30km過ぎ 中山が後方から遅れだす。
給水地点で谷口が少しペースアップ。篠原、フルクがすかさず追いつき
さら、ギシラセが徐々に差をつめる。

33kmでボルディン、ベッチィオルが追いついたがが、優勝候補の
モネゲッティが遅れる。

37km過ぎで徐々に追い上げていたスペンスが集団に追いつく。
このあたりから谷口、篠原、サラ、フルクが徐々に3人を引き離しにかかる。

38km過ぎの坂で谷口のスパート。
サラだけが少し抵抗をみせたが、一気に振り切られた。

後半3位につけた篠原だが最後でスペンス、フルクに交わされ
メダルは遠のいた。

篠原は中山と五輪第3代表を争う事になったが、
翌年の代表選考・東京国際では自己ベストを約30秒短縮。
しかし11分台で中山に遅れを取ったから代表落選はしかたなかったなぁ。
33ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/11(日) 00:29:29
>>32
森下が勝ったレースな。あのレースは面白かった。
早田が初マラソンで健闘したな。
34ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/11(日) 00:43:14
>>32 駅伝やトラックで実績を残していた森下が既に91年の世界ランク1位に
なる等成功していたので、同じ道を歩んでいた早田の初マラソンは予想通り。
というか中山に勝つと思っていた。まさか早田がその後、97年の福岡を除き
全く走れないランナーになるとは思わなかった。
35ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/11(日) 08:20:09
>>32 あの時の森下・早田を見て子供心に
「日本のマラソンはこれからスゲー事になるんじゃないの?」
とウキウキした、全く予想外の結果になってしまったが…
中山選手がダイエー時代やってた”超過酷”な練習ってどのようなものだったんですか?
37ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/11(日) 09:33:45
>>36
10マイルつま先で走るとか、一周64のインターバルとか、のことですかね
1979年度 世界20傑

1、2時間09分27秒 ロジャース(アメリカ)ボストン
2、2時間10分00秒 スメ(ベルギー) ベルギー選手権
3、2時間10分12秒 瀬古利彦(日本) ボストン
4、2時間10分20秒 ウェルズ(アメリカ) ナイキ
4、2時間10分20秒 サンドバル(アメリカ)ナイキ
6、2時間10分37秒 宗茂(日本) 福岡
7、2時間10分40秒 宗猛(日本) 福岡
8、2時間10分51秒 フォード(イギリス) 福岡
9、2時間10分54秒 ロドウィック(アメリカ) ナイキ
10、2時間11分13秒 クアックス(ニュージーランド) ナイキ

11、2時間11分34秒 バウリスク(ポーランド) ワルシャワ
11、2時間11分34秒 ステファノスキー(ポーランド) ワルシャワ
13、2時間11分35秒 バルチャ(エチオピア) モントリオール
14、2時間11分40秒 チェ・チャンソプ(北朝鮮) 福岡
15、2時間11分41秒 チェトル(オーストラリア) モントリオール
16、2時間11分50秒 ペファー(アメリカ) エンスケデ
17、2時間11分52秒 アトキンス(アメリカ) ナイキ
18、2時間11分53秒 ディミック(アメリカ) マルディグラ
19、2時間11分55秒 スコット(オーストラリア) 福岡
19、2時間11分55秒 ワードロー(オーストラリア) 福岡
 世界歴代20傑 (1979年12月 まで )

1、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア)1969 アントワープ
2、2時間09分05秒6 宗茂(日本) 1978 別府大分
3、2時間09分12秒2 トンプソン(イギリス) 1974 英連邦
4、2時間09分27秒  ロジャース(アメリカ) 1979 ボストン
5、2時間09分28秒  ヒル(イギリス) 1970 英連邦
6、2時間09分55秒0 チェルピンスキー(東ドイツ) 1976 モントリオール五輪
7、2時間10分00秒  スメ(ベルギー) 1979 ベルギー選手権
8、2時間10分08秒4 ドレイトン(カナダ) 1975 福岡国際
9、2時間10分12秒  瀬古利彦(日本) 1979 ボストン
10、2時間10分15秒0 ウェルズ(アメリカ) 1978 ボストン

11、2時間10分20秒0 チェトル(オーストラリア) 1975 福岡国際
11、2時間10分20秒0 サンドバル(アメリカ) 1979 ナイキ
13、2時間10分30秒0 ショーター(アメリカ) 1972 福岡国際
14、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(日本) 1970 福岡国際
15、2時間10分40秒  宗猛(日本) 1979 福岡国際
16、2時間10分47秒8 アドコックス(イギリス) 1968 福岡国際
17、2時間10分51秒  フォード(イギリス) 1979 福岡国際
18、2時間10分54秒  ロドウィック(アメリカ) 1979 ナイキ
19、2時間11分05秒0 喜多秀喜(日本) 1978 福岡国際
20、2時間11分12秒0 オレイリー(アメリカ) 1970 ボストン
日本歴代20傑 (1979年12月まで)

1、2時間09分05秒6 宗茂(旭化成) 1978 別府大分
2、2時間10分12秒  瀬古利彦(早大) 1979 ボストン
3、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(桜門クラブ会) 1970 福岡国際
4、2時間10分40秒  宗猛(旭化成) 1979 福岡国際
5、2時間11分05秒0 喜多秀喜(神戸製鋼) 1978 福岡国際
6、2時間11分17秒0 佐々木精一郎(九州電工) 1967 福岡国際
7、2時間12分00秒0 重松森雄(福岡大) 1965 ウインザー
8、2時間12分03秒4 谷村隼美(クラレ) 1969 福岡国際
9、2時間12分08秒  伊藤国光(鐘紡) 1979 福岡国際
10、2時間12分12秒0 采谷義秋(竹原高教) 1970 福岡国際

11、2時間12分49秒  武富豊(神戸製鋼) 1979 福岡国際
12、2時間13分04秒2 浜田安則(鹿児島中央高教) 1974 別府大分
13、2時間13分06秒4 佐々木敏治(電電中国) 1969 福岡国際
14、2時間13分10秒3 小沢欽一(神戸製鋼) 1975 別府大分
15、2時間13分13秒0 服部誠(東農大教) 1975 福岡国際
16、2時間13分21秒0 吉田昭雄(黒崎窯業) 1969 福岡国際
17、2時間13分24秒0 北山吉信(旭化成) 1973 大津毎日
18、2時間13分25秒8 君原健二(八幡製鉄) 1969 アテネ
19、2時間13分37秒6 上岡忠明(東洋工業) 1968 福岡国際
20、2時間13分41秒0 寺沢徹(クラレ) 1965 ウインザー
スレ違いかも。しかし最も強いランナーの一人に挙げたい中山ゆえ、その練習について考えてみたい。
>>36
「挑戦」には、以下の部分に練習状況が垣間見られる。
1長野富士通時代
キックを強くしろと言われ踵を着けないつま先走りで16キロ。
2同時代
朝5時半起床で20キロ。仕事の後夕方5時から陸上部で16キロ。帰ってから一人で同じ距離。
3ダイエー時代
月間1000キロ。
4同時代、10000日本記録樹立前
週3か4日トラック練習。一周66秒以内。一日30キロ走。夜9時就寝、朝6時起床。
更に練習メニュー詳しく知ってる人モトム。
保守
43ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/16(金) 19:42:04
流石だな。
44ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/17(土) 11:29:38
レースの展開と、それにまつわるエピソードは楽しい。
このスレが良スレである理由。
45ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/17(土) 15:49:22
高校時代から20qとか30kmを走ってたみたいだよ
でもスピード練してないから高校時代のベストは15分54
たしか、小学校か中学校の通学も、片道10km位走ってたんじゃなかったっけ?
高校時代、無名だった中山竹通
そして 高校時代から脚光を浴びた瀬古利彦
多少、全盛期のズレがあるにせよ、ここまで対照的な学生時代を
過ごしたライバルはいないだろう。

瀬古利彦(四日市工) 高校時代主な成績

1972年(高校1年)
800m  2位 2.00.4 三重高校 6月
1500m 3位 4.11.4 三重高校 6月
800m  3位 1.57.3 東海高校 6月

800m  3位 1.54.6 山形インターハイ 8月

1500m    4.07.5      9月
3000m 2位 8.44.6 ジュニア 11月


1973年(高校2年)
1500m 5位 4.04.1 沖縄国体 5月
800m  1位 1.58.5 三重高校 6月
1500m 1位 4.08.1 三重高校 6月
5000m 1位15.57.4 三重高校 6月
800m  1位 1.57.0 東海高校 6月
1500m 1位 4.04.8 東海高校 6月
5000m 1位15.22.6 東海高校 6月

800m  1位 1.55.4 三重インターハイ 8月
1500m 1位 4.05.3 三重インターハイ 8月

1500m 1位 3.58.2 三重高校新人 9月
1500m 1位 3.55.5 千葉国体  10月
5000m 1位14.37.0 千葉国体  10月




 

1974年(高校3年)
1500m 7位 3.53.3 兵庫リレーカーニバル 5月
800m  1位 1.55.8 三重高校  6月
1500m 1位 3.58.4 三重高校  6月
5000m 1位15.10.6 三重高校  6月
800m  1位 1.56.6 東海高校  6月
1500m 1位 4.04.5 東海高校  6月
5000m 1位15.18.6 東海高校  6月

800m  1位 1.55.2 福岡インターハイ 8月
1500m 1位 4.01.8 福岡インターハイ 8月
5000m 2位14.56.2 福岡インターハイ 8月

800m     1.54.8 記録会   9月
1500m 1位 3.53.4 茨城国体 10月(高校新記録)
5000m 1位14.33.0 茨城国体 10月

(全国高校駅伝)
1972年 1区 10km 10位 31分38秒
1973年 1区 10km  1位 29分28秒
1974年 1区 10km  4位 30分46秒  
49ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/17(土) 23:15:12
>>47
前スレで既出だったが
高校時代活躍して日本のエースとして活躍したのは
瀬古と沢木の2人が代表格だろうね。
今の時代、中山のような経歴のランナーは出てこないだろう。
(1980年12月まで) 男子マラソン世界歴代20傑

1、2時間08分33秒6 D.クレイトン(オーストラリア)69年 アントワープ
2、2時間09分01秒  G.ネイブール(オランダ)   80年 アムスタルダム
3、2時間09分05秒6 宗茂(日本)          78年 別府大分
4、2時間09分12秒  I.トンプソン(イギリス)   74年 英連邦
5、2時間09分27秒  B.ロジャース(アメリカ)   79年 ボストン
6、2時間09分28秒  R.ヒル(イギリス)      70年 英連邦
7、2時間09分41秒  A.サラザール(アメリカ)   80年 ニューヨーク
8、2時間09分45秒  瀬古利彦(日本)        80年 福岡国際
9、2時間09分49秒  宗猛(日本)          80年 福岡国際
10、2時間09分55秒  W.チェルピンスキー(東ドイツ)76年 モントリール五輪
 
11、2時間10分00秒  M.スメ(ベルギー)      79年 ベルギー
12、2時間10分05秒  伊藤国光(日本)        80年 福岡国際
13、2時間10分08秒4 J.ドレイトン(カナダ)    75年 福岡国際
14、2時間10分09秒  G.ヘンリー(オーストラリア) 80年 福岡国際
15、2時間10分13秒  R.ゴメス(メキシコ)     80年 ニューヨーク
16、2時間10分15秒  J.ウェルズ(アメリカ)    78年 ボストン
17、2時間10分19秒  A.サンドバル(アメリカ)   80年 ナイアガラ
18、2時間10分20秒  D.チェトル(オーストラリア) 75年 福岡国際
18、2時間10分20秒  G.ビヨクルンド(アメリカ)  80年 ダルース
20、2時間10分29秒  K.ペファー(アメリカ)    80年 福岡国際
51ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/18(日) 00:18:13
>>48

>1973年 1区 10km  1位 29分28秒

揚げ足取る様で悪いが(悪気はない)、
この年はスタート後に誘導員が一周早く選手を出してしまい、
一区は9.6kmだった。

しかし瀬古利彦の選手としての偉業にケチがつくわけではない(と思う)
>>51
タイムは10キロのものではないが、まぁ、「二年生で一区区間賞」ということには変わりはないからね。
>>48->>49を見てたら瀬古の凄さがわかる。
一年から活躍、か。
近年で一年から鮮烈なデビューしたのは清治くらいか?
>>52です
すまない、>>47->>48だった
5451:2006/06/18(日) 15:09:30
>>52

>>48->>48を見てたら瀬古の凄さがわかる。

激しく同意。結果だけ見ると空前絶後の才能を有した天才でしょうね、おそらく。

>>近年で一年から鮮烈なデビューしたのは清治くらいか?

1984年のインターハイで1年生で優勝し、
現在も1500mの中学記録を保持している和田仁志選手もいる。

しかし和田選手も2年目以降はインターハイ・国体で勝てなかったんだよねぇ
(2年次の国体1500m2位が最高だったと記憶している)

蛇足だが、和田選手の弟の和田貴志選手は埼玉栄に陸上留学し、
全国高校駅伝で優勝メンバーに入り、兄弟全国制覇を達成している
インターハイ、国体でこれだけ勝った中長距離ランナーは
瀬古くらいだろう。
大学での戦歴もお願いします。
>>55

瀬古利彦(早稲田大学) 主なトラック成績

1975年(浪人・アメリカ留学)
目立った記録なし

1976年(大学1年)
5000m     14.29.0 九大学記録会 5月
5000m     14.22.2 関東学連クラス別記録会 6月
1500m  1位  3.55.9 三重県選手権 7月
5000m  1位 14.48.8 三重県選手権 7月
1500m  1位  3.59.6 東海選手権  8月
5000m  1位 14.50.8 東海選手権  8月
1500m  1位  3.51.3 早慶対抗   9月
10000m 6位 31.04.2 インカレ  10月
5000m  1位 14.29.8 インカレ  10月
 800m  3位  1.51.7 佐賀国体  10月
5000m  2位 14.23.6 佐賀国体  10月

1977年(大学2年)
5000m  1位 14.17.1 関東学生   5月
10000m 1位 29.21.2 関東学生   5月
10000m 2位 30.15.0 実業団対学生 7月
1500m  1位  3.51.9 三重県選手権 7月
5000m  1位 14.28.6 三重県選手権 7月
5000m  1位 14.12.3 東海選手権  8月
10000m 1位 30.04.7 東海選手権  8月
1500m  1位  3.51.3 早慶対抗   9月
5000m  1位 14.20.6 青森国体  10月
5000m  1位 13.56.5 インカレ  10月
10000m 1位 29.37.4 インカレ  10月

10000m 4位 28.34.8 日本選手権 10月
5000m  2位 13.49.3 日本選手権 10月
  
1978年(大学3年)
5000m  1位 14.20.5  東京六大学 4月
10000m 2位 28.56.1  東京選手権 4月
5000m  3位 14.16.3  東京選手権 4月
10000m 2位 28.32.5  スポニチ陸上 5月
10000m 1位 29.39.7  関東学生  5月
1500m  6位  4.03.3  関東学生  5月
5000m  2位 14.05.5  関東学生  5月

5000m  1位 13.35.8  ケルン国際(ケルン) 6月
10000m 9位 28.12.2  ワールドゲームス(ヘルシンキ)6月
10000m 1位 27.51.61 DNガラン(ストックホルム)7月
5000m  11位 13.40.49 DNガラン(ストックホルム)7月

5000m  1位 14.13.8  日中対抗  9月
1500m  1位  3.50.6  早慶対抗  9月
5000m  2位 13.57.6  日中親善  9月
10000m 2位 29.20.8  8カ国対抗 9月
5000m  1位 13.49.5  インカレ 10月
10000m 1位 28.57.0  インカレ 10月



1979年(大学4年)
5000m  1位 14.26.5  六大学対抗 4月
10000m 2位 29.34.1  関東学生  5月
5000m  3位 14.07.9  関東学生  5月
10000m 1位 28.59.2  アジア陸上 6月

10000m 1位 28.02.59 ワールドゲームス(ヘルシンキ)6月
5000m  3位 13.34.4  4カ国対抗(ブレーメン)6月
3000m  7位  7.54.9(日本新記録) 4カ国対抗(ブレーメン)6月
5000m  3位 13.37.6  オスロ国際(オスロ)

5000m  1位 13.46.8  早慶対抗  9月
5000m  2位 13.43.4  インカレ 10月
10000m 1位 28.40.6  インカレ 10月

1000m  3位 28.41.8  日本選手権 10月 
瀬古利彦(早稲田大学) 主なロード・マラソン成績

1976年(大学1年)
20kmロード  3位 1時間02分40秒  箱根駅伝予選会 11月


1977年(大学2年)
マラソン    10位 2時間26分00秒  京都マラソン 2月
30kmロード 13位 1時間37分22秒  中日30kmロード 3月
20kmロード  1位 1時間01分18秒  箱根駅伝予選会 11月
マラソン     5位 2時間15分00秒1 福岡国際マラソン 12月


1978年(大学3年)
20kmロード  1位    59分40秒0  新潟20kmロード
20kmロード  1位    59分21秒8  府中多摩川20kmロード 11月
マラソン     1位 2時間10分21秒0  福岡国際マラソン 12月


1979年(大学4年)
マラソン     2位 2時間10分12秒   ボストンマラソン 4月
20kmロード  1位    59分25秒   新潟20kmロード 11月
20kmロード  1位    58分07秒1(道路日本新)府中多摩川20kmロード11月
マラソン     1位 2時間10分35秒   福岡国際マラソン



箱根駅伝
第53回大会(1977年) 2区 11位 1時間16分58秒
第54回大会(1978年) 2区  2位 1時間13分54秒
第55回大会(1979年) 2区  1位 1時間12分18秒(区間新記録)
第56回大会(1980年) 2区  1位 1時間11分37秒(区間新記録)

2区=24.4km(当時)
            
59ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/19(月) 17:57:14
高校時代の無名・中山竹通のいちばんの実績は
長野・池田工3年時、
長野県国体代表予選5000m。
優勝しタイムは15分48秒0。
しかし長野県は代表を見送り、結局中山は高校時代に
インターハイ、国体、全国高校駅伝などの全国大会は無縁だった。
60ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/19(月) 23:55:12
中山の実家は長野の山中。
小学校は山の中をはうように続く道を片道2時間かけて通ったよう。
中山は走ったり歩いたりして
学校へ行った。
中学も8キロくらいの山道を通ってた。
61ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/20(火) 23:35:54
>>56-58
海外遠征での記録が格段とレベルアップしてますね。
潜在能力として海外のレースの方が記録が出たんでしょうね。

瀬古の高校、大学、実業団での戦績は群を抜いてますが
日本選手権では優勝がないんですね。資料を調べると

1977年10月 10000m 4位 28分34秒8
1977年10月  5000m 2位 13分49秒3

1979年10月 10000m 3位 28分41秒8

1984年10月 10000m 3位 28分32秒49

1985年06月 10000m 2位 28分29秒14

合計5回の出走があるが優勝なし。

また86年 ソウルアジア大会は10000mで出場。

6250m地点で新宅がスパートし、瀬古はついていけず、右脇腹を押さえる。
7100m地点では歩き出す。原因は右横隔膜痙攣(筋肉痛の一種 呼吸困難にもなる)で結局、

3位 29分31秒90 で銅メダル

五輪での成績は

1980年 モスクワ五輪 不参加
1984年 ロス五輪  14位  2時間14分13秒
1988年 ソウル五輪  9位  2時間13分42秒

また世界陸上は1987年ローマ大会に 日本陸連から参加するよう強い
要請があったが(このときメダル獲得なら五輪内定のお墨付きもあったとか、、)
しかし瀬古は福岡出場に強い意志があり辞退したため、世陸参加は1度もなかった。

国際トラックレースでの活躍や東京、福岡、ボストン、ロンドン、シカゴと
世界有数のマラソンレースを制覇した瀬古だが、タイトルのかかったレースは
無縁だったようだ。
62ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/20(火) 23:47:16
セコはコバンザメだからレースのレベルによって記録も左右されたんじゃないの?
>>62
確かに。
それで、尾いてくばかりだと揶揄もされたが、速いペースだろうとスローだろうと勝ってくるところが勝負師だと思う。
まぁ、無敵だろうな。
離れないんだもの。
そう考えるとゾクゾクしますね。


スレ違いだが最盛期の高橋尚子が“優勝狙いで”レースにガンガン出てたら似たような感じだったのかも。
64ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/21(水) 13:47:09
>>61
86年のアジア大会1万は新宅、瀬古で金・銀獲得予定で参加した。

同年6月の日本選手権でやはり新宅、瀬古で代表権を獲得するために、
中山、米重、阿久津を瀬古がおとりとして終盤スパートし集団を分裂。
最終的には新宅に優勝を譲る形になったが、
このアジア大会もその予定でいた。唯一、抵抗するのではないかと
いわれたのが中国の張国偉。この年の春季サーキットに日本で転戦し
28分半ばまで自己記録を伸ばしていた。
その張は7000m過ぎに途中棄権したが、瀬古の不調は誤算だった。
慌てた関係者がリタイアさせるように瀬古を止めに入るか検討した
くらいだった。
>>64
張国偉はこの後、ヨーロッパ遠征(たしかロンドンのプジョータルボット・ゲームス)
で5000mでも13分30秒を切ってたね。
このレースは瀬古が日本記録で優勝したと思う。
66ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/21(水) 19:45:30
65さん、張国偉って人は、韓国人?中国人?
67ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/21(水) 19:50:20
>>66
当時の中国のエースランナー
小柄ながらバネのある走りが印象的だった。
瀬古は高校時代朝練をしていなかったそうだ。
69ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/22(木) 13:06:00
瀬古は高校3年でI.H長距離3冠を狙っていた。
下馬評でも達成するだろうというものだった。
最後の5千で のちに同僚となる中村孝生に先行され追う展開になった
結局、逃げ切りを許し、3冠達成できなかった。
70ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/22(木) 13:25:15
>>41
600のインターバルを死ぬほどやっていたという記憶がある。
71ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/23(金) 13:30:24
>>69
逆に中村孝生は日本選手権で勝負強さを発揮した
印象がある。
72ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/23(金) 21:12:01
>>71
しかし肝心要のロス五輪最終選考会の日刊ナイター陸上で、
下重選手を「悪質」と取られるブロックをして、
ロス五輪10000mの代表から漏れる。

国立競技場には「下重2位だ!」だこだました。

しかし中村孝生はモスクワ五輪代表。
モスクワは、ほかにも伊藤国光、喜多秀喜(10000m)、
新宅雅也(3000mSC)、森口達也(5000m)が代表に連ねた。

マラソンの瀬古−宗茂−宗猛の悲劇が語られるが、
長距離トラックも好成績(金メダルという意味ではない)が得られたような気がする。
73ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/23(金) 22:58:11
当時の新宅の8分19は世界レベルだったからなあ
74ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 00:26:43
新宅選手だけでなく、
伊藤選手は10000m27分台、喜多選手も28分そこそこで走っていたと記憶している
森口選手はナイター陸上で国光、喜多を破っての代表入りじゃなかったか?
ロスで金井選手が7位に入賞、新宅選手も故障さえなければ金メダルも狙える、と言われていた
(独走で27分40秒台で走ったくらいだからねぇ)

その更に4年前だし、レベルを考えると、観てみたかったなぁ....ってガキの頃で観てても憶えてないだろうけど
まだ、日本陸上長距離界に夢があった時代だったね〜(遠い目)
伊藤や喜多はマラソンで代表になれなかったら、
「次は1万で」 とトラックで代表になる走力があったからな。25年前の27分台は今のものと価値感がたしかに違った。
77ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 13:48:21
オレの親父も陸上やってたが、当時のトラックは世界に通用してたらしい
新宅のサンショーしかり1万しかり

親父曰く「10000はヨーロッパのグランプリでアンティボと戦って4位に入った浦田で最後、それからは戦えてない」
らしい。

ガキの頃良く聞かされた。
まあ、今で言う陸上オタだったんだなw、オヤジ・・・
78ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 14:15:14
しかし27分台は今年出るのかね。

出すとしたら学生なのだろうか
79ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 17:28:21
オリンピック5000m、10000m二冠のラッセ・ビレンに、
(ビレンの種目外とはいえ)1500mで石井隆士さんが勝っちゃった時代だから

今、五輪で5000m&10000mで二冠取るような選手だったら1500mを3分30秒前後で走れる走力があるでしょう
そんなレベルで勝負出来ていたんだからやっぱり夢があった時代だったんだなぁ(僕も遠い目)
80ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 17:28:48
中村孝生は中村清の犠牲者だよ。まあ半分以上は本人のせいでもあるんだけど。
彼は大学2年で3'41"7で走っている程スピードはあったけど、スタミナはなかった。
ようやく5000を走りきるこつを掴んだのが80年の選考会。タイムはもう一つ
(13'33"7)だった(当時の国内ではまずまず。ひょっとしたら国内最高かも)けど
ラストのスピードで指しきったレースだった。しかし10000は全く走れない。
それなのにどんどん距離を伸ばしてついにはマラソンまで走った。当然マラソンは
駄目(ようやく12分台)。自分の適性を無視して瀬古の成功に目がくらんだ本人と
瀬古のだしとしか思っていなかった中村との合作悲劇だな。新宅はその点、自己
分析が冷静だった。しかし誰もロスで金なんて思っていないよ。あおったマスコミが
メダル候補とは言っていたが、冷静に考えると片肺五輪でも入賞はできるがメダルは
ちょっと難しいというレベルだった。本番で金井が新宅の代役を果たすとは思いも
しなかったけどね。
81ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 18:20:06
>>80
そういった自分のメインにする種目の方向性を判断する能力も素質の一つと思う

金井選手にしたって800mに留まっていたら日本記録を出し、
世界に通用したかもしれないと言われている
しかしロス五輪で10000mに入賞し、一応の評価をされたわけだ

では、金井選手にとって800mに留まるべきだったのか、
10000m〜マラソンまで距離を伸ばしたほうが良かったのか?

これは客観では誰にも判断つかないよね
金井選手は一人だし「アナザーワールド」は
所詮「アナザーワールド」でしかないし、主観の世界になってくる
(月陸に「800mでは日本記録を出せた程度、10000mで五輪に入賞出来てよかった」と発言があったと記憶している)

そういう意味で行くと、中村選手は自分で判断して
(日体大OBから吊るし上げをくらいながら)
早稲田閥の中村清さんの門下に入ることになった

で、結果が、>>80さんのような結果であったとすれば、
これは「(客観的な)判断ミス」だったとしても、
中村選手の運命だったわけだし、「判断ミス」をした中村選手の「才能」と片付けて良いと思う

そう考えると、「才能有り」と周囲に言われながら、
埋もれてしまった選手は果たして本当に才能があったと言えるのか?

僕は結果九割だと思うけどねぇ
82ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 19:30:46
まあ、しかし80年代半ばのエスビー軍団は図抜けていた。
全日本実業団初参加の時1984年(まだ伊勢路だった)は
坂口、谷口以外はほとんど区間賞だったと思う。
それまで常勝だった宗兄弟や佐藤市雄率いる旭化成がまったく相手に
ならなかった。
83ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 20:10:05
旭化成の宗兄弟が、
「旭化成で通用しない選手が日本で通用するのか?
 日本で通用しない選手がアジアで通用するのか?
 アジアで通用しない選手が世界で通用するのか?」
と常に言い続け、旭化成の駅伝の強化に力を入れたことは有名
(それが諸刃の剣だったことは、この板の住人にはよくわかっていることだと思うが)

その伝で行くと、SB軍団の強さは世界へ通じる強さだったんでしょうね
谷口はアジア大会の代表(事故で出場には至らなかったが...(合掌))、
坂口はSB時代の経験を糧に世界へ羽ばたく選手を育成した。

SBの功罪はよく語られるが、周囲、また2ちゃん住人も、
功の部分をもっとクローズアップして語ってほしい思うんだけどね
84ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/24(土) 23:07:35
>>82
駅伝男・佐藤市雄、懐かしい。
旭化成が駅伝強かったのは、宗の力とこの佐藤の
存在だった。
85ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/25(日) 09:04:22
>>84
佐藤市雄さんは全日本実業団駅伝史上最高の区間賞10回獲得した韋駄天だからねぇ
86ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/25(日) 17:35:42
佐藤市雄という人は、いたの?
87ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/25(日) 19:48:20
現在デオデオの監督、らしい
リアルでは見てないけど、佐藤市雄の区間賞10回というのは抜けているよね。
カネボウの鎌田・伊藤が7回と8回、宗兄弟がそれぞれ5回と6回だから圧倒的に抜けてる。
デオデオの現監督だけど、エースの小鳥田が引退。
W・F・ゲバソ(駅伝で新谷を破る)以外は計算が立ちそうも無いから大変そうだ。

ちなみに現役最多は高岡と坪田の4回。
小島兄、マサシ、ジェンガ、ギタヒが3回で続く。
89ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/26(月) 00:02:04
1984年の全日本業団も唯一、佐藤市雄が好走して旭化成が2位に浮上して折り返した。
90ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/26(月) 07:30:58
佐藤市雄という人物は、どこの出身?
91ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/26(月) 08:04:22
>>90 宮崎。宮崎中央高校だったけな。
92ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/26(月) 10:08:45
ひげ市は70年代半ば迄一線の選手として活躍していた。73年頃には(当時
日本記録が28'35"2だったのに)28'43"くらいで走って歴代10傑にも名を連ね
た。ところが事情はよく知らないが、その後トラックでぱったりと走らなく
なり、マラソンも走らずじまい。その一方で駅伝では無類の強さを発揮した。
もっともエース区間は大抵宗兄弟だったので相手が弱かったせいもあって
10年連続区間賞という偉業が達成できた面もある。あの頃3人目が28分台で
走るチームはなかったので。

因みに宗兄弟は駅伝では伊藤、鎌田には殆ど勝っていない。特に伊藤には
負け続けて、ある時(多分79年の実業団駅伝)29秒差の区間2位になったとき
に「伊藤には30秒差がディフォルトなので1秒僕の勝ち」といった訳の分から
ないコメントをしていた。
俺にとって髭と言えば、カネボウの鎌田だな。
なんで公衆の面前でチ●コを出したんだろう?(俺も遠い目)
>>64
86年アジア大会は張の代わりに地元・韓国の金鍾允が活躍したな。
1万は新宅と瀬古の間に入って銀メダルを獲得。
そして圧巻は大会4日目の5千。
新宅の2冠か、この種目のみで金を狙う 同種目・日本選手権覇者の金井
のエスビー勢が金、銀狙いだったが
3800m付近で新宅スパート。
残り2周で金井が前に出てスパートし勝負。金、新宅に15m差をつけ勝負あったかに思えたが
ラストコーナーで金が金井に追いつき猛スパート。
アッという間に金井、新宅は置いていかれた。まさに「完敗」のレースだったな。
>>64
第70回 陸上日本選手権 兼第10回ソウル アジア大会代表選考会

男子10000m 決勝 (1986年6月1日)

1、28.22.15 新宅雅也(エスビー食品)
2、28.29.14 瀬古利彦(エスビー食品)
3、28.30.70 阿久津浩三(福島病院)
4、28.40.54 中山竹通(ダイエー)
5、28.50.75 米重修一(旭化成)
6、28.55.27 谷口浩美(旭化成)
7、29.03.59 加藤覚(日産自動車)
8、29.13.87 金井豊(エスビー食品)

>>72
第14回 日刊ナイター陸上 権 ロサンゼルス五輪最終選考会

男子10000m 決勝 (1984年6月2日)

1、29.00.89 金井豊(エスビー食品)
2、29.02.93 中村孝生(エスビー食品)
3、29.02.94 下重庄三(東和中教員)
4、29.08.36 浦川哲夫(九州電工)
5、29.10.84 成田道彦(リッカー)
6、29.12.70 ダグラス・ワキウリ(エスビー食品)
7、29.17.24 井手健二(九州電工)
8、29.25.51 喜多秀喜(神戸製鋼)


>>64
>>94

第10回 ソウル・アジア大会

男子10000m 決勝 (1986年9月29日)

アジア記録27.42.17  大会記録29.37.56

1、28.26.74 新宅雅也(エスビー食品) 大会新記録
2、28.30.54 金鐘允(韓国) 大会新記録
3、29.31.90 瀬古利彦(エスビー食品) 大会新記録



男子 5000m 決勝 (1986年10月3日)

アジア記録13.24.69 大会記録 13.53.74

1、13.50.63 金鐘允(韓国) 大会新記録
2、13.52.65 新宅雅也(エスビー食品) 大会新記録
3、13.53.73 金井豊(エスビー食品) 大会新記録
>>82
>>89

第29回全日本実業団対抗駅伝競走大会 (7区間 99km)

1、4時間48分32秒 エスビー食品    大会新記録
(中村、ワキウリ、新宅、坂口、谷口、瀬古、金井)

2、4時間54分46秒 旭化成       大会新記録
(前田、江内谷、宗茂、佐藤、宗猛、谷口、児玉)

3、4時間56分45秒 日産自動車
(工藤、窪田、加藤、千葉、吉田、成田、岩瀬)
 


区間賞
1区(16.3km)47.31 中村孝生(エスビー食品)  区間タイ
2区( 8.2km)24.05 D.ワキウリ(エスビー食品)
3区(15.0km)42.39 新宅雅也(エスビー食品)  区間新
4区(10.0km)29.35 佐藤市雄(旭化成)
5区(10.0km)29.45 中尾公治(鐘紡)
6区(23.2km)1.08.30 瀬古利彦(エスビー食品)区間新
7区(16.3km)46.11 金井豊(エスビー食品)   区間新
98ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/26(月) 23:18:16
たしか1983年の全日本実業団で旭化成がV6した時のアンカーが
佐藤市雄だったなぁ。駅伝では宗兄弟以上の安定感を感じたよ。
あの84年、エスビー初優勝の時も佐藤は区間賞を取ってるんだな。
99ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/27(火) 01:16:29
>>94 たしかに金井は800からの仕掛けは早すぎた。
最終コーナーの時はもうバテてた。少し韓国の金を侮ってたかもしれない。
10000も新宅は楽勝ではなかったし。
100ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/27(火) 08:51:51
>>97 1区は中村と鎌田が並ぶようにして中継。僅かに中村が先行した。旭化成
はここで大きく遅れて早くも勝負有り。3区新宅は(多分)伊藤の記録を更新。
6区瀬古は意外にも75年から更新されていなかった鎌田の記録を更新したのだと
思う。記録マニアの人訂正よろしく。
>>92
揚げ足をとるようで悪いが、佐藤市雄は10年連続区間賞ではないな。
彼が区間賞を獲ったのは第15・16・17・20・24・25・26・27・28・29回大会だ。
102ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/27(火) 10:44:07
佐藤市雄氏の区間賞10回ってことは、
最低でも10年は出場しなければならないことでしょ

強い区間、弱い区間など関係なしに、
この偉業は称えないといけないと思う反面、
「駅伝ランナーに個人種目で大成なし」ということも考えないといけない

「いるじゃん」と突っ込まれそうだが、
トラック・マラソンの能力で押し続ける能力と、
駅伝のスペシャリストとしての能力はやっぱり別物だと思うよ。

逆に言えばいかに「駅伝ランナー」から「トラックランナー」「マラソンランナー」へ移行できるか、
指導者も選手個人もきちんと考えないといけないんじゃないか
103ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/27(火) 22:05:09
磯松のことかあああああああああああああ
>>98 83年は3区の伊藤国光が区間新の快走で鐘紡がここまで首位。
(3区は五知峠越えで伊勢路名物の難所だった)
旭化成はこの時点でまだ500m近い差があったはず。
4区宗茂、5区の猛でトップに踊り出し、児玉を経由して
アンカー佐藤の時は2分近い差だった。
ちなみにリッカーが解散前、最後の大会で4位に入った。
この後、日産にそっくり蔵返した形になる。
アンカー工藤も佐藤市雄と分け合って区間賞だったはず。
>>103
コニカミノルタの主将・磯松大輔……
大牟田・法政で主将兼エースとして活躍し、96年にコニカに入社(ワイナイナに憧れて?)
10000のベストは28分7秒、マラソンで71分台と長距離選手としてはなかなかの実績を持ち、
2年目からキャプテン、今はチームを去ったがワイナイナともにチームを牽引した。

だが彼は社会人入り後、主にニューイヤーで大車輪の活躍を見せる。
97〜03に史上初めて7年連続で1区一桁順位という快記録をマーク。
97年にコニカは復活入賞し、98年にはトップと2秒遅れにつけ、2区での旭化成とのトップ争いを演出した。

自己ベストの福岡国際の反動が出た04年は6区で区間15位に終わったが、30歳を過ぎた05・06年に連続区間賞を獲得。
現役のミスター駅伝の一人である。
106102:2006/06/28(水) 23:27:05
>>103 最近の例で言えばビンゴです
107ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/29(木) 08:02:51
磯松強いよな、彼は高校・大学と完全に渡辺の陰に隠れていたが着実に力を付けた印象だね
長くやることの強さ
「無事是名馬」だね。
108ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/29(木) 20:11:42
磯松みたいに超二流を長く続けるのがいいのか、
森下広一さんみたいに一瞬の煌きでオリンピック銀メダルがいいのか、
>>109
山田敬蔵氏のようにボストンマラソンで優勝し、70歳を過ぎた今でも走っている人は尊敬に値する。
森下氏は会社の方針だから早い引退は仕方がなかったのではないかと思う。
110ゼッケン774さん@ラストコール:2006/06/30(金) 15:27:17
俺は中電が内富主将、五十嵐副将体制を変えない所に
強さをかんじる。
>>104
第28回 全日本実業団対抗駅伝 成績
 
1983年12月18日 伊勢神宮前ー賢島 折り返し 7区間99キロ

1、4時間57分11秒 旭化成(弓削、姫野、谷口、宗茂、宗猛、児玉、佐藤)
   (6年連続 12回目の優勝)

2、4時間59分08秒 神戸製鋼
3、5時間00分56秒 鐘紡
4、5時間01分14秒 リッカー
5、5時間01分50秒 九州電工
6、5時間03分03秒 九州産交

(区間賞)
1区 上地(東洋工業)48分22秒
2区 大木場(小西六)24分22秒
3区 伊藤(鐘紡)  42分53秒(区間新記録)
4区 宗茂(旭化成) 29分03秒
5区 宗猛(旭化成) 29分37秒
6区 喜多(神戸製鋼)1時間11分11秒
7区 佐藤(旭化成)
   工藤(リッカー) 49分20秒
>>111 旭化成 1区・弓削かぁ。

70年台後半から80年代中盤にかけて
弓削裕、武富豊、川口孝志郎、西村義弘、引間金夫、末吉富雄
なんていういぶし銀がいた。
2時間12−14分くらいがベストで当時、格下のびわこや別大で
優勝や上位入賞をしていた。
113ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/03(月) 17:03:05
協和発酵防府の吉冨。
NKK福山の坂本。
114ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/03(月) 17:23:53
NKK(日本鋼管)福山→JFE福山
115ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/03(月) 17:56:34
電電中国→NTT中国
電電時代のエース中井良晴は織田陸で13分台を出すなど
エース格だったが、異動先の上司がまったく考慮してくれなかった
らしい。
116ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/03(月) 21:52:19
中井良晴という人は、今、NTT西日本・中国に、いる?
117ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/11(火) 21:02:12
(1984年12月まで) 男子マラソン日本歴代10傑

1、2時間08分38秒  瀬古利彦(エスビー食品)83年東京国際
2、2時間08分55秒  宗猛(旭化成)     83年東京国際
3、2時間09分05秒6 宗茂(旭化成)     78年別府大分
4、2時間09分35秒  伊藤国光(鐘紡)    83年福岡国際
5、2時間10分00秒  中山竹通(ダイエー)  84年福岡国際
6、2時間10分30秒  喜多秀喜(神戸製鋼)  83年福岡国際
7、2時間10分36秒  児玉泰介(旭化成)   84年福岡国際
8、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(桜門クラブ)70年福岡国際
9、2時間11分17秒0 佐々木精一郎(九州電工)67年福岡国際
10、2時間11分27秒  武富豊(神戸製鋼)   80年福岡国際
118ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/11(火) 21:48:50
>>117
中山、福岡初優勝の後のランクだな。
児玉が健闘して10分台で2位に入ったのも印象的だったな。
119ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/12(水) 15:13:01
>>117
この後、年が明けて直ぐ中山が広島W杯で日本新を出すんだな!
120ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/12(水) 23:57:53
>>117
1970年のインターハイ北九州地区大会の5000mは、
1位 喜多
2位 宗茂
3位 宗猛
4位 武富
だったそうだ。

相当レベルが高かったし、
逆に言えば地区上位進出者が皆実業団で活躍するケースって近年ないでしょ。

まずレベルの高い選手を輩出するのが第一条件なのは間違いないが、
そういった高いレベルを高いモチベーションで競技者として続けさせることをしないと、
「1970年の北九州大会」のような例がもう起きないだろうし、
日本長距離界の実力が先細っていくような気がします
121ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/13(木) 09:05:51
>>119
四月だからすぐでは・・・。
この大会で補助員をしていたのですが、
中山よりもジプチ勢の方が衝撃的でしたね。
この大会は確か、2時間10分台以内がもっとも多く出た
国際大会だと記憶しています。
>>121
そんな細かい突っ込みを入れていると、人に嫌われるぞ
(1985年12月まで) 男子5000m 日本歴代10傑

1、13.24.69 新宅雅也(SB食品) 1980
2、13.25.41 鎌田俊明(鐘紡)   1977
3、13.26.55 森口達也(神戸製鋼) 1981
4、13.27.44 喜多秀喜(神戸製鋼) 1977
5、13.29.86 伊藤国光(鐘紡)   1981
6、13.30.94 瀬古利彦(SB食品) 1980
7、13.33.0  沢木啓祐(順天大教) 1968
8、13.33.7  中村孝生(日体大)  1979
9、13.34.11 井手健二(九州電工) 1983
10、13.40.22 米重修一(大東大)  1983



同 男子5000m 世界歴代10傑

1、13.00.40 アウイタ(モロッコ)    1985
2、13.00.41 ムーアクロフト(イギリス) 1982
3、13.01.15 メイリー(アメリカ)    1985
4、13.06.20 ロノ(ケニア)       1981
5、13.07.29 ブルチ(エチオピア)    1982
6、13.07.54 リーフェル(スイス)    1984
7、13.07.70 レイタオ(ポルトガル)   1982
8、13.08.54 マメーデ(ポルトガル)   1983
9、13.09.50 コエチ(ケニア)      1982
10、13.10.06 コバ(イタリア)      1985
(1985年12月まで) 男子10000m 日本歴代10傑

1、27.42.17 瀬古利彦(SB食品)  1985
2、27.44.5  新宅雅也(SB食品)  1983
3、27.47.35 伊藤国光(鐘紡)    1980
4、27.48.59 喜多秀喜(神戸製鋼)  1980
5、27.48.63 鎌田俊明(鐘紡)    1977
6、27.55.05 金井豊(SB食品)   1985
7、27.59.31 宗猛(旭化成)     1978
8、28.10.47 高尾信昭(鐘紡)    1975
9、28.17.0  米重修一(旭化成)   1984
10、28.17.61 宗茂(旭化成)     1978


同 男子10000m 世界歴代10傑

1、27.13.81 マメーデ(ポルトガル)  1984
2、27.17.48 ロペス(ポルトガル)   1984
3、27.22.5  ロノ(ケニア)      1978
4、27.24.95 シルドハウアー(東ドイツ)1983
5、27.25.61 サラザール(アメリカ)  1982
6、27.26.95 ハジュルステーンス(ベルギー)  1982
7、27.29.16 バージン(アメリカ)   1980
8、27.30.3  B.フォスター(イギリス)1978
9、27.30.47 キモブァ(ケニア)    1977
10、27.30.69 クンツェ(東ドイツ)   1983
(1985年12月まで) 男子マラソン日本歴代20傑

1、2時間08分15秒  中山竹通(ダイエー) 1985
2、2時間08分38秒  瀬古利彦(SB食品) 1983
3、2時間08分55秒  宗猛(旭化成)    1983
4、2時間09分05秒6 宗茂(旭化成)    1978
5、2時間09分35秒  伊藤国光(鐘紡)   1983
6、2時間09分51秒  新宅雅也(SB食品) 1985
7、2時間10分01秒  谷口浩美(旭化成)  1985
8、2時間10分30秒  喜多秀喜(神戸製鋼) 1983
9、2時間10分36秒  児玉泰介(旭化成)  1984
10、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(桜門ク) 1970
 
11、2時間11分04秒  阿部文明(日本電気HE)1985
12、2時間11分09秒  須永宏(日本電気HE)  1985
13、2時間11分17秒0 佐々木精一郎(九州電工)1967
14、2時間11分23秒  野田浩(旭化成)   1985
15、2時間11分27秒  武富豊(神戸製鋼)  1980
16、2時間11分56秒  千葉照夫(東北日本電気)1985
17、2時間12分00秒  重松森雄(福岡大)  1965
18、2時間12分03秒4 谷村隼美(クラレ)  1969
19、2時間12分04秒  川口孝志郎(中京高職)1984
20、2時間12分08秒  引間金夫(新日鉄八幡)1984
(1985年12月まで) 男子マラソン世界歴代20傑

1、2時間07分12秒  ロペス(ポルトガル)  1985
2、2時間07分13秒  S.ジョーンズ(イギリス)1985
3、2時間08分08秒  R.ジャマ(ジブチ)   1985
4、2時間08分09秒  サラ(ジブチ)     1985
5、2時間08分15秒  中山竹通(日本)    1985
6、2時間08分18秒  ド・キャステラ(オーストラリア)1981
7、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア)  1969
8、2時間08分34秒  スペディング(イギリス)1985
9、2時間08分38秒  瀬古利彦(日本)    1983
10、2時間08分51秒  サラザール(アメリカ) 1982

11、2時間08分53秒  ベアーズレー(アメリカ)1982
12、2時間08分55秒  宗猛(日本)      1983
12、2時間08分55秒  イカンガー(タンザニア)1983
14、2時間08分58秒  プラーティエス(南アフリカ)1985
15、2時間08分59秒  ディクソン(ニュージーランド)1983
16、2時間09分01秒  ネイブール(オランダ) 1980
16、2時間09分01秒  マイアー(アメリカ)  1983
18、2時間09分03秒  ハイルマン(東ドイツ) 1985
19、2時間09分05秒  メコネン(エチオピア) 1985
20、2時間09分05秒6 宗茂(日本)      1978
127ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/18(火) 21:31:21
>>120

喜多は佐賀県大会で1500m、5000mで1位。
北九州大会5000mの結果は既出ですがこのときの
優勝タイム 14分47秒6は 70年度高校4位の
好タイムだった。(インターハイでは17位と惨敗)

そして同大会、1500mは4位。
このときの優勝が宗茂(大分・佐伯豊南高校)。

また喜多の鹿島実高の先輩に旭化成・森田義昭が
いて、高校卒業後に喜多を旭化成に入社する段取りが
あった。しかし喜多が宗兄弟が旭化成入社予定の
情報を知ると、「高校時代のライバルと同じところで
常に相手を意識して競争するのはイヤだ」
ということで福岡大に進学といういきさつがある。
128ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/18(火) 21:36:48
>>123>>124
これ見ると世界のレベルが上がったというより
20年前に比べてアフリカ勢が本格進出してきたという方が正しいな
日本はもちろんだけど欧米のレベルも対して変わってない
129ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/18(火) 22:49:33
>>128
金になるもんなぁ

仮にマラソンで1万ドルの賞金を獲得したとして、
欧米や日本ならサラリーマンの年収の1/3とか1/4だけど、
アフリカ各国なら年間所得が低いから数年分の年収になるんだもん

しゃかりになって数年マラソン走って、とっとと一生分の年収をマラソンで稼いで、
あとは悠々自適となる多くのアフリカ系諸国の選手と、
走っても走っても生涯賃金にはほど遠く、
スポンサー所得でようやく一生涯分の賃金になるほんの一握りの欧米日の選手だったら、
そりゃモチベーションも違うでしょう

近年のマラソンにおけるレベルの格差は経済力の格差に反比例していると思うよ
130ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/18(火) 23:32:38
>>127 宗茂の優勝タイムは4.01.2 これが高校時代のベストタイム。

ちなみに高校での5000ベストは
茂 14.58.4
猛 15.06.0
131ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/19(水) 00:13:29
70年代は14分台が高校一流ランナーの証だった。確か81年3月号あたりの月陸
で累計14分台ランナーが200人になったという特集があった。75年は30秒台で
沢山走ったけど(新宅、伊藤、吉富、吉村、中村、西村あたり)結局14分台で
走った高校生は一桁だったし。
132ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/19(水) 23:08:30
>>130
ちなみに宗猛は全国高校駅伝3区で区間賞を
獲得している。
1区は エースの茂で30分38秒で区間3位。
2区で8位まで落ちて3区の猛の快走で一時はトップに出た。
結局、初参加の大分・佐伯豊南高校は2時間14分18秒で8位に入った。
133ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/19(水) 23:20:27
>>132 正確にはトップの相原の背後に迫った、ね。結局、抜くには至らなかった。
この大会は後年箱根男と名を馳せ、初マラソン日本最高を記録した服部誠を擁した
相原が一度もトップ(1区のごく最初を除く)を譲ることなく優勝。
>>124
瀬古の記録は85年度、世界ランク5位だからな。
これだけアフリカ勢が台頭してくると
長距離トラックで日本人がランクイン
するのは難しすぎる。
135ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/21(金) 16:20:50
アメリカ国籍取得のハヌーシを除いては
サラザールがマラソンでランク外になって
からはアメリカは10傑に入ってないのでは。

>>132
この後の大会で伊藤国光が1区で30分切って
区間賞を取りましたね。
136ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/21(金) 23:11:46
>>135
1972年 23回大会
1区(10km) 29分55秒 伊藤国光(長野・上伊那農業)

そういえば同県出身 中山竹通が伊藤を
尊敬していて唯一、自宅に色紙を飾っていたと言っていた。
(1991年12月まで) 男子5000m 日本歴代10傑

1、13.22.97 米重修一(旭化成)  1988
2、13.24.29 瀬古利彦(SB食品) 1986
3、13.24.69 新宅雅也(SB食品) 1982
4、13.25.41 鎌田俊明(鐘紡)   1977
5、13.26.55 森口達也(神戸製鋼) 1981
6、13.27.44 喜多秀喜(神戸製鋼) 1977
7、13.29.86 伊藤国光(鐘紡)   1981
8、13.31.74 綾部健二(九州電工) 1989
9、13.32.16 阿久津浩三(福島病院)1988
10、13.33.0  沢木啓祐(順大教員) 1968


同  男子5000m 世界歴代10傑

1、12.58.39 アウイタ(モロッコ)    1987
2、13.00.41 ムーアクロフト(イギリス) 1982
3、13.01.15 メイリー(アメリカ)    1985
4、13.01.82 オンディエキ(ケニア)   1991
5、13.05.59 アンティボ(イタリア)   1990
6、13.06.20 H.ロノ(ケニア)     1981
7、13.07.29 ブルチ(エチオピア)    1982
8、13.07.54 リーフェル(スイス)    1984
9、13.07.70 レイタオ(ポルトガル)   1982
10、13.07.79 バリオス(メキシコ)    1989
(1991年12月まで) 男子10000m 日本歴代10傑

1、27.35.33 中山竹通(ダイエー) 1987
2、27.42.17 瀬古利彦(SB食品) 1985
3、27.43.04 米重修一(旭化成)  1988
4、27.44.5  新宅雅也(SB食品) 1983
5、27.46.16 阿久津浩三(福島病院)1988
6、27.47.35 伊藤国光(鐘紡)   1980
7、27.48.59 喜多秀喜(神戸製鋼) 1980
8、27.48.63 鎌田俊明(鐘紡)   1977
9、27.55.05 金井豊(SB食品)  1985
10、27.58.72 浦田春生(本田技研) 1991


同  男子10000m 世界歴代10傑

1、27.08.23 バリオス(メキシコ) 1989
2、27.11.18 チェリモ(ケニア)  1991
3、27.11.61 グギ(ケニア)    1991
4、27.13.81 マメーデ(ポルトガル)1984
5、27.16.50 アンティボ(イタリア)1989
6、27.17.48 ロペス(ポルトガル) 1984
7、27.17.82 A.アベベ(エチオピア)1989
8、27.20.56 ニーナウ(アメリカ) 1986
9、27.21.46 B.ブタイブ(モロッコ)1988
10、27.22.47 H.ロノ(ケニア)  1978
(1991年12月まで) 男子マラソン 日本歴代20傑

1、2時間07分35秒  児玉泰介(旭化成) 1986
2、2時間07分40秒  谷口浩美(旭化成) 1988
3、2時間07分57秒  伊藤国光(鐘紡)  1986
4、2時間08分15秒  中山竹通(ダイエー)1985
5、2時間08分27秒  瀬古利彦(SB食品)1986
6、2時間08分53秒  森下広一(旭化成) 1991
7、2時間08分55秒  宗猛(旭化成)   1983
8、2時間09分05秒6 宗茂(旭化成)   1978
9、2時間09分23秒  三村徹(鐘紡)   1991
10、2時間09分51秒  新宅雅也(SB食品)1985

11、2時間10分26秒  小指徹(ダイエー) 1991
12、2時間10分30秒  喜多秀喜(神戸製鋼)1983
13、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(桜門ク)1970
14、2時間10分40秒  須永宏(日本電気HE)1989
15、2時間10分58秒  森田修一(日産自動車)1991
16、2時間10分59秒  仙内勇(ダイエー) 1988
16、2時間10分59秒  工藤一良(日産自動車)1988
18、2時間11分02秒  末吉富夫(鐘紡)  1991
19、2時間11分04秒  阿部文明(日本電気HE)1985
19、2時間11分04秒  渋谷俊浩(雪印)  1988
(1991年12月まで) 男子マラソン 世界歴代20傑

1、2時間06分50秒 デンシモ(エチオピア) 1988
2、2時間07分07秒 サラ(ジブチ)     1988
3、2時間07分12秒 ロペス(ポルトガル)  1985
4、2時間07分13秒 S.ジョーンズ(イギリス)1985
5、2時間07分35秒 児玉泰介(日本)    1986
5、2時間07分35秒 メコネン(エチオピア) 1988
7、2時間07分40秒 谷口浩美(日本)    1988
8、2時間07分51秒 ド・キャステラ(オーストラリア)1986
9、2時間07分57秒 伊藤国光(日本)    1986
10、2時間08分01秒 イカンガー(タンザニア)1889

11、2時間08分04秒 シンク(南アフリカ)  1986
12、2時間08分08秒 ジャマ(ジブチ)    1985
13、2時間08分15秒 中山竹通(日本)    1985
13、2時間08分15秒 ムトロ(南アフリカ)  1986
15、2時間08分16秒 モネゲッティ(オーストラリア) 1990
16、2時間08分19秒 ボルディン(イタリア) 1990
17、2時間08分27秒 瀬古利彦(日本)    1986
18、2時間08分32秒 G.シャハンガ(タンザニア)1990
19、2時間08分33秒 スペディング(イギリス) 1985
20、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア) 1969
141ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/24(月) 12:36:41
>>138
中山の1万の記録は樹立当時(87年)は世界歴代30位以内に
入っていたと思うよ。
142ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/24(月) 18:43:31
そういえば、中山の1万の記録は
その年の世界ランクでひとケタでしたね。
>>134
1985年度 男子10000m 世界10傑

1、27.37.17 ビックフォード(アメリカ)
2、27.40.58 ニーナウ(アメリカ)
3、27.41.05 アイストーン(アメリカ)
4、27.41.09 マメーデ(ポルトガル)
5、27.42.17 瀬古利彦(日本)
6、27.43.90 キゲン(ケニア)
7、27.44.65 パネッタ(イタリア)
8、27.45.00 エレラ(メキシコ)
9、27.45.80 ピタヨ(メキシコ)
10、27.49.36 コバ(イタリア)

1985年7月に瀬古が記録した日本記録(27.42.17)は
当時・世界歴代43位。

>>141
>>142
1987年度 男子10000m 世界10傑

1、27.26.95 パネッタ(イタリア)
2、27.29.41 ブルチ(エチオピア)
3、27.34.38 プリアノン(フランス)
4、27.35.33 中山竹通(日本)
5、27.38.63 キプコエチ(ケニア)
6、27.39.60 クンツェ(東ドイツ)
7、27.42.65 バイニオ(フィンランド)
8、27.43.04 ブルバラ(エチオピア)
9、27.44.70 ヤワ(南アフリカ)
10、27.47.05 アルパン(フランス)

1987年7月の出した中山の日本記録(27.35.33)は
当時・世界歴代22位。
144142です:2006/07/24(月) 21:57:51
143のかた、補足ありがとうございます。
4位でしたか。
当時、「あの中山が1万で世界ランクに入るとはなあ」
と感嘆したものです。
2時間8分15秒を出した頃は
まだ29分10秒だったんですよね。
145ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/24(月) 22:22:50
しかしソウル五輪のマラソンで勝ったボルディンは
10000mの自己記録が29分台だったんじゃなかったっけ
ロペスの例は特異で10000mとマラソンの実績が綿密にリンクするわけではないと思うが
146ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/24(月) 22:36:51
清水昭なんかは1万が29分50秒で
別大を2時間9分11秒で優勝したし。
あれでブレイクすると思ったら
一発屋だったが・・・
147ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/26(水) 01:58:48
>>137>>138
ソウル五輪前後に米重と阿久津が健闘してたイメージがある。

あとエスビーの遠藤司。
五輪代表まではなったが怪我で出場できなかったな。
その後フェードアウトしてしまった。
148ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/26(水) 09:53:26
>>147
遠藤は箱根最終区の区間記録を長く保持してましたね。
149ゼッケン774さん@ラストコール :2006/07/26(水) 21:21:02
>>145
イカンガーや李鳳柱なども10000mの自己記録が29分台。
適性があれば10000mの自己記録が28〜29分台でも
マラソンで充分に戦えそうなのだが。
渡辺康幸を忘れてませんか?
151ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/26(水) 23:35:42
>>149
イカンガーは86年に春季サーキットで来日し、
スポニチ陸上をはじめ 28分20秒台では数回走ってます。

韓国勢はあまりトラックを走らないイメージがありますね。
152149:2006/07/26(水) 23:39:00
>>151
御指摘スマソm(_ _)m
153ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/26(水) 23:45:05
マラソンはキロ3分00秒で走る競技
10000mの27分台はキロ2分47秒で走る訳でしょ
1キロで13秒も違うんだよ。

逆に言えば10000mのレベルを上げる云々より、
キロ3分で如何に押していけるかの方が重要

谷口浩美さんはもとより、
(女子選手だが)有森裕子選手、山下佐智子選手、高橋尚子選手、野口いずみ選手、
オリンピックや世界選手権のメダリストは意外と10000mで活躍した感じではない。

かえって10000mの切れ味がスタミナ的な向上を妨げている部分があるんじゃないか?
154ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/27(木) 01:09:09
夏マラソンに強いランナーはトラック記録が良くないケースが多いな。
155ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/27(木) 05:45:16
10000の記録を出さないのと出せないのでは大きな違い

中山は「出せない」「10000の記録をもっていない」と言われるのが悔しくて
27分35を「狙い」に行って達成している。
谷口も日本選手権では上位に食い込んでるし、森下もしかり

やはり絶対的な走力を測る意味で10000の記録はある程度必要
藤田とか犬伏とか児玉とかはどうなんだろか
157ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/27(木) 08:36:28
藤田は28分19、スピード練習後のニューイヤーで区間新等スピードはある
犬伏は5000で好タイムを持ってるし高校時代はスピードランナー
児玉はよく知らない

多分トラックでトップでなくてもその素地はあるんじゃないだろうか?

