>>455の続き・・・(´・ω・`)
【C夏一家が12月13日まで新路口に居たとする不自然さ・・・(´・ω・`)】
ラーベの日記を確認すると、12月12日の時点で南京南部新路口周辺は一般市民が
留まれる状況ではなかった事が確認できる・・・(´・ω・`)
【ラーベの日記:1937年12月12日】
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http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/178.html その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。日本軍に追われているといっているが、
そんなはずはない。いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。
この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきたことがわ
かった。しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、いつしかのんびりとし
た行進にかわっていた。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきているこ
と、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。
【二十時】
南の空が真っ赤だ。・・・・榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降つてくる。南の方角は
一面は火の海だ。轟音がやまない。
これほどの状況だったにもかかわらず、夏氏の証言では前日の状況が語られた事が
全く無い・・・(´・ω・`)
●以上をまとめ下記理由より夏氏は『新路口』には住んでいなかったと判断する・・・(´・ω・`)
@『現在の馬台街一一〇号に住んでいた』とはっきり明言している事
A字が読める夏氏自身が『新路口』の位置を知らない不自然さ
B12月12日の時点で中華門付近は一般市民が留まれる状況ではなかった事
終わり・・・(´・ω・`)∩