日本教育再生機構

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92日出づる処の名無し
高岡法科大学
実際に日本においても、すでに律令時代に禁止されていた。

 だが、人身売買を完全に無くすことは大変難しいことである。
当時は奴婢(ぬひ)と呼ばれる最下層の人々の売買は法律上認められていた。
鎌倉・室町 時代になると、奴婢の売買も禁止され、江戸幕府も人の売買を禁止したのではあるが、それは永代売買が禁止されたのであって、数年間というように期間を限った年季売りは禁止 されなかったのである。
その年季売りは次第に年季奉公の契約の形となって残っていったし、養子契約をする事によりそれも一生実親子との縁を切って他人の養子に出すという形 で事実上の人身売買が行われていたようである。

現在は人身保護法や売春防止法で完全に 人身売買は禁止され、民法90条によりそういう契約の効力は否定されているが、でも風俗営業、芸妓置屋等をめぐって、この非合法現象が根絶されているわけではない、という難 しさを抱えている。
なんと言っても、人身売買禁止政策の最大の敵は、鎌倉時代以来700年以上も続いてきた公娼(こうしょう)制度であった。
遊郭には派手に遊びまわる客人から落 ちるお金が躍動し、片や貧困にあえぐ農村地域の生活苦が隣接すれば、おのずと人の流れ が人身売買の道を通じて生ずる事になる。
戦後1946年に占領軍総司令部(GHQ)は、日本の公娼制度を廃止したが、いわゆる赤線地帯といって売春が行われる特別地域の温存が図られたし、
 また、占領軍のほうも、日本の公娼制度をなくしておきながら、かげで占領軍兵 士のために娼婦の提供を要請したのではないかとの疑いもあり、それらの周辺で反人権で ある人身売買が行われていたらしい。
明治初年頃はなおさらのことであったろう。

 このような状態であったから、ペルー政府の抗議は時の明治政府に一方ならぬ当惑を与える事になった。
ペルー政府の抗議は日本政府が依然として人身売買という非行を許す未 開の国である事を正式に世界にさらけ出した事になり、世界の文明国と肩を並べあうため に条約改正という難事業を目前にした日本政府にとって手痛い打撃となったことは間違いなかった。