否定派によると「学説の裏付けのない主張はトンデモ論に過ぎない」そうです。←ここ大事。
さて、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようとしても、ハーグ陸戦条約の4条件違反者が敵対行為の
現行犯であった場合以外での無裁判処刑は違法です。学者・有識者の見解によると、便衣兵を捕らえた
場合はことごとく裁判が必須との事です。
『「南京事件」の探求』北村稔 立命館大学教授 歴史学者(中国近現代史) 2001年 P101
筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文適用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本
軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。両者の論争は
「虐殺派」優位のうちに展開している。
「板倉由明『本当はこうだった南京事件』推薦の言葉」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 1999年
まぼろし派の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長と
しての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた「便衣兵」は、国際条約の
「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。
しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきもので
あって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。
『昭和史の論点』秦郁彦 歴史学者(日本近代史)・法学博士 2000年 P96,97
南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのが
いけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという
判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウイークポイントなんです。・・・捕虜の資格がある
かないかはこの際関係ありません。その人間が、銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いからせず
にやってしまったのが問題なんです。
『現代歴史学と南京事件』吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 2006年 P70
もちろん、正規軍の場合でもこの四条件の遵守が求められており、それに違反して行われる敵対行為は、国
際法上の「戦時重罪」を構成する。しかし、そうした国際法違反の行為が仮にあったとしても、その処罰には
軍事裁判の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きをまったく省略したままで、正
規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。以上が私の主張の中心的論点である。
『戦時国際法論』立作太郎 国際法学者 日本評論社 1931年版
凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審間すべぎものである。
然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。
「北支事変と陸戦法規」篠田治策 国際法学者 外交時報84巻通巻788号 1937年10月1日 P54,55
軍律に規定すべき條項は其の地方の情況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所爲あ
りたるものは死刑に處するを原則とすべきである。(略)
六、一定の軍服又は徽章を著せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)
(略)而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれぼ、
殺伐なる戦地に於いては動もすれぼ人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることあるが為めである。
「南京の支那兵処刑は不当か」東中野修道 亜細亜大学教授 政治・思想学者 『月曜評論』 2000年3月号P55
その違反者は、「死刑に処するを原則とすべきである」(54頁)が、処刑の前に「必ず軍事裁判」(55頁)に
かけるべきであると篠田博士も注意を促していた。
これは当然であったろう。便衣隊の一人として狙撃などに従事するときは、囚われたときのことをあらかじめ
考慮して、自分は便衣兵ではなくどこそこの市民であり、名前(偽名)、住所、家族関係は次の通りという言い
分を用意していたであろう。そこで相手の弁明を査問して、事実関係を明確にしない限り、良民が菟罪に苦
しむことになるから、「軍事裁判」ないしは「軍律会議」(昭和十二年十二月一日「中支那方面軍軍律審判規
則」)の手続きは、氏も言うに、「不可欠」であった。
しかしそれはあくまで安全地帯の支那兵が便衣兵であった場合の話であった。
おまけ
『世界戦争犯罪事典』秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一 文藝春秋 2002年
軍律会議は国際的に慣習化されており、日本も既に日清戦争の時からこれに類するものを設置していた。
軍律会議は、軍の作戦地域などにおいて、軍司令官以上が作戦の遂行上公布した軍律に違反した日本人
以外の人民を審判するため設置されるもので、(中略)当時は、中支那方面軍、上海派遣軍、第一〇軍に
そ れぞれ軍律会議が置かれていた。したがって、便衣兵は捕虜の資格がないとするのであれば、軍律会
議で 審判し処断すべきであり、第一線部隊が処断してよいものではない。
しかし、軍法会議、軍律会議は、本来少人数の違反者を対象にしたもので、多数の捕虜集団や便衣兵の集
団を裁判したり審判することを想定していないので、実際にはこれらの集団を裁判し審判することは能力的
に不可能に近かった。だからといって、能力的に不可能だったから、第一線部隊の殺害が不法殺害ではな
い、として許容されるものではない。
佐藤説をもってしても敵拘束兵の無裁判処刑は違法です。
「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P314-315
学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。
(略)
第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険に
さらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要が
る例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけ
ドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが
知られている。
この「軍事的必要」原則は、第二次世界大戦後の世界においてさえも完全には否認されていない。
例えば、ミネソタ大学のG・フォングラーン教授は、無制限な軍事的必要主義は認めないものの、「必要」
に関する誠実な信念や確実な証拠が存在する場合には、この原則の援用や適用を容認している。
もっとも、同教授は、極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らかにされたなら
ば、軍事的必要を根拠にした違法行為は、戦争犯罪を構成するものになると警告している。
(略)
ちなみに、オッペンハイムの前記著作第三板(一九二一年)は、「敵兵を捕獲した軍隊の安全が、捕虜
の継続的存在により、死活的な重大危険にさらされる場合には、捕虜の助命を拒否できるとの規則が
ある」と主張している。同書第四版以降の改訂者は、同規則の存続は「信じられない」との意見を表明し
ている。
学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきであるというものである。
どこにも一旦拘束した兵を無裁判で処刑してよい、あるいは攻撃対象を移動させ改めて攻撃を続行しても
問題ないと書かれていません。 むしろ敵兵拘束により、“交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされ”
る場合以外は、助命を拒否できないと書いてあります。また、“捕虜の継続的存在により、死活的な重大危
険にさらされる場合”、“学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきで
あるというものである”と説明しています。
さらに、“極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らか”な場合の助命拒否は戦争
犯罪になるそうです。いったい否定派はどこをどう読んでるんですかね。
「南京事件 − 虐殺否定論の動向)」吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 1999年6月5日講演より
