>>79-81 独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第25回 BNN 03/14 00:00
ttp://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023095 平壌の金日成像と朝鮮革命博物館(著者撮影)。平壌の万寿台にある巨大な金日成
像は1972年4月に建てられたが、その背後の朝鮮革命博物館も同時に開館した。解
放直後は国立中央解放闘争博物館という名称だったが、金日成部隊の女性炊事隊員
だった黄順姫が館長の朝鮮革命博物館に改称されてからは、偽造、捏造、剽窃され
た「革命伝統」が館内に散りばめられて展示されるようになった
文: 惠谷 治
第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第2章 ソ連逃避行の途上で父母は電撃結婚
捏造された金日成の魏拯民病気見舞い
1940年8月11日に終わった会議後の行動について、金日成は次のように書いている。
「小哈爾巴嶺会議を終えたのち、わたしは寒葱溝密営で病気治療していた魏拯民
を訪ねました。病苦にさいなまれて青ざめた彼の顔を見ると心がうずきました。介
護にあたっていた隊員たちは、彼の銃創の跡はほぼ治りつつあるが、持病がこじれ
て病状が好転しないと心配していました。〈略〉その日、負傷兵と病弱者をソ連に
後送する問題や、小部隊活動に必要な冬期の食糧を確保する問題についても協議し
ました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版94-96頁)
回顧録のなかでは、これまで知られていなかった「魏拯民訪問」というエピソー
ドが、初めて紹介された。1940年8月の時点で直属上司である魏拯民と会ったかど
うかは、その後の金日成の行動を考える上で非常に重要になるが、すでに述べてい
るように、魏拯民は回顧録にある寒葱溝密営(間島省安図縣)ではなく、100キロほ
ど西の頭道溜河密営(吉林省樺甸縣)で病身のため動けない状態だった。
恐らく、金日成は伝記作家たちに体験談を幾度も話しているなかで、ソ連に脱出
する前に魏拯民と会ったという架空話をしたに違いない。以下の記述は、同じ第8
巻のその後のページに登場する。 (つづく
>>224 さいご
「小哈爾巴嶺会議が終わったあと、わたしは一個分隊ほどの警護隊員を率いて寒
葱溝へ行ったのですが、帰路、黄花甸子で敵に遭遇しました。〈略〉戦闘はその湿
地で展開されたのです。われわれの一行には黄順姫も加わっていました」(『世紀
とともに』第8巻・平壌版184頁)
この記述は、金日成が伝記作家たちに対して、当時の状況に詳しい黄順姫に取材
するように指示したことを反映しているものと推定される。孤児だった女性隊員の
黄順姫(当時20歳)は、北朝鮮建国後、1965年から平壌の朝鮮革命博物館の館長を長
年務め、青少年時代の金正日の教育係でもあった。
「わたしは司令部で、小哈爾巴嶺会議とかんれんして、第4師に伝える指示を伝
達する任務を与えられた。〈略〉わたしたちは〔会議の〕翌日の午後、宿営地をた
った。〈略〉その夜、われわれは寒葱溝部落に近い山中で宿営した」(黄順姫「私
たちの父、金日成同志」『朝鮮人民の自由と解放』346-349頁)
黄順姫は、小哈爾巴嶺会議を終えた金日成たちは、翌日、安図縣寒葱溝に向かっ
たと書いており、前出の李乙雪の記述と一致している。しかし、黄順姫は特命を帯
びて、その後、金日成たちとは別行動をとっているため、金日成が魏拯民と会った
経緯を伝記作家たちに聞かれても、黄順姫は知らなかったはずである。地理的位置
関係に無知な伝記作家は仕方なく、金日成は「頭道溜河」ではなく「寒葱溝」で魏
拯民と会った、と捏造したと考えられる。金日成回顧録には、こうした捏造個所が
数多くある。
ちなみに、黄順姫証言の第4師というのは、第3方面軍に改編された旧第4師のこ
とである。当時はすでに存在していなかったが、隊員同士の間では、旧編成名のま
ま記憶されていることが多かった。黄順姫のいう第4師とは、旧第4師第13連隊長の
崔賢のことであり、第4師への伝令となった黄順姫は、金日成の部隊と離れて朴成
哲が率いる小部隊とともに、20日あまりの悪戦苦闘の行軍の末に崔賢と合流し、任
務を達成することができたのだった。(つづく)