オレ的には順大の今井が気になる、箱根や福岡クロカンでアレだけ活躍してるのに
トラックシーズンは埋没する・・・
やはりトラックに力を入れてないだけだろうか?
158ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/27(木) 08:45:10
エリックワイナイナは昨年、1万で自己ベストを出したけど、
29分30秒程度だったと思うが?
159ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/27(木) 10:45:23
全ては800、1500から始まるのでは。
1500から5000への移行はスムーズ。
5000のタイムがある奴は10000や駅伝、ハーフで結果を出しやすい傾向にある。
というよりもデータをみれば明らか。

ハーフで好記録を出すことが出きれば、次は30キロロードに望める。

つまり、マラソン適性を見極めるなら10000のパフォーマンスは最低限必要と思われる。
ワイナイナはマラソンに特化した練習の中で、
10000の記録を出せなかっただけで、出ないわけではない。
ワイナイナが去年出したのは5000の自己ベスト。
確か14:04ぐらいだったと思う。13分台は出してない。
10000のベストは28:40ぐらいで、だいぶ前に出していたと思う。

30キロやハーフで強くても、マラソンが強いとは限らないな。
熊本30キロを2度勝ち、ハーフマラソンとニューイヤー2区の記録を保持している
高橋健一はハーフ前後の距離は強かったが、30キロ付近ではスタミナが足りなかった。
なぜか27分台を出せなかったのは不思議だったが。
高岡、油谷、尾方以外、強いって言える選手がいなくなってきてるね。
狙った試合でちゃんと10分切ってくる日本人ってこれぐらいじゃない?

>160
松宮兄さんも全く同じタイプだね。
まだマラソンやるんだろうか
162ゼッケン774さん@ラストコール :2006/07/27(木) 20:44:25
>>161
油谷、安定して走れるけど、まだマラソン未勝利だぞ。
163ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/29(土) 20:39:53
主なマラソンランナー トラックベストタイム

瀬古利彦 (5000)13.24.29 (10000)27.42.17
中山竹通 (5000)13.43.80 (10000)27.35.33
高岡寿成 (5000)13.13.40 (10000)27.35.09
宗茂   (5000)13.40.8  (10000)28.17.61
宗猛   (5000)13.42.3  (10000)27.59.61
伊藤国光 (5000)13.29.86 (10000)27.47.35
喜多秀喜 (5000)13.27.44 (10000)27.48.59
新宅雅也 (5000)13.24.69 (10000)27.44.5
児玉泰介 (5000)13.46.36 (10000)28.44.23
谷口浩美 (5000)13.49.17 (10000)28.34.18
森下広一 (5000)13.37.64 (10000)28.01.98
早田俊幸 (5000)13.30.11 (10000)27.53.12
85年だったかな?
スポニチ陸上の10000mに日本のトップ選手が
ほとんど集結してレースした。
瀬古、中山、宗兄弟、伊藤、喜多、児玉のマラソン勢と
金井、新宅、米重、下重、中村のトラック組に
渋谷、浦川、エスビー坂口&谷口、工藤、野田、井手の
中堅に外国招待だったと記憶している。

W杯後、初の中山VS瀬古ということもあってウォーミング
アップから大勢の野次馬が集まっていた。
今では考えられない豪華さがあった。
金井が優勝して瀬古が2位だったと思う。
165ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/29(土) 21:16:22
>>163
こうやって見ると「ラストになったら負けない」と言われた二巨頭、瀬古、森下で、
瀬古は当時で考えると傑出したトラックのタイムを持っていたのに、
森下は当時でも今見ても並みの記録だったんだなぁ
それでもアジア大会で優勝するし、二度の中山との対決もラスト勝負で制した
バルセロナでは黄選手に一瞬の隙を突かれて逃げ切られたけど、純粋なラスト勝負で負けたわけではない
マラソンに関して言えばトラックの記録が絶対的なアドバンテージになるわけではないんだな
>>165
> バルセロナでは黄選手に一瞬の隙を突かれて逃げ切られたけど、純粋なラスト勝負で負けたわけではない

「一瞬の隙」みたいなことを言う人いるけど、結果的に僅差で負けた場合だけじゃないでしょうか?
最終的に100m以上(22秒差)引き離されたら、「一瞬の隙」ではなく「力の差」だと思いますけど。
あの時の黄選手は強いなあと思いましたよ(´・ω・`)

ttp://www.sanspo.com/athens2004/athletics/news/at2004083103.html
【92年バルセロナ】
(1) 黄 永 祚 韓  国 2時間13分23秒
(2) 森下 広一 旭化成 2時間13分45秒
167ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/29(土) 22:41:32
ラストの強さっていっても瀬古のは100〜400mぐらいのスプリント力で
森下のは単なるキロ単位のスピードの切り替えだろ
168ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/29(土) 22:59:28
瀬古は高校時代、400のスプリントが48秒台
で走れたからな。
おはようございます。
>>165さんのおっしゃる通り必ずしもトラックがマラソンのアドバンテージになるとは限らないとは思いました。
しかし、>>163さんの表を見ると往年の名マラソンランナーは思ったよりトラックも走れてるんだな、とも思いました
(中山さんあたりは5000を狙ってないだけでもっと速く走れた気がする)。
そう考えると藤田敦史さんなんかは異色かな、と。
170ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 08:47:29
>>165バルセロナは完敗、競技場に入る長い直線で森下は既に後ろを振り返っていた。
171165:2006/07/30(日) 11:07:28
バルセロナ五輪のマラソンコースの難所「モンジェイックの坂」は登りばかり強調されるが、
黄選手が仕掛けたのは、唯一の長い下り坂の地点だった。

谷口選手はコースの下見の際に、下りで息がつける、という隙を狙って
「ここで仕掛けるのも手かな」と(黄選手同様に)考えていたポイントでもある

そこで正に一瞬の隙を突いて黄選手はスパートした。

アテネ五輪の女子マラソンで野口選手が、
絶対にスパートしないポイントと思われていた28km地点で仕掛けた。
見る見る後続とはなれて行き、ラストに強いヌデレバ選手に対して
終盤に入る時点で十分なセーフティリードを保てたのだ

それを踏まえると、「一瞬の隙を突く」「意外性のロングスパート」というのは、
相当に効果があると言えるのではないでしょうか

確かに「一瞬の隙を見せた」森下選手が弱かった、という言い回しも出来るかと思います。
しかし谷口選手がレースをビデオで見たとき、
(あの下り坂を黄選手と同様にスパートのポイントと見ていたことも相まって)
「僕もあの中に入っていたら、もう少し違う展開になったかもしれない」と言っている
展開もあったかもしれないが、決して力負けしたわけではないと思っています

あと森下選手が振り向いたのは、
前が詰まらなくて集中力も切れ、気持ちが萎えてきたからだと思います。
力勝負で離された訳ではないし、体力が切れて振り向いたのではないと思いますよ

長文失礼しました
172ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 12:25:56
バルセロナの森下は完全なる力負け

もちろん銀メダルだし、彼の初マラソン、そして選考レースを見る限りでは彼が世界トップランクの
力を持っていたのは紛れも無い事実

しかし下りでスパートされた時に対応出来なかった時点である程度勝負は見えていたし
その直後、恐らく彼の関係者であろう人に後ろとの差を確認し始めた時点で本人の余力が
無いことは明らかだった。

マラソンに於いて気持ちが萎えてくるというのは終戦を示します
それは体力が尽きてしまうコトを示します、私はあの時点で森下選手の気持ちが切れたかどうかは
知りません、が、勝負に於いては明らかなる力負けだったと感じます。

しかし練習時、レース時に於いての集中力・気持ちの強さの申し分無い彼のあの結果は
当時の彼の力で出しうる最高の結果だったと思います
173165:2006/07/30(日) 12:38:19
>>172

>>しかし下りでスパートされた時に対応出来なかった時点である程度勝負は見えていたし

でいくと、>>171の例で挙げた野口のロングスパートをヌデレバがフォローできなかった時点で、
ヌデレバは野口に力負けした、という論理になってしまう。
ヌデレバの走力を考慮するとそうは思えないし、
展開のアヤというのは勝負事では存在すると思っています。

しかしアテネでは野口が女王として、バルセロナではファン選手が王者として君臨した。

持ちタイムが早い、一番強いレースをした、論評は各レースで色々あるでしょうが、
なんらなんだいってそのレースで勝った選手が一番強い
森下選手が力負けだったのか、展開のよるアヤだったのかは、永遠にナゾかもしれないが
(森下選手が力負けだったとは認めた訳ではないが)
ことバルセロナ五輪のマラソンはそのレースを勝ったファン選手が一番強かったのは紛れもない事実でしょう
174ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 12:43:14
ですね
175ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 12:45:05
宗兄弟
176172:2006/07/30(日) 12:47:35
>>173 あなたの見解と私の見解は正反対のようで実は類似しておるようですね

楽しかったです、バルセロナ当時の興奮が蘇るようでした
あのレースが私の陸上を始めるきっかけになったものですので

こういう風にいろんな見解を煽りなしで色々見てみたいですね
ありがとうございました!
177165:2006/07/30(日) 12:53:19
ボクも14年前の「モンジェイックの死闘」を、
深夜テレビに食い入るように見た事を思い出しながら、
楽しい書き込みが出来ました
こちらこそ御礼申し上げます

(2ちゃんねるらしくない美しいまとまりに照れを感じる(w)
にくちゃんねるで、過去ログさがしてみた。
2本目はひっからなかったけど・・・参考までに。

No.1(中山、瀬古のエピソードが豊富)
日本マラソン史上もっとも強いランナーは?
ttp://makimo.to/2ch/sports3_sports/1075/1075254672.html

No.3(前スレ)
マラソン史上もっとも強いランナー・マラソン通史3
ttp://makimo.to/2ch/sports9_athletics/1094/1094488524.html
179ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 13:24:12
中山VS森下がスゴかった

森下の初マラソンである別大で終盤に中山が森下の肩をポンと叩いたシーン
アレは「これからのエースはオマエだ!」と襷を渡した、とオレは思って一人で感動したもんだが
実際は「これから日本のエースとして戦うのに、オレの後ろや横に並んでどうする?勝負をしろ!」
と、内心怒っていた、と彼のインタビューを読んでビックリした

森下2度目のマラソン(東京)も中山との激戦
この時は初マラソンの早田を交えてのサバイバルレース
森下優勝、中山、早田と続いたが、このレースを見て
「日本が世界を席巻する!」と確信したが・・・

森下は3度目のマラソン(バルセロナ)を機に故障から輝きを失い
中山は当然のコトながら引退
早田も伸び悩む・・・

もういちどワクワクするような男子マラソン界になることを希望したいね
まさしくマラソンは駆け引き(それに付随したスピード、スタミナも必要だが)。
>>171さんの言うとおり勝者の多くは一瞬の隙を狙っている。
敗者の多くは一瞬の隙を狙われた。
特に五輪をはじめとした「勝利を狙う大会(タイム狙いではない)」に、駆け引きの強さが出る。
アトランタのロバも(確かに走力はあっただろうが)ぽーんと飛び出してぶっちぎった。
あれも他の選手の隙を突いた形。
力でねじ伏せたのは近年ではラドクリフ、バンコクアジア大会〜シドニー前後の高橋くらいか。
アベラは力でねじ伏せたわけではないだろうが、スパートのタイミングで他を圧倒した。
181ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 16:36:00
>>180
往年としてはショーターの走りは相手を叩きのめした。
前半でガーッと前にでてハイペースで全体のペースを崩し、
集団を分解して独走態勢を築く。
後半はいつも急降下でペースが落ちたが、相手の戦意が消失しており
独走でゴールというパターンが多かった。
87年福岡での中山のレース展開と同様。
>>181ショーターはミュンヘンの1万で5位に入っているし、
当時として27分30秒台で走る
絶対的な走力があったからな。

15分30秒で最初のラップを走る時代に、14分40くらいで入ってた。
183ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 17:30:54
>>182 ショーターのベストは27'45"91だった。75年の世界ランク2位だし、
ミュンヘンでも5位になっているから速いことは速かったけど、マラソン選手
で(相対的にでも)もっと速く走った選手はいくらもいた。

またあの頃は15'30"の入りは殆どなかった。宇佐美が日本記録を出したときは
15'20"くらいで入りが遅かったが、大体入りを突っ込んで後は落ちるに任せる
レースが多い。あの頃で入りが最も速かったのは70年の英連邦でのヒル。
184ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 20:13:08
>>183
70年代前半で27' 45"は強いですね。
あの頃はクラークの記録がまだ世界記録だったのかな?
185ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 22:15:01
>>184

「陸上ランキング計算データベースシステム」というサイトがあったが、
http://www.yoko20934.net/public/RunDB/
それによると、

1965.07.14 Ron Clarke (AUS) 27:39.89
1972.09.03 Lasse Viren (FIN) 27:38.35
1973.07.13 David Bedford (GBR) 27:30.80
1977.06.30 Samson Kimobwa (KEN) 27:30.47
1978.06.11 Henry Rono (KEN) 27:22.47
(R・クラークが最後に世界記録を出し、1984年のF・マメーデまでの記載)

だそうだ

そうか、ラッセ・ビレンいたなぁ(血液ドーピングの噂があったが)
大レースに勝てなかったヘンロー・ロノとか。
イギリスはムーアクラフトが5000mで13分00秒の世界記録を持っていたし、
「貴公子」コー、「中産階級の星」オベットとトラックがめちゃくちゃ強かったんだなぁ

しかしこの世界記録保持者の中でマラソンまで移行できたのがいないとは...
186ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/30(日) 22:34:10
>179の方へ
私は中山ファンでしたので、あのシーンは衝撃というか正直ショックでした。
無類の強さを武器に、歯に衣きせぬモノの言い方で世間を圧倒し続けた中山が
ある意味、自分から負けを認める姿は少し寂しかったですね。
あの瞬間、「あ〜、中山はもう二度と勝てないな・・・」と思いました。
>>182
>>183

1972年 ミュンヘン五輪 男子10000m 決勝

1、27.38.4 ビレン(フィンランド) 世界新記録
2、27.39.4 プテマンス(ベルギー)
3、27.41.0 イフター(エチオピア)
4、27.48.2 アロ(スペイン)
5、27.51.4 ショーター(アメリカ)
6、28.05.4 ベドフォード(イギリス)


同 男子マラソン 

1、2時間12分19秒7 ショーター(アメリカ)
2、2時間14分31秒8 リスモン(ベルギー)
3、2時間15分08秒4 マモ(エチオピア)
4、2時間15分39秒8 ムーア(アメリカ)
5、2時間16分26秒9 君原健二(日本)
6、2時間16分30秒6 ヒル(イギリス)
>>187
この時のレースはラスト1周で先頭がイギリスのベドフォード
(このベドフォードがのちにビレンの世界記録を最新する)
でイフター、ビレン、アロ、プテマンスの順。
第二コーナーでビレンが飛び出しプテマンスが追う。
結局、そのままビレンが逃げ切り、クラークの7年間保持
していた27分39秒4を最新するものとなった。

189ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 00:12:50
宗兄弟も当時はトラックでヨーロッパ遠征してるんですか?
190ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 00:33:43
名前: ゼッケン774さん@ラストコール 2006/03/16(木) 19:03:06

主要ランナー 1万m ベスト記録(1985年 4月まで)

ロペス      27’17’’48 (2時間07分12秒)
S・ジョーンズ  27’39’’14 (2時間08分05秒)
中山竹通     28' 51’’67 (2時間08分15秒)
ド・キャステラ  28’02’’73 (2時間08分18秒)
スペディング   28’08’’12 (2時間08分33秒)
クレイトン    28’45’’20 (2時間08分34秒)
瀬古利彦     27’43’’44 (2時間08分38秒)
サラザール    27’25’’61 (2時間08分51秒)
宗猛       27’59’’31 (2時間08分55秒)
イカンガー    29’27’’20 (2時間08分55秒)
ディクソン    28’35’’69 (2時間08分59秒)
宗茂       28’17’’61 (2時間09分06秒)
スミス      27’43’’76 (2時間09分08秒)
ゴメス      27’57’’81 (2時間09分12秒)
ロジャース    28’04’’40 (2時間09分27秒)
伊藤国光     27’47’’35 (2時間09分35秒)
チェルピンスキー 28’28’’20 (2時間09分55秒)
トレーシー    27’48’’70 (2時間09分56秒)
191ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 00:35:43
>>189
遠征している
宗茂の27分台は欧州だったんじゃないかな
192ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 08:48:06
>>191 >>190を見れば分かる通り27分台は猛しか出していない。このレースは
瀬古が優勝したDNガラン。茂のベストも同じレースだった筈。

>>188 このレースの序盤でビレンは転倒している。ビレンのラストは強かった。
(モントリオールの5000もラスト勝負だった)。

>>185 一応ビレンはモントリオールでのマラソンで5位。クラークも東京オリンピック
の映画(マラソン)では活躍しているのはよく知られている。因みにモントリオール
10000で銀を取ったのがかのカルロス・ロペス。ロペスはマメーデが世界新を出した
競技会で従来のロノの記録を上回るタイムで走っている。他に10000でいい記録を持って
いたマラソン選手は近年のゲブやテルガドだけでなく、10000で歴代2位で走った
サラザールもいる。1500が強かった選手はディクスン(ミュンヘン銅。1983NYC優勝)
くらいかもしれない。
193ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 09:38:47
>>188 イフターはミュンヘンで銅を取ってるんだ
モントリオールはアフリカのボイコットで参加してないが
80年のモスクワで5千、1万で2冠だったから息の長い
活躍だったようだ。小柄なランナーだった。
アベベ〜マモ〜イフターという流れだ。
エチオピアの長距離経緯は。 この後、バルチャやネディなど
に繋がっていく感じ。
194ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 10:12:02
>>193 バルチャ、ネディは79年のモントリオール国際で既に活躍していた。
このレースでバルチャが優勝(2位はチェトル)。当時最強と思われていた
ロジャースがまさかの13位で、一躍彼らはモスクワのダークホースとして
注目され正月の朝日新聞にも取り上げられていた。しかし彼らはトラックは
走らなかった。モスクワでは彼らは不発。ネディが8位くらいになった程度。

逆にトラック(特に10000では)イフター以外も活躍。ケディルが銅。もう
一人4位に入っていた。このレースではマアニンカが2位、ビレンが5位で
エチオピア、フィンランドの対抗戦の様だった。後にマアニンカがドーピング
を告白(と1次スレッドにあった)。また内線が勃発したエチオピアは混乱し、
時の体制側にいたイフターは体制がひっくりかえった後に逮捕される。
エチオピアが落ち着いて、また走れる選手が出たのはその後の話。ということで
系譜は実のところ断絶している。

195ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 10:22:30
後、10000もマラソンも強かった選手として79年に世界歴代2位で走った
バージン(米)も挙げられる。81年のボストンでは瀬古と競っていた。
(当時でも10000の記録はまだ歴代2位だったと思う)。
196191:2006/07/31(月) 10:48:59
>>192 すまん、茂さんと猛さん逆だった
197ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 20:02:27
瀬古は初期の頃、ロジャースに対して(京都、福岡国際、ボストン)で3連敗している。
>>189
宗兄弟 トラック海外遠征成績

1977.6 ワールドゲームス(ヘルシンキ)
(5000m) 茂 不参加        猛    13.58.0
(10000m)茂    28.37.1 猛    28.50.1

1977.7 DNガラン(ストックホルム)
(10000m)茂    28.55.0 猛    28.29.0

1978.6 ケルン国際(ケルン)
(5000m) 茂 7位 13.40.8 猛 9位 13.45.5

1978.6 DNガラン(ストックホルム)
(10000m)茂    28.17.6 猛 6位 27.59.3

1979.6 ワールドゲームス(ヘルシンキ)
(10000m)茂    28.22.2 猛    28.23.0

1979.6 四カ国対抗(ブレーメン)
(5000m) 茂    13.55.2 猛 8位 13.42.3

1979.7 オスロゲームス(オスロ)
(5000m) 茂 不参加        猛    13.50.6


1979.7 モスクワプレ五輪(モスクワ)
(10000m)茂     28.47.9   猛     29.11.3

1980.7 ビスレットゲームス(オスロ)
(5000m) 茂 不参加           猛     13.51.0

1980.7 DNガラン(ストックホルム)
(10000m)茂     29.22.0   猛     28.18.3

1980.7 ワールドゲームス(ヘルシンキ)
(10000M)茂     28.49.1   猛     28.31.3

1982.7 ワールドゲームス(ヘルシンキ)
(10000M)茂 11位 29.56.51  猛 10位 29.45.92

1982.8 GP・スペレン(イエテボリ)
(5000M) 茂  4位 13.44.55  猛  5位 13.44.66

1983.7 ワールドゲームス(ヘルシンキ)
(5000M) 茂     14.06.9   猛     13.53.77
名前: ゼッケン774さん@ラストコール 05/01/27 21:10:54

瀬古利彦 トラック欧州遠征 全成績

1978.6.22 ケルン国際(ケルン)(5000m 優勝) 13.35.8
1978.6.28 ワールドゲームス(ヘルシンキ)(10000m 9位)28.12.2
1978.7.03 DNガラン(ストックホルム)(10000m 優勝)27.51.61
1978.7.04 DNガラン(ストックホルム)(5000m 11位)13.40.49

1979.6.20 ワールドゲームス(ヘルシンキ)(10000m 優勝)28.02.59
1979.6.23 4カ国対抗(ブレーメン)(5000m 3位)13.34.4
1979.6.24 4カ国対抗(ブレーメン)(3000m 7位)7.54.9
1979.7.05 オスロ国際(オスロ)(5000m 5位)13.37.6

1980.7.01 ビスレット国際(オスロ)(5000m 2位)13.30.94
1980.7.07 DNガラン(ストックホルム)(10000m 優勝)27.43.44(日本新)
1980.7.09 ワールドゲームス(ヘルシンキ)(10000m 3位)28.09.42

1981.7.09 DNガラン(ストックホルム)(10000m 2位)27.51.93

1985.7.02 DNガラン(ストックホルム)(10000m 4位)27.42.17(日本新)
1985.7.10 ローザンヌ国際(ローザンヌ)(10000m 優勝)27.45.89
1985.7.13 パリ国際(パリ)(5000m 2位)13.36.28

1986.7.05 ビスレットゲームス(オスロ)(10000m 6位)27.45.45
1986.7.11 プジョー・タルボット・ゲームス(ロンドン)(5000m 優勝)13.24.29(日本新)

1987.6.30 DNガラン(ストックホルム)(10000m 途中棄権)
1987.7.04 ビスレットゲームス(オスロ)(5000m 12位)13.38.65
1987.7.10 プジョー・タルボット・ゲームス(ロンドン)(3000m 6位)7.56.47  

201ゼッケン774さん@ラストコール:2006/07/31(月) 23:49:35
>>193 イフターはミュンヘンの後、77年のワールドカップまであまり活躍しなかった。
76年のモントリオールではニュージーランドのラグビーチームが南アフリカ遠征をした
あおりでアフリカ勢は軒並みボイコットしたけど、そもそもその前から動静が伝わって
こなかった印象がある。しかし77年,79年のワールドカップと80年のモスクワ
と強烈なラストスパートで無敵と思える強さを誇っていた。もっとも79年には
当時マイルあたりで2強に次ぐ実力者と目されていたヴェッシングハーゲ(西独)
に5000のラストで競い負けたこともある。ベケレみたいなものか。
202ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 00:06:41
>>192
モントリオールの5千は優勝したビレンから6位入賞まで
2秒差という大混戦だったが、この時の4位がディクソン。
そしてロス五輪では世界で10人しかいない2時間8分ランナーとして
参加した。結果は中盤まで先頭集団で健闘したが10位だった。
203ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 00:14:22
ミュンヘン 、モントリオールと5千・1万で4冠獲得したビレンはほとんど接戦。
そんな中、モントリオールの1万はロペスと一騎打ちになったが最大の5秒差をつけて
優勝している。
204ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 00:26:13
モントリオールの頃は
日本マラソン陣は伸び悩んでた。
瀬古出現までの過渡期だったな。
205ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 09:54:27
>>202 ディクスンは運がなかった。ビレンと同僚のクァックスに次いで銅を
確保したと見えたが、西独のヒンデンブランドがゴール前で絶妙のタイミング
で転倒し、一瞬早くトルソがゴールラインを通過して銅。ディクスンは4位に
沈んだ。ディクスンはこの年も1500を中心に活躍(石井隆士が3'38"4を出した
レースの1位)していたが、同僚のウォーカーには敵わぬと見て本命不在の
5000に進出。しかし一歩及ばなかった。ついでに言うと74年の英連邦1500で
バイとウォーカーが世界新を作ったレースでも3位(歴代4位の好記録。その
レースの上位以外ではライアンの記録があるだけ)。後、少しの運のない人
だったように感じる。ニュージーランド3強の中では一番格好が良かったよう
に思う。モントリオールの5000のレース前ではABCがスポットライトをあてて
いた。
すみません、オリンピックか世界陸上などの
出場者全員の記録が載ってるようなページを知ってる方教えてください。
207ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 11:22:16
ニュージーランドはスネルを代表に長距離王国に君臨してて、その後は70年代の
ウォーカー、ディクソン、クアックスやマラソンだとライアン、フォスターと
粒が揃っていた。しかし凋落は日本以上で最後は女子の
ローレン・モラー以降、有望選手が育っていない印象だな。
208ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 12:33:50
>>207
ロドニー・ディクソンの2゚08'59"が今でもNZランド記録なのかな?
209ゼッケン774さん@ラストコール :2006/08/01(火) 18:49:36
>>206
世界陸上なら、歴史浅いから検索できそう。
http://www.iaaf.org/WCH05/history/index.html

五輪、さすがに1896年第1回アテネ五輪からのは無さそうなので
すみませんが探してませんm(_ _)m
210ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 19:03:20
平成の怪物、渡辺康幸について。

SB入ってから10000mのベスト更新したりいい感じだったと思うんですが
マラソンはさっぱりでしたね。
彼のマラソンは見たときが無いのですが何戦ぐらい走ったですか?
マラソンの走りについてどんな印象でした?

故障が非常に多かったですね。
211ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 19:19:46
>>210
ここを見る限り2戦のみ、みたい

特集・渡辺康幸選手 引退
ttp://www.ccsnet.ne.jp/~rsin/ywatanabe.htm
>96琵琶湖 2時間12分39秒
>98福岡国際 33Km途中棄権
212ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 19:52:52
本気で出てないからカウントしてないけど
シドニーのマラソンにも出場して完走してます。
ナショナルチームのメンバーほぼ全員で参加して
高橋健一が優勝しました。
高橋健一が2時間15分くらいだったかな?
213ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 20:00:15
風邪薬服薬によるドーピング懸念で東京国際を回避しての出場で
肉体面はもとより精神面でも万全とはいえなかった
そんな中の初マラソン2時間12分台は中々のもの

しかし世間は「期待外れ」の烙印を押した。

あの期待外れ感はなんだったのか?
「渡辺康幸」故の悲劇だったのだろうか?

世間ももう少し渡辺を長い目で見てやれば、
武井みたいに最悪の状況でもあそこまで復活したみたいに、
30歳過ぎまで走れたような気もするのだが
214ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 20:11:32
>>213
世間うんぬんより、怪我が多すぎた。「ここで終わるランナーじゃない」と涙の会見
にもあったように、本人が「渡辺ブランド」とのギャップに耐えられなかったのでは?
同僚の花田の場合は、マラソンの適正なかったのかな?と、結果から思うけど、
渡辺の場合は、マラソン挑戦自体が少なすぎて評価できない。
215ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 20:19:33
というか、走りもしないうちから
8分台とか7分台とか周囲が騒ぎすぎて勘違いした。
本人の引退直後のコメントをみても
「一発ひっかかればおもしろかったかも」とか。
マラソンに“ひっかかる”はないだろ・・・
216ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 20:27:01
結構あるよ
藤原とか女子の小鴨とか
217ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 20:36:24
>>215
> というか、走りもしないうちから
> 8分台とか7分台とか周囲が騒ぎすぎて勘違いした。

渡辺が箱根のライバル、マヤカを「母国に帰れば二流」とか言ってなかったっけw
そういう自負心と周囲の根拠なき期待で自身でも「ランナーとしての最低ライン」を
高めちゃったのかもしれんね。
大型ランナーで期待値は高かったねえ・・・
218ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 21:52:44
「箱根が生んだスター」ではなく
「箱根がダメにしたスター(?)」だな
219213:2006/08/01(火) 21:52:53
今だに憶えているだが、
渡辺が大学4年時の箱根駅伝前(だから1995年12月かな)に、
朝日新聞社の「AERA」の表紙になったんだよね

明らかに、

「箱根駅伝で名門早稲田を優勝に導き」
「初マラソンで2時間8分台でアトランタ五輪」
「マラソン二回目でオリンピックメダル獲得」

みたいな絵写真を、
マスコミ(この場合は朝日新聞)の早稲場閥が仕組んだんじゃないか、って気がするのよ

普通は、箱根駅伝に優勝した後(つまり結果を残してから)表紙にしようもんだが、
先走っちゃったんだよね。

箱根の結果は、ご存知の通り、早稲田は山学に負けて2位。

では、東京で8分台だ!
...プレッシャーでつぶれ、記者会見で号泣

オリンピックはなんとか10000mで代表になるも故障で不出場.....

そう考えると、マスコミの渡辺フィーバー、それに煽られた世間の興奮と、
その期待に潰れて行った過程いうのに合点がいくんだよね

これが客観的事実であれば、渡辺を潰したのは瀬古監督(当時)ではなく、早稲田系のマスコミだよ
220ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 22:40:37
つぶしたつぶさない、というより
そもそもあの程度の選手だと思う。
練習も途中でやめちゃうし。
マラソンに出る前から騒ぎたてられ
中山が「8分台なんか出るわけない」と
断言していたが、皮肉にもそのとおりだった。
221ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 22:41:08
いや、そういう外野の話以前にアキレス腱7回故障してますので・・・
222ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 22:44:23
調子に乗り過ぎたな
223ゼッケン774さん@ラストコール :2006/08/01(火) 22:55:41
>>220
中山って毒舌ばかりだが、こういう指摘は的を得てるのが多いな。
224ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 22:58:27
中山は言いづらいコトをいってのけるからな・・・

そこだけはある意味沢木超えだなw
225ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 23:00:19
>>223
基本的には「的を」×得る○射る
しかし、いつの時点で中山が断言したのか知らないけどすごいなぁ・・・

>>220
> 中山が「8分台なんか出るわけない」と
> 断言していたが、皮肉にもそのとおりだった。
226ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 23:03:29
異端児大いに結構
227ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 23:04:01
渡辺康幸かぁ 懐かしいなぁ
俺は、市船で渡辺康幸の1学年上で、普通科だったんだけど彼らと一緒に駅伝
にも出場してたんだ。
みんないろいろ言ってるけど、一緒にやってた俺としては、渡辺康幸や俺の1
学年上の柳倫明先輩なんかは、化け物だったとしか言えないよ。
一生懸命やれば勝てるなんて事はとても思えなかった。(これじゃ負け犬だね)
なんか、懐かしい話題を見かけたんで書き込みしちゃいました。
228213:2006/08/01(火) 23:22:10
その程度の選手を煽ったマスコミとそれに乗った世間...
長い目で見ればシドニー五輪辺りで、マラソンとは言わんが
10000mとかで活躍していたかもしれないのに..
229ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/01(火) 23:59:41
渡辺にネガティブな評が多いが、敢えて反論?でも張ってみよう。まず第一に
アトランタで惨敗したように当時、日本調距離界はどん底に近かった。その中
で95年の世界陸上10000予選で渡辺が瀬古の学生記録を破り、早田も決勝では渡辺
の上の順位(記録も27分台)を出したので期待されて当然だった。渡辺はユニバ
でも優勝するなど駅伝だけでなく調整した大試合では全て結果を出してきた。
それに加えて(後となっては皮肉なことだが)故障知らずということでも高く
評価されていた。多少は箱根や大学駅伝の激走で過大評価はあったかもしれない
けど、瀬古の幻影を渡辺に見たのは仕方がないというところだろう。

95年福岡で早田が失速した以上、(東京の再挑戦では期待できないと思われて
いた)東京で期待できる選手は渡辺しかいなかったのは事実。結果的に実井が
好走したが、それがどうしたという感じしか残らなかった。

そのときの涙の記者会見以上に情けないと思ったのは折角、最終選考会の劇的
なレースで10000の代表に選ばれながら、アトランタで走れなかったこと。
マラソン云々以前の問題として目標とすべきレースを2つ続けて欠場したことで
評価は急落した。
このスレ、パート4にして初めて渡辺の話題になったね。
いつの時代も故障で選手生命が絶たれた選手はいた。
渡辺は過渡期の時期の出現だったのとマスコミが発達時代
の過大評価もあった。

学生時代の実績は瀬古に及ばないものなのだが、瀬古の幻想を
背負わされた感もあったな。
70年代では超高校級で大成できなかったランナーに福岡の
吉富悟なんかもいたな。
231ゼッケン774さん@ラストコール :2006/08/02(水) 01:02:08
>>188

亀レスですまないが、ミュンヘン五輪の1万mあなたの書いていることはかなり事実と違う。

まず、ベドフォードは8000mの時点ですでに先頭集団から脱落していた。

ビレンがスパートを掛けたのは、残り200mからではなく1周前の残り600mから。
ビレンの強さは、切れ味のいい鋭いスパートではなく、このときのようなロングスパート。
切れ味ならプテマンスやイフターの方があったと思うが、それを封じ込めてしまうビレンのレースだった。

モントリオールの5000mもそう。このときは残り3周くらいからペースを上げ、ラストのキック合戦だったらビレンに勝っていた可能性が強いクァックスやディクソンのスパートをしのぎきった。
>>231

188のものではないが、以前ミュンヘンの10000はハイライト版で見た事があるが、
たしか鐘が鳴ってラスト1周過ぎてからビレンはスパートしたと思うぞ。

記憶が完璧ではないんだが。
>>230
渡辺が活躍した時期は、まだ俺が駅伝とマラソン以外はほとんど知らない時期だった。
期待の大きさとのギャップ、度重なる故障に苦しんだ末、実業団入り後はほとんど結果を出せなかった
本来なら初マラソンでの12分台は合格点。溜める練習ができていれば……と思わせる点もあった。
実業団入り後の渡辺はニューイヤー7区区間新以外は、学生時に比べて寂しいものだった……
234231 :2006/08/02(水) 08:16:25
>>232

ビレンのロングスパートはいきなり全開という感じではなく、ギアをどんどんあげていくという感じだった。

ミュンヘンのとき、ロングスパートに入った9200−9600のラップが60秒0、ラスト1周が56秒6
だから最後の1周に入ったときさらにギアをあげたのは間違いないが、その前からスパートに入っていたのだ。
235ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/02(水) 08:50:42
オレは中学時代、渡辺が高校2年の時の全日本ジュニアを見に行った

その時は早稲田に入学して初レースの武井を見に行ったのだが
その武井に喰らい付いて行ったのが当時市立船橋2年の渡辺だった
オレはそれが誰なのかは知らなかったが
「えらく軽く走っている人がいるなあ」と友達と話していた。

ラスト勝負で武井に競り負けたものの、14分14秒位で走っていた
「あの人スゴイ!絶対強え!」
陸上部のみんなで盛り上がった

その後の活躍はなんだか嬉しかった
>>208
その記録は1983年のNYのものだね。
あれは雨中のレースで、終盤先行していたジェフ・スミス(英国)をセントラルパークで捕らえ逆転優勝。
ゴール後精魂尽き果て倒れ込むスミスのを後ろに、両手を上げて天を仰ぐディクソンの姿が印象に残っている。
237ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/02(水) 15:50:36
>>236
ジェフ・スミスも地味ながら80年代に活躍してたな。

ボストンの停滞期(80年代半ば)に連勝したり、瀬古が勝った87年も3位に入った。
でもスミスが来日してマラソン走った記憶がない。
>>237 85年のボストンは前半世界記録のペースで飛ばしたものの、
後半は大失速。優勝したものの2時間14分台であり、またスミス以外めぼしい選手も出場せず
「ボストンは市民大会になるか」ともいわれた。
明らかに賞金制度導入の遅れと拒否からであった。
改善された86年からはハイレベルな戦いが蘇った。
239ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/03(木) 10:34:47
スミスといえば児玉が勝った北京では(86年か?)イカンガー、シャハンガらと前半
ハイペースを作っていた。結果は2時間10分台でゴールだったんじゃないかな。
240ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/03(木) 11:05:04
自演乙ww
241ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/03(木) 14:17:23
瀬古が初マラソンで走った「京都マラソン」はいつ廃止したんですか。
242ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/03(木) 23:12:46
>>241 82年までだと思う。その後継が都道府県対抗女子駅伝。第1回が83年。
243ゼッケン774さん@ラストコール :2006/08/04(金) 00:29:49
京都マラソンと都道府県対抗女子駅伝のコース、同じなん?
>>243
な、なぜに全国高校駅伝のコースと言わない?
245ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/04(金) 21:18:35
京都マラソンは何月開催?
246ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/04(金) 22:40:08
北京国際マラソンの記録を
公認しちゃいかんと思うのだが・・・
247ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/06(日) 00:23:32
87ボストンは唯一、終盤の瀬古のスパートに反応したのはスミスだけ。
しかし呆気なく置いていかれたが…
248ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/07(月) 02:31:53
「世界でいちばん強いのは瀬古だなぁ」 と思えたのが87年のボストンの時だったよ。
瀬古利彦(早大)初マラソン

第9回 京都マラソン (1977.2.13)

1、2時間14分26秒 B・ロジャース(アメリカ)
2、2時間18分38秒 染谷十三男(入間市役所)
3、2時間19分44秒 下工垣敬一(安立電気)
4、2時間19分54秒 宇佐美彰朗(東海大教員)
5、2時間20分47秒 大久保初男(大東文化大)
6、2時間22分04秒 渡辺光(東京陸協)
7、2時間22分47秒 清水豊(日本精工)
8、2時間23分27秒 阿部健(東洋工)
9、2時間24分34秒 大村哲(石川島播磨)
10、2時間26分00秒 瀬古利彦(早稲田大)


初マラソンの瀬古は10キロ過ぎでペース無視の暴走をし、
当時世界NO,1と云われたロジャースを追って2位に進出。
だが折り返した後半は完全にスタミナ切れでグロッキー状態。
10位入賞で新人賞を獲得した。
250ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/07(月) 16:23:12
>>249 この時の京都は宇佐美の引退レースでもあった。
251ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/07(月) 20:49:24
>>6、2時間22分04秒 渡辺光(東京陸協)

って、駒澤大学で史上初の全日本インカレチャンピオンの方?

駒大は大八木前史も結構(大学レベルで)活躍している選手が出ているだよね(レス違いでスマン)
252ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/07(月) 21:21:05
>247
87ボストンの中継は忘れられない。
当時の世界一流がほぼ全員参加した大会で
何日も前から中継を楽しみにしていたが、
始まった途端、霧のためにヘリが飛ばず
5Kごとの固定カメラの映像のみ・・・
ようやく中継されたのが、残り5Kをきった地点。
瀬古の2段式スパートでほぼレースが決まった頃であった。
アタマに来たが、あのメンバーで瀬古が段違いの強さをみせたのが救いだった。
>>252
ヤキモキした画面が繋がり、先頭が瀬古単独だったときは「オーッ」 と唸ったものだ。
40km過ぎまで競り合うのではと思っていた。
>>252
あのレースには瀬古をはじめ、スティーヴ・ジョーンズ(英国)、ロバート・ド・キャステラ(豪州)、ジュマ・イカンガー(タンザニア)、
ジョン・トレーシー(アイルランド)、ジェフ・スミス(英国)ら当時の世界のトップレベルが集結した大会だった。
キャステラは不幸にもスタート直後に転倒しハンデを負ったが、それにしてもその豪華メンバーの中で優勝した瀬古の走りは見事だった。
「心臓破りの丘」は俺も走ったことがあるが、小刻みな上り坂が連続する坂なんだよな。
一つ一つの坂は大したことは無いのだが、なにぶん30kmを過ぎてからなので脚に来る。
その坂で勝負をかけることができた瀬古は今の日本のランナーにはない優れた勝負勘を持った選手だった。
また、あのレースには日大の武田も出てて中間点くらいまで先頭集団に果敢についていた。
255ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/08(火) 09:30:44
中山は87年下半期が強さのピークだった。
願わくは88年が五輪イヤーではなく、春のレースを海外で走ったらと思った。
256ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/08(火) 11:42:29
中山は五輪含む欧米レースは未勝利だな。
257ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/08(火) 21:07:48
高岡って、どうなんでしょうね。
トラックの実績もあるし、マラソンのベスト記録もいいんだけど
中山や瀬古のような他を圧倒するような強さというか存在感がないような・・・
258ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/08(火) 21:30:19
中山は最強でなかったが、走りの記憶は、最高だった駆引きが似合わないランナーでしたね
瀬古は最強というイメージの他に、小判ザメという自分でレースを作らない
負のイメージもあった。
中山は、自らレースを作って全力を出し切るイメージが強い。
そのためレース自体は潔いとされた。言動は別として。
260ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/09(水) 00:07:50
>>259
でも瀬古は海外レースは後半、自分でレースメイクしている。
それだけ当時は国内レースの内容が高かったともいえるだろう。
261ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/09(水) 01:46:34
>>257
高岡は瀬古、宗兄弟、中山、谷口、森下というキラ星にでてきた80年代、90年代初頭のランナーに比べ、
線の弱さは感じるな。
それでも他の現役ランナーより数段優れているが。
藤田あたりは残念だった、当時のランナーのふんをもっていた感じがする。
80年代と今の違いは、ケニア、エチオピアを中心とするアフリカ勢の台頭にあると思う。
高岡が目立たないのはそのためだと思う。
中山は海外レースを走る機会に恵まれなかった。
当時は陸連の許可がないとなかなか海外レースを走れなかったから。
263ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/09(水) 17:17:02
>>254
87年ボストンは豪華なメンツが揃いすぎた為、牽制でスローになった。
他に濃霧と5m近い向かい風もスローペースに拍車をかけた。

瀬古はスタートしてボストン恒例の坂道による最初の5km(例年はハイラップになる)が
予想より遅い為、6kmで一旦は先頭でペースをあげ「仕掛け」をしている。
後続が誰もついてこないので、一時待機したが8kmくらいで完全にタイムは諦めたと後日語った。
そんな瀬古はこのメンバーでいちばんマークしてたのがジョーンズではなくトレーシーだったらしい。

しかしこの展開、中山なら6kmで行ったかもしれない。
しかし前半の飛び出しで勝てたかはわからないが。
264ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/09(水) 23:30:16
誰か中山名言集作って

>>262
あとダイエーが東京国際マラソンの冠スポンサーだった
ことも大きいな。
東京国際走ると春の海外レースは出れないしな。
当時の東京国際ダイエーCM懐かしいな。
画面半分だけダイエーグループを流すやつ。
>>261
> 高岡は瀬古、宗兄弟、中山、谷口、森下というキラ星にでてきた80年代、90年代初頭のランナーに比べ、

伊藤さんはその中には入れませんか。そうですか…
267ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/10(木) 01:21:42
>>266
伊藤国光はマラソンでついに未勝利で終わったのと
五輪マラソン代表を逃しているからな。
>>259
でもそれは実力も必要なこと。
その論理だと五輪、世界選手権と連覇し、福岡を3度制したアベラも低評価になる。

>>267
タイムが良かったり安定感があっても、勝てるかとなると別だからな。
油谷や高岡が黄金期の評価に届かないのもそこが要因じゃないかな。

藤田が当時日本最高を出した福岡や、国内最高を出したタイスの東京での勝ちっぷりは今も目に焼きついている。
ああいうレースが本当に強いレースだと俺は思うんだが。
269ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/10(木) 09:32:25
わたしも同じ意見ですね。
実力がなければコバンザメで勝つことは出来ない。
わたしは87年ボストンの話をふった者ですが、
あのメンバー相手に圧勝した瀬古は
あの時点で間違いなく世界一だと思いました。
中山って強いのにメジャーな大会に出れなかったから
世界のランナーからは全く知られてませんでしたね。
藤田かあ。ケガがなければ世界一流になれたでしょうね。
270ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/10(木) 10:48:23
中山の印象は強烈に残るのだが、いかんせんマイナスなのが
世に名前を売ったW杯での記録を最新できないまま終わってしまったことだ。
潜在能力は20年前で2時間6―7分の力があった。
よく今はケニア、エチオピアの本格的な参戦が日本勢が目立たない原因というが、
中山は今のアフリカ勢と走った方が潜在能力が発揮できて自己ベスト、
2時間8分15秒で終わらなかったのではないかと思える。
(なぜなら前半飛ばしていたイメージだが、W杯のように平均ラップで走る走力をもっていたわけだから。)
ケニア、エチオピアの台頭はもっとも。そんな中、韓国・李鳳柱のような存在感もだせるわけだからな。

あと今の五輪でも油谷や諏訪が入賞しているし、世陸もそこそこ活躍しているが印象が薄い。
これはモスクワ、ロス、ソウル、バルセロナと80年代から90年前半までは前評判が
「金メダル」や「最低メダル」というものだったから期待度が違ったんだな。
先をみても東京、メキシコ、ミュンヘンもそうだったと思われる。
しかし五輪に関しては結果がそぐわない状態が続いた。
このモスクワからバルセロナ(モスクワは事情が違うが)は中継後、ガックリの連続だったな。
期待が大きかっただけに。まだ夏マラソン対策も疎かだっただろう。
272ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/10(木) 21:00:37
87年ボストンは「本当にこのメンバー皆来るのかよ」と半信半疑に思ったな、当時。
途中、ヘリが飛ばないで中継できなかったのは腹立った。この時は相当深夜まで起きて見てた人いたと思うよ。
273ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/10(木) 22:30:56
自分は当時、高校生でしたが、
スタートから最後までずっと観ていました。
5キロ15分50秒くらいでずっといってましたよね。
ようやく中継がつなっがったら、瀬古が独走していて、
あ〜、おきてて良かったと思ったものです。
翌朝、フラフラしながらも、「瀬古が世界一なんだ」と
思いながら登校しました。
274ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/10(木) 23:05:57
>>270 所詮W杯は負けレースだからね。86東京も下手糞な競ったレースで負けた。
一方でアジア大会と87年福岡は序盤でちぎって圧勝。記録はW杯、福岡、アジア
大会がそれぞれ8.15, 18, 21と殆ど同じであったのは偶然か、力がそのあたり
だったのか。
275ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 10:11:00
>>274
ショーターしかり中山にしても前半飛び出し型は、レース内容を吟味すればもっと効率の良いタイムがだせる
ような気がする。
ショーターのベスト2゚10'30"ものりしろ1分くらいはあった気がするな。
ショーターの絶頂期に今のようにシューズや給水が発達していたら、3分くらい縮められたんじゃない?
277ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 12:03:33
アベベとショーターの全盛期はまったく勝てる気がしなかったとかつての日本ランナーは言ってたよ。
278ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 12:08:47
>>276
ショーターは炭酸を自分で抜いたコーラを給水所に置いた。
ある日本選手が真似をして実践したらガスが抜けきれてなく、腹痛になった という笑えない話があった。
それくらいおのおの ただ好きなドリンクを置いた時代だった。
279ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 12:20:30
実井も
現時点では油谷繁
>>249
9回 京都マラソン 瀬古レース展開

正午、西京極陸上競技場スタート。
5km ロジャース(米国)ら先頭集団10人は15'45"で通過。
スローペースにかかわらず瀬古は100m遅れ。
10kmを過ぎたあたりからピッチをあげ、15kmで8位にあがる。
トップはロジャース、続いて染谷(入間市役所)、その後方に瀬古ら6人の集団。

瀬古は15から20kmにかけてペースをあげ、集団から離脱。
25kmを過ぎると染谷に並び2位へ。
しかし30km手前、瀬古のスタミナが切れたのをみた染谷がスパート。
35km以降、後続のランナーに次々に抜かれる。

「練習不足で辛いレースだった」とコメントを残したロジャースが2゚14'26"2 で貫禄の独走勝ち。

瀬古は「前半はまずまずだったが最後の10kmは前が黄色く見えるほど
苦しかった。マラソンがこんなにきついものとは思わなかった」 とコメント。
10位 2゚26'00" で新人賞を獲得した。
282ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 18:45:30
このスレは本当によく知ってるひとが集うねぇ。
読んでておもしろいよ。
>>282
過去スレ1〜3もおもしろいよ。
284ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 19:42:46
>>281 前のスレにあったが、このレースは宇佐美の引退レースであり、NHKの
ドキュメントとして放映された。(まあその時点では引退宣言をした訳では
なく、その後、宇佐美が走らず結果として引退レースとなった)。割と最近に
も再放送されていたが、走っている映像に宇佐美が台詞を重ねて、なかなか
面白いものであった。また街並みも随分変わった印象がある。衣笠教会の白さ
が妙に際立っていた。高校駅伝と同じコースかどうかは(当時のコースも覚え
ていないので)よく分からないが、今のシティハーフと同様に賀茂川縁を長く
走っていた。

瀬古を抜くシーンがハイライトの一つなのかな。結局宇佐美は3位でゴール。
285ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 21:20:47
京都マラソンは昭和44年に発足し毎年2月に開催された。
コースは京都定番の全国駅伝コース。
毎年海外招待を初め、中堅どころが参加した。

第1回は大昭和の深田清次が2時間17分43秒8で優勝。3位がローマ五輪代表の貞永

第2回内野幸吉(東洋工業)2時間16分55秒8

そして第3回(1971)が国際マラソンでも活躍した谷村隼美(クラレ)が2時間13分45秒2の好タイムで優勝。
2位 フェアクロス(イギリス)2時間14分58秒6
3位 フィリップ(西ドイツ)2時間16分39秒0

4回はのちの中山の監督・佐藤進(旭化成)が2時間17分39秒0

5回 フォスター(ニュージーランド)2時間14分53秒4
2位 ミュンヘン五輪代表の采谷義秋(竹原高校教員)2時間18分30秒6

6回 ボーレマン(フィンランド)2時間15分10秒6

7回はのちにアジア大会で優勝する阪本峰照(日立造船)2時間17分15秒4
286ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 21:50:54
>>285
ダイエーの監督、佐藤進は旭化成の選手だったんですね。
287ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/11(金) 22:23:29
佐藤進さんが無名の中山を
どこかの30kmレースで見つけて
スカウトしたんでしたっけ?
>>252
>>254
>>263

87年ボストンマラソン レース展開

気温12度、湿度95% 霧が立ち込め時々小雨模様  6279人参加

12時スタート。直後、整理用に張られていたロープを除去しきれずド・キャステラが
引っかかり転倒。 
5km−15分09秒。60-70人の大集団。標高差80mの坂道でありながら
例年に比べてけん制したスローペースに。
10kmで50人。15km40人と少しずつ集団は少なくなるが依然大集団を形成
している。イカンガーが先頭にたったり、時々瀬古が先頭にでたりするが
他の選手はついてくるだけで積極的に前にでない。

この集団には イカンガー(タンザニア)、ド・キャステラ(豪州)、トレーシー
(アイルランド)、Sジョーンズ、スミス(両 英国)、のちのびわ湖を制覇する
ヘルビック(ベルギー)、後年ボストン覇者フセイン(ケニア)、84年シカゴ4位
カマウ(ケニア)、85年度1万世界ランク1位ビックフォード(米国)
同世界ランク3位アイストン(アメリカ)、そして老雄ビル・ロジャース(アメリカ)
、日本勢では瀬古に喜多(神戸製鋼)、谷口伴之(SB食品)、武田(日大)など
が含まれていた。

15kmはビックフォードが先頭。アメリカ勢が前にでてくるがラップがあがらない。
20kmの通過は1時間02分54秒。
ここまでラップは15分09秒ー15分40秒ー16分09秒ー15分56秒。

25kmで集団は30人。しかしスローペースにかかわらず30km手前で
イカンガー、キャステラ、トレーシーあたりの表情が苦しくなる。喜多が脱落。

相変わらずラップは16分02秒ー15分46秒

30kmすぎ−心臓破りの丘 10人に絞られた集団は3つ目の丘を超えたところで
瀬古がスパート。唯一スミスが抵抗し並びかけたがアッいう間に集団は分裂し
離されていった。30kmから35kmを14分58秒に瀬古はペースアップ。
32kmで23秒、34kmで33秒の差が第2集団とついた。

そのころ第2集団はスミスにジョーンズが追いつき、トレーシー、アブラハ
健闘の谷口で形成した。
瀬古は35km−40kmを15分08秒。このころスミスが単独で2位に
上がりジョーンズが追う展開。トレーシーは疲労とスタミナ切れで後方に
下がっていった。
ラストは少々ペースダウンがあったものの2時間11分51秒でボストン2回目
の優勝。ゴール手前でやっとスミスをかわしたジョーンズが2位。84,85年
大会で連覇したスミスが3位に入った。
87年 ボストンマラソン