二、南京事件をめぐる論争について (2)国際法の無視による虐殺の否定
これらは国際法の歪曲ですが、もうひとつは国際法の無視です。これは何度言ってもこの主張を無視するんですけど、
彼らが言うのは便衣兵ですね。資料8を見てください。小林よしのりさんのマンガ。「便衣兵 − つまりゲリラである」、「軍
服を着ていない、民間人との区別がつかない兵である」、「国際法ではゲリラは殺して良い」、「ゲリラは掟破りの卑怯な手
段だからである」。いい加減にしてほしいんですけど、ちょっと一言説明しておきますと、ゲリラ、民兵、義勇兵というのは
国際法の中では主流ではなかったんですね。(中略)もう一度見なおしてください。4つの条件を満たしてのみ、民兵や義
勇兵には交戦資格が与えられる。だから捕虜になった場合でも、人道的に処遇されるということです。まあ第一項はいい
ですよね、責任者がいる。ところが、第二項の遠方より認識しうべき固着の特殊徽章を有すること。たとえば都市ゲリラの
場合、民衆にまぎれて、市民に紛れて行動するわけですよね、私はゲリラですってワッペンをつけて回るバカはいないわ
けで、これはゲリラの活動を規制する面があるんですね。当時の国際法自体がです。国際法は目安として重要なんです
けれども、国際法自体が歴史性というものをもっていて、特に戦前の国際法はゲリラという形をとって現れるような、民族
的抵抗を抑え込む役割を果たしていた。その歴史性ということを考えにいれないといけません。しかしそれを押さえた上で
もやはり当時の国際法からみても無理な主張を彼らはしています。
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便衣兵というのは1932年、昭和7年の第一次上海事変の時に登場してくるんですね。これは便衣という一般人の服で
すね、これを中国の学生や労働者が着て、正規兵も少しいたようですけど、民間人の服を着て、上海で一種の都市ゲリラ
をやる。単独で行動して拳銃で狙撃したり手榴弾を投げる、これを便衣兵というんですね。そういう民間人の服を着てゲリラ
的な行動をする戦闘者、これが便衣兵です。これは当時の国際法の解釈では、現行犯でですね、手榴弾を投げてきたり、
拳銃で狙撃してきたときは、現行犯で正当防衛で反撃できますけど、処刑するにはこれもやっぱり国際法上は軍事裁判の
手続きが必要なんですね。小林よしのりは国際法上は殺してもよいと書いていますけれど、これは全くの間違いで、軍事裁
判の手続きを経て、初めて処刑ができるわけです。それはそうなんで、民間人の服を着て、武器ももってないのに、お前は
目つきが悪いからゲリラだろうとか、まあ南京ではそういうことで殺しちゃったんですけど、そういうことをやると大変なことに
なるわけですね。事実、第一次上海事変の時には、日本の外務省の電文の中に残ってますけど、かなり誤認というか、間
違って一般人を殺してしまった。日本人の居留民が自警団みたいのを作って、自分たちで検問をやって、通行人を処刑しち
ゃう、殺害しちゃうんです。外国人まで間違えて殺害した例があって、これは日本の出先の外交官が本省に報告してますけ
ど、かなり間違えて一般人を殺してしまったのです。そういうこともあるから、当時の国際法の解釈でも、間違えて良民を、冤
罪の良民を殺してしまう場合もあるから、必ず軍事裁判の手続きを経ないと処刑できないんだというのは、当時の日本軍の
常識でもあった訳ですね。ところが、南京でやったことは、まず厳密にいって、便衣兵という戦闘者はいません。多少散発的
な抵抗はあったと思いますけど、『南京戦史』をみても、先ほどの『証言による南京戦史』を読み返してみたんですけど、難民
区の掃討に当たったのは第9師団の第7連隊という連隊で、その上の旅団長の副官の談話が載ってましたけど、城内に入
って難民区に入っても、殆ど抵抗はなかったということを言ってるんですね。だから中国軍の便衣兵による抵抗は無かった。
戦時重罪犯であるだけで即決処刑を可能とする学説・見解は存在しません。
『上海戦と国際法』信夫淳平 国際法学者 丸善 1932年 P114,P125-126
現交戦法規の上に於て認めらるゝ交戦者は、第一には正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵団
(Volunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負ふ者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の
特殊徽章を有し、(三)公然兵器を携帯し、(四)その動作に付戦争の法規慣例を遵守するといふ四条件を具
備するもの(正規兵も是等の条件を具備すべきは勿論である)
然るに便衣隊は交戰者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戰法規違反である。
その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衞として直ちに之を殺害し、叉は捕へて之を戰時
重罪犯に間ふこと固より妨げない。
便衣隊の害敵手段行使現行犯は正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に間う事と言って
るだけで、交戦者資格無き者というだけで即決処刑してよいとは言ってない。因みに南京で確認できた便衣隊は5,6人。
『国際法辞典』筒井若水 国際法学者 有斐閣 1998年 P81
伝統的な戦時国際法は、戦闘員資格をもつ正規軍による敵対行為だけを適法とし、文民等その資格を欠くもの
はもとより、正規兵であっても不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は交戦法規に照らして
違法としてきた。
不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は、違法と言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
『戦時国際法論』立作太郎 国際法学者 日本評論社 1944年版 P62
上述の正規の兵力に属する者も、不正規兵中、民兵又は義勇兵団に後述の四条件を備へざることを得るもの
ではない。 正規の兵力たるときは、是等の条件は、当然是を具備するものと思惟せらるるのである。正規の
兵力に属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失うに至るのである。例えば、正規の兵力に
属する者が、敵対行為を行うにあたり、制服の上に平人の服を着け又は全く交戦者たるの特殊徽章を付したる
服を着せざるときは、敵により交戦者たる特権を認められざることあるべきである。
正規の兵力に属する者が四条件を欠くときは、交戦者の特権を失うと言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
続く
「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P317
一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、投降したとは認められない
ので、攻撃できるのである。安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもできたのに、 それを
しなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとってむしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認
される限り、便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、安全区の存在とその特性を考慮に入れる
ならば、出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪
行為(対敵有害行為)を構成すると認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、彼らに正当な捕虜
の資格がないことは既に歴然としている。
安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しい為、正当な捕虜の資格はなく、軍律審判の対象たる戦争犯罪行為である
とし、逃走する敵兵は投降したとは認められないので攻撃できるが、逃走する敵兵以外を攻撃してよいとは言ってない。
「南京事件と国際法」吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 『南京大虐殺の研究』 1992年 P95-125
しかし、『南京戦史』の主張に従って、難民区内に本来の意味での『便衣兵』が多数、潜伏していたと仮定しても、
その殺害を正当化することは、国際法上不可能である。なぜなら、国際法の上では『便衣兵』の処刑には正規の
軍事裁判の手続きが必要であり、軍事裁判の手続きを省略した殺害が許容されるのは、その『便衣兵』が敵対行為
の『現行犯者』であった場合に限られていたからである
便衣兵が敵対行為の現行犯者であった場合は軍事裁判の手続きを省略できると言っているのであり、戦時重罪犯で
あるだけで軍事裁判の手続きを省略できるとは言ってない。
※因みに吉田裕は南京に便衣兵は居なかったという説を唱えている。
即決処刑を許容するのは信夫淳平と吉田裕で、信夫は便衣隊の害敵手段行使現行犯の場合、吉田は便衣兵の敵対
