【韓国】 「ツシマ」の語源が韓国語であることからも、大昔から対馬がウリの領土だったことは明白ニダ
1 :
日出づる処の名無し:
■「対馬島は上古時代からウリの領土だった!」
−− 朴炳植(パク・ピョンシク)/歴史学者
▽ソース:ブレークニュース(韓国語)(2008/01/11 09:05)
http://www.breaknews.com/new/sub_read.html?uid=76021§ion=section4
対馬島(テマド)は釜山から南東へ約50kmの所にあるから、天気の良い日には肉眼でもはっきり
見える。したがって、遥かな上古時代から日本列島を開拓した我々の先祖のうち、多くの人が
その地に渡って定着したはずであることは、疑う余地が無い。
今では「テマド」(対馬島)と呼ぶが、かつては「トゥシマ」(2つで成り立っている島という意味)
と言った(訳注:韓国語で2は「トゥ」。ちなみに島は「ソム seom」)。日本人が「トゥ」という音を
発音できないために、日本語では今「ツシマ」と言っている。韓国語の「トゥヌェ」(頭脳)を日本
人が「ヅノウ」と発音し、「テドゥ」(大豆)を「ダイヅ」と発音するのと同じだ。
西暦1900年に刊行が始まり、今も変わらぬ権威を誇っている『大日本地名辞書』も、「対馬」は
元々、船着場を意味する「津」に「島」を付けた「津島」であり、「対馬」という漢字表記は中国人
が「魏志」で初めて使いだしたという。
「対馬」という漢字表記が初めて見られるのは「日本書紀」(敏達天皇12年)だと『大日本地名
辞書』に書かれていることから見て、「トゥシマ」という韓国語が「ツシマ」と発音されるようにな
ったのは非常に昔からのようだ。
つづく
2 :
続き:2008/01/13(日) 14:59:14 ID:i5lStACV
唐代に編纂された「北史」隋書の「倭国伝」には、ツシマが漢字で「都島」と表記されていると
いう。8世紀初めに編纂された 「古事記」(建国神話)には「津島」と書かれている。
この「ツシマ」は、新羅時代に大耶城の提督であった宗貞(チョン・ジョン)と、高麗時代の大将軍
だった宗煕(チョン・ヒ)の子孫が代々支配していたが、『大日本地名辞書』によれば、高麗時代
に当たる鎌倉時代に幕府も宗氏家門を「ムネシ」(宗氏)と発音して「ツシマ」の領主と認める
ようになった。こうした理由で、宗氏は韓国との交易を主要産業にして近世に至るまで栄えた。
我が国の領土である独島(訳注:竹島のこと)を自国領土だと最近言い張っている日本人とは
違い、「ツシマ」が古代から我が国の所有だということは、語源から明かされる島名の由来から
見ても『大日本地名辞書』の証言で確認されうる。
馬山市が「対馬島(テマド)の日」を制定したのは、独島問題による一時的興奮がもたらしたもの
ではないということを、小学生から始まって全国民にまで冷静に広報すべきだろう。
(筆者は日本天皇家を一生研究してきた歴史学者。日本の大学で教授を務め、著書に『日本語の
悲劇』『日本語の発見』など20冊余りがある。現在は韓民族文化研究院学術顧問。)
3 :
日出づる処の名無し:2008/01/13(日) 15:22:47 ID:yu32Fih7
対馬が韓国語で「2つで成り立っている島」という意味なら
トゥソム(訳注:韓国語で2は「トゥ」。ちなみに島は「ソム seom」)にならないとおかしいだろ。
なのに韓国ではトゥソムとは言わずにツシマと呼んだ。
古代から韓国でのツシマの呼び名に、韓国語のソム(島)ではなく日本語でシマ(島)が採用されているのは
韓国人が日本の地名を日本語読み(現地読み)していたから。
相変わらずイカれてるなぁ>>鮮人
5 :
日出づる処の名無し:2008/01/13(日) 17:45:18 ID:zX3G/jH6
韓国人て高麗史読んだことないの?
其処にバッチリ対馬は日本の領土って書いてあるけど。
6 :
日出づる処の名無し:2008/01/13(日) 18:05:37 ID:VIl8+P3r
■シラキとは『知らす城』のこと
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、『知らす城』の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉なのである。
シラキとは金城(現在の慶州)の別名であった。古代日本人は、金城とその周辺地方をシラキと呼んでいたのだ。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領である真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いていた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
しかし、3世紀頃から、北方の太白山脈からワイ族(朝鮮人の先祖)という異民族が志羅紀領の北部に
侵入するようになり、やがて志羅紀はワイ族に乗っ取られた。こうしてワイ族国・新羅が誕生したのである。
神功皇后の『新羅征伐』は、ワイ族に奪われた日本領土・シラキを取り返すための軍事行動だったのだ。
けして侵略ではないのだ。
7 :
日出づる処の名無し:2008/01/13(日) 19:23:50 ID:VIl8+P3r
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の別名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いていた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
高麗人は対馬の人に非道いことをしたよね(´・ω・`)
9 :
日出づる処の名無し:2008/01/14(月) 00:33:45 ID:xD56SQLW
次はキュウシュウだな
俺も朝鮮人になりたいなw
大学の歴史のゼミでヒィヒィ言いながら一生懸命に文献を読んでいたのに。
こんないい加減なやつが歴史学者になれるのか?
60年位しか歴史のない国は楽だねえ!
もう少し知性を感じさせる捏造だと盛り上がるんだがなぁ
>>1 それ言い出したら、「人民」「共和」「民主」とかは日本語なんだから
中国と北朝鮮は日本領って事になるわけだが。
13 :
日出づる処の名無し:
なぜ対馬が『二つで成り立っている』島なんでしょうか?
よくわかりません???????