いわゆる「日本国憲法」は憲法としては完全に無効だ!第五条

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2001
■再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点
−−天皇制廃止のもくろみをうち砕くために何をなすべきか−− 大月短大教授 小山常実

 小泉首相の五年余の政権が間もなく終わろうとしている。この二月初旬には、首相の勢いからして女系天皇を認める「皇室
典範」改正は必至かと思われた。だが、天佑かと思われた秋篠宮妃殿下御懐妊のニュースにより状況は一変し、「皇室典範」
改正への動きは一応収まった。しかし、男子ご誕生でなかった場合には、再び「典範」改正の動きは強まるであろう。
 昨年来、「皇室典範」改正問題を論ずる著書や論文がおびただしく出されている。それらの論稿では、女系天皇を認めるべ
きか否かという点にもっぱら焦点が当てられている。だが、天皇の存在意義とは何か、という点にまで遡って議論することは
余り行われていない。天皇という存在の本質論から「皇室典範」改正問題を論ずれば、論ずべき問題が少なくとも五点存在す
る。

●守べき国体の四つのポイント

 そもそも、日本国が建国以来、千五百年から二千年にわたって国家として継続性を保ってきたのは何ゆえか。また、戦後六
十年間こそ怪しいけれども、一貫して独立国であり続けたのは何ゆえか。島国のため外からの侵略が難しいという地理的要因
もあろう。しかし、最大の要因は、天皇を最高の政治的権威とする国体というものを維持し続けてきたことである。
 例えば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康による全国統一は、三英雄の実力とともに、天皇という政治的権威の力によって成
し遂げられたものである。十六世紀末期から十七世紀初頭に日本全国を統一する政権がなければ、スペインの植民地になって
いたかも知れない。また、明治維新は、薩長土肥四藩の実力以上に、天皇という政治的権威の力によって成し遂げられたもの
である。幕府政権から維新政権への転換が一八七〇年代以降にずれこんでいなたならば、確実に日本は西欧か米国の保護国ま
たは植民地になっていただろう。日本人は、歴史を学びなおす中で、いかに天皇または国体というものが、日本国家の継続性、
独立性を保障してきたか、再認識すべきである。
 それでは、日本の国体とは何か。国体とは、<日本国家の歴史上、万世一系の天皇が国家最高の地位にあり続け、国家権力
の正当性・正統性を保障する最高の権威であり続けたこと>を意味する。その最も重要な第一のポイントは、天皇が国家最高
の政治的権威であり続けたことである。最高の政治的権威とは、日本国家の政治権力の正統性・正当性を究極において保障す
る、あるいは権威付けるものである。
 すぐれた政治的権威が生まれるためには、さらには政治的権威が幾久しく生き続けるためには、自ら政治権力を行使するこ
とはせず、いわば「天意」を受けたと思われる時々の実力者に政治権力を任してしまう方がよい。歴史上、日本の天皇は、
「宗教王」から出発したその出自からして、基本的に政治権力を握らず、政治的権威として純化することによって、<天皇を
政治に巻き込んではいけない>という国体上の規範が成立してきたのである。
 ついでに言えば、政治的権威と政治的権力の分離とは、西欧流近代民主主義の大きな構成要素である。この分離という点で
は、日本の天皇制は、世界の最先端を歩んできたことを忘れてはならない。
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 幾久しく生き残ってきたということは、それだけで、政治的権威として優れたものとなる。政治的権威は、古くて揺るぎが
無いほど、その機能をより果たすことができるからである。政治的権威が古くて揺るぎが無い存在であるためには、中国のよ
うな易姓革命や諸外国のような王朝の交代を否定することが必要であり、易姓革命や王朝交代の否定のためには、万世一系の
観念が必要である。
 戦後の左翼は、平民が皇帝に上りつめることもある中国の易姓革命と易姓革命を理論家した孟子の思想に魅力を感じてきた
が、易姓革命の思想がいかに中国の歴史を戦乱の歴史にしてきたか、というマイナス点を見ようとしない。江戸時代までの日
本の知識人は、圧倒的な中国思想の影響下にあったわけであるが、易姓革命の思想を否定するという思想的独創性を発揮する。
そして、基本的に万世一系が続いたという史実が存在し、その史実を基に万世一系の観念が生まれ且つ生き続けてきたからこ
そ、日本の歴史は、戦国時代を除けば、概して平和的な様相を呈してきたのである。さらに言えば、万世一系の観念が生き続
けていたからこそ天皇という政治的権威が大きく作用し、比較的わずかな犠牲で明治維新をやり遂げることができたのである。
 それゆえ、第二のポイントは、万世一系ということである。当然に、皇位の男系継承は絶対に守らなければならないものと
なる。男系か女系かは、本質的な問題ではない。これまで男系でもって万世一系が維持されてきたからこそ、男系継承の維持
が絶対命題となるのである。
 さらに第三のポイントとして、皇室自治主義ということを挙げなければならない。すぐれた政治的権威が成立するためには、
政治権力を自ら行使しないというだけでは足りない。政治的権威は、時々の政治権力によってその地位を左右されては、現在
及び将来の国民にとって「有り難味のない」、権威を感じられないものになってしまう。また、時々の政治権力は、時に、古
来の伝統に対する浅薄な理解から、皇室の在り方を無茶苦茶にする危険性がある。
 それゆえ、最低限、皇位継承のことは、日本歴史に基づきおのずから定められた皇位継承法に基づき、基本的に皇室の定め
るところに任せなければならない。そして、時々の政治権力者による皇室に対する圧迫を防ぐために、諸外国のように、或る
程度豊かな皇室の世襲私有財産を保障しなければならない。
 天皇が最高の政治的権威たること、万世一系ということ、皇室自治主義ということ、以上の三点は、日本歴史上戦前まで基
本的に守られてきた伝統であり、日本及び日本人が守り続けるべき国体の枢要点である。これは、政治学的観点から、最も優
れた政治的権威をどのように成立させるかという観点から考察を続ければ自明の要点である。
 さらに言えば、天皇は、「宗教王」として出発し、神道の最高祭主、あるいは神道におけるキリスト教のローマ法王と同じ
ような性格を持ち続けてきた。天皇を国家最高の政治的権威として成立させた根源は、神道の最高祭主という性格にある。皇
室の祭事を伝承していくこと、何らかの形でその祭事に国家的性格を持たせ続けることは、やはり日本の国体が求めるものと
いえよう。
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●四つのポイントを規定していた明治憲法・旧皇室典範