行為現行犯を具体的に指摘している。これらの現行犯以外での即決処刑については言及してない。
佐藤和男が現行犯とする安全区への逃げ込みは、正当な捕虜資格が得られないと言っているだけで、軍律審判の対象
であるとの事。この行為に対し即決処刑してよいとは言ってない。佐藤が許容する殺害とは逃走する敵兵への攻撃である。
筒井若水と立作太郎は、4条件を備えていない正規軍は交戦者たるの特権を失い、違法であると言っているだけで、
4条件を備えていないからといって即決処刑してよいとは言ってない。
つまり、どの説も戦時重罪犯であるだけで即決処刑が可能とは言っていない。戦時重罪の構成により直ちに殺害できる
場合がある、若しくは交戦者の特権を失うと言っているに過ぎない。学者・有識者の見解で、戦時重罪犯であるだけで
即決処刑を可能とする説は存在しない。
佐藤和男の言う違法な虐殺行為ではない潜伏敗残兵の摘発・処刑は、何人だったのでしょうか。
検証してみましょう。
「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P317
兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得
ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)― 軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣
兵の集団を審判することは「現実として能力的に不可能であった」と認めている―、また市街地における
一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。
したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる。
先ず、兵民分離査問(12月24日〜1月5日)での潜伏敗残兵の摘発人数を見てみましょう。
佐々木倒一少将私記
1月5日 査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約2000、旧外交部に収容
このうち何人が解放されたかというと、
読売新聞 1938(昭和13)年1月10日
敗残兵一掃のため行われた難民調査は、暮から始められて7日漸く一段落を告げて、敗残兵1600名と
その他のものは安民居住の証を与えられ、今では大手を振って城内を歩けるようになった
兵民分離査問で摘出された敗残兵は2000人、うち1600人は良民証を与えられています。残りが全員
処刑されていたとしても400人が最大値です。
佐藤和男の言う「潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる」は、最大でも僅か
400人。否定派の無裁判処刑合法論は、僅か400人の処刑が合法であるという論だったんですね。
否定派が言う「日本は極東軍事裁判の諸判決を受け入れたのであり。裁判そのものは受け入れていない」は、はたして
本当でしょうか。単純に言えばサンフランシスコ講和条約の accepts the judgments の訳の問題です。では政府見解を
見てみましょう。
外務省 歴史問題Q&A
問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。
1.極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦後、連合国が日本人の重大戦争犯罪人を裁くために設置された裁判で、28名
が平和に対する罪や人道に対する罪等により起訴され、病死または免訴となった者以外の25名が有罪判決を受けた
ものです。
2.この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、
極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない
と考えています。 ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~
平成18年2月14日 衆議院予算委員会
小泉総理大臣 「極東国際軍事裁判所の裁判については、法的な諸問題に関して種々の議論があることは承知している
が、我が国は、日本国との平和条約第十一条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している。御指摘の答弁は
いずれも、この趣旨を述べたものであり、その意味において相違はない。」
麻生外務大臣 「B級戦犯、C級戦犯含めまして、複数の裁判所の決定に皆従うという意味で、ジャッジメンツというぐあい
に複数になっているというように理解するのが正しい英語の理解の仕方だと存じますので、裁判所の判決ではなくて
裁判を受諾したというように、サンフランシスコ講和条約第十一条はそれを意味しているものだと理解しております。」
安倍官房長官 「今申し上げましたように、私は、もともとの正文である英文を引用してジャッジメンツと申し上げたわけで
ありますが、政府においてはそれは裁判ということで訳しているわけでありますが、基本的には、要はこれは何を我々は
受諾をしたかといえば、先ほど申し上げましたように、この判決について、またこの法廷もそうなんですが、それも含め
て我々が異議を申し立てて損害賠償等々をする、そういう立場にはない、こういうことではないだろうか、こう思います。」
政府見解ではjudgmentsを裁判としている事がお判りいただけたと思います。
そもそも、「判決」を受け入れるのと「裁判」を受け入れるのとでは何の違いもありません。判決を受け入れるという事は、
その判決理由や裁判所の管轄権をも受け入れることを意味し、判決理由や管轄権を認めず、刑の執行のみを受け入
れるという事にはなりません。また、もし刑の執行の受け入れのみを要求するのでであれば、サンフランシスコ講和条約
第11条には accepts the sentences と書かれていた筈です。
否定派は支那兵は投降していないと言いますが、実際には各部隊で投降を受け入れています。さらに、指揮官自身が捕虜
として認識していた事が下記の史料から判ります。しかしその後捕虜は殺害されているのです。
○&●=1次史料、△=2次史料(1次史料の補足として記載)
○第16師団第30旅団長 佐々木倒一少将私記 『南京戦史資料集T』
12/13「【俘虜】ぞくぞく【投降】し来り数千に達す」
○第16師団長 中島今朝吾中将日記 『南京戦史資料集T』
12/13「十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有し
たるが如きも其後漸次戦意を失ひ【投降】するに至れり」
△第16師団佐々木支隊所属独立攻城重砲兵第2大隊 沢田正久中尉証言 『偕行』(証言による南京戦史)『南京大虐殺の証明』
12/14「私は梶浦俊彦中隊長とともに、自動車で仙鶴門鎮へ走り、部隊を点検しました(略)われわれは墓地を利用して、接近
する一部の敵と相対しました。やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃【投降】してきました。
その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しま
した。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。【俘虜】の数は約一万(戦場のことですから、
正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに
銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。」
※仙鶴門鎮付近(堯化門附近)の投降兵7,200人は南京城内に護送され収容されましたが、残りの捕虜はこの様になりました。
↓
●第16師団歩兵第33連隊戦闘詳報 『南京戦史』
12/10〜12/14 [俘虜]将校14、准士官・下士官兵3,082 [備考] 1、俘虜は処断す
偕行『南京戦史』によれば太平門で1,300人を処断、他の場所で1,796人を処断
続く
○第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『本当はこうだった南京事件』
12/13「午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ掩護スルト共ニ同時ニ当面ノ掃蕩ヲ開始
ス…掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ【投降】スルモノ続出シ午前九時頃迄ニ三百余名ヲ得友軍砲弾ハ盛ニ城内ニ命中スルヲ見ル」
△第114師団歩兵第66連隊第一大隊第4中隊第1小隊長代理 小宅伊三郎曹長証言 『丸』(城塁 兵士達の南京事件)
12/12「それでも中国兵は三三五五【降伏】してきたので、私のところで検問して後に送った。(略)あとで千二百の【捕虜】が
いて、他の隊が捕まえた【捕虜】二、三百も合わせると千五百人(偕行『南京戦史』では1657人)になると聞いた記憶がある」
※上記の捕虜はこの様になりました。
↓
●第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『南京戦史資料集』
12/13「午後三時三十分各中隊長を集め【捕虜】の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分
