>>705 名前: 邪馬台国侍 ◆G5PYesuXOc
>ま、俺と船虫との間では、根幹の部分で唯物論か信仰論かの差がある。
そりゃ、現実論(オレ)と妄想論(おまえ)の差だろ。
「物」というものの現実的なパワーを認識しえるかどうか。
これは観念論者に対しても言えることだが。
確かに実在論は証明不可能だし、実際に見てるのは全て
脳が作り出した観念のたぐいであることは否定できない。
しかし、だからといって、全て同等に観念であることはない。
観念には、自分がいくら嫌でも否定されたり納得させられたりするものと、
ほとんど自分勝手になる妄想がある。そして、前者のようなパワーを発揮するのものが、
いわゆる「客観的実在」に他ならない。観念論者はこれを否定することで、
現実的なもののパワーを無視してしまう傾向がある。
>>邪馬台国侍 ◆G5PYesuXOc つづき
おまえは、神話に基づく伝統であること、それだけで、万世一系が維持できると言い張る。
>>680 名前: 邪馬台国侍 ◆G5PYesuXOc
>万世一系の典拠となるのはあくまでも神話であり、天壌無窮・宝祚無窮である訳で、
>民主主義や唯物論や不可知論から直接的に接続するようなものではないのよ。
しかし、万世一系は単なる伝統ではない。
伝統の多くは、ただ単に「それがずっと継続してきた」というだけしかないが、
万世一系はそれだけではないわけ。
単なる伝統ってのは、例えば「天皇の服装が和服だった」というのもの。
おまえを含めた多くの男系維持派は、万世一系に対して「男系の伝統を守れ」としか言えてない。
なぜ男系じゃないといけないのかについては、「それが伝統だから」としか言えてないわけ。
それじゃ、和服が洋服に替わったように、「時代に合わせて」などとして容易に代えられてしまう。
だが、単なる「和服」ではなく、個別具体的な事物である「ある和服」が伝統的に用いられていたらどうする?
そしてそれが、「この服を着る者が天皇であり、この服は天皇を天皇たらしめる神器である」とされ、
男系とか万世一系とかもなく、この服を着る者がその世代の天皇とされていたら?
観念上の「こういう和服」なら、「レプリカを作って着せればいい」となるが、
実際には、どんな精巧なレプリカでもレプリカはレプリカであり、ニセモノを着た天皇はニセで、
ホンモノを着た者がホンモノの天皇になる。これのようなパワーを発揮するのは、
唯物論的実在に他ならない。
しかも、ここではかなり苦しい仮定で「これが天皇」とやってるが、実際には、
唯物論的現実自身が、「これが天皇」という認識をもたらす。
なぜなら、天皇を他の一般人と区別するのは、モノ的に言って「血(染色体・遺伝子)の継承」しかないから。
繰り返すが、ここまで考慮してない男系(万世一系)維持派は、
和服が洋服に替わったように、「時代に合わせて」などとして容易に打ち負かされるだけ。
それとついでに繰り返せば、オレは別に好き好んで唯物論的なことを言ってるのではない。
「唯物論の洗礼」という言葉でも分かるように、唯物論のパワーは現実的にあるわけ。
それを無視するか、考慮するかの違いがあるだけ。