http://news-hassin.sejp.net/?month=200705 南京事件について、「戦史叢書 支那事変陸軍作戦@」防衛庁戦史研究室によって編纂
…東京の裁判では、南京占領から1ヶ月の間に男女子供を含む非戦闘員1.2万、掃討戦の犠牲者2万、捕虜3万以上が殺害され、さらに近郊に避難していた市民5.7万以上が餓死あるいは
虐殺されたという判決を下した(122,124)。しかし、その証拠を仔細に検討すると、これらの数字は全く信じられない。…以下、
諸資料を総合すると次のように考えられる(32,102,121〜131)。作戦地域は、中国防衛軍の手によって「空室清野」戦術がとられたため、一般住民の被害は
大であったろう(83,125,127,128,129)。また南京攻略戦は完全包囲殲滅戦であったから、戦闘行動による中国軍の損害の多かったのは当然である(127)。
問題は、(1)占領直後の敗残兵掃討戦において、多数の非戦闘員や住民が巻添えをくらって死亡したこと、とくに中国軍後退部隊と避難民が混淆した南京
北方及び西方地区で大であった。ただし非武装民であっても、軍に協力し、あるいは遊撃戦に関与して敵対行動をとったものは戦闘員と見なさざるをえな
い。(2)南京の人口は、平時約100万、南京攻略戦開始当初約30万、そのうち数万が作戦間に退避し、日本軍占領時には、そのうちの20数万が概ね難民
区に集まっていた。しかし南京陥落直後は完全な無政府状態で混乱を極めていた。(日高信六郎参事官談)ところが敗残兵の多くのものは、武器を捨てる
か隠匿して住民に変装し、いわゆる便衣隊となって潜伏した。この便衣隊を住民のなかから摘出検挙することは非常に困難であるが、この際にも無抵抗
の住民に若干の犠牲があったと考えられる。(3)投降者を捕虜と認めず、従って捕虜として取り扱われぬことが少なくなかった。日本軍の攻撃部隊は、中
国軍側に比べて兵力が僅少であったので、戦闘行動中に投降する者があっても捕虜として監視する兵力がなく、足手まといになる偽装投降の前例も多か
ったことや、真に中国兵が戦意を喪失しているのかどうかの判別が困難であったこと、日本兵の恐怖心や敵愾心が強く、殺すか殺されるかという切迫した
状況下では冷静な判断ができ難いこと、それに捕虜として処遇するための設備や補給能力がなかったためである。これらは作戦が猛烈な追撃戦に次ぐ
激烈な堅陣攻撃及び市街戦であった特性上からくるものであり、日本軍の第一線部隊のみを責めることはできない。(4)南京占領後の捕虜の処遇も十分
とは言いがたい。これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大ではないようである。第13師
団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千
余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江
岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名
が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。なお第16師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。以上、各項目に
ついて具体的に正確な数字を挙げることは不可能であるが、南京付近の死体は戦闘行動の結果によるものが大部分であり、これをもって計画的組織的な
「虐殺」とは言いがたい。しかしたとえ少数であったとしても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切を欠いたことは遺憾である。当時、外務省東亜局長
であった「石射猪太郎回想録」によれば、昭和12年12月下旬から翌年1月にかけて、現地総領事から日本軍の不軍紀に関する報告があり、石射局長は陸
海外三省局長会議で陸軍側の反省を求め、廣田外相も杉山陸相に警告したと述べている(103)。陸軍では、1月7日、参謀総長が出征軍隊の軍紀風紀の
緊粛について異例の「訓示」を発し、陸軍大臣も1〜2月の間、軍紀風紀振作対策を講じた(40)。「戦史叢書」は、南京事件については所謂「否定説」「まぼ
ろし説」に近い立場に立っているということがお分かりいただけると思います。