配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地西南方谷地第三中隊は路営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地
附近に於て刺殺せしむることとせり(略)各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す」
○第13師団山田支隊長(第103旅団) 山田栴二少将日記 『南京戦史資料集U』
12/14「他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば【投降兵】莫大に
して仕末に困る(略)【捕虜】の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり」
○朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日]
「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で【捕虜】にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は(略)それが
皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求め
ているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜
だけは到頭食はせることが出来なかった」 注:山田支隊が捕らえた投降兵は軍服を着用しています。便衣兵ではありません。
※上記の捕虜はこの様になりました。
↓
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第4中隊 宮本省吾(仮名)少尉陣中日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
12/16「【捕慮兵】約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映
12/17「【捕虜兵】の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった」
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊歩兵砲中隊 菅野嘉雄(仮名)一等兵陣中メモ『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
12/16「夕方より【捕虜】の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す」
12/17「【捕虜】残部一万数千を銃殺に付す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第7中隊 大寺隆(実名)上等兵陣中日記『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』『南京事件』
12/18「昨夜までに殺した【捕リョ】は約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」
12/19「揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし」
否定派が挙げる即決の軍事裁判を検証してみましょう。
>・ラーベの日記にも即決の軍事裁判が行われた事が記されている。
ラーベの日記 12月17日 『南京の真実』 P124
軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の軍事
裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは
道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。
先ず説明すべきはラーベの日記は1次史料ではありません。日記は1938年にラーベがドイツに帰国し
た後に加筆されたもので、さらに出版の為に編集までされた2次史料で3等史料です。1996年に出版さ
れました。現在では日記の検証が各所で行われ、数々の矛盾と誤認を指摘されています。また、日本
語訳に誤訳が多い事でも知られています。では「中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の
軍事裁判によって銃殺されたのだ。」という箇所のドイツ語原文はどうなっているのでしょうか。日本語訳
の「軍事裁判」では漠然としているので、軍事裁判の内、どのような裁判であったのか考察してみます。
30 Leichen von chinesischen Soldaten, die dort gestern standrechtlich erschossen wurden.
訳「(戒厳令下の)即決裁判により昨日そこで撃たれた支那兵30の死体。」
Standrecht+lich(〜の)は厳戒令の;(戒厳令下の)即決裁判による;ですが、この即決裁判には正式
な裁判という意味はありません。standrechtをドイツ語版のWikipediaで調べます。
Standrecht bezeichnet im Wehrrecht den Zustand, bei dem die von den zivilen Behörden ausgeübte
Gerichtsbarkeit auf den höchsten Militärbefehlshaber übergeht, dem ein Kriegsgericht zur Seite steht,
das so genannte Standgericht.
訳「シュタントレヒトは防御状態の呼称です。これにより当局によって取り締まる管轄権は軍の最高司令
官に権限が委ねられます。そして軍法会議という制度が設置されます。いわゆる即決裁判です。」
この文章は戒厳令の説明文ですが、前後の文脈によりStandrechtを即決裁判または即決軍法会議と訳
す場合がある事も確認できています。さて、ラーベはStandrechtと書いていますが、ドイツでの軍による
正式な裁判はMilitärgerichtsbarkeitになります。ラーベは日本大使館及び日本軍と接触していて、軍の
情報を得られる立場にあったのに、1938年以降に加筆されている日記においてもMilitärgerichtsbarkeit
と書けなかったのです。ラーベはこの銃殺体がどの様な経緯で撃たれたのか知らなかったし、その後も
情報を得られなかったわけです。Standrechtは正式な裁判ではない即決裁判ですが、ドイツと違い日本
は即決裁判を行える軍の規則はありません。したがってラーベが(戒厳令下の)即決裁判と書いていたと
しても、そのような制度がない日本軍が即決裁判をしている筈がなく、裁判が在った根拠になりません。
否定派が挙げる合法な処刑を検証してみましょう。
>・南京国際委員会の第37号文書第185件にも日本軍の処刑を「合法な処刑」と記載されている。
南京安全区委員会文書 「第三十七号文書」 『南京大残虐事件資料集 第2巻』 P114-115
第百八十五件 一月九日朝、クレーガー氏とハッツ氏は、安全区内の山西路にある中央庚款大廈の
真東にある池で、日本軍将校一名と日本兵一名が平服の一市民を虐殺するのを目撃した。
クレーガー氏とハッツ氏が現場に着いた時には、男は割れた氷がゆれ動く池の水に腰までつかって
立っていた。将校が命令を下すと、兵士は土嚢の後に伏せて、男に向けて発砲し、男の肩に弾丸が
あたった。再度発砲したが弾は外れ、第三弾で男は死亡した(1)。(クレーガー、ハッツ)
(1)われわれは、日本軍による合法的な死刑執行にたいして何ら抗議する権利はないが、これがあま
りにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確かである。そのうえ、このようなやり方は、
われわれが日本大使館員たちと個人的に話し合ったさいに何回も言ったような問題をひきおこすので
ある。つまり、安全区内の池で人を殺すことは池の水をだいなしにするし、そのため、地区内の人々に
たいする給水量が大幅に減少するのである。このように乾燥が続いており、水道の復旧が遅れている
さいに、これはきわめて重大なことである。市による水の配給は非常に手間どっている。(報告者注)
「平服の一市民を虐殺するのを目撃した」と書かれている事から軍律審判の判決による処刑と推測する
事はできますが、合法的な死刑執行としか書かれてなく、どこにも軍事裁判が行われていたとは書かれ
ていません。合法としたのもクレーガーとハッツがそう感じただけで、両者とも死刑に至る経過を知りま
せん。
また、この処刑が合法であった可能性はありません。軍律審判の判決による処刑であれば、中支那
方面軍軍律審判規則によって、検察官の指揮に依りその執行は憲兵が為す事とされていますが、男に
向けて発砲したのは兵士です。検察官(検察官は法務官の中から所管軍法会議長官によって任命される)
を将校と見間違えたとしても、憲兵と憲兵以外の兵科は帽子が全く違い、憲兵の帽子は将校と似ている
ので、この兵士が憲兵であった可能性はありません。検察官と憲兵それぞれ見間違えるとしたら将校二名
と思うか、将校一名と兵士一名のうち、将校が発砲したと思う筈です。つまり、この場に居た日本兵は検察
官と憲兵の二名ではなかった事になります。したがってこの処刑が合法であった可能性はありません。
南京事件初心者用FAQ
@ 便衣兵とは何ですか?