1、2時間11分50秒 瀬古利彦(日本・SB食品)
2、2時間12分37秒 Sジョーンズ(イギリス)
3、2時間12分42秒 スミス(イギリス)
4、2時間13分30秒 ゴードン(アメリカ)
5、2時間13分40秒 谷口伴之(日本・SB食品)
6、2時間14分24秒 ド・キャステラ(オーストラリア)
7、2時間15分02秒 バンダーハーデン(ベルギー)
8、2時間15分16秒 ヘルビック(ベルギー)
9、2時間15分23秒 喜多秀喜(日本・神戸製鋼)
10、2時間15分41秒 マーチン(アメリカ)
11、2時間16分17秒 イカンガー(タンザニア)
12、2時間16分23秒 アブラハ(エチオピア)
13、2時間17分01秒 ウンベルグ(スイス)
14、2時間17分50秒 トレーシー(アイルランド)
15、2時間18分18秒 Bロジャース(アメリカ)

18、2時間19分03秒 高橋養次(日本・日立電線)
290ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 09:01:51
瀬古や宗、中山のでるマラソンは国民的な行事のようだったな。
今は五輪選考会でもあまり盛り上がらないのが淋しい。
291ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 11:33:58
帝京大学監督時代の喜多秀喜さんと話したことがあります。
戦った選手で誰が一番強かったですか、と聞いたら、
「中山は強かったね。練習でこいつにはかなわないと思った。」
と言ってました。
292ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 12:55:14
>>288
イブラヒム・フセインくらいからケニアの台頭が始まったと思う。
ホノルルマラソンを2時間11分台で走って優勝し不気味な存在だったのと、
その後、ボストンでイカンガーとの死闘を演じて勝った。
2時間8分40秒台の持ちタイムじゃなかったかな。
293ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 14:52:46
ワキウリもケニアでしたよね。
ワキウリが日の丸で走っても
良かったような・・・(笑)
294ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 15:39:25
>>20
>>25
来年の大阪は冗談じゃなく死人が出るぞ
今の時期はの大阪は朝6時で30度、日中は34度ぐらいで
91の東京より4度ぐらいも高いから
295ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 15:48:30
確かに危険な条件ですね。
サバイバルレースだけに
ノーマークの伏兵が台頭するかも。
296ゼッケン774さん@ラストコール :2006/08/12(土) 18:27:58
>>292
イブラヒム・フセインの自己ベストは1992年ボストンの2時間8分14秒。
フセイン、1988年ボストンでイカンガーの死闘の末制覇の後、北海道で谷口浩美に負けたり
一時不調が続いたが、1991年、1992年のボストンを連覇して、後のケニア勢躍進の礎を築いたな。
>>293氏の指摘する冠大会に強いワキウリ、そして賞金レースに強いフセイン、
2人がケニアのプロランナーへの線路を引き、後進の指導への援助に力を貸した事が、
すぐにボストン専門のデティ、トラックランナーから転向のタヌイ、日本育ちのワイナイナの活躍へと繋がり、
ケニアから途切れる事無く世界の一線級の選手を輩出する原動力となっているな。
297ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 19:04:46
ワキウリがケニアからの留学のはしりでしょうか。ワキウリは学生ではなかったけど。
中村監督の門下に入り、初期の頃はSB軍団のラビットをやらされていたのがいつの間にか世界チャンピオン。
五輪でも銀メダルとなり、ワイナイナと共に母国では英雄ですね。
298ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 21:47:46
>>292>>296

第92回 ボストンマラソン 結果 (1988.4.18)

1、2時間08分43秒 フセイン(ケニア)
2、 2時間08分44秒 イカンガー(タンザニア)
3、2時間09分15秒 トレーシー(アイルランド)
4、2時間09分27秒 ボルディン(イタリア)
5、2時間09分33秒 ポリ(イタリア)
6、2時間11分08秒 キャンベル(ニュージーランド)
7、2時間12分32秒 ピッツォラト(イタリア)
8、2時間14分04秒 マカーニャ(タンザニア)
9、2時間14分07秒 S・ジョーンズ(イギリス)
10、2時間14分18秒 谷口伴之(日本)

12、2時間14分40秒 喜多秀喜(日本)
31、2時間18分50秒 工藤正博(日本)
46、2時間21分34秒 森口達也(日本)



時折、雨が激しく吹き付ける悪コンディションの中、36km地点からフセインとイカンガーの
デットヒート。ラストスパートで残り1kmはイカンガーが5mのリードを保ち図書館前に姿を
見せ、そのまま逃げ切りかと思われたが、フセインはゴール50m手前で最後の力を
振り絞って一気に逆転。アフリカ選手による優勝はボストン史上初めてであった。
299ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 22:38:29
森口達也(神戸製鋼)なんていましたね〜。
82年全日本実業団の10000mで瀬古に勝ちましたよね。
息子が高校駅伝のアンカー(7区)で出した5km13分58秒て
いまだに区間記録ですよね。
300ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/12(土) 23:13:22
>> 299 森口は81年に5000で13.26.55(当時歴代2位)で走っているね。あの
時はすぐにでも日本記録を作れそうな勢いだった。またあの時、日本記録を
出しておけば人生も変わったかもしれない。ラストが切れる好選手だったね。
>>299 スピードランナー 森口もマラソンに転向したがダメだったですね。
たしか谷口が初マラソン初優勝した85年別大で3位に入ったのが唯一の勲章ですかね。
でもタイムは2時間16分台の平凡だった。
302ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/13(日) 08:57:11
>>299
瀬古は80年代前半は本当にトラックでも日本人選手に負けなかったからな。
負けただけで話題になった。
瀬古はトラックの2万がいちばん強い感じがしたな。
303ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/13(日) 09:04:35
そういえば、瀬古が森口に負けたのは、2万で日本新を出して完全復活した翌日でしたね。
でも、あのときはまだ58分20いくつかで、もともとの日本記録がそんなに速くなかっただけのような気がしました。
いっしょに走った中村孝生も日本新だったし。
一度、東日本実業団で2万を観ましたが、トラック競技としては長すぎ(時間)ですね・・・
304ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/13(日) 10:24:59
>>298
トレーシーはこれがベストタイムじゃなかったかな?
ロス五輪で銀取ってから何かと過大評価されるきらいがあった。
87ボストンも地元紙は瀬古とトレーシーの闘いになるような予想があったんだ。
まあしかしこのあと90年の東京国際で初来日し中山に次いで2位になったくらいしか活躍した
印象がない。
305ゼッケン774さん@ラストコール :2006/08/13(日) 11:00:11
>>304

トレーシーは90年東京の前に、ハーフマラソンだけど88年1月に行われた奈良国際ハーフに来て2位になっている。

この奈良のハーフマラソンは市制施行100周年を記念して開催された1回限りのレースなのでほとんど取り上げられることがないが、かなり力を入れた大会で、外国招待選手が豪華(S・ジョーンズもいたし、日本でフルマラソンを走らなかったジェフ・スミスも来た)

1.1:02:03 バリオス
2.1:02:22 トレーシー
3.1:02:25 阿久津浩三
4.1:02:28 S・ジョーンズ
5.1:03:25 G・スミス
6.1:03:28 喜多秀喜
7.1:03:36 G・シャハンガ
8.1:03:37 加藤宏純
9.1:03:43 本田竹春
10.1:03:47 渋谷俊浩
15.1:04:48 ポリ
16.1:04:57 マメーデ
306ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/13(日) 11:25:24
>>304 トレーシーはトラックランナーとしては有名だったから、マラソンの実績は
なくてもロスでの銀はそれほどの驚きではなかった。むしろスペンディングの銅の
方がびっくりした。
307ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/13(日) 22:17:52
>>255
>>262
>>265

中山は90東京国際マラソンを復活優勝した後、5月に開催するパリマラソンに出場表明する。
4月の段階で記者会見も行い、足の故障がぶり返していたが「レースに影響ない」と語った。
しかし1週間後、相変わらず痛みが取れない為、佐藤進監督と話し合い、欠場になってしまった。
この頃(89―90年)は中山は怪我が多く、マラソンが走れない状態が続いた。
結局この大会はイギリスのブレイスが2゚13' 41"で優勝。渋谷俊浩(雪印)が2゚14'44"で4位に入った。
>>304
トレーシーの実績としてはその他に 自己ベストを出した翌年の89ボストンで
3位 2時間10分23秒がある。

このレースは終盤イカンガーを競り落としたメコネン(エチオピア)が2時間9分6秒で優勝。
4月16日に開催したW杯ミラノではゼケレが勝ち、同日のロッテルダムではデンシモが3連覇。
翌日、ボストンでメコネンとエチオピア勢が圧勝した。
>>307

第15回 パリマラソン 男子の部 結果 (1990.5.6)

1、2時間13分10秒 ブレイス(イギリス)
2、2時間13分41秒 プロテ(フランス)
3、2時間14分27秒 マティアス(ポルトガル)
4、2時間14分44秒 渋谷俊浩(日本)
5、2時間14分45秒 ダシルバ(ブラジル)
6、2時間15分01秒 スーチ(ハンガリー)
 
8、2時間15分25秒 長田千治(日本)
11、2時間15分42秒 仙内勇(日本)


第93回 ボストンマラソン 男子の部 結果 (1989.4.17)

1、2時間09分06秒 メコネン(エチオピア)
2、2時間09分54秒 イカンガー(タンザニア)
3、2時間10分23秒 トレーシー(アイルランド)
4、2時間12分40秒 フセイン(ケニア)
5、2時間14分19秒 キャンベル(アメリカ)
6、2時間14分59秒 サイモン(タンザニア)
7、2時間15分51秒 アルカラ(メキシコ)
8、2時間16分19秒 伊藤国光(日本 鐘紡)
9、2時間17分31秒 ウレサ(エチオピア)

24、2時間24分04秒 三村徹(日本 鐘紡)
29、2時間25分05秒 大津秀次(日本 日立電線)
41、2時間27分49秒 加藤和久(日本 住友ゴム)
棄権 中山竹通(日本 ダイエー)

第8回 ロッテルダムマラソン 結果 (1989.4.16)

1、2時間08分39秒 デンシモ(エチオピア)
2、2時間09分25秒 クルス(メキシコ)
3、2時間10分04秒 テンカテ(オランダ)
4、2時間10分40秒 須永宏(日本 日本電気HE)
5、2時間10分55秒 エレラ(メキシコ)
6、2時間13分21秒 ダビド(チェコスロバキア)


第3回 ワールドカップ ミラノ大会 男子の部 (1989.4.16)

1、2時間10分28秒 ゼケレ(エチオピア)
2、2時間10分36秒 ネディ(エチオピア)
3、2時間10分49秒 ポリ(イタリア)
4、2時間11分07秒 カシャポフ(ソビエト)
5、2時間11分24秒 シャベリエ(フランス)
6、2時間11分40秒 イトエーラ(フランス)
7、2時間12分41秒 ベッチオール(イタリア)
8、2時間12分53秒 宗猛(日本 旭化成)
9、2時間13分08秒 バッフェンブルナー(東ドイツ)
10、2時間13分51秒 ドブラー(西ドイツ)
>>307 このころの中山はアキレス腱を痛めてたんだよ。
ボストンの二の舞になるからと慎重に不参加表明だったと思うが、
日本陸連から怪我なら出場発表を軽率すぎるなんて注意をもらってた。
312ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 02:37:34
トレーシーは膝が上がらないというかすり足のようなピッチだったね。
あまりスピードがある感じはなかった。
サラザールのように平均してペースを維持するタイプだろうね。
313ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 13:31:03
>>312
90年の東京国際はもうスピード感も感じられずマイペースで2位に上がってきたという感じだった。
87ボストンの話題がでているが、瀬古に関しては81ボストンもかなり地元で話題になったんだ。
まず地元のボストンでの担当記者が日本人特派員を捕まえて「ほんとうにセコがボストンに出場するのか?」と取材していた。
なぜなら気温が20度以上なら瀬古を出場させないかもしれないと中村監督が言っていると噂にもなっていたから。
(この頃ボストンは高温が続いていた)
また世界最高記録を狙っているという評判も立っていた。
地元各紙の予想はロジャースの優勝、瀬古が2位が圧倒的に多かった。
しかしあるコラムで「実力のランキングは別。地元としてロジャースに勝ってほしい願望が含まれている」と
本音を書いていた。
実はそれくらい当時有数のマラソン大国アメリカが「世界で瀬古がナンバーワン」 と評価して驚異に
感じていたのが伺える前評判だった。
公式記者会見では地元関係メディアで満員になり瀬古に話が集中。
瀬古は言っていないのだが、当時の朝刊には「瀬古が世界最高を狙っている」という記事が掲載された。
またボストン名物の名ランナー・Jケリーは「勝つのは瀬古。しかもコースレコードを塗りかえるだろう。
その根拠はロジャースは33歳。もうかなりベテラン。なのに対して瀬古は24歳で上がり坂のランナー。
この差がかならずでるよ」とコメントしていた。
315ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 20:42:28
>>314
ボストン時の瀬古は、世界のマラソンレースからいちばん出場オファーの多いランナーだったと云われていた。

この時の最後の争いは、1万の世界歴代2位(27.29.16)のクレグ・バージンと前年1万世界ランク2位
(27.43.44)の瀬古とのスピード対決が醍醐味だった。テレ朝の生中継だったと思う。
316ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 20:52:56
日本の長距離界が完全に止まってしまったのか、
アフリカ勢が本気で取り組んだらこうなってしまったのか・・・

317ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 21:18:14
87のボストンの後、ジョーンズが「瀬古イズザベスト」と
言ってたのを覚えてる。

ただ、瀬古について言わせてもらうと、ロス五輪を境にして
変わった気がする。
それまでのレースは負かした相手も光っていた。
宗兄弟、イカンガー、ゴメス・・・。
ただ、復帰後のロンドン以降の瀬古はスペディングも
サラーもそしてボストンの強豪も、本領を発揮できずに
負けたイメージがある。
神通力がなくなった感じがした。
318ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 22:10:07
87ボストンで闘った選手の殆どが「シーコ(瀬古)がナンバーワンだ」と言ってましたね。
ジョーンズは確かその前年の福岡に招待されて(←走ってはいない)、
中山について聞かれて「知らない。」と言っていました。
やはり、闘って実力を知る世界なんでしょうね。
319ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/14(月) 22:13:08
そういえばジョーンズが2時間07分13秒出したときは、
中間点が1時間01分台という凄まじいレースでした。
30kmの通過も、松宮が熊日30kmで破るまで世界最高だったし。
320281:2006/08/14(月) 23:20:23
第85回(1981) ボストンマラソン レース展開 


正午、ホプキントンをスタート。
アメリカのファネリーが果敢に飛び出す。最初の1マイルが4分37秒。
無謀なファネリーの飛び出しでレースの序盤は始まる。
5kmを14分33秒で通過。ロジャース、瀬古、喜多を含む40人ほどの
集団は15分01秒。ファネリーと27秒差。

10km−ファネリー29分21秒。第二集団の差はちょうど1分になる。
     
15km−独走ファネリーだが、44分51秒でペースが落ちてきた。
     しかし集団は400m近くの差がついてしまった。

20km−60分40秒 すでにファネリーの走りに疲労困憊の様子が
     伺える。集団との差は少し詰まって45秒。
     そのまま中間点は63分52秒で通過した。

     23kmで集団はファネリーとの差を200mとつめてきた。

25km−以前ファネリーがトップで1時間16分01秒。集団は1時間16分24秒。
     100m少々の差。

     この集団には瀬古、ロジャース、バージン、チェトル、イースト
     ペファー、マイアーの7人になっていた。
     喜多は中間点過ぎにスタミナ切れで集団から後退する。

     するすると集団からマイアー(アメリカ)が抜け出す。
     ファネリーにアッという間に追いつき抜き去った。
     そして集団がファネリーを吸収。しかしもうファネリーに
     ついていく力がなかった。それと同時に前年福岡国際で
     2時間10分29秒で7位に入ったカーク・ペファーも
     脱落。
     5人が今度はマイアーを追った。
     (結局、ファネリーは97位 2時間22分25秒だった)

     のちの2時間09分01秒をマークするマイアーは27km
     で30m、さらにウッドランドパークでは50mまで差を
     つけた。

     その集団で優勝候補の一人、ロジャースが28kmで脱落。
     その後すぐにイーストも後退。

30km−マイアーが1時間31分32秒。 瀬古、バージン、チェトル
     の3人が1時間31分38秒で6秒差。
     31kmでついに3人はマイアーを捕らえる。
     その後、マイアーは後退していく。

心臓破りの丘ー4つの丘の中間点でチェトルが後退。瀬古、バージンとの差
       が50mになる。
       心臓破りの丘の頂上で瀬古が僅かにリード。瀬古がスピード
       アップするがバージンが離れないで追いついた。


321281:2006/08/14(月) 23:39:16
85回ボストンマラソン レース展開 続き

35km−1時間46分54秒。2人の併走が続く。このころ瀬古はドリンク
     をバージンに渡すなどまだ余裕がある。

     36kmでバージンスパート。一気にトップに立ち、ストライド
     を広げて逃げに入る。しかし瀬古はバージンの背後に付く。

     後方でロジャースがイースト、マイアー、チェトルを捕らえて
     3位に浮上してきた。

36km過ぎービーコン通りに出るための90度左折するクリーブランド
       サークルで瀬古が猛烈なスパート。
       あわててバージンが追うが差は確実に5m、10mと開く。

       ここでロジャースのコースレコードのラップを上回る。

40km−2時間02分06秒。だいぶ瀬古の表情が苦しくなってきた。
     この時点でまだクレイトンの世界最高記録を破るチャンスが
     ある為、ボストン市民も大歓声を送る。

残り2km−後ろを振り返りバージンが来てないことを確認する。
      
ゴールー  最後のコーナーを回って直線に入ったタイムが
      2時間08分50秒。すでに世界最高記録と8分台
      のタイムの望みは消えたがコースレコード2時間
      09分27秒を最新するチャンス。
      だいぶアゴがあがり、瀬古には珍しい苦しい表情で
      ペースが上がらない。
      周辺の木にまたがって歓声するくらい大きく膨れ
      あがったゴール付近の観衆は大声援だった。
      結局、コースレコードを1秒最新する世界歴代5位 
      2時間09分26秒で日本人7人目のボストンマラソン
      優勝となった。

40km−
>>309
中山は棄権しそこなってジョギングしてるうちに3時間前後でゴールしたはず
15キロ地点では女子で優勝したクリスチャンセンの近くを走っていたのでTVに偶然映ってました

そう言えば瀬古もヨーロッパどこかのマラソンで歩いてしまい3時間掛かったレースがあったような記憶があります
何の本に書いてあったか忘れてしまったけど、ダメだった理由として石畳がどうのとか出てましたね
>>320
懐かしいレースだね。
アメリカのファネリーというのは80年のモスクワ五輪全米予選でも
果敢に飛び出し中間点まで行った いわゆる飛ばし屋だった。
85年の東京国際(宗茂が独走優勝したレース)で招待されてた。
このときは宗に着くどころか後続集団にもつけなかった覚えがある。
1981年 (85回) ボストンマラソン 結果

1、2.09.26 瀬古利彦(SB食品) 大会新記録
2、2.10.26 バージン(アメリカ)
3、2.10.34 ロジャース(アメリカ)
4、2.11.33 ロドウィック(アメリカ)
5、2.11.35 イースト(アメリカ)
6、2.11.52 トイボラ(フィンランド)
7、2.12.01 リンド(アメリカ)
8、2.12.23 チェトル(オーストラリア)
9、2.12.31 ペファー(アメリカ)
10、2.12.55 ガルシア(コロンビア)
11、2.13.07 マイアー(アメリカ)
12、2.13.14 コルテライネン(フィンランド)
13、2.13.16 ウィルソン(イギリス)
14、2.13.30 シーザー(アメリカ)
15、2.13.48 トーマス(アメリカ)


50、2.18.45 松尾正雄(九州電工)
620,2.36.59 喜多秀喜(神戸製鋼)
85回 ボストンマラソン 優勝 瀬古利彦 ラップタイム

5km 15.01
10km 30.21(15.20)
15km 46.02(15.41)
20km 61.25(15.23)
25km 1.16.24(14.59)
30km 1.31.38(15.14)
35km 1.46.54(15.16)
40km 2.02.06(15.12)
2.195km 7.20

2時間9分26秒 日本歴代2位  世界歴代5位 (大会新記録)
326ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/15(火) 00:43:09
>>322
このレースは1978年に日本長距離チームがトラックで欧州遠征した
一環で出場したミルトンケーネスマラソン(イギリス)(1978年7月8日)
周回コースで堤防を駆け下りたり、階段を登ったり新築中の敷地を跨いだり
しながら原っぱのグランドでゴールするというまるでロードのクラスカントリー
版のような大会だった。まあ練習の一環で出た大会のようなもので
優勝は宗猛と喜多が同着で分け合い(2.20.10)、伊藤国光が3位、
宗茂が4位。瀬古も出場したが40km走くらいの感覚で完走している。
結果は68位 2.53.17 これは瀬古のマラソン経歴に含まれていない
が、海外での瀬古のキャリアでは紹介されている。
宗兄弟や伊藤、喜多はキャリアに含ませているのでその程度のローカルマラソン
であったといってよいのではないかな。
327ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/15(火) 01:01:56
>>326
「30km付近で腹痛を起こして歩くほどのペースでゴール地点まで
たどり着いた」というのが真相らしい。
だからといって最初から勝負は度外視してたレースだろうけどね。
70年代後半から90年代前半くらいまでのマラソンは面白そうだなぁ。
前にも言ったけどDVD化して欲しいよ。
ノーカット版で。
329ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/15(火) 13:29:16
>>324 こうやってみるとアメリカの粒が揃っていたな。
ロジャース、バージン、ロドウィック、マイヤー、ペファ、ランディ・トーマスは今でも青梅マラソンの
大会記録を持っているのではなかったかな。
この他にサラザール、ベアーズレーののちの8分ランナーや、歴代10傑にも連なったウェルズもこの時代のランナーだった。
330ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/15(火) 19:18:15
マイヤーは83年の青梅優勝だったかな?たしか1時間31分32秒で、
「このコースで1時間29分32秒を出したセコはすごい」と言ってた。
その後、ボストンで2時間09分で優勝してビックリしました。
瀬古」はオープン参加での記録でしたね。

331ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/15(火) 21:51:55
>>330
心臓破りの丘を想定して「仮想・ボストン」で走ったんですよね、瀬古は。
この時、モスクワ銀のネイブールに3分差をつけた。今でも青梅で1時間30分を切ったのは瀬古だけのよう。
青梅はボストンと提携を結んでいるためか、歴代ではトーマス、ペファ、ロジャース、マイヤー
のボストン組が勝ってますね。
瀬古はほとんどが勝利優先のレースだったが、81ボストンは周りも含めて世界最高記録を狙っていたようだ。
瀬古自身も前半がスローだったのが悔やまれる発言をしていた。
あと記録を考えたレースとしては86シカゴマラソンとこの2つだけだったように思う。
333ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/15(火) 22:33:57
>331
そうでした、そうでした。ネイブール。
瀬古は福岡でチェルピンスキー(モスクワ金)、
青梅でネイブール(モスクワ銀)を破ったんでしたね。
瀬古のマラソン経歴をみると

79年福岡国際優勝(モスクワ五輪代表権獲得)

80年 DNガラン1万m 日本記録樹立
    NZランド 2万5千、3万m 世界記録樹立
    福岡国際優勝

81年 青梅マラソン 1時間29分32秒
    ボストン優勝

勢いを考えたらこの時期が全盛期だったように思える。

見方によっては81年後半から82年にかけて足の故障時期を
経て
  83年 東京国際優勝(日本最高記録樹立)
      福岡国際優勝(ロス五輪代表権獲得)

まで含まれるだろう。
>>317氏のご指摘通り、ロス五輪後は優勝は重ねたが
消化不良のようなタイムやレース内容だったように
思えた。
335ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/16(水) 01:12:14
http://www.sakae-clinic.com/sports/fighton02.html
こんな凄いトレーニング法があるのは本当か?
336ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/16(水) 01:53:40
>>325

2.195km 7.20
瀬古にしてはラストが悪かったんだな。
ロス五輪以前では一番悪い上がりじゃないかな。
ロスの後はロンドンやびわ湖の凡走があるからわかるのだが。
337ボストンの距離:2006/08/16(水) 02:28:14
ボストンマラソンは第1回アテネ五輪コースを真似たような設定にした。
最初は39.75km。1898年と1907年にスタート地点の変更をしているが距離は変わらず。
1921年、22年にフランク・ズナとデ・マーの両選手が2時間18分57秒と18分10秒の驚異的な記録をだした為、
翌1924年にスタート地点を下げて42.034kmにした。
1927年に初めて42.195kmに改正。その時、5度目の優勝をしたデ・マーのタイムは2時間40分22秒だった。
この距離は1952年まで続いたが山田敬三の優勝した1953年から短くなって41.091kmに縮められた。
これは故意ではなく道路の改善工事がもたらした偶然の結果だった。
山田、浜村秀雄が立て続けに世界記録を連発し、さらに1955年にビスカリ(フィンランド)
が当時として信じられない2時間14分14秒を出して、はじめて距離に対する不信が生まれた。
すでに日本では距離に疑問を抱いて再三の再計測を申し入れていたが、当局は
「昔からこのコースで開催しているのだからよいではないか」と一顧をも与えなかった。
やっと重い腰をあげ再計測したところ短いことが判明。1957年から正規の距離に修正される。
1965年からスタートはホプキントン、ゴールはプルデンシャルセンターに固定される
昔のストイックな瀬古選手なつかしす(;_;)



今のお笑い瀬古監督も嫌いではないがw・・・
339ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/16(水) 14:37:02
瀬古って昔の写真見ると長距離選手とは思えない足してる
普通は大腿は太くてもふくらはぎはスラーっとしてんだけど
瀬古の場合はふくらはぎも太い
340ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/16(水) 14:40:01
>>330
グレッグ.マイヤーが83年に勝利したタイムが2゚09'00"
当時世界歴代7位だった。そして2位がロン.タブで9'32"
3位がベンジ.ダーデン9'57"でアメリカ勢が独占でボストン初の
3位までがサブテンのレースだった。しかしアメリカのマラソンは
ここから凋落に向かう。
341ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/16(水) 18:14:59
>338
そうそう。
昔の瀬古を観てきた人間からすると、
いまの“お笑い”瀬古は信じられない(笑)
おもしろいからいいですけどね。
>>341
あの解説の傍若無人ぶりと、的をはずしまくった解説は……w

瀬古の現役時代を知らん(見たこと無い)人間から見たら、なんと言えばいいのやら……
343ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/16(水) 22:45:00
瀬古の講演はおやじギャグ連発ですよ
よく瀬古の現役を知らない方に「瀬古はどれくらい強かったの、人気があったの」と聞かれる事がある。
今、例えられる現役選手が日本にいないので難しいのだが、
しいて挙げるならやはり全盛期の高橋尚子になるのかな。タイプは全然違うのだが、
カリスマ性、海外からの評価、負けないレース、指導者との関係性など。(大舞台での評価は雲泥の差になったが)
どちらにせよ瀬古のでるレースは当時としても高視聴率で新聞の一面に結果がくるものだったしな。
補足できる方お願いします。
>>344
高校トップ、大学トップ、そして実業団でもトップの実績だからなかなか比べられる選手はいないよ。
346ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/17(木) 07:11:42
確かに国民的ヒーローだったな。
圧倒的な強さと、モスクワに出れなかった悲劇、
故障からの復活劇がさらに英雄像を強めたような。
この無敵のスーパースターに、雑草の中山竹通が現れて、
キャラ的に悪役の中山とのライバル関係がドラマを
いっそうおもしろくしていったな。
瀬古は東京国際マラソンでの復活がカリスマ性に拍車を
かけたと思う。
348ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/17(木) 18:23:06
中山の悪役ぶりも見事だった。
広島での国際駅伝に無理矢理出された中山は
それでも区間賞をとり、インタビューのマイクを向けられた。
アナ「区間賞、おめでとうございます。」
中山「こんなね〜、8・何キロかなんか、わけわかんない距離走らされて、
  ほんと、冗談じゃないですよ〜!」
アナ「・・・・・・・・・・・(絶句)」
中山「瀬古さんはなんで好きな大会に出れるんですかね!」
アナ「・・・・・・・・・・・(引き続き絶句)」
349ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/17(木) 18:25:03
広島だったか自信ないな。
全盛期の瀬古のイメージ…
ストイックで、妥協というものを知らない。
インタビューなんかはかなり謙虚でまじめ。
瀬古の周りだけ違うオーラが漂ってた。

サッカー界で言えば、全盛期のジダンみたいな感じかな?
ちがうか・・・
351ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/17(木) 20:56:54
中山のバネの利いたストライド走法― あの躍動感あるダイナミックな走りは なかなか日本選手にできないな。
宗も中山出てきた時は「素材が違い過ぎる。どんな走りでも8分台だせる。馬ならサラブレッド、
瀬古もそのタイプ、自分達は駄馬。努力で何回かに1回はサブテンという感じ。」
とインタビューを受けていたのを覚えてる。
352ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/18(金) 00:03:26
>>348
中山イイ!
中山は高校時代は全国大会とは無縁だったが、息子は2年でインターハイ。
凄いな…。
354ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 18:15:07
中山竹通が走るマラソンではいつも
20kmあたりまで仙内勇が映っていたな。
いつも応援してたんだけどな。
355ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 19:05:06
中山は86年の欧州遠征の後、シカゴマラソン出場を目指していた。
ところが日本陸連から「韓国が力をつけていて負けられない。
どうしても日本の為にアジア大会にでてほしい」
との通達があった。
元々、国の為に走る、きれい事の嫌いな中山だったので出場を渋ると
日本陸連側からつけた条件があった。
「ソウル五輪まで他に日の丸を付ける試合に出なくてよい。アジア大会
の後は五輪まで専念していい。だからアジア大会では走って欲しい」
というものだった。
その言葉を信じて出場することになった。
前スレでも話題になったが87世界陸上マラソンに有力選手を派遣するよう
強く世界陸連発が要望したことについて、瀬古に出場を打診した。
瀬古は福岡で勝負したいということで話を蹴った(結局、福岡不参加)いきさつがあるが、
この時、陸連から中山には話がなかった。
それはこのような取引があったわけだ。もし中山がア大会に出なかったら、シカゴで瀬古との直接対決が
あったかもしれないし、87世界陸上も中山に打診があり出場してたかもしれない。
356ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 19:11:44
それが陸連から広島で開催されるワールドチャレンジロードリレー 参加の打診が中山にある。いろいろないきさつで参加しなければならなくなり >>348 の発言に繋がっている。中山の怒りはいろいろ含めて 87福岡国際のレースで発揮される。
はってでもでてこ〜〜〜〜い!
358ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 21:09:54
>>357「僕なら這ってでも出ますけどね」が正しい
359ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 21:18:14
マラソンのために「駅伝NO!」を
たたきつけたのも中山が最初だと思う
中山竹通(ダイエー) マラソン成績

1、83年福岡国際 (14位) 2時間14分15秒
2、84年ソウル国際 ( 3位) 2時間15分44秒
3、84年福岡国際 (優勝) 2時間10分00秒
4、85年W杯広島大会 (2位) 2時間8分15秒(当時日本最高)
5、85年ソウル国際 (優勝) 2時間10分09秒
6、86年東京国際 (4位)2時間8分43秒
7、86年ソウルアジア大会 (優勝) 2時間8分21秒
8、87年東京国際 (2位) 2時間10分33秒
9、87年福岡国際 (優勝) 2時間8分18秒
10、88年ソウル五輪 (4位) 2時間11分05秒
11、89年ボストン (棄権)
12、90年東京国際 (優勝) 2時間10分57秒
13、91年別府大分 (2位) 2時間9分12秒
14、91年東京世界陸上 (棄権)
15、92年東京国際 (2位) 2時間10分25秒
16、92年バルセロナ五輪 (4位) 2時間14分02秒




瀬古利彦(早稲田大ーSB食品) マラソン全成績

1、京都 1977.2月 (10位) 2.26.00
2、福岡国際 1977.12月 (5位) 2.15.00.1
3、福岡国際 1978.12月 (優勝) 2.10.21
4、ボストン 1979.4月 (2位) 2.10.12
5、福岡国際 1979.12月 (優勝) 2.10.35
6.福岡国際 1980.12月 (優勝) 2.09.45
7、ボストン 1981.4月 (優勝) 2.09.26
8、東京国際 1983.2月 (優勝) 2.08.38
9、福岡国際 1983.12月 (優勝) 2.08.52
10、ロス五輪 1984.8月 (14位) 2.14.13
11、ロンドン 1986.4月 (優勝) 2.10.02
12、シカゴ 1986.10月 (優勝) 2.08.27
13、ボストン 1987.4月 (優勝) 2.11.50
14、びわ湖 1988.3月 (優勝) 2.12.41
15、ソウル五輪 1988.10月 (9位) 2.13.41
361ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 23:22:21
>>359 宗兄弟共著の「振り向いたら負けや」(月陸で連載されていたものの書籍化)の最終回に、
「駅伝は楽しいが駅伝だけやっていてはダメ、マラソンを目指す段になったら(駅伝の取り組み方は)考えなければいけない」
みたいなニュアンスのことを言っている(正確な語彙は本を探して読んでくれ)。
それが1986年の頃のはずだから中山さんより早い

しかしそう言って早くから駅伝・マラソン分離論を語っていた宗兄弟が、
その駅伝で旭化成の個々人の能力が削ぐ結末になろうとは...
362ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/19(土) 23:56:25
同感
マラソンに専念したいと申出る選手を潰して行った
>>355
>>356
今の世界陸上と存在感がぜんぜん違ったのを覚えているよ。
87年は開催2回目だったから、まだ知名度もなかったからなぁ。
世陸出場基準もない時代だった。今のように、世陸が五輪選考の
ひとつに含まれていたら大会の注目度が少しはちがったのかな。
でもこの頃は暗黙の一発選考レース。79年福岡、83年福岡、
 瀬古欠場はあっても87年福岡の3つは大会が開催される前から
特集を組んだり予想をしたり、すごい注目度で面白かった。
しかし92年のバルセロナからは分散選考になって昔の魅力は半減
したのは致し方ない感じがする。

364ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 00:23:48
>>357
中山の発言ばかりクローズアップされるけど、児玉や谷口も
公式会見で(名指しで瀬古の名は言わないが)強い批判めいた
発言をしているよ。
365ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 02:45:55
>>364
どんな発言?
百歩譲っても谷口は良いとして児玉程度に言われたくはないよな、瀬古。
366ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 03:01:47
>>365
今では疑惑といわれているが、世界3位の日本最高記録保持者だったからね。やはり少しは強気に言ってるだろ。
児玉の場合は代表枠まで入るか大コケするかという評判だったね。

中山も「自分だったら這ってでも出る」という内容が誤解され、後世に語り継がれていると語ってたな。
367ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 09:08:01
谷口、児玉、それに伊藤国光も文句言ってたよ。
内容までは覚えてないけど。
当時の陸連は1人を除いて全員早稲田だったからね。
しかし、その文句言ってたひとたちが自滅して、
工藤一良が日本人3位になってしまい、よけい混乱させてしまった。
あれで谷口が3位だったら、瀬古のびわ湖(2時間12分)を押し通せたか?
高橋尚子や高岡寿成が代表落ちする現在は、選考レースの重みを感じますね。
368ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 09:11:40
361の方、
そうですか。(シャレじゃないよ)
宗兄弟はチグハグなこと言いますね。
現在の駅伝=マラソン否定論に
「自分たちは同じ時期に九州一周駅伝とマラソンを走っていた」
なんて言ってましたけど、どういう意図だったのかな。
369ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 10:56:35
87ボストン制覇が瀬古「世界No1」 を不動のものにしたのは確か。日本陸連も同じ。
ソウル五輪の選考会は福岡、東京、びわ湖の3つで行う現行のやり方のはずだったんだ。
ところがエスビー側が「福岡1本化」にして決めてほしいと主張したのだ。
他の実業団関係者は反発したが、最後は渋々エスビーの主張を飲み、1本化に合意。
そんな経緯での瀬古欠場、2名を福岡で残り1人を東京かびわ湖というものにしたものだから
中山だけでなく、児玉や谷口からも批判がでて当然だったんだ。
だから瀬古はボストンの時点でほぼ代表が決定印を押されてたようなものなのだろう。瀬古も晩節を汚した感じになった。一気にこの時期、老け込んで凋落していった感じがした。
歴代でも稀に見る代表選考会とその経緯だったのでマラソンに興味のない方でも社会現象になるものだった。
370ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 12:03:02
少し補足
「2名を福岡で残り1人を東京かびわ湖」ということではなく、
「東京とびわ湖も選考会である」という主張。一応、工藤にもチャンスがあるような表現であった。
その割りに2時間10分59秒で東京2位(日本人1位)の仙内はまったく無視されてしまった。
終わってみれば、瀬古(12分台)、工藤(11分台)より速かったのに・・・。
まあ、マラソンはいろんな条件でタイムがかわるからこれはしかたないとしても、
「瀬古くんは優勝したことが大きい」と大はしゃぎした陸連とうらはらに、
工藤陣営、マスコミ、世論が猛然と反論してしまった。
でも、あれで工藤が代表になって入賞圏外だったら、マスコミは手のひらを返していたと思う。
それでも工藤は出場したかったと思うが・・・
371ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 12:14:54
工藤一良か・・・
不運のランナーだな。最初に所属したリッカーが倒産し、
日産自動車に移籍するも、その日産自動車も陸上部が休部。
五輪選考の悲劇だけでは語りつくせないランナーです。
372ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 12:20:49
87福岡で中山を追う後続集団―新宅、谷口、デンシモ、仙内他に対して島村アナが
「先行・中山に対処していくには?」
という質問に解説・宇佐美は具体的な所見を述べられず

「中山君…速い、早すぎる!」
のコメントが印象的だった。
373ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 12:45:29
>>372
20km 58'30"通過の時は
実況ブースは唸ってたもんな。>島村、宇佐美
374ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 13:08:19
87年の福岡って確か視聴率41%だよな。
当時、学生で陸上に興味のない奴まで代表予想聞いてきたよ。まさに日本マラソンのピークだった感じだよ。
375ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 13:10:48
宗茂が2時間09分06秒を出したときもすごかった。
このときも20キロまで14分台で押し切り、当時の世界最高
2時間08分33秒を大きく破る可能性がでてきた。
急にテレビでも騒ぎ始め、たいへんなことになると思ったが、
終盤ガクンと落ちてしまった。それでも日本最高だが。
たしか福岡でビリに近いくらい惨敗した直後ではなかったか?
376ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 13:28:48
瀬古が福岡で2時間9分45秒を出したときは、
序盤スローペースだった。中間地点が確か1時間6分。
勝負だけで記録は望めないと思ったら、後半ものすごいペースアップ。
15分0秒台、14分50秒台、14分40秒台と上がっていき、後半が1時間3分台。
後半が1時間3分台というのは、当時かなりの驚きだった。
377ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 13:32:40
>>369
SBサイドの言い分に対してフォローする気は毛頭ないが、
中村清さんの生まれがソウルで、
瀬古はソウル五輪にマラソンで出場することが供養になると考えていたからね。
新宅も同様。

しかし一連の流れを見ると、早稲田閥の連盟と早稲田閥のマスコミが完全にタッグを組んで、
世論操作した風に撮られても致し方ないし、事実していたんだと思っている

この頃を境に陸連は自身の思惑を達するため、マスコミのコントロールの仕方を学んだようだね。

有森選手のバルセロナ&アトランタ五輪(結果オーライだったが...)
谷口選手のアトランタ五輪
市橋選手のシドニー五輪

本当に強い選手は誰なのか
本当に代表にふさわしい選手は誰のか

マスコミの主張に惑わされず、場合によっては2chの住人だけでも真実を語れるだけの目を肥やしていきたいものですなぁ
378ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 13:34:59
>>376
32kmで転倒したけど伊藤国光がガンガンとペースアップしたからね。


>>375
この時の別府大分は5区間連続の14分台。
これは他に83年の東京国際がそうだね。
379ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 17:17:43
>>375 前年年末の福岡はブービー。練習みたいなものだったから他の選手より
元気だったのかもしれない。
380ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 17:19:58
>>372 373
デンシモがレース後、「このペースはクレイジーだ。まったくレースができなかった」と言ってたからな。
気象条件が風あり雨そしてみぞれ、低気温の中、今まで見たことがないペースで驚いたよ。
第三集団でも20キロを1時間切ったと思う。
381ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 17:54:33
375の話で児玉泰介の話を思い出した。
児玉が福岡で失敗した後、宗から2月の別大に出ろと言われ、
“マラソンは3ヶ月スパンだからそれはおかしい”と抗議した。
すると宗は自分が日本最高を出したときの話を出し、
失敗したレースは勘定する必要ない、と突っぱねた。
しぶしぶ別大に出場した児玉は晴れて初優勝した。
382ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 18:50:23
児玉といえば北京での7分台。
日本人では、伊藤国光も谷口浩美もここで7分台を出している。
個人的な考えですが、プラス2分くらいではないでしょうか。
383ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 19:14:57
>>381
87福岡 主要選手コメント

伊藤国光
「前半あれだけペースを上げられたらどうしようもない。」

新宅雅也
「まずまずの記録、雨と風がなければ、自己記録がだせたと思う」

児玉泰介
「寒くて足が重くて続かなかった」

谷口浩美
「中山さんの速いペースは予想して練習していた。しかし徐々に痙攣の為、
ゴールに帰れるか不安になった」

3位 ペーター
「最後の5キロは寒さと足の痛みで本当にに苦しかった。この天気でのレースだから仕方がない」

工藤一良
「折り返し点で3位の谷口をみたら、予想外に苦戦していた。確実に走ればいけると思った
結果には満足です。やっと芽が出た気がする」

中山竹通
「流れでああなっただけ。35キロまで2時間6分台を狙ってましたよ」

宗茂コーチ
「負けましたね。中山君の凄いペースと天候のせいで前半に力を使い果たしてしまった。」
1987年 福岡国際マラソン レース展開

1987年12月6日 スタート時 気温7.5度 北の風5.1m 霙交じりの強風
内外162選手参加

平和台陸上競技場をスタート。2時間11分38秒がベストのタンザニア
サイモンがトラック内からポンと飛び出す。中山は集団の中ほど。

3km−中山が積極的に前に出る。二番手集団の先頭に立ち、サイモンを追いかける。

5km地点で サイモンと5秒差。サイモン14分30秒のハイペースでラップを
奪った。早くも5km過ぎ、中山がサイモンに追いつく。
デンシモ、谷口、新宅、仙内、西が縦長に中山を追う展開。

5kmから10kmは29分05秒。この間、14分30秒で走破。
新宅、谷口、仙内、デンシモの4人が中山について行くが、サイモンは遅れ気味。

11km−谷口が中山から遅れだす。以前1km2分55秒のペースが
続く。出たり入ったりを繰り返すサイモンに余裕がなくなる。デンシモも遅れ加減。
ハイペースのため、終始、縦長の集団での展開になる。

10−15km 14分35秒。14分30秒台で3区間を走り続ける。
中山が独走態勢を築き始める。すでに新宅、デンシモ、仙内も後退。

そして児玉を先頭にした第三集団は約1分遅れ。それでも44分45秒と
ハイペースの展開になっている。
集団は児玉泰介、工藤一良、谷口伴之、金哲彦、伊藤国光、坂口泰、渋谷俊浩
コリル、ペーター、ハイルマン、トルスティコフの合計11人。
懸命にくらい着いていた宗猛は脱落。脱落時、児玉に一言二言アドバイスを
する。

20km 58分38秒 14分57秒と少しペースが落ちるが、雨がやみ
風が収まったので中山は小気味のよいリズムで走っている。
新宅、デンシモ、谷口、仙内の4人が第2集団を形成。しかしその差は50秒に。

25kmで15分台のラップに(15分11秒)
26kmの折り返し。中山が初めて後ろ振り返り後続差を確認する。
すでに新宅とは1分30秒の差がついている。

後続では25km過ぎ、新宅が前に出てくる。仙内はもう後退。
谷口、新宅での代表2番手争いが激化する。
しかし谷口の足取りは重く、遅れ気味。先に谷口後退。



続き
後続では25km過ぎ、新宅が前に出てくる。仙内はもう後退。
谷口、新宅での代表2番手争いが激化する。
しかし谷口の足取りは重く、遅れ気味。先に谷口後退。
26kmで新宅がスパートしデンシモを引き離す。

30km 中山 1時間29分02秒 すっかり独走態勢。
2位新宅は谷口に14秒の差をつける。
寒さのため、谷口は足をトントンと叩くしぐさが増える。痙攣を
起こしていた。
35kmでは1分近くの差。デンシモと3位争いをしているが
工藤が40秒差まで迫ってきた。

35km−中山1時間44分25秒 15分14秒ー15分23秒と
最小限の落ち込みで食い止める。 これ以上落ち込まなければ初の
2時間06分台の世界最高がでると実況席は計算を始める。
「前半のハイペースでこのくらいの落ち込みは脅威的」と実況。

この頃から雨が降り始める。
26kmから40km近くまでデンシモと3位争いをしていた谷口だが
40km手前でペーター、工藤、そしてデンシモに先行されてしまう。

40kmでは中山の足取りの鈍さと苦痛の表情に変わる。

中山は給水テーブルを一度も取らないでここまで来る。

吐く息が白くなるほど気温が下がる。
 2時間00分45秒(16分20秒)日本最高を22秒上回っている。
サブ解説の喜多は「2時間8分切れるかどうかでしょう」と分析。

後続ではペーター、工藤、デンシモの3人からペーターがスパート。

41kmで解説宇佐美は「日本最高(7分35秒)は難しいでしょう」と分析。
雨が強くなる。

 ゴール 2時間08分18秒。(大会タイ記録)
「寒くて筋肉が動かなかった」とコメントした中山は2度目の福岡優勝で
ソウル五輪の代表を獲得した。

1987年 福岡国際マラソン 成績

1、2時間08分18秒 中山竹通(ダイエー) 大会タイ記録
2、2時間10分34秒 新宅雅也(SB食品)
3、2時間11分22秒 ペーター(東ドイツ)
4、2時間11分36秒 工藤一良(日産自動車)
5、2時間11分59秒 デンシモ(エチオピア)
6、2時間12分14秒 谷口浩美(旭化成)
7、2時間12分25秒 坂口泰(SB食品)
8、2時間12分31秒 トルスティコフ(ソビエト)
9、2時間13分12秒 カチャポフ(ソビエト)
10、2時間13分34秒 谷口伴之(SB食品)

11、2時間13分40秒 渋谷俊浩(雪印)
12、2時間14分10秒 末吉富夫(鐘紡)
13、2時間14分18秒 ハイルマン(東ドイツ)
14、2時間14分38秒 キャロル(オーストラリア)
15、2時間14分45秒 ニコシア(イタリア)
16、2時間14分46秒 ロズム(ソビエト)
17、2時間14分52秒 伊藤国光(鐘紡)
18、2時間14分55秒 西村義弘(新日鉄大分)
19、2時間14分59秒 高橋浩一(旭化成)
20、2時間15分07秒 金哲彦(リクルート)


22、2時間15分33秒 西政幸(旭化成)
24、2時間16分05秒 仙内勇(ダイエー)
27、2時間16分37秒 阿部文明(日本電気HE)
31、2時間16分49秒 児玉泰介(旭化成)
42、2時間19分03秒 武富豊(神戸製鋼)
46、2時間20分24秒 バルチャ(エチオピア)
48、2時間20分50秒 須永宏(日本電気HE)

棄権 コリル(ケニア)、宗猛(旭化成)、マメーデ(ポルトガル)
387ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/20(日) 22:53:57
>>382
1984年大会が優勝が喜多で2時間12分台(たしか前半)1985年大会は宗兄弟のワンツーで2時間10分23秒。
86年の児玉、88年の谷口と同コースでこの優勝タイムでした。
両方とも中継を見ましたがプラス2分だと喜多14分台、宗12分台のレースになってしまう。
これは展開やラップを見ても考えにくい。86年は天候が記録の出やすい状態だったし、最高のハイペース展開。
88年はメコネンとの一騎打ちでペースアップしているので、誤差プラス30秒ー1分以内ではないかと思いますが。
388ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 01:14:59
福岡も87年大会以降、一気に世界的な権威が落ちた気がする。
389ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 02:14:06
88年の瀬古引退までは陸連も瀬古中心に考えていただろう。
その後は中山なのだが、中山も88年を境に故障が多くなってしまった。
瀬古という目標があっての中山だったのだろう。何かソウル五輪後は輝きを失っていた感じがした。
そしてバルセロナまでは谷口、森下時代に移り変わっていった感じだ。
390ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 07:13:29
なるほど、
じゃあ間をとって“プラス1分”と考えるかな(笑)
391ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 12:27:50
86年北京の児玉は強かった。
しかしこの記録以外はサブテンない
でもあの走りは距離が短かったとしても2時間8分前後の価値はあったよ。
>>375
>>378

1978年 第27回 別府大分毎日マラソン 優勝 宗茂 ラップタイム

5km 14.51
10km 29.47(14.56)
15km 44.36(14.49)
20km 59.29(14.53)
25km 1.14.19(14.50)
30km 1.29.30(15.11)
35km 1.45.11(15.41)
40km 2.01.15(16.04)
2.195km 7.50.6

2時間09分05秒6  日本最高記録  世界歴代2位


1983年 第3回東京国際マラソン 優勝 瀬古利彦 ラップタイム

5km 15.58
10km 30.42(14.44)
15km 45.28(14.46)
20km 1.00.15(14.47)
25km 1.14.59(14.44)
30km 1.29.56(14.57)
35km 1.45.39(15.43)
40km 2.01.57(16.18)
2.195km 6.41

2時間08分38秒  日本最高記録 世界歴代4位
>>386

第17回(当時) 福岡国際マラソン 優勝 中山竹通 ラップタイム

5km 14.35
10km 29.05(14.30)
15km 43.40(14.35)
20km 58.37(14.57)
中間点 1.01.55
25km 1.13.48(15.11)
30km 1.29.02(15.14)
35km 1.44.25(15.23)
40km 2.00.45(16.20)
2.195km 7.34

2時間08分18秒 大会新記録 87年度世界ランキング1位
394ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 18:49:39
>>385
37km過ぎにおっさんが出てきて中山に握手を求めたのを
覚えてるよ。後半の疲労した時期に接触はダメージでかかったと
中山が言ってた。
395ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 19:27:26
そんなことがあったのか。
いつの時代もそういうのがいるもんだな。
396ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 19:39:23
高温もキツイがあそこまで寒くなると
記録に影響するよ。>1987年福岡国際
後半、吐く息真っ白だったもんな。
>>384->>386乙です。
このスレのハイレベルなレスやコメントが好きです。
解説付きハイライトイイ!(・∀・)
398ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/21(月) 22:50:36
そういえば不思議と
アラシや意味不明なレスがないね。
ハイレベルすぎて突っ込みようがないんだよ
現在の陸上板で唯一まともなスレだと(個人的には)思っている
87年の福岡はNHKで候補者の特集を組んだ番組を放送したりして凄い注目度だった。
なにせまだサブテンが貴重な時代、日本で8人記録した選手が全員現役で
一堂に会して選考会にでるのは歴代でも屈指といわれてたからだ。
のちに宗茂の引退と瀬古欠場があったが日本中が注目した。
そんな中、いちばん勢いがあったのが谷口。その年2勝(東京、ロンドン)し、なかなか切れなかった10分を突破。
ここまで87年度の世界ランク1位をキープしていた。(87年度はレベルが低かったが)
中山はいろいろな経緯で渋々出た東京で谷口に負け、評価を落としていたが夏の欧州での1万日本記録で
評価を挽回していた。
伊藤は北京以来、福岡までマラソン走らず不気味な存在感をキープ。
児玉は北京後、w杯2位で及第点だったが、一発屋だけに良いか悪いかという評価だった。
いちばん地味だったのが新宅。宗は難しいだろうという評価。
だから谷口が日本人3位に入っていたらどうなっていただろうとは当時囁かれた。
401ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 02:17:25
>>400
87年東京の中山はやる気なさそうだったな。
落ち着きない走りでスペシャルドリンクを放り投げるし、あげくは後半に道間違えた。
谷口に負けるはずがない中で負けたから評価を落とした。
結局は故障してたけどスポンサーがダイエーだから無理して出たんだよな。
402ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 07:58:48
中山は
日本陸連に対して相当の貸しがあるかと。
なのになぜ引退後は瀬古より不遇なの?
やっぱりあらゆるジャンルで早稲田閥には対抗できない?
403ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 19:24:36
陸連から嫌われてるし、
中山も陸連が嫌いだし、
双方嫌ってるから歩み寄れない。
中山より不遇なのではなく、瀬古が優遇されすぎている、と思うのは私だけ?

あと陸連も組織だからそれなりに政治的駆け引きがあるはずだが、
中山はそういう事までして肩書きにこだわっていないのを、
世間は「不遇」と見てしまうのではないか?
(政治的駆け引きをしているように見えない(出来ない?)瀬古氏が
 陸連でそれなりの地位を得ているのは....優遇しかないんじゃない?!)

そもそも中山は、養命酒をバスケットシューズで面接に行って落とされて、
国鉄アルバイトを経て富士通長野に入り、富士通では強くなれないと悟ってダイエーに移籍、
その2年後には福岡国際で勝つまでに成り上がるのだから

今更肩書き云々なんて興味ないんじゃない?
405ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 21:33:55
>養命酒をバスケットシューズで面接に行って

この段階で凡人の感覚を超越しているなw
しかしなんでそこまで知ってるの?
みんな凄すぎ。
406404:2006/08/22(火) 22:49:30
>>405
これは結構有名な話。
東京本社の面接で、高校の先生が「高校生らしくていいだろう」と普段どおりにバッシューで出かけたが、
他の高校生は皆革靴を履いていて、それで落とされた(とインタビューで答えている)。

国鉄は陸上部を作ると言っているが、一向に採用してくれない。バイトのまんま。
バイトの中山少年は、3時のおやつに国鉄職員へ沢庵切ってお茶を出したりしているが、職員は、国鉄の水で洗車していた。

そこで「国鉄が潰れた時にざまあみろ、と思った」とインタビューで語っている(←これも割と有名)

今の競技者にそういったなりあがるハングリーさがあるのかしら?

