【極東】北朝鮮総合スレ(旧北朝鮮実況)part948

このエントリーをはてなブックマークに追加
356LIVEの名無しさん
>>66-68>>173-175
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第19回   BNN 02/24 00:00
ttp://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023054
旧関東軍司令部(著者撮影)。旧満洲国の首都、新京は、都市計画に基づいて造成
された大都市で、官公庁は洋風の建物に和風の屋根を乗せた「帝冠様式」と呼ばれ
る建築様式で建設された。関東軍司令部はその典型例であり、現在も中共吉林省委
員会の建物として使用されている
文: 惠谷 治
 第1部 金正日の出生の秘密を暴く
 第2章 ソ連への逃避行と両親の結婚式
 関東軍による治安粛正特別工作
 1939年9月1日、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発
した。
 丁度その頃、関東軍は満洲東南部に地域を限定した「東辺道治安粛正特別工作」
という強力な討伐作戦を立案していた。この作戦の計画大綱を書いた関東軍の情報
参謀だった北部邦雄中佐は、その特徴を次のように説明している。
 「従来の作戦は、五族協和の満州建国の理想を忘れ、日本に反対するものは皆殺
ししてしまえというような風習があって、相手の立場に立って考える反省に欠けて
いた。〈略〉私は、共産匪であろうが、反満抗日匪であろうが、当方の工作、宣伝
によって帰順した者は絶対に殺さず、工作に活用すべきであると考えた」(北部邦
雄手記『討伐の回想』) (つづく
357LIVEの名無しさん:2006/02/24(金) 22:31:29 ID:L2OMSfWa
>>356
 特別工作の計画草案は、次のようになっていた。
 「武力討伐一本槍の治安方策を排し、治標(討伐又は武力工作)、治本(討伐以
外の治安工作の基礎となるべき政治、経済、交通、信号等の諸工作)、思想(共産
思想、反満抗日思想等に対する反対思想の普及、宣伝等)の諸工作の緊密、適切、
積極的なる推進により、永久的治安の確立を期す」
 当時の治安粛正工作は、大きく「治標」と「治本」とに分けられ、抗日パルチザ
ン部隊および遊撃根拠地や密営に対する包囲殲滅が「治標」と呼ばれ、「治本」は
「匪民分離」、つまりパルチザンと住民の繋がりを分断させることだった。そのた
め、パルチザンが出没する地域の住民を強制的に「集団部落」という戦略村に移住
させ、日満軍警の指揮のもとに住民による「自衛団」を編成して住民の相互監視と
密告を奨励し、パルチザンたちへの糧道を断絶させることが「治本」の最大の目的
だった。
 この作戦計画では、吉林に駐屯する第2独立守備隊司令官の野副昌徳少将が討伐
軍司令官となり、総計7万5千人の日満軍警を動員し、武力討伐だけではなく、帰順
工作、攪乱工作なども重視された。特別工作のなかには「討伐重点目標並びに賞金
」という項目があり、東北抗日連軍第1路軍総司令の楊靖宇、第1方面軍指揮の曹亜
範、第2方面軍指揮の金日成、第3方面軍指揮の陳翰章、そして第3方面軍第13連隊
長である崔賢の5人の首に、改めて1万円の懸賞金がかけられた。 (つづく
358LIVEの名無しさん:2006/02/24(金) 22:32:32 ID:L2OMSfWa
>>357 さいご
 10月1日、関東軍司令部で飯村穣参謀長、満洲国の星野直樹総務長官、満洲国治
安部の薄田美朝次長、野副昌徳少将の代理として北部邦雄参謀が出席した会議が開
かれ、北部参謀が東辺道治安粛正特別工作について説明し、道路の新設や補修、通
信網の整備、集団部落の増設などが必要である、と出席者を説得した。というのも
、関東軍が支出できる予算は300万円程度だったが、計画全体では3000万円もかか
ると見積もられたからである。星野直樹長官は経費については非常支出としてなん
とか捻出するので、吉林、通化、間島3省における「抗日匪」の討伐を必ず成功さ
せてもらいたい、と強く要請した。
 そして、その日から大規模な討伐作戦が開始されたのである。「東辺道治安粛正
特別工作」というゲリラ対策は注目されることはほとんどないが、世界的な軍事史
上においてゲリラ掃討を成功させた特筆すべき作戦だったのである。
 同じ日、吉林省樺甸縣の頭道溜河では、中共南満省委員会と第1路軍幹部による
合同会議が開かれた。5日間続いた会議には、総司令の楊靖宇、副総司令兼政治部
主任の魏拯民、軍需処長の全光、第1路軍警衛旅長の方振声などの最高幹部が出席
した。この頭道溜河会議において情勢分析がおこなわれた結果、第1路軍を「化整
為零」、つまり目立たない小部隊に改編し、「分散遊撃」に戦術転換することが決
定された。中級幹部だった金日成は、当時、頭道溜河から東南に150キロほど離れ
た間島省安図縣花拉子の密林のなかに潜んでおり、会議には参加していない。(つ
づく)