Ans.広義と狭義があります。広義は、一般市民と同じ私服・民族服などを着用した中国兵士(Wikipedia)で、
狭義は、抗日義勇軍・新四軍・遊撃隊のように当初からゲリラとして編成された部隊(偕行『証言による南京戦
史』)です。また、狭義の便衣兵は便衣隊・ゲリラ部隊と同義として使われ、広義の便衣兵はハーグ陸戦条約
4条件違反者という意味が内包されます。※このFAQでは広義の意味での便衣兵を使います。
A 便衣兵は捕虜になれないのですか?
Ans.なれます。但し必ずなれるとは限りません。このような議論で否定派は立作太郎の『戦時国際法論』の
一節を引用します。「正規の兵力たるときは、是等の条件は、当然之を具備するものと思惟せらるるのである。
正規の兵力に属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失ふに至るのである。」
どこに捕虜になれないと書いてあるのでしょうか。交戦者たるの特権を失うと書かれているだけです。交戦者
の特権とは捕虜として扱われる権利だけではなく様々な権利があります。特権を失うとは、ゲリラ戦に至った
場合、現行犯はその場で処刑されても仕方がない、間諜と間違えられても仕方がない、文民と間違われて
刑法犯とされても仕方がない、こういった場合に権利を主張できないという事です。また、捕らえた敵兵をいつ
から捕虜とするかは指揮官の自由裁量ですから、4条件違反者であっても捕虜にして構いません。なぜなら
4条件違反者を捕虜とする事を禁止した条約・慣習法は存在しないからです。何れにしても立作太郎は便衣兵
を捕虜としてはならないとは言っていません。
簡単な例えで説明しましょう。正規の交戦者が着替えている最中に無抵抗で敵軍に捕らえられたとしましょう。
(戦場に居たのですから捕らえられずにその場で射殺される場合もあります。これは違法ではありません。今は
捕らえられた場合を考えてみます)この者は捕虜になれないのでしょうか。答えは「捕虜になれる」です。軍人が
軍装ではなかったり武器を携行していなかったといえども、これを罰する条約・慣習法は存在しません。4条件
違反者が害敵手段を採れば戦争犯罪になりますが、4条件違反者が戦場に居ただけでは犯罪になりません。
不審者として拘束される事はあっても即決処刑はできないのです。指揮官の裁量次第では捕虜にもなれます。
因みに、1929年ジュネーブ捕虜条約において、【第一条(俘虜の語義)本条約は第七編(或種非軍人に対する
条約の適用)の規定を害することなく左の者に適用せらるべし。(一)陸戦の法規慣例に関する千九百七年十月
十八日の「ヘーグ」条約付属規則第一条、第二条及第三条に掲ぐる一切の者にして敵に捕へられたる者】と
されており正規兵又は之に準ずる非戦闘員であれば、捕えられた場合、捕虜としての扱いを受ける権利を持ち
ます。日本は1929年ジュネーブ捕虜条約に署名をしていますが批准はしていません。しかし、南京戦時に国際
法上の捕虜の定義が確立されており、ハーグ陸戦条約を批准している以上、ハーグ条約でいうところの捕虜は
1929年ジュネーブ捕虜条約で定義された捕虜となります。したがって便衣兵であっても投降してきた場合や降伏
した場合は、戦時重罪犯として裁判が行われるまで拘束されるか、指揮官の裁量次第で捕虜になれます。
B 便衣兵を捕らえた場合は即決処刑(無裁判処刑)してよいのですか?