 右に見た四つのポイントは、戦前期には明確に守られていた。「大日本帝国憲法」は、第一条で「大日本帝国は万世一系の
天皇之を統治す」、第四条で「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と規定していた。すな
わち、戦前においては第一に、天皇が国家最高の政治的権威として、元首として位置づけられていたのである。
 第一条や第四条の規定を見ると、天皇は自ら政治権力を行使する存在のように見えるが、実は、立法は帝国議会に(第五条)、
行政は国務大臣に(第五十五条)、司法は裁判所に(第五十七条)任せていた。しかも、明治憲法に規定されようがされまい
が、戦前期には、国体という観念が強力に生き続けており、先ほど述べた<天皇を政治に巻き込んではいけない>という規範
が生きていた。したがって、戦前期の天皇も、政治的権威としての性格を基本とし、基本的には政治権力を行使しない存在で
あった。
 戦前期においては、第二に、第一条に見られるように、万世一系という規範が明確に存在した。それゆえ、明治憲法第二条
は、「皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す」と、男系継承を定めていた。明治憲法からの委任をうけて、旧
皇室典範第一条は、「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」と規定している。皇室典範では、皇位継承者
を男系ばかりか男子に限定していることが注目される。だが、男系継承は憲法と典範の双方で規定され、男子による継承は典
範でしか規定されていないことに注目すべきである。つまり、明治国家は、男系継承のことを、男子継承と違って、何として
も守らなければならない国体上の規範として捉えていたのである。
 第三に、戦前期においては皇室自治主義が守られていた。そもそも皇室典範とは、国法であると同時に皇室の家法の性格も
有するものである。それゆえ明治憲法は、第二条により、国体上の規範たる男系継承ということを定めたけれども、皇位継承
の詳細については皇室典範に委任していた。また、第十七条@では、「摂政を置くは皇室典範の定むる所に依る」として、摂
政に関する規定も皇室典範に委任していた。
2031:2006/09/03(日) 14:32:56 ID:ojve8Oqi
 そして、第七十四条@は「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」と規定し、典範改正に、時々の区々たる政治情
勢に左右されがちな議会が関与することをしりぞけていた。皇室典範は、明らかに法律より上位の規範であり、明治憲法と同
格か否かについては憲法学上の争いがあったが、ともかく明治憲法と一体のものとして、共に日本の憲法の一部を成していた。
また、皇位継承を含めて皇室に関する法については皇室が基本的に決定する、という皇室自治主義の建前についても、憲法学
説上争いが無かった。
 この皇室自治主義の考え方から、戦前期には、宮内省は一応国家の機関から分離され、皇室の機関として観念されていた。
また皇室自治主義の精神から、皇室典範の改正については、皇族会議と枢密院の議論によって行われることになっていた。旧
典範第六十二条は、「将来此の典範の条項を改正し又は増補すべきの必要あるに当ては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅
定すべし」と規定していた。
 右の皇族会議は、天皇が主宰し、皇族の成年男子にメンバーとして表決権を与えていた。枢密院議長等五名も参加したが、
表決権を有していなかった。明らかに、皇族会議は皇室、それも天皇中心の機関であったことに注目されたい。皇族会議は皇
位継承以外にも、摂政設置などの事柄を(旧典範十九条)、枢密院とともに議論した。また、皇族の懲戒については皇族会議
だけで議論されていた(旧典範五十四条)。さらには、皇室の自立性を保障するために、「世伝御料」等の形で皇室の世襲財
産が保障されていた(旧典範第四十五条)。
第四に、明確に、旧典範下の天皇は、神道の最高祭主として祭祀大権を有していた。そして、践祚の際における神器継承や
「即位の礼」に続く大嘗祭はもとより(旧典範十、十一条)、皇室祭祀令によって定められた大祭や小祭には、公的意味が付
与されていた。
2041:2006/09/03(日) 14:34:07 ID:ojve8Oqi

