>>38-39 独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第14回 BNN 02/09 00:00
ttp://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023028 「苦難の行軍」ルート図(原図製作・惠谷治、デザイン・鍵本博子)
ttp://www.bnn-s.com/bnn/bnnImg?pho_nm=H20021023028001.gif 文: 惠谷 治
第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第1章 抗日パルチザン時代の金正日の母親の活躍
「苦難の行軍」に参加した金正日の母
1938年11月25日、中共東北抗日連軍第1路軍総司令の楊靖宇は通化省濛江縣の南
牌子密営で、金日成と初めて対面した。この会談で楊靖宇は、7月に決定した「方
面軍」への改編を伝えた。
前年の6月、楊靖宇がもっとも信頼していた第1路軍第1師の「師長」だった程斌
が、部下を連れて関東軍に投降するという衝撃的な事件が起こり、第1路軍の軍事
機密が日本側に漏洩したために、楊靖宇は、急遽、第1路軍の編成替えをおこなっ
たのだった。第1路軍の第1から第6師までを解消し、第1路軍を警衛旅団1個と第1か
ら第3までの3個方面軍とし、第1路軍第6師の「師長」だった金日成は、改めて「第
1路軍第2方面軍」の「指揮」に任命された。
第2方面軍の参謀長は、ひき続き林水山が務め、金日成を護衛する警護中隊が新
設され、呉白龍がその中隊長となった。この時点で、金貞淑は警護中隊に転属させ
られたと思われる。第2方面軍は、第7連隊(呉仲洽)、第8連隊(孫長祥)、第9連
隊(馬徳全)、第10連隊(徐学忠)の4個連隊で構成された。
その直後の12月初旬、金日成は濛江縣南牌子から、警護中隊、第7連隊、第8連隊
を率いて、北朝鮮で有名な「苦難の行軍」を開始した。
「苦難の行軍の内容を一言で要約すれば、厳酷な自然とのたたかい、ひどい食糧
難と疲労とのたたかい、恐ろしい病魔とのたたかい、奸悪な敵とのたたかいが一つ
にからみあったものであったといえます」(『世紀とともに』第7巻・平壌版147頁)
(つづく
>>285 さいご
以上は金日成の解説である。「檀の木も裂ける」といわれる満洲の酷寒の冬季行
軍に参加した金貞淑について、戦友の金明花は次のように回想する。
「苦難の行軍の時にも、かの女が釜をかついで歩きながら、敵との激しい戦闘の
あいまあいまに、戦友たちのために湯を沸かしたり、食事を保障したりした」(金
明花「金貞淑同志を回想して」『朝鮮人民の自由と解放』362頁)
金貞淑は児童団指導員や潜入工作員としてだけではなく、炊事隊員としての任務
も忠実に果たしていたのである。
満洲の関東軍は、猛烈な攻撃と執拗な追撃を組み合わせた「猛攻長追戦術」で抗
日パルチザンたちを苦しめたが、壁蝨のように執拗に喰い下がる日満軍警の戦法を
、金日成たちは「ダニ戦術」と呼んでいた。
「われわれの部隊は雪中行軍をつづけ、1939年の1月初には、ついに長白県七道
溝の奥地に至りました。〈略〉結局われわれは、〔第2〕方面軍を3つの方向に分散
することにしました。司令部は警護中隊と機関銃小隊を率いて青峰密営を経て佳在
水方面に向かい、呉仲洽の第7連隊は長白県上崗区一帯に進出して活動し、第8連隊
と独立大隊は撫松県東崗区一帯で活動することにしました」(『世紀とともに』第
7巻・平壌版153、155頁)
金日成と行動することになった警護中隊と機関銃小隊には、古参隊員は少なく、
少年中隊出身の若い隊員がほとんどだった。
このときの若い隊員たちが、現在の朝鮮人民軍のきらめく将星になっている。判
明している隊員は、伝令長の金鳳錫、伝令兵の池鳳孫と全文燮、李乙雪、李斗益、
白鶴林、李五松、金成国、姜渭龍、金龍淵、崔仁徳、韓千秋、金基洙、金元逸など
である。そして、警護中隊長の呉白龍、金日成と同年の韓益洙も常に行動をともに
した。(つづく)