Ans.いいえ。便衣兵は交戦者資格がないので即決処刑して構わないという解釈は、ハーグ陸戦条約に
より否定されています。害敵手段・攻囲及砲撃の章で下記の禁止事項があります。この禁止事項は相手側
の交戦者資格有無に関係なく禁止されています。※ハーグ陸戦条約上は、交戦者資格無き者は捕虜にな
れない、交戦者資格無き者は条約の規定から外れるとは一切書かれていません。
第二款 戦闘、第一章 害敵手段・攻囲及砲撃
第二十三条 特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外特ニ禁止スルモノ左ノ如シ
ロ 敵国又ハ敵軍ニ属スル者ヲ背信ノ行為ヲ以テ殺傷スルコト
ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト
ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト
チ 対手当事国国民ノ権利及訴権ノ消滅、停止又ハ裁判上不受理ヲ宣言スルコト
便衣兵(交戦者資格無き者)であっても背信の行為を以って殺傷する事はできない。便衣兵であっても武器
を捨て投降してきた者を殺傷する事はできない。便衣兵であっても助命しないと宣言してはならない。便衣兵
であっても権利及び訴権を奪ってはならない。また、裁判を行わないと宣言してはならない。よって、捕らえた
便衣兵は戦時重罪犯として裁判が行われるまで拘束しなければなりません。
チの対手当事国国民には、民兵・義勇兵団を含む交戦者が含まれます。国民とは住民の意味であるという
解釈はできません。ハーグ陸戦条約では住民・人民と、国民を使い分けて記述されています。
対手当事国国民:the nationals of the hostile party 住民・人民:the inhabitants
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約の前文に次の記述があります。「人民及び交戦者」。この部分の原文は、
the inhabitants and the belligerents となっています。では、ハーグ陸戦条約における国民とは何でしょうか。
国民が住民の意味であれば、チの項の原文はこうなっている筈です。the inhabitants of the hostile party
しかし実際は違います。国民(nationals)=住民(inhabitants)+交戦者(belligerents)と考えるのが自然です。
因みに権利及訴権の原文は law the rights and actions ですから、訴権に限らず法的な行動全てを指します。
否定派は「捕獲した大量の便衣兵を裁判にかける事は能力的に不可能であった」と原剛も認めていると言い
ますが、原剛は「だからといってこれが合法であったとは言い難い」と書いています。では、全員を裁判にかけ
る必要があったのでしょうか。兵士は指揮官の指示に従っているだけなので、部隊に戦争犯罪行為があった
としても兵士全員を裁判にかける必要性はなく、部隊を統率していた指揮官がその責任を負うのであり、通常
は指揮官のみの裁判で済みます。便衣兵全員を裁判にかける事は不可能であったから処刑したという理屈
は成立しないわけです。
C 便衣兵を捕らえた場合は本来どのように対処すべきだったのですか?
Ans.便衣兵はハーグ陸戦条約の4条件違反者ですから、捕らえた場合は戦時重罪犯として軍事裁判の
判決により処するのが本来の手順でした。裁判が行われるまでは拘束される事になります。裁判の種類は
中支那方面軍軍律審判規則第十条により、特設軍法会議になります。罪状は陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則
第一条違反となり、適用される法律は陸軍軍法会議法になります。罰則も陸軍軍法会議法に定められた規則
に依ります。この特設軍法会議は1938年1月初旬に設置されるのですが、この時に中支那方面軍と上海派遣
軍、第十軍の管轄区分を定めた「中支那方面軍に於ける各軍法会議の事務取扱に関する件」を松井軍司令
官が制定します。この規定によると「陸軍軍法会議法第一条乃至第三条及第六条記載の者に対する被告事
件を審判」する事になっており、第六条の記載にこう書かれています。「本条は、戦時又は事変に際し軍事上
の必要に基き第一条に記載したる以外の者に対しても、亦如何なる犯罪であっても總て軍法会議に於て裁判
権を行ふことが出来得る旨を規定したるものである」つまり、自国の軍人に限らず、敵国軍人・軍属であっても
戦時におけるあらゆる犯罪を管轄する司法権限を有するという事です。
例外もあります。捕らえた者が軍人か民間人か判断できない場合(便衣兵嫌疑者)は、軍律審判で真偽を判
断するしかありません。間諜(スパイ)嫌疑者も、軍人か民間人か判断できない場合は同様に軍律審判で判断
するしかありません。軍人と判断されれば次は軍法会議での裁判となり、民間人と判断されれば釈放されます。
尚、占領地の住民の犯罪は中支那方面軍軍律により、軍律審判による行政処分を受ける事になります。
また、軍法会議により支那兵が死罰となったとしても、刑の執行は陸軍軍法会議法第五百二条により陸軍
大臣の命令がないと出来ません。
裁判の対象になるのは全ての便衣兵ではありません。捕らえた部隊全員が便衣であれば部隊の指揮官が
その責任を問われ、軍服を着用した部隊にあって個々で便衣に着替えていた場合は個人に責任が問われま
す。前者の場合、指揮官以外を捕虜とする事も出来ます。余談ですが南京戦時、国民党軍人・軍属のうち軍服
着用者は2割程しか居なかったと言われています。そもそも制服を支給されていなかったのです。したがって殆
どの場合、部隊の指揮官のみを裁判にかければ済む事になります。
D 安全区で捕らえた便衣兵は文民保護というハーグ条約の主旨に反しています。即決処刑は合法になりますか?
Ans.なりません。ハーグ陸戦条約のどこにも兵民分離違反について書かれた条文はありません。否定派が条
約の主旨をまるで条文の如く吹聴しているだけです。これは否定派のダブルスタンダードで、ある時は条文に書か
れていないから合法と言い、またある時は条文に無い条件を当てはめます。該当条文が無ければ、4条件違反
以外の違反行為はありません。但し国際慣習法としては問題があります。しかしゲリラ活動の為の潜伏ではない
ので、安全区に潜伏していたのを発見されたとしても、正当防衛としてその場で射殺しない限りは通常の戦時重
罪犯として対処しなければなりません。実際に安全区内で捕らえられた便衣兵について、ゲリラ活動を示唆する
記録はありません。捕らえられた便衣兵に関してはどの記録を見ても武器を携行していないのです。ゲリラ活動
の記録も若干はありますが、それらの記述では「便衣隊」「ゲリラ部隊」とされており、ここでいう便衣兵とは別の
存在です。(掃討戦時に物陰から射撃された記録はありますが、射撃した兵はその場で殺害されており、射撃し
た兵が便衣兵であったという記録はありません。掃討戦時に攻撃された例では兵を捕らえておらず、応戦してい
ます。また、不意に手榴弾を投げられ、拘束兵が逃走を図った記録もありますが城外の出来事です。これらは戦
闘の延長ですので敵兵の殺傷は合法となります。しかし安全区で捕らえた兵が抵抗したという記録はありません。)
軍装を放棄し、便衣でいる事自体が害敵手段という見解は、この件には当てはまりせん。害敵手段とは戦争の
目的を達成する為に敵に対して行う暴力的または策略的行為ならば、安全区に逃げ込んだ便衣兵は戦争目的
達成に何ら寄与する事はなく、武装も放棄しているのですから、件の便衣兵に当てはめるのは無理があります。
また、文民保護の観点でいえば、否定派は防守地域であれば軍民無差別攻撃して構わない、南京を占領下に
置くまでは城内で兵民問わず何人殺害しても合法と言いますが、この論法こそ文民保護を無視しています。安全
区で捕らえられようが安全区外で捕らえられようが便衣兵への対処はAns.Cの様に実施されなければなりません。
E 捕らえた便衣兵は裁判後、処刑されたのですか?
