【極東】北朝鮮総合スレ(旧北朝鮮実況)part950

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345日出づる処の名無し
>>51-53
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第23回   BNN 03/08 00:00
ttp://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_cd=H20021023078&news_genre=17
遊撃根拠地を巡視する第1路軍の魏拯民副総司令。野副討伐隊が作成した『3省治安
粛正工作記念写真帳』に掲載された写真には、「幕舎を巡視する第1路軍幹部、魏
拯民、徐哲(昭和十四年秋に共匪が撮影せるもの)」と書かれ、不鮮明ながらコート
を着て脚絆を巻いて左に立っているのが魏拯民としている。香港で発行された写真
集『中国抗日戦争図誌』には「抗日聯軍一部在樺甸的野営地」という説明がある。
金日成回顧録『世紀とともに』第8巻のグラビアでは、左の魏拯民の姿をカットし
て、「万端の戦闘準備をととのえる朝鮮人民革命軍の隊員」としている
文: 惠谷 治
 第1部 金正日の出生の秘密を暴く
 第2章 ソ連逃避行の途上で父母は電撃結婚
 団(連隊)制をやめ「中隊制」に再編
 日本の特務機関の女スパイである池順玉は、1940年6月の第2方面軍の動静ついて
、次のように報告している。
 「6月上旬、第2方面軍指揮部金医官以下17名および同軍警衛連等を合わせ、約40
名をもって第2方面軍第9団と称し、時々金医官これを指揮し居れるが、団長の氏名
は不詳なり。
 6月中旬、安図縣馬鞍山方面において、第1路軍参謀韓仁和の指揮する部隊約80名
と合流し、延吉縣長仁江部落に続いて、安図縣西韓屯を襲撃し分散す。
 6月下旬、金日成主力は8団と合流の上、延吉縣倒木溝方面に移動す」(琿春領事
館の木内領事報告「機密186号」)
 金日成によれば、敦化縣方面から南下してきた韓仁和は魏拯民の提言だとして、
第2方面軍に合流して活動する意向を表明したという(『世紀とともに』第8巻・平
壌版7頁)
 そこで金日成は、第2方面軍の編成替えをおこない、「団(連隊)制」をやめて「
中隊制」を採用した。この時点で馬徳全が連隊長だった第9連隊は兵力減少のため
、警衛旅団に吸収されて第3中隊となったと考えられる。この人事に不満だったた
めか、馬徳全は7月に関東軍に投降した。 (つづく
346日出づる処の名無し:2006/03/11(土) 14:32:12 ID:cZ0BPRcb
>>345
 第1中隊(旧第7連隊)中隊部長 呉白龍(元第7連隊長)
 第2中隊(旧第8連隊)中隊部長 孫長祥(元第8連隊長)
 第3中隊(旧警衛旅団)中隊部長 畢書文(元警衛旅副官長)
 一方、吉林省樺甸縣の頭道溜河の密営にいた魏拯民は、動けない状態にもかかわ
らず、関東軍による執拗な討伐と懐柔策によって、壊滅的状況に陥っている第1路
軍の現状を分析し、現状を打破するための新たな方針を打ち出したことが、コミン
テルン中共代表宛ての報告書(7月1日付)から読み取れる。
 「我らはこの部隊中、小部隊に分かれ、冬期食糧工作をなし、なお部隊内の数年
来の遊撃戦闘に負傷したる同志、または年長者らは部隊と同一行動不如意のため、
彼らを国境安全地帯に送り、もって部隊の行動を容易ならしめ、もって精神の安定
を計り、〈略〉隊内において思想不穏者、身元不確実なるもの、叛変の虞あるもの
に対しては粛正整理し、もって秋冬期の難局遭遇せし場合、我らの工作を容易なら
しむこと」(『思想彙報』第25号)
 文中の「国境安全地帯」がソ連であることは言うまでもなく、傷病者や体力虚弱
者をソ連に送ることを、魏拯民は新たに決定したのだった。これは、第1次ハバロ
フスク会議で、第2路軍と第3路軍が決定した内容と同じ方針だった。第1路軍の新
決定をコミンテルンの中共代表に報告すると同時に、魏拯民は麾下の部隊に対して
も指示を下した。
 「ソ聨に派遣の方法は、同志たちが直接派送の責任者を指揮して、小部隊活動方
式でもってすれば、渡ソ可能なるが、前もって派送人員を選択して速やかに派送す
べきなり」(『思想彙報』第25号)
 魏拯民は、「東北抗日連軍第1路軍政治部主任」として署名した「ソ連極東赤軍
総司令部諸責任者」宛ての紹介状を同封した第3方面軍参謀長の朴得範宛ての書簡
を書き、第15連隊長の李龍雲に預けて、朴得範に届けるよう命じた。 (つづく
347日出づる処の名無し:2006/03/11(土) 14:33:14 ID:cZ0BPRcb
>>346 さいご
 「われわれが安図と敦化の県境にさしかかったとき、第15連隊長の李竜雲と中隊
長の任哲〔任南哲〕が4、5名の護衛兵をともなってわたしを訪ねてきました。〈略
〉わたしは李竜雲に、ソ連への新たなルートを切り開く一方、以前から利用してき
たルートの正確さと安全性を再確認するよう指示しました。李竜雲は第3方面軍で
勇猛をもって知られた連隊長でした」(『世紀とともに』第8巻・平壌版16頁)
 金日成は以上のように書いているが、第3方面軍の第15連隊長に指示できるのは第
3方面軍の指揮ないしは参謀長であり、第2方面軍指揮の金日成には指示する権限は
ない。いずれにせよ、この時点で金日成は「負傷したる同志、部隊と同一行動不如
意の年長者らを国境安全地帯に送る」という魏拯民の指令を、李龍雲から文面ない
し口頭で受けたと思われる。しかし、金日成はその点には触れず、次のように書い
ている。
 「林春秋と韓益洙が負傷者と虚弱者を連れてソ連方面へ向かったのは、李竜雲と
任哲がソ満国境地帯でルートを切り開いているときでした。心配だった負傷者と虚
弱者は無事目的地に行き着きましたが、特使として発った李竜雲は日本軍と交戦し
て壮烈な戦死を遂げました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版59頁)
 金日成は自分が李龍雲を「特使」として派遣したように書いているが、李龍雲は
副司令である魏拯民の指令に従って、第3方面軍の朴得範参謀長に書簡を渡した後
、コミンテルン宛ての報告書をソ連に届ける使命を帯びていたのである。しかし、
9月6日、李龍雲は汪清縣托盤溝において、間島省警務庁の「特捜班員」によって射
殺され、その所持品検査のなかから魏拯民の報告書や書簡が発見されたのだった。
 金日成の伝記には他人の戦果を横領したり、他人の行動を剽窃したりしている個
所が数多くあり、注意深く読む必要がある。(つづく)