●国体を毀損した神道指令と「日本国憲法」

 このように、戦前期までは、日本の国体は維持されてきた。ところが、敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって、国
体は大きく毀損することになった。まず、昭和二十年十二月十五日、GHQは神道指令(「国家神道、神社神道に対する政府
の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」)を発表し、神道と国家の分離を命令した。その結果、戦後体制の下
では、天皇は国家最高の祭主の地位と祭祀大権を失い、皇室が行う祭事は皇室御一家の私事にとどまることになった。
 もともと天皇という存在は、諸外国のように「軍事王」ではなく、「宗教王」から出発した。それゆえ祭祀大権は、天皇の
政治的権威を大きく根拠付けるものであった。GHQは、祭祀大権を奪うことによって天皇の政治的権威を大きく毀損させた
上で、翌二十一年二月十三日、自ら憲法改正草案を作成し、日本政府に押し付けた。GHQ案第二条は、「皇位は、世襲のも
のであり、国会の制定する皇室典範に従って継承される」と規定していた。
 GHQ案は、皇室典範を単なる普通の法律の地位におとしこめ、戦前の皇室自治主義を真っ向から否定するものであった。
日本政府側は、GHQ案を元に「日本国憲法」初案を作成し、いろいろとGHQ案に修正を施そうとする。皇室関係に関して
はできるだけ皇室自治主義を形だけでも残そうと考え、GHQ案第二条の「国会の制定する皇室典範」から「国会の制定する」
を削った上で、第百六条@で「皇室典範の改正は天皇・・・・議案を国会に提出し法律案と同一の規定に依り其の議決を経べ
し」と規定する。すなわち、皇室典範は一般の法律と異なり、議員立法は許されず、あくまで天皇が内閣の輔弼により作成し
た原案に基づき改正しなければならないとしたのである。
2051:2006/09/03(日) 14:34:55 ID:ojve8Oqi
「日本国憲法」初案をめぐっては、三月四日から五日にかけて、日本政府を代表する者としては佐藤達夫法制局部長ただ一人
が、多いときにはGHQ側二十人と徹夜で法律論争をしながら修正案を決めていく。結局、日本側が施していた修正はほとん
ど否定され、元のGHQ案の内容に戻されてしまう。皇室典範に関しても、初案の第百六条は削除され、第二条に「国会の議
決を経たる皇室典範」と明記されることになる。すなわち、皇室典範は、議会が自由に制定・改正できる法律と位置づけられ
たのである。
 その後、六月下旬から十月まで帝国議会で憲法改正が審議されるが、議会の審議過程も、政府案作成過程と同じく、GHQ
によって完全統制されていた。極東委員会とGHQの強制により、七月から八月にかけて、帝国議会は、「すべて皇室財産は、
国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」(「日本国憲法」第八十八条)という
規定を決定する。つまり、世襲財産を含めた皇室財産の国有規定が設けられ、財政に関する皇室自治主義も完全に否定された
のである。
 さらに帝国議会は、極東委員会とGHQの強制によって、「日本国憲法」前文と第一条に「国民主権」を明記することを決
定する。すなわち、「日本国憲法」は第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主
権の存する日本国民の総意に基く」と、第二条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところに
より、これを継承する」と規定することになる。
 その結果、「日本国憲法」下では、国民が主権者と規定され、天皇ではなく、国民というものが国家権力の正当性・正統性
を保障する存在となった。天皇は、これまでの政治的権威から象徴に性格を一変させることになった。また、「大日本帝国憲
法」では、第一条で「万世一系」が、第二条で皇位の男系継承が規定されていたが、「日本国憲法」上では、「万世一系」も
皇位の男系継承も記されていないことに注目されたい。「日本国憲法」は、新「皇室典範」という名の法律に、女系を認める
自由を認めているのである。
 右に見てきたように、神道指令と「日本国憲法」は、国体の四ポイントのうち、天皇が最高の政治的権威たること、皇室自
治主義、神道の最高祭主たること、という三点を完全に否定し、残る「万世一系」及び男系継承についても、日本国が絶対に
維持していかなければならない規範としては認めなかったのである。
2061:2006/09/03(日) 14:46:33 ID:ojve8Oqi

●男系継承のみ認めた新「皇室典範」

 こうして、「日本国憲法」成立過程において、日本の国体を基本的に否定するという枠組みが、GHQと極東委員会によっ
て作られてしまった。また、GHQは「天皇財閥」なるレッテル貼りを行って徹底的に皇室財政を圧迫したので、もはや十一
宮家の臣籍降下は必至であった。
 この枠組みと臣籍降下を前提にして、新「皇室典範」が作られていく。「日本国憲法」の審議と併行して、六月、臨時法制
審議会が設置され、この審議会の第一部会で、七月から九月にかけて新「皇室典範」の立案が行われる。そして、十二月には
新「皇室典範」案が第九一帝国議会に提出され、簡単な審議の上、原案通り可決される。この間、第一部会の幹事たちは、少
なくとも一二回以上、GHQと連絡を取りながら、新典範の内容を決めてゆくのである。
 翌二十二年一月十六日、新典範は法律として公布される。その後、五月二日、旧典範が、皇族会議と枢密院の議を経て、天
皇の勅定という形で廃止される。翌三日、「日本国憲法」と新典範が施行される。そして十月十三日、新典範で作られた皇室
会議は、十一宮家の臣籍降下を決定していくのである。
 新典範の内容を見ると、皇室自治主義の精神は、かけらも存在しない。旧典範では、皇室の大事を審議する機関として、天
皇を主宰者とし皇族を中心メンバーとする皇族会議が存在した。これに対して、新典範では、皇族会議に代って皇室会議が置
かれることになった。皇室会議に天皇は参加できず、皇族は十名のメンバー中二名のみであり、残る八名は衆参両院の正副議
長や内閣総理大臣らで占められることになった。しかも、最高権力者の内閣総理大臣が議長を務めるのである。これでは、ま
さしく皇室は、時々の権力者によって圧迫される事態となろう。
 神道の最高祭主という性格も、宗教と国家の徹底分離を説いた神道指令に拘束され、否定されている。すなわち、旧典範に
あった大嘗祭や神器継承の規定が消えてしまうのである。
 ただし、万世一系だけは、新典範の規定によって守られることになった。新典範第一条は、万世一系という言葉こそ使わな
いが、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定し、男系継承を明確にしたからである。
2071:2006/09/03(日) 14:47:34 ID:ojve8Oqi

●議論すべき五つの論点

 以上のように、「日本国憲法」と新典範は、GHQの日本弱体化政策に基づき、国体の四ポイントのうち、万世一系=男系
継承=以外の三ポイントをことごとく否定した。そして平成に入って、国体を死滅させることを狙った共産党系の学者たちが、
女系天皇容認論を展開し、それに乗せられる形で政府による女系天皇容認論が展開されているのである。
 しかし、繰り返すが、日本国家が千五百年以上も国家として継続し、独立国であり続けた最大の理由は、国体を維持してき
たことである。戦後の日本国が、サンフランシスコ講和条約によって独立しながらも、実質的に米国や中国などの「属国」で
あり続けてきたのは、「日本国憲法」と新典範によって、自衛戦力を奪われたからであり、天皇が最高の政治的権威であると
いう国体を大きく毀損させてきたからである。日本国が自立し、実質的にも独立国になるためには、万世一系=男系継承=を
維持するとともに、憲法改正と皇室典範改正によって、毀損した国体の三ポイントを取り戻す必要がある。
 したがって、皇室典範改正論議は、憲法改正論議とセットで行わなければならない。また、男系女系論争だけでなく、政治
的権威か象徴か、皇室自治主義をどうするか、大嘗祭などの皇室祭事の位置づけ、といった三点についても行われなければな
らないと言えよう。
 しかし、皇室典範改正論議は、このような内容面に関する議論だけでは足りない。拙稿で見てきたように、「日本国憲法」
成立過程も、皇室典範の成立過程も、議会や政府の自由意思が基本的に存在しなかったし、GHQによって統制されていた。
さらに皇室典範成立過程について言えば、そもそも皇室典範が国法兼皇室の家法という性格を有しているにもかかわらず、天
皇及び皇室の自由意思は存在しなかった。そして、「日本国憲法」と新典範は、内容的にも、日本の国体を大きく毀損するも
のであった。それゆえ、両者は、本来、無効なものである。もしも無効だとすれば、「日本国憲法」と新典範の無効を確認し、
復原した明治憲法と旧典範を改正する形で、憲法改正と皇室典範改正を行わなければならないことになろう。
 それゆえ、皇室典範改正論は、憲法改正論議とともに行い、内容的な四点とともに、無効か有効かという形式的な点につい
ても行う必要があると言えよう。
2081:2006/09/03(日) 14:48:46 ID:ojve8Oqi

