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キム・デジュン氏の弔意金着服の事実が広く党内に伝えられ、党内はもちろん選挙区全体から非難が集中した。
それで窮地に追い込まれたキム・デジュン氏は、反対に離党したキム・ジェドン、白鷹期など4名を名誉毀損で
告発した。 告発された4名はキム・デジュン氏を横領と虚偽申告で対抗し、告訴する事態まで発展したが、
その後事件はうやむやに終わった。
1960年、37になったキム・デジュンは、庶子が国会議員に出馬することの不利を知り、4兄弟姉妹を率いている
義父キム・ウンシクと彼の本妻キム・スンレに戸籍上の離婚を強要した後、彼の生母チャン女性を本妻として
入籍させ、自身をキム・ウンシクの次男として登録し、江原道(カンウォンド)、麟蹄郡(インジェグン)北面元通里で
分家、転籍した。
1960年7月29日、419革命で実施された国会議員選挙で、キム・デジュンは江原道、麟蹄郡民主党候補として
出馬した。 7人の候補が乱立した中で、419革命で倒れた自由党の名前を掲げて善戦した典型産種が
キム・デジュンを押して当選した。 この時キム・デジュンは相手方候補を謀略するために色々な機知を発揮した。
自身の選挙参謀を、自派党員を使って殴打させた後に、相手の党院がテロをしたと逆宣伝をし、自身の選挙運動員に
相手方の腕章をさせてゴム靴を配給、有権者の反感を呼び起こしたりもし、相手の党院を装って、有権者らに
会食があると招請する虚偽宣伝をして、相手方候補に対する反感と不信感を持つようにし、キム・デジュンの
サインを受け入れる者にはお金を与え自身の人気を操作することもした。
このようにしたのに落選すると、キム・デジュンは4百人のデモ隊を組織、郡庁開票所に乱入、投票した22ヶ所中
15ヶ所を強奪した後、全氏の辞退を強要する暴力デモを行った。 その後の民主党政権が全氏を公民権制限
対象者として、議員資格を剥奪するとキム・デジュンは1961年5月の補欠選挙で当選した。
民主党の国会議員になったキム・デジュンは1961年7月から民主党宣伝部長になった。 この時にも
キム・デジュンはまた他の横領事件を犯した。 宣伝部長として学院作りを理由として調達した選挙資金、
3千7百万ウォン中7百 70万ウォンを横領した疑惑で拘束されて、検察に送検された。
1962年10月、39才になったキム・デジュンはイ・ヒホ氏と見合いで結婚した。 キム・デジュンは国会議員時代に
妻李氏を自身の秘書官として登録、海外旅行に伴うこともした。
(4/6)続きます。