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反政府活動
1971年49才になったキム・デジュンは大統領候補遊説途中、自分が地方からソウルに上がってくる途中、
当てられた交通事故を朴大統領側が犯した暗殺陰謀と偽ってかぶせた。 キム・デジュンの家に爆発物を設置し、
爆発させて共和党が自身を暗殺しようとしたと主張したこともあった。 7代議員当時には8代国会議員党公認を
するとだまし、パク・ジョンテから5百万ウォン、キム・セジョンから3千8百50万ウォン、以遠型から1百万ウォン
など4千4百50万ウォンを詐取した記録もある。 その後にも国会議員という職位を悪用、湖南(ホナム)製粉、
東亜建設、対韓農産、三養(サムヤン)水産代表らから巨額の政治資金を受け取った事実も明らかになった。
大統領選挙でパク・チョンヒに敗れると彼は体の治療のため日本に渡っていった。 1971年、東京プラザ ホテルで
キム・ビョンシク副主席から20万ドルを受けたという記録もある。 1972年10月に維新戒厳令が宣言され国会は
解散した。 これにキム・デジュンは日本とアメリカを往来して韓国に対する経済援助と軍事援助の中断、
亡命政府の樹立、キム・イルソン政権との接触の試みなど反国家的行為を敢行した。
1973年4月には米国ハーバード大コーヘン教授に、韓国のパク政権を打倒するために米国が軍事援助を中断し、
駐韓米軍を撤収させるように米議会指導者に圧力を加えてくれと訴えた。 また米国で北朝鮮を訪問した
親北朝鮮塊分子らに会い、反国家団体の韓民統を組織した。 この時期に彼は自民党出身ながらも左派議員の
宇都宮議員など、日本国会議員らからの支援を受ける一方、反国家団体に規定された"韓民統"を組織し、
議長に座るなど日本を舞台として反政府運動を行った。
1973年8月8日、彼は東京パレス ホテルで中央情報部要員らに拉致され、129時間ぶりにソウルへ強制連行され
た。 これに対してパク政権は国内野党支持者らの強い反発と、主権の侵害という日本の非難に直面したが、
米国の斡旋で日本政府と水面下で接触を行い、駐日韓国大使館1等書記官キム・ドンウンを解任し、
キム・デジュンの海外滞留中の言動に対しては責任を問わないことにし、キム・ジョンピル総理の訪日謝罪など
で終えられた。 これでこの事件は86日で政治的に決着された。
扇動と内乱陰謀の時期
1974年12月、自宅軟禁中にあったキム・デジュンは在野団体の‘民主回復国民会議’に参加し、在野活動を
再び始めた。 1976年3・1記念日記念ミサでユン・ボソン・ハム・ソコン・文益換・キム・スンフンなど在野の人々と
共に民主主義、経済入国構想再検討、民族統一などを主張する'3・1民主救国宣言'(別名明洞(ミョンドン)事件)を発表し、
大統領緊急措置9号の違反で懲役5年、資格停止5年の確定判決を受け、進駐刑務所に収監された。
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