【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】121次資料

このエントリーをはてなブックマークに追加
218日出づる処の名無し
否定派は支那兵は投降していないと言いますが、実際には各部隊で投降を受け入れています。さらに、指揮官自身が捕虜
として認識していた事が下記の史料から判ります。しかしその後捕虜は殺害されているのです。
○&●=1次史料、△=2次史料(1次史料の補足として記載)

○第16師団第30旅団長 佐々木倒一少将私記 『南京戦史資料集T』『昭和戦争文学全集』別巻〔知られざる記録〕
 12/13「その後【俘虜】ぞくぞく【投降】し来り、数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮する」
○第16師団長 中島今朝吾中将日記 『南京戦史資料集T』
 12/13「十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したる
     が如きも其後漸次戦意を失ひ【投降】するに至れり」
△第16師団佐々木支隊所属独立攻城重砲兵第2大隊 沢田正久中尉証言 『偕行』(証言による南京戦史)『南京大虐殺の証明』
 12/14「私は梶浦俊彦中隊長とともに、自動車で仙鶴門鎮へ走り、部隊を点検しました(略)われわれは墓地を利用して、接近
     する一部の敵と相対しました。やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃【投降】してきました。
     その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しま
     した。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。【俘虜】の数は約一万(戦場のことですから、
     正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに
     銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。」
※仙鶴門鎮付近(堯化門附近)の投降兵7,200人は南京城内に護送され収容されましたが、残りの捕虜はこの様になりました。
           ↓
●第16師団歩兵第33連隊戦闘詳報 『南京戦史』
 12/10〜12/14 [俘虜]将校14、准士官・下士官兵3,082 [備考] 1、俘虜は処断す
 偕行『南京戦史』によれば太平門で1,300人を処断、他の場所で1,796人を処断

続く
219日出づる処の名無し:2010/11/27(土) 11:17:54 ID:CbzxJEuT
○第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『本当はこうだった南京事件』
 12/13「午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ掩護スルト共ニ同時ニ当面ノ掃蕩ヲ開始
 ス…掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ【投降】スルモノ続出シ午前九時頃迄ニ三百余名ヲ得友軍砲弾ハ盛ニ城内ニ命中スルヲ見ル」
△第114師団歩兵第66連隊第一大隊第4中隊第1小隊長代理 小宅伊三郎曹長証言 『丸』(城塁 兵士達の南京事件)
 12/12「それでも中国兵は三三五五【降伏】してきたので、私のところで検問して後に送った。(略)あとで千二百の【捕虜】が
 いて、他の隊が捕まえた【捕虜】二、三百も合わせると千五百人(偕行『南京戦史』では1657人)になると聞いた記憶がある」
※上記の捕虜はこの様になりました。
           ↓
●第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『南京戦史資料集』
 12/13「午後三時三十分各中隊長を集め【捕虜】の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分
 配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地西南方谷地第三中隊は路営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地
 附近に於て刺殺せしむることとせり(略)各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す」

○第13師団山田支隊長(第103旅団) 山田栴二少将日記 『南京戦史資料集U』
 12/14「他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば【投降兵】莫大に
 して仕末に困る(略)【捕虜】の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり」
○朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日]
 「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で【捕虜】にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は(略)それが
 皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求め
 ているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜
 だけは到頭食はせることが出来なかった」 注:山田支隊が捕らえた投降兵は軍服を着用しています。便衣兵ではありません。
※上記の捕虜はこの様になりました。
           ↓
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第4中隊 宮本省吾(仮名)少尉陣中日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
 12/16「【捕慮兵】約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映
 12/17「【捕虜兵】の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった」
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊歩兵砲中隊 菅野嘉雄(仮名)一等兵陣中メモ『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
 12/16「夕方より【捕虜】の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す」
 12/17「【捕虜】残部一万数千を銃殺に付す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第7中隊 大寺隆(実名)上等兵陣中日記『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』『南京事件』
 12/18「昨夜までに殺した【捕リョ】は約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」
 12/19「揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし」