いわゆる「日本国憲法」は憲法としては完全に無効だ!第五条

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1911
有名なサイト!共産党が国会図書館の監修をやってはるわ。
http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/aisatsu.html

高見勝利教授とは?
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030958108&Action_id=121&Sza_id=C0
新田均著 「先生、もっと勉強しなさい!一刀両断」から引用

一、高見論文の基本的主張
この論文で高見教授が主張されていることを、私なりに要約すると以下のようである。
(1)天皇主権と国民主権は「原理的に」対立するものである。
(2)したがって、天皇主権を原理とする大日本帝国憲法と、国民主権を原理とする日本国憲法とでは、天皇制度は
全く異質のものである。
(3)それにもかかわらず、国民の深層心理の中では天皇制度は連続している。
(4)この国民の深層心理を改造しなければ、国民主権原理は実際に国民のものとはならない。
 このように要約できると考えられる根拠を、高見論文の記述の中から抜き出せば左のようである。
「天皇が統治権を総攬する明治憲法体制から国民主権の原理を採用し、天皇を国民統合の象徴とする日本国憲法
体制へと原理的に転換し、神格を備えた天皇から人間天皇に変わったにもかかわらず、上述のような神話に彩られ
た皇位継承儀式[大嘗祭―引用者註]が行われたのである。このことは、天皇という制度が、合理的な根拠によって
ではなく、ゆるぎない伝統に支えられたものであることを示している」(273頁)
(つづく)
1921:2006/09/03(日) 11:46:13 ID:ojve8Oqi
「憲法上、単なる象徴としての役割しか与えられていない天皇も、国民の深層心理の中では、戦前との連続の上に、
ある種の特別な存在として持続しているように思われる」(285頁)
「天皇の神格が否定され、天皇は『人間』になった現在でも、天皇に対して、一般国民に対すると等しい敬意を表する、
ということは、文字どおりには行われていない。日本人の社会生活に奥深くしみこんだ意識ないし習俗は、容易に変
わるものではない」(286頁)
「その批判なくしては、憲法が採用した国民主権原理は、実際に国民のものとはなり得ず、1945年8月に行ったはず
の君主殺し(regicide)も架空のものにとどまり続けるであろう」(287頁)
“日本国民は敗戦と共に「君主殺し」を行ったのだ”というのは尋常でない物言いだが、そのように言われる高見教授
の主張について、以下、いくつかの論点を取り上げて私の考えを述べて行くことにしたい。
(引用おわり)

「その批判なくしては、憲法が採用した国民主権原理は、実際に国民のものとはなり得ず、1945年8月に行ったはず
の君主殺し(regicide)も架空のものにとどまり続けるであろう」(287頁)
「その批判なくしては、憲法が採用した国民主権原理は、実際に国民のものとはなり得ず、1945年8月に行ったはず
の君主殺し(regicide)も架空のものにとどまり続けるであろう」(287頁)
「その批判なくしては、憲法が採用した国民主権原理は、実際に国民のものとはなり得ず、1945年8月に行ったはず
の君主殺し(regicide)も架空のものにとどまり続けるであろう」(287頁)

こんな異常(キチガイ)なのが、「日本国憲法」の成立過程の、それも国会図書館の監修やってていいの?!!!!
一番の不適切なのがやってるのじゃない?