宗兄弟も大学に行きたかったようだが、5人姉妹の4,5番目で無理と言うことで、
人生を陸上競技で生活していく、と頑なな思いを持って旭化成に就職した。

瀬古は、中村清さんと狂気の沙汰までにストイックに競技に「取り組まされた」。

そりゃ、今のマラソン選手と違って凄みが違うと思いますよ。
407ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 22:58:52
中山は富士通長野にいたとき、残業してようやくひとなみの給料だった。
でも残業すると練習できないから、カップ麺食べてたそうだ。「こんなんじゃ強くなれない!」て
思ってた。佐藤進からダイエーにスカウトされ、ようやく練習に打ち込めた。
福岡を2時間10分00秒で優勝したとき、1年分の給料に相当するボーナスが出た。
「もう昔の生活には戻りたくない」って思ったそうだよ。
408ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:06:52
要するに中山って勉強も陸上も中途半端にしてこなかった報いを苦労話のように仕立ててるだけだろ?
高卒時の記録が15分40ぐらいだっけ?
後に27分30で走る奴がこれじゃ怠けてると言われても仕方ない
409ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:08:22
勉強も陸上も中途半端にしかね
じゃあ、高校生のとき14分で走れてる奴が
実業団入りして、27分30で走れないのは相当怠けてるんだろうな
411ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:44:51
実際本人が言ってますからwww
高校の頃は楽しく走るだけであんまり真剣にやってなかったとww
だって15分40なんて素質なくてもちょっと真面目にやれば誰でも出せますよ
それを後に日本記録打ち立てるような奴が切れないんだから
中学から真面目に陸上やってる息子はすでに全国トップレベルだろ?
412ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:47:18
中山は社会人(高校卒業後)になってから努力して
いまの選手は学生時に努力して、社会人になってから怠けてるんだな
社会人になってから怠けてる方が拙いだろと、俺は思う
413ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:49:24
まあ別に高校の頃目いっぱいやっても成功するとは限らないし
最終的に一番やるべきところで誰よりも真剣に陸上に取り組んだからあのような選手になれたんだろうしね
ただ雑魚い選手が厳しい仕打ちを受けるのは当然な話でそれを苦労話にしてもね
414ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:50:56
「養命酒飲でバスケットシューズで面接に行って」かと思った
415ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:53:20
高校の頃は怠けてたというか
20キロとか30キロジョッグみたいなのばっかしてスピード練習はほとんどしなかったらしい
要するに素人オッサンジョガーみたいな感覚
だから持久力だけはついたと
416ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:54:03
そのころの15分40秒って、結構速かったんじゃないの?
今で言えば14分50秒くらいの感覚。
世界記録13分10秒→12分30秒(たぶん)
417ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/22(火) 23:55:17
そういえば高校記録も40秒くらいは伸びてる(たぶん)
418ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 00:25:10
そういえばダイエー陸上部創立時に宗兄弟を旭化成から引き抜こうと画策
した話を聞いたことがあるなぁ。結局は失敗に終わったが。
ダイエーも中山の他に仙内、浅田、長島、林、泉、小指などそこそこの中堅を揃えていた。
中山以外、大学陸上出身というイメージがある。
419ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 02:16:20
中山は高校時代、トラック練習やトラックレースが好きではなくロードばかり走っていた。
長野・池田工業の顧問も素質は抜群だったのを認めている。
国体長野予選を優勝(15分40秒台)したが県代表になるにはもう少しタイムが欲しかったそうだ。
今だったら15分そこそこの評価ではないか。
これで国体に出場していたらもっと高校時代のベスト記録最新された可能性は高かっただろう。
中山は27'35"という当時では世界で通用するタイムを持ってたけどトラックでほとんど勝てなかったよ。
セカンドタイムはワールドゲームスで走った28'01"だと思う。きっと瀬古には全敗。トラックレースは瀬古が1枚も2枚も上だった。

トラックでの中山につよさは感じられなかったなぁ。
421ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 10:38:47
中山が全日本クラスの大会でトラックで勝ったの覚えてないな
422ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 10:47:22
でも普段はトラックなんか眼中になくて突然ふらっとやってきて狙おうと思ったら日本記録を打ち立てられるんだからそれはそれで凄い
423ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 11:27:15
>>420 >>421 トラックで中山が勝てる訳がないだろう。キック力がないから
競うと駄目。勝つには途中でぶっちぎる必要があるが、国内レベルが今と
比較にならないくらい高かった当時では難しかった。
424ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 14:36:22
>>423
日本選手のみでも白熱したレースでしたね。
さんざん既出なんですが、86年スポニチが唯一、中山がキック足を見せたレース。
素晴らしいラストスパートだった。
それでも新宅に0コンマで追いつけず2位でした。
425404:2006/08/23(水) 20:03:22
中山はトラックで活躍しようとは思っていなかった
ただ1987年の福岡で「中山にも10000mのスピードがある」と
瀬古にプレッシャーをかけようとして1986年だけトラックにも力を入れた、というのが真相
というか、インタビュー記事に出てた(俺そればっか(^-^;)
426ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 21:24:57
>>425
中山は1986年春季サーキットに参戦し、イカンガー、米重、エスビー勢
とトラックレースの転戦をしている。課題のスピード力強化のため。
また1987年はしっかりとスピード練習し、欧州遠征で日本記録を
最新している。スピード練習やトラック練習をしないで当時の27分台は
到底出せる記録ではないだろう。中山もしっかりとした裏づけのもと
でトラックを走っていたと思う。
427ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/23(水) 21:42:44
宗兄弟はトラックだとかならず前に出て引っ張ったりしていた。
中山も中盤になると先頭に出てくるケースが多かった。
谷口浩美も同様。
ラストのキック力がない選手は工夫したり、前半だけ山場を作りながら
走っていた。
そして中盤以降、スルスルと瀬古が先頭に立ったりすると「レースが
動くぞ」という雰囲気があった。

当時はマラソン選手でもどんどんトラックを走ってトラックランナーに
負けじと意地を張っていて面白かった。
兵庫リレー、スポニチ国際、日刊ナイター、日本選手権あたりが豪華な顔ぶれでいいレースが続いてた記憶がある。
中山のスピード練習の主体は600Mのインターバル
だと聞いたことがある。
死ぬほど追い込むらしい。
瀬古はトラックでもシルドハウアーやワイグワ、アンチポフなどの強豪をちぎるキック力があったな。
今の日本勢では考えられないが外国ランナーとラスト勝負までもっていけたら勝ってくれる期待があったよ。
431ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/24(木) 14:25:34
>>430
他にもサラザールやバイニオ、リーフェルなどの好記録を持っていながら持久力型ランナーには切れ味あるスパートで快勝してた。
パディラやアウイタのような一枚上手なスピードランナーにはさせなかったが、置いていかれることはなかった。
432ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/24(木) 19:57:57
>>431 ダグ・パディラは主に5千の選手でしたね。
パリ国際か何かで瀬古と競り合って先着だったかな?
最後は40近くまで世界大会に出てた。
433ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/25(金) 00:44:31
ダグ・パディラの顔はデーブ・スペクター系
あの時代はやっぱりオベット対コーの800Mだと思う。
だが、烈しくスレ違い。マーシュsage
>>432 パディラが一躍日本のファンに覚えられたのが
1985年に開催した米ソ日対抗陸上での5千だろう。
スタートからjogとしか思えないペースになった大凡戦。
残り800あたりで加速的にペースがあがったがパディラの末脚が勝り、
遠藤他を振り切って優勝。
しかし15分台という高校の地区予選でも勝てないタイムだった。
その後、パディラは遠藤などを引き連れてウイニングランまでしていた。
スタンドはシラけていたが。
437ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 00:54:33
パディラってバネがあって跳ねるような走り方だった。
5千はそこそこだったが1万は持たなかった印象がある。
しかしパディラが出たくるとは思わなかったです。
皆さん本当によく覚えていますね。
438ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 08:24:55
そういえばそんなレースありましたね。なつかしい。
世紀のスローペースといえば(スレからはずれますが・・・)
82年の関東インカレ男子1500m。極度の牽制で超スローペース。
優勝タイムは4分20秒でさすがに物議をかもし出しました。
439ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 10:35:49
金井の84年秋から85年春までの半年は最強だった。
瀬古が連敗したのはこの時の金井だけだろう。
440ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 11:34:57
インターハイ800m同着優勝の金井豊
【Qちゃん】西村知美が世界記録を塗り替えた訳だが。【ビックリ】
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/6981/tomomi.htm
442ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 12:47:02
>>439
瀬古と金井が高校で800でも通用したランナーだったからな。
新宅や中村を上回るキック足があった。
ロスで入賞して自信になりひ弱さが無くなった時期でたしかに強かった。
しかし内蔵が弱くそれ以上の距離は向いていなかった印象がある。
亡くなったのは残念だった。
443ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 18:04:09
新宅か。
3000mSC、5000m、10000m、マラソン、オールラウンドだったな。
82年八ヶ国陸上で5000m13分24秒69を出して、3000mSCの記録更新に期待を持たせたが、
その翌年だったか10000mで27分44秒(SB記録会)を出して、結局ロスは10000mだった。
444ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 21:18:00
新宅は結局、どの種目にいちばん適正があったのだろう。
やはり10000mになるのか。
445ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 21:21:52
10マイルでかなりいい記録を持ってたような。

3000mSCで8分19秒を出したとき、
当時としては世界でも闘える記録だった。
446ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 22:17:27
新宅の3000障害 8'19"は当時、レベルの高いものだった。しかしコンスタントに走れたわけではないのだから
よくて五輪下位入賞。だから少しでも可能性のみえる長距離転向が普通だろう。
だからこその中村門下生になったわけだしな。
447ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/26(土) 23:08:56
新宅は確か81年ワールドカップで
上位に入ったはず(3000m障害)
448ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 01:53:32
>>447

1981年第3回(ローマ)ワールドカップ陸上
男子3000m障害
3位 8分23秒64 で銅メダルを獲得。
449ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 02:12:02
>>443
新宅は82年の国立で開催した8カ国対抗陸上の5000mに出場。
ヨーロッパチャンピオンの東独クンツェとソビエトのアブラモフと激しいデットヒートを展開。
クンツェにラストで及ばなかったが2位に入り、13分24秒69の日本記録を樹立。
ちなみにクンツェは13分24秒43

新宅の凄いところは5000、日本記録達成と10000の自己ベスト(日本歴代2位)を
日本で作っている事。
450ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 02:25:31
>>432
1985年7月13日
パリ国際陸上 男子5000m
1、ダグ・パディラ(アメリカ) 13分35秒46
2、瀬古利彦(日本) 13分36秒28
451ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 02:38:32
おい!森下!広一!
明日 中崎幸伸くん勝たなけりゃ

おまえ千歳空港で丸刈り
>>449 記録会だから観客がいないしほぼ独走で27分44だから当時はびっくりした。
あれ知ったら新宅の五輪入賞は手堅いとおもえたのだが…。
453ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 02:42:16
>>452
おまえ真駒内で土下座スタートでヨンパーやれ。強制
>>449
八カ国陸上って客入ってた。6〜7万人くらいか。瀬古が勝った1万は凄い瀬古コールだった。
455ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 09:12:16
補足すると82年の八カ国陸上に瀬古は出ていない。
その前の八カ国陸上(コカコーラ陸上)にオープンで出ていた。
82年のその頃は確か、1週間くらい前に早慶陸上の5000mにオープン参加し、
13分36秒で復活の手がかりをつかんでいた。
456ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 09:26:01
>>455
81年ボストンを制覇した後、欧州遠征中で足の故障をした。
その後連鎖反応的に故障してようやく復帰さたレースでしたね。
82年はほとんど走れず、また宗兄弟も故障したりして伊藤、喜多が
頑張っていた印象があった。
457ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 13:27:53
>>436
米ソ日対抗は日本の惨敗ぶりをみせつけられた大会だったよ。競歩の園原と1万の米重のみが優勝。
最後の最後でラストスパートで勝負を決めた米重。優勝タイムは28分35くらいだったと思うけど学生ながらに見てて嬉しかった。
米重はユニバの1万を沢木以来、優勝していた。ようやくメジャーでも実力を発揮し始めた時期だった。
458ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 14:56:20
米重は大東文化大学でしたね。
この当時は箱根のスターがそのまま
実業団でも花を咲かせていましたね。
大塚正美はいまいちだったけど、
谷口浩美とかね。
459ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 16:24:53
森下広一!
北海道内に幽閉だ!
福岡・宮若には戻さん!
460ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 21:48:33
大塚正美か。
日体大時代からいろいろトラブルがあったな。
箱根では2区で区間記録つくって優勝に貢献したけど。
あのときの日体大は本当にバラバラだったような。
大塚は勝田で初マラソン初優勝だったかな。
でも、それだけだったような。
461ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 22:07:51
>>445 446
新宅の日本記録樹立は奇しくも瀬古が1万で日本記録を樹立した日と同じ大会
1980年のDNガラン。
強豪のタンザニアのベイ(8分17秒98)に続き2位でゴール。8分19秒52だった。
462ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 22:55:55
>>461 あのときは独走していたマリノウスキーが最終ハードルをひっかけて
転倒したから2位になれた。モスクワの優勝はマリノウスキーで8分9秒7だから
だいぶ差があった。新宅は限界を感じていたのだと思う。小山の全盛期の方が
遙かに世界に近かった。
>>462
随分お詳しいですね。
>>436
>>457

1985年 米ソ日対抗陸上大会 (日本:東京国立競技場)

5000m
1、15.15.93 パディラ(アメリカ)
2、15.16.11 遠藤司(SB食品)
3、15.16.68 チェムニコフ(ソビエト)
4、15.16.90 岩佐吉章(順大)
5、15.17.11 シャース(アメリカ)
6、15.17.61 フディアコフ(ソビエト)


10000m
1、28.39.04 米重修一(旭化成)
2、28.45.18 ダーレンス(アメリカ)
3、28.50.15 ストリザコフ(ソビエト)
4、28.54.03 加藤覚(日産自動車)
5、28.55.26 アンデルソン(アメリカ)
6、29.07.97 チュマコフ(ソビエト)
465ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/27(日) 23:47:30
>>463 マリノウスキーのベストはモントリオール銀のときの8'09"11. 彼は
1981年9月に交通事故で亡くなっている。実は小山隆治が8'21"6を記録した
ときにもマリノウスキーが1位(8'21"2)だった。小山の記録は73年までだっ
たら歴代4位に相当。もっともプロ陸上に転向したジプチョがそれまでの
記録を大きく更新する記録を74年の英連邦大会で出していて高速化が一挙に
進んだ年でもあった。どちらにせよモントリオールのときの銅ですら8'10"
そこそこであったことを考えると新宅の記録は決してレベルが高くなかった。
(尤も層が薄い競技であったのも事実。当時ロノが世界記録を持っていたと
言ってもケニア勢が席巻する前だったので)。

新宅の自己記録が3000障害を除くと国内ばかりというのは褒められたことでは
ないだろう。単に内弁慶だったというだけのこと。(他の選手が好記録を出した)
ヨーロッパで3000障害の日本記録以外での好走の記憶がない。
466ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 00:02:50
Track & Fields Newsの実力ランキングによると障害で新宅は年度別ベスト10入り
をしたことがない。74年の小山は8位。因みに10000mだと87年の中山が10位、
瀬古は85年に5位、80年に4位。5000だと沢木が66年6位と68年8位。見落としが
なければこれだけが戦後にランクインして、一流と見なされたことになる。

勿論マラソンではランクインは多数でいちいちここに挙げない。暇人は
ttp://www.trackandfieldnews.com/rankings/menworldranking.html
を参照のこと。
467ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 00:09:59
1987年 ワールドゲームス(ヘルシンキ) 10000m レース展開

主な参加選手
中山竹通(ダイエー)、米重修一(旭化成)、西本一也(九州産交)、
阿久津浩三(福島病院)

スタート。最初の1周は69秒。ペースメーカーが引っ張る。
前半は15名前後の集団は縦長になる展開。
85年W杯陸上1万優勝のブルチ(エチオピア)、世界選手権2位シルドハウア
(東ドイツ)、86年世界ランク18位プリアノン(フランス)、バイニオ
(フィンランド)、またマラソン勢ではタンザニアのニュンブイ、マソング
そして日本勢が含まれている。

4800m−中山は5-6位を走行。
5000m−先頭のラップは13分49秒83。ここでペースメーカーが
役目を終わる。
先頭はアルパン(フランス)、ブルチ、バルバラ(エチがオピア)、中山、
バイニオ、シルドハウア、プリアノン、阿久津の順で計8人。

7000m−19分26秒05。 1000mを2分44秒ー45秒前後
で推移してきたがここでペースが落ちる。

7200m−中山がついに先頭に立ちペースを上げる。米重は周回遅れ。

7800m−阿久津、シルドハウアが脱落。プリアノンが先頭に代わる。

8000m−22分10秒08。 瀬古の日本記録を7秒上回っている。

8200m−アルパン、バルバラが集団から脱落。 プリアノン、ブルチ、
中山、バイニオの4人に絞られる。

9000m−バイニオ脱落。 続いて粘っていた中山がプリアノン、ブルチ
から序々に遅れる。
9300mでは完全に2人の優勝争いになる。
解説:佐々木秀行が「中山、日本記録の可能性が大きい」とコメント。

ラスト1周ー26分32秒0。
残り350mでブルチが果敢にスパート。プリアノンがついていけない。
くの字に曲がった独特なフォームのブルチに
「ひざが前に出てくる素晴らしい足の運び」と実況。

優勝ブルチ、2位プリアノン 中山は3位に入り85年瀬古がマークした
27分42秒17を最新する27分35秒33。中山自身初の27分台を
記録した。
468ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 00:13:04
1987年 ワールドゲームス(ヘルシンキ)

10000m 結果

1、27分29秒41 ブルチ(エチオピア)
2、27分34秒38 プリアノン(フランス)
3、27分35秒33 中山竹通(ダイエー) 日本新記録

7、27分49秒06 阿久津浩三(福島病院)
12、28分28秒83 西本一也(九州産交)
19、29分37秒47 米重修一(旭化成)
469ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 00:21:11
瀬古はラストスパートが強かったけど、80年のDNガランで日本新を出したときで
ラスト400は57"2に過ぎない。このときはラスト1周の鐘が鳴ると同時にアンチポ
フ(ソ連)をかわしてトップに出て、そのまま逃げ切ったのだから1周を全力で
走ったと見て良い。そう考えるとディババが世界新を出したときのラスト1周
は人間(女)とは思えないな。
>>469
86年のロンドン国際陸上(プジョー・タルボットゲームス)で
瀬古は13.24.29の日本記録を出し優勝したが、このときの
ラスト一周が53.46。
(正式タイムではないが画面上のラップで計測)
ケニアのワイグワを残り300mでロケットスタートで突き放したレース
瀬古のトラックレースでは一番強烈なラストではないかな。
日本選手としてのラスト200mはかなりのものがあった。

471ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 02:18:00
>>421
中山は86年のヨーロッパ遠征で1万で優勝している。
東ドイツのドレスデンで開かれたオリンピック・デー競技会で28.14.49で勝利。
ちなみに阿久津が3位に米重が6位に入っている。
472ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 02:21:26
>>470 ラストが53秒はないとは思うがなぁ。
あのレースは私も見たがたしかにラストはいつも以上にキレがあった。ラスト300が40秒という感じだったがな。
473ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 08:35:07
>>470

プジョー・タルボットゲームス(ロンドン) 1986年7月11日
10000m 結果

1、13分24秒29 瀬古利彦(SB食品) 日本新記録
2、13分26秒38 ワイグワ(ケニア)
3、13分28秒88 新宅雅也(SB食品)
4、13分29秒78 ビンス(イギリス)
5、13分30秒60 S・ジョーンズ(イギリス)
6、13分30秒69 ラバンチュール(フランス)
新宅と言えば、どうしても広島国際平和マラソンで
周回を間違えて競技場を出て行ったエピソードが思い浮かぶ。
あの時、誰もついていかずに競技場を走ってたらどうなったんだろう?
475473:2006/08/28(月) 09:53:07
訂正
10000m→ 5000m
476ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 10:33:19
阿久津浩三は85年のアジア選手権5000で優勝し、晴れてワールドカップ陸上のアジア代表に選ばれた。
阿久津にとって初めての大きな国際大会といっていいだろう。しかし本番は断トツの最下位。
ひ弱さとスピード不足を露出してしまった。
翌年はアジア大会予選の日本選手権で瀬古に肉薄の3位。28'30"前後で走れる中堅に成長。
そして87年は既出の欧州遠征で待望の27分40秒台。ソウルの代表候補に挙がった。
88年ソウル五輪は10000m代表に米重、遠藤と共に選ばれた。安定感を欠く米重、故障辞退の遠藤に替わり
ハイペースの決勝では28分09秒台とまずまずの成績を納めた。
その後、マラソンまで転向したが成功したとは言い難い。
阿久津のピークは87―88年前後になるだろう。
477ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 11:31:26
高岡や中山はスケールの大きな走りは日本人離れのスケールがある。
そして考えてみると欧米勢とアフリカ勢にラスト勝負できる瀬古は日本ランナーとして特別。
>>476
阿久津は今なら日本の大エースだろう。
その阿久津が80年代なら脇役だからあの時代は粒が揃っていたよ。
479ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 19:41:46
みんな不況が悪いんだ…
480ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 19:57:40
高校記録やジュニア日本記録はすごい勢いで伸びたのに
シニアの記録は停滞したままなんですよね。
完全に、世界に置いていかれた。
481ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 22:42:57
ヘンリー・ロノについてのWikipediaの記述は泣かせるものがあるね:
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Rono
彼もアル中になって、ホームレスになって苦労したようだ。どうも名ランナー
というのは悲劇的人生が多い様な気がするが、気のせいだろうか。そう言えば
ケニアは何故モスクワをボイコットしたのだろう。

新宅が日本記録を作ったときの1位のバイは1500の元世界記録保持者。
モントリオールのボイコットでウォーカーとの世紀の対決が流れた後、オベット
やコーの新潮流に取り残された。しかし種目を変えて銀メダルまで届いたのは
なんかほっとする話だ。
482ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/28(月) 22:53:56
コーは政治家になったんですよね。
ヘンリーロノは後にボストンマラソンを完走して記事になってた
記憶がある。
復帰して走り始めの頃は15Kmを60分で走る事もできなかった
らしい。
引退後の仕事が百科事典を書き写すだけの単調な仕事で、
それがアル中のきっかけになったらしい。
ただ、これも後に聞いた話だけどマラソン後、元に戻ったらしい。
484ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/30(水) 00:19:10
>>482 92年の選挙で保守党から立候補して当選したけど、97年には落選して
いる。ロンドンオリンピックの招致委員会のトップだった筈。まあ見るからに
エリートという顔をしていたけど、その後の人生も順風満帆というところか。
オベットはどうなっているか聞かないな。

68年のメキシコでアフリカンパワーが全開してトラック長距離からマラソンまで
金を独占して72年もそこそこだったけど、76年, 80年, 84年はボイコット騒動
や内乱の影響もあって今一つアフリカンパワーが発揮されなかった。ここで
論じられている過ぎし日の栄光もそういう社会的要因と無関係でないと思う。
もっともケニア勢はトラック一辺倒で、フセインとワキウリまでマラソンをまじめに
走る選手も殆どいなかったけど。
485ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/30(水) 07:09:17
なるほど。
ケニアは真剣に取り組んでなかっただけなのですね。
486ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/31(木) 12:46:07
>>485 「黒人アスリートはなぜ強いか: TABOO...」では(黒人が本格参入して)
ゲームは終わった、と書かれているからね。

1マイルで最初に4分の壁を破り、高名な生理医学者でもあるロジャー・バニスター
卿がそのような趣旨の発言をポロット漏らして袋叩きにあったというのも上記の
本のエピソードとして紹介されている。しかし誰がどう見たっていい条件では
黒人には敵わない。
487ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/31(木) 12:55:23
阿久津は6月の栃木県選手権で10000メートルのマスターズアジア新記録出してた
488ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/31(木) 13:05:06
一マイルぐらいだと北アフリカのコーカソイドの方が強いじゃん
489ゼッケン774さん@ラストコール:2006/08/31(木) 13:15:42
>>488 勿論TABOOには短距離は西アフリカ系(現在米やカリブにいる黒人も殆ど
西アフリカ系)、中距離は北アフリカ系、長距離は東アフリカ系と適性をはっき
り書いている。ケニアに関しては、あの頃はカレンジ全盛期だったのでキクユ
とかを過小評価していたところもある。

日本の世界への貢献はキクユ族もカレンジ族に劣らぬ才能があることを世界に
知らしめたことか。
490ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/03(日) 08:14:04
>>149
>>151

イカンガーは1986年4月からの春季サーキットにいくつか出場している。
まず兵庫リレーでは中山と一騎打ちになり、最後に交わし優勝。タイムも28'15"13の自己ベスト。
ちなみに2位中山も28'17"75のベストだった。
次戦が織田記念陸上5000m。ケニアの強豪・グギに続き2位。13'41"0の自己ベスト。
そして最終戦がスポニチ陸上10000m。ラスト1周で飛び出し優勝を手中に納めたかに見えたが、
新宅、中山のラスト100の捲くりが見事でゴール1mで逆転を許す。タイムは28'23"39で3位だった。
>>476 阿久津の五輪出場といえばソウルの時だがあのレースも忘れられない。
最初の1周が61秒で始まって、当時として超高速レースだったな。アンチボ(イタリア)、バリオス(メキシコ)、キメリ(ケニア)
あたりがガンガン飛ばして5000が13分35秒通過だったと思う。展開が堪えず縦長で五輪レースとは思えなかった。
阿久津も4400で遅れたが5000通過が世界記録より10秒速いから致し方がないと思った。
中山と競ったアルパンやプリアノンあたりも集団にいたと思う。8000くらいからブタイブ(モロッコ)が先頭に立ってアンチボとキメリの
優勝争いになってラスト300でブタイブがスパートした。電光掲示板とにらめっこしながら世界記録最新を視野にいれたが残り50mで断念。そこからブタイブは
ジョギングペースで後続からくる選手を待ったのは驚いた。最後は歩くようにゴール。記録が27分21秒で世界記録8秒差。
まともに走ったら肉薄できたのにもったいないと思いながら見てた。
日本記録でも入賞できなかったレースだから阿久津の14位はそこそこ評価できるのではないかなぁ。
492ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/03(日) 12:30:12
すごく詳しく覚えていますね。うならせていただきました。
リクエストしたいのですが、スカーが金メダル(バルセロナ五輪)とったときの解説はお願い出来ますか?
スカーの同僚が1周遅れになり、スカーをサポートする走りをしたら、
スカーが表彰台で観衆の大ブーイングを受けたレースです。
493ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/03(日) 21:10:37
>>491
ブタイブはソウル五輪時、無名の存在だった。目立つ活躍といえば同年のビスレットゲームスで27'39"で走破している事。まだ21歳であった。
494ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/03(日) 23:07:43
>>492
ゴールしてから周回遅れでチェリモの邪魔をしたとみなされた
H・ブタイブと優勝したスカーが失格になったんだよな。
そしてモロッコ陸連が猛抗議した結果、覆され失格が取り消しに
なった。二転三転して後味んの悪いものでしたね。
表彰式ではスカーに物凄いブーイングの嵐だった。
そういえばモロッコもアウイタの出現後、トラックでは成果を発揮してたけど
なかなかマラソンまで距離を伸ばすランナーがいなかった。
ハヌーシやガリブが最初の著名ランナーになるのか?
>>491

ソウル五輪 男子10000m 決勝 結果

1、27.21.46 B.ブタイブ(モロッコ) 五輪新記録
2、27.23.55 S.アンティボ(イタリア) 五輪新記録
3、27.25.16 K.キメリ(ケニア) 五輪新記録
4、27.36.43 J.プリアノン(フランス) 五輪新記録
5、27.39.32 A.バリオス(メキシコ)
6、27.39.35 H.クンチェ(東ドイツ)
7、27.39.36 P.アルパン(フランス)
8、27.47.23 M.タヌイ(ケニア)


14、28.09.70 阿久津浩三(福島病院)
17、29.04.44 米重修一(旭化成)

遠藤司(エスビー食品) 予選・途中棄権
497ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/04(月) 00:50:04
>>494
スカーに対するブーイングは凄まじかったがこれはスカー本人よりモロッコに
対しての批判をスペイン国民があらわにしたと考えられた。
過去の歴史でスペイン内乱の際、モロッコ兵による虐殺に加え、
この頃はモロッコからの出稼ぎ労働者があとを絶たずスペイン人の生活を圧迫していたためだ。
498ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/04(月) 07:05:20
あのブーイングには
そういう意味もこめられていたのか。
499ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/04(月) 14:55:37
バルセロナの頃はモロッコやケニア、エチオピアなどのアフリカ諸国が本格的に台頭してきたが、
世界記録はバリオスが持っていた。一時期、メキシコの強さが際立ったのもこの頃。
マラソンではセロン、エスピノサ、カスティーヨ、ピタヨなど8―9分台が粒ぞろいだった。
500ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/04(月) 18:44:08
500
501ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/04(月) 20:21:17
501
502467:2006/09/04(月) 22:52:09
>>470
>>472
>>473

1986年 ロンドン国際陸上(プジョータルボットゲームス) 5000m レース展開

スタート。イギリスのクラルクとロバーツが集団を引っ張る。
新宅が4−5番手、瀬古は少し後ろの8番手。

1周63−64秒ペースで推移。2000m過ぎに同じくイギリスの
スミスが先頭に出てくる。

3000m−8分07秒。 日本記録を1秒上回る展開。

ビンス(イギリス)が先頭に立ち新宅が2番手に。
マラソン世界歴代2位(2.07.13)を持つS・ジョーンズが
新宅の後ろへ。 ペースが一時期66秒に落ちる。

 瀬古と初対決だけにお互いが近くで様子を見ながら走っている
印象が残る。

4000m付近ーロス五輪5000m代表のワイグワ(ケニア)が
2番手に上がってくる。それと同時にジョーンズが後退。

ワイグワ、新宅、ビンス、瀬古の4人の争いとなる。

4300mでワイグワが先頭で逃げ始める。瀬古が2番手に上がる。

4500mワイグワがロングスパートで3人との間が少し開く。

ラスト1周ー 瀬古がワイグワの背後に追いつく
       中国の張国偉が5番手に上がっている。

残り300m− 瀬古の強烈なスパート。ワイグワが白い歯を見せながら
        懸命に瀬古にくらいつくが瀬古との差が開く。

 ラスト直線ー 新宅がビンスを交し3位に上がってくる。 瀬古も歯を食いしばって
        懸命にスピードをキープ。ワイグワとの差が10m前後
        開く。

        13.24.29ー 瀬古自身の記録を6秒最新し
        新宅の日本記録を0.4秒再新するものになった。
503ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 07:17:49
>>502 プジョーの瀬古は強かったが85年ローザンヌの瀬古は独走だった。
終始トップ集団につけた瀬古は後半はロサンゼルス五輪の5千で銀メダルを獲得した
スイスのリューフェルと一騎打ちになる。7千手前でスパートし、最後は独走。
27分45秒で優勝。
海外レースで瀬古が独走状態を築いたのはこれだけだと思う。
504ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 13:18:56
>>503
ローザンヌはド・キャステラも出てましたね。
たしか4―5位だったはず。
トラックでは瀬古は一枚上手の印象があった。
しかしキャステラは世界クロカンになるとアフリカ勢と競っていた。
505ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 14:03:07
80年代中盤に最強だったスティーブ・ジョーンズは結局、
トラックとマラソン共に瀬古の後塵を拝したことになるんだな。
506ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 16:05:30
昨日のテレビにオツオリ出ていたんだ。
賛否両論あるが留学生ランナーも陸上に彩を添えてきた。
507ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 18:41:54
質問ですが ジョーンズだけS・ジョーンズという明記に
なってますが同時期に他にジョーンズがいたためなんですか?
ご存知の方お願いします。
508ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 19:00:20
>>507 ヒュー・ジョーンズがいた。第一回ロンドンマラソンの優勝者で
強かった。
509ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 21:16:40
>>507>>508 
スティーブ・ジョーンズがロス五輪後に彗星のごとく登場した時、
ヒュー・ジョーンズと間違えられたってことがあったな
「ヒュー・ジョーンズではなく、スティーブ・ジョーンズ」って但書が有った位だから
510ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 22:16:16
マリオン・ジョーンズというのもいたな
511ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/05(火) 22:25:43
ヒュー・ジョーンズが日本で名が売れたのが82年の東京国際だろう。
シドロフに続いて2位に入る。
その他に宗兄弟と接戦を演じた85北京国際で3位など渋い走りが印象的だった。
512ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/06(水) 20:45:46
このスレ、最近になって参加したので既出かもしれませんが、
ロナウド・ダコスタという一発屋もいましたね。2時間06分05秒の。
どこまで本当かわかりませんが、距離練習はあまりやらず、
インターバル(400m×15)中心の練習で世界最高を出したのには驚きました。
あれっきり名前を聞きませんが・・・
513507:2006/09/07(木) 01:36:46
>>508 509 511
回答ありがとうございます。
ヒュー・ジョーンズは知りませんでした。
先ほど調べたらロス五輪では瀬古選手に先着(12位)してるんですね。
最高タイムが2時間9分24秒のよう。
514ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/08(金) 09:31:48
>>503
今、資料をしらべると5000の通過が13分47秒。
日本記録が出せるペースだっただけに7000から相手がいなかった
ためペースダウンしている。
ローザンヌ国際あたりで独走を築けたのもたいしたものだが
瀬古としてはいちばん充実していたレースだったようだ。
515ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/11(月) 22:27:36
85年ローザンヌ国際 10000m 記事

「セコ、セコ!!ジャポネ!」 絶叫する場内アナウンサーに呼応し、1万7千人の観衆からどよめきが起こる。
レマン湖のほとり、クーベルタン・スタジアムは「セコ・コール」で揺れた。
ゴール後、80年DNガラン大会以来、欧州で5年ぶりのウイニングラン。手を振る瀬古にまた観衆は沸いた。
「記録と優勝の両方を狙っていた。前半の5千mがこの前のDNガランより10秒速かったので27分30秒台が
出るかと思ったが…7千m過ぎて競り合う相手がいたら…」
5千mのラップが13分47秒26の好ペース。しかし7千m手前でスパートすると、ロス五輪銀メダリストのリューフェル(スイス)
が必死に追ったが、瀬古のスピードについていけなかった。楽勝の展開だったが、後半の独走が記録
の最新をはばんだ。タイムは27分45秒89だった。
516ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/11(月) 23:02:36
サプリメントとか、スパイクとか、タータンの質とか、
トレーニング方法もそうだけど、1985年といえば今から21年前。

1985年の21年前といえば1964年...東京オリンピックの年なんだよね

当時の瀬古選手と東京五輪の円谷幸吉さんを比較するのは、
当時で言えば間違いなくナンセンスに扱われたんだろうが、
今であればナンセンスに扱われないほどの強さが当時の瀬古選手にはあった。

そう考えると瀬古選手はマラソンだけでなくトラックでも(最強とは言わないが)類まれに見る強いランナーだったと思うし、今の日本人選手はひ弱に見えてしまうんだよね。
今の瀬古を見ると…ぷっ
今の瀬古しか知らない方にとっては現役の頃の強さはわからないのは仕方がないことだろう。
解説や監督業はまた違う才能がいることだと思うので。
当時を知る者は好き、嫌いがあったにせよ、瀬古の凄さには一目置くだろう。
速いランナーは数多くいたけど、強いと言えるのは瀬古だけだと思う。
藤田にその雰囲気があっただけに故障が残念。
油谷に宗猛の雰囲気を感じるのは俺だけだろうか・・・
85年DNガラン 10000m 記事

前半はワイサッキ(アメリカ)が引っ張ったが5千mの通過ラップが13分54秒20とスローペース。
瀬古は「このままでは記録が出ないのでは…」の焦りがあった。マークしていた
世界記録保持者のマメーデ、ロス五輪と世界選手権優勝のコバの強豪マークに見切りをつけ、
先頭を走るビックフォード、ネノウ(共にアメリカ)を追って後方から飛び出していったのも、
この焦りが布石となっていた。ただ、第二集団から飛び出して先頭を追った見返りとして、
ラスト50mでマメーデに抜かれて4位。「記録が出たし順位は…。練習が不十分な割に良いタイムが出たと満足してます。」
27分42秒17の日本記録をマークして4位に入賞。瀬古自身が持つ日本記録を5年ぶりに1秒27短縮した。
522ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/13(水) 20:57:52
瀬古は1万に専念しても
モスクワ、ロスのレベルならいい争い
ができたと思うよ。
523ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/13(水) 23:11:11
>>515>>521


1985年7月2日 DNガラン大会 男子 10000m 結果

1、27.37.17 ビックフォード(アメリカ)
2,27.40.85 ネノウ(アメリカ)
3、27.41.09 マメーデ(ポルトガル)
4、27.42.17 瀬古利彦(日本)  日本新記録
5、27.44.65 パネッタ(イタリア)
6、27.49.36 コバ(イタリア)

7、27.50.05 新宅雅也(日本)
11、27.55.05 金井豊(日本)


1985年7月10日  ローザンヌ国際 男子10000m 結果

1、27.45.89 瀬古利彦(日本)
2、27.54.29 リューフェル(スイス)
3、28.03.80 新宅雅也(日本)
4、28.05.23 ド・キャステラ(オーストラリア)
5、28.06.02 金井豊(日本)

12、28.31.82 ワキウリ(ケニア)
19、28.56.04 中村孝生(日本)
524ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/13(水) 23:52:08
ワキウリがロードとして台頭してきたのは
85年の関越自動車道開通記念30kmロードでの優勝からだろう。
これは月夜野インターをスタートし、渋川・伊香保インターの約2.5km
前橋寄り地点をゴールにしたもので、1回限りで終わっているはず。
そこでワキウリは30km初挑戦で優勝。金井を破る殊勲だった。
その後、初マラソンでびわ湖を走り、世界選手権優勝となる。
525ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 00:09:55
1988年2月の東京マラソンの結果。前年の世界選手権優勝で注目されたワキウリ
はいいところなく惨敗。あれはフロックということでソウルでもノーマークに
近かった。しかし日本のマラソンではいつも嘘のように走れなかった。ソウル
銀の後、ロンドンや英連邦を制するなど強かった時期もあった。

優勝 A.メコネン(エチオピア) 2:08.33
2位 J.イカンガー(タンザニア) 2:08.42
3位 J.ペーター(東ドイツ) 2:08.47
4位 R.ドキャステラ(オーストラリア) 2:08.49
5位 R.ザルツマン(西ドイツ) 2:10.10
6位 仙内 勇(ダイエー) 2:10.59
7位 D.ワキウリ(エスビー食品) 2:11.57
8位 三村 徹(鐘紡) 2:12.14
9位 谷口 浩美(旭化成) 2:13.16
10位 浦田 春生(本田技研) 2:14.53
526ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 00:16:06
>>525
このときはケニア陸連から2時間14分を切れば代表当確の
お墨付きをもらっていて、調整不足ながら時期的に妥当な
2月の東京国際に出場したのだと思う。
前半から無理をしないでマイペースを貫いたレース展開だったな。
527ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 00:52:27
テレビ解説もワキウリはケニア陸連からの標準タイム突破目標と再三言ってたよ。
528ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 01:19:24
>>460 亀レスだが。。日体大崩壊の遠因は中村(孝)、新宅が岡野監督の思惑を
無視してSB入りして中村清門下生になったため。彼らの卒業後さしたる選手のい
ない順天堂に負け続け、岡野が辞任。選手たちが合議で決めるチームで臨んだの
が大塚、谷口、岡が4年の時の箱根だった。このとき1区の植松も相当悩んで
いたようだが区間2位で好発進した後、快走につぐ快走で圧勝。このスレッドでは
既出かもしれないが、大久保初男の不朽と思われた5区の区間記録を破った
岡俊博は、旭化成の宗兄弟からスカウトされたが断って教員になった。そのかわり
に旭化成がスカウトしたのは山下り男の谷口であった。もし岡が旭化成入りに
同意していたら谷口の旭化成入りはなく、そうなればマラソンの日本史は変わって
いた。どうなっていたのだろうか。
529ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 01:25:51
1986年 ビスレット・ゲームス 10000m 記事

男子1万mは凄まじいレースになった。世界の超一線級が好位置争いでもみ合いを続けた。
3千m過ぎ、ロス五輪金メダリストのコバ(イタリア)が転倒。世界記録保持者マメーデが5千m過ぎに棄権。
瀬古もこの揉み合いで「余分なエネルギーを使ってしまった」ため結局、目標の27分35秒より10秒遅い
タイムで6位に終わった。レースを制したアウイタ(モロッコ)も競り合いでスパイクされ、足から血を流してのゴールイン。担架で運ばれるほどだった。優勝タイムは27分26秒11の好タイム。
瀬古は27分45秒45。新宅15位、金井は22位だった。
530ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 01:36:42
>>528
その亀レスに対してのレスで恐縮だが、
大塚、谷口、岡が4年次の日体大の往路記録は20年近く残っていたはず
大学という自治の境域でそこまでのレベルに仕立て上げた日体大陸上部の自治力は驚異的であったと思う

そういう意味で岡野辞任を>>528氏はネガティブに取っているが、
それは管理をしなければ箱根駅伝で通用しない現在のテーゼであり、
奔放にやっていても勝てていた1970年代〜80年代で、
あれほど自主管理の中でレベルの高いことをやっていたことを否定してはいけないと思う

今でも(一応は)10000mを29分台で走れば一人前に見られる中で、
17人だっけ、当時の日体大で29分台を出した選手がいたのは
他の大学であれば2区候補の選手が補欠にすら入れないのが当時の日体大だった

そしてこの中で実業団でも生き残ったのが谷口浩美選手である
そういう意味で谷口さんが強かったのは当たり前だし、
他の選手が伸び並んだのは、大学での自主的な規律の高さに卒業後は切れちゃったからなのかなぁ
531ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 11:04:42
>>529
この時のアウイタは初の10000mではないかな。
とても激戦でまるで中距離のようなレースといってたよ。
532ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 13:05:53
>>530 大塚等の学年は良しとしてもそれ以降の日体大が低落していったのは
明白。優勝もないのではないか?一流選手は平塚くらいか。(一流半に野田
がいる)。自主練習は悪くないけど、長続きしないのは日体大のその後を見
れば明らかだと思うけど。また大塚等の学年は岡野さんの時代の貯金がもの
を言ったとも解釈できる。

また大塚の時代は決して学生長距離界のレベルは高くなかった。大塚はユニバーシ
アードでも入賞できなかったと記憶する。それどころか川口、村越の方が上だった
し、最終学年では箱根で長く残る区間新を出したものの力的には米重が既に大塚の
上だったと言える。4年次の実績ではユニバ金を含めて米重の方がはるかに上に
なった。
533ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 14:45:07
>>532
米重といえば「高校駅伝の名門校(中京商)で五輪出場選手はいない」というジンクスを破った。
その後、小林高校出の谷口浩美が続くわけだ。
534ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 14:54:31
>>533 筑紫野の渡辺和巳を忘れたらいかんよ。6区間区間賞を取った中で
彼だけが区間賞を逃した。東京オリンピックは10000で出たが、まあ後ろの
方で印象に残っていないのも無理はない。
ttp://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/10.html
535ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 18:15:22
米重もちょっと変わった経歴だよね。高校駅伝優勝チームの1区をつとめた
くらいだからその学年の中で相当強かったかといえばそうでもなかった。
高校駅伝こそ1区4位で襷を渡したけど、IHでは10位あたりだったし記録も
14'48"に過ぎなかった。IHで上位にいた加藤覚、楠本、坂口、渋谷や800,
1500SC二冠の遠藤は皆卒業後も活躍したが、それ以上に米重が伸びた。
(他のIH上位選手は有田(名電)、関(中之条)、佐藤(**向町分校)、
藤田(萩)あたり。高校駅伝で骨折した藤田以外はそれなりに大学等で
活躍した。佐藤はスキーの距離で日本代表クラスになった)。駅伝強豪校
はロードで追い込んだ練習をするから伸びないというが、あの時代はそう
でもなかったのかもしれない。

米重は大学一年で頭角を現したけど、2年のときは故障で走っていない
んだよね。故障持ちで大成したのも珍しい。マラソンは初マラソン最高
記録を作ったものの今一だったかな。ソウルのときは絶好調だったから
期待したけど不発だったね。
536ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 18:31:00
http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/photo/10b.jpg
かっこいい。だけど、渡辺っておっちゃんも胃で健二も桑迫も綾部も全然育ててない。
つうか普及しろよ電工 アビスパにさえ負けてるぜ
ホークスなんか雲の上
537ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 18:56:20
渡辺和己はローマ五輪ではマラソン代表になっている。
しかし広島、貞永3選手共に大惨敗。戦後の五輪大惨敗となったのは
52年ヘルシキ
60年ローマ
76年モントリオール
96年アトランタ
00年シドニー

になる。
538ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/14(木) 19:38:39
井手健二は当時としては最も若くして13分台を記録した選手だったし、綾部
健二も若いときに好記録を出してその後伸び悩んだ。井手は高校時代14'50"
(それでもランキング10位以内)だったので2年足らずで1分速くなったことに
なる。1980年にはモスクワオリンピック派遣費用が余ったということで、海外
から準一線級を呼んだ国際競技会が開かれてそこで井手が逆転優勝したのが
最もスポットライトがあたった瞬間かもしれない。彼の走法はどちらかといえば
無駄の多い力みかえったもので、後年98年にアジア大会を制した高尾とよく似た
タイプだった。根性はあったが走法からくる限界か、やがて伸び悩み、普通の
選手になった。

後年、旭化成あたりの選手では高卒入社2年目で一線級の記録を出し、その後
故障等で伸び悩む選手が当たり前のように出るようになった。よくも悪くも
渡辺和巳はその促成栽培のノウハウを既に知っていて、実行していたのであろう。
539ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/15(金) 20:07:05
>>535
米重は極度の貧血持ちで夏場は全く走れなかった
高校時代のIH路線はそれで全くダメ
涼しくなると貧血も治まり、結果的に「駅伝の強い米重」という印象となった

大学2年時に走れなかったのも故障ではなく貧血のはず
大学2年時の貧血で「自分は貧血持ちだった」と自覚、
偏食をなくして貧血を克服し3年以降の実力開花に結びついたんだと記憶しているが

蛇足だが、
加藤覚vs楠本は、同一県・同一学年の悲劇として有名だよね
二人は加藤覚が神奈川・藤沢商業(現藤沢翔陵)、楠本が神奈川・吉田島農林
県・南関東・全国高校総体と、1位加藤、2位楠本の図式は崩れなかった
その結果楠本は国体すらも出られなかった
540ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/15(金) 20:35:50
加藤覚か。
地元の草レース(当然非公認)の大会記録に加藤覚の名前がある。
おそらくその草レースの第1回大会に出てくれたのだろう。
おかげで半永久的に破られない大会記録となってしまった。
541ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/15(金) 20:56:14
おまえら友達や家族に相手にされてないんだね
マラソンや長距離は孤独なスポーツです。
543ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/15(金) 21:06:17
>>538
九州電工の井手、いたなぁ。
九州電工は渡辺康徳、浦川哲夫といったいぶし銀の他に
綾部健二、藤野圭太といったスピードランナーも輩出してた。
544ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/15(金) 21:08:18
綾部健二、藤野圭太 そんなものスピードランナーとは言わない。しかも無名。マニアだけが好む。

あと、孤独なスポーツなわけない。セパレートレーンでもないしな。
>>524
このレースは「日興カップ」といわれ30kmロードとして開催した。
男子の優勝候補筆頭は地元・群馬出身の金井豊(エスビー食品)
しかし持病?の腹痛で25km過ぎにズルズルと後退。
代わって飛び出したのがこの時、初の30kmレース参加のワキウリ(エスビー食品)
このとき21歳。
中村清監督を慕い、ケニアから陸上留学。
当時はワキウリにとって瀬古は神様のようだったらしく、来日以来、
瀬古の走法マネをしてまた、散歩のときも瀬古の姿を思い浮かべながら
歩く直向さがあったとか。

1位 1時間31分27秒 ダグラス・ワキウリ(エスビー食品)
2位 1時間31分52秒 須永宏(日本電気HE)
3位 1時間32分28秒 金井豊(エスビー食品)
87年はトラックシーズンからワキウリの強さが発揮され始める。
4月の兵庫リレーで優勝の新宅(28分5秒16)に遅れたものの
28分13秒83の自己記録で3位。
東日本実業団5千を優勝し、5月の日本選抜陸上でボストン優勝の
瀬古に初めて勝ち優勝。13分37秒6と国内としては好タイムだった。

この後とんとん拍子で夏の世界陸上マラソン優勝に繋げる。
昔は兵庫リレーの1万で勝った選手が年間を通じて好調、ブレイクしていた。
>>546
ワキウリの初マラソンは86年びわ湖毎日。
スローペースで推移したレースで40キロまでワキウリは先頭集団についたが力尽きて脱落。
渋谷が優勝で北朝鮮のリー・ジョン・ヒョンが2位(その後、日本以外のアジア人で初のサブテンを記録 2゚9'26")
ワキウリは5位で2゚16'26"だった。まだまだ後半はスタミナ切れを起こしていて本人もマラソンに転向
するかどうかは今後考えると言っていた。
549ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/17(日) 03:57:52
http://bbs001.garon.jp/test/read.php/tv-old/1156041717/l50
http://fout.garon.jp/?key=G5Lv_2SpUTJSC1DuFVDhIr:sUCe&ext=wmv&act=view
TBS死ね
マラソンヲタ死ね。九電工マラソンダメジャン安川も。
550ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/17(日) 04:21:39
アエラにマラソン記事が載ってた
551ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/17(日) 16:26:04
ワキウリはローマ世界陸上からソウル五輪〜ロンドンマラソンまで強い印象があったが、
9分切れなかったんだよな。一気に金と銀を獲得した感じだ。
552ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/17(日) 16:27:21
>>549
即 保存
>>551
ワキウリは一気に力が落ちたというか走れなくなりましたね。
元々記録を作るタイプでないので比較的末長くキャリアを積むと思っていたので。
554ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/19(火) 20:03:47
>>529
翌年(87年)の欧州遠征は全然だめだったんだよね。
ボストン優勝してから国内でワキウリに負け、
欧州遠征では初のトラックで途中棄権。3000mもたしか二桁順位と
このころから瀬古の衰えが出始めていたと思う。
最後の輝きがボストンだったと思う。
86年の熊日30Kmで池田製菓の春松 千秋がワキウリを破って
優勝して遅咲きと書かれてた記憶がある。
>>555
春松か、ほんと懐かしいな〜〜〜。
福岡とかでも、第二集団の中の上位でゴールするとか、あまり目立たないけど15分前後で安定した記録を残していたような、、、
こんないぶし銀の選手の名前が出てくるのも、このスレの住人のクオリティの高さだな。
>>556
80年代で中堅、それも地味ないぶし銀の活躍といえば

引間金夫(新日鉄)
千葉照夫(東北日本電気)
末吉富夫(鐘紡)
野田浩(旭化成)など

国内メジャーの優勝はないものの、安定して上位入り。
国内ランキングでも6―10位くらいに入っていた。
558ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/21(木) 14:52:24
>>553
91年か? 青梅30kmでダイエー熊谷仁に負けた頃は既に精彩を欠いてた。
ワキウリはその後、マラソンで結果を残した記憶がないな。
ダイエーといえば、道浦誠がなんかの駅伝で1区最下位スタートしながら
追い上げて、逆転優勝したことがあったと思うんだけど、詳しい事が分かる方いますか?
560ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/22(金) 01:33:28
短期の全盛期としては日産の工藤一良もそうだろう。ピークはソウルの代表選考会の87福岡国際。
さんざん既出しているがここで第三代表選考枠に入ったが落選。
その後、すぐに88年ロンドンマラソンに参加してデンマークのヨルゲンセンやイギリスのフォスターと
最後まで競り合って3位。これがパーソナルベストとなる2゚10'59"だった。
この88年度は東京で同タイムをだした仙内(ダイエー)と共に日本ランキング3位に入った。
しかしこれが最後の10傑で工藤が話題に挙がる事は減っていった。
561ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/22(金) 07:16:58
工藤一良は青森・名久井農高時代に全国高校駅伝で1区区間賞を獲得している。
この時、同タイムながら少差で2位だったのが宮崎・小林高校の谷口浩美。
工藤一良か。
福岡の翌年、市役所勤務の先輩の紹介で、長野で全国から青年が集まって10マイルを
走るレースがあったんだけど、そこのゲストランナーで来ててヒーロー扱いだった。
>>529
>>531

1986年 DNガラン大会 10000m 結果

1、27.26.11 アウイタ(モロッコ)
2、27.28.80 ネナウ(アメリカ)
3、27.39.52 アンティボ(イタリア)
4、27.43.97 メイ(イタリア)
5、27.44.57 バイニオ(フィンランド)
6、27.45.45 瀬古利彦(日本)

15、28.09.47 新宅雅也(日本)
22、28.42.58 金井豊(日本)


1986年度 男子10000m 世界10傑

1、27.20.56 ネナウ(アメリカ)
2、27.26.11 アウイタ(モロッコ)
3、27.34.68 クンツェ(東ドイツ)
4、27.39.52 アンティボ(イタリア)
5、27.43.31 キプコエチ(ケニア)
6、27.43.83 ハイネ(東ドイツ)
7、27.43.97 メイ(イタリア)
8、27.44.53 ムゲ(ケニア)
9、27.44.57 バイニオ(フィンランド)
10、27.45.45 瀬古利彦(日本)

37、28.02.5  米重修一(日本)
42、28.05.5  阿久津浩三(日本)
44、28.07.0  中山竹通(日本)
48、28.09.47 新宅雅也(日本)
>>548
1986年 びわ湖毎日マラソン 結果

1、2時間14分55秒 渋谷俊浩(雪印)
2、2時間15分39秒 リー・ジョン・ヒョン(北朝鮮)
3、2時間15分49秒 松本正(日本電気HE)
4、2時間16分06秒 平岡康生(日新製鋼呉)
5、2時間16分26秒 ワキウリ(エスビー食品)
6、2時間16分47秒 西本一也(九州産交)


>>551
1989年 ロンドンマラソン 男子の部 結果

1、2時間09分03秒 ワキウリ(ケニア)
2、2時間09分06秒 モネゲッティ(オーストラリア)
3、2時間09分09秒 サラ(ジブチ)
4、2時間09分43秒 マティアス(ポルトガル)
5、2時間09分52秒 ニャンブイ(タンザニア)
6、2時間09分54秒 ミロフソロフ(イギリス)
7、2時間10分04秒 ピーターセン(アメリカ)
8、2時間10分32秒 ブルチ(エチオピア)
9、2時間11分51秒 中村孝生(日本)
10、2時間12分03秒 張国偉(中国)

38、2時間18分14秒 酒井勝充(コニカ)
>>555
1986年 第30回 熊日30kmロード 結果

1、1時間31分20秒 春松千秋(池田製菓)
2、1時間31分26秒 ワキウリ(エスビー食品)
3、1時間31分32秒 浦田春生(本田技研)
4、1時間32分16秒 酒井勝充(小西六)
5、1時間32分17秒 松田英司(九州電工)
6、1時間32分28秒 池田重政(ヤクルト)



>>558
1992年 青梅報知30キロマラソン 男子の部 結果

1、1時間31分54秒 熊谷勝仁(ダイエー)
2、1時間33分00秒 ワキウリ(ケニア)
3、1時間33分58秒 大須田祐一郎(日本電気)
4、1時間34分00秒 森田義三(安川電機)
5、1時間34分23秒 妹尾幸(NTT東京)
6、1時間34分29秒 本田靖彦(コニカ)
>>560
1988年 ロンドンマラソン 男子の部 結果

1、2時間10分20秒 ヨルゲンセン(デンマーク)
2、2時間10分52秒 フォスター(イギリス)
3、2時間10分59秒 工藤一良(日本)
4、2時間11分08秒 H・ジョーンズ(イギリス)
5、2時間11分33秒 ロング(イギリス)
6、2時間11分42秒 ハットン(イギリス)
平岡康生(日新製鋼呉)も懐かしい名前だな。
福岡で好走して注目を浴びたが、皮肉な事にこのレースで脚を痛めて
その後、まったく走れなくなった。
レースからしばらくたった12月中旬の時点でも仲間におぶってもらって
練習場に来てたのを覚えてるよ。
>>538
>>543

井手健二(九州電工) ベストタイム

5000m 13分34秒11 (1983年6月)
10000m 28分36秒03 (1981年6月)
マラソン 2時間12分32秒 (1985年3月)

>>560-562

工藤一良(リッカー〜日産自動車) ベストタイム

5000m 13分48秒04 (1981年6月)
10000m 28分32秒5 (1984年5月)
マラソン  2時間10分59秒 (1988年5月)
以前、中山が国内メジャーのトラックでの優勝した記憶がないという話題がありましたが、
中山が87年のワールドゲームスで1万の日本記録樹立後、全日本実業団陸上1万で勝利している。
米重、阿久津、金井、中村、遠藤などトップクラスが参加した中、タイムは28'14"42だったものの米重(2位)、金井(3位)
を振り切っている。
あくまで暮れの福岡に向けての調整だったらしいが。
>>563 この年の5千の世界ランクを付け加えさせてもらうと
瀬古はロンドン陸上でだした13'24"29は世界30位。
1万に比べて5千は世界との差があったが、50位以内にランクされている。
アフリカの台頭で今では日本勢が5千で世界ランク50位以内に入るのは遥に夢となってしまった。
>>570

ようやく欧州で竹澤健介(早大)が13'22"36で日本歴代3位と佐藤悠基(東海大)が13'23"57で日本歴代6位が出たばかり。
99年に花田勝彦(SB食品)が10傑にランクされて以来で7年ぶり。
しかしこのタイムでは世界陸上A標準も破れない。
あらためて瀬古や新宅、鎌田などの80年代ランナーのレベルの高さを痛感した。
>>570
その瀬古の日本記録を最新したのが米重修一(旭化成)。
同じプジョー・タルボット・ゲームスで2年後の1988年にマークする。
瀬古のときに比べて参加メンバーが世界クロカンを連勝している
ヌグギ(ケニア)や10000mで世界記録を樹立したバリオス(メキシコ)
が参戦したのでハイペースになる予想だった。
しかしレースは混戦。ラスト200mで一気にペースが上がったが、米重は
置いて行かれるよりもそのスパートに対応する。
持ち前の切れ味でゴール前には4位に浮上した。
このときのタイムは13分22秒97の日本新記録。あまり知られていないが
このときワキウリ(エスビー食品)も6位に入り、瀬古の記録を破っている。

結果
1位 ヘイル(イギリス)13分21秒60
2位 ヌグギ(ケニア) 13分22秒41
3位 バリオス(メキシコ)13分22秒71
4位 米重修一(日本) 13分22秒97
5位 ハッチングス(イギリス)13分23秒24
6位 ワキウリ(ケニア)13分24秒01

