犠牲者の人数を算出するにあたり信頼できる資料として譚道平の『南京衛戌戦史話』(東南文化出版社
1946年)での記録があります。
譚道平は南京防衛軍総司令官であった唐生智の腹心であり、南京防衛司令長官部参謀処第一科科長でした。
"参謀処第一科"とは作戦を担当する部署で、譚道平参謀は作戦科の責任者ですから、南京防衛軍の戦力を
知る立場にあります。そういう意味では一番信頼性が高い推計であると言えるでしょう。
『南京衛戌戦史話』によると南京防衛軍の兵力を「戦闘兵49,000人、雑兵32,000人、総兵力81,000人」
と記しています。注目すべきは総兵力の行方について「損失36,000人、保存44,500人」と算出している点です。
つまり損失兵力36,000人の内訳を考えれば、犠牲者数が見えてくる事になります。ここから戦死・負傷・事故死
・逃亡・督戦隊による自軍殺害者数を引けばいい訳です。戦死・負傷については笠原十九司の死傷者20,000人を
採ります。事故死として山田支隊の捕虜反乱鎮圧による銃殺を約1,000人とします。すると残り15,000人。
ここから逃亡者数と督戦隊による殺害者数を差し引くのですがこれについては数が全く判りません。判っている分
だけを引きます。まず逃亡者ですが、第16師団 歩兵第20連隊 衣川武一氏回想記で約1,000人の捕虜を
帰郷させた事が判っています。督戦隊による自軍殺害は悒江門と中華門付近で証言に出てきますが人数に
ついては不明です。幾つかの証言を照らし合わせ、パニックによる悒江門での圧死等も含めて約100人とします。
この分を引くと13,900人になります。文民の殺害記録は殆ど無いのでこれが犠牲者の最大値と言っていいでしょう。
加算法で計算した犠牲者数約8,000人を最低値とすると、犠牲者数は8,000人〜13,900人となります。
笠原の死傷者20,000人は推測によるものですから、15,000〜20,000人と幅を持たせても、犠牲者数が
20,000人以下になる事は間違いない様です。