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日出づる処の名無し:
日本経済新聞 2009年8月12日 朝刊
BC級戦犯裁判 ◆◆◆証言を読む 第1部 A
シンガポール華僑粛清
(前略)
1941年12月の開戦後、マレー半島に上陸した日本の第25軍は破竹の勢いで進軍し、
翌42年2月にシンガポールを陥れた。中国戦線で抗日分子に手を焼いた経験から、
山下奉文司令官は憲兵隊などに華僑の摘発を命じた。容疑者の選別は「インテリ風」など
あいまいな基準で行われ、裁判なしの即決処刑だった。犠牲者は日本側が認めた数で
5千人。地元では4、5万人と言われている。
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作戦開始当初、山下司令官は「今時大戦の目的は大東亜共栄圏の確立にありて、
敵はあくまでも米英蘭なり。華僑は大東亜民族の一員にして当然味方なり」と粛清に
反対していたが、幕僚の強硬な意見に押し切られたという。
各地区で銃殺や銃剣による刺殺などが行われ、船で沖合まで運び、突き落として水死
させる残酷な方法も採られた。粛清を起案したとされる辻政信参謀は「俺(おれ)は
シンガポールの人口を半分にしようと思っている」(大西覚「秘録昭南華僑粛清事件」)と
常軌を逸した指導をしたという。
英軍シンガポール裁判第118号事件の法廷で、責任者とされた河村参郎警備司令官は
「警備隊地区全中国人を特定の集合地へ集結せしめ、42年2月21日から23日までに好ましく
ないものを処分すべし」との命令を受け、それに従ったまでと供述。「抗日華僑は敵にして
一般住民にあらず。弾圧処分は純作戦行動にして正当行為なり」と主張した。
(中略)
終身刑判決を受け、その後釈放された元憲兵少佐は聞き取り調査で「攻略戦直後の粛清
は必要だった。しかし、検挙した者は刑務所に収容して取り調べるべきだった。その結果、
裁判に付したならば、将来に禍根は残さなかった。粛清処分はやるべきではなかったと痛感
している」と話している。