13位 阿久津浩三(日本)13分32秒16
15位 綾部健二(日本) 13分37秒20
20位 浦田春生(日本) 13分41秒05

(工藤一良、遠藤司は途中棄権)
>>571 2006年9月現在 男子5000m 日本歴代10傑

1、13.13.40 高岡寿成(鐘紡) 1998
2、13.22.12 入船敏(鐘紡)  2001
3、13.22.36 竹澤健介(早大) 2006
4、13.22.97 米重修一(旭化成)1988
5,13.23.49 花田勝彦(SB食品)1999
6、13.23.57 佐藤悠基(東海大)2006
7、13.24.29 瀬古利彦(SB食品)1986
8、13.24.69 新宅雅也(SB食品)1982
9、13.25.41 鎌田俊明(鐘紡)  1977
10、13.25.72 池谷寛之(本田技研)2000
 
574ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 08:08:09
そういえば、新宅の13分24秒69はナマで観たな。
国立競技場で八カ国対抗陸上だった。
575ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 09:46:39
>>574
東ドイツ・シルドハウアーの2着だっけ?
576ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 09:50:59
やっぱり武井じゃないかな。高校生の時は彼の右にでるものはいなかったよ。
577ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 14:20:40
575のかた、
その名前はなんとなく覚えがあるのですが・・・
たしか、2人か3人で(新宅含む)先頭を走っていたような?
578ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 14:42:48
もう一人、クンツェ?だったかな???? 
青いユニフォームを着ていたような、、、、?
579ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 16:43:14
あ〜、なんか、
そんな名前だったかも
浦田春生が90年代初頭にトラック・長距離で
日本のエース的な存在だった時期があった。
この頃から少しずつトラックでは世界で置いて行かれる時期に
なる。高岡が抵抗したくらいか。
581ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/23(土) 23:14:51
>>569

第35回全日本実業団対抗陸上 1万m 結果

1、28分14秒42 中山竹通(ダイエー)
2、28分19秒35 米重修一(旭化成)
3、28分40秒83 金井豊(エスビー食品)
582ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/24(日) 22:39:21
>>581 このレースは中山、米重、金井の他は中村、遠藤のエスビー勢に九州産交の西本らが参加。
中山は2000m過ぎに飛び出す。ちょうど場内から日本記録から6秒遅れとアナウンスされたと同時に
先頭グループから弾き出されるように前にでた。森口(神戸製鋼)、遠藤、西本が中山を追ったが、中山のペースについていけず、
後退する中で3800mから米重がピタリと追走。残り1000mで米重が前に出る。
しかし中山は残り500mと250mの2回でスパートをかけて米重を揺さ振り完勝した。
583ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/25(月) 00:57:01
アメリカ陸上専門誌「トラック・アンド・フィールド・ニューズ」 で毎年、恒例のマラソン実力世界ランキングを発表している。

1987年度は中山竹通が堂々1位。東京、ロンドンの主要レースを制した谷口浩美が2位で続く。
さらに「実質世界1決定レース」と言われたボストンを制した瀬古はタイムが悪すぎたのか5位。福岡2位の新宅が
6位と好評価された。また世界陸上を勝ったワキウリが3位と、この年はまさに日本関係ランナーが
世界を圧巻したと評価されている。まぁ世界のランナーの低調も挙がっていたが。
584ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/25(月) 01:04:09
意外性で思い出したのは三村徹(鐘紡)
伊藤国光の影に隠れて鐘紡2番手の印象だった。
安定感はなかったものの91年別大で森下、中山に続いて3位でサブテンには正直びっくりした。
森下より喜んでいた三村が印象的だった。
585ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/25(月) 19:43:46
宗茂が別府大分で2時間09分05秒6を出したときは、
世界最高を大きく上回るハイペースに、当初、ラジオ放送だけだったのが
途中からテレビ放送が始まったと聞きました。
この話って、本当なんでしょうか。
586ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/26(火) 12:23:50
>>585
詳細はわかりませんが、別大の全国放送は翌年の1979年でしたね。
あの喜多と武富のラストのこ競り合いのレース。
78年は地方局(九州)では放送していたと思いますが。
587ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/26(火) 19:43:22
なるほど。
そうすると、地方局がやってたのを
全国でもあわてて流した、のかもしれませんね。
先輩から聞いた話なので実際のところよくわからなかったのです。
北京国際マラソンでイカンガー(タンザニア)が勝っているのはあまり知られていない。
86北京の翌年だけにこの年も好記録が期待された。日本代表は2度目の優勝を狙う
喜多(神戸製鋼)、中堅の野田(旭化成)、江内谷(旭化成)など
外国招待は前年に引き続きイカンガー、シャハンガ(タンザニア)、Gスミス(イギリス)など。

前半はイカンガーを中心に13キロ過ぎまで6人で形成したが、その後第2集団の14人に追い付かれ20人になる。
折り返しは先頭・イカンガーや野田、喜多など15人に。そして25キロの給水でイカンガーが転倒した。
しかしすぐに追い付く。
この日は突風も吹く悪コンディションで記録の期待は薄く30キロを1時間34分31秒で通過した。
38キロで野田が前に出てスパート気味。期待をした最中、39キロで逆にイカンガーがスパート。
野田を10m引き離す。その差はどんどんと開き、健闘の野田は最後にデュベ(エチオピア)、喜多にも抜かれた。
世界陸上6位になってから40日後のレースにも関わらずイカンガーの貫禄勝ち。
しかしタイムは2時間12分19秒だった。日本勢では最後に巻き返した野田の4位が最高。日本勢4連覇
はならなかったレース。この頃はサントリーが協賛していて日本でも大きく取り上げた国際大会だった。
記録の疑惑があるがそこそこ名のあるランナーでも凡タイムだった年も多いかった
589ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/28(木) 09:42:23
>>585
この時の世界記録(最高)がクレイトンの2時間8分34秒で宗茂は40km通過で世界記録間違いなしと
いわれていたな。ここ30年近くでは日本人ランナーがいちばん世界記録に近づいた40km通過タイムだった。
当時は今とコースが逆で向かい風に悩まされた大会だった。そのためこのレースも40km過ぎに向かい風が
が厳しく、また当時としては驚異の前半に5区間に渡り14分台のラップを刻んだツケが回り、
大幅にペースダウン。上がりが7分51秒もかかってしまった。7分前半で走れたら世界記録だったわけだ。
後年、宗茂も今の大分〜別府〜大分の折り返しコースなら世界記録に肉薄できたかもしれないと語っていた。
590ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/28(木) 22:42:34
78年別府大分は宗兄弟、伊藤、鎌田のパワーが相乗効果をもたらして
速ペースになったと思う。
特に伊藤、鎌田の鐘紡勢がガンガンに引っ張った印象がある。
>>590 実際に宗猛は15キロまでしか先頭についていない。当時、30キロの通過で1時間30分を切ってきたのは茂が初めてだろう。スタートして2〜3キロで茂が飛び出した。

しかしそのレースの前の走りがかの有名な福岡でのブービーであり、別府の後で毎日は猛に負けて3位。
それもタイムは2時間17分台とまだ安定感がなかった。余談だがその猛と茂の間に入って2位になったのが、のちのダイエー監督になる
佐藤進(旭化成)だった。
>>574-579
1982年9月に開催した八カ国対抗陸上 男子5000mは
クンチェ(東ドイツ)とアブラモフ(ソビエト)に日本の新宅雅也
の3人がデットヒートを演じた。
残り200mでこの年、ヨーロッパチャンピオンになったクンチェが
強烈なスパートをかけて2人を引き離しにかかる。10日前に左太ももを
痛め、不調を伝えられた新宅だったが瞬時に対応。抜群の瞬発力でクンチェ
を追いかけた。
結局、最後はクンチェを捕らえる事はできなかったがそのクンチェは
13分24秒43で優勝。2位新宅は13分24秒69で日本記録を樹立した。
3位はアブラモフ。

またシルドハウアー(東ドイツ)は同大会の1万mに出場。28分22秒36で優勝した。
日本勢は中村孝生の6位が最高だった。
1978年 別府大分毎日マラソン レース展開

スタートして2kmで宗茂が前に出る。最初の5kmのラップは14分51秒
のハイラップ。5kmでの集団は宗茂、宗猛(ともに旭化成)、鎌田俊明、伊藤国光
(ともに鐘紡)、喜多秀喜(神戸製鋼)、西弘美(日大)、水上則安(新日鉄)、
浜田安則(鹿児島中央高教員)の8人。

喜多は早くも5km過ぎに後退。8.5kmでは水上、そして前年優勝の優勝候補
浜田もハイペースについていけなくなった。その後、西も脱落。
10kmでは茂、猛、鎌田、伊藤の旭化成対鐘紡の様相となった。
西は60m遅れ、浜田はもっと後ろですでに優勝の目はなくなっていた。
喜多は1分20秒差でマイペースを守った走りに切り替えた。

16.7kmで宗猛が脱落。20kmを59分29秒と1時間を切るペース。
宗茂、伊藤、鎌田の日本を代表するスピードランナーが飛ばしている。
この20kmで世界最高記録・クレイトン(オーストラリア)の記録を1分2秒
上回る。
25kmでは1分22秒も早い展開になる。

26.3kmで茂が軽いスパート。舞鶴橋で揺さぶり、伊藤、そして最後は鎌田
を10mの差をつける。

25−30kmで初めて15分台のラップとなったがクレイトンの途中ラップ
を1分29秒も凌いでいて世界最高記録の期待が大きくなる。
しかしこの頃から向かい風が3.8mになり、また競り合う相手がいなくなり
次第にペースダウン。

40kmではクレイトンを40秒上回る。世界最高記録樹立が現実味を帯びてきた。
しかし茂の足取りはガックリと落ち込む。この区間を7分50秒6も要し
ゴール。日本人初のサブテンランナーとなり宇佐美の日本最高記録を8年ぶり
に最新した。

2位争いは38.6kmで伊藤が鎌田を捕らえる。しかしその後方で必死の
形相で猛がペースを上げてくる。逆に39.8kmで伊藤を抜き去り2位に
浮上。デビューレース以来の兄弟ワンツーフィニッシュとなった。
約4秒だが猛も自己記録を最新するものとなる。
1978年 別府大分毎日マラソン 成績

1、2時間09分05秒6 宗茂(旭化成)日本最高、世界歴代2位、大会新記録
2、2時間12分48秒8 宗猛(旭化成)大会新記録
3、2時間13分24秒8 伊藤国光(鐘紡)
4、2時間14分24秒4 鎌田俊明(鐘紡)
5、2時間15分01秒8 喜多秀喜(神戸製鋼)
6、2時間16分14秒6 土山泰三(菊川町役場)
7、2時間17分33秒0 山本吉光(ヤクルト)
8、2時間18分24秒0 浜田安則(鹿児島中央高校教員)
1978年 別府大分毎日マラソン 優勝 宗茂 ラップタイム

5km 14.51
10km 29.47(14.56)
15km 44.36(14.49)
20km 59.29(14.53)
25km 1.14.19(14.50)
30km 1.29.30(15.30)
35km 1.45.11(15.41)
40km 2.01.15(16.04)
7.195km 7.50.6

2時間09分05秒6


同マラソン 2位 宗猛 ラップタイム

5km 14.51
10km 29.48(14.57)
15km 44.36(14.48)
20km 59.51(15.15)
25km 1.15.41(15.50)
30km 1.31.55(16.14)
35km 1.48.28(16.33)
40km 2.04.48(16.20)
7.195km 8.00.6

2時間12分48秒6
1978年2月まで   男子マラソン世界歴代10傑

1、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア) 1969.5.30 アンベルス
2、2時間09分05秒6 宗茂(日本)         1978.2.5  別府大分
3、2時間09分12秒0 トンプソン(イギリス)    1974.1.31 英連邦
4、2時間09分28秒0 ヒル(イギリス)       1970.7.23 英連邦
5、2時間09分55秒0 ロジャース(アメリカ)    1975.4.21 ボストン
5、2時間09分55秒0 チェルピンスキー(東ドイツ) 1976.7.31 モントリオール五輪
7、2時間10分08秒4 ドレイトン(カナダ)     1975.12.7 福岡国際
8、2時間10分20秒0 チェトル(オーストラリア)  1975.12.7 福岡国際
9、2時間10分30秒0 ショーター(アメリカ)    1972.12.3 福岡国際
10、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(日本)      1970.12.6 福岡国際
597ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/30(土) 01:51:58
78年別大は35キロ通過で残りを15分30秒平均で最後まで走れれば
前人未到の2時間7分台が出るかと期待がかかったんだ。35キロ過ぎに風が強かったのも不運。
中山の87福岡国際も後半は寒さとみぞれまじりの雨が水を指した形になった。
598ゼッケン774さん@ラストコール:2006/09/30(土) 22:41:00
>>588

第7回 北京国際マラソン 結果 (1987.10.18)

1位 イカンガー(タンザニア)   2.12.19
2位 デュベ(エチオピア)     2.12.49
3位 キャンプ(オーストラリア)  2.12.52
4位 野田浩(旭化成)       2.12.53
5位 喜多秀喜(神戸製鋼)     2.13.09
6位 グルゴ(タンザニア)     2.13.27
7位 森田義三(安川電機)     2.13.54
8位 ウィルソン(ニュージーランド)2.14.06
9位 今村智浩(ダイエー)     2.14.30
10位 江内谷良一(旭化成)     2.15.13
>>598
ダイエー今村で思い出すのが神戸ユニバーシアード・マラソン。
男女同時スタートだったがヒロイン深尾真美にあえなく抜き去られ
た姿が画面に映し出されていた。
>>596 70年代までは福岡国際のレベルの高さが伺える表だね。
このクレイトンの記録って85年まで10傑にランクインしてたはず。優に15年以上
も10傑にあったわけだ。
601ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/02(月) 13:39:30
宗茂が日本最高をだした時は大きなニュースだった。
それまで日本はモントリオール五輪を挟んで停滞期だったからね。
それも上位5位まで成長してほしいランナーが名を連ねたから尚更だった。
602ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/02(月) 22:29:59
キャステラという選手もいましたね。福岡、世界選手権、ボストンなどで優勝。
福岡の記録は歴史の中では世界記録ですが、当時はサラザールがNYで出した
2時間08分13秒があったので、世界歴代2位という扱いだったんですよね。
S・ジョーンズが2時間08分05秒を出してからサラザールの記録は非公認となりました。
だから、キャステラが世界記録保持者だった時期って、実はなかったんですよね。
でも、ボストンを2時間07分51秒で優勝したりして強かったなあ。五輪には縁がなかったけど・・・
603ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/03(火) 01:22:44
オーストラリア勢はクラーク、クレイトン、キャステラと180cm以上で体重も70kgの重戦車の印象。
デビット・チェトルは小柄でも胸板の厚くやはりガッチリだった。あとファーリントンあたりも痩せ型ではない。

モネゲッティがようやくマラソンランナータイプという感じだ。
注目選手がそのまま優勝争いもしてなおかつ五輪選考会だった例として
1983福岡国際がいちばん面白いレースだったと思うよ。
なにせ瀬古、宗兄弟、伊藤、喜多のビック5に世界最高記録保持者(当時の時点で)サラザールにイカンガーでの争いは
中盤から盛り上がったのを覚えている。瀬古、イカンガーの後ろで代表3枠の熾烈なドラマがあったのも良かった。
>>604
やっぱ、一発選考レースは、面白いね。
一発勝負の五輪の代表は、やっぱ一発選考会で、
選ぶのが一番ふさわしい気がする。
87年の福岡は前評判では物凄く盛り上がったがレースは中山のワンマンレースだったからな。
83年は伊藤、喜多の頑張りもあって盛り上がった。
もうこういう選考会レースは見れないだろうな。
607ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/03(火) 18:54:31
79年て、瀬古、宗茂、宗猛で
競技場に入ってきたんじゃなかった?
608ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/03(火) 19:00:43



   有明中  小野智浩



1983年 福岡国際マラソン レース展開(後半部)

12月4日 午後12時15分スタート
気温13.5度 北西の風 2.1m

外国人招待17人 国内招待9人を含む147人が参加

30km−イカンガー(タンザニア)、サラザール(アメリカ)、瀬古、宗兄弟、伊藤、喜多
     の7人に絞られる。

31km−イカンガーがまるでスパートするかのようなダッシュで給水所の水を取りに行く。
     これでペースが狂わされたのか喜多が集団から脱落。アッという間に
     60mの差がつき集団は6人に。

33.7km−喜多が必死の走りで集団に戻ってくる。3kmで60mの差を
       つめてくる粘りの走り。「今までの喜多だと脱落するとそのまま
       後退することが多かった」と実況。

35km−1時間31分53秒 盛り返した喜多だったが急激なペースアップだった
     ため2km足らずで集団から遅れる。

38km−イカンガーがスパート。集団の最後方で宗茂が苦しげに口をパクパクして
     走っている。徐々に集団から遅れる。

39.8km−イカンガー、サラザール、瀬古、宗猛、伊藤で茂は5秒差。
       この後、イカンガー2度目のかなり強いスパート。
       瀬古がイカンガーの背後にぴったりとつき、サラザールマークから
       イカンガーマークに切り替える行動にでる。
       ここで宗猛が抵抗し少し遅れて追走。サラザール、伊藤は猛の後方。

40km−2時間2分30秒。この区間は15分18秒。6人は縦長の展開

40.6km−イカンガー、瀬古と3人(猛、サラザール、伊藤)の差が50m以上になる。
       3人から茂の差が30m差。伊藤の首振りが大きく苦しくなっている。

ここから苦しい表情ながら宗茂の驚異的な追い上げが始まる。ジワリ、ジワリと前の差をつめ始め
41.2kmでついに3人に並び、前に出る。30kmでマメをつぶし、シューズから
うっすら血が滲みながらも猛が必死に茂の背後で追走。
サラザール、伊藤と縦長の展開に。伊藤の表情が厳しい。

2時間7分40秒ー イカンガーを先頭にピッタリとマークしている瀬古の二人が
          平和台陸上競技場に帰ってくる。

その10秒後、宗茂、猛、サラザールが縦に並んだ形で、伊藤はサラザールから
30m遅れで競技場へ30秒前後の中に6人がひしめき合っている。

ラスト100m−瀬古がイカンガーのアウトから強烈なスパート。平和台陸上競技場の
        観衆が地鳴りのような声援に変わる。

2時間08分52秒 瀬古6度目の優勝。福岡ではショーターの4度目に並ぶ最多勝利。
          イカンガーが3秒差で2位。   
          茂、猛は初めて兄弟そろってのサブテンを記録しロス五輪代表に
          5位サラザール、6位伊藤は2秒ながら自己記録を最新した。
       

      


1983 福岡国際マラソン兼ロサンゼルス五輪選考会 結果

1、2時間08分52秒 瀬古利彦(SB食品)
2、2時間08分55秒 イカンガー(タンザニア)
3、2時間09分11秒 宗茂(旭化成)
4、2時間09分17秒 宗猛(旭化成)
5、2時間09分21秒 サラザール(アメリカ)
6、2時間09分35秒 伊藤国光(鐘紡)
7、2時間10分30秒 喜多秀喜(神戸製鋼)
8、2時間11分48秒 エッジ(カナダ)
9、2時間11分49秒 ハイルマン(東ドイツ)
10、2時間12分51秒 児玉泰介(旭化成)


優勝 瀬古利彦(SB食品) ラップタイム

5km 15.18
10km 30.37(15.19)
15km 45.53(15.16)
20km 1.01.30(15.37)

中間点 1.04.54

25km 1.16.40(15.10)
30km 1.31.55(15.15)
35km 1.47.12(15.17)
40km 2.02.30(15.18)
2.195km 6.22

2時間08分52秒 (当時世界歴代6位 相当) 
611ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/03(火) 21:23:26
アルベルト・サラザール
1959年8月7日 キューバのハバナ出身
父親は元キューバ政府官僚、母親は元ローマ皇帝につながる誇り高き家系の出
2歳の時、両親とともにアメリカへ移住し、アメリカ国民となる。
走り始めたのは12歳。とにかく走るのが好きで小さいころから街中や野山を
駆け回っていた。
18歳の1977年、早くも1万mで全米10位(29分03秒4)で走りランクインしている。
大学は名門・オレゴン大(経営学専攻)
ここで東京五輪5千m銅メダリストである名コーチ ウイリアム・バリンジャー
と知り合う。その後メキメキ成長。
1978年 1万m(28分46秒55)全米7位
1979年 1万m(28分06秒12)全米2位
1980年 1万m(27分49秒30)全米2位
80年にはモスクワ五輪米国予選1万mで3位に入り代表権を得る(米国 不参加)
また同年 ワールドカップ陸上 1万m 3位

マラソンに挑戦したのは1980年。大学4年の時。
ニューヨークシティーマラソンに出場し、いきなり初マラソン初優勝の快挙を演じる。
そのタイムは当時の世界歴代7位 2時間09分41秒。76年にビル・ロジャースが
作った2時間10分09秒の大会記録も最新した。
翌81年、2度目のマラソンもニューヨークシティーを選ぶ。
大会前日「今度は2時間9分を切って世界最高を出す。2時間8分台、うまくいけば
2時間7分台の世界最高で優勝する。」と宣言。その発言通り、世界最高で優勝
2時間08分13秒は「難攻不落」といわれたクレイトンの2時間08分33秒6を実に
12年ぶりに塗り替えるものだった(後世、距離不足が判明、世界最高記録は抹消になる)

1982年も三たびニューヨークで2時間09分29秒で三連覇。
春のボストンも2時間08分51秒で勝ち、ここまで4戦4勝、全部サブテンという
歴代ランナーでは最高のキャリアを作った。「サラザール時代」が到来した。

しかし1983年に入ると異変が生じた。4月のロッテルダムはキャステラらに破れ
5位(2時間10分08秒)。ついに連勝がストップした。
そして1万mでは第1回世界陸上(ヘルシンキ)に出場したものの決勝最下位(17位)
に沈んだ。
サラザールももうピークは過ぎたのかとまで言われたが、ロッテルダムは
体調不調、世界陸上は風邪をこじらせて気管支炎を起こしながらのレースだったと
発言。
そして12月、突然の福岡国際マラソン参加表明。打倒瀬古を目指して一番乗りで福岡に
来日し調整する。結果は>>609氏のレース内容通りで5位と惜敗。
その後、サラザールは浮上することはなかった。(ロサンゼルス五輪 マラソン13位)
612ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/03(火) 22:37:09
そういえば、ロス五輪のときは
地元の英雄・サラザール(13位)をカメラが追っていたために
12位の瀬古のゴールシーンが映らなかったんだよね。
競技場を走るサラザールの姿をずっと見せられて「冗談じゃねえよ」て思ったなあ。
日本中が瀬古金メダルを信じていたから、宗猛の4位入賞がスッカリ薄れていたなあ。
後年、安定感は弟・猛の方があったが、こと兄弟での最後の競り合いと五輪選考会は兄・茂の方が猛を押さえ込んで
上位に来ているのは興味深い。しかし83年の福岡はあの状態で茂が捲くってくるとは思ってもみなかった。
伊藤にとって8分9分は五輪代表をもぎ取ったと思っただろうな。
伊藤は必死の形相で逃げていたところ、これまた必死で苦し紛れの茂が上がってきたのは代表選考会の醍醐味だった。
79年の福岡も面白い代表レースだったがすでに3枠を確保しての瀬古、宗兄弟の争いだったからな。
614ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/04(水) 02:20:47
>>611>> 612
訂正をいれさせてもらうと
ロス五輪 男子マラソン

14 瀬古利彦(日本)2.14.13
15 サラザール(アメリカ)2.14.19
615ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/04(水) 20:22:03
>>613
当時、旭化成の広島日出国監督が「根性、根性というけれど、茂みたいなのが本当の根性」と
福岡のレース後、コメントしてたの思い出した。あの終盤の代表争いは凄かった。

あと瀬古で語られてないのがこの福岡の前の11月に高島平20kmロードに出場している。
しかし左スネを負傷して途中棄権。福岡出場が危ぶまれていた。思ったより軽傷だったようだが、
中村監督は「選考会でなかったら福岡は走らせなかった」と試合前にコメントしていた。
旭化成陣営も直前まで瀬古の出場は半々とみていたようだ。
だからラストの直線でイカンガーを振り切ったものに関して「あれだけ余力があるんならもっと前からでれば
日本最高最新も有り得た。」という意見もあったが安全パイを取ったのだろう。
当時、それを知って安全パイがラスト勝負の瀬古も凄いと思ったものだ。
サラザ〜ルが履いていたナイキのファーモスト(多分)。

当時の厨房の憧れの的でした。
617ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/04(水) 20:28:21
>>615 中村清監督が「今回の勝負はラスト100mだよ」とレース前に指示したらしいしね。
83年の福岡か〜。遠い記憶をひもとくと日本中が注目する選考会だったと思う。
その後、このレースのハイライトをエスビーのCMに使ったのを覚えている。
今のランナーでは考えられない存在感だったなぁ。
619ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/05(木) 01:45:12
>>615 その宗茂が「振り向いたら負けや」の中で、
「根性、根性って、根性あったら練習しないで、試合のときに根性出す
 根性ないから練習するんです」みたいな事を言っている
根性というより、モントリオールを惨敗し、モスクワは不参加で、
ロスに失ったものを取り戻しに行くような執念の走りだったように思う
620ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/05(木) 01:49:45
その後のロサンゼルス五輪だが、当時9人いた歴代の8分台ランナーは引退しているクレイトン(豪)と選考漏れしたベアーズレー(米)以外、
7人が参加。
超一流の証、サブテンは8分台のランナーを含めて15人参加している。
結果は20位まででこのサブテンランナーは11人を占める。20位以下は30位のパルマンチェ(ベルギー)、
そして途中棄権したゴメス(メキシコ)、スミス(英)、ネイブール(蘭)の4人だけ。
10位までをみると7人もがサブテンの実績のあるランナーだった。だから夏レースの割に事前の実績が反映されていた
レースでもあった。そんな中、初マラソンのトレーシー(アイルランド)がサブテンを記録して銀メダルを獲得。
また自己ベストがサブテン以外で最上位は8位のロブレ・ジャマ(ジブチ)でベストタイムは2.11.25だった。
8分台ランナーの最下位順位は15位のサラザール(米)。瀬古も14位で6番目であった。
ちなみに優勝したロペス(ポルトガル)が出した2.09.21は22年経った現在でも五輪記録として残っている。
>>620 ネイブールは序盤から中盤で先頭引っ張ってましたね。
あともうひとりオランダのランナーと2人で前に出ていたのを覚えてます。
ディクソンも中盤に先頭集団の後方で確認されていたから
ゴメスとスミスがまったく目立たなかったです。パルマンチェってたしか
ロンドンあたりで9分台だしたんじゃなかったかな?
ロスから沿道側にシャワーを設置してランナーの暑さ対策をしましたね。
でもシャワーが細か過ぎて逆に中に入るとムッとすると言っていた
ランナーいましたね。
622ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/06(金) 00:16:45
>>621
オランダのもうひとりは、たしかランブレヒツだと思うよ。
ネイブールとあと別大でも勝ったフリントと3人が代表だったがオランダ勢は大惨敗だったよ。
30km過ぎに瀬古が集団から遅れた時は羽左間アナと解説の高橋進が一瞬「あっ」 って声だしたもんな。
初めて見る瀬古の後退に強烈に印象が残っているよ。
624ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/06(金) 05:29:41
625ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/06(金) 12:51:13
>>623
35から40kmが15分30秒ペースから一気に14分30秒ペースに跳ね上がったんですよね。
見ていても明らかにハイペースになっているのがわかりましたね。
でもロスの道幅は広かったから選手の距離感がわかりにくかった。
ロス五輪か。
もう22年前なんだな。
あの時のマラソンは日本が注目していた。
ロスは山下の柔道と瀬古のマラソンは国民的行事だったな。
具志堅、森末・・・
628ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/07(土) 21:19:02
たしか、陸上の入賞は・・・
マラソン 4位 宗  猛
10000m  7位 金井 豊
走幅跳  7位 臼井淳一
629ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/08(日) 18:10:54
>>628 やり投 5位 吉田雅美 を忘れているぞ
630ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/08(日) 19:01:24
吉田さんの解説が好きでした。
631628:2006/10/08(日) 19:47:58
そうそう。
なんか大事なのを忘れてるような気がしてました(汗)
ここのスレッド、面白いなぁ。
マラソン詳しくない俺でもここだけは覗いてしまうよ。
当時を知らなくVTRを見たことないから貴重な逸話やレースハイライトがいい。
633619:2006/10/08(日) 22:47:42
>>625
また「振り向いたら負けや」からの引用で悪いが、

猛「15分30秒のペースから、一気に14分30秒じゃあね。
  5kmで1分ということは、1kmで12秒。(中略)
  そういうペースでいかれたらねェ....」

と言っている。
あの時のロペスは一人で20kmまでジョギングしているみたいだったそうだ

ロス辺りからじゃないのか?
「勝つ選手と記録を出す選手はイコールでない」
っていう認識が完全に浸透し始めたのは

東京の時代は、レースで勝つ選手=記録を出す選手のロジックがまだ生きていた(東京のアベベは世界記録だった)

(メキシコは高地で論外)

ミュンヘンはショーターが勝ち、モントリオール、モスクワはチェルピンスキーの二連覇
世界記録はクレイトンだが、モスクワの「片肺」で日本勢がボイコットし、
まだ「レースで勝つ選手=記録を出す選手」の幻想が崩れていなかった

それが、マラソン2回目のロペスが勝ち、初マラソンのトレーシーが2位、3回目?のスペディングが3位
ロスのマラソンは、「レースで勝つ選手≒記録を出す選手」という認識に気づいたエポックなレースだったんじゃないか
634ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/08(日) 23:43:57
>>633
東京の時は当時として稀に見るハイペースになり、力のあるランナー&当日のコンディションの良い者が上位
にきた方だとと思うよ。
ミュンヘンの当日のショーターはまだ若手で入賞できるかというくらいの評価。
モントリオールのチェルピンスキーは3000障害から転向組でベストは2時間12分台。やはり入賞候補にも挙がっていなかった。
そのかわり五輪になると好成績をあげたのはマモ・ウォルデ(エチオピア)。
自己ベストは2時間15分台でメキシコ金、ミュンヘン銅。
さらに君原健二、カレル・リスモン(ベルギー)も記録が凄くよかったわけではない。

その割にクレイトン(オーストラリア)、ヒル(イギリス)、宇佐美、佐々木、ドレイトン(カナダ)、ロジャース(アメリカ)、
代表にもなれなかったトンプソン(イギリス)など昔から五輪は記録=順位はあてにならなかったと思うよ。
635ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/09(月) 20:06:54
東京五輪は優勝のアベベ、2位のヒートリー(英)、6位エデレン(米)が世界最高記録樹立経験者でしたね。
2時間13分55秒が世界最高記録の時代に「トラックの申し子」クラーク(豪)が最初のラップを15分06秒で
飛び出せば持久力型や無名ランナーは太刀打ちできなかったでしょう。
エールのホーガンが途中まで健闘していたが1万で代表になるスピードがあったから。しかし後半は
舗道にしゃがみ込んでしまった。4位キルビー(英)も欧州では有名ランナー。

3位円谷と同じく自己ベストで5位に入ったシュトー(ハンガリー)が予想圏外からのランクインでしょう。

東京は稀に見る実力が反映したレースだったのではないでしょうか。
636633(619):2006/10/09(月) 21:43:09
>>634>>635
お二方の発言を読んで認識が間違っていたことに気づいた

「ロス当たりから『レースで勝つ選手≒記録を出す選手』になった」

が正しいのではないか?

ロス以降、五輪は全て真夏に行われている(世界選手権も同様)
ヒートランナーが勝つケースが非常に増えた
しかし記録が出るのは冬場〜春先のレース

暑さに強いランナーとスピード型のランナーではタイプが異なる

当然「レースで勝つ選手≒記録を出す選手」になるケースが増えるでしょうね

ただやっぱり「振り向いたら負けや」の引用だが、

茂「(マラソン未経験に近い3人が上位に入って)
  暑いからといってマラソンを非常にむずかしく考えた人間は、
  成功していないんだよ(略)」

って言っている。
ロス「暑い」と言われながら日本の秋口みたいな気候だった(らしい)
そうなると、スピードタイプで暑さ対策をせず、冬のマラソンのような調整を行って、
結果、35km-40kmを14分30秒で行くようなスピード勝負になったロスで、
ロペスやトレーシーが上位に入ったのは、逆に意味での必然だったのかもしれないね
637633(619):2006/10/09(月) 21:47:35
実は、>>619=>>633=>>361なのだが、
「振り向いたら負けや」は今読んでも非常に薀蓄の有る「マラソン入門書」だと思うのだが、
この思想を持ちながら宗旭化成はなぜダッチロールを起こしてしまったんだろう?
優れた角を持つ鹿はその立派な角を遺伝させすぎて、結果その立派な角が邪魔になり淘汰される、という話を聞くが、
旭化成のトレーニングも進化しすぎた結果、破滅の道を進んでしまったんだろうか...
638ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/09(月) 21:58:32
長距離の低迷は旭化成だけじゃなくて日本全体の問題だろ
639ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/09(月) 22:39:11
選手が“駅伝NO”を言い出してから
皮肉なことによけい弱くなったような・・・

たしかにマラソンの練習中に駅伝はNOだと思うが、
選手側がそういうのを主張しだしてから弱くなったような気がするのですが
640ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/09(月) 23:00:43
>>639 やはり駅伝がよくないのではないか。高校駅伝のテレビ放送が始まって
高校の記録は飛躍的に伸びたが、それと反比例するように大学以降は駄目になった。
箱根駅伝もよくない。若いときに無理してロードの練習をすると膝への負担ばかり
でなくバネも失わせる。箱根組が故障ばかりなのはその負担のきつさが選手を駄目
にしているのは間違いない。実業団でも故障が多いし、チームでのペース走ばかり
やっているからはなから世界とは戦えない。

それ以前にアフリカ勢が真面目にやったら日本人は逆立ちしても戦えないよ。
素質が違う。かもしかと人間では勝負にならない。ゲームは終わったということ。
オリンピックとか世界選手権のマラソン耐久レースは何とか対抗できても都市
スピードマラソンでは最初のペース設定の段階で第一集団にはつけないことに
なっているので勝負が始まる前に終わっている。

641ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/10(火) 00:13:11
でもこのスレ読んでると、瀬古、中山レベルなら今の都市スピードマラソンでも十分戦える気がするんだけどな。
642ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/10(火) 06:56:04
>>640
しかし、駅伝もおもしろいからなあ・・・
日本人は団体戦が好きだし。
日本がマラソンで最強だった頃は
駅伝効果と言われてたのに・・・
643ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/10(火) 16:45:16
>>636
ロスのメダリスト3人を見ているとその後に活躍し、実績を裏付けたね。
ロペスは人類初の2時間7分台を樹立。
トレーシーはビッグタイトルや記録は無縁だったが、そこそこボストンや東京で上位に入ってる。
そしてスペディングはロンドンで2時間8分33秒をだした、世界10傑に名を連ね、
ソウル五輪で6位入賞した。
その後の活躍や事前の戦歴をみると、
10位までで一発屋だったのは9位に入ったキーマン(アイルランド)だけのような気がする。
>>643 思い出しだ。放送中ではアイルランドのキェルナンと紹介されていて、
30キロ過ぎに突然画面に現れて、突如集団から脱落したので羽佐間が
「名前の通り突然消えた」とかいってたランナーだな。本当に35キロ手前
までは集団でわくわくさせてもらったが夏レースだけにあれだけのハイペ
ースになろうとは思わなかった。
ロス五輪の男子マラソンって視聴率40%越えてるんだよな。
今では考えられない数字だ。
ロス五輪マラソン前、宗が女子マラソンの結果が予想より速かった(ベノイト 2時間24分台)為、
男子も2時間9分台が優勝タイムと予想していた。
また30km過ぎまで先頭集団にいればメダルの可能性が高いと言っていたのを思い出す。
1984年8月12日 第23回ロサンゼルス五輪 男子マラソン レース展開

サンタモニカ大 グラウンドスタート。 気温24度

真っ先に瀬古をテレビが写す。続いてキャステラ。「2人の対決が人気を呼んでいる」
と羽佐間アナ。
スタート。宗猛がスーッと前方に出たくる。
ウガンダのヴューガを先頭にロードへ出る。
ネイブール、ランブレグトのオランダ勢が先頭で 5km 15分35秒。
イカンガー(タンザニア)、ヌジェニ(ケニア)、ネイブール(オランダ)、
ランブレグト(オランダ)、ディクソン(ニュージーランド)、サラ(ジブチ)
あたりが前方で走っている。 約40人の集団。

10km−31分15秒 (15分40秒)
ソマリアのイズマエルが先頭に出て引っ張り始める。
スミス(イギリス)、パルマンチェ(ベルギー)、サラ、デラパルテ(スペイン)、
ユルダドン(トルコ)、ヌザウ(ケニア)、あたりも集団にいる。
気温は27度に上がる。

12km−イカンガー、ヌジェニ、イズマエルの3人が飛び出して引っ張る。
その後ろに宗兄弟が上がってくる。

15km− 46分01秒 (14分46秒)
下り坂のため、ハイラップに。このハイペースのため集団は
イカンガー、シャハンガ(タンザニア)、サラ、ネイブール、ヌザウ、ジャマ(ジブチ)
キャステラ(オーストラリア)、ロペス(ポルトガル)、トレーシー(アイルランド)
スペディング(イギリス)、ザルツマン(西ドイツ)、瀬古、宗兄弟の14人に。
イズマエルとヌジェニは脱落。

その後、モスクワ五輪銀メダリストのネイブールは再度先頭に出てくる。
サラザール(アメリカ)は第2集団。先頭から100m遅れで追走。

20km−1時間01分36秒 (15分35秒)
ペースが落ちたため、集団は縦長からダンゴ状態に。イカンガーが前にでる。
ディクソンとユルダドンが先頭集団に復帰し16人に。

中間点 1時間04分54秒。
「2時間10分を切らないと優勝できないだろう。8分台は難しい」と解説の高橋進

23km−ネイブールが脱落。ディクソンが先頭に出てくる。
24km−トルコのユルダドンが脱落。
フリーウェイに入る。観衆がいなくなる。

宗茂が集団の最後方になり、苦しい表情に変わる。

25km−1時間17分11秒 (15分35秒)

26km−ザルツマン、シャハンガが脱落。
ついに28kmでディクソンとともに宗茂が集団から置いて行かれる。
集団は10人に。
(続き)
フリーウェイが終わり、市街地に戻ってくる。

29km−後方からアイルランドのキェルナンが上がってくる。
この時点で瀬古は被っていた帽子を沿道に捨てる。

サラザールは先頭集団から45秒遅れの第2集団。この集団にはHジョーンズ(イギリス)
マソング(タンザニア)、ザルツマンがいる。

30km−1時間32分57秒 (15分46秒)
宗茂は15m遅れ。
集団は瀬古、宗猛、イカンガー、キャステラ、ロペス、トレーシー、スペディング
ヌザウ、サラ、ジャマ、キェルナンの11人。

33km−キャステラが後方に。「走りが重くなった」と解説。
     そしてジャマとともに遅れ気味に。

34km−キャステラ、20m遅れ。羽佐間の「キャステラの心境は?」の問いに
「これで優勝圏外に去りました」と高橋進。

そしてサラ、キャルナンの脱落。

これで集団は瀬古、宗猛、ロペス、ヌザウ、イカンガー、スペディング、トレーシー
の7人に。

34.8km−羽佐間「集団の後ろに瀬古がついてますが・・アッ」   
       高橋 「アッ! 瀬古が遅れましたね。」
       羽佐間「どうした 瀬古利彦! 瀬古が遅れははじめました」

35km−1時間48分22秒 (15分26秒)

瀬古が30m遅れる。スペディングがスパート。あっという間にイカンガー、
そして宗猛も10m遅れ出す。
スペディング、ヌザウ、トレーシー、ロペスの順。

35kmで宗茂は59秒、サラザールは1分45秒遅れ。

先頭のペースがみるみる上がる。スペディング、トレーシー、ロペスが横並びし
ヌザウが脱落。

36km−キャステラが瀬古を捕らえる。ペースの差は歴然。

37km−ロペスが先頭に出てロングスパートをかけている。トレーシー、
スペディングと徐々の差がつき始める。
ペースは加速度てきに上がってくる。
「このまま行けば、10分台はでますね」と解説。
「つ、強い、強いですね」と羽佐間。

(続き)
初マラソン・トレーシーの関して
「78年世界クロカン優勝。モスクワ五輪1万代表、アイルランド記録の5千13分
16秒82の保持者」と紹介。

瀬古は11位に後退。

40km−2時間02分56秒 (14分34秒)
「40km以上走ってきた人間の足取りとは思えませんね。」羽佐間
「充分9分40秒台の可能性がある」と高橋。

ロペス、スペディング、トレーシーヌザウの順。

41km−トレーシーがスパート。スペディングを引き離す。

2時間07分48秒ーロペスがメモリアルコロシアムは入ってくる。
「2時間09分30秒を切るかもしれませんよ」高橋

ゴールーラスト6分25秒 

2時間09分21秒の五輪新記録でポルトガル史上初のマラソン金メダル。
2位、トレーシー、3位スレディングまでサブテンを記録。
宗猛は40kmでヌザウを抜き去り4位。

ラストの直線でイカんがーを振り切ったキャステラが5位。6位イカンガー
「相次いで優勝候補が敗れ去りました」と羽佐間。

「アッ 瀬古がここにいます。まったく疲れている。こんな瀬古を見たことは
ありません」羽佐間 「私も初めてですね」高橋 という瀬古が14位。
100m遅れで宗茂が17位。


23回 ロサンゼルス五輪 男子マラソン 成績

1、2時間09分21秒 ロペス(ポルトガル) 五輪新記録
2、2時間09分56秒 トレーシー(アイルランド)
3、2時間09分58秒 スペディング(イギリス)

4、2時間10分55秒 宗猛(日本)
5、2時間11分09秒 ド・キャステラ(オーストラリア)
6、2時間11分10秒 イカンガー(タンザニア)
7、2時間11分28秒 ヌザウ(ケニア)
8、2時間11分39秒 ジャマ(ジブチ)

9、2時間12分20秒 キェルナン(アイルランド)
10、2時間12分57秒 ディクソン(ニュージーランド)
11、2時間13分53秒 フィツィンガー(アメリカ)
12、2時間13分57秒 Hジョーンズ(イギリス)
13、2時間14分00秒 ゴンザレス(プエルトリコ)
14、2時間14分13秒 瀬古利彦(日本)
15、2時間14分19秒 サラザール(アメリカ)
16、2時間14分20秒 テルジ(トルコ)
17、2時間14分38秒 宗茂(日本)
18、2時間15分29秒 ザルツマン(西ドイツ)
19、2時間15分55秒 ヨルゲンセン(デンマーク)
20、2時間15分59秒 サラ(ジブチ)

21、2時間16分25秒 マソング(タンザニア)
22、2時間16分27秒 シャハンガ(タンザニア)
23、2時間16分35秒 シュレッダー(ブラジル)
24、2時間17分09秒 リスモン(ベルギー)
25、2時間17分10秒 ツァハンセン(デンマーク)
26、2時間17分38秒 コウシス(ギリシャ)
27、2時間17分43秒 ティアイネン(フィンランド)
28、2時間17分52秒 ラザール(フランス)
29、2時間17分54秒 ルグガ(ウガンダ)
30、2時間18分10秒 パルマンチェ(ベルギー)
651ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/11(水) 15:37:34
>>647-649
今思うと、相当なメンバーが先頭集団を形成してたんだな。
ジャマやサラなんてこの頃はまったくの無名だろうがその後の
活躍を見れば他のメンバー以上のインパクトがあるよ。

今の時代ならまだしも22年前で35キロ14分30秒台は
相当のスピード力とコンディションが良いランナーしかつけないだろう。
いかにロペスの調子が良かったかがわかるね。

しかし確かレース前は単車かなんかにはねられ、交通事故にあって不参加か
とか言われていたのにな。
652ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/11(水) 23:20:11
>>650
リスモンてロス五輪も走ってるんだ。
モスクワに参加したのは知ってるからミュンヘン、モントリオール
も含めて4回でたのか。
リスモンは五輪マラソンではしぶとかった印象が強い。
653ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/12(木) 01:53:22
キャステラ一番
654ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/12(木) 07:13:18
電話は二番
655ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/12(木) 09:15:39
キャステラも入賞こそあれメダルは無縁だったな。
モスクワ、ロス、ソウル、バルセロナと4回出場して結局ロスの5位が最高か。
オーストラリア勢は前評判の割に五輪で勝っていない。

ロスはキャステラが集団から遅れた時は「しめた!」と思ったものだが…
656ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/12(木) 20:40:28
でも、世界陸上の初代王者じゃないですか
モネゲッティもアテネ世界陸上男子マラソン銅メダル。
豪州勢は世界陸上には分があるようだ。
658ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/13(金) 10:26:38
ロスが終わって4ケ月後には福岡で中山が台頭してくる。
中山出現後のマラソン界はガラリと変わった印象だな。
モスクワからロスまでが顔ぶれに変化がなく瀬古、宗兄弟時代だったから。
659ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/14(土) 10:19:14
すみません、モスクワからロスの瀬古、宗兄弟時代に
伊藤、喜多も仲間に入れてあげてください。
660ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/14(土) 13:57:03
しかし伊藤・喜多vs.瀬古・宗兄弟で見た場合、
伊藤・喜多チームが瀬古・宗兄弟チームに快勝したケースって無かったような気が..
「強い」「弱い」は、やっぱり記録よりも順位
時代を彩った選手かもしれないが、失礼だがやっぱり「名脇役」の類から抜け切れないのでは..
661ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/14(土) 14:14:19
このスレの 120を見ると
北九州IHで喜多が宗兄弟に勝ってるね。

しかし、本当に勉強になるスレだな。
本にして読んでみたいくらいだ。
662660:2006/10/14(土) 14:57:38
>>661 >>120は俺の発言だった(笑)(参考「振り向いたら負けや」(宗兄弟著))

と蛇足はさておき、
高校時代の北九州大会の5000mだし、高校時代の話まで持ち出したら、
その世代は「服部誠の負け犬」世代になってしまう

マラソンの話で言えば、やっぱり伊藤・喜多は、瀬古・宗兄弟に勝てなかったんじゃないか?

「同世代の悲劇」といえばそれまでだが、
伊藤は「マラソン無冠の帝王」の異名だし、
1986年の北京で1位喜多、小差で2位伊藤というケースがありながら、
喜多は強豪がそろったレースで上位に来たのは少ない

やっぱり、伊藤・喜多チームが瀬古・宗兄弟チームに勝てなかったんじゃないですか

663ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/14(土) 15:05:48
おっしゃるとおり勝てないですね。

伊藤も喜多もこの当時、1万で27分台、マラソンでも世界ランク。
瀬古、宗兄弟と同じ時代でなければ、もっと名選手として輝けたかもしれません。

なんか、SB食品の3000m障害にそんな選手がいたなあ。
岩渕・・・だったかな?
小山時代と新宅時代の万年2位の選手。
664ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/14(土) 21:55:49
たしか、その2人(伊藤国光、喜多秀喜)って、
モスクワの選考会(福岡)でも日本人4位、5位だったよね。
瀬古利彦、宗兄弟と同じ時期でなければ、
または違う国だったら絶対的なエースだったろうに・・・
いまのケニアが同じ状況、いや、もっとすごい状況だね。
665ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/14(土) 23:37:25
>>664 それは間違い。79年の福岡では伊藤が8位(日本人4位)、武富10位
(日本人5位)なのに喜多は大崩れして48位。喜多はラストのキックが
効くので優勝が結構ある(肘の別大、第一回東京、北京)一方で途中で切れる
ととめどもなく崩れるのが特徴。
666ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/15(日) 00:16:17
神戸製鋼陸上部の人に聞いた話だが、
「喜多はラストのキックが効く」んだけど、
フレッシュな状態でも400mを60秒切ってくるのがやっとだったらしい
それでも10,000mのラストではやっぱり60秒で帰ってくる
(純粋なラストなら森口達也さんの方が速かったんじゃないか?)