Ans.いいえ。裁判が行われた記録はありません。公式記録にないどころか、嘘を吐く事ができる証言でも裁判
に参加した者も見た者も居ません。南京戦に参加した兵の日記・メモ・手記の記述にも裁判に参加した者も見た
者も聞いた者も居ません。また、極東軍事裁判松井石根判決文に「このようにして、右のような捕虜三万人以上
が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった」とあります。
松井石根裁判での弁護側反証に以下の様なやりとりがあります。中山証人:安全地区内に一部の敗れた兵が
潜んでおりまして、しかも武器を持って潜んでおったのでありますから、これを探し出しまして、すなわち軍法会議
にかけて処断したという事はあるいはあったと思います。それを大袈裟に伝えられたものと思います。サトン検察
官:彼らが射殺される前に、軍法会議にまわされたのは幾人でありましたか。中山証人:数は覚えておりません。
この中山証人が本当の事を言っている保証はありませんし、実情を知っていたのか判りません。何れにしても
「あるいはあった」「覚えておりません」との証言から判るように推測で言っているだけです。そもそも城内で摘出さ
れ刺射殺された兵は6670人であり、数が合いません。その後の判決でこの主張は一切認められなかったのです。
F 軍事的必要が在った場合は捕虜を殺害してよいとの学説がありますが南京戦時に適用できますか?
Ans.適用できません。南京戦時に軍事的必要は国際慣習法として成立していませんでした。下記を参照下さい。
「いわゆる南京事件の不法殺害」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 『日中戦争再論』 2008年 P143-145
また、第一次世界大戦前後にドイツで唱えられた、軍事的必要 ( 危機 ) の場合、国際法規慣例の遵守よりも
軍事上の必要性が優先するという「戦数論(Kriegsrason)」を援用して、大量の捕虜・便衣兵の殺害は危機回避
のため正当であると主張する論もあるが、多くの国際法学者はこの「戦数論」に反対している。立作太郎もこれを
認めることは、「戦時法規の自殺に外ならぬ」と言い、さらにこの論は「交戦法規全般の拘束力を微弱ならしむる
ものである。此説はドイツの一部の学者の唱道する所に止まり、国際慣習法上に於て認められたる所ではない
のである」と論じている。南京占領時の日本軍は、当時の「戦闘詳報」・「陣中日誌」・将兵の日誌などを見る限り、
捕虜や便衣兵を殺害しなければならないほど、危機に瀕してはいなかったのである。したがって、たとえ軍事的
必要 ( 危機 ) 論が一部に認められていたとしても、この論は適用できないと言わざるを得ない。
『戦争法の基本問題』田岡良一 国際法学者 岩波書店 1944年 P122
従って「戦数は否定されていない」と主張する場合でも、それは必ずその正当化となる根拠を示した上で主張され
なければならず、ここで否定された肯定論とても「緊急権」を根拠としているように、単に「戦数によって戦争法を
逸脱出来る(ことは否定されていない)」などと主張することは許されるべきではないと思う。
『国際法辞典』筒井若水 国際法学者 有斐閣 1998年 P72
クリークスレーゾン 独Kriegsrason
第一次大戦前に主としてドイツの学者によって唱えられた考え方であるが、戦争法はそうした必要を既に組み込ん
だものであり、濫用を正当づけるための口実として使用されるおそれがあるとして批判が多い。
『現代戦争法規論』足立純夫 国際法学者(国際人道法) 元防衛大学教授 啓正社 1979年 P28
第1次及び第2次世界戦争を通じて、Kriegsraisonの主張及びその実行はしばしばドイツ軍により行われた。国際
法学者の大部分は既に第1次世界戦争以前からこの主義に反対している。
『オッペンハイム国際法論 第3版』ロナルド・F・ロクスバーグ 1920年
「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵
に対して、第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容
すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合においてである」
南京戦前の第4版(1926年)では「第三は、緊急必要の場合において・・・」以降の部分は削除されています。つまり、
南京戦の時点で緊急必要の場合(軍事的必要)における助命拒否は国際慣習法として認められていなかったのです。
G 捕虜は戦時復仇の対象として殺害したと考えられますか?
Ans.考えられません。戦時復仇は交戦相手に戦争法規を将来遵守させる目的に限り、戦争法規の禁止または
制限に反する措置を許されるというものです。国民党軍が南京から撤退している状況下では交戦相手に対し、戦争
法規を将来遵守させるという目的を失っています。交戦相手が復仇の措置を知りえない場合、復仇を行う事はでき
ないのです。復仇自体は南京戦時に認められた行為であり、現代の国際法においても復仇として行われる行為の
違法性は阻却されますが、復仇に至る過程と復仇の手段及び範囲は理に適っていなければならないのです。
下記を参照下さい。
『現代国際法入門』エイクハースト・マランチェク 成文堂 1999年 P573
復仇は、国に戦争法の遵守を強制する、延いては実際上国際法一般の遵守を強制する主要な手段の1つであ
る。 復仇は、通常は違法行為であるが、しかし復仇が向けられる国が行った先行違法行為より合法とされる行
為である。すなわち、それは、先行違法行為に対する一種の返報である。復仇は、他の救済手段(たとえば、抗
議および警告)が失敗に終わったときにはじめて使用される。
『戰争と國際法』立作太郎 国際法学者 東京外交時報社 1916年 P35-38
戰時復仇は戰時に於て行ふものであつて、敵國政府叉は軍隊の交戦法規違反の行爲叉は敵国私人の不正
なる敵對行爲に應じて、敵國、敵軍叉は敵人に対して加ふる所の惡報である。理論としては、敵をして將來に於
いて交戰法規を遵守せしめ、若くは不正の敵對行爲を行はざらしむる目的を以て、叉は敵の既に行ひたる交戰
法規違反の行爲、若くは其他の不正の敵對行爲の結果を復舊し、不正行爲を行へるものを處罰せしむる目的
を以て行ふべきものと為すのが、學者の唱ふる所であつて許多の學者は戰時復仇が交戰法規違反の救済の
手段としてのみ之を認むのであると稀するのである。(略)
交戰國の一方が交戰法規に違反せる場合に於て、他方の交戰國は交戰法規の遵守の義務を解除せらるる
者であるか否かは一の問題である。或る學者は一方の違反は他方の交戰者に對して、交戰法規を遵守するの
義務を解除すると爲すのである。(リユーダー・ホルツエンドルフ 國際法提要第四巻二五五頁)若し此の説が正
しいとすれば、復仇手段は對手國の違反行爲の救済の目的を以て之を行ふに限らずして、苟も對手國に交戰
法規の違反あれば此方も亦交戰法規違反の行爲を行ひ得ると爲さねばならぬ。併しながら假令對手國が違反
行爲を行ふも、直ちに此方の交戰法規遵守義務が解除せらるるのでは無くして、其の救済を求むるを得るに至
るのみであるとの説が最も有力なのである。(ウエストレーキ 國際法戰時一一四頁)此等の見地より見れば復仇
は對手國をして將來に於て交戰法規を遵守せしめ、若くは敵の己に行へる交戰法規違反の行爲の結果を復舊
せしむる目的を以て行ふべきものであると言はねばならぬ。
H 捕虜と俘虜の違いは何ですか?
