新居昭乃 06

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もし、あれこれの制約や忌まわしいことのために、---そこには社会の、個人の、または社会における個人の思惑や風潮が
あらゆる形で含まれている---そうでなければ存在していたかもしれない「美しいもの」について、ひとりの鋭敏な人が哀惜する。
そして歌となる。

もし、それにもかかわらず、うしなわれたものを知り、それを復元する、あるいは「止揚」することや人、様子を見るならば、
あらゆるほかの哀惜にもかかわらず、あるいはその鋭敏な悲しみのゆえにこそ、そこにある、あろうとする「美しいもの」を喜ぶ。
そして歌となる。

どちらも同じ、一人の鋭敏な人によって再現され、、異なる色合いの歌となって聴かれる、でも、同じ心、同じ思い、夢をいだく
ことになる。ある歌は子供の夢について、別の歌は今ある絶望について語るけれど、希望と絶望は反対のものではないと思う。

「音楽がつらいものであったり、絶望的であったりするかもしれないが、冷笑的なものになるはずがない。・・・・・・
実際、絶望と冷笑的なもの、あるいは憂愁と冷笑的なものは別である。
 人 間 が 絶 望 に 陥 る の は 、 ま だ 何 か を 信 じ て い る こ と を 意 味 す る 」

ゆえに、降るプラチナ も 城 も、やはりファンタジーだと思う。