スピードは絶対的なものである部分もあるのだが、スタミナで十分補完できる部分も持ち合わせているんじゃないか?
その好例が宗兄弟でしょ。お世辞にもスピードありそうな感じじゃないもん
667ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/15(日) 00:23:48
>>663 岩淵仁さんだっけ?
水戸三高で横須賀久乃さん、橋本泰子さんを教えて、
二人をSB食品に送り込んだ女子長距離黎明期のコーチとして有名ですよね

たしか、中村清さんの弟子筋に当たる人で、
瀬古さんが故障中に水戸で合宿をして、
岩淵さんと瀬古さんが二人で酔っ払って「中村のバカヤロ〜」と絶叫した、って話が、
「伴走者―陸上に賭けて散った、中村清の苛烈な生涯 (木村 幸治著)」に載ってたな
80年代のマラソン黄金時代を知っている方は羨ましいです。
瀬古は解説と監督業しか知らないけど、現役の頃の凄さはアメリカでも聞きました。
そのころのいろいろな逸話楽しみです。
喜多健一 鷲尾 上位めざしてふぁいっ

中西哲生(サッカー解説者)陸上競技しらねえんならふられたとかんじてもしゃべんな

期待できる なんて誰でも言える
1984年12月2日 第19回(当時)福岡国際マラソン レース展開

12時15分 平和台陸上競技場スタート。
晴れ 気温11.8度 湿度46% 北北西2.2m

149人参加(外国招待選手12カ国19人含む)
はやくも 優勝候補筆頭 ゼッケン1番のイカンガー(タンザニア)が先頭で
競技場を後にする。

2km−福山長安(東京都庁)が20m飛び出す。
5km−福山は吸収され15分35秒。先頭集団は52人。伊藤、喜多が遅れ気味。

9km−集団の最後方で伊藤国光(鐘紡)が苦しげに首を振り始める。
    「明らかに体調が悪いよう」と解説の中尾隆行。

15km−イカンガー、スラー(タンザニア)の二人が集団を引っ張る。
     集団の中には阿部文明(日本電気HE),千葉政秋(日産自動車)
     林清司(ダイエー)、森口達也(神戸製鋼)あたりが前にいる。

15分30-15分40秒前後のペースで推移。

19km−喜多秀喜(神戸製鋼)が最後方で重い足取りに。森口とともに
     神戸製鋼の二人が遅れ気味。
     2ヶ月前にワンツーフィニッシュを披露した北京国際マラソンから
     僅か2ヶ月で参加した喜多、伊藤は明らかに疲労が抜けていない印象。

     ダイエーの浅田文明が先頭にでてくる。

雁ノ巣 折り返し 1時間06分30秒。 イカンガーを先頭に浅田、エレラ(メキシコ)
         の順で約30人。初来日にサラ(ジブチ)が遅れ気味に。

20km過ぎー 参加外国人選手で3人のサブテンの一人、ビヨクルンド(アメリカ)が
        後退。

25km−1時間17分33秒 この間は15分18秒。
     集団はイカンガー、スラー、エレラ、ハイルマン(東ドイツ)、ジャマ(ジブチ)
     リー・ジョン・ヒョン(北朝鮮)、工藤一良、岩瀬哲治(ともに日産自動車)
     林、浅田、仙内勇、中山竹通(ともにダイエー)、西村義弘(新日鉄大分)
     武富豊、喜多(ともに神戸製鋼)、伊藤、阿部、児玉泰介(旭化成)の18人に。
(続き)
27km−中山がスパート。ハイルマンが中山の背後につく。
     児玉が5m遅れで追走。集団が解体される。イカンガーが遅れ始める。

     後方集団はイカンガー、阿部、リー、エレラ、岩瀬、伊藤、引間金夫(新日鉄八幡)
          が60m遅れに。喜多は一気に後退した。

     「このような形でイカンガーが遅れるのは日本で初めて見ます。」と実況。

チェルピンスキーの後継者といわれ、自己ベスト2時間09分30秒の23歳、
ミカエル・ハイルマンとマラソン3回目の24歳中山竹通のデットヒートが続く。

30km−1時間32分29秒。この間を14分56秒で走破。

第2集団の最後方にイカンガー、その後ろにすらー、西村、林、仙内が縦に続く。

27kmから36kmまでの9kmにわたり2人の併走が続く。
この間の30km−35kmのラップは15分04秒。

36km−ハイルマンの足取りが鈍り始める。その隙に中山スパート。
     アッという間に5,10mと差がつく。
     後続は200m遅れで児玉。すぐ後ろに北朝鮮のリーが迫ってきている。

ハイルマンは両足を痙攣。40km手前でついに児玉にも抜かれる。
児玉がしっかりとしたピッチで中山との差をキープした走り。

2時間08分16秒ー中山が平和台競技場に帰ってくる。
 「2時間10分を切るのは難しいか!」実況。
「9分台は微妙です。さあ飛び込んだ!ゴールイン!! 2時間10分。10分ちょうど。」

2時間10分00秒ー 84年度世界8位。日本ランク1位の中山はマラソン初優勝。
           2位児玉も自己記録を2分15秒最新した。

19回 福岡国際マラソン 成績

1、2時間10分00秒 中山竹通(ダイエー)
2、2時間10分36秒 児玉泰介(旭化成)
3、2時間10分59秒 ハイルマン(東ドイツ)
4、2時間11分34秒 リー・ジョン・ヒョン(北朝鮮)
5、2時間12分04秒 伊藤国光(鐘紡)
6、2時間12分08秒 引間金夫(新日鉄八幡)
7、2時間12分20秒 仙内勇(ダイエー)
8、2時間12分41秒 阿部文明(日本電気HE)
9、2時間12分47秒 林清司(ダイエー)
10、2時間13分07秒 岩瀬哲治(日産自動車)

13、2時間14分10秒 ジャマ(ジブチ)
23、2時間16分49秒 イカンガー(タンザニア)
55、2時間23分31秒 喜多秀喜(神戸製鋼)
途中棄権 サラ(ジブチ)
19回 福岡国際マラソン 優勝 中山竹通(ダイエー) ラップタイム

5km 15.36
10km 31.07(15.31)
15km 46.34(15.27)
20km 1.02.15(15.41)

中間点 1.05.36

25km 1.17.33(15.18)
30km 1.32.29(14.56)
35km 1.47.33(15.04)
40km 2.03.02(15.29)
2.195km  6.58

(後半部 1.04.24)+1.12

2時間10分00秒 (当時 日本歴代5位)
>>670-673
雁ノ巣折り返しのコース最後の大会だったですね。
風の影響を受けることが多かったが、福岡がもっとも
権威があった時代のコースだっただけに懐かしさがありますね。
675ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/17(火) 01:09:57
藤田敦史
676ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/17(火) 03:26:03
アベベは靴を履け
ハイルマンてしょっちゅう足痙攣させてたな
宗兄弟、伊藤、喜多あたりでも勝てなかった福岡国際に
無名の若手が勝つなんてと途中は思ったよ。>中山の初優勝


スケールでかいなとは思ったがすぐに日本最高出すとは思わなかった。
679ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/17(火) 21:51:56
まだ中学生のとき、スポニチ国際陸上でスタンドを歩いていたら、
誰もいかないような場所に、スタッフといっしょにいる中山選手をみつけてしまった。
「あの〜、写真撮ってもいいですか?」とたずねると、
ちょっと不機嫌そうな顔をしたものの「ああ、いいよ」と言ってくれました。
ところがカメラを向けると何やら手を激しく振って怒っているような顔・・・。
よく聞くと、中山選手は「おい、フタ!フタだよ!」と言っていたのです。
あわててカメラのフタをとって、その怒り顔の中山選手を撮りました。
いまその写真を見ても、やっぱり怒っています。中山選手はいつも怒り続けていましたね。
隣にいるスタッフが何故かやさしい笑顔で映っている。(ふつう、遠慮してよけると思うのだが・・・)
680ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/17(火) 22:05:12
嫌な奴だな
高岡なんて試合前にもかかわらず笑顔でサインに応じてくれたのに
681ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/17(火) 22:10:24
イメージ通りの人物だなw
まぁニコニコしてる中山は見たくないが
でもやっぱり中学生相手にその態度は
682ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/17(火) 22:32:33
あ、いや、違いますよ、
そうやってカメラのフタのこと言ってくれる中山さんなんで
悪い印象はなかったんですよ。
あの甲高い声で「フタ!フタ!」と言っている中山さんはなんかおもしろかった。
683ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/18(水) 00:25:51
谷口浩美さん、ニューイヤー駅伝の時、便所までついていって●●●が終わるまで便所の入り口で待っててスイマセン。にもかかわらず笑顔で握手してくれて感動しました。手洗ってましたっけ?
>>647
1回大会から19回大会までは平和台陸上競技場をスタート 〜長浜通りから石堂川を渡り5KM 〜
ABCトヨタ中古車センター前が10KM 〜 香椎を過ぎて和白手前が15KM 〜 博多湾から香椎線に沿って
雁ノ巣駅を過ぎ20KM 〜 海の中道駅手前 21.3949KMが折り返しのコースですね。
復路は往路に沿って平和台陸上競技場に戻る。
85年大会から海の中道をカットしたコースになった。瀬古は新コースを走ってませんね。
685ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/18(水) 23:34:18
>>670-671
「こんなに苦しいレースは初めて」。
予想外の23位に終わった優勝候補のイカンガー(タンザニア)は、ゴールすると放心したように長イスに座り込んだ。
両手でお腹を何度も押さえ、苦痛に顔をゆがませる「25キロを過ぎて急に胃が痛くなった。
リズムが崩れて走れなかった」。
優勝を狙ったイカンガーは「前半抑えて後半ペースを上げる」作戦で25キロまではその通り
のレース展開だった。前年(83年)、瀬古と死闘を演じたときより5キロごとのラップは
20〜30秒遅かったが25キロまでは終始トップを走り続けた。そのペースが26キロの給水所で
エレラ(メキシコ)とドリンクを取ったとき接触したあと急にスピードが鈍りズルズル後退した。
「接触は関係ない。こんな結果になったのは胃痛が起こったから」と強調した。
イカンガーはこの時点でロス五輪をはじめ、84年は5回のマラソンに出場。
驚異的なスタミナとスピードで注目を集め続けたが、その「神話」も崩れる惨敗。
2時間16分49秒はマラソン2回目の2時間21分5秒につぐワーストタイム。
「マラソンの恐さ」を初めて味わったレースであった。
>>685 イカンガー、よくレース出てたもんな。
いつもマラソンみるとイカンガーが走ってたイメージがあるよ。
1985年4月14日(日) 第1回ワールドカップマラソン広島大会 レース展開

67カ国 236人 気温18.0度 湿度57% 西南西 0.8m

参加選手ベスト10
1、2時間08分55秒 宗猛(日本)
1、2時間08分55秒 イカンガー(タンザニア)
3、2時間09分06秒 宗茂(日本)
4、2時間09分14秒 ペーター(東ドイツ)
5、2時間09分26秒 リー・ジョン・ヒョン(北朝鮮)
6、2時間09分30秒 ハイルマン(東ドイツ)
7、2時間09分35秒 伊藤国光(日本)
8、2時間10分00秒 中山竹通(日本)
9、2時間10分03秒 バルチャ(エチオピア)
10、2時間10分15秒 バリンジャー(ニュージーランド)

12時 広島総合グランド陸上競技場をスタート。
イカンガー、宗猛を先頭に競技場を出る。

ロティシュ、ヌジェニ(ともにケニア)、マカンヤ、ブラ、イカンガー(ともにタンザニア)
宗猛らが先頭で5kmへ進む。

 「気候も含めて記録が出安い状況になった。」と解説の沢木啓祐。

5km−15分10秒 ロティシュを先頭に妬く30人。

先頭の8人は全部アフリカ勢。日本の5人(宗兄弟、中山、伊藤、児玉)も
全員入っているが、伊藤が後方に。

10km−30分14秒(15分04秒)イカンガーが先頭。 集団は24人
      伊藤、ハイルマン(東ドイツ)が最後方。伊藤の足取りが重い。

「事前情報ではイカンガーの調子が良くない」と実況。

集団にはニジオカ、ロティシュ、ヌジェニ(ともにケニア)、イカンガー、マカンヤ、ブラ
タオレ(レソト)、バルチャ、ネディ、メコネン(ともにエチオピア)、
デラパルテ(スペイン)、ハイルマン、サラ、ジャマ、アブディラヒ、ユソー(ともにジブチ)
リー・ジョン・ヒョン、リー・ドン・ミョン(ともに北朝鮮)、宗兄弟、伊藤、中山、児玉の
計23人。

アフリカ勢がペースを上げたり下げたりしてペースが安定していない。
(続き)

15km−45分26秒(15分12秒)

16km−ロティシュ、ブラ、タオレが集団から脱落。

19km−ついに最後尾についていた伊藤国光が脱落。
     「調子は良いと聞いていた。ニュージーランド合宿でも良かったの
      だが・・」と沢木

20km−1時間00分43秒(15分17秒) イカンガー、マカンヤのタンザニア勢が
     先頭で集団をリードする。

21km−デラパルテが脱落。 集団では12人がアフリカ勢。

     第3集団は500m差。ペーター(東ドイツ)、シュレダー(ブラジル)
     パーソン(スウェーデン)、マシューズ(アメリカ)、ラザール(フランス)
     など約10人前後の集団。

22km−児玉、リー、ユソー、ヌジェニ、ジャマが脱落。集団の解体が始まる。
     24kmではジャマは集団に復帰。代わりにマカンヤが遅れる。

 この頃から小雨が降り始める。

25km−1時間15分52秒(15分09秒) 通過のすぐ後に折り返し地点。
     イカンガーが先頭で12人の集団が折り返す。  
     児玉が29秒、伊藤が59秒差。

26km−宗茂が遅れだす。 アッという間に100mの差がつく。
     「2月の東京国際で独走優勝した疲れが見える走り」と沢木。

30km−1時間31分08秒(15分16秒) アブディラヒが脱落。
     中山が先頭で引っ張り始める。集団は9人に。
(続き)
30kmで宗茂は260m差、ニジオカと併走して11位。

32km−ネディが後退。「サバイバルレースの展開」と実況。

33km−集団がバラける。中山、サラ、バルチャがスパート。   
     メコネン、イカンガーが10m差。ハイルマン、ジャマはさらに10m、
     宗猛は最後方。

     宗猛について「30km過ぎで苦しくなっていた」と第二中継者の広島日出国。

35km−1時間46分19秒(15分11秒)
     バルチャがついに後退。中山とサラの争いになる。宗猛は130mの差がつく。
     たえず中山が前に出てサラが後ろにつく展開。

「このままいくと2時間8分30秒に日本最高のペース。牽制がなければ世界最高も」沢木

後続ではジャマが追走。バルチャを捕らえ3位に浮上する。

40km−2時間01分24秒(15分05秒) 小雨が続く。 気温は17度、湿度70%に
     「世界最高を5秒上回っている」と実況。

40.2km−サラが給水。一瞬中山と差がつく。中山すかさずスパート。
       しかし決定的な差がつかず、サラが追いつく。

2時間06分02秒ー競技場手前のアーケードでサラがスパート。中山と5m差がつく。
2時間06分38秒ーサラが競技場へ 中山10m差。

「1万の持ちタイムがサラと中山で1分。その差が出ている」と競技場解説の帖佐。

サラ(ラスト6分45秒) 優勝2時間08分09秒 世界最高に4秒差の世界歴代2位。

中山(ラスト6分51秒) 2位2時間08分15秒 83年東京国際で瀬古が出した    
             日本最高(2時間08分38秒)を最新する世界歴代3位。

後半粘ったジャマは2時間08分26秒の3位で世界歴代5位。
宗猛8位、茂17位、児玉52位と旭化成勢は惜敗。伊藤国光はゴール前100mで
足が痙攣。歩くように77位でゴールした。
第1回 ワールドカップマラソン 広島大会 成績

1、2.08.09 サラ(ジブチ)
2、2.08.15 中山竹通(日本)
3、2.08.26 ジャマ(ジブチ)
4、2.09.03 ハイルマン(東ドイツ)
5、2.09.05 メコネン(エチオピア)
6、2.10.23 ピッツォラート(イタリア)
7、2.10.33 アブディラヒ(ジブチ)
8、2.11.01 宗猛(日本)
9、2.11.02 マニャーニ(イタリア)
10、2.11.06 イカンガー(タンザニア)

11、2.11.19 バルチャ(エチオピア)
12、2.11.29 ボルディン(イタリア)
13、2.11.48 マシューズ(アメリカ)
14、2.11.49 ステファニー(西ドイツ)
15、2.12.09 ファントニ(イタリア)
16、2.12.22 ネディ(エチオピア)
17、2.12.27 宗茂(日本)
18、2.12.28 フィツッインガー(アメリカ)
19、2.12.53 ラザール(フランス)
20、2.13.26 ニジオカ(ケニア)

21、2.13.34 フーパー(アイルランド)
22、2.13.49 ベーゲマン(ベルギー)
23、2.13.55 ファウスチニ(イタリア)
24、2.13.56 リー・ジョン・ヒョン(北朝鮮)
25、2.14.07 セメョーノフ(ソビエト)
26、2.14.22 ベエル(東ドイツ)
27、2.14.30 ニムチャク(ポーランド)
28、2.14.31 アベリャン(スペイン)
29、2.14.33 ケレクヤルト(ハンガリー)
30、2.14.35 オコロコフ(ソビエト)

52、2.16.51 児玉泰介(日本)
77、2.19.14 伊藤国光(日本)
691ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/20(金) 11:39:46
ワールドカップは面白かった。
昔は国内レースで世界記録が出るかとワクワクさせられる
レースがあったからな。
692ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/20(金) 14:01:28
>>687-690
W杯広島はロス五輪4位以来のマラソンになる宗猛がいちばん期待されていた。
宗茂は2月の東京国際にスタートから飛び出して独走し優勝したが、
期間が短いだけに走れるかどうかといった評価。
中山は福岡で初優勝をして勢いはあったがまだ未知数な部分があるという感じだった。
瀬古が走らない中で伊藤、児玉を加えて日本はベストに近いメンバーを送り込んだと思うよ。
しかし団体優勝はジブチ。
優勝のサラ、3位のジャマの他に7位にアブディラヒまで入ってきて断トツだった
のを覚えている。

中山の日本最高は瀬古が五輪惨敗だった後だけに一気に中山時代に入っていく
予感を感じさせた。
693ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/20(金) 19:57:35
>>692
W杯広島の時はちょうど高校入学→陸上部に入部した時期で、レース時間は記録会に出ていて見られなかった
しかしグラウンド場内放送で「中山とサラが世界記録のペースで進んでいます」とアナウンスがあり興奮したのを覚えている

1982年の東京(瀬古vsR・ゴメス)、1983年の福岡、1984年のロス五輪(個人的な話でスマンが夏期講習で見られなかった_| ̄|○ )
1986年の北京(距離疑惑があるが....)、そして1987年の福岡、1988年のソウル五輪

見られるマラソンは家のテレビの前に陣取り必死になって見たもんだ

しかし歳の部分も有るんだろうが、最近はマラソンで胸躍る気分で観る機会等ほとんどない
最近の高校生諸君は、俺らが高校時代のような気持ちでマラソンを観る機会があるのだろうか....
694ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/20(金) 20:00:26
やっぱり森下と黄の勝負ですかね。
>>693
そうですね。他にも86年東京国際(アフリカ勢vs中山)、86年アジア大会は
中山の記録の興味、8791年別大(森下初優勝)年ボストン(瀬古優勝)、
91年世界陸上(谷口優勝)、92年バルセロナ五輪 なども印象に
残っていますね。

近年では福岡の藤田とシカゴの高岡くらいじゃないですかね。
696ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/20(金) 20:43:28
ちょっとズレちゃうけど、
自分は犬伏が東京で日本人1位とったときは感動(同情)したよ。
ベルリンで日本人初の6分台出したのに、メディアも陸連もまったく評価してくれなくて
宗からは「うちの旭化成の選手にも(6分台くらい出せるのは)何人もいる」とか言われて
世間から冷めた目で見られて本当にかわいそうだった。
ゴールした後、河野監督と抱き合って泣いてる姿みてもらい泣きしちゃったよ。
2人とも極限のプレッシャーだったみたいだね。
犬伏はベルリン後に、東京国際で8分台を出して、フロックでないことを自ら立証。
しかし藤田が1年ちょっとで新記録を国内で出し、
本人はシドニーで途中棄権した上、以後は持病だった坐骨神経痛(?)も悪化。

結局実力以上の評価を受けることは無かった……

ある意味悲運なランナーだったな。
一度、ドキュメント番組見たけど…
大塚製薬の走る実験室みたいな感じだった…
食物とか、会社が作った、ペースト状の奴食ってたり…
699ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/21(土) 20:40:26
おお、犬伏の話でも反応があるなんて・・・(涙)
あんなに評価されなかった日本最高もないですよね。
当時、陸連はシドニーに向けてナショナルチームをつくっていたから、
違うところから出てきた芽が憎らしかったんでしょうね。
700ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/21(土) 22:49:43
河野匡監督は現役時代、3000mSCの選手でした。
たしか、雪印食品だったかな。8分40秒くらいの選手だったような。
愛敬とかが活躍した頃の選手でしたね。
監督になってものすごく太ってたのでビックリしました。
701ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/21(土) 22:58:42
結局マラソンってのは勝たないとなんの評価ももらえないわけよ
702 ◆GF91Pu26a. :2006/10/21(土) 23:09:29
>>696

>宗からは「うちの旭化成の選手にも(6分台くらい出せるのは)何人もいる」とか言われて

最盛期の三木と小島(兄)の強さはすさまじかったからな

三木はきっと2時間6分台の記録を出してシドニー五輪のマラソンでメダルを取るんじゃないかと(個人的には)思っていた

それがシドニーは旭化成からは佐藤と川嶋さんの出場になっちゃった
代表独占をもくろんでいた宗さんも悪い意味で当てが外れたと思うし、
三木が額面どおりの成績を残せていればどんな選手になっていたかと思いたくなる
703ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/21(土) 23:14:44
三木か。
スッカリ忘れていた。
確かに額面どおりのチカラを出していれば。
残念な選手だったな。
森下以降、渡辺、早田、三木、佐藤、犬伏、小島兄弟、実井、藤田など
90年代中盤からは
怪我や短命(一発屋)、不調の長期化とこれからというときに皆ダメになっていった。
君原、宇佐美、瀬古、宗兄弟、伊藤、中山、谷口などの70〜80年代のマラソン黄金時代のランナー
には実績、記憶と敵っていないのは本当に残念。
高岡はかなり頑張ってはいると思うよ。でも残念ながら瀬古、中山と比べるのは酷だと思う。
>>695
86年の東京国際は見てました。
4人まで8分台というのには当時興奮した。
たしか無名のデンシモが無謀な飛び出しをして
すぐ消えるとか言われながら粘って初マラソン世界新記録だった。
イカンガーの脇の下の汗が塩になってたのがなんか思い出すよ。
706ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 08:33:09
そうだ。
ここ数年は、いい記録、いい勝負をしても
それが継続していかない選手ばかり。
707ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 14:06:03
>>706 8分台の時代に要求される練習と6分台あるいは4,5分台の実現のために
必要な練習が質的に違うのだろう。それを昔の練習の外挿でやれば選手は故障する。
またそうでなくても素質が劣っていて若いときから無理している選手が多い
から故障しやすい体質になっている。旭化成はもっと前から促成栽培をやって
選手を故障させていた。それでもシドニー前は勢いがあったが、それ以降は
選手が不信を抱き、悪い方向にことが回るようになった感じ。

もう一つは駅伝で稼げるからリスキーなマラソンに挑戦しなくなっている。
708ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 14:49:25
駅伝の選手でいられればチームも「使えるヤツ」と退部勧告させないからねぇ
709ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 15:42:09
本気で世界に挑んでる、と感じる選手がいない。

口だけは大きなことを言うが。
箱根に力入れるのわかるけど、当時は
瀬古なんて早稲田の頃、箱根は完全に調整の一貫で走ってたもんな。
それでいて断トツの区間新。ラストの4年の時はモスクワ五輪代表を福岡で決めた後の
箱根だったから瀬古フィーバーが凄かった。
区間完走後、当時は選手の後ろにチームの伴走車(ジープ)がついていて、
それに瀬古が乗って声援に応え、一種のファンサービスしていた。
そういう意味でも今はスーパースターが出てこないな。
711ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 17:43:18
あの当時、いまのように箱根全区間生中継だったら、
瀬古はものすごいスーパースター扱いだったことだろう。

いや、もともと、スーパースターだったが・・・
712ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 17:52:10
>>711 とは言ってもインカレのチャンピオンという触れ込みで走った1年の
ときは区間下位に沈み、福岡で日本人1位になり日本選手権でも学生最高記録
で好走(勿論インカレチャンピオン)していた2年のときも成田(現法大監督)
に区間賞を奪われている。それほど調整していなかった故の結果だと思う。
だから瀬古は強くなれた。今みたいだったら潰れていたと思うよ。少なくとも
福岡や東京では走れない。
713ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/22(日) 17:57:50
で行くと箱根駅伝は別板の「長距離選手の墓場」(現在は「箱根駅弁」と呼ばれているが...)っていう論理になっちゃうんだよね

箱根駅伝をモチベーションの場と考えると非常に有意義な試合なんだろうが、
主従が逆転するとトンでもない事になる

将棋で「逆形は悪形」という言葉があるが、今の箱根は完全に「逆形は悪形」の典型的なパターンになっているね
もっともこれは実業団駅伝にも高校駅伝にも言えることかもしれないけど...
714711:2006/10/22(日) 18:02:05
納得です。
アメリカ、イギリス、ドイツなどマラソン人気が凋落して弱体するならわかるが、
日本は基本的に人気はそこそこキープしての低迷だからなぁ。


瀬古、中山時代を見れただけ幸せだったなんてのは淋しい現実だ。
谷口の話題が少ないのが…
森下広一のバルセロナ五輪銀メダルまでだったな。
日本マラソン黄金バブル。。。。
バルセロナは3人全員入賞だった。
718ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/23(月) 01:30:22
オッサン共に聞きたいが運動中に水飲み禁止ってのは陸上でもあったの?
年齢的に見始めたのは、96年前後だからなぁ。
谷口の全盛期は過ぎてたし、一番新しい記憶が実井の8分台だよ……

というか今もアトランタ代表の実井が今も現役で、
しかも今年のボストン6位だから若い頃より安定感があるわけだが。
この頃はびわ湖以外で8分台もなかなかでない。
そんな記録を20年以上前に叩き出してたランナーはやっぱ強いよ。
721ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/23(月) 21:38:42
実井の名前で思い出したのは、早田。
高校駅伝で、無名の早田が(たしか野球部)
IH2位の実井を破った、そんな話があったような。
瀬古か―。
高校の頃にマラソン速い奴はあだ名は「瀬古」なんて言われてたよ。
あの頃のマラソンは面白かったなぁ。(遠い目)
瀬古のこと今は笑いの対象になってしまったが、
現役知ってたらグゥの根も言えないんだろうなぁ。
1986年度 男子5000m 世界10傑

1、13.00.86 アウイタ(モロッコ)
2、13.10.15 バックナー(イギリス)
3、13.11.57 メイ(イタリア)
4、13.12.88 ハッチングス(イギリス)
5、13.13.15 イグナトフ(ブルガリア)
6、13.14.62 メイリー(アメリカ)
7、13.15.01 ルソー(ベルギー)
8、13.15.18 レイタオ(ポルトガル)
9、13.15.31 ドゥルーズ(スイス)
10、13.15.86 コバ(イタリア)

30、13.24.29 瀬古利彦(日本)



1986年度 男子10000m 世界10傑

1、27.20.56 ニーナウ(アメリカ)
2、27.26.11 アウイタ(モロッコ)
3、27.34.68 クンツェ(東ドイツ)
4、27.39.52 アンティボ(イタリア)
5、27.34.31 キプコエチ(ケニア)
6、27.43.89 ハイネ(東ドイツ)
7、27.43.97 メイ(イタリア)
8、27.44.53 ムゲ(ケニア)
9、27.44.57 バイニオ(フィンランド)
10、27.45.45 瀬古利彦(日本)


37、28.02.50 米重修一(日本)
42、28.05.50 阿久津浩三(日本)
44、28.07.00 中山竹通(日本)
48、28.09.47 新宅雅也(日本)
1986年度 男子マラソン 世界20傑

1、2時間07分35秒 児玉泰介(日本)
2、2時間07分51秒 ド・キャステラ(オーストラリア)
3、2時間07分57秒 伊藤国光(日本)
4、2時間08分04秒 シンク(南アフリカ)
5、2時間08分10秒 イカンガー(タンザニア)
6、2時間08分15秒 ムトロ(南アフリカ)
7、2時間08分21秒 中山竹通(日本)
8、2時間08分27秒 瀬古利彦(日本)
9、2時間08分29秒 デンシモ(エチオピア)
10、2時間08分39秒 メコネン(エチオピア)

11、2時間09分39秒 シャハンガ(タンザニア)
12、2時間09分57秒 サラ(ジブチ)
13、2時間10分08秒 谷口浩美(日本)
14、2時間10分13秒 スペディング(イギリス)
15、2時間10分27秒 ハイルマン(東ドイツ)
16、2時間10分30秒 ムショキ(ケニア)
17、2時間10分34秒 ニムチャク(ポーランド)
18、2時間10分39秒 Gスミス(イギリス)
19、2時間10分41秒 ドナコウスキー(アメリカ)
20、2時間10分54秒 ボルディン(イタリア)


26、2時間11分10秒 西政幸(日本)
31、2時間11分19秒 大須田祐一郎(日本)
44、2時間11分58秒 工藤一良(日本)
46、2時間11分59秒 仙内勇(日本)
(1986年12月まで) 男子1000m 世界歴代20傑

1、27.13.81 マメーデ(ポルトガル) 1984年7月
2、27.17.48 ロペス(ポルトガル)  1984年7月
3、27.20.56 ニーナウ(アメリカ)  1986年9月
4、27.22.5  H・ロノ(ケニア)   1978年6月
5、27.24.95 シルドハウア(東ドイツ)1983年5月
6、27.25.61 サラザール(アメリカ) 1982年6月
7、27.26.11 アウイタ(モロッコ)  1986年7月
8、27.26.95 ハジュルステンス(ベルギー)1982年6月
9、27.29.16 バージン(アメリカ)  1980年7月
10、27.30.3  B・フォスター(イギリス)1978年6月

11、27.30.47 キモブァ(ケニア)   1977年6月
12、27.30.69 クンツェ(東ドイツ)  1983年5月
13、27.30.80 ベドフォード(イギリス)1973年7月
14、27.30.99 バイニオ(フィンランド)1978年8月
15、27.31.19 ローズ(イギリス)   1983年7月
16、27.31.48 オルチス(イタリア)  1978年8月
17、27.31.50 アンチポフ(ソビエト) 1978年8月
18、27.34.58 ゴーター(イギリス)  1982年6月
19、27.36.27 ブラック(イギリス)  1978年8月
20、27.36.2  カマウ(ケニア)    1982年4月


45、27.42.17 瀬古利彦(日本)    1985年7月
(1986年12月まで) 男子マラソン世界歴代30傑

1、2時間07分12秒 ロペス(ポルトガル)    1985年4月
2、2時間07分13秒 S・ジョーンズ(イギリス) 1985年10月
3、2時間07分35秒 児玉泰介(日本)      1986年10月
4、2時間07分51秒 ド・キャステラ(オーストラリア)1986年4月
5、2時間07分57秒 伊藤国光(日本)      1986年10月
6、2時間08分04秒 シンク(南アフリカ)    1986年5月
7、2時間08分08秒 ジャマ(ジブチ)      1985年10月
8、2時間08分09秒 サラ(ジブチ)       1985年4月
9、2時間08分10秒 イカンガー(タンザニア)  1986年2月
10、2時間08分15秒 中山竹通(日本)      1985年4月
10、2時間08分15秒 ムトロ(南アフリカ)    1986年5月

12、2時間08分27秒 瀬古利彦(日本)      1986年10月
13、2時間08分29秒 デンシモ(エチオピア)   1986年2月
14、2時間08分33秒 スペディング(イギリス)  1985年4月
15、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア)1969年5月
16、2時間08分39秒 メコネン(エチオピア)   1986年2月
17、2時間08分51秒 サラザール(アメリカ)   1982年4月
18、2時間08分53秒 ベアーズレー(アメリカ)  1982年4月
19、2時間08分55秒 宗猛(日本)        1983年2月
20、2時間08分58秒 プラーティエス(南アフリカ)1985年5月

21、2時間08分59秒 ディクソン(ニュージーランド)1983年10月
22、2時間09分01秒 ネイブール(オランダ)   1980年4月
22、2時間09分01秒 メイヤー(アメリカ)    1983年4月
23、2時間09分03秒 ハイルマン(東ドイツ)   1985年4月
24、2時間09分05秒6 宗茂(日本)       1978年2月
25、2時間09分08秒 G・スミス(イギリス)   1983年10月
26、2時間09分12秒 トンプソン(イギリス)   1974年1月
26、2時間09分12秒 ゴメス(メキシコ)     1983年2月
28、2時間09分14秒 ペーター(東ドイツ)    1984年7月
29、2時間09分16秒 ハットン(イギリス)    1985年4月
30、2時間09分23秒 ヘルレ(西ドイツ)     1985年4月


41、2時間09分51秒 新宅雅也(日本)      1985年12月
48、2時間10分01秒 谷口浩美(日本)      1985年12月
727725:2006/10/25(水) 15:24:06
(訂正) 男子1000m => 男子10000m
728ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/25(水) 21:16:50
ケネニサ・ベケレ
729ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/25(水) 21:44:30
>>724
年度ランキングに日本人が4人か。今では考えられないな。
北京の記録が疑惑と云われて久しいが、南アフリカのポートエリザベスの
大会は下り坂が多いレースだったからシンク、ムトロ、前年のプラーティエス
のタイムは額面通りではないしな。
730ゼッケン774さん@ラストコール :2006/10/25(水) 22:25:40
>>729
とはいえ、プラーティエスは1993年シュツットガルト世界陸上男子マラソン金メダル、
後には1996年アトランタ五輪男子マラソン金メダルのチュグワネも出てるな。
最近でもタイス、シスター、ラマーラなどの選手を輩出している南アフリカは、隠れたマラソン大国である。
この1〜4のスレッドを訂正箇所を入れて本にして欲しいな。

こんな多角度からマラソンを語ってる本ないし、
歴代のランナーをリスペクトできた部分あるしな。
瀬古さんの実績は、これ見て偉大だったのがちゃんとわかったしな。
732ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/26(木) 14:13:34
>>729
北京国際は85年までのコースは直線が18kmもある変化の少ない
走りにくいコースだったが、86年でずいぶんコース変更。
しかし中国からの正式ラップの間違いが多く、20km地点の標識は
90m手前にあったといわれている。
公式発表では20kmのラップはイカンガーで58分34秒。
中間点が1時間02分05秒でこの間の1100mが3分31秒も
かかっていることになる。そこで58分52秒に後日修正。
また児玉のラスト2.195mは6分24秒が正式ラップだが
これは5kmに換算すると、14分44秒になる。
40km地点もゴール寄りになっていて35kmから40kmの
正式ラップが17分15秒になっていてここもラップ修正が入った。

このような不可解さがあったため、コースが短いのではという
疑問がでてくるが、実はAIMSが国際陸連の委託を受け、
レース直前に再度計測を実施し、世界で16番目の公認コース
というお墨付きをもらっていた。

86年は第6回大会。
それまでの優勝タイムは余り良くない。

1回(1981年) スタール(スウェーデン) 2時間15分20秒
2回(1982年) リ・ジョン・ヒョン(北朝鮮) 2時間14分44秒
3回(1983年) タブ(アメリカ)     2時間18分51秒
4回(1984年) 喜多秀喜(日本)     2時間12分16秒
5回(1985年) 宗茂(日本)       2時間10分23秒

81年から83年までは高温と強風の中での実施。
84年喜多、85年宗の時も若干、高温で後半苦戦を強いられた。
86年は気温8-9度、前日までは乾燥しきっていたが、この日は小雨模様で
無風と最高のコンディションになったのも飛躍的に好記録になった。

さらにイカンガー、シャハンガ、デンシモ、ネディ、マイシバ、ウォルデという
前半型のアフリカ勢は初参加してガンガン飛ばしたのも好条件に。

伊藤国光は86年北京が優勝するもっともチャンスだった。
大会4日前(北京入り後)練習で左ふくらはぎに軽い肉離れを起こしていて
35kmからはふくらはぎはピリッとしながらの激走だったらしい。
この時点で児玉は50m遅れ、イカンガーとのデットヒートだったが
珍しくイカンガーが後ろにつく展開ですでに疲れている証拠だった。
その後児玉に追いつかれて抜き去られる。
このときテレビを見ていた視聴者は伊藤に「悲願の初優勝を」と思って
いた人が多かったと思うよ。
733ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/26(木) 19:10:53
あのとき、みんなが思った。
「ああ、伊藤・・・・」
734ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/26(木) 19:43:48
>>733 思った、思った(笑)

あと「児玉、余計な事を...」とか
>>732
84年の北京も伊藤に勝って欲しいと思って見ていたが、ラストの直線で
キック力に勝る喜多にちぎられた。

85年福岡は珍しく前半逃げに入ってハイペースを演出したが新宅に交わされ勝てず…。
まさに悲運の名ランナーだったよ伊藤国光
736ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/26(木) 21:11:27
伊藤といえば82年のアテネ五輪のコースで行われたゴールデングランプリ
マラソン(?)の印象が強い。前年にキャステラにおいていかれたものの9分
37秒を出し、絶好調。IAAFの肝入りで世界から強豪選手を集めた準世界
選手権で優勝候補は伊藤とロペスであった。果たして2人が先行して
山登り。優勝もあるぞと期待して見ていたら、登り切ったあたりで首振りが
起こり始めあっという間に離された。それどころか次々と抜かれてスタジアム
でよれよれになって歩くように9位でゴール。一方、ゴメスは楽勝でゴメス強し
を印象づけた。

80年福岡で転倒した後、集団を引っ張り30-35kmを14分45で走ったときも印象
的。瀬古と宗猛の初のサブ10を演出。伊藤は10.05だった。
737ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/26(木) 22:08:02
80年の福岡って、後半が1時間03分台だったレースでしょ?
たしか前半が1時間06分で「こりゃあ記録は出ないな」とおもったら、
後半うなぎのぼりにペースが上がって、終わってみたらサブテンだった。
738ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/27(金) 00:24:05
>>737
80年の福岡国際は後半、レースメイクしたのは伊藤でしたね。
伊藤国光がガンガン集団を引っ張り、30−35kmのラップが
14分45秒で走破しています。

翌年(81年)の同大会で伊藤国光は福岡における日本人最高記録
(2時間9分37秒)を記録しながら驚異的なキャステラの走りに
完敗して2位。

>>732
86年北京国際後、伊藤の手記によると
「日本の新聞では「絶好の気象条件」と書いてあったらしいが、実際に7-8度は
寒かった。アップをしていてもなかなか汗をかかないし、吐く息は白い。
そんな日はよけい足が冷えるのが怖かった」と書いています。

また「悪くても8分台確実、うまくいけば7分台どころか6分台さえ出そうな
レース展開に出会えるなんて滅多にない。変に躊躇ってせっかくのハイペース
を崩すのはもったいない。だからイケイケドンドンで前に出た。」とも言っています。

また観戦していた宗茂は「(児玉は)今度の記録が自分の力ではないことは
本人が十分に知っているはず。2時間9分前後の力はついています。今後は
2時間8分台をコンスタントに出せることが第一です」とコメント。

児玉本人も「中山さんが走っていたらこの条件なら2時間6分台は出ていたハズ」
と言っていました。

そしてこのレースを見てからシカゴマラソンに出場するため、空港に訪れた瀬古は
「初の2時間7分台を目指していましたが、先を越されてやりにくいです」と語ってします。
この頃は、日本人同士での高いレベルの対抗意識が高かったのが日本マラソンを
強くしていた原動力でもあったでしょう。
瀬古もシカゴのタイムが自己ベストなんだっけ?
740ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/27(金) 18:15:26
宗です
741ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/27(金) 18:26:34
なるほど
>>736
1982年3月7日にギリシャで開催されたのが第 1回ゴールデンマラソン。
主な参加ランナーはモスクワ五輪4位のコトフ(ソビエト)、同6位のゴメス(メキシコ)、そして参加選手中最高タイムを
持っている(2゚9'37")伊藤国光が優勝候補筆頭の予想。地元の新聞でも「伊藤中心のレースか?」と紹介された。

レースは10kmで20人近い集団。ゴメスと伊藤が集団を引っ張る展開。
16kmからゴメスと伊藤の一騎打ち。しかしこの頃から小雨が降り始める。
22km付近からはドシャ降りに変わる。そんな中で二人の併走が続いた。
30kmから32kmまでの第二の上がり坂にかかる頃が大雨のピーク。
伊藤は後日に「雨を予想せず、いつも履き馴れているシューズを履いたせいか、クツ裏が摩擦
していて滑る。滑る足を庇ううちに体力を消耗した」と語っていた。
33kmでゴメスがロングスパート。すでに伊藤の首ふりは大きくなり苦しい表情。
アッという間に20、30mと差がついた。その後は完全にスタミナ切れを起こし、後続から次々に
抜かれて2゚16'6"で9位に終わった。
743ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/27(金) 21:58:56
そういや、西本が1時間28分46秒を出すまでは
伊藤の1時間29分12秒が30キロの日本最高だったかな。
ともに熊日30キロだったと思うが。
瀬古は名古屋で西本の記録に挑戦したけど後半が強い向かい風で
けっきょく1時間28分52秒だった。
瀬古の30キロといえば、青梅のコースで1時間29分32秒はすごいね。
1986年10月26日 シカゴ・アメリカズマラソン レース展開
スタート午前8時45分 気温13度 湿度93%  1万2千人参加

主な出場選手
瀬古利彦(日本) サラ(ジブチ・第1回W杯チャンピオン)
スペディング(イギリス・84ロス五輪銅メダリスト)
Rゴメス(メキシコ・80モスクワ五輪6位  第1回東京国際覇者)ムショキ(ケニア・ハーフマラソン世界記録保持者)
バイニオ(フィンランド・84ロス五輪1万m2位(後失格))ロノ(ケニア・3000m障害世界記録保持者)

スタートー 飛び出したのはブラ(タンザニア)15mほどリードして
      5kmを14分57秒で通過。 瀬古を含む集団が15分ジャスト

7km− 急速に後続集団がブラに接近。やがて吸収する。
     集団には瀬古、ブラ、マカンヤ(ケニヤ)、Rゴメス、Jゴメス(メキシコ)
     アルカラ(メキシコ)、ムショキ、サラ、ハイキネン(アメリカ)の9人。
     ハイキネンはシカゴマラソンサイドが用意したペースメーカーだった。
     しかし機能せず15km手前で棄権。

19km− Rゴメスが後退。集団はサバイバル的に5人に絞られる。

20km−1時間00分21秒。各ラップを15.00−15.10前後の
     安定したペースで推移。

中間点ー1時間03分42秒 単純倍計算で2時間07分22秒と瀬古の後半の
    強さから2時間7分台の期待が高いと実況。

25km−この間を15分22秒かかる。 たまらず瀬古が前に出て引っ張り始める。
     たちまち集団は縦一列に。ブラが100mほど抵抗したが、ついに
     瀬古とサラの一騎打ちになった。

26km−前を行く瀬古がサラに先行して欲しいと手で促すと、やっとサラは
     前に出てくる。しかしペースが落ち気味。
27km−たまらず瀬古が先頭に。ペースが元に戻る。瀬古が前に出るとペースが
     上がり、サラが前に出るとペースが落ちる展開に。

30km−1時間30分44秒 この間を15分01秒とアップ。
     2人の争いが続くもサラの調子が悪いのがありありと感じられる。

35km手前ー 再度、瀬古がサラに前に出て欲しいと合図をするが
        サラはニヤリと笑うだけでもう行く力がないという
        表情に変わる。
        そして参ったとばかりにサラは給水所に水を取りにいく間に
        瀬古との差がみるみる開いていった。

40km−2時間01分21秒 この間のラップ 15分10秒
     7分台が現実味を帯びてきた。
     しかしこの頃から瀬古の表情が険しくなり足取りが鈍り始めている。
     ゴールのリンカーン・パークにひた走る瀬古だが、往年の切れ味が感じられない。  
     大分、疲労困憊の様子が伺える。

ゴールー (ラスト7分11秒) 2時間08分27秒。 
瀬古自身の記録を11秒最新するタイムで優勝。世界歴代10位
このタイムが瀬古自身、生涯最高記録となった。
2位にはサラ。3位は第二集団で堅実な走りを見せたスペディングが入った。
また数年前、アルコール中毒で廃人寸前までいったかつての長距離の王者
ヘンリー・ロノは無事に初マラソンを完走。26位で2時間19分12秒だった。        


1986年 シカゴ・アメリカズマラソン 男子の部 成績

1、2時間08分27秒 瀬古利彦(日本)
2、2時間09分57秒 サラ(ジブチ)
3、2時間10分13秒 スペディング(イギリス)
4、2時間10分30秒 ムショキ(ケニア)
5、2時間11分17秒 シュテフニー(西ドイツ)
6、2時間13分36秒 ブラ(タンザニア)
7、2時間13分59秒 ウイリアムス(アメリカ)
8、2時間14分27秒 ダハート(アメリカ)
9、2時間14分58秒 J・ゴメス(メキシコ)
10、2時間15分02秒 R・ゴメス(メキシコ)



優勝 瀬古利彦(日本)  ラップタイム

5km 15.00
10km 30.07(15.07)
15km 45.16(15.09)
20km 1.00.21(15.05)

中間点 1.03.42

25km 1.15.43(15.22)
30km 1.30.44(15.01)
35km 1.46.06(15.22)
40km 2.01.16(15.10)
2.195km(7.11)

2時間08分27秒 (日本歴代4位 世界歴代10位) 
気象条件にもよるが
強豪といわれる選手をつぶすのはハイペースのレース展開に
持ち込むのが一番だと思う。スタートからハイ・ペースで逃げれるのは
フランク・ショーター、ジュマ・イカンガー、S・ジョーンズか中山竹通。今ならゲブレシラシエも加わるか?
この猛烈なスピードに誰がついてこれるか、瀬古、黄、アベベ、ド・キャステラ、セロン等。
逃げる可能性が高いのが中山で最後までついてかわせる力があるのは瀬古のような気がする。
結論は難しいけれど自分のなかでは最強は中山竹通です。
現在のペース・メーカーがレースを作っているマラソンでは真の強さは
わかりにくいです。今の時代に中山、瀬古、アベベ選手らがいたら4分、5分台を
連発していてあるいはそれ以上の記録で走っているような気がします。

>>746
中山がいちばん強かったのは87年福岡ではあるが、
86年アジア大会でスタートからほぼ一人旅で2゚8'21"を出している。あの環境とモチベーションで出した
当時世界歴代6位に相当する優勝タイムは価値が高かったと思う。
今の日本人ランナーでは同じパフォーマンスはできないように思う。
そういう意味でも中山は「強い」ランナーだ。
748ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/28(土) 10:07:52
87年ボストンの瀬古。
あのメンバー相手に見事なまで完勝して世界に脅威を与えた。
中山は確かに“実力ナンバーワン”と思うが、
世界の舞台ではインパクトがなかった。(五輪、ボストン)
>>748
87年ボストンは当時の「世界一決定戦」だったからね。
賞金目当てならあれだけお互いが意識してスローペースにならないと思われる。
衛星中継が瀬古のトップを映した時は本当に「世界一は瀬古だなぁ」と思ったものだ。
750ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/28(土) 10:42:03
当時、アマ規定に鎖国的だった日本陸連は
瀬古がボストンで獲得した賞金とベンツをどうするかで
かなりアタマを悩ませていたな。
世界では出場料も当たり前となっていた時代に。
751ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/28(土) 12:17:40
陸上選手(高橋尚子)が、コメディアン(高城ブー)と
CMで共演するなんて、あの頃じゃ想像もつかなかったよ。
まあでも瀬古や中山が今の環境で育っていたら20台半ばで潰れてたと思うよ
753ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/28(土) 12:40:05
なるほどね。
確かにいまの環境が選手をダメにしてる面はあるな。
今の時代でも福岡、東京、ボストン、ロンドン、
シカゴで勝てる日本人選手が出てほしいよ。
資質は今の高校、大学生の方が上だと思いますが問題なのは
個々の選手のマラソンに対するとらえ方かも知れません。
10キロ、20キロと違ってマラソンはごまかしがききません。ゲブレシラシエですら失速します。
有望な選手が実業団に入ってまずやることが車を買うことでは話にもならない気がします。
飽食の時代にハングリー精神を持てと言う方が酷というものなのでしょう。
中山のように何としてもトップに立つんだという気持ちと生活のすべてをマラソンにかけるんだという
強い意志が最初にこないとき開花してゆくのは難しいでしょう。
756ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/28(土) 18:06:14
中山のようなすごい素質を持った選手が
誰の目にもとまらずに自力で這い上がってきた
というのがすごい話ですよね。
ダイエーの佐藤が声をかけたときは
ある程度できあがってきた頃だから。
宗茂も「中山くんの例は確かにすごいが、どれだけ可能性があったとしても
実業団の監督としては、5000m15分台の選手じゃ引っ張ってこれない」と言っていました。
北京国際といえば当時、スタート・ゴールの工人体育場にマラソン見る為だけで
6万人の観衆が集まったからな。体育場に現れた児玉なんて世界記録が出るかもしれない
というのでオリンピックの優勝者よりも物凄い歓声になった。
758ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/29(日) 10:25:03
>>755
実業団に入って個人種目の成績が悪くても駅伝のスペシャリストで陸上部をクビにならない昨今、
「駅伝は『刺身のツマ』でいいから身を削ってマラソンを目指せ!」って言っても中々難しいと思います
ましてや会社側(←陸上部ではない)だって個人が活躍するよりも駅伝で活躍してもらった方が宣伝になると思っているだろうし

多くの実業団で正式社員(ex.組合員での登用)ではなく、
年棒制の契約社員で採用されていることが多くなる中で、
同世代の正式社員と比較して明らかに手取りの給料が多いのに、
「ハングリーで競技しろ」と言っても難しいのではないか
高校駅伝や箱根駅伝で活躍した選手が、
学生時代ちょっと強かったくらいで覚悟もない(ように見える)で、
実業団に進む図がよくわからない

日本の長距離・マラソンが弱くなったのは>>755氏が書いた
「飽食の時代にハングリー精神を持てと言う方が酷」とのごとく、
必然のような気がします

759ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/29(日) 17:43:22
なんか微妙にずれている気がします。現状では20kmくらいまでや駅伝だと負け犬
根性を刷り込まれているというか、端から勝負を諦めているけど、マラソン、特に
耐久型の世界大会だと何とかなると頑張っている選手が多いのだと思います。

現実問題として20年ほど前までは10000の世界記録は白人が持っていて、記録水準
も日本記録からそれほどかけ離れていなかったけど、現在は日本記録と世界記録の
差が1分以上(同時レースをすれば周回遅れ)になる訳です。キモンバがアフリカ人
として10000で初めて世界新を出したときに鎌田が歴史的日本新をだしたのですが
そのとき差が18秒だったことを思えば隔世の感があります。その後、確かに日本の
レベル低下があったにせよ、やはり人種的な限界があり、どうにもならない壁がある
と思いませんか。箱根で20kmランナーを大量生産してどうするという論調はよくあり
ますが、彼らのレベルは話にならない位低い訳で、日本に留学している高校生に
苦もなくひねられる程度です。

マラソンに執念を燃やしている選手は今もいると思います。しかし都市型のマラソンで
はスピード不足から始まる前から勝負に負けています。それはペースメーカーの
設定タイムをクリアできるランナーが高岡くらいしかいないという現状を見れば
分かります。
>>759
アフリカ勢の記録が急激に伸びたのは、90年代を過ぎて急激に陸上をやる環境が整ったこともある。
特にエチオピアは内戦が終わり、一番国内で生きる為に有力な競技である長距離に選手が集まるようになった。
ケニアも似ているが、こちらはエチオピアより平均能力が高い選手が多い(ただしトップレベルはエチオピアに後れを取ってる)

しかしながらマラソンに勝つには絶対的な世界レベルのスピードがいるというならば、
ベケレやゲブレセラシエを始めとするケニア・エチオピア勢にマラソンで、
日本人の1流ランナーの目安とも言える28分台のランナーは、絶対勝てないという論理に行き着くはず。

ただ現実的には、ベルリンやシカゴの高速レースだからといって、
毎回4〜6分台の高速決着の上、その優勝者が全員10000のベストが26分台というわけでもない。
実際シカゴで好成績を挙げているジェンガはハーフで61分台、
10000のタイムにいたっては28分をわずかにきる程度。
にもかかわらず、マラソンで好成績を挙げるようになってからの安定感は高岡を上回るほど。

ただ上位のマラソンの記録の上位成績者見ると、大半は10000のベストで28分30秒はきっているのが目に付く。
日本のサブナインランナーの現役での例外はNTTの清水ぐらいで、ほとんどがこのタイムを切っている。
このタイムはある意味目安になりそうなのは否定できないところ。
761758:2006/10/29(日) 20:32:10
>>759
執念を燃やしているランナーがいることは認めます

ただ直近のアテネ五輪の代表(油谷、諏訪、国近)を見た場合、
高校駅伝や箱根駅伝の優勝、もしくは優勝候補のチームを経て実業団に入ったのではない、という事実がある

シドニー五輪にしても、川嶋は大学(日体大)、佐藤は高校・大学(中京高校→中央大)で優勝候補のチームを経由しているが、
川嶋の在学中は箱根熱が今ほど高いものでなかったし、
佐藤は高校自体が駅伝の学校ではなく(大昔は別だが...)、大学も「駅伝」でがんじがらめの学校ではなかった

今から20〜30年前の箱根駅伝での優勝校のエースは実業団に進んでも即日本の一線級で活躍し、
オリンピックの代表まで上り詰める選手が少なくなかった
それが今の箱根駅伝のOB諸君は、申し訳ないがそこまでのレベルにたどり着いているとは言いがたい
その上でひっそりと引退しているケースが非常に多い
そう考えると、>>755氏の言う

「中山のように何としてもトップに立つんだという気持ちと生活のすべてをマラソンにかけるんだという
 強い意志が最初にこないとき開花してゆくのは難しいでしょう。 」

という言葉が真理のように響くのですよ

あと都市型マラソンに対するスピード不足の件は、
「キロ3分00秒で押せば2時間6分35秒」という概念が欠如している
確かに後半の20kmが58分台とかトンでもないスピリットを刻むケースもあるが、
逆に言えば20kmまでは日本人でも着いていけそうなペースで進んでいる
しかし最初からお話にならないケースが多く散見される部分を見ても、
「昔はこんなんじゃなかったよね(=今のマラソン選手はどこまで人生削ってマラソンしているの?)」
という(見る側の)ジレンマを感じてしまうのですよ
762ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/29(日) 22:11:32
>>761 しかし今年のロンドンで尾方ですら最初から第2グループのペースメーカー
につくことを宣言していたよ。一流選手が集まるとキロ3分でのペース設定はない
です。シカゴはここのところ設定タイムが遅いようですが。
763758:2006/10/29(日) 22:28:24
>>762
でも20年前の瀬古、宗兄弟、伊藤、中山、谷口、新宅、あたりはついていけたのでは?
当時の二線級の扱いだった喜多、児玉(の両人を二線級にするのもどうだが...)、
工藤一良、西本一也、西政幸、仙内、小指あたりが今いたら尾方みたいな事を言うでしょう

やっぱりレベルも下がり、層も薄くなっているんですよ
スピードがないのなら韓国の黄や李鳳柱のような粘りを身上として磨くのも必要だろうな。
谷口や児玉、その前なら君原なんかもスピード不足を補うもの持って磨いていたよな。
765ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/30(月) 09:46:44
結局二兎を追う者は一兎を得ず、ということではないかな。アトランタやシドニー
は惨敗したけど、ここのところの世界選手権や五輪ではそこそこの成績を収めて
いる。一方でマラソン全盛期と思われる80年代でも(モスクワのボイコットはあった
にせよ)世界大会でメダルを取れず、むしろ下り坂の91,92年にようやく金、銀と
いう成績にたどり着いた。これは都市型スピードマラソンを犠牲にしても酷暑の世界
大会にどう対応すべきかという策が功を奏した結果だろう。勿論、90年代半ばからは
酷暑マラソンに過剰適応し、地力もなくなったからちょっとしたことで大敗するよう
になったけど、それでもアテネでテルガトが大敗したことから分かるようにスピード
マラソンの選手だけでは世界大会には勝てない。日本選手もスピードマラソンを指向
しても勝てるチャンスは少なく、更に世界大会対策に無駄が生まれることを考えると
都市型マラソンは捨てざるを得ないのではないか?
このスレッドはすごい。
最初のスレッドからここまでこれだけまともに陸上を語るとは。
記録掲載、大会講評、当時の時事、陸上の視点など非常にレベルが高くて心地よい。
インターネットの情報はこうであってほしい。
怪我が多いのは今の選手だけではなく、中山や瀬古も相当に苦しんだ。

瀬古の怪我の経緯は有名だが、天性のバネで走る中山もいつも怪我との戦いだった。
初優勝の84年福岡の前もあまり語られていないが大会6日前に怪我をしている。
ゆっくり走っているときに太腿を痛め、3日間練習が出来ず、ジョッグのみで本番に挑んだ。
佐藤監督自身も出場をあきらめかけたが、中山自身から出場を申し出た。
佐藤監督はちゃんと走れるなら2時間12分台なら十分いけると踏んでいたが、
10分00秒は予想をはるかに上回るタイムだったらしい。
中山も15分30秒ペースが幸いしたと述べている。太腿の故障上がりの脚を
馴染ませる距離が必要で、スローペースが幸いしたということだ。


また86年東京国際の前は不注意で柵を飛び越そうと思って捻挫。
また87年東京国際前もレース4日前のアキレス腱の故障、88年ボストン前の故障もあった。

いつの時代も故障はつきものでそれをはねのける精神的強さが昔のランナー
の方が強かったと思う。
768ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/30(月) 20:07:14
>>767
1986東京国際はなにせロペスが日本で初めて走るということで物凄い話題になりましたね。
あの頃ってロペスは五輪優勝&世界記録保持者。クロカンで強くなったということで日本の
指導者が皆、クロカン信望者になったほど。世界一のロペスの来日はロペス一色になっていた。
反骨精神の塊、中山は反発。昨日の英雄にのみこだわる世相に、反発しレースでは真っ向から
立ち向かってやろうという意気込みが感じられるインタビューを受けていた。

86年東京国際も面白いレースだったのを記憶しています。
1986年10月19日 第6回北京国際マラソン レース展開

午前9時30分スタート 気温8度 湿度83% 小雨 南風1m

(出場日本選手)伊藤国光、児玉泰介、西政幸、坪正之、岩永義次

スタートー アフリカ勢が集団を形成。2kmで一時デンマークのザカリアセンが
      トップの出る。

5km− 14分46秒のハイラップ イカンガー(タンザニア)、シャハンガ(タンザニア)
      デンシモ(エチオピア)、ネディ(エチオピア)、マイシバ(エチオピア)、
      ウォルデ(エチオピア)と全部アフリカ勢。
 
      児玉、伊藤ら日本勢は6秒遅れの第二集団。ジェフ・スミス(イギリス)、
      エリス(イギリス)の顔も見える。

9km− 集団からマイシバ、ウォルデが脱落

10km− 29分30秒 (14分44秒) 第二集団とは60m差がついている。

12km−急ピッチで追い上げたスミスに児玉、伊藤、西の日本勢が先頭集団に
     追いつく。余勢をかってスミスが先頭へ。

     集団はイカンガー、シャハンガ、ネディ、デンシモ、スミス、児玉、伊藤、西
     の8人に。

14km−無理がたたったかスミスが脱落。すぐにネディも後退していった。

16km− デンシモもこのハイペースについていけずに後退。集団は5人へ。

折り返しー イカンガー、シャハンガがペースアップし、あっという間に20m以上引き離す。
      ここで児玉、伊藤から西が脱落。
      児玉、伊藤の表情が苦しいものに変わる。
(続き)

25km−タンザニアの2人が同時に通過 1時間13分30秒。この間を14分57秒で
     通過し、依然15分を切るラップを刻んでいる。
     児玉、伊藤の差は20秒以上、距離のして100m以上ついてしまった。

この頃からハイペースの影響でイカンガー、シャハンガのペースが鈍り始める。

30km− 1時間29分08秒 (15分38秒) ついに15分台のラップに
      あきらかに疲労の為か足取りが重い。

32.5km−児玉、伊藤が2人に追いつく。同時にシャハンガがみるみるうちに後退。

       そして児玉も5、10mと徐々に遅れだした。

33−35km− 伊藤とイカンガーのデットヒートを展開。
         35kmの通過は 1.44.50 この間は15分42秒  
         世界最高ロペスを24秒上回り、世界最高記録の期待がかかる。
         児玉は8秒遅れ。

37.2km−徐々にペースを戻してきた児玉が前の二人に追いつく。
       ちょうどイカンガー、伊藤の足取りが鈍り始め100mほど3人に併走が
       続きたがイカンガー、そして伊藤が脱落。
       建国門外大通りで出る下り坂で児玉は一気にスパート。

39km− 一旦、イカンガーに追いつかれた伊藤だが振り切って2位を確保。

40km− 2.01.09(この間を16分19秒) 世界最高から25秒遅れに。
      しかし日本人初の2時間7分台は十分に出せる状況に。

6万人収容の工人体育場に児玉が姿を現す。トラック1周の間、6−7回手を挙げ
観衆に応える。場内はそのたびに大歓声となる。

ゴール 2時間07分35秒。  日本最高記録 世界歴代3位で児玉自身2度目の  
                優勝。 伊藤国光も中山の持つ日本最高を破り7分台。
1986年 第6回北京国際マラソン  成績

1、2時間07分35秒 児玉泰介(日本) 日本最高 世界歴代3位
2、2時間07分57秒 伊藤国光(日本) 日本最高 世界歴代5位
3、2時間08分39秒 イカンガー(タンザニア)
4、2時間09分37秒 シャハンガ(タンザニア)
5、2時間10分39秒 G・スミス(イギリス)
6、2時間11分10秒 西政幸(日本)
7、2時間13分15秒 ウォルデ(エチオピア)
8、2時間13分15秒 朱樹春(中国)
9、2時間13分21秒 エリス(イギリス)
10、2時間13分27秒 坪正之(日本)


 
優勝 児玉泰介(日本) ラップタイム (後日修正版)

5km 14.52
10km 29.37(14.45)
15km 44.22(14.45)
20km 58.53(14.37)
25km 1.13.51(14.58)
30km 1.29.24(15.33)
35km 1.44.58(15.34)
40km 2.01.09(16.11)
2.195km(6.24)

2時間07分35秒 86年度世界ランキング1位 世界歴代3位
772ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/30(月) 22:51:01
たしか修正前は、
どこかで14分10秒台があったような。
「絶対距離おかしいよ!」て思った。
773ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/30(月) 22:56:46
40kmって2.00.31ぐらいに修正されなかったけ?
その40kmの2.01.09って40.195kmのラップじゃない?
でないと編だよ。
774ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/30(月) 23:04:13
ラスト0624って異常に速過ぎない?
当時の北京国際は結論からいくと国際陸連が権威をもって計測しているのでコースの全長は
1000分の1以下の公差になっているので全体はちゃんと42.195kmある。
しかし当時の中国陸連の途中計測は不手際が多く、正式には20km通過はイカンガー58分34秒、
児玉が58分35秒になっている。
これは標識がずれていて、児玉を例にとると14分13秒で通過したことになっている。特に40kmの
標識もゴール寄りになっている。

この時、10位に入った坪のラップは酷く、5kmから毎15分21秒-14分27秒-15分59秒-15分01秒の
経緯で20kmを60分48秒で通過している。
なにせ集団で通過地点を過ぎても公式では全部の選手に1秒づつの差をつけ、
同タイムの通過記録がないものになっているのには驚いた。
ともかく北京は審判役員の不手際が毎年ながらのことで、それによって距離疑惑が浮上してくる。