Ans.戦前は捕らえた者を総称して捕虜と呼んでいました。捕虜のうち、公式に扱われる者は俘虜と呼ばれます。
また、「戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という」(秋月達郎)とする解
釈もあります。戦後は俘虜という言葉が使われなくなった為、従来の意味の俘虜であっても捕虜と記される事が多
くなっています。戦前の捕虜と俘虜の使い分けの例が下記文章です。
飯沼守少将日記(上海派遣軍参謀課長) 1937年10月9日 『南京戦史資料集』 P142
歩戦協同不十分なり(敵の夜襲に追踉する夜襲)“俘虜”を作る如くす敵動揺の兆あるに乗し来る者は“捕虜”と
すへし、彼等は日本軍に捕らわれは殺さると宣伝しあり之を是正すること
尚、南京戦2ヶ月前に俘虜の扱いに関する訓令が発せられていました。
戦闘二関スル教示 上海派遣軍第十三師団司令部 1937年10月9日 『南京虐殺の徹底検証』 P93,94
11、俘虜ノ取扱二就テ
多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スル
ラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍
ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人
員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。
しかし支那事変は日本側・国民党側双方とも、戦争ではなく地域紛争であるという立場を採っていた為、上記の訓
令が発せられた後、俘虜の名称を努めて避ける様、下記の通達が出されました。厳密に言えば、戦争ではないの
で俘虜という名称は使えなかったわけです。
交戦法規ノ適用二関スル件 次官通牒陸支密第一七七二号 1937年11月4日 『南京戦史』 P339
日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動(例へハ戦利品、“俘虜”等ノ名称ノ使用或ハ軍
自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セルト公称シ其ノ他必要己ムヲ得サルニ非サル二諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言
動)ハ努メテ之ヲ避ケ
これらの経緯は、南京事件の史料を読み解く上で知識として頭の片隅に置いておかれる事をお勧めします。
まとめ
南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも
犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。3万人以下とはいえ、これだけの人数を無裁判で処刑すれば虐殺
と呼ばれても仕方がありません。
しかし否定派は当時は他国の軍隊も捕虜を無裁判で処刑していたと反論をします。他国もやっていたとすれ
ばその国も虐殺をしていた事になるだけで、他国もやっているからいいという事にはなりません。対手国が戦争
法規を無視してるとしても文明国である日本は遵守義務があるのです。単なる手続き上のミスである、処断が
処刑とは限らないという反論に至っては愚の骨頂というしかありません。もはや否定派の反論は肯定派の主張
を歪曲するか、肯定派を十派一絡げにし、市民大量殺害の記録は無いから南京事件は無かったと言い張るし
かないのです。そうしなければ中間派(中・小虐殺派)に言い返す言葉が無いからです。市民にも相当の犠牲が
あったでしょうが戦争である以上、市民の犠牲者は出ます。しかし組織的に市民を殺害した証拠はないので市
民殺害を以って南京事件の本質とする理由がありません。肯定派でも市民大量殺害説を唱える者は少数です。
否定派は存在しない大虐殺肯定派に対しシャドウボクシングをしているのです。また、広島・長崎への原爆投下、
都市への空襲の方がはるかに残虐であり大犯罪と言いいます。これには同意しますが、だからと言って南京で
日本軍が犯した犯罪が相殺されるわけではありません。戦争犯罪はどれも酷く、南京事件もその中の一つです。
前掲した様に、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようと試みても、学者・有識者の見解はことごとく裁判は
必須との事です。もはや無裁判処刑合法論は破綻し、この期に及んで合法論を唱える者は無教養と言わざるを
得ません。追い込まれた否定派の中には裁判が在ったと主張する者も居ます。裁判が在ったとする根拠は、無
裁判で処刑された証拠が無いからと主張する有り様です。処刑の記録があり、その処刑に対しての裁判記録・
証言が無いのだから自明なのですが決して認めません。およそ論理的とは言えない主張です。或いは詭弁と知
りながら言っているのです。
別の観点から見れば、否定派は信じたい事以外は認めない思考停止状態に陥っていると言えます。その傾向
は無裁判処刑合法論以外でも、証言についての反応で見られます。例えば処刑を見たという証言は検証できない
と言い、処刑など見た事もないという証言は無条件で信じます。当たり前の話です。処刑は城外で行われました。
城内に居た者は見れる訳がありません。また、処刑の場に立ち会った者は日本軍の中でも僅かであろう事も付け
加えておきます。処刑を見た者と見なかった者、相反する立場が共存していても矛盾しません。
他にも、陥落直後に城内で飲食店や露店が営業していたから南京は平和であった、だから虐殺など在り得ない
と言います。しかしこれも城外での処刑が無かった証拠にはなりません。このように否定派の主張は全く非論理的
であり、2択にならない条件を2択に誘導し、虐殺は無かったと詭弁を使います。証言は証拠にならないというの
なら、一切の証言を無視すべきです。持論に都合のいい証言は信じ、そうでないものは切り捨てるといった手法
では、その史実探求に誠実さは望めません。日本が過去において過ちを犯したと思いたくないのは判りますが、
史実の探求に感情論を持ち込んではいけません。