【wktk】韓国経済ワクテカスレ 226won【朝鮮特急ゼネスト逝き】

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480日出づる処の名無し
>>470,477の続き
キム・デジュンはキム・ウンシクの庶子として育ち、国民学校と木浦(モクポ)商業を卒業した後、日本人が
運営する海運会社に就職し、仕事をしていたが解放をむかえるやその海運会社を日本人から取得した。
この時彼は22才であった。

青年期

一方では海運業をしながら他の一方では、新民党(後で南労働党に合併)と民主愛国青年同盟、全国労働
評議会など"猛烈左翼政党と団体"で活動し"南労働党"木浦市党青年部長で派出所を攻撃するなど
破壊活動に参加した。

27才の時、6・25が勃発し、木浦が共産軍の手中に入るや木浦市人民委員会結成に参加し、賦役行為を
管理した。 人民軍が退却した後、南労働党交渉部長兼民主主義民族戦線副委員長ユ・ジェシクに活動資金を
提供したという罪目で、全南道(チョンナムド)で検挙されていた。 一方50-56年間の木浦海運会社を経営している
間に船員の給料と船の掛け金1億 5千万ウォンを横領して逃走した。

1956年、33才になったキム・デジュンはこのことで、海運会社副社長の裸像数から告発され、江原道に逃げて
身を守った後、民主党に入党した。 1959年6月、36才になったキム・デジュンは江原道で国会議員に出馬し、
落選するや借金をして生活苦に苦しんだ。 この時のキム・デジュンの妻は借用数、現在生存しているチャ・某
牧師の妹だ。 彼女は借金に苦しめられ世の中を悲観して服毒自殺をした。

政治屋時期

1959年6月、36才になったキム・デジュンは再度国会議員に出馬して落選した。 まさにこの時また他の
横領事件が発覚する。 選挙期間中に開票入会院だった文寿龍という人が突然急死し、民主党では
ムン・スリョンを殉職として処遇し、党中央幹部が弔意金30万ウォンを集め、キム・デジュン氏を通じ、
遺族に渡すようにした。 ところがキム・デジュン氏がこの中の12万ウォンだけを遺族に渡し、残り18万ウォンを
着服した。 この事実を知った当時の民主党員キム・ジェドン、白鷹期など4名がキム・デジュン氏の破廉恥な
横領行為を非難して民主党から離党してしまった。

(3/6)続きます。