当時の週刊誌によると、この児玉、伊藤の快挙に渋い顔をしているのは
日本陸連だと言っている。
なぜならソウル五輪は瀬古、中山、宗兄弟の中から代表選考会抜きで選ぶ腹づもりだった。
ところがその彼等の上を行く記録を出してしまった。また谷口、新宅などの若手も育っている。
下手をすれば大事なスターが代表から漏れることにもなり、路線変更も大わらわ。
などと面白ろおかしく書かれている。今では贅沢な悩みが陸連にあったということかな。
777ゼッケン774さん@ラストコール:2006/10/31(火) 18:45:32
・・・で、まったくノーマークの工藤一良が
日本人3位になっちゃったから大変なことになったんだよ。
あれ、日本人4位の谷口浩美が3位になってたら
中山、新宅、谷口で決めてたのかな〜。
個人的には新宅の2位てのも困りものだった感じがする。
といいますか、東京で工藤を上回るタイムで日本人1位だった仙内が
完全スルーだったのが可愛そうだった。
779ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/02(木) 07:08:57
仙内って、いつも20キロまではトップ集団にいたなあ。
まだ、中山が全国区になるまえ、郡山30kmロードレースで
仙内と二人で、1,2フィニッシュしたのが懐かしい。
私が、中山、仙内の存在を知ったレースです。
当時のダイエーでは泉が入部までの実績ナンバーワンだったけど、
マラソンではいまいちだったな。
1986年2月9日 ‘86東京国際マラソン  レース展開

12時10分 スタート  気温7.8度 湿度47% 西南西1.5m

出場選手ベストタイム

1、2時間07分12秒 ロペス(ポルトガル)
2、2時間08分15秒 中山竹通(ダイエー)
3、2時間08分55秒 イカンガー(タンザニア)
4、2時間09分03秒 ハイルマン(東ドイツ)
5、2時間09分05秒 メコネン(エチオピア)
6、2時間09分14秒 ペーター(東ドイツ)
7、2時間10分01秒 谷口浩美(旭化成)
8、2時間10分03秒 バルチャ(エチオピア)


スタートー 福山長安(東京都庁)を先頭で競技場を出る。
      ペースが遅く、40人の大集団に。ロペスが前に出てくる。

5km− 中山を先頭に15分34秒。
     「前半からペースを上げていかないと、後半落ちるだけに記録が出ない」
     と第三中継者のゲスト・宗茂

6km− 初マラソン(当時の認識では)のデンシモ(エチオピア)が前に出てくる。
     集団を10mリード。 ペーター、ベーゲマン(ベルギー)が集団の最後方。

10km− 30分17秒(14分43秒) デンシモの快ピッチで後方集団を120m
     リードしている。
     後方集団にはロペス、中山、イカンガー、ブラ(タンザニア)、ヌジェニ(ケニア)
     メコネン、ハイルマン、バルチャ、谷口、島村雅浩(マツダ)、笠間三四郎(日大)
     林清司(ダイエー)、引間金夫(新日鉄)、松本正、阿部文明(ともに日本電気HE)

「ロペスは異常に汗をかいている」
「今日は午前三時に起床。少し神経質になっているかもしれない」と解説・高橋進と実況の舛方アナ。

12km− コンツァック(東ドイツ)が棄権。

15km− 45分24秒 この間は15分07秒。デンシモがトップ。
      
      初マラソンのためか、給水のドリンクが探せず、立ち止まる。
      その間に後続集団とは60m差に。

「デンシモはいずれ後退するでしょう」 と高橋

18km− イカンガーが急ピッチでデンシモを追いかける。集団は縦長に。
      ロペスが後方に下がる。

19km− ロペスが立ち止まる。そのまま棄権。

「5kmから給水しているようでは体調が悪かったということでしょう」高橋

20km− 1時間00分42秒 (15分18秒) デンシモは20mリード。


直後の平和島口折り返し地点で 集団がデンシモに追いつく。
中山を先頭に、デンシモ、イカンガー、メコネン、バルチャ、ブラの6人。
(続き)

中間点 1時間03分59秒 後方に置いていかれていたハイルマンが集団に
              追いつく。谷口浩美は集団の20m後方で追走。

23km− デンシモが再度、前に出てくる。10mリード。
      ここでハイルマンが脱落。

25km− 1時間15分23秒 この間をハイラップ14分41秒に

      デンシモが再度吸収され、イカンガーが先頭。バルチャが後退。

「このまま行くと2時間07分台の可能性がある」と高橋。

30km− 再々度、デンシモが前に出て10mリードで通過。1時間30分20秒
      依然14分57秒と15分を割るペースを維持。

      後方ではハイルマンがバルチャを交わして6位に浮上。

30.5km− メコネンがスパート。 集団が縦長に。 中山が後方で苦しい感じに。
                   「ストライドが縮んできた」と宗茂
        メコネンは30mリードに。

32km− 後方集団からブラが脱落。 イカンガー、中山、デンシモの3人。
                   メコネンが50mリードに。

33km− ついに前半頑張ったデンシモが脱落。

35km− 1時間45分29秒 (15分09秒)
      
      「記録が楽しみ、このままうまく坂を抜ければ世界最高が出ます」と高橋。

35.8km− イカンガー、中山がメコネンに追いつく。
        デンシモはすでに80m後方に後退している。

37km− 今度はメコネンが後退。イカンガー、中山のデットヒートに

37.4km− イカンガーがスパート。 中山が苦しい表情。20mの差がつく。

38km− メコネンが中山に追いつく。しかしメコネンは追いついた直後、足が止まり
      ペースダウン。中山再リードで2位に再浮上。

      イカンガー、中山、メコネンと等間隔20m差に。
(続き)

38.6km− 中山がイカンガーに追いつく。 2人の優勝争いに。

 「面白いレース展開! まだイカンガーが主導権を握っている。」宗茂。
 「中山優位では。。 4:6で中山の優勝の可能性大」と高橋

39km− イカンガー再スパート。 アッという間に30m差。
      中山の表情がかなり苦しい。

40km− 2時間01分20秒 この間を15分51秒 も要した。

「2時間7分台が実現できるか」高橋    中山は80m後方に下がる。

40.6km− 一度後退したデンシモが再浮上。メコネンに追いつき2人で
        中山に接近。まずメコネンが中山を捕らえ2位に浮上。
        そしてデンシモも中山を抜き、中山一気に4位へ下がる。

40.8km−メコネン、デンシモの2位争い。中山は20m後方。



2時間6分39秒ー イカンガーが国立競技場に帰ってくる。
      
 すぐ後に、メコネンを振り切ったデンシモが2位で競技場へ。
 中山はメコネンから30m差。

ゴールー イカンガーが2時間08分10秒 で東京国際2度目の優勝。
     優勝タイムは世界歴代5位に入るコースレコードだった。

     そして初マラソン・デンシモが脅威の粘りで初マラソン世界最高記録の
     世界歴代8位で2位。  3位のメコネンの自己最高記録。

     4位の中山は5日前の捻挫の影響か、ゴール後足を引きずった苦しい表情。
     2時間08分43秒は自身2度目の8分台。
1986年 東京国際マラソン 成績

1、2時間08分10秒 イカンガー(タンザニア) 世界歴代5位
2、2時間08分29秒 デンシモ(エチオピア)  世界歴代8位
3、2時間08分39秒 メコネン(エチオピア)  世界歴代12位
4、2時間08分43秒 中山竹通(ダイエー)
5、2時間10分27秒 ハイルマン(東ドイツ)
6、2時間11分27秒 ブラ(タンザニア)
7、2時間11分42秒 谷口浩美(旭化成)
8、2時間12分48秒 林清司(ダイエー)
9、2時間13分32秒 宗像寛(新日鉄八幡)
10、2時間13分38秒 デラパルテ(スペイン)

11、2時間14分11秒 バルチャ(エチオピア)
12、2時間14分14秒 ベーゲマン(ベルギー)
13、2時間15分37秒 阿部文明(日本電気HE)
14、2時間16分05秒 ペーター(東ドイツ)
15、2時間16分10秒 フーパー(アイルランド)
16、2時間16分16秒 佐藤信春(日本電気)
17、2時間16分53秒 島村雅浩(マツダ)
18、2時間17分08秒 トロニエル(東ドイツ)
19、2時間17分55秒 ラフランキ(スイス)
20、2時間19分20秒 三橋一文(千葉陸協)
1986年 東京国際マラソン 優勝 イカンガー(タンザニア) ラップタイム

5km 15.36
10km 30.37(15.01)
15km 45.39(15.02)
20km 1.00.44(15.05)

中間点 1.04.00

25km 1.15.24(14.40)
30km 1.30.21(14.57)
35km 1.45.34(15.13)
40km 2.01.21(15.47)
2.195km(6.49)

2時間08分10秒 当時世界歴代5位  86年度世界ランク5位



同 4位 中山竹通(ダイエー)  ラップタイム

5km 15.36
10km 30.37(15.01)
15km 45.41(15.04)
20km 1.00.44(15.03)

中間点 1.04.00

25km 1.15.24(14.40)
30km 1.30.21(14.57)
35km 1.45.34(15.13)
40km 2.01.29(15.55)
2.195km(7.14)

2時間08分43秒  (当時・日本歴代3位相当)
1986年2月まで 男子マラソン 世界歴代15傑

1、2時間07分12秒 ロペス(ポルトガル)   1985年
2、2時間07分13秒 S・ジョーンズ(イギリス)1985年
3、2時間08分08秒 ジャマ(ジブチ)     1985年
4、2時間08分09秒 サラ(ジブチ)      1985年
5、2時間08分10秒 イカンガー(タンザニア) 1986年
6、2時間08分15秒 中山竹通(日本)     1985年
7、2時間08分18秒 ド・キャステラ(オーストラリア) 1981年
8、2時間08分29秒 デンシモ(エチオピア)  1986年
9、2時間08分33秒 スペディング(イギリス) 1985年
10、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア)  1969年

11、2時間08分38秒 瀬古利彦(日本)     1983年
12、2時間08分39秒 メコネン(エチオピア)  1986年
13、2時間08分51秒 サラザール(アメリカ)  1982年
14、2時間08分53秒 ベアーズレー(アメリカ) 1982年
15、2時間08分55秒 宗猛(日本)       1983年
788ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/02(木) 22:08:59
>>782-786
このレースで事実上、ロペスは引退だったですね。
その後も走るのではといっていたけど結局走らずじまい。
日本に信頼する鍼灸師がいて、モントリオール五輪前に
致命的な怪我をしながらその鍼治療でカムバック。
モントリオールでの1万銀メダル獲得ができたと言っていた。
その意味でも一度、日本で最後に優秀の美を飾りたかったんだ
ろうけど、調整不足は明らかだったもんなぁ。
ロスの時の軽やかさがまったくなかったのを覚えているよ。
懐かしいレースですね。
789ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/02(木) 23:12:57
>>782-786

このレースで中山は、出たり入ったり無駄の多い動きで、終盤に離されるという
レース運びのまずさを露呈し、ソウルへの不安を感じさせた。本番では、また無駄
な動きが多く、終盤においていかれ、その不安が的中した格好になった。
790ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/02(木) 23:26:53
仙内って東京国際で中山と一緒に集団で走ってたときに
中山に世間話を話しかけられててカワイソウだったイメージしかないな。
791ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 01:25:38
>>789
それは翌年の東京国際ではないかな。
試合前からやる気がなさそうだったし、レース中は落ち着きがなく
前に行ったり後ろに下がったり、仙内とおしゃべりをして
給水は上に高く放り投げる。そして最大のチョンボは谷口に引き離された後、
コースを間違えて直進を左折したことだろう。
86年はしっかり走っていたと思うけど、87年は
ひどい走りをして
谷口に負けた印象しかないな。
85年の広島ワールド・カップの走りを見たときは本当に衝撃的でした。
とてつもない、これまでの日本人にはなかったダイナミックな走りにいっぺんに
引き込まれたたものでした。
きっとあの頃の中山はまだ無心でマラソンに打ち込んでいたように思えます。
あの時の日本最高で中山は変わってしまった気がします。
86、87年東京マラソンの中山はごう慢な感じがしたし見ていてとても残念でした。
793ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 08:18:40
あのごう慢さが逆に新鮮でした。
日本にもこういう選手が出てきたか!と思いました。
中山の傲慢さは今の亀田のようなものとは大きく違ったよな。
本当にパフォーマンスではない、そして今ではあまり考えられない環境に育ってきたハングリーさがあった。
そこに高校からエリートで日本の頂点を極めた瀬古がいてその瀬古他、エリートに対する反骨精神が異常に強かった。
このコントラストが80年代マラソン黄金時代を形成した。
できたら瀬古、中山のピークが一致していたらと思うと想像を駆り立てる。
しかしお互いピークがずれていたからこそ、日本は長く世界をリードできた一国
だったのだろうとも思う。
>>794
瀬古がいたから宗兄弟がひっぱられ、伊藤、喜多が頑張り、
中山がいたから谷口がひっぱられ感じがしますね。
核がいると相乗効果が得られた時代だったと思う。
796ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 10:56:45
そうですね。中山はメディアにつくりあげられたヒーローとは違ったな。
思ってることを素直に言うというか、まあ、あれだけ強かったから
中山の言うことに共感したんだけど。
797ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 12:07:13
>>791 翌年は論外の走りだったけど86年もかなりひどかったよ。
>>797
怪我してて安定感のない走りをしながらの8分台に驚異すら感じるという
新聞の論評を読んだな。ダイエー所属ということで大会選択と
コースコンディションに恵まれたら6分台のポテンシャルを秘めていた。
特に85-87年あたりかな。
799ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 14:06:32
中山のアジア大会記録、2゚8'21" は何十年と破られない気がするよ。
800ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 15:33:45
マラソンに初参加するまでの渡辺康幸はほんと最強だったと思うんだけどなぁ。
801ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 17:20:54
そんなことないよ。
箱根2区の区間記録だって瀬古のときとは距離が違うから。

ここに名前があがってくる選手はシニアで世界と戦ったひとばかりだよ。
瀬古の早稲田大学時代の強さを見ていたら、
渡辺は実績でかなり劣る感じだな。
80年代は渡辺クラスで走れたランナーは何人かいたからなぁ。
803ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 19:33:43
申し訳ないが、渡辺なんて箱根のメディアが騒ぎすぎただけでとても最強とは思えん。
高校陸上界とか、学生陸上界とか、狭いエリアでの最強選手だな。
世界ジュニアの銅メダルだって、金のゲブレからは大差だし。
804ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 20:32:43
渡辺が銅をとれたのは、ゴール前のゲブのスパートで抜かれてキレた奴が、
ゲブの頭を殴って失格になったから。
805ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 20:46:41
藤田は福岡を優勝したまでは良かったのにな。
あの福岡の勝ち方は見事だった。
久しぶりに世界と互角に戦える選手が出たと思ったな。
君原や宇佐美の実績と記録を瀬古や中山と比べるのなら議論になるだろうが、
森下以降の90年代〜 ランナーは実績も記録の価値も評価対象には厳しい
だろうと思う。高岡以外、あまりに活躍(ピーク期)の期間が短かすぎる。
807ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 21:16:53
>>791
そのレースではないと思うけど
給水ボトルを放り投げたらアーメドサラーに直撃して
転倒、かなりの批判を受けた(本人は優勝)。
記憶が正しければ
次のレースで全く給水をせずに走りきって優勝したと思う。
インタビューで「調子が良いので給水の必要がなかった」
と、さらりと言っていたが
中山はやはり怪物ですね。
808ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 21:22:10
>>807
次レースが あの87福岡国際。
中山は一度も給水を取らなかった。


サラの転倒は記憶に残っている。中山の取った給水ボトルと
云われてましたよね。
809ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 21:36:34
瀬古と中山の決定的な違いは、
「国民のために勝ち続けなければならない」という滅私主義と、
「自分のプライドを保つ為に強いレースをしなければならない」という利己主義の違いではないか

「日本」と言う国のメディアでどちらが受けるか、と言えば、
学閥早稲田出身(=つまり圧倒的に多い、早稲田出身の記者にとって後輩である)であることも相まって、
世論誘導的に瀬古になるのは明らか

しかし滅私奉公を是とする日本においてのアンチテーゼとして、
個人主義的な発想が浸透し始めた80年代に、
言っていることは世論と正反対ながらも、
個々人にとって「個人主義」を目覚めさせる発言を続けた中山が、
世論に反する形でヒーローになったのは自然にように思える

翻って、中山は「(早稲田出身で陸連に優遇され続けた)瀬古」がいなかったら
あそこまで「アンチヒーロー」になるような発言はしなかったのではないかねぇ
810ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 21:59:11
すごく強いヤツ(中山)が言ったから、世論が動くくらいかっこついたんだよね。
並の一流選手が言ったら、メディアと陸連のバッシングで消されてたと思う。
松野明美の“私を選んでください”会見なんて、観てるこっちの方が痛く思えた。
811ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 22:03:22
あれは、誰もとめられなかったのかね(笑)
812809:2006/11/03(金) 22:06:29
>>810 
松野のメンタリティと中山のメンタリティを同列に扱うのは中山に失礼

引退後の振る舞いを見ても分かりそうでしょ

片やタレント崩れで「陸上の仕事はしない!」と宣言しながら、
陸上以外の仕事が無くて、陸上界に舞い戻ってきた

片や決して表に出てこず、高校の指導者からステップアップしていまや実業団の監督
指導者の実績云々はおいといても、
「目立つべきは選手、指導者は目立つべきではない」と引いた振る舞いが、
非常に中山らしいと思いたくなる
片や、解説と称して、爆笑トーク連発の瀬(ry・・・
814ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 22:28:11
そんな天才・中山に素質、体型で敵わない中で工夫と粘りで太刀打ちしたのが谷口浩美。
なにせ今だひとりしかなし得ていない世界選手権優勝者。
暑さに強く、登り下りの難コースになればなるほど力を発揮。
サブテンは3回だが、瀬古、中山をも上回る自己記録を所持している。
この谷口の存在もマラソン日本・全盛期の最後を飾る名ランナーだといえる。
815ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/03(金) 22:33:23
谷口といえば、「こけちゃいました」で
フェアプレイ大賞なんてもらっていたが、
往年の谷口の走りを知っている人間からすれば
どこがフェアプレイなんじゃ???という感じ。
蛇行、肘打ち、まさに勝つことへの執念に満ちた走りで
フェアプレイなんてかけらも感じなかったよ。
谷口といえば初マラソンの85年別大毎日で先行するベルギーのバンデルベネットに
追い付き、西村を振り切って初優勝したのが印象深い。この時の優勝タイム2゚13'16"は当時の
初マラソン日本最高記録(小沢欽一 2゚13'10")に迫るものだった。
実況の石井アナが仕切りに初マラソン日本最高のタイムと比較してた。


そして同年暮れの福岡国際では日体大の先輩・新宅を追って粘りを見せ、
2゚10'01"の日本歴代8位で2位。ここで日本の一線に躍り出た感があった。
817ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 01:51:32
谷口が世界陸上勝った時は嬉しかったなぁ。
ようやく世界大会で念願の金だったからねぇ。
瀬古、宗、中山とことごとく散ってのようやくの悲願だったから。
818ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 02:28:33
>>817
「スピードのない自分が勝つには35kmを過ぎてからの登り坂で勝負するしかなかった」
と言っていたのが印象的ですね

マラソンはそういった勝負処が一つや二つは必ずある
つまり長距離に適した東アフリカ系の選手に勝てる要素が日本人にもあることを示しているんだから

そういった着眼点が今の日本の選手や指導者に希薄なような気がする
特に油谷はアテネ五輪のコースでこそその真価を発揮すると思っていただけに残念です
819ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 10:21:18
瀬古で印象的なのは「パンチでデート」のエピソード。
早大時代、当時の人気番組の「パンチでデート」の話題で部員は
盛り上がっていたが、22:00に就寝する瀬古は22:00開始の
この番組を見る事がないため、一人蚊帳の外だったらしい。

後は伊藤国光が言っていたのだが、海外のレースに行った時の
食事の際に中村監督が瀬古に対して「全部食べたらだめだぞ」
と言っているのを聞いて、「そこまでするのか」と驚いたらしい。

いずれにしても、他人にまねのできない修行僧のような自己管理
の上に成り立つランナーという意味では類を見ないと思う。

89年東京だったか?
天皇崩御で開催が1ケ月遅れての開催だったが、
谷口が中盤から独走して優勝。危なげなくもっとも安心してみていられた
レースだった。記録は9分34かな。
後半、競り合う相手がいたら8分台では行けた内容だったと思うよ。
>>819
名白楽・中村清監督の存在が大きかった。
あの徹底した陸上に捧げる情熱と宗教をも取り入れた精神性主義。
瀬古だからついて行け、新宅、中村は日体大をも除名されても中村の門を叩き、
ワキウリはアメリカで発売された中村清に関する「禅とマラソン」の精神性に感化して
わざわざ中村に弟子にして欲しいと日本まで手紙を書いた。

今のランナーでついていける者はいないだろう。
当時の中村監督の存在はでかかったな。
凋落早稲田を奇人-中村しか立て直せないということで 早稲田監督に再就任。
ちょうど瀬古と運命的な出会いを果たし、二人三脚で世界を目指す か。
こんな2人にとって箱根駅伝の走りは調整以下の存在だっただろうに。

それでいながら最終的には早稲田30年ぶりの優勝も果たしたからな。
823ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 13:18:44
>>821 当時のエスビーは集まるして集まったメンバー
でしたね。スポーツ刈りで統一されて、国内なんて眼中なく世界を
目指している雰囲気がありありと感じて取れました。

中村監督が急死後はやはりエスビーの神通力を失ったように見えました。
耐久レースなら谷口は確かに力があると思う。
願わくばロサンゼルス、ソウル五輪に出場してほしかった。両大会ともメダルは確定していたはずだ。
めぐりあわせが悪かったと言うしかない。
ただバルセロナでのマスコミの谷口の評価は間違っている気がする。
あの位のロスタイムなら本当の強さがあれば勝っていてもおかしくなかった。
ショーターなどは途中で用をたしても独走してしまうんだし、あの転倒を美談として報道するのもどうかと思う。
それと世界選手権とオリンピックは全く違うものとして捉えた方がいいと思います。
谷口は87年の福岡で気負って中山に勝負を挑みすぎたと思うよ。
日本人3位は厳しい状態だったから、しっかり2位確保を踏まえた
走りをすれば新宅の上を行っただろう。見ていてあの驚異のハイペース
に剥きについていった。果敢な挑戦といえば聞こえがいいが
低気温で雨模様は谷口がもっとも苦手とするものだけに残念だったよ。
826ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 21:09:00
>>824 おいおいロスは初マラソン前だぞ。確かに谷口は転倒のロスを取り替えそう
として追い上げた後息切れして後続に抜かれていた。しかし転倒で緊張の糸が
切れたという点では同情の余地はあったろう。そもそも故障でゴールラインに立て
ただけでも御の字だった。
827ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 21:28:28
谷口って、日体大が箱根で優勝したときの6区(山くだり)でしたっけ?
たしか2区が大塚正美で、このときは大東大に米重がいたような?
>>826
靴探して靴紐結びなおすなどして30〜40秒くらいロスしてたからね。
それで最終的に1分ちょっとの差だったからなぁ。

ただ、本人はコケてもこの差だったことにむしろまだまだ選手としていけると思ったと
と語っている(著書 雑草のごとく より)
829ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 22:38:59
>>827 そうです。米重は一年下ですが、大塚と激闘を演じました。そのときは
日体大大塚が2位で襷を受けてものすごい勢いで追い上げた米重(5km14分くらい)
にすぐ追いつかれずっと併走。(ちなみに1区1位の東洋大はあっという間に
両校に抜かれました。1区と3区で区間新を出しましたが2区で6位まで落ちて
います)。終盤に息切れした米重を尻目に快調に大塚は権田坂を駆け抜け区間新。
この記録が渡辺に破られるまで長く残りました。

谷口は6区で2年連続区間新(57'47")を出したものの、日体大では3番目の選手
でした。このスレで出ているように旭化成は5区で区間新を出した岡をスカウト
したことはよく知られています。
830ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/04(土) 22:48:22
>>829
いや〜、詳しいですね。
まだこの頃、陸上競技マガジンを買い始めたばかりで記憶もおぼろげでした。
陸マガのグラビアで大きく“山くだりの谷口”がとりあげられていたのですが、
なぜかその写真はのぼりのシーンでした。(スタートしてすぐぐらいの写真だったのかな)
それと2区のカラーグラビアは、大塚と米重の併走シーンだったような気がします。
当時、日体大健志台グランドのある青葉台の方に住んでいましたが、
日体大が優勝した夜は駅で応援団が深夜までエッサッサをやっていました。
警官も呆然と見てましたよ。
箱根で遠藤司や坂口泰が独走して走っている後ろで
伴走車の中で中村清が早稲田の校歌を大熱唱していたのが記憶に
鮮明に残ってるよ。あんなこと出来るのは中村さんだけだ。
選手は勇気がでたらしいからね。
832ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/05(日) 01:33:31
>>831
本で読んだ話だから間違っていたら申し訳ないが、
中村清さんが「都の西北」をジープで歌うのは、
卒業後は競技を続けない4年生だけだ、と書いてあったが

「これで陸上競技は最後」の餞だったそうだが....
833ゼッケン774さん@ラストコール :2006/11/05(日) 01:48:18
偶然通りかかった者です。
>>829 翌翌年のNHKラジオにゲスト出演した米重選手は
    「大塚選手に追いついた時に新品の靴下が靴底で
     よじれてしまってマメが出来、大塚さんのスパート
     にも付いていけなかった」と言ってました。

     あの時の米重選手の解説は爽やかで面白かったです。
     今もあの時の録音テープが有りますが、何度も聞いてました。
SB食品に渡辺康幸が入ってきた時、当時のコーチだった中村孝生だったと思うけど
渡辺は中山ほど練習しなくても、もっともっと強くなれると言ったんだ。
こんな指導者がいたのでは先がおもいやられるなって感じたもんだよ。
世界選手権とオリンピックが違うように、駅伝とマラソンも全くものなんだよ。
特に最近は選手が育ってこないからなおさらそう思う。
835ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/05(日) 12:40:39
中村孝生はそんなこと言ってたのか。
なるほど、本人がマラソンで成功しなかったのもうなづける。
1986年10月5日  第10回 ソウル・アジア大会 男子マラソン レース展開

アジア最高記録 2時間08分15秒
大会最高記録  2時間15分29秒7

参加選手 
中山竹通(日本)、谷口浩美(日本)、柳在聖(韓国)、鄭晩和(韓国)
シレガル(インドネシア)、マナンドハル(ネパール)、パンディド(ネパール)
アルカフタニ(サウジアラビア)、アルガシュミ(北イエメン)

6カ国9人  気象情報 気温15.3度 湿度82% 風 北東1m

午前9時 スタート。(ソウルオリンピックスタジアム)

スタートして100mで中山が早くも先頭に立つ。谷口が中山の背後に
ピッタリとつきマークする。
ペースが上がり、9人が縦長一列になる。

スタート1分で中山がどんどんペースを上げ、2人が後続を20mリード。

3分30秒ーゲートを抜けて2人がスタジアムを後に。すでに後続とは100mの差。
      中山が終始先頭でリードする。

「韓国勢と日本勢の差は4分以上。すでにこのリードは仕方がないでしょう」と
実況の島村アナウンサー。

1.8km− 谷口が中山から10m下がる。小気味よいピッチで中山が飛ばしている。

4km− 谷口と中山の差は50mに。

5km− (14分49秒) 谷口は15分ジャスト。

     3位争いは柳、鄭の韓国勢二人。
     「この年(86年)東亜マラソン1,2位の二人である。」と島村。

「中山は7回目のフルマラソン。昨年(85年)ソウル国際マラソンで優勝した
時、20kmを59分03秒で飛ばした。そのソウル国際のコースとは若干違う」と実況。

「中山はレースコンディションが整えば、もう7分台で走れますね」解説の広島日出国。

10km− 29分35秒(この間は14分46秒)
   
      中山は天性のバネを生かして気持ちよさそうに飛ばしている。
      「中山のフォームを見ながら一緒に走るランナーはいやになる
       でしょうね。」と広島。

漢江沿いに出てくる。

15km− 44分34秒 (14分59秒)

韓国勢とはすでに3分の差がついている。
 「世界最高を上回るペース。 問題は20km過ぎの走り」と実況。





(続き)

20km−25km と15分台にラップが落ちるが中山は安定した走り。

30km−1時間30分17秒 (15分16秒)

     後続・谷口との差は1分10秒に。
     韓国勢とは6分以上の大差になっている。

沿道の観衆が多く、2重の人垣ができている。

韓国勢の3位争いから柳が抜け出し、スパート。鄭との差が開く。

「ユー・ジュ・ソン(柳在聖)は2時間14分06秒の韓国記録保持者。
 今年の東亜マラソンで優勝した実績がある」と実況。

35km− 1時間45分46秒 この間は15分29秒
     
      依然、日本最高記録のラップを上回っている。
      谷口は1時間47分25秒で通過。2時間10分01秒の自己記録と
      同じようなペースで走っている。

「中山はだいぶ汗をかいている。気温が19度に。しかしフォームはリラックスし、
ストライドを伸ばした良い走りが続いている。」と島村。

谷口に関して 「ピッチはあるが、歩幅が狭くなっている。」広島日出国

40km− 2時間01分27秒 (15分41秒) 
      日本最高のラップに3秒遅れ。

「1,2秒マイナスの通過でしょう。これからですね。W杯のときは競う相手が
いましたからね」広島日出国

中山の表情は苦しい。バネがなくなってストライドが狭くなっている。

2時間7分10秒ー オリンピックスタジアムに中山が帰ってくる。

「果たしてどうか! 日本最高のチャンスはまだある」 スタジアム実況山田アナ

「8分になって第4コーナー。果たしてどうか! あと80m。
2時間8分12,13,14,15 ウーム ちょっと無理! 無理
しかしあと20m。 中山ゴールイン。 中山金メダル。」


2時間8分21秒で今大会、陸上10個目の金メダルとなった。

中山がゴール後、スタジアム入りした谷口は、自己ベストに少し届かないものの、
2位の銀メダルを獲得。日本勢のワンツーフィニッシュとなった。
第10回 ソウル・アジア大会 男子マラソン成績

1、2時間08分21秒 中山竹通(日本) 大会新記録
2、2時間10分08秒 谷口浩美(日本) 大会新記録
3、2時間16分55秒 柳在聖(韓国)
4、2時間18分47秒 鄭晩和(韓国)
5、2時間26分07秒 マナンドハル(ネパール)
6、2時間28分00秒 アルカフタニ(サウジアラビア)
7、2時間34分28秒 パンディト(ネパール)
8、2時間35分37秒 シレガル(インドネシア)
9、3時間14分16秒 アルガシュミ(北イエメン)



同大会  優勝 中山竹通  ラップタイム

5km 14.49
10km 29.35(14.46)
15km 44.34(14.59)
20km 59.42(15.08)
25km 1.15.01(15.19)
30km 1.30.17(15.16)
35km 1.45.46(15.29)
40km 2.01.27(15.41)
2.195km (6.54)

2時間08分21秒 (当時・日本歴代2位相当)



同大会 2位  谷口浩美 ラップタイム

5km 15.00
10km 29.55(14.55)
15km 45.03(15.08)
20km 1.00.16(15.13)
25km 1.15.49(15.36)
30km 1.31.29(15.40)
35km 1.47.25(15.56)
40km 2.03.23(15.58)
2.195km (6.45)

2時間10分08秒 (86年度 日本ランキング 5位)
昔は世界最高や日本最高がでるかもしれない
というレースが数多くあって面白かった。
840ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/06(月) 20:59:19
ブレイク前の中山であまり語られていないのが1984年ソウル国際だろう。
中山にとって2回目のマラソンになったがこの時、期待をかけられたのが
別大で活躍した西村義弘(新日鉄大分)。中山、仙内のダイエーコンビで参加。

このレースのタイムは現在でも参考記録になっている。スタート後、3km地点で
先導車が公式コースをはずれ、2kmに渡って誤ったコースを誘導。
5km地点でようやく正式コースに合流したため。

レースは15分47秒ー15分41秒ー15分41秒と15分40秒台のイーブンペース。
中山は先頭集団。15−20kmは16分00秒。
トップ集団は11人に。西村、中山は集団にいるが仙内はすでに脱落。
20kmを過ぎると集団はバラバラに、2年前の福岡覇者・バリンジャー(NZランド)が脱落。
25kmは15分54秒。 韓国の柳が数回に渡り揺さぶる。
一時、中山の集団から後退。すぐに集団に復帰する。

30kmで集団は5人。スタール(スウェーデン)、中山、柳、アンダーソン(アメリカ)
ゲイルナエル(ベルギー)。32kmで中山が遅れだす。足の痙攣のために後退。
35kmで柳も後退し、優勝争いは3人に。
中山は痙攣と戦いつつ、4-5位をキープ。最後はアンダーソンを抜いて3位でゴール。

優勝はスタールで2時間13分57秒。2位ゲイルナエル2時間14分33秒。
中山は3位の2時間15分45秒だった。 仙内13位。 西村16位。

個人的にはマラソン最強は中山だと思うが、思いたいが。
アジア大会や87福岡の時は調子も良かったのだろうが最初から全員が格下と決めつけていたように見える。
こういった時の中山は本当に強い。
オリンピックの重圧にも負けないで中山本来の走りをしてほしかったな。
ソウルはレースの組み立て方によっては十分メダルは取れてたと思う。バルセロナもしかりだ。
メダルまでソウルは6秒バルセロナは2秒レースを見ていて泣きたくなったよ。
中山自身が言っていた。五輪で勝てればあとは車イスになってもいいって。
だったらもっと悔いの残らないレースをしてほしかったな。
842ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/06(月) 22:27:10
同感だ
843ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/06(月) 22:42:26
最強は中山竹通(W杯広島で自己最高)
次点は高橋健一(99東京国際リタイア)
844ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/06(月) 22:44:34
それは違う
高橋健一は小出監督の婿
よって中山竹通の次に強い
>>840
ワールドカップで日本最高を出してからの翌年もソウル国際走りましたね。
当時の資料をみると気温17度、小雨コンディション 当時、テレビで中継していて
ほとんど中山の独走だったのを覚えています。10キロが29'24" 20キロが59'03"と
ロペスの世界最高を上回って走ってました。中山選手初の独走レースだったと思います。
結局2位に入ったアメリカのセイヤーを実に7分18秒差をつける2゚10'09"で優勝。
でも2゚8'15"を出した後の大会だったから少し物足りない記録と評価
されてましたね。
>>846
このレースはスタートして1.5kmから独走体制に入る。
5km毎を14分44秒- 14分40秒- 14分43秒 と飛ばした。
20kmの通過では有にロペスの世界最高を上回っていた。

しかし15kmからのスプリットは15分23秒- 15分48秒と落ち始める。漢江からの向かい風が厳しくなる。
ソウル国際のコースはその漢江を周回するコース。そこがソウル アジア大会と違うところ。
25-30kmは15分28秒と挽回するが、初めてのひとり旅もあり、
その後は15分55秒- 16分09秒と下降線をたどる。ラストも7分19秒を要したが
2時間10分09秒で海外マラソン初優勝。この時、同僚の長島浩が
2時間20分19秒で5位に入っている。

ゴール後、中山は「きつかった。前半飛ばし過ぎて…」 「あれ以上は…限界でしたね。」
とコメントしている。
>>840
ソウル国際マラソンは88年のソウル五輪開催においてメインのオリンピック
スタジアム完工を記念して開催された大会。
この時の事情は先導車が1.5kmほど正規のコースと違う道路を誘導し、
それに出場選手全員が間違えたハプニング。
後日、韓国陸連からこの84年大会を「非公式」にすると発表。
陸連関係者はコースを誤ったことをすぐに知ったが、

 ・全選手が同じコースを走ったこと。
 ・距離の点でほとんど正規のコースと「変わらない」こと

ということで、そのまま表彰式を行った。


>>846-847

第4回 ソウル国際マラソン 成績 (1985年9月15日)

1、中山竹通(日本)  2.10.09
2、セイヤー(アメリカ)2.17.27
3、ボベ(フランス)  2.18.06
4、パデル(フランス) 2.18.29
5、長島浩(日本)   2.20.19
6、金元植(韓国)   2.20.41

9、望月明義(日本)  2.20.41
14、渋沢正明(日本)  2.26.24
第14回(当時) 福岡国際マラソン 兼 22回モスクワ五輪最終選考会

レース展開 1979年12月2日   出場選手112人

気温11.5度  湿度47%  風 西北西1.8m

スタートー 競技場を出て、最初に飛び出したのが大久保初男(大昭和製紙)
      古田匡彦(長居AC)、ロドウィック(アメリカ)の3人。
  
      大集団の第2集団を80m引き離して15分15秒で通過。

第二集団にはコウシス(ギリシャ)を先頭に約20人。瀬古利彦(早稲田大)、
宗茂、猛(旭化成)、伊藤国光(鐘紡)、鎌田俊明(鐘紡)、高見健二(小西六)
菊池武彦(リッカー)、喜多秀喜(神戸製鋼)らの顔も見える。

7km− 大久保がスパートし、古田、ロドウィックを60m引き離す。

10km− 大久保が30分23秒(この間15分08秒)2位のロドウィックに
      150m差をつける。さらに50m後ろで古田が後続の集団に吸収される。

後続集団の外人招待はバージン(アメリカ)、サンドバル(アメリカ)、チェルピンスキー(東ドイツ)
フォード(イギリス)、チェ・チャンソブ(北朝鮮)など。

15km−45分38秒 依然、大久保がリード。この間は15分15秒。
     後続集団とは250mの差がついている。後続はバージンが引っ張る。
     バージンが引っ張るため、集団は縦長に。

20km−1時間01分10秒(15分32秒)大久保のピッチが落ちてきた。
      集団とは170m差に詰まってくる。

雁ノ巣折り返しー21.3949kmの折り返し点。沿道には3-400人の
        観衆が詰め掛ける。大久保が折り返すがすでに表情は疲労
        で険しくなっている。
         150m遅れで大集団。徐々にペースが上がってきている。
        後続集団の先頭に宗兄弟、鎌田、伊藤の代表候補が出てくる。

         すでに古田、ロドウィックは集団から後退。

日本勢の後方位置ではフォード、サンドバルの調子のよさが伺える。
またチェルピンスキーは瀬古マークか、併走して集団の中盤に。
また武富豊(神戸製鋼)、弓削裕(旭化成)も集団の中で健闘している。

25km−1時間17分00秒 (15分50秒) 大久保のペースダウンは
     目の見えてわかるほど。後続集団が接近してきた。

26km−ついに大久保を集団が吸収。 同時にバージンが遅れ。先頭集団は19人に。
 

(続き)

第三集団では ベテラン君原健二(新日鉄八幡)が健闘している。

27km− 大久保が先頭集団から後退。18人に。
      
     (結局、大久保は2時間31分09秒で82位だった)

30km− 1時間33分08秒(16分08秒)
      25km過ぎで転倒したフォードが盛り返して先頭でラップを
      取る。集団は後半に備えペースをセーブしている感じすら伺える。

32km− 鎌田、弓削が後退。さらにモントリオール五輪の覇者・チェルピンスキーも脱落。
      サンドバルも脱落とここにきて集団のピッチが上がってくる。

前年優勝の瀬古は淡々と集団の中盤に位置。まだ余裕がある。
宗兄弟は猛にゆとりがあり、茂の表情が苦しくなってきた。ワードロー(オーストラリア)、
武富あたりも元気に集団についている。

33km−さらにペースアップ。 ライアン(ニュージーランド)、スコット(オーストラリア)
     が脱落。 喜多が苦しそうで徐々に後退を始める。

35km−1時間48分32秒(15分24秒)
     フォードが先頭。瀬古、宗兄弟、伊藤が通過するが、伊藤がついに脱落。

38km− 先頭はフォード、瀬古、宗茂、猛の4人。
      後方はチェ、スコット、ワードロー、伊藤、ライアン、武富の順。

この集団で一番余裕を感じるのが宗猛、瀬古も無表情で追随。宗茂が苦しげで顔を歪める。


40km−2時間03分56秒(15分24秒) 宗猛がラップをとり、一気にスパート。    
     宗茂が歯を食いしばって猛のスパートにつく。
     瀬古が10m遅れる。フォードはその後ろ。瀬古の足取りが重い。

しかし宗兄弟のスパートが長く続かず、一旦遅れた瀬古が追いつく。

平和台競技場に3人が並んで帰ってくる。フォードは50m遅れ。

ラスト500m−先頭は宗猛。茂と瀬古が背後にピッタリとつく。
第1コーナーから第2コーナーにかけて宗猛がスパート。すぐに瀬古が追いつく。

第3コーナーー 瀬古スパート。ギアを入れ替えたかのように宗兄弟を一気に
        10mの差に広がる。 

最後の4コーナーで茂が猛を交わして2位に上がる。猛は3位に。

2時間10分35秒ー 瀬古は前年に続いて 福岡国際2度目の優勝。
           モスクワ五輪代表権を獲得。しかしゴール後は両足に
           痙攣がおき、立てなくなるほどの激走だった。

2位、茂 3位 猛 と5秒差に3人がもつれ込む展開。宗兄弟もモスクワ五輪代表をほぼ手中にした。
マラソン2度目のバーニー・フォードが4位と大健闘。日本人4位は伊藤国光だった。
第14回 福岡国際マラソン 成績

1、2時間10分35秒 瀬古利彦(早稲田大学)
2、2時間10分37秒 宗茂(旭化成)
3、2時間10分40秒 宗猛(旭化成)
4、2時間10分51秒 フォード(イギリス)
5、2時間11分40秒 チェ・チャンソブ(北朝鮮)
6、2時間11分55秒 スコット(オーストラリア)
7、2時間11分55秒 ワードロー(オーストラリア)
8、2時間12分08秒 伊藤国光(鐘紡)
9、2時間12分33秒 ライアン(ニュージーランド)
10、2時間12分49秒 武富豊(神戸製鋼)

11、2時間14分05秒 ズマナザロフ(ソビエト)
12、2時間14分12秒 弓削裕(旭化成)
13、2時間15分01秒 マッカリー(アメリカ)
14、2時間16分14秒 コウシス(ギリシャ)
15、2時間16分18秒 ゴメス(メキシコ)

21、2時間17分37秒 鎌田俊明(鐘紡)
41、2時間22分25秒 喜多秀喜(神戸製鋼)
48、2時間23分52秒 君原健二(新日鉄八幡)
(1979年12月まで) 男子マラソン世界歴代10傑

1、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストリア) 1969年アントワープ国際
2、2時間09分05秒6 宗茂(日本)        1978年別府大分
3、2時間09分12秒2 トンプソン(イギリス)   1974年英連邦
4、2時間09分27秒  ロジャース(アメリカ)   1979年ボストン
5、2時間09分28秒  ヒル(イギリス)      1970年英連邦
6、2時間09分55秒0 チェルピンスキー(東ドイツ)1976年モントリオール五輪
7、2時間10分00秒  スメ(ベルギー)      1979年ベルギー選手権
8、2時間10分08秒4 ドレイトン(カナダ)    1975年福岡国際
9、2時間10分12秒  瀬古利彦(日本)      1979年ボストン
10、2時間10分15秒0 ウェルズ(アメリカ)    1978年ボストン


14、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(日本)     1970年福岡国際
15、2時間10分40秒  宗猛(日本)        1979年福岡国際
19、2時間11分05秒0 喜多秀喜(日本)      1978年福岡国際


(1979年12月まで)  男子マラソン日本歴代10傑

1、2時間09分05秒6 宗茂(旭化成)     1978年別府大分
2、2時間10分12秒  瀬古利彦(早大)    1979年ボストン
3、2時間10分37秒8 宇佐美彰朗(桜門ク)  1970年福岡国際
4、2時間10分40秒  宗猛(旭化成)     1979年福岡国際
5、2時間11分05秒0 喜多秀喜(神戸製鋼)  1978年福岡国際
6、2時間11分17秒0 佐々木精一郎(九州電工)1967年福岡国際
7、2時間12分00秒  重松森雄(福岡大)   1965年ウインザー
8、2時間12分03秒4 谷村隼美(クラレ)   1969年福岡国際
9、2時間12分08秒  伊藤国光(鐘紡)    1979年福岡国際
10、2時間12分12秒0 采谷義秋(竹原高校教) 1970年福岡国際
853ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/07(火) 23:55:41
この時の福岡が初めて宗兄弟揃って好成績を上げられんだ。
初マラソンのワンツーがある他は、78年別大もあるが2人のタイム差が大きかった。
このころの宗兄弟評は「どちらかが良いと、もうひとりはダメの繰り返し」
というものが多かったと思う。
79年福岡は猛が絶好調だったから瀬古に勝てるとしたら
このレースしかなかっただろう。調整の失敗でピークが数週間に過ぎてしまった瀬古は
明らかにスタミナ切れを起こしていたからな。
五輪代表レースでなかったら猛はもっと前に出れたのかもしれない。
しかし前回の五輪選考会で失敗をしている猛だけに慎重にならざるおえな
かったのとスピードの限界もあったかもしれない。
10m差がついた時は面白い展開になったのを覚えている。
854ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/08(水) 17:33:30
>>851
君原は74年に第一線から退いたが、その後もコーチ兼任などでマラソンは走ってましたね。
福岡では有望株が君原より下位に沈むとかなり酷評されてました。
若手にとってもこのベテラン君原の順位は気になった事でしょう。後年の宗猛も同様。
瀬古と君原が同一レースで走っているのは時代が重なり合っているようで
考え深いですね。
855ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/08(水) 22:18:33
マラソン史上もっとも強いランナー か。
ロペスかなあ・・・
856ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/08(水) 23:15:36
アベベ・ビキラじゃないか?
857ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/08(水) 23:35:24
>>855
カルロス・ロペスは五輪マラソン金、1万銀、マラソン世界記録樹立、1万世界記録樹立(2着ながら)
そして世界クロカン優勝、マラソンのキャリアは半分は棄権なのだが、完走は全部サブテンを記録
ずば抜けたキャリアがある。あとは世界陸上のタイトルが無いくらいか。
858ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 08:34:09
俺は全盛期のコスゲイだと思う。
東京で圧勝して、「私にとってマラソンを走ることは特別な事ではない」
と言い切ったときには世界最強だと感じた。
ケニア陸連がゴタゴタせずに五輪に出てきてたら金メダルだったと思う。
859ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 11:39:53
しかしここに出てくるレースダイジェストは今思い返しても名レースだな。
83年くらいは少しはビデオが普及したから録画で持ってる人も
いるだろうが70〜80年前半は難しいだろ。
78〜81の福岡なんて面白かったもんな。
カルロス・ロペス(ポルトガル)  マラソン全成績

1、(途中棄権)          1982年10月 ニューヨーク
2、   2位 2時間08分39秒 1983年05月 ロッテルダム (世界歴代5位・83年度世界ランク3位)
3、(途中棄権)          1984年05月 ロッテルダム
4、   優勝 2時間09分21秒 1984年08月 ロス五輪   (五輪新記録)
5、   2位 2時間09分06秒 1984年10月 シカゴ    (84年度世界ランク2位)
6、   優勝 2時間07分12秒 1985年05月 ロッテルダム (世界最高記録・85年度世界ランク1位)
7、(途中棄権)          1986年02月 東京国際
ジュマ・イカンガー(タンザニア) 1982−1989 マラソン成績

1、 2位 2時間09分30秒 1982年10月 英連邦
2、 5位 2時間10分54秒 1983年02月 東京国際
3、15位 2時間13分11秒 1983年08月 ヘルシンキ世界陸上
4、 優勝 2時間13分50秒 1983年10月 メルボルン
5、 2位 2時間08分55秒 1983年12月 福岡国際
6、 優勝 2時間10分49秒 1984年02月 東京国際
7、 6位 2時間12分35秒 1984年05月 ロンドン
8、 6位 2時間11分10秒 1984年08月 ロサンゼルス五輪
9、 優勝 2時間15分31秒 1984年10月 メルボルン
10、23位 2時間16分49秒 1984年12月 福岡国際
11、10位 2時間11分06秒 1985年04月 W杯広島
12、 優勝 2時間08分10秒 1986年02月 東京国際
13、 3位 2時間08分39秒 1986年10月 北京国際
14、 優勝 2時間10分06秒 1986年12月 福岡国際
15、 6位 2時間13分43秒 1987年09月 ローマ世界陸上
16、 優勝 2時間12分19秒 1987年10月 北京国際
17、 2位 2時間08分42秒 1988年02月 東京国際
18、 2位 2時間08分44秒 1988年04月 ボストン
19、 7位 2時間13分06秒 1988年10月 ソウル五輪
20、 2位 2時間09分55秒 1989年04月 ボストン
21、 優勝 2時間08分01秒 1989年10月 ニューヨーク
862ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 16:03:24
>>788
ロペスはモントリオール五輪でビレンと死闘の戦いをし、2位の銀メダル
を獲得。一躍ポルトガルの英雄となる。しかしその頃からロペスは足を
痛めはじめる。
 そのころポルトガルには小林清という柔道8段の腕前を持ち、ポルトガルで
柔道場を開き、2500人を指導。そのほかにリスボン大学体育教育学部や
陸軍士官学校、警察大学の先生とし、またポルトガル柔道連盟の技術顧問を
している者がいた。
 1977年の秋口にポルトガルでの全国組織・スポーツクラブ「スポルディング」
会長が小林に「ロペスが脚を痛めて苦しんでいる。このままだと再起できないだろう。
どうか診てくれないか。」という依頼を受ける。
小林はまた鍼灸師として多くの選手や人を診ていたからだ。
ロペスと対面した小林は早速治療に当たる。ロペスからの要望は手術はしないで治せないか
というものだった。検査の結果、アキレス腱の3分の1から半分近くも切れていた。
そこから1年8ヶ月の小林の根気のいく治療が行われた。
ようやく国際舞台に復帰できたのは1982年のヨーロッパ選手権であった。
この時、10000mで4位。そして同年10月の初マラソンとなるニューヨークシティ
は途中棄権となったがデビューを果たした。すでに35歳になっていた。

そしてロス五輪前、大会1ヶ月に迫った時、ロペスは自動車にはねられた。
ひざ、ひじ、横腹などに怪我を覆った。小林は大会の前日までロペスの
治療に当たったエピソードもある。
863ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 16:10:33
>>862 揚げ足を取るようで悪いが、モントリオールの10000はビレンの圧勝で
死闘と呼べるようなものではなかった。確かに9600mまで併走していたけど、
最後の1周だけで5秒程の差がついた。
864ゼッケン774さん@ラストコール :2006/11/09(木) 19:00:36
>>858
コスゲイは主に日本で活躍したから印象強いけど
あの程度の選手はケニアには履いて捨てるほどいるよ
モントリオールの1万mは終始ロペスが引っ張ってましたね。しかしビレンの末脚に
まったく敵わなかった感じがしました。
しかしまぁ〜濃いコメントの多い事。
マラソンの歴史がわかります。
866ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 23:02:36
1984年8月ロス五輪男子マラソン
あの日、日本中がテレビに釘付けになった。
その大多数は、瀬古が金メダルをとると信じてテレビに向かっていたはずだ…。
だから余計にロペスの金メダルは衝撃的であった。
ド.キャステラでもサラザールでもイカンガーでも、
ましてや宗兄弟でもない
瀬古が負けた以上に
マラソン界では無名の37歳のランナーが金メダルをとった事に衝撃を受けた。
因みに2位のアイルランド、トレーシーは
本命五千メートル出場のついでに初めてマラソンに挑戦して銀メダルをかっさらった。
世界は広いんだな〜とその時感じた。

867ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 23:22:37
高橋健一の99年東京国際は強烈
25キロまでは度肝を抜かれた
>>866
ロペスが無名とは言い過ぎ!メダル候補の一角には上がってた。

869ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 23:36:08
>>866
あのロス五輪マラソン生中継に入る直前に金メダル候補をピックアップして紹介したんだ。
キャステラ、瀬古、イカンガー、サラザール、ゴメス、宗兄弟、そしてロペスも入っていた。
コメントは世界歴代5位の記録を持っているというものよりクロカンの王者で
それをロードで発揮したらメダルも可能性があるとコメントされた。
日本で走っていないから無名のように感じたが、陸上関係者はロペス要注意と
語ってたのを思い出す。
>>867
25kmくらいまで飛ばして自滅するケースは昔は多かったです。
84年のボストンのジェフ・スミスも世界最高をうわまわる快ペースで飛ばして
自滅して2時間14分台で優勝なんてのもあった。
1985年ボストンの間違えでした。
872ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/09(木) 23:51:42
>>853 このレースは興奮したよ。83年はイカンガーと瀬古の2人になった時点で
レース自体は終わっていたけど、79年はどう転ぶか分からなかった。特に宗猛の
スパートとそれを以心伝心で感じてすぐついた宗茂の兄弟愛に感動し、10m差を
じっくりと縮めて追いついた瀬古の執念も凄かった。因みに前半をリードした
箱根の山男の大久保にとっては最後の見せ場だったかな。前年の宗茂は3位に
なったけど、下位に沈んだね。

>>354 君原の引退後の好成績と言えば前年の78年。2.17.07で16位になったが
それは日本人6位。宗猛と鎌田の間だった。このときは1-3位を日本人が独占
したがその後は伊藤が11位(2.14.13)、宗猛が15位(2.16.08),鎌田が17位(2.18.28)
だった。新日鉄期待の水久保が25位に沈みコーチ以下と酷評されて消えていった。
新日鉄は水久保以外にも園田広美や頭島幸司といった有望選手が居たがいずれも
コーチより遅くて消えていった。そうしてみると君原はいいコーチでなかったのかも。
873フォルテ ◆HLk3p4EsyU :2006/11/10(金) 00:09:58
琵琶湖マラソンでして優勝したフランク・ショーター

ラドクリフはシッコしてロンドン優勝
>>872
日本選手3人が同時に競技場に現れて優勝争いをする、それも五輪選考会で、
となると史上稀に見る好レースといっていいでしょうね。
代表選考会一本化の醍醐味が味わえたレースはこの年と83年福岡でしょうね。
「たら れば」 になるがロスやソウルよりもモスクワ五輪の日本勢を見たかった。
876ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/10(金) 16:42:38
>>875 今に始まったことではないけど対米追従はうんざりだよね。イギリスは
コー・オベット等がいたから選抜チームを国家の代表としてでなく派遣した。
確かユニオンジャックはなく、表彰式でもイギリス国歌演奏はなかった。あれ
だけアメリカべったりで批判がある国でもやるときはやる。日本は幇間みたい
で哀れ。マラソン他少数精鋭を派遣して筋の通ったところを見せて欲しかった。
877ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/11(土) 19:39:28
当時のオリンピック日本選手団派遣に、
日本船舶振興会の寄付が多くを占めていた、と聞いたことがある

日本船舶振興会の(当時の)丼は...そりゃ些細でも理由があればロシアに選手を派遣したくはないわな

日本のスポーツは政治的にも経済的にもお上に縛られ、
その上で協会内はその協会における学閥・社閥でがんじがらめなんだよ

故に、そういった枠組みから外れてしまいながら、
純粋な走りのみで己のアイデンティティを示した中山竹通の走りに、
人々は何かを感じ、そして喝采したんじゃないのかな
878ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/11(土) 19:42:30
いや、そこまでは・・・
879ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/12(日) 10:27:13
五輪は伏兵、無名が出てくるとはいえモスクワ 五輪はチャンスだったな。
モントリオールやロスは難しかったが宗兄弟にも展開次第では金を争う力が
モスクワ時にはあった。それと夏マラソン対策以前としては最後の大会だっただけに
神経質にならずにマラソンに取り組めた大会だっただろう。
880ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/12(日) 22:36:11
いつだっけ?
渡辺康とピントが優勝を争うとか言ってて渡辺が涙の
欠場会見したのは。
モスクワ五輪の後、福岡でチェルピンスキー走ったね。
瀬古三連覇のレース。30km過ぎでたしか瀬古、伊藤、宗猛、ヘンリー、
チェルピンスキー、ペファーの6人になって、日本のレースで初めて
チェルピンスキーが仕掛けたんだよ。
飛び出して咄嗟に瀬古がついていった。まるでモスクワの雪辱戦のようだった。
その後、チェルピンスキー自身が自滅していったが、日本ではこの年の福岡が一番まとも(真剣?)に走ったね。
きっと瀬古に勝っておきたかったと思うよ。ここで瀬古に勝てば
モスクワ金の価値が上がるし、より評価してもらえただろうから。
もうこの頃は瀬古の評価は世界的なものになっていたのをアメリカの雑誌が伝えていた。
>>881


ヘンリーっていたな。
金髪の長髪で背中ぐらいまであって
束ねて走ってたのが懐かしい。

ヘンリーも「瀬古は世界一。福岡は五輪に続いてナンバー2の大会だ。」
とかいってたよ。
883ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/12(日) 23:34:30
>>882
瀬古は当時、選手からも評価高かった。

社交辞令も交じるだろうがビル・ロジャースなんかは「世界最高を最新する
可能性をもった唯一のランナー」って言ってるくらいだから。
>>854
>>872

君原健二は74年のアテネ古典マラソンで一応の第一線から引退をしたが
継続してマラソン大会に参加している。
福岡は現役時代は2回の出場しかない

第6回(25回)1971年(昭和46年) 11位 2.21.52   日本人4位
第7回(26回)1972年(昭和47年)  5位 2.15.52.2 日本人2位


現役引退後は76年ー79年まで4大会連続で出場。

第11回(30回)1976年(昭和51年) 15位 2.22.07   日本人11位
第12回(31回)1977年(昭和52年) 17位 2.21.00   日本人 9位
第13回(32回)1978年(昭和53年) 16位 2.17.07   日本人 6位
第14回(33回)1979年(昭和54年) 48位 2.23.52   日本人28位

この時の君原に後塵を拝したのが 
76年 宗猛、大槻憲一など
77年 水上則安、宗茂など
78年 鎌田俊明、世利重樹、森口達也、大久保初男など
79年 水久保美千男、川口孝志郎など

がいる。12回大会はラッセ・ビレンと20秒差でゴールしている。
この頃は気の向いた時に走る程度の練習しかしていなかったそうで
前半からマイペースの走法。競技場に首を振る君原が帰ってくると
どっと拍手が沸き起こった。

強い日本人ランナーは年代別でも多くいたと思う。今なら高岡だって強い。
しかし瀬古ほど世界に強さを知られたランナーはいないと思う。
上記で話題になった80年福岡国際だって誰もが瀬古マークで序盤スロー
ペースになったといわれているし、海外の強豪ランナーが打倒瀬古で日本に
続々来日していた。
79年頃から世界では「瀬古が世界ー」という言い方をするランナーが
存在したが、最後は87年のボストンでSジョーンズなどが瀬古を賞賛した
が長期にわたって世界をリードする一人であったのが瀬古の特徴だろう。
見ていて全盛はモスクワ五輪を挟む79−81年、83年までかな。

瀬古とそして中山は突出した日本が世界に誇れるランナーだったと思う。
日本マラソンにおけるモスクワ五輪前後の背景は
1979年12月2日に開催される14回福岡国際マラソンで、モスクワ五輪
日本代表を選ぶが、その結果しだいで3選手揃って選べない場合は、翌年の
1980年毎日マラソンにもチャンスを設けると発表した。
したがって福岡国際のレースは、「最終選考会」の名はつかなかった。
しかし選手たちはこの福岡が最終選考会だと思っていた。
これは92年の東京国際や03年の福岡国際に似た感じではないか。
 
 秋のシーズンを迎えると、トラックレースを走りながらも、マラソンの
一線級選手の意識の中は「福岡」が大きなスペースを占めていた。

このときの陸上五輪候補選手は走り幅跳びの臼井淳一以外は全員、長距離、マラソン勢
となっていた。その名は瀬古、宗兄弟、伊藤、喜多、鎌田の6人。
この6人はマラソンランナーでありながら全員、10000mでも五輪標準記録を突破して
いるつわものであった。6人とも福岡国際にエントリー。マラソン日本代表を目指した。
この6人以外は、福岡でよほどの大記録を出して日本人3位以内に入ってこなければ、
マラソン日本代表に選ばない日本陸連の方針であった。

選手の思惑とは別に、強化関係者の間でも思惑があった。
選手個々を指導しているコーチが、それぞれの自分の教え子に代表になって
もらいたいと願うのはいうまでもないが、そういう利害を乗り越えて、五輪
の修羅場で世界の強豪と十分渡り合える選手に、福岡の上位を占めてもらいたい
という願望である。日本としては76年のモントリオールの惨敗がもう2回連続
は許されない現状となっていたからである。
 瀬古、宗茂はどうしてもその中に入ってもらわなければ困る選手であった。
その福岡で瀬古、宗兄弟が外人勢を抑え、ワンツースリーでフィニッシュ。
日本陸連の思惑通りの結果になった。
 レースから6日後の1979年12月8日、日本陸連理事会は3選手を代表
に推すモスクワ対策特別委員会の原案に異議のあろいうはずがなく、満場一致
で瀬古、宗兄弟は男子マラソン日本代表に選ばれた。
887ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/13(月) 21:07:26
補足
短距離の豊田敏夫(新日鉄八幡)も幻の代表選手
初めて書き込みします。
こんなにモスクワ当時のコメントが出てくるなんて
恐れ入りました。

一番印象にあるのはモスクワ自体は中継は見なかったが
その後、ご意見番、重鎮・織田幹雄が瀬古についてコメントしたのを
覚えている。
1万mとマラソンについてだったが
「1万mは優勝したイフター(エチオピア)のラストスパートは別格に
しても、もし瀬古が代表で出ていたら2等になれたな。力が衰えた
ビレン(フィンランド)がラスト1周までつけるペースだったんだから」

というのとマラソンはたしか「マラソンこそは瀬古は勝てたなぁ」って
と何かの雑誌に出てたのを思い出す。
まぁ不参加国のランナーが出れば展開も変わるし、瀬古自身の調子もわからない
のは百も承知なんだろうけど。
日本人初の金メダリストはなかなか誉めたりしない人だっただけに
そんなコメントするんだと印象に残っているよ。
889ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/14(火) 06:58:55
豊田っていたね(笑)
あの当時のロンゲは陸上以外でも珍しかったよ
髪切れば0.1秒くらい速くなったんじゃないかな?
金銀銅独占。
そんなにうまくはいかないよ。茂はまず圏外だったろうな。
891ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/14(火) 19:48:32
1979年の福岡の再現なら金銀銅独占もあったのでは?