●明治憲法と国際法に反する新典範制定

「日本国憲法」については、多少とも無効か否かが議論されてきた。だが、新典範についてはほとんど議論されてこなかった。
そこで、特に重要と思われる無効理由を紹介しておこう。
 第一の無効理由は、明治憲法違反ということである。前に引用したように、明治憲法第七十四条@は、「皇室典範の改正は
帝国議会の議を経るを要せず」と規定していた。ところが、新典範は、議会の議決に基づき、法律として制定された。明らか
に七十四条@違反である。
「日本国憲法」の場合はまだしも、一番表面的なところでは、明治憲法七十三条の定める手続きにそって作られた。これに対
し新典範は、明確に明治憲法の定める手続に違反して作られたのである。
 また明治憲法第七十五条は、「憲法及皇室典範は摂政を置くの間之を変更することを得ず」と定めていた。第七十五条によ
れば、摂政を置く間さえも憲法と皇室典範の改正は禁止されるのだから、統治者の自由意思が完全に欠落する占領中には尚更、
憲法と皇室典範の改正は許されないことになる。それゆえ、明治憲法第七十五条違反で、「日本国憲法」も新皇室典範も無効
となる。
 第二の無効理由は、旧皇室典範違反ということである。旧典範第六十二条は、「将来此の典範の条項を改正し又は増補すべ
き必要あるに当ては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅定すべし」と規定していた。この条文には、改正や増補の言葉はあ
っても、廃止の言葉はない。そもそも旧典範からすれば廃止はできない。いくら「皇族会議及枢密顧問に諮詢して」廃止を決
めたとて、その廃止は無効なものである。それゆえ、あくまで旧典範が有効なものとして生き残っていることになり、新典範
は無効なものとなる。
2091:2006/09/03(日) 14:59:15 ID:ojve8Oqi
 第三の無効理由は、国際法違反ということである。国際法と言えば、ハーグ陸戦法規違反の問題もあるが、ここでは、ポツ
ダム宣言及びバーンズ回答違反ということを指摘しておこう。昭和二十年七月二十六日、ポツダム宣言が発せられるが、宣言
受諾過程で、米国のバーンズ国務長官によって日本側に対する回答が行われる。いわゆるバーンズ回答である。日本側は八月
十四日に至って、バーンズ回答を受け入れ、ポツダム宣言受諾を決定する。バーンズ回答は、第五項で「日本国の最終的の政
治形態は(The ultimate form of government of japan)、『ポツダム』宣言に遵い、日本国国民の自由に表明する意思に依
り決定せらるべきものとす」と述べ、「日本国国民の自由に表明する意思」による「政治形態」の決定を定めている。続いて
第六項で「聯合国軍隊は、『ポツダム』宣言に掲げられたる諸目的が完遂せらるる迄、日本国内に留まるべし」と占領撤退に
ついて述べているから、バーンズ回答第五項は、占領中に「政治形態」を決定することを定めた規定であるといえよう。
 では、「政治形態」(form of government)とは何か。「八月革命」説に立つ宮澤俊義によれば、form of governmentとは
国体と政体を併せたものと解することになる。しかし、八月十三日に米軍機が「日本の皆様」というビラを撒いているが、そ
こでは、第五項は「ポツダム宣言の条項に則り究極に於ける日本政府の政体が自由に表明された日本国民の意思に副つて定め
らるべきである」と訳されている。
 当時の日本人は、国体と政体を区別してとらえていた。米国でも、form of government(政府の形態)は form of state
(国家の形態)と区別されてとらえられていた。当時の日本の憲法学の用語にあてはめれば、form of state が国体、form
of government が政体に相当する。実は、宮澤自身も、元々は、国体と政体を区別してとらえていた。『憲法略説』(昭和十
七年)の中で、宮澤は次のように述べていた。
「天皇が国の元首として統治権を総攬し給うこと(「主権の体」)は、さきにのべられたように、わが国における固有且つ不
変の統治体制原理であるが、その行使の態様(「主権の用」)は時と共に変化し得る。国家における統治権行使の態様に関す
る原理はあるいは政体と呼ばれる。さきにのべられた国体が不変的・絶対的な性格を有するのに対して、この意味の政体はむ
しろ可変的・相対的な性格を有する」
 宮澤が傍線部のように、国体を絶対に守るべきものと考えていたことが注目される。宮澤を含めて、国体と政体を区別する
考え方は一般的なものだった。どう考えても、form of government は、国体と区別された政体のことを指しているのである。
つまり、バーンズ回答第五項は、国体の継続を認めており、国体と区別された意味の政体を「日本国国民の自由に表明する意
思」によって決定するようにと要求していたのである。
 しかし、GHQは、「日本国憲法」と新典範の作成を強制することによって、天皇が最高の政治的権威であるという国体の
根幹にさえも手を付けた。しかも、その際、日本政府の自由意思、議会に代表される国民の自由意思を顧慮することは全く無
かった。それゆえ、「日本国憲法」及び皇室典範は、ポツダム宣言及びバーンズ回答違反として、無効な存在なのである。
2101:2006/09/03(日) 15:00:12 ID:ojve8Oqi