1980年福岡で日本勢は(伊藤国光まで)チェルピンスキーを子ども扱いにしたんだから
それにプレ五輪で勝った(ちなみに宗猛が胸差で2位)、優勝候補のモイセイエフも撃沈(5位)
ふつーに行っていたら、日本人3人は抜けていたし、ぽつねんと茂遅れる、はあるかもしれないが、
結果3位で金銀銅独占はあった様な気がするなぁ
892ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/14(火) 20:26:43
アメリカのカーター政権が、アフガニスタンに侵入したソビエトに対する制裁措置の一つとして
「1980年2月20日までにソビエト軍がアフガニスタンから撤退しなければ、モスクワ五輪をボイコットする」
という書簡を、米国五輪委員会に送り、これに同調する日本政府も、
日本五輪委員会に「事実上不参加」を伝える事態になる。
事態は好転するどころか、カーターが期限とした2月20日はとっくに過ぎ、
国際機構でも何の解決の手も打たれないまま、時は流れる。
5月24日、ついに日本は不参加が正式に決まった。
不参加決定の日、記者からコメントを求められた瀬古は
「残念だけど、驚いていません。代表に選ばれたのですから、期待して下さった人々に
御恩返しのためにも、今後も走り続けます」ときわめて冷静であった。

ボイコット国続出で、異常事態のモスクワ五輪が開催されようとしていた時、
瀬古は宗兄弟、伊藤、喜多ら8人と欧州遠征に出向く。
オスロ、ストックホルム、ヘルシンキの大会で瀬古は欝憤を晴らす。オスロの5000mで13.30.94の自己新。
ストックホルムの10000mでは27.43.44の日本新記録、80年度世界ランキング2位の記録を樹立した。
5月の不参加決定までは8月1日の五輪マラソンに備える練習でトラック練習不足
にもかかわらずの好記録だった。
実力通りに走れば瀬古のメダルは100%確定。
問題なのは五輪という大舞台に平常心で臨めるかということ。
894ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/14(火) 21:57:43
第22回(1980年) モスクワ五輪 男子マラソン成績

1、2時間11分03秒 チェルピンスキー(東ドイツ)
2、2時間11分20秒  ネイブール(オランダ)
3、2時間11分35秒 ズマナザロフ(ソビエト)
4、2時間12分05秒 コトフ(ソビエト)
5、2時間12分14秒 モセーエフ(ソビエト)
6、2時間12分39秒 ゴメス(メキシコ)
7、2時間12分44秒 ネディ(エチオピア)
8、2時間13分12秒 マグナニ(イタリア)

9、リスモン(ベルギー)、
10、ド・キャステラ(オーストラリア)



モスクワ五輪開催まで(1980.7月まで) 男子マラソン 世界歴代10傑

1、2時間08分33秒6 クレイトン(オーストラリア) 1969.5.30
2、2時間09分01秒  ネイブール(オランダ)    1980.4.26
3、2時間09分05秒6 宗茂(日本・旭化成)      1978.2.5
4、2時間09分12秒  トンプソン(イギリス)    1974.1.31
5、2時間09分27秒  ロジャース(アメリカ)    1979.4.16
6、2時間09分28秒  ヒル(イギリス)       1970.7.23
7、2時間09分55秒  チェルピンスキー(東ドイツ) 1976.7.31
8、2時間10分00秒  スメ(ベルギー)       1979.9.14
9、2時間10分08秒4 ドレイトン(カナダ)     1975.12.7
10、2時間10分12秒  瀬古利彦(日本・早大)    1979.4.16




1980年度 男子マラソン 世界10傑

1、2時間09分01秒 ネイブール(オランダ) 4.26 アムステルダム
2、2時間09分41秒 サラザール(アメリカ)10.26 ニューヨーク
3、2時間09分45秒 瀬古利彦(日本)   12.07 福岡国際
4、2時間09分49秒 宗猛(日本)     12.07 福岡国際
5、2時間10分05秒 伊藤国光(日本)   12.07 福岡国際
6、2時間10分09秒 ヘンリー(オーストラリア)  12.07 福岡国際
7、2時間10分14秒 ゴメス(メキシコ)  10.26 ニューヨーク
8、2時間10分19秒 サンドバル(アメリカ) 5.24 ナイアガラ・フォース
9、2時間10分20秒 ビヨクルンド(アメリカ)6.11 ダルース
10、2時間10分23秒 宗茂(日本)      12.07 福岡国際

11、2時間10分24秒 チェルピンスキー(東ドイツ) 12.07 福岡国際

895ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/14(火) 22:31:43
>>892さんわかりやすいです、ありがとう。
ところでそんな瀬古たちが出なかったモスクワ五輪のマラソン、結果は>>894さんが載せてくれましたが、中身のレース展開はどうだったんでしょう?
896ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/14(火) 22:36:33
モスクワ五輪で入賞(6位)したランナーと日本代表(瀬古、宗兄弟)の
過去の対戦成績を見ると、

まずチェルピンスキーはモントリオール五輪で優勝した時、宗茂に快勝。
また同年(76年)の暮れ、初めて福岡国際に参加。このときは競技場で
先行する宗茂を交わして3位に。宗兄弟より先着した。
しかし宗兄弟に勝てたのはここまで、78年福岡は32位、79年福岡は
途中棄権と瀬古、宗兄弟に完敗中であった。
そしてモスクワ五輪後の80年福岡国際で瀬古、宗兄弟にまたも完敗。
6位(2.10.24)は日本における自己最高記録ではあった。


また優勝候補の一人に挙がっていたモセーエフ(ソビエト)。77年福岡で
2位に入り、日本人最高順位(5位)の瀬古に初勝利。宗兄弟にも快勝。
翌年は5位に入るも、瀬古(優勝)、宗茂(3位)に敗れ、猛には先着。
79年のプレ五輪(スパルタキアード)では茂と大接戦で胸の差で逃げ切り優勝。
宗猛(10位)にも勝っている。


3位ズマナザロフは宗兄弟いわく一度も負けたことがない相手だったよう。
ちなみに79年の福岡国際でも出走していて11位(2.14.05)だった。
このときは瀬古、宗兄弟ともズマナザロフに快勝。

6位はおなじみロドルフォ・ゴメスだが、まだこの80年時はさほど強敵では
なく、やはり79年福岡で瀬古、宗兄弟に完敗。15位(2.16.18)だった。
翌年81年東京国際で優勝を飾る。

そして2位に入ったネイブール(オランダ)。当時、瀬古との直接対決はないが、
翌年に青梅報知マラソン(30km)で来日している。
この時、瀬古は81年ボストンの調整でオープン参加。五輪銀メダリスト
との対決が注目された。山岳の難コースを1.29.32でぶっちぎりで
1位の瀬古に対し、ネイブールは公式では優勝扱いになったものの瀬古に
ついで2位。1.32.34と実に3分の差がつき、ネイブールは瀬古の
強さに脱帽していた。

4位コトフはその後もベラルーシとして長きに渡りマラソンを走ったが、
モスクワ五輪の翌年、81福岡国際で来日。25km過ぎまで先頭集団
にいたが脱落。8位(2.12.25)でゴール。宗兄弟(茂3位、猛5位)
に先着された。



中山が出現した時に、瀬古と中山は比較さてたけど、
瀬古の全盛期はここで語られている79-83年なんだよな。
本当に80-81年前後の瀬古は成長期で強かった。
青梅の難コースでの1時間30分切りは
外人勢はまったく歯が立たなかった。
中山と瀬古は文句なしに日本が生んだ天才ランナー。
しかし五輪ではよそいきの服を着てしまう。
日の丸の重圧に勝てない心のもろさを克服できない。
瀬古、中山の五輪における怪我と調整の狂いは無念だったなあ。
今はメディアが発達していてメディアが選手を潰すケースが多い。
昔は日の丸・金メダルと国家としての重圧(プレッシャー)が選手を潰していた。
夏マラソン対策のしっかりした今の時代に瀬古、中山を走らせたいよ。
それくらい夏マラソン対策は手探り状態だったね当時は。
暑さになれる為に、真夏の東京のど真ん中で昼間にハードトレーニングしてれば、
本番直前に血尿もでるよ。>ロス当時の瀬古
900ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/15(水) 01:27:27
たらればは言うだけむなしい面もあるが、モスクワでうまく瀬古が走れたか
どうかは分からないというのが正直なところだろう。

>>888 織田さんのコメントはナンセンスだろう。瀬古が日本記録を出したとき
に競り合ったアンチポフは14位に入っていない(予選落ち?)。伊藤(27.47.4)
に僅かに遅れたテブロケが14位。またイフターは別格としてもマアニンカ、
ケディル、コツのラストも強かったので最後の一周になったとしても瀬古で
太刀打ちできたかどうかは分からない。瀬古は意外と連戦に弱く、DNガラン
(7月7日)で日本記録を作った後、7月9日のワールドゲームズでは伊藤にも
10秒近く遅れて惨敗している。

マラソンは確かに平常心で臨めばメダルは取れたと思う。しかし夏マラソン
未経験だけに失敗した可能性もある。また35kmから14.45の急激なペースアップ
につけたかどうか。(レースはゴメスが20-25kmを14.13で飛ばし、集団も14.20
程度で走っている。ものすごく上げ下げの多い消耗レースだった)。更に
血液ドーピングの噂があるチェルピンスキーは五輪以外はまるで駄目なので
他のレースの戦績は殆ど参考にならない。勝てた可能性がないとは言わないが
惨敗だってあり得るのはロスと同様である。(当日の気温は23-4℃。これも
瀬古には未知の要素である)。

>>890 宗茂が前年の経験もあって一番いい成績を取ったのではないかな。少なく
ともあの頃はすごく安定していたし、強かった。


世界陸上が始まっても中山や瀬古は回避していた。
夏マラソンを知ろうとしていたとは思えない。
サラ、ワキウリらは夏を経験したことでそれなりの結果を残している。
>>901
83、87の世界陸上の頃は、五輪選考会に含まれていないからね。
2-3ケ月に最終選考会があるのに世界陸上は出ないよ。
だから陸連も含めて、80年代までは夏マラソンに対する意識が薄かったのが現実だろう。
ちゃんとした日本語になっていなかった。
83年、87年の世界陸上は陸連でも強豪選手に出場を呼びかけたが、まだまだ世陸の知名度も高くないし、
大事な最終選考会が2-3ケ月後にあったら誰も敬遠するだろう。

87年は瀬古に参加要請の話があったが、(メダルなら五輪代表の密約?)
87年は福岡での1本化しか選考会は考えられない世論だったし、この要請の段階では
皆、断るだろう。(その後、瀬古はあのような怪我になるのだか。)

今のように世界陸上を正式に選考会のひとつに組入れてもなかったからね。
世界陸上でワキウリが優勝した大会に須永とか大須田、阿部が出てた
時代もあったよな。
海外の有力どころで欠場したのはキャステラだけだったので、
海外メディアから「日本はどうしたんだ?」と言われてたよね。
905ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/15(水) 10:15:37
>>900
まぁ、これだけモスクワ五輪時の瀬古に 「たら れば」でポジティブ意見が多いと
ネガティブな部分を指摘したくなりますね。私も宗茂はなかなか走れたんではないか
と思います。茂もいちばん強い時期だった。レースは中盤と後半にガーッ とペースが
上がる展開で他はスローペースでしたので、案外、一番危ないのはこの頃は安定感の
なかった宗猛かもしれませんね。

どちらにしろその年の福岡で後半、14分40秒台のラップになる展開を見せて
日本勢は瀬古や宗猛も好成績あげてる(茂も及第点)ので、本当にわからない予想ですね。

しかしもう二度とこのような五輪不参加は実施のないようにしてもらいたい。
>>905
宗茂は83-87年の晩年あたりは安定感を欠いていた。優勝したりフタ桁順位だったり。
しかし日本最高を出した78年から81年くらいはタイムのバラツキがあったにせよ、
きっちり上位に入っていた。

逆に宗猛は81年以降に安定感が増した感じだ。記録も79年福岡でようやく
瀬古と茂に追い付いた。ようやく努力が花開いたという感じだった。
茂、猛には強さは感じなかったな。
自分の中ではいつもダークホース的な存在だった。
どんなレース展開になったら彼らに勝機がでるのか想像できません。
>>907
宗茂の場合は78年別府大分の時のように独走状態があるけど、
結局、兄弟揃って最後までいくとしぶとい強さは感じたよ。
81別大、85北京国際なんかがそうじゃないかな。
瀬古や中山のような図抜けた強さじゃないと思うけどね。
瀬古とのトラック勝負が2回くらいあるけれど
あれは力が接近しているのではなく瀬古が勝負に徹するレースをするから
宗兄弟も全力を出し切れるんだと思う。
実際は力の差は歴然としているんだよ。
910ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/15(水) 22:46:49
同じようなことを猪木が話していた。
自分の方がワンランク上だったから、
名勝負をつくりあげることができたと。
>>909
瀬古、初の福岡国際マラソン参加。中村監督との目標は「宗兄弟のどちらか
一人には勝とう。」

1977年12月4日 第12回 福岡国際マラソン レース展開 気温12.5度 微風

正午、平和台陸上競技場を68人がスタート。

瀬古は2kmで先頭集団の最後方に。 5kmはロジャース(アメリカ)、
モセーエフ(ソビエト)とともに15分19秒で通過。
瀬古は10km手前で先頭集団から後退。セーブした走りに切り替える。

10km−30分38秒(15分19秒) 先頭集団は12人。中にはビレン(フィンランド)
                    トンプソン(イギリス)のビックネームも含まれる。
                    ビレンは合理的な走法で走っているが、トンプソンの足取りが重い。

日本勢は宗猛(旭化成)、阪本峰照(日立造船)、水上則安(新日鉄)ら5人に。

瀬古は50m後方の第二集団で追走。
初マラソンの京都でオーバーペースがたたり、後半に脚がぱったり止まった経緯が
あるため、中村監督の指示は「イーブンペースを守ること」だった。

15km−45分48秒(15分10秒) 日本勢は宗猛、阪本、世利重樹(九州電工)の3人に
                    なってしまった。

瀬古は5kmごとのラップを15.19−15.28−15.37−15.56
で20kmを1時間2分20秒で通過。
この時点で先頭集団から1分20秒の差をつけられる。

中間点ー 先頭集団は1時間4分22秒で通過。ロジャースにモイセーエフ、
     阪本、宗猛の4人になっている。

雁ノ巣折り返しー ロジャース、阪本、宗猛、モセーエフの順。
         瀬古は10番目で折り返す。 
 
25km−1時間16分17秒(15分17秒) ロジャース、モセーエフ、宗猛、阪本の4人。

瀬古は20km−25kmのラップ15分52秒と依然15分台で走破している。
    
  





(続き)

28.7km−集団4人が縦長に。ロジャースがしきりに後ろを振り返る。
     宗猛がかなりきつい。上体が揺れ、苦痛にゆがむ。徐々に後退し始める。

30km−1時間31分49秒(15分32秒)
30.4km−ついに阪本が疲れ始め、足が流れ、肩がゆれる。    
       ロジャース、モセーエフから後退。

31km−給水でモセーエフが遅れる。いったん粘りの走法で追いつくものの
     ロジャースとの差は開きはじめる。

35km−1時間47分17秒(15分28秒)モセーエフとの差は100m。
     ロジャースが独走態勢に入る。

41km− 余裕からかロジャースは給水で立ち止まり、スポンジを取って
      頭から水をかける。

ゴールーロジャースが自己の持つ2時間11分28秒2の77年度世界ランク1位の
    記録を最新する2時間10分55秒3で福岡国際初優勝。2位にモセーエフ。
    3位は後半力強いストライドで追い上げたマグナニ(イタリア)が入った。

瀬古は平和台陸上競技場の手間のゲートで先行していた日本人トップの阪本を
捕らえる。日本人トップの5位。阪本は6位。前半健闘した宗猛は9位に。
ゴール後は疲労困憊でタンカで運ばれた。


第12回 福岡国際マラソン成績

1、2時間10分55秒3 ロジャース(アメリカ)
2、2時間11分57秒0 モセーエフ(ソビエト)
3、2時間13分04秒0 マグナニ(イタリア)
4、2時間14分26秒2 フレミング(アメリカ)
5、2時間15分00秒1 瀬古利彦(早稲田大学)
6、2時間15分37秒3 阪本峰照(日立造船)
7、2時間16分20秒0 キャノン(イギリス)
8、2時間17分11秒0 世利重樹(九州電工)
9、2時間17分35秒0 宗猛(旭化成)
10、2時間17分43秒0 ベントソン(スウェーデン)

15、2時間20分40秒  ビレン(フィンランド)
17、2時間21分00秒  君原健二(新日鉄)
22、2時間21分37秒  水上則安(新日鉄)
44、2時間33分41秒  トンプソン(イギリス)
52、2時間37分45秒  宗茂(旭化成)

1977年 第12回福岡国際マラソン 優勝
      ロジャース(アメリカ) ラップタイム

5km 15.19
10km 30.38(15.19)
15km 45.48(15.10)
20km 1.01.00(15.12)

中間点 1.04.22

25km 1.16.17(15.17)
30km 1.31.49(15.32)
35km 1.47.17(15.28)
40km 2.03.31(16.14)
2.195km (7.24.3)

2時間10分55秒3 (1977年度 世界ランキング1位)



同 5位 瀬古利彦(早稲田大学)

5km 15.19
10km 30.47(15.28)
15km 46.24(15.37)
20km 1.02.20(15.56)

中間点 1.05.52

25km 1.18.12(15.52)
30km 1.34.46(16.34)
35km 1.51.18(16.32)
40km 2・07.52(16.34)
2.195km (7.08.1)

2時間15分00秒1
>>911-912
この時の瀬古は中間点でもまだ1分、予定タイムより速かったらしいからね。

>>913
この頃は日本マラソンのドン底時代。76年のモントリオール五輪で大惨敗し、
この年の日本ランキング1位が2゚14'22"2の重竹幸夫(九州電工)。世界1位に4分以上つけられた。
これは東京五輪後、最大幅。また77年は京都でロジャースが2位染谷に4分12秒差でぶっちぎられ、
4月の毎日は連続五輪メダリストのリスモン(ベルギー)にも風邪で最悪な状態にもかかわらず、
あっさり優勝をさらわれる。ボストンはロートルの宇佐美の30位が最高順位。
コシチェは浜田則安(鹿児島中央高教)の7位。記録も2時間17分台という有様だった。
その浜田が77年日本ランク1位(2゚13'57"0)。
74-77年あたりの不調は深刻だったが、上記の福岡で瀬古が出てきて、
翌年の別府大分で宗茂が世界歴代2位の快走に繋げていく。日本マラソン停滞期を打破していった
のがこの頃の流れ。
>>906
後年、宗猛が兄弟の特徴を語っている
「基本的な練習量は僕のほうが多かったし、長い距離になればなるほど僕の方が強かった。
たんに練習であれば負けない自身がありましたよ。でもスケジュールの後半になると僕の方が
走れるから「これは行ける」という気持ちになっちゃうんですね。それで練習をやりすぎて
しまい、その間に茂のコンディションが僕を追い抜いていくんです。考えてみればやっぱり、
最後の調整力は茂のほうが上だったということですね。」 と語っている。
またレースに対する考えも違い、猛は計画通りに練習をこなし、
「この体調ならこういう展開のレースができるのではないか」と考える。

一方、茂は「行けるところまで行ってやれ」という意識が強く、
そんな茂のレースを猛は「茂には42.195kmという発想はないですからね」と評している。
別大の記録はあまり当てにならないな。
1分〜2分位記録が良くなる選手が多いんだよ。
917ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/16(木) 22:26:33
その逆のときもあります。
なんともいえません。
>>916
このコメントは今のコースについてなのかな?
宗茂が日本最高をマークした頃は今とまったく逆のコースで
そのコースは向かい風に悩まされ続けた。
宗茂も後半、この向かい風で世界最高記録樹立を阻まれた
ようなものだった。

81年の宗猛とベアズレー(アメリカ)の向かい風を嫌って
二人でジグザグ走行をしたのは有名な話。
>>917さんがおっしゃるとおり、別大は天候に左右されるコースでも
ありますね。
行きはよいよい
帰りは怖い
>>901-904

当時の新聞を紐解いてみると、 スポーツニッポン 1987年6月18日付け

世界選手権出場 瀬古「NO!」 中山も断固拒否

瀬古、陸連の強権発動にも「NO!」− 世界陸上選手権・男子マラソン(9月6日・ローマ)
への派遣選手として日本陸連の強化委員会(小掛照二委員長)から出場要請があった
瀬古利彦(エスビー食品)は6月17日、断る方向で意思決定した。
きょう18日、日本陸連に対し正式に「辞退」の返事をする。
ソウル五輪代表候補の瀬古ら8人のうち少なくとも1人を世界選手権に派遣したい
とする日本陸連は各選手に出場を呼びかけたが、すべて断られたため、半ば強制的に
瀬古を「指名」していた。瀬古が拒否となれば、他の選手も拒否するのは確実で
選考は難航するばかり。


瀬古の話 「小掛さんから話は伺った。でも福岡に調整スケジュールを合わせてきたから
     世界選手権は考えてもいなかった。(世界選手権まで3ヶ月。調整変更は
     可能か?)常識的に言っても無理でしょう。欧州遠征(6月30日から)
     も決まったことだし、その準備もしてますから・・・
     2ヶ月ちょっとで調整して勝てる大会ではない。
     (世界選手権で3位以内に入ったらソウルの代表権が獲得できるらしい)
     福岡に出ます。みんなと一緒に勝負したいので。

中山の所属する佐藤進監督 「指名されても絶対行きません。未調整のまま出場しても
             いい結果がでませんし、福岡国際にすべてを賭けていますから」

(記者の目)
陸連の不手際の「ツケ」が選手に回された。瀬古が断るのも当然だろう。
今年1月に事実上、福岡国際1本化されたはずの選考レースに、3月の理事会で
急遽、世界選手権が加えられたのだ。しかもどちらも陸連の理事会決定とくる。

「国際陸連が有力選手の派遣を強く希望している」というのが理由だが、
それには別の事情があった。その時点で陸連は次回の世界選手権を(1991年)日本
へ招致していたため、「急に」いい選手を送り実績作りをする必要に迫られたこと。
さらに放映するテレビ局のプレッシャーもあったと言われる。
しかしそれは陸連側の「事情」で福岡1本化に絞ってきた選手達にとっては
迷惑以上の何者でもない。


ソウル五輪選考は福岡前の瀬古不出場より前からゴタゴタがあったわけだ。
>>920
代表候補8人(瀬古、中山、谷口、児玉、伊藤、宗兄弟、新宅)の中で、
85年北京国際以来、マラソンを走っていない宗猛と、86年にマラソン実績のない(86年福岡を途中棄権)
の新宅の2人はワンランク下だったと思う。
どちらにしろこれは無謀だろ。途中から世界陸上も代表選考の
ひとつになってたのは知りませんでした。
つまらないしがらみにがんじがらめになって
やらなきゃならない事を忘れている。
ロス五輪で瀬古が惨敗したことをソウル五輪に生かしていない。
夏マラソンを経験させておけば結果はおのずと変わっていた筈だ。
923ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/18(土) 17:42:35
87福岡で工藤一良が“日本人3位”に入ってしまったことが
問題を大きくした最大の原因のような・・・
中山、新宅、谷口なら、そこで終わっていたかも?
どうしても瀬古を出したい陸連のゴリ押しで
もっと騒動が大きくなった可能性もあるが。
個人的な意見で言えば、工藤でなく瀬古でよかったと思う。
瀬古の9位(ソウル五輪)は「しかたないか」で済んだが、
もし工藤が入賞できなかったら、
日本中からコテンパンにたたかれたのではないだろうか。
日本陸連や関連機関は瀬古を出場させるまでは
どんな手を使っても諦めなかったと思うよ。
剥離骨折だって当時は怪しいと感じたもんだ。
925ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/18(土) 19:28:55
まあ、それまでのレースを観て、
瀬古が選考会で脱落するとは思えないし、
陸連としては、瀬古、中山、あと1人、
といった皮算用だったのかな。
926ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/18(土) 20:02:29
シドニーオリンピックのとき油谷が五位で七位だった人誰だかわかりますか?
927ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/18(土) 21:05:57
シドニー五輪は、日本勢の入賞ゼロだよね?
犬伏、川嶋、佐藤(信)だったっけ?

それって、アテネ五輪の5位油谷、6位諏訪(日清食品)のことかな?
928ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/18(土) 22:10:57
そうでした!!
ありがとうございます(^-^)
929ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/18(土) 22:28:09
諏訪は大学時代から大きな大会では外してない気がする。ただし日本史上最も強いランナーとは、まだ、言えないな。
次なる若手が出てほしい。
明日の東京女子も楽しみだが福岡はもっと楽しみだ。
930ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 00:28:36
87年のボストンで勝った時点で瀬古に代表権与えても良かったんだよ。
それぐらいのメンバーだったし、世界中のメディアは「瀬古は世界一」と打電している
んだからね。まぁ今なら代表権を与えたかもしれないなぁ。
当時はそれを許さないほど他にも人材がいたんだよな。
ソウル前がマラソン日本のピークだったと思うよ。
今、ボストンあたりの海外マラソンに勝ったら即、北京五輪代表権を得るかもしれないですね。
今はちょっとボストン、ロンドン、ロッテルダムあたりで勝てる日本選手は皆無かな。現在は。
アフリカ勢が強いといっても付け入る隙はあると思うんだが…。
932ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 09:12:38
>>930
そしたら選手は勝手に賞金マラソンに出始めて、世界選手権やアジア大会に出なくなるよ
「勝手」まではいかなくても優遇傾向にあった瀬古と、
「あれ出ろ」「これ出ろ」(例;広島の国際駅伝、アジア大会)と陸連に振り回された中山

仮に陸連が優遇していなくても、ボストンで勝って代表になった瞬間に「優遇されている」とバッシングを喰らう(可能性有り)
それに日本は「判例主義」の傾向があるから、ボストンが向後の「選考レース」になっちゃう

世間もそういったうやむやが嫌だから1発レースを望んだんだろうな
933ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 11:35:00
>>931 都市マラソンはつけいる隙がない。五輪で活躍するほうが簡単。
934ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 11:37:15
どちらも簡単ではないです。
935ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 12:03:39
近年、日本人男子で
唯一メダルとった人いたよね
銀だっけ?
どうしてその人は瀬古さん以上に評価されていないの?
結果だせた人ってその人だけなんじゃない?
936ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 12:16:39
森下はちゃんと評価されていると思います。
人気が出る=大騒ぎされる=評価される
必ずしもこの図式ではないと思います。
森下はマラソン走った回数が少ないけど、
1戦1戦すばらしいレースをしてます。
モンジェイックの丘での黄との戦いは
多くの方の胸に残ってるシーンでは。
937ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 13:31:45
結局、五輪で結果残したから評価されるでもないんだな。
それだったらチェルピンスキーはショーターよりもっと評価されなければいけないし、リスモン、マモ、ワイナイナが歴代選手で
評価されているべきだよね。
やはり五輪もひとつの評価対象で絶対ではないと思うよ。


あと都市型マラソンは太刀打ちできないと思っていたら最初から無理だろうね。
昔のランナーも体格や素質で海外ランナーに勝てないと思っていたと思う。
ひとつも勝てないのだろうかな。李鳳柱ってボストン勝ってるよな。
難しいのは百も承知だけど最初から諦めすぎのきらいもあるな。
938ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 14:53:30
中山竹通 長野県縦断駅伝に出場 (画像有り) 
http://www.shinmai.co.jp/news/20061119/KT061118FTI090007000022.htm 
939ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 15:40:34
日本の場合、スターはメディアがつくるからね。
メディアの出す評価に振り回されることないと思う。
一番ひどい例が渡辺康之だな。
東京国際マラソンを棄権する会見で涙なんか流してるの観て、
「別に期待なんかしてねえよ・・・」て真剣に思ったよ。
森下広一も瀬古や中山と比較してしまうと影がうすいよ。
残念だけどね。ひいきめに見ても谷口レベルか?
渡辺康に関しては論外。甘ちゃんにはマラソンを克服するのは無理だ。
941ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/19(日) 18:44:27
こういう言い方が適しているかわからないが、
瀬古、中山は“キャラ”が立っていた。
あんな、一般のひとにもメディアにも“ウケる”選手は
他の競技にもそうそういないと思う。
キャラが立って、実力もあったから印象が強いんだな。
箱根で自分を勘違いしてしまった渡辺や徳本。
とくに徳本の法大在学時の天狗ぶりは目に余るものだったな。
けど日清入社後に5000で頭角を表したからな。
学生トップランナーが実業団でも通用しないこの頃ではマシな方。
1年半近く故障で苦しんでいたが、
今年のニューイヤーで復帰してからは上り調子で、
東日本実業団駅伝のアンカーでも区間賞を取った。

渡辺は本当に実業団入ってからは、学生以上の実績出せなかったが……
入社後は故障とプレッシャーで5年程度で現役を去ってしまった。

で今の渡辺は、箱根予選会で久々に見たが現役時代の面影は無かった……
944ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 10:08:42
>>937 時代が違うよ。10000mの世界記録は1分速くなっている。ハーフでも
1時間を切るようになったし、20kmも55分台。好条件で28分を切れない選手
がそんなハーフには逆立ちしてもつけない。好条件の都市マラソンはキロ
3分ではない。特に後半のハーフは1時間1分台で走る。そこからよーいドン
でもつけない。最初のペース設定の段階で第一集団につけないのが現状。
945ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 16:36:27
ロス五輪で瀬古が惨敗した後、夏マラソン対策、クロカンの奨励、など
指導者や陸連は右往左往してマラソン強化の軸が決まらない事になった。
85年の世界クロカンにロペスが勝ったものだから、今まで眼中無かった陸連は急に
強化に乗り出して、一線級の派遣を決めたりした。

まさに瀬古ショックと、高齢ロペスへの衝撃が強すぎた。このような現象ロス五輪
の後が一番大きかったが、中山の出現が世論を落ち着かせた感じがした。
946ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 18:51:36
アテネ五輪、油谷はいけると思ったんだけどなあ。
なんか、消化不良の5位だったなあ。
高岡や油谷クラスに期待をかけているようじゃ
お先真っ暗だよ。
948ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 20:12:14
○五輪での日本勢 
1位 なし
2位 君原 森下
3位 円谷
4位 宗猛 中山
5位 油谷
 こうやってみると、5位でもたいしたものだ。
勝負にからめないなら何番になっても
意味がない。
950ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 20:54:13
その中で勝負にからんだのは
森下広一だけだね
ソウルの中山も30キロ過ぎまでは先頭争いをしていた。
952sage:2006/11/20(月) 21:32:00
そんなこと言ってたらきりがねえよ(笑)
外国の高地トレとかでは、土の上を走っている映像を見かけるけど、国内合宿っ
の映像は、交通量の少ない田舎のアスファルトの走りこみ。
クロカンの効用でUpDownもあるだろうけど「土の上を走る」ことも大きいんでは?
と素人ながら思うよ。たまにジョッギングしても、土とアスファルトじゃ、全然ダメージ
違うもん。アスファルトの上を走り回って、そりゃ故障と紙一重だわな、と思ったり
する。
まあ大学とか実業団のトップ選手のトレーニングを知っているわけではないんだけど・・・
954ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 22:24:35
世界大会で優勝争いしないのは価値がないとも言える。

しかしランナーによっては入賞候補でもないものが
8位以内に入ってくるのも価値があるものであろう。

世界陸上で堅実に地味に入賞を果たした

91年 東京  篠原太(神戸製鋼) 5位

93年 シュッツガルト 打越忠夫(雪印) 5位

は拍手を送りたい成績ではないか。
955ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 22:26:37
アテネ五輪の諏訪(日清食品)6位
956ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 22:33:03
>>955 まあ突っ込まないように。戦後だけでも

5位:川島義明(メルボルン)、君原健二(ミュンヘン)
8位:君原健二(東京)=但し当時は入賞扱いされていない。

というのがある。

勝負に絡めないのは意味がないという誇大妄想的な発想が日本を駄目にしている
可能性もある。
957ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 23:05:30
毎日新聞 特集ワイド

戦う相手は自分です。 65歳の君原健二さん 5年ぶりのフルマラソン挑戦

メキシコ五輪銀メダリスト、君原健二さん(65)は半世紀を越えて走り続けて
いる。競技生活で35回、一線を退いた後も市民ランナーとして16回、
すべてのマラソンを完走した。「走る鉄人」が立てた新たな目標は、5年ぶりに
挑戦するフルマラソンでの完走だ。

日本男子マラソンの歴史に残るといえば君原さんだろう。五輪では東京(64年)8位
メキシコ(68年)は銀、ミュンヘン(72年)5位と3連続して10位以内の偉業を
達成した。
 鉄の町、北九州市八幡西区の自宅で、髪を短く刈り込んだ君原さんは、引き締まった体を
作務衣に包んでいた。座敷の半分はメダルやトロフィーで占められている。
「普段は押入れにしまってあるのですが、孫に見せようと最近整理したんです。」
ボストンマラソン(66年)の金メダルもメキシコ五輪の銀メダルも日を浴びて
キラキラ光った。

満足のいく競技生活だったに違いないはずだが、君原さんは真面目な顔で、
「いいえ、私なりに会心と言えるレースは数えるほどしかありません。」と言い切った。
「一つは66年のバンコクアジア大会。記録は2時間33分と良くなかったですけど、
暑さの中、精一杯走ったと思います。もう一つが、佐々木精一郎さんと競り合いを制して
2時間13分33秒という当時の国内最高タイムを出した67年の別府大分毎日マラソン
ですね。ボストンも会心に近いレースだったと思います。」
35回の42.195kmを走り切った。そのうち、納得できたレースはたったの3回だけ
というのだ。 首を大きくかしげる独特のフォームで2位でゴールしたメキシコ五輪は
不満が残るのだろうか?

「メキシコ五輪は、途中でお腹の調子が悪くなるアクシデントがあった。食事の仕方が
悪かったのか、レース中で緊張しすぎたのか。その私以上にミスをした人がたくさんいたのか。
素晴らしいレースでしたが、会心とまでは言えないですね。」

「苦しさに耐える修行の連続だった。」と競技マラソン。その大半で2時間30分を切った。
そして年齢を重ね、最近の市民マラソンでは「5感を楽しんで」4時間近くかけてゴールする。
還暦で迎えた2回のマラソンは3時間52分と3時間35分。
「結構、体力はあるのだと証明できました。」

12月10日、宮崎市で開かれる国際青島太平洋マラソンで52回目となるフルマラソンに挑戦
する。「今でもどのくらいの体力があるのか試してみたいんです。」
市民ランナーの目標である「サブフォー」(4時間以内)を65歳で目指す。
「練習で1ヶ月に300キロぐらい走ったら、足を痛めてしまいました。まあ大会までには治る
でしょう。」 「そして次はですね。。」と続けた。

「優勝から50年目となる10年後に、ボストンマラソンに招待されてるんですよ。
75歳でどれくらい走れるか、これも楽しみです。」
958ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 23:12:17
君原健二マラソン成績 

1、朝日国際(62.12.2)2時間18分01秒 3位
2、別府毎日(63.2.172時間16分19秒  4位
3、毎日(63.5.12)2時間20分24秒  優勝
4、朝日国際(63.10.15)2時間20分25秒 2位
5、毎日(64.4.12)2時間17分11秒   優勝 
6、タイムス(64.8.23)2時間17分12秒 優勝
7、東京五輪(64.10.21)2時間19分49秒 8位
8、別府毎日(66.2.12)2時間15分28秒 3位
9、ボストン(66.4.19)2時間17分11秒 優勝
10、毎日(66.6.5)2時間37分57秒   7位
11、玉造(66.9.15)2時間20分27秒  優勝
12、ソウル国際(66.10.30)2時間19分57秒 3位
13、アジア大会(66.12.15)2時間33分22秒 優勝
14、別府毎日(67.2.5)2時間13分33秒 優勝
15、タイムス(67.8.27)2時間20分16秒 優勝
16、メキシコ・プレ五輪(67.10.22)2時間21分57秒 2位
17、別府毎日(68.2.4)2時間16分32秒  3位
18、毎日(68.4.14)2時間14分46秒    3
19、ウィンザー(68.6.15)2時間15分15秒 優勝
20、メキシコ五輪(68.10.20)2時間23分31秒 2位
21、アテネ国際(69.4.6)2時間13分25秒  2位
22、マクソール(69.7.20)2時間23分25秒  7位
23、別府毎日(70.2.8)2時間17分12秒   優勝
24、毎日(70.4.12)2時間22分14秒     7位
25、コシチェ国際平和(70.10.3)2時間18分06秒 2位
26、アジア大会(70.12.15)2時間21分03秒  優勝
27、別府毎日(71.2.7)2時間16分52秒    優勝
28、毎日(71.3.21)2時間28分26秒      13位
29、ミュンヘン・プレ五輪(71.9.11)2時間17分00秒 2位
30、福岡国際(71.12.5)2時間21分52秒    11位
31、毎日(72.3.19)2時間21分06秒      2位
32、ミュンヘン五輪(72.10.10)2時間16分27秒 5位
33、福岡国際(72.12.3)2時間15分52秒    5位
34、別府毎日(73.2.4)2時間14分55秒     優勝
35、アテネ国際(73.4.6)2時間19分09秒    2位
959ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 23:13:17
気持ちよ〜くセックルしようぜ!

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1161816322/110
過去の「日本マラソン史上もっとも強い・・・」 スレッド。
内容が濃すぎて面白い!!

日本マラソン史上もっとも強いランナーは?
ttp://makimo.to/2ch/sports3_sports/1075/1075254672.html

マラソン史上もっとも強いランナー・マラソン通史3
ttp://makimo.to/2ch/sports9_athletics/1094/1094488524.html

マラソン通史2が見当たらないのだが、とりあえず、見たこと方どうぞ!

マラソンは日本が世界と肩を並べられる唯一の陸上種目。
だからこそ期待も要求も大きくなるんじゃないのかな。
962ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/20(月) 23:34:12
強豪が集まり牽制合戦をぶっちぎって制したのが瀬古の87ボストン。
実業団駅伝で中継地点で前に出てきたカメラマンを避けようとして骨折。
本来、一発だった福岡。あのアクシデントがもしなければ(しかしいつの時代もマスコミはいらんことばっか・・・)
福岡での中山との雌雄はともかくソウル五輪での瀬古はメダル争いに噛む力は残っていたのかな。

アクシデントの後はストレスもあったのだろうが、疲れが残る、練習する意欲が沸かない、
という状況の中でなんとかソウル五輪は感謝の気持ちで走った。ただ2時間6、7分はもう
目指せないから引退したとどこかで語っていたけど。
瀬古の剥離骨折は調整遅れのための口実か
福岡(中山)から逃げる為の言い逃れだと今でも思う時がある。
964ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 00:23:26
>>960
マラソン史上もっとも強いランナー【マラソン通史】
 
がマラソン通史2。探してくれ。    
965ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 01:23:10
966ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 17:26:57
>>958
瀬古、中山が都市型(冬季)マラソンで世界的な評価を成し得たランナーなら、
君原は大試合に安定した強さを発揮した日本でいちばんのランナーだろう。
五輪選考会、プレ五輪、アジア大会、そしてオリンピックと全部好結果を残している。
東京五輪は優勝候補のひとりに挙がりながら8位と落ち込んだが、シングル順位で今なら
入賞というもの。寺沢、宇佐美、佐々木などの優勝・入賞候補が相次いで惨敗した五輪での
走りをみると最小限度の落ち込みだった。
967ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 20:02:50
>>942
坂口泰(現・中国電力監督)が当時の早稲田大学、エスビ−食品について語っている。

「箱根駅伝はお祭りという感じでした。僕らは箱根を走るために中村先生に
指導を受けているわけじゃない。目指すは世界です。先生は常々、箱根ごとき
で満足してはいかん、とおっしゃってました。」

しかし坂口は、さすがに4年生で箱根に勝ったときは嬉しかったようだ。

「中村先生は箱根駅伝後、選手全員を神宮外苑まで連れて行って走らせた。
普通の学校なら、打ち上げ会場に直行して飲んだくれるでしょうが、
先生はそういうことを許さなかった。」

坂口と谷口伴之は卒業に当たり、中村清からエスビー入社の打診を受ける。

「実業団といっても、エスビーはプロと一緒でしたからね。しかも先輩達は
キラ星のようなランナーが揃っている。あの中でやっていけるのか・・・。」

「何しろ瀬古さんが基準でしたからね・・。世界一のマラソンランナーが
目標じゃなくて基準なんですよ。瀬古さんは生活の全部をマラソンに捧げ、
それでもまだ不充分だと考える方でした。」

当時の早稲田ーエスビー食品の強さがうかがえる。
968ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 20:35:50
瀬古のラスト100mが12秒でイカンガーを置き去りにしたのが忘れられない。
969ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 20:45:17
>>967
このときのエスビー食品のメンバーは

瀬古利彦(80モスクワ、84ロサンゼルス、88ソウル マラソン日本代表)
新宅雅也(80モスクワ 3000障害、84ロサンゼルス 10000m、88ソウル マラソン日本代表)
中村孝生(80モスクワ 10000m日本代表)
金井豊 (84ロサンゼルス 10000m 日本代表 7位入賞)
ワキウリ(87ローマ世界選手権 マラソン優勝、88ソウル マラソンケニア代表 2位銀)
佐々木七恵(84ロサンゼルス 女子マラソン日本代表)

そしてのちに入社する
遠藤司も88年のソウル五輪では10000m代表に選ばれている。

坂口泰、谷口伴之とも五輪代表経験がなかったが、エスビーにとって大器晩成タイプだった。
90年に交通事故で谷口の死去、坂口も不整脈でここぞという時に引退せざるおえなかった
のは非常に残念だった。
それなりに走ってはいたんだろうけど
瀬古以外は影が薄いよ。
>>970
おいおい、リアルタイムで見てたクチかい。
当時は瀬古の他、新宅 そしてロス五輪後の一時の金井、87-89年のワキウリは
国内でも抜けてたぞ。中村も日本選手権に要所で勝っているし、それよりも
全日本実業団駅伝のぶっちぎりは強烈な印象だったよ。
マラソンランナーとして見た場合
残念だけど。
973ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 23:25:12
エスビーで思い出すのはエリートと一般でユニフォームが違った事。
カナディアンレッドに白地のエスビーユニフォームに対して、国際規模で活躍していない一般扱いは
白地に赤の文字だった。初期の頃、坂口、谷口が着ていて次に事故死した松尾が
着てたな。ワキウリも来日早々は着ていたと思う。
あれは中村監督の考えだったんだよな。
974ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 23:44:39
マラソンで見た場合、やはり瀬古以外は雑魚
特に新宅は10000のエリートだったが、所詮国内限定、
マラソンでは東京で宗茂にねじ伏せられた印象が強い。

学生のエリート?を寄せ集めた集団で、陸上の底辺拡大といった理念はなかったんだろうね。
皇居の周りを我がもの顔で走り、とにかく鼻持ちならない連中だった。
975ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/21(火) 23:59:44
それは当時の、相対的な話だろ

新宅は福岡勝っているし、ワキウリは世界選手権だ(ボルディンやサラに勝ってのだ!)
金井はマラソンでは走れていないが10000mでオリンピック7位(入選は8位)

今彼らがあの実績を出していたらものすごい評価になったと思うし、
当時のレベルを今出したとしても(それこそ相対論で)そこそこの評価になるんだから

>マラソンでは東京で宗茂にねじ伏せられた印象が強い。

新宅はあの時初マラソンじゃなかったのか?
百戦錬磨のマラソンランナーが、トラックで実績はあるは所詮初マラソンの選手に勝ったところで、
宗の評価が何倍も高まるとは思えないし、逆に新宅の評価が下がるともいえない
(事実、宗はレース後に新宅を相当警戒していた旨と、評価も与えていたんじゃなかったか?)

こんなんだから瀬古が世界で評価されて日本で評価されない悪しき図になっちゃうんだよ
976ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 00:05:27
1990年8月23日付 アジア大会代表ら5人衝突死 金井や谷口伴選手
ワゴン車で空港への途中-網走


23日午後12時45分ごろ、北海道網走管内常呂町東浜の国道238号で「エスビー食品」陸上部員ら6人が
乗ったワゴン車が対向車線にはみ出し、トラックと衝突。
ワゴン車は側溝に転落した。
この事故で、ワゴン車のエスビー食品陸上部所属 金井豊(30)、谷口伴之(29)、松尾昌徳(24)、
日本陸連公認トレーナー 市来幸一(34)の4人とトラック運転手計5人が全身を強打して死亡した。

網走署の調べによると、金井選手と谷口選手は9月22日から北京で開かれるアジア大会の
長距離、マラソンの代表選手。金井選手らはエスビー陸上部と早大競争部の恒例の合同合宿の為、
瀬古利彦・エスビー食品監督(34)の指導で16日から常呂町に滞在していた。
合宿は22日に終わり、金井、谷口両選手と市来さんが25日から9月3日まで札幌で
行われるアジア大会の陸上代表選手の合宿に合流するため、ワゴン車で同管内女満別町の
女満別空港まで行く途中だった。
運転手は早大生のAさん。同署はワゴンのブレーキ痕がなく、目撃者が「フラッと対向車線に
はみ出してきた」と話しており、居眠り運転とみて調べている。
977ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 00:19:22
とにかく現在の瀬古はアホ丸出しでみっともない、
現役時代熱心に応援していたのが、情けなくなってくる。
旧東ドイツのサイボーグに素直に感動していた私だから、しかたがないが。。。
978ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 08:13:06
ほい
979ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 08:58:57
>>970 変わった見方だね。ワキウリはソウル銀の後、ロンドン,NYCや英連邦に
勝ち、一時期世界最強と言われていた。本人自身瀬古を馬鹿にしたコメントを
出していたけどね。
980ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 09:16:03
>>976
谷口伴之はこれから競技ピークを迎えるところだった。
金井に関してはロードを諦め、もう一度トラックで勝負と切り替え、日本選手権で復活、
トラックが走れ始めた矢先の事故だったな。

このあたりからエスビー王国の崩壊が始まった。
松尾も北海道マラソンで頭角を表わしてたよな。
瀬古は徳田や松尾みたいな実績のない色の着いてない選手の育成は
上手いのかもしれない。
982ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 19:42:25
>>981 そうか?
983ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 19:53:41
そうじゃないよ、せこだよ
984ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 20:45:53
当時のエスビーで高校時代にインターハイで活躍していないのは
谷口伴之だけで、本人が劣等感をもっていたとか。
ところが努力の人で、少しづつマラソンで自己記録を最新。
瀬古が優勝した87ボストンでは、日本代表としてではなく、
青梅マラソンの招待からチャンスを掴んで参加し5位に入賞。
89年福岡ではスローペースで進む中、40キロ手前まで優勝争いに加わり、4位。
2時間13分42秒。翌年の90年ロンドンマラソンで9位に入り、
この時が2時間12分22秒の自己記録を最新したばかりだった。
がっちりした体格で重そうに走るイメージがあったが、晩年はスッキリとマラソンランナー
体型に変化していた。
それなりに努力はしたんだろうけど
2時間12分、優勝ゼロでは最強と呼ぶのはキツイよ。
986ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 22:01:18
確かに最強とは呼べないかもしれない

しかし森下広一以降で、サブテンを達成した日本人ランナーは旭化成の真内明だった
「石本−熊谷・秋吉−真内−佐保」のラインの旭化成・大分・鶴崎工業クインテッドで
一番才能がない、と言われていた真内のサブテンは強烈な印象を残した


才能がない、努力の人、と言われていた真内は、
「1997年」と言う点で見た場合、日本人では「最強」だったわけだ(スケールの小さい最強だが...)

そう考えると、谷口は一時期だけでも「最強」になりうる才能を有していた、と(強引ではあるが)言えなくはないかい?
987ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 22:29:59
ヨコから入るが、
う〜ん、その意見には疑問符。
真内も自身の才能以上に頑張ったのはわかるけど。
勝負どころで脱落ばかりではね。
それからペースメーカーがつくレースは気象条件に恵まれれば
記録はおのずとついてくるんだろうから当てにはならないと思うよ。
989ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 22:49:07
谷口伴之(早大ーエスビー食品) マラソン全成績

1、2時間25分03秒   位 千葉   1983.2
2、2時間13分40秒  5位 ボストン 1987.4
3、2時間13分34秒 10位 福岡国際 1987.12
4、2時間14分18秒 10位 ボストン 1988.4
5、2時間13分42秒  4位 福岡国際 1989.12
6、2時間12分22秒  9位 ロンドン 1990.4

(1990年8月23日 死去)




金井豊(早大ーエスビー食品)

1、2時間18分38秒  24位 東京国際 1981.2
2、2時間25分54秒  39位 東京国際 1982.1
3、途中棄権           東京国際 1985.2
4、2時間14分46秒  13位 福岡国際 1985.12
5、2時間13分42秒   6位 ロンドン 1986.4
6、2時間27分15秒  35位 東京国際 1988.2
7、2時間12分51秒   9位 福岡国際 1988.12
8、途中棄権           東京国際 1989.3
9、2時間14分52秒   9位 福岡国際 1989.12
10、2時間20分09秒  58位 ロンドン 1990.4

(1990年8月23日 死去)
990ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 23:03:24
>>988
でも90年代半ばは気象条件やペースメーカに恵まれた記録でさえ2時間10分を切る奴はいなかった
3大マラソンで日本人の優勝者は一人もいなかった
それぐらいの暗黒時代
そっから比べれば今はマシになったほう
991ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 23:07:28
>>990
このどん底の時期とモントリオール五輪前後の75−77年くらいが
同じくらいのレベルの低さといえるかな。
992ゼッケン774さん@ラストコール:2006/11/22(水) 23:29:06
>>991 75年は上向きだった。記録的にはどん底は72,73年。ミュンヘンの後
若手が出てこずに宇佐美が出てもやはり駄目という74年も駄目駄目だった。
75年の福岡は若手がまずまずの記録を出し、76年年明けのニュージーランド
での合宿で徹底的に鍛えたがその成果がモントリオールの選考に現れなかっ
た。(期待された宗猛や服部がまるで駄目で、阪本も消えて、初マラソンの
一発を期待した伊藤も不発。結果として合宿組では宗茂だけ選出される。
合宿では非公式に13分台で走ったといえ茂の自己記録自体は15:50程度だった
からね。)76,77年は記録的にも底だった。71-77では12分台が僅か2回しか
ない。
993ゼッケン774さん@ラストコール
宇佐美から瀬古が登場するまで世界に通用するランナーが
なかなかでてこなかった。
老兵・宇佐美が痛々しくも日本マラソンを盛り上げようと
走る姿は見ていて辛かった。
それはその後訪れる、全日本バレーで衰退する日本のトスを
上げ続ける猫田とダブるものがあった。