●国体法と自然法に反する新典範

 第四の無効理由は、国体法違反ということである。日本国が絶対に守り続けなければならない国体の要点を整理しなおして
おこう。その一は、最も本質的な事柄であるが、天皇が国家最高の政治的権威たることである。その二は、万世一系というこ
と、そしてそのための男系継承である。その三は、皇室自治主義である。その四は、神器継承や大嘗祭等に公的性格を持たせ
た上で継続することである。この四点は、男系継承という点を除けば、全て「日本国憲法」と新典範によって無視された。男
系継承という点も、憲法の中で、又は準憲法的な性格を与えた皇室典範の中で規定すべきものである。単なる法律にすぎない
新典範で規定するなど、言語道断である。それゆえ、「日本国憲法」前文及び第一条と新典範は、国体法違反で絶対無効の存
在である。
 第五の無効理由は、自然法違反ということである。皇室典範とは、国法の性格を持つけれども、同時に皇室の家法ともいう
べき存在である。自然法の立場から言えば、皇室典範は―――仮に法律と称するにしても―――、通常の法律とは違った特別
の手続きを踏んで、制定及び改正されるべきものである。特別の手続とは、国家側と皇室側との相談・交渉である。
 ところが、新典範は単なる法律として作られたし、新典範を見ても典範改正のための特別手続きが定められているわけでは
ない。典範の改正は、天皇及び皇族の意見を全く聞かずとも、合法的にできることになっているのである。結局、新典範は、
完全に、一種の自然法違反の存在といえよう。
 しかも、前述のように、皇族会議の代わりに置かれることになった皇室会議の中には、皇室の家長ともいうべき天皇は入っ
ていないし、皇族はわずか二名しか入れない。新典範は、皇室自身の事柄を、皇室自身の意見は反映させない形で決めていこ
うという、極めて非人間的な立場をとっている。換言すれば、「日本国憲法」と新典範の下にある戦後日本は、皇室の衰微し
た武家政治よりもはるかに、天皇及び皇室を圧迫してきたのである。
2111:2006/09/03(日) 15:01:13 ID:ojve8Oqi
 以上五点の理由から、「日本国憲法」の場合以上に、新典範は無効な存在である。無効だとすれば、皇位継承問題について、
新典範改正という形はとるべきではないことになる。そして、新典範成立と一体の動きとして行われた十一宮家の臣籍降下も
本来無効なものとなる。とすれば、女系天皇を認める法をつくるべきだと仮定しても、新典範を改正する形ではなく、「日本
国憲法」と新典範の無効を確認した上で明治憲法と旧典範の復原改正という形で行うべきだろう(具体的な憲法の復原改正方
法については、拙著『憲法無効論とは何か』展転社、参照)。新典範の無効を確認すれば、十一宮家も原則的に復活すること
になるし、十一宮家には皇位継承候補たるべき男子が相当数存在する。それゆえ、新典範無効論の立場に立てば、女系天皇ば
かりか女性天皇さえも認める必要性はなくなるであろう。
 しかし、なぜ、万世一系否定、王朝交代肯定、ひいては易姓革命に道を開く女系天皇容認論が出てきたのであろうか。戦後
六十年間、「日本国憲法」という名の占領管理基本法を研究する学問である「憲法学」は、人権論ばかりに力を入れて、国家
論も天皇論も研究してこなかった。公民教育は、「憲法学」以上に、国家論や天皇論を教えてこなかった。例えば、今年度か
ら使用された中学公民教科書は、全八社中、東京書籍、日本書籍新社、教育出版、帝国書院の四社が、何の見出しも付けずに
「象徴天皇」について記している。天皇は「日本国憲法」第一条で規定されている存在である。にもかかわらず、採択率第一
位の東京書籍などは、極めて軽く天皇を扱うのである。(拙著『公民教科書は何を教えてきたのか』二〇〇五年、展転社)。
極めておかいなことと言わねばならない。
 戦後六十年間、日本国民は、このような非天皇教育、非国家教育を中学から大学まで受け続けてきた。したがって、戦後社
会では、元「優等生」の多い政治家、学者、教員とマスコミ関係者さえも、あるいは保守派さえも、天皇論や国家論に関する
基礎的な知識を欠くことになった。天皇及び皇室に関する国民的な規模での知識の欠如こそが、ムード的な女性天皇論、女系
天皇容認論を招き寄せたのである。
 天皇論や国家論の研究は、却って、天皇制廃止を狙う共産主義者や共産主義シンパによって行われてきた。前述のように、
彼らは、皇帝打倒の易姓革命にあこがれる傾向がある。しかし、易姓革命を否定したところにこそ、日本国家の発展があった
ということを忘れてはいけない。彼らは、女系天皇容認→王朝交代・易姓革命→天皇制廃止という筋道を考えている。彼らの
もくろみは、今の段階で砕いておかなければならない。そして、彼らのもくろみを砕くためには、天皇の本質について、前述
の五つの論点に関する議論を展開し深めることが必要となろう。

《主要参考文献剩濃部達吉『憲法撮要』大正12年初版、昭和7年改訂第5版、有斐閣剩濃部達吉『日本国憲法原論』1948年、
有斐閣剌ャ森義峯『天皇と憲法』1985年、皇學館大學出版部刪ー部信喜・高見勝利編著『日本立法資料全集1 皇室典範』
1990年、信山社剌ャ山常実『「日本国憲法」無効論』2002年、草思社剪川八洋『皇統断絶』05年、ビジネス社剩ェ木秀次
『本当に女帝を認めてもいいのか』05年、洋泉社剪|田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』06年、小学館剌ャ山常実『憲
法無効論とは